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第1209回・旧石崎汽船本社

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愛媛県松山市に本社を置く老舗の海運会社である石崎汽船(株)の旧本社屋が、古くより瀬戸内の港町として栄えた三津浜に建っている。愛媛県庁舎や旧久松伯爵家別邸(萬翠荘)など、松山に多くの近代建築を残した木子七郎の設計で大正13年(1924)に建てられた。国登録有形文化財。

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三津浜は古くより瀬戸内海交通の拠点であり、松山の海の玄関として栄えた地区である。現在は周囲に松山観光港などの新しい港が整備されたことに伴い、静かな港町となっている。

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三津浜の町は古い町家や事務所が点在しており、石崎汽船旧本社もそのひとつである。大正13年(1924)の竣工後、平成25年(2013)に移転するまで、約90年にわたって使用されていた。現在は同社の倉庫となっているようだ。

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石崎汽船(株)は、創業の起源を幕末の廻船問屋にまで遡る老舗の海運会社で、現在も瀬戸内を拠点にフェリーや高速船を運航する旅客船事業者として盛業中である。大正7年(1918)に株式会社となり、その6年後には三津浜に新社屋を建設した。

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久松伯爵邸(萬翠荘)の設計者である木子七郎の設計で、構造は萬翠荘と同じ鉄筋コンクリート造で、当時の地方都市の事務所ビルとしては画期的なものであった。また、意匠はフランスの城館風の萬翠荘とは対照的に、平坦な壁面にセセッション風の装飾を施しただけの極めてモダンなビルであった。

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外壁は萬翠荘でも使われている白色タイルのほか、中央部分には黄褐色のタイルを貼り人造石の付柱を並べる。御影石を貼った正面玄関の上にはブロンズのバルコニーが取り付けられ、外観のアクセントになっている。竣工当時はこのバルコニーから新築祝いの餅撒きが行われたという。

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玄関扉は創建時の木製扉が残されている。また、玄関上部にある社名の銘版は右書きで、竣工当時のものと思われる。

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構造、意匠共に斬新なものであるが、初代社長である石崎兵太郎は、木子七郎の勧めを受け、新様式での社屋建設を決断したという。木子は自ら施工監督に当たって細部にわたって指導を行った。なお、当初の計画では窓枠にはスチールサッシを用い、エレベーターも取り付ける予定であったが、工費の関係で実現していない。

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正面に2本ある銅製の雨樋の上部には、廻船問屋時代からの石崎汽船の印であった「マルイチ」があしらわれている。内部は外観と同様に簡素ながらも格調高い装飾が天井など随所に施され、事務所のカウンターや2階の役員室の暖炉には大理石が用いられている。装飾材料は木子が大阪で特注で調達したという。(内部の様子はこちら

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木子七郎は大正10年(1921)に海外建築視察のため欧米、インド、中国など世界各国を廻る旅を行い、帰朝後は従前得意としていた古典様式建築や和風建築だけではなく、セセッション式の石崎汽船本社、スパニッシュ様式の山口萬吉邸など、多彩な建築様式を使いこなした。

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旧石崎汽船は松山を代表する近代洋風建築のひとつである。新たな用途を得て積極的な活用がなされる日が来ることを願う。
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第1208回・道後温泉ふなや

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愛媛県松山市の道後温泉にある旅館・ふなやは、江戸前期創業の歴史を有する老舗である。昭和天皇をはじめ貴賓の利用も多く、大正時代には大理石の暖炉やステンドグラスを多用した豪華な洋館が増築された。当時の建物自体は現存しないが、洋館の主な内装部分が移設、復元されている。

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道後温泉本館から徒歩3分程度の場所にあるふなや。寛永年間創業のふなやは元は「鮒屋」と称し、松山にはゆかりの深い夏目漱石や高浜虚子も宿泊した宿である。建物は鉄筋コンクリートの高層建築に建て替えられているが、茅葺の庭門がある庭園は古い形で残されている。

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ふなやを営む鮒田家は、明治期には道後温泉で旧藩主の久松伯爵家と並ぶ大地主で、現在地に移転すると広壮な木造の本館を築き、のちに貴賓用の洋館も増設された。今も残る古い建物(工作物)は庭門とその脇にある小さな和風建築のみだが、数寄屋風の庭門は老舗にふさわしい風格がある。

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庭門の脇にある小座敷。離れの客室としては小さく、茶室にも見えないので、休憩用の東屋のような施設と思われる。現在は障子をキャンバスに見立てたのか絵が描かれており、ギャラリーとして利用されている。

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旅館の正面玄関は反対側の本館側にあり、日中は庭門は解放されている。庭園は宿泊客でなくとも散策できるようだ。

