ブログ休止のお知らせ
ご訪問頂いている方には申し訳ありませんが、しばらくブログを休止させて頂きます。
これまで取り上げてきた建物の中には、掲載後失われてしまったものが少なからずありますが、特に近年は個人的に思い入れの深い建物が続々と失われ、或いは「保存」というには余りに無残な姿に変わってしまったものも多く、昨年後半あたりから建築見学の機会は再び増えてきたものの、ブログを継続する気にはなれない心境です。
気持の整理が付けば再開させて頂く予定ですが、その際はどうぞ宜しくお願い申し上げます。
令和五年四月三十日 管理人拝
これまで取り上げてきた建物の中には、掲載後失われてしまったものが少なからずありますが、特に近年は個人的に思い入れの深い建物が続々と失われ、或いは「保存」というには余りに無残な姿に変わってしまったものも多く、昨年後半あたりから建築見学の機会は再び増えてきたものの、ブログを継続する気にはなれない心境です。
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令和五年四月三十日 管理人拝
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第1269回・旧河合療院

岐阜県飛騨市古川町弐之町にある旧河合療院は、昭和初期に地元の棟梁によって建てられた医院兼住居。表通りに面してドイツ壁仕上げの医院棟、背面に和風の住居棟及び土蔵を配する。古くから高い建築文化を誇った飛騨の洋風建築。国登録有形文化財。

伝統的な街並みが残る古川の市街地の一角に建つ。

ドイツ壁仕上げの外壁に、窓台まわりには幾何学的意匠の細部装飾を施している。派手さは無いが、細部まで丁寧に造られている。

現在は、医院は向かいに建つ新しい建物に移っている。現在の河合医院前から撮影。

半円形の2つの屋根窓が直線を基調とした外観のアクセントになっている。

玄関ポーチの上部には、白大理石に右書きで刻まれた表札が掲げられている。

白ペンキ塗りの木製サッシュや通用門の扉、最近葺き替えられたように思われる屋根など、現役を退いた後も大切に維持管理がなされていることが窺える。

医院棟は外観は洋風だが、内部は和室と洋室が混在しているという。
戦前の医院建築(主に小規模な開業医)では、外観は洋風にしても、内部は医師の居住空間あるいは和室の病室を設ける例は多く見られる。

和洋折衷の医院建築では岐阜県内では郡上八幡の旧林療院、木曽谷の旧清水医院(現在は明治村で保存)、静岡県の旧五十嵐歯科医院、長野県松本市の旧松岡医院、大阪府堺市の是枝医院等がある。

玄関の硝子戸には美しい型押し硝子が用いられている。
非公開だが内部も見学したい建物である。

(参考)「文化遺産オンライン」 旧河合療院
新年の御挨拶
あけましておめでとうございます。
昨年はごく少しでしたが、10~12月にかけて記事を新規投稿しました。
建築見学等の催事も復活しており、これまで訪れたものを少しずつ記事にしたいと思います。ほんの時々程度でご訪問頂ければ幸いです。
令和癸卯年元旦

(写真)名古屋・覚王山の揚輝荘伴華楼洋室内壁の餅を搗く兎
昨年はごく少しでしたが、10~12月にかけて記事を新規投稿しました。
建築見学等の催事も復活しており、これまで訪れたものを少しずつ記事にしたいと思います。ほんの時々程度でご訪問頂ければ幸いです。
令和癸卯年元旦

(写真)名古屋・覚王山の揚輝荘伴華楼洋室内壁の餅を搗く兎
第1268回・旧田倉家住宅(8月カフェ、中川家住宅)

福島県二本松市本町1丁目にある「8月カフェ」は、大正時代の和洋併置式住宅を活用した所謂古民家カフェである。外観内装共に洗練された二階建洋館と平屋建書院造の日本家屋で構成されている。特にオレンジ色の洋瓦葺きの洋館は、大正期に多く建てられた「あめりか屋」住宅の影響を思わせる外観が目を引く。

