FC2ブログ

第1239回・旧加悦町役場庁舎

s_P8141333.jpg

京都府与謝郡与謝野町字加悦にある旧加悦町役場は、北丹後地震で倒壊した旧庁舎に代わり昭和4年(1929)に建てられた。周囲は国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、「ちりめん街道」として保存、整備が行われている同地区でも目を引く木造洋風建築である。京都府の指定文化財として現在は耐震補強及び修復工事が行われている。

s_P8141308.jpg

昭和2年(1927)3月7日に発生した北丹後地震では丹後地方を中心に大きな被害が生じ、加悦町(当時)でも多くの建物が倒壊、破損した。震災の翌年に加悦町長に就任した尾藤庄蔵は各種の復興事業に着手するが、そのひとつが倒壊した町役場の庁舎再建であった。

s_P8141314.jpg

尾藤庄蔵家は江戸時代には加悦の大庄屋で、幕末以降は当地の主要産業である縮緬(ちりめん)を扱う商家として財を成した。加悦町長を務めたのは11代庄蔵で、この頃には縮緬からは撤退し、鉄道(加悦鉄道)や銀行などの事業に乗り出していた。なお、現在は宮津に本拠を移し、当地の老舗である袋屋醤油店の経営を引き継いでいる。

s_P8141325.jpg

11代尾藤庄蔵(1885~1945)は学生時代に横浜を訪れて以来洋館建築に強い関心を示し、洋館建築に関する書籍を購入したり大阪で開催された住宅博覧会に出向くなど自ら勉強していたが、町長就任を機に長年の念願を実現する。

s_P81413092.jpg

再建する町役場庁舎のほか、自邸の離れ、銀行(宮津銀行)店舗の3棟を洋館造りで建てた。なお、自邸は現在は旧尾藤家住宅として保存、公開されている。1階が数寄屋風座敷、2階が洋館となっている離れも「新座敷」として公開されている。(弊ブログ第76回記事参照)

s_P8141315.jpg

加悦町役場の外観意匠は、当時邸宅を中心に流行したスパニッシュ・ミッション様式に近い南欧風の外観を採用している。官公庁舎でこの様式は非常に珍しいが、洋館については人一倍関心があった尾藤町長の意向によるのではないかと思われる。

s_P81413122.jpg

設計者である今林彦太郎は加悦に近い宮津の出身で、当時大阪の大林組で設計部長を務め、大正13年に竣工した甲子園球場などの設計にも従事していた人物である。なお、大林組は当時スパニッシュ・ミッション様式を得意としており、同様式の邸宅を多く設計、施工していた。

s_P81413292.jpg

木造2階建であるが、当時としては最先端の耐震技術が取り入れられているという。スパニッシュ様式は外壁を全面的にモルタルで塗り込めるため、同様式を取り入れたのは耐火性にも配慮した様式選択かも知れない。

s_P814133122.jpg

丹後地方は豪雪地帯であるためか、赤瓦葺きの屋根は竹筒型(またはS字型)のスパニッシュ瓦ではなく、北近畿や山陰地方などで多く見られる雪止め付きの瓦が用いられている。その上にあるのは換気塔と思われる。

s_P814131622.jpg

正面及び側面の2階外壁に配されている装飾レリーフ。

s_P814131922.jpg

全体的には簡素ながらも、細部には目を引く装飾が随所に見られる。

s_P8141330.jpg

1階が町役場、2階が町議会議事堂として使われていた。平成14年(2002)まで73年にわたり町役場として使用され、平成9年(1996)には京都府指定文化財に指定されている。役場が新庁舎に移転した後は1階のみ観光案内所として利用していたが、修復完了後は2階の旧町議会議事堂も催事などに活用される予定である。(参考 与謝野町広報誌 令和元年8月号

s_P8141323.jpg

2階にベランダ(サンルーム)状の横長窓を配した背面の外観は、車寄せを張り出した正面に比べ、役場というよりは邸宅の趣を見せている。大阪にある木子七郎の旧自邸を思わせる佇まいである。

s_P8141327.jpg

側面入口の上に張り出す半円アーチの庇。
煉瓦で縁取りを施した階段は同様に半円形になっており、洒落た造りとなっている。

s_P8141328.jpg

右書きの「加悦町役場」の文字が残る正面車寄は開口部に補強用の枠が嵌め込まれているが、修復後は優美な繰形のある本来の形が甦ると思われる。修復完了後は内部と併せて再度紹介したい。