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本館内には大正10年(1921)頃のふなやの古写真が2枚展示されていた。1枚目は庭園から見た当時の本館で、右奥に増築された洋館が見える。大正11年(1922)に、松山で陸軍の特別大演習が実施される事となり、昭和天皇(当時は摂政宮)を始め多くの貴賓が松山を訪れることになった。

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旧藩主である久松伯爵家は摂政宮を迎えるために迎賓館を兼ねた別邸(萬翠荘)を築いたが、ふなやの洋館は随行するその他の貴顕紳士を迎えるために増築されたものと思われる。その後、昭和天皇は昭和25年(1950)に松山を巡幸された際はふなやに宿泊、洋館を利用された。古写真は当時の洋館内部。

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このような由緒があることからか、本館の改築に際し洋館の内装材は保存され、平成5年(1993)に現在の本館内に復元された。復元された部屋は2室あり、ひとつは1階ロビーの一角に記念室として展示、公開されている。

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暖炉飾りやステンドグラス、彫刻を施した腰壁等、元の部材を用いて復元されている。なお、上の古写真と比較頂ければ分かるが壁の配置は若干変えられており、古写真にも写っている特徴ある大きな半円アーチは反対側に移されている。

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ロビー側から見た記念室。復元時の位置の都合で壁の配置を変えたようであるが、部屋の規模は改築前のままと思われる。

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暖炉は大正期の洋館らしいモダンなデザインが特徴で、同時期に建てられ、現在は国指定重要文化財である萬翠荘にも劣らないと思われる質の高い洋風意匠が施されている。大理石も同時期の洋館ではあまり見かけない珍しい色合いのもので、特別に取り寄せたのではないだろうか。

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洋館の設計者は不詳のようであるが、2つの部屋を飾る多数のステンドグラスは、当時大阪にあったステンドグラス工房である大阪玲光社の製作による。大阪玲光社は大阪の中之島公会堂など、多くの近代建築のステンドグラス製作を手掛けた木内眞太郎が主宰する工房で、萬翠荘のステンドグラスも木内眞太郎が製作を行っている。

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萬翠荘の設計者は松山とは縁の深い建築家で、弊ブログでも度々取り上げてきた木子七郎であるが、意匠の質の高さやステンドグラス製作を巡る共通点から、私見であるが、ふなやの洋館増築にも木子が設計に関与している可能性は高いのではないかと思われる。

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天井の照明台座の漆喰装飾も移設、復元されている。
アールデコ風の照明器具も当時から残るオリジナルかも知れない。

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もうひとつの洋館から移設、復元した部屋は本館7階にあり、クラブラウンジとして食事用の個室などに利用されている。ふなやに宿泊した際、他の宿泊客の利用が無いときは自由に出入りできたので見学させて頂いた。

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1階展示室と同様にステンドグラスが多数用いられ、旧ベランダに面した開口部、暖炉まわりなどに曲線を多用したアールヌーボー風の洋室である。椅子も当時からのものと思われる。

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この部屋も元の部材で細部までよく復元されているようだが、天井はもっと高かったのではないかと思われる。

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1階展示室と異なってこの部屋は開口部の大半が壁で塞がれており、ステンドグラスは人工照明で光を通すようになっていた。

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大胆な造形の半円アーチが目を引く暖炉。辰野金吾が旧松本健次郎邸旧日本生命九州支店でこのような曲線を用いたデザインの暖炉を残しているが、他の建築家では珍しい。

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天井の照明台座の漆喰装飾。

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暖炉上部の鏡の縁取りにもアールヌーボー風の装飾が見られる。

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2つの部屋には美しいステンドグラスが多数残されている。
1階展示室前の廊下には、当地の特産品である柑橘類と思われる意匠のステンドグラスを用いた照明器具も移設されている。

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7階クラブラウンジ入口の欄間。

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クラブラウンジ暖炉脇に嵌め込まれた一対のステンドグラス。

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ふなやのステンドグラスについての記載は、戦前のステンドグラスについての研究家として知られる田辺千代氏の著作「日本のステンドグラス 明治・大正・昭和の名品」を参考にさせて頂いた。

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同書によると、萬翠荘、ふなや共に京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)出身で、多くの近代建築のステンドグラスをデザインした三崎彌三郎が図案を作成、先述のとおり大阪玲光社が製作を行ったという。

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1階記念室の周辺には、復元された2室以外の洋館の部材を再利用した思われる小窓やステンドグラスがあった。

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内装だけの移設復元であるが、質の高い意匠が施された暖炉などの装飾、美しいステンドグラスはいずれも貴重な文化財である。個人的な推測であるが、萬翠荘や愛媛県庁舎などの優れた近代建築を松山に多く残している木子七郎の設計であったとすれば、その価値は尚更と思われる。