戊辰戦争の舞台のひとつとなった旧二本松城址(現・霞ヶ城公園)に近い位置にある。久保丁坂と称される坂道の途中にあり、高い石垣の上に建っている。

全景。門の奥にある正面玄関を挟む形で右手に迎賓用の洋館が、左手に日常生活用で台所等サービス空間も備えていると思われる日本家屋が配されている。なお、日本家屋は洋館の背後にも一棟建っており、こちらは迎賓用と思われる。

久保丁坂の頂上に近く、坂からは二本松市街を望むことが出来る。
洋館には眺望を楽しむためか2階にはバルコニーが設けられている。

屋根付の冠木門の先には式台のある正面玄関があり、武家屋敷風の構えになっている。

この邸宅を建てた田倉孝雄氏は二本松で銀行などを経営し、二本松町長や県会副議長も務めた地元の名士であった。設計者など詳細は分かっていないが、立地や和洋併置式の造りから接客用に建てたものと考えられている。

竣工は大正14年(1925)とされるが、設計者等詳細は判明していない。

洋館は屋根がオレンジ色のフランス瓦葺、外壁は一階がシングル(ウロコ状の木片)を葺き、二階は粗く仕上げた灰色のモルタル壁、地階及び煙突の下半分は細かい自然石を張り詰めている。大正期に流行した「あめりか屋」住宅の影響を受けたものと思われる。

日本初の住宅建築専門会社である「あめりか屋」は上流階級向けの別荘等、軽快な外観を持つ洋風邸宅を多く手掛けた。写真は「あめりか屋」住宅の一つである旧川上貞奴邸(大正9年竣工 名古屋市)。赤い屋根にシングルとモルタル、自然石で仕上げた外壁等、共通する特徴を見ることが出来る。

小規模だが、地階と暖炉用煙突を備え、ベランダとバルコニーも備えた立派な造りの洋館である。

洋館ベランダ。床のコンクリートの老朽が甚だしいのが気になる。

和洋2館の間に挟まれる形の正面玄関。邸宅はその後田倉家から中川家に所有が移り、無住となった後はカフェとして活用されている。現在、この玄関がカフェの注文受付及びレジとして使われている。

正面玄関の土間右側が洋館への入口になっており、直接洋館へ出入り出来るようになっている。壁面もこの部分だけは自然石の腰壁に黒壁仕上げで、洋館の外観に対応したものになっている。

洋館一階。室内には二階へ通じる階段があり、その横の扉は奥の書院座敷に通じている。ホールを兼ねた応接間として使われていたものと思われる。外観に立派な煙突があったので暖炉飾りがあるかと思ったが、ストーブを直接煙突に繋いでいたのかマントルピースは無かった。

階段室は腰壁や手摺にも洗練された洋風意匠が施されている。


一階の天井は歯状飾りが施された縁や照明台座等、入念な漆喰装飾が施されている。

大正期の洋館らしく、控えめながら個性的な装飾が要所要所に施されている。


隠し装飾といってもよい、建主の姓(田倉)に因むと思われる「田」の字。

二階も見てみたかったが非公開であった。間取り等は不明だが、おそらく来客の宿泊用に充てられていた部屋があるものと思われる。

洋館奥の書院座敷。次の間を備えた床の間・書院窓付き座敷で、現在はカフェの催事等でギャラリーとして使われているようだ。

正面床の間及び床脇の上に欄間彫刻を嵌め込むのは珍しい。(次の間との境の欄間に嵌め込むのが一般的である)

床脇の内側や棚の裏は升目状の精緻な格子細工が施され、細部まで凝った造りが見られる。
欄間障子の建具も非常に細かい枡目で、あまり他では見ないものである。

これらも洋館の隠し装飾と同様、「田倉」に因むものだろうか?