s_P8141324.jpg

北丹後地震の復興建築としては、同じ昭和4年に竣工した丹後震災記念館峰山小学校本館が現存するが、いずれも使用中止の状態が続いており前途が懸念される。丹後震災記念館については京都府指定文化財にもかかわらず、改修の目処も立っていない(と思われる)現状は何とも苛立たしく、もどかしい限りである。

s_P8141433.jpg

幸いにして補強・修復工事が始まった旧加悦町役場は、来年には工事が完了する見込みである。

なお、北近畿には兵庫県を中心に、明治から昭和初期の郡役所や町役場の庁舎が多数現存しており、資料館などに活用されている。その中で旧加悦町役場と同じ昭和期のものとしては旧豊岡町役場旧柏原町役場がある。
スポンサーサイト

10年

おかげさまで弊ブログは本日をもちまして丸10周年を迎えました。
この10年を振り返り色々思うところもありますが、良い建物が一つでも多く後世に引き継がれることを念じながらこれからもブログを続けたいと考えております。

第1回記事(平成21年[2009]8月14日付)
この記事も近く写真や本文を書き改めるつもりですが、以下コピーを貼って記念に残しておきたいと思います。

令和元年(2019年)8月14日記

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

管理人の興味の赴くまま、近代の建築物をご紹介し、また思いつくことを書き連ねたいと思います。
よろしくお願いします。
第1回は現存する明治期の官公庁舎の傑作、旧兵庫県庁舎(現兵庫県公館)をご紹介いたします。

正面
JR元町駅の北側、坂道を登った突き当りにこの建物は建っている。
明治35(1902)年竣工。設計者の山口半六(1858~1900)はフランス留学後、文部省で旧制高校の校舎などを数多く手がけた。山口は工事の途中で死去したため兵庫県庁舎は彼の最後の作品となった。
 竣工から43年間にわたり本庁舎として使われたが、昭和20(1945)年に戦災で外壁を残して全焼。戦後まもなく修復・改修され分庁舎として使用後、昭和60(1985)年に再度改修され県の迎賓施設兼県政資料館「兵庫県公館」となって現在に至る。

正面玄関
南側にある正面玄関。内部は昭和60年の改修で一新されたが、外観にふさわしい格調高いものとなっている。入口の扉も木製硝子戸。

外壁
107年の歳月を刻んだ外壁。

窓
窓の建具はアルミサッシだが、形状は明治期のものを模しているようだ。これを一枚ガラスにすると雰囲気ぶち壊しだが、そうしないところに見識が感じられる。

旧兵庫県庁西玄関
西玄関。

北側
北側、現在の兵庫県庁本庁舎前から見た全景。屋根は正面玄関と異なり直線を基調としたものになっている。しかしこれは昭和24(1949)年の改修時の姿を残したため。かつては北側もドーム屋根だった。しかし現在の姿も正面側とは違ったよさがある。
 なお、明治42(1909)年に竣工した旧神戸市庁舎はこの兵庫県庁にそっくりの美しい建物だった。しかし昭和60年に破壊され、同年に兵庫県公館として蘇った旧兵庫県庁舎とは明暗を分ける形となった。戦災を免れ明治期の内装が残っていただけでなく、隣接する赤煉瓦の神戸地方裁判所と好対照を為していただけに、その消失は惜しみても余りある。今は旧神戸市庁舎は跡形も無く、神戸地裁もガラス張りビルの下半分にかつての外壁を残すだけである。

北玄関鉄扉
南側が迎賓館としての入り口であるのに対し、北側は県政資料館の玄関として使用されている。この県政資料館内では、創建当時の姿が模型で見られる。

模型(正面玄関側)
正面玄関側。

模型(北玄関側)
北玄関側。

北玄関
現在の北玄関。

北玄関見上げ
北玄関外壁見上げ。このへんは石を多用した仕上げ。

門越し
正門越しの眺め。
旧兵庫県庁舎は建物本体の美しさに加え、緑豊かな周囲の環境も建物の素晴らしさを一層引き立てている。戦前の庁舎を残す県は他にも多くあるが、全国屈指の美しい庁舎であることは間違いない。