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このような部分的に保存されているものは将来、建物の改築、改装によっていつの間にか失われる場合も考えられる。外壁や内装など部分保存されているものも、文化財として公的に調査、記録しておく必要はないだろうかと思う。

第1207回・薫楽荘

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薫楽荘(くんらくそう)は、三重県伊賀市上野桑町にある旅館。建物は明治期に遊郭の茶屋として建てられた木造二階建で、土蔵と共に国の登録有形文化財。伊賀市の中心街にあり、伊賀上野城など観光地にも近いので、ビジネスにも観光にも利用できる。

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上野桑町周辺はかつて遊郭があり、薫楽荘の向かいにあるいとう旅館もかつての茶屋であったという。現在は旅館としての営業はされていないが、こちらも建物が国の登録有形文化財になっている。

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旧いとう旅館の一階には凝った意匠の格子が嵌め込まれている。

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街路まで張り出した重厚な土蔵が目を引く薫楽荘。
正面の全面に高塀を巡らせ、その一角に入口が穿たれている。

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門のそばには、戦時中に置かれたと思われるコンクリート製の防火用水槽が今も残されている。

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戦時中の防火用水槽は、弊ブログでも以前紹介した横浜の旧柳下家住宅や青梅の吉川英治旧宅にもあった。このような水槽もそれぞれ意匠が異なっており興味深い。

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門の両脇には飾り窓が設けられ、輪切りにして中をくりぬいた自然木を窓枠にしている。さりげなく施されている洒落た装飾は、この建物が元々は茶屋として建てられたことを窺わせる。

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高塀の屋根瓦も凝っている。

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繊細な格子戸を開けて門をくぐると、すぐ先に玄関がある。

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門から玄関までの通路には古風な装飾タイルが埋め込まれている。

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玄関の三和土にも。これも茶屋であった頃の名残だろうか。

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土蔵と主屋の間には小さな坪庭が設けられている。

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二階には談話室状の空間が設けられているが、四阿風の天井が目を引く。

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客室へ向かう廊下を兼ねた二階の縁側。手摺や欄干は手斧仕上げが施されている。

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宿泊した二階の客室。
部屋毎に床の間などは異なる造りになっているようだ。

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次の間にも床の間が設けられ、天井や壁の円形窓など随所に凝った造作が見られる。

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客室と縁側の廊下を仕切る硝子戸は、門の格子戸と似た繊細な意匠。

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客室の円形窓。

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二階廊下の小壁には様々な意匠が施されている。

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薫楽荘は素泊まりでの利用も可能であるが、食事付の場合は立派な床柱や、銘木を用いた障子が目を引く一階座敷が食事処になっている。

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戦災を免れた伊賀上野は古い町並みがよく残されており、以前取り上げた一乃湯旧栄楽亭俳聖殿旧上野警察署などの歴史ある和風、洋風の建物が残されている。いずれも薫楽荘からは歩いて行ける距離にある。

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親切で愛想のよい女将さんが持て成してくれる、居心地のよい宿である。

第1206回・旧柏原尋常中学校本館(柏原高等学校柏陵記念館)

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兵庫県丹波市柏原町には、前回紹介した旧氷上高等小学校のほかにも美しい明治の洋風校舎が残されている。兵庫県立柏原高等学校内にある「柏陵記念館」は、明治30年に建てられた旧柏原尋常中学校本館の一部を移築したもので、現在は同校の記念館として保存・活用されている。国登録有形文化財。

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柏原尋常中学校は明治30年(1897)に設立された旧制中学校で、第二次大戦後の学制改革によって柏原高等女学校(前回の旧氷上高等小学校を校舎の一部として使っていた)と合併、男女共学の兵庫県立柏原高等学校となり、今日に至っている。

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元首相の芦田均など著名人も学んだ校舎は、昭和16年(1941)の改築に際し一部が移築、保存され、昭和35年(1960)に現在地に再移築された。

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現在、柏陵記念館として保存されている建物は明治30年竣工とされているので、創立当初の校舎の一部と思われる。創建時の全体像は分からないが、正面玄関等の主要な部分を移築したものと思われる。

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端正な玄関ポーチには柱頭や玄関まわりの彫刻など、擬洋風建築ならではの装飾が施され、天井の意匠も凝っている。欄間の両脇には彩色を施した竹と鳩の彫刻が飾られている。

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背面は吹き放ちのベランダになっている。同時期の木造洋館である旧日本赤十字社埼玉支部(明治38年)のように、移築前はおそらく中庭か裏庭に面した廊下(通路)だったのではないかと思われる。

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ベランダの柱頭部分にも彫刻装飾が施されている。

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二つの柱を繋いだような手摺の意匠も珍しい。

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昭和55年(1980)より同校の記念館となっており、現在は歴史資料等の保管に使用しているほか、館内にある応接室をスクールカウンセリングに使用しているという。