大正時代の地方における和洋併置住宅として福島県内のみならず、全国的に見ても質の高いものであると言える。
二本松市の貴重な文化遺産として今後も保存活用されることを願うものである。
【参考】本記事は下記、「福島民友新聞」連載記事を参考として、一部私見を加えたものである。
福島民友新聞「建物語 中川家住宅・二本松市」(当該記事へリンク)
第1267回・梲家(うだつや)

梲家(うだつや)は、大阪市西成区玉出東にある、大正初期に建てられたと考えられている町家を改装した宿泊施設。屋号の由来になっている「うだつ」(梲、卯建)が目を引くが、元々は別邸か隠居所として建てられたものと考えられる興味深い造りの町家である。

つし二階と称される屋根裏部屋を備えた古い形式の町家である。明治維新以前は町家の二階建が幕府によって規制されており、規制が廃された明治以降は町屋の高層化が進むが、一方でこのような形式の町家も依然として多く建てられていた。

本記事の写真は令和4年10月に開催された「イケフェス大阪2022」の特別公開時のもの。宿泊施設のため通常は建物見学はできない。

この町家の外観で目を引くのが正面向かって右側、玄関脇に張り出した「うだつ」である。
当時大阪でも普及しつつあった洋風建築の影響か、アーチ状に大きく切り取られた形は他ではあまり例を見ないものである。






「うだつ」は日本各地の町家に見られるが、弊ブログでこれまで紹介した建物の中から、大阪市内に現存する町屋5軒(梲家、適塾、旧山口玄洞家、旧鴻池本宅、文目堂)と和洋併置式邸宅である旧武藤山治邸(現在は洋館のみ残る)の「うだつ」を並べてみた。建造時期や建物の規模によって「うだつ」の意匠も様々であることが分かる。

南海電車玉手駅に近い位置に建っている梲家の建物は、大正2年(1913)頃の建物と考えられている。

当時は南海本線及び阪堺電車は既に開通していたが、この界隈は船場を中心とする大阪市街からは離れた郊外であり、別荘や隠居家を構えるには好適な場所であったと思われる。

建物内部を見ると、梲家の建物は先述の適塾や鴻池本宅、小西家住宅のような職住一体型の町家とは異なり、おそらく旧山口玄洞家と同様に居住専用の町家(仕舞家)であり、またその立地から、別宅或いは隠居所のような用途の家であったのではと思われる。



玄関にある大小2つの飾り窓。特に小さい方は木の葉型で、竹で葉脈を表すなど凝ったものになっている。京町家に見られるような黄土色の壁に洒落た飾り窓は、仕舞屋にふさわしい造りではないかと思う。

玄関は約四畳ほどの小間だが、上記の木の葉型の飾り窓のほか、小さな床の間も設けられている。写真左手はつし二階に続く階段。

つし二階は現在客室に改装されており、どの部屋も年季の入った梁や天井を見せる形でセンスのよい改装が施されている。ただ宿の方によると、この部屋の梁など古材は相当な年季を感じさせるものであり、創建時期は大正初期よりも更に遡るのではないかとのことであった。

伺った話では、大正2年頃の建物としているが、それは現在のような形に増改築された時期であって、正確な創建年代は不明とのことである。

街路に面した表の間(現在は客室のひとつ)と奥の間の間には、坪庭が設けられている。

奥の間。次の間を備え、奥庭に面した広い座敷でこの規模の町家にしては天井が高い。近代和風建築の座敷は天井が高く造られているものが多いので、この部屋は大正2年の創建(あるいは改築)と思われる。

奥の間から縁側越しに奥庭を眺める。

梲家は宿泊の他、団体貸し切りも可能とのこと。

奥の間の欄間は波に千鳥の図柄。
埋め立てが進んだ今日では想像も付かないが、当時は大阪湾もここからそう遠くなかったのかも知れない。

床の間に違い棚のある床脇、書院を備えた立派な座敷である。

床の間の狆潜りは半月状に土壁をくり抜き、竹を用いて簡略化された氷割れ文様をあしらう。

次の間には坪庭に面して、小さな扇形の欄間窓が設けられている。

玄関の間の格子を内側から見る。
硝子戸の桟の意匠は、簡素ながらも凝ったもので美しい。

大阪町家は京町家ほど知られることも無く消滅していくものが多い中、このような仕舞屋と思われる造りの町家が現存し、かつ宿泊施設として活用されているのは実に喜ばしい。

国の登録有形文化財認定も検討されているとのことで、そのためには創建年代の特定が必要なのだそうだ。この建物の来歴がより明らかになることを願う。