第1238回・旧近衛文麿別荘(市村記念館)〔再訪〕

s_P7201149.jpg

明治より欧米人の避暑地として発展した軽井沢では、大正に入ると上流階級を中心に日本人の別荘も増加した。それらの別荘建築に多かったのが、住宅建築を専門とする「あめりか屋」の設計施工による和洋折衷の西洋館であった。旧近衛文麿別荘(市村記念館)は現存する軽井沢の「あめりか屋」別荘の中で唯一、文化財として公開されており、見学が可能である。

s_P7201137.jpg

市村記念館は中軽井沢駅に近い軽井沢町歴史民俗資料館の施設の一部として公開されている。この建物は弊ブログ第169回記事で紹介済みであるが、平成28年(2016)に軽井沢町の文化財に指定され、耐震補強及び補修工事が行われた。本記事は文化財指定後の再訪記事である。

s_P72011482.jpg

それまでの軽井沢の別荘建築の多くが民家を改装したものであったり、旧堀辰雄山荘のような素朴な造りのバンガローやコテージ風であったのに対し、「あめりか屋」の別荘は、華やかなアメリカンヴィクトリアン様式を取り入れた明るい色調の外観に、内部は階下を洋室、階上を日本座敷とする点が特徴であった。

s_P72011382

大正7年(1918)頃に軽井沢の別荘地開発を行っていた野澤組によって建てられた市村記念館は、大正期の「あめりか屋」別荘の特色をよく残しており、唯一見学が可能な建物である。なお、軽井沢の「あめりか屋」別荘で現存するものでは、田中角榮別荘として知られる旧徳川圀順別荘や隣接する旧徳川慶久別荘などがあるが、いずれも非公開である。

s_P7201147.jpg

大正15年(1926)から近衛文麿の別荘として使われていたが、昭和7年(1932)に親交のあった政治学者の市村今朝蔵が近衛文麿から購入し移築した。現在の姿は市村家の別荘として移築改装された昭和8年当時のもので、耐震補強に伴う補修工事では窓枠が当時の色である焦茶色に復元されている。

s_P7201143.jpg

前回訪問時は館内の撮影は禁止であったが、階下の一室のみ撮影可能になっていた。玄関を入って左手にある暖炉を備えた洋室で、居間兼食堂として使われていた部屋と思われる。

s_P7201139.jpg

暖炉は床に炉を切って囲炉裏風に造られている。この部屋の真上に位置する日本座敷にも暖炉があるが、長火鉢が据え付けられており、いずれも珍しい形式の暖炉である。

s_P7201142.jpg

椅子と卓子、戸棚や蓄音機など、戦前のものと思われる家具調度類もよく残されている。

s_P72011442.jpg

隣接する玄関ホールとの間の仕切りは、同じ「あめりか屋」の設計施工による名古屋の旧川上貞奴邸の大広間にもよく似たものがある。貞奴邸の洋室部分は移築時には既に現存していなかったため、復元に際し市村記念館の室内意匠が参考にされたものと思われる。

s_P72011402.jpg

暖炉に用いられている型押しタイルは昭和初期以降の建物でよく見られるタイプのものである。大正7年の創建当時は通常の形式の暖炉であったと思われるが、昭和8年の移築に際し現在の形に改造されたものと思われる。「あめりか屋」別荘の多くには煉瓦積の煙突が設けられているが、市村記念館には煙突はない。

s_P7201146.jpg

戦前の軽井沢の別荘建築で内部まで見学できるものは市村記念館の他、旧堀辰雄山荘旧朝吹山荘(睡鳩荘)旧原田家別荘(三五荘)などがある。

s_P7201150.jpg

現存する軽井沢の「あめりか屋」別荘の中でも立地、造り共に最上級と思われるのは先述の旧徳川圀順別荘であるが、現在は「田中角栄記念館軽井沢分室」となっているものの現状は完全非公開のようである。施設の性格からも非常に公開が望まれるものである。