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平成28年(2016)には国の登録有形文化財となった。翌年には創立120周年記念事業として改修工事が行われ、外壁の補修や塗り直しが行われている。

第1205回・旧氷上高等小学校校舎(たんば黎明館)

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兵庫県丹波市柏原町柏原に、明治18年に建てられた旧氷上高等小学校の校舎が残されている。明治中期の擬洋風建築で、創建以来当初の位置で現在も使用されている。近年に改修及び耐震補強工事が施され、現在は飲食店や貸部屋などで構成された複合施設「たんば黎明館」として活用されている。兵庫県指定文化財。

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兵庫県丹波市柏原(かいばら)町はかつての丹波國氷上郡柏原で、織田家を藩主とする柏原藩の陣屋が置かれていた。町並みは現在もかつての陣屋町の面影を残しており、藩庁が置かれた陣屋の建物も長屋門と御殿の一部が現存、「柏原藩陣屋跡」として国の史跡に指定されている。

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その柏原陣屋の北隣に、明治18年(1885)に建てられた氷上高等小学校の洋風建築が建っている。現在も旧幕時代の陣屋と明治の洋館が、建てられた当時の配置のままで並ぶ立つ姿を見ることができる。創建当初の位置で現在も使用されている擬洋風建築は珍しい。

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氷上高等小学校は正式には「氷上郡各町村組合立高等小学校」で、氷上郡内の各町村組合によって設立された学校である。その後組合の解散に伴い、柏原町立高等小学校となる。明治30年(1897)には現在の丹波市立崇広小学校(柏原陣屋の南隣にある)と合併、建物は氷上郡立柏原病院の病舎となり、校舎としての役目を一旦閉じる。

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明治42年(1909)より、氷上郡立柏原高等女学校として再び校舎として使われる。戦後は学制改革によって柏原高等女学校は柏原中学校と合併、現在の兵庫県立柏原高等学校が発足した後は同窓会館として使用され、昭和41年(1966)には柏原町(当時)の指定文化財となった。

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昭和40年代以降は教育事務所、社会教育施設などに使われるが、老朽化のため平成17年(2006)には使用が中止される。その後、兵庫県の有形文化財指定を経て耐震補強と改修工事が行われ、平成27年(2015)に「たんば黎明館」として甦った。

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兵庫県は県南部を中心に近代洋風建築が現在でも多く残存するが、北部の但馬地方や東部の丹波地方でも官庁や学校などの施設を中心に、明治以降の洋風建築が多く現存する。開港場として本格的な西洋建築が早くから建てられていた神戸に近いためか、意匠も明治期の擬洋風建築としては洗練されたものが多い。

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外壁の四隅は目地を刻んだ付柱状になっているが、これは石造建築の隅石を木造で表現したものである。

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神戸の異人館で多く用いられている、ペンキ塗り下見板張りの外壁。

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二階の正面側には広間があり、高等女学校時代は講堂や体操場、音楽教室として使われていた。左側の二階外壁にある張り出し部分は、かつて広間に御真影を奉安するための場所と考えられている。

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玄関ポーチの円柱には、イオニア式柱頭を模した柱頭飾りが施されている。

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玄関ポーチの上部は先述の二階広間につながっており、硝子戸を入れて室内に取り込んでいる。

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擬洋風建築を見学する楽しみは細部装飾にもあると言ってよい。手掛けた大工棟梁がそれぞれが独自の解釈で作ったため、意匠は極めてバラエティに富んでおり、多彩である。

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玄関ポーチ天井の照明台座。
創建時のものかどうかは不明だが、本格的な洋風意匠である。

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玄関のアーチ型欄間には色硝子が嵌め込まれている。色硝子を嵌め込んだアーチ型欄間は山形の旧済生館本館や福島の旧南会津郡役所など、明治の擬洋風建築では多く見られる。

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館内は中央に廊下が通り、両脇に部屋を配している。
2つある階段は、登ると二階広間の前で合流する構成となっている。

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創建時からの意匠を残していると思われる、階段の親柱と手摺。

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二階広間から玄関ポーチ上部のベランダを望む。玄関の欄間と同様に色硝子が嵌め込まれている。

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ベランダの腰壁には菊花様の装飾彫刻が施されている。

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現存する棟札には学校設立の経緯が記されており、それによると当時の丹波地方は凶作などで非常に困窮しており、そのような中で国家を担う人材を育成するため、学校の設立にかけた思いが記されているという。

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旧幕時代を象徴する陣屋に隣接して建てられた新時代を象徴する洋風建築は、現在も建設当初の位置に建っていることで、当時の人々の意図や思惑を現在に伝えている。建物が移築などで場所を変えずに元の地に立ち続ける意味を考えるには格好の建物である。
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