第1237回・旧堀辰雄山荘

s_P72010862.jpg

前回紹介した軽井沢高原文庫には、軽井沢の風光を愛し、多くの作品の舞台としていた作家・堀辰雄(1904~1953)が、昭和16年から4度の夏を過ごした山荘が移築されている。大正7~8年(1918~19)以前に外国人の別荘として建てられたとされる素朴なバンガロー風の山荘である。

s_P7201084.jpg

軽井沢高原文庫の本館裏手に広がる木立ちの間に移築されている堀辰雄山荘。

s_P7201112.jpg

外壁には全面に杉皮を貼り、現在は金属板葺きに改変されているが、屋根は薄い板葺きで、その上には素焼きの土管が暖炉の煙突として立っている。明治から昭和初期にかけての軽井沢の外国人別荘はこのような簡素な造りのものが多かったという。

s_P7201105.jpg

元々は万平ホテルに近い旧軽井沢の別荘地帯に建っており、米国人スミス氏の別荘であった。

s_P7201108.jpg

昭和16年、日米関係の悪化に伴い帰国を余儀なくされたスミス氏は別荘を売却する。かねてからこの山荘に惹かれていた堀辰雄は川端康成から売却の件を知らされ、家具付きでこの山荘を入手した。

s_P72011042.jpg

堀辰雄が朝食や午後のお茶、昼寝などを楽しんだというベランダ。

s_P7201101.jpg

玄関の上にある「1412番」の番号標は、郵便配達用に振られていた別荘番号である。

s_P7201089.jpg

玄関脇の作り付けテーブル。
ティーテーブルとして使っていたのではないかと思われる。

s_P7201102.jpg

玄関を入ると自然石を積んだ暖炉のある主室があり、居間兼食堂として使われていた。暖炉の裏手には寝室が設けられ、写真奥の戸棚の背後には、台所や浴室、便所などが設けられている。

s_P7201099.jpg

天井を張らず小屋組をむき出しにしている。

s_P7201090.jpg

夏でも常時火を焚いていたという暖炉。

s_P72010922.jpg

食器棚と思われる作り付けの戸棚。

s_P7201095.jpg

暖炉裏の寝室。
籐椅子はかつてはベランダで使われていたものだろうか。

s_P7201098.jpg

当時使われていた家具や蓄音機も残されている。
堀達雄は昭和16年から19年まで、4度の夏をこの山荘で夫人と過ごした。その後追分に移り、昭和28年に49歳で没した。

s_P7201109.jpg

堀達雄夫妻が追分に去った後、軽井沢の山荘はアトリエなどに使われていたが、堀多恵子夫人より軽井沢高原文庫に寄贈、移築され、一般公開されている。

第1236回・野上彌生子書斎

s_P7201082.jpg

軽井沢ゆかりの近代文学者について資料展示、紹介を行っている長野県軽井沢町の軽井沢高原文庫には、文学者の別荘建築が3棟、移築・公開されている。そのひとつが、作家・野上彌生子(1885~1985)が北軽井沢の別荘内に書斎として建てた離れである。作家が自ら称したという「鬼女山房」の名にはふさわしくない、茅葺きの愛らしい小亭である。

s_P72011212.jpg

軽井沢高原文庫の本館棟の前庭に建っている。斜面地に建てられているのは北軽井沢にあった頃の雰囲気に近づけるためのようだ。北軽井沢にあった野上家の別荘内にこの離れが建てられたのは、昭和8年(1933)のことである。

s_P7201083.jpg

北軽井沢は、野上彌生子の夫で法政大学教授(のち総長)であった英文学者・野上豊一郎(1883~1950)らが中心になって昭和初期より別荘地として開かれ、「法政大学村」と称されていた。

s_P72011222.jpg

茶室としても使えるように造られた離れは執筆だけではなく、安倍能成、高浜虚子など交友のあった文人と謡曲や俳句などを楽しむ場でもあったという。

s_P72011132.jpg

平成8年(1996)に軽井沢高原文庫内に移築、一般に公開されている。
近年、茅葺き屋根の葺き替えが行われた。

s_P7201114.jpg

随所に皮付きのまま丸太や小枝を多用した素朴な離れ家である。写真の左手が玄関。

s_P72011152.jpg

玄関から室内を望む。主室と次の間で構成される小さな座敷で、床の間の脇には炉が切られ、その傍にはにじり口と思われる開口部が設けられている。

s_P72011162.jpg

前室の壁に穿たれた円形窓。

s_P7201117.jpg

円形窓から室内を望む。

s_P7201119.jpg

縁側から望む主室。

s_P7201120.jpg

大分県臼杵市には野上彌生子の生家が現存しており、一部を改装し記念館として公開されている。また、東京・成城にあった旧宅も臼杵市に移築・保存されており、いずれも国の登録有形文化財になっている。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード