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第1255回・亀屋旅館

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亀屋旅館は、和歌山県の川湯温泉にある温泉旅館。本館の建物は昭和3年(1928)に建てられた木造2階建で、国の登録有形文化財になっている。平成30年(2018)8月の台風20号による豪雨で被災、休業したが、現在は復旧、営業を再開している。

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和歌山県田辺市本宮町にある川湯温泉は、奈良県との県境に近い位置にある山間の温泉である。熊野本宮大社にも近く、江戸時代より利用されていた歴史のある温泉地である。

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熊野川の支流である大塔川の川原を掘ると温泉が湧くのが特徴で、川の流量が減る冬場には、川を堰き止めて「仙人風呂」と称される巨大な露天風呂(湯気が立っている場所)が開かれることでも知られている。

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旅館や共同浴場は大塔川の左岸に並んでいるが、亀屋旅館はその中でも、戦前からの建物で営業を続けている旅館としては唯一と思われる。写真の奥に映っているのは戦後に増築された別館である。

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木造二階建の本館は、入母屋造の瓦屋根に一階には銅板葺の庇を深く張り出し、二階には全面に欄干を巡らせた外観が特徴である。

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本館には帳場と食事処などが置かれており、宿泊客用の客室は隣接の別館に設けられている。本館は平成20年(2008)には国の登録有形文化財に選定されている。

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平成30年(2018)8月の台風20号による豪雨では大塔川が氾濫し、川湯温泉は甚大な被害を被った。亀屋旅館も一階が天井近くまで浸水したという。

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一時は存続の危機に陥ったものの、クラウドファンディングによる復旧資金集めなどにより半年後には営業を再開、現在に至っている。写真は宿泊時(令和元年12月)の本館一階座敷。食事処として使われている部屋である。

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宿の方には聞きそびれたが、床脇の天袋、地袋に襖が無いのは浸水による被害の痕跡かも知れない。

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欄間には月を背景にコウモリが飛び交う意匠の彫刻が施されている。

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コウモリは、中国や朝鮮、或いは国内の一部では縁起の良い動物とされていることから、このような欄間飾りなどの意匠に取り入れられている例がたまに見られる。(埼玉県秩父市の「京亭」でも、板戸にコウモリの透かし彫りがある)

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一階座敷の縁側には足湯の設えがあった。

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近年は特に台風、地震など自然災害が頻発しており、歴史的な建物を取り巻く環境は極めて厳しい状況にあると言わざるを得ないが、亀屋旅館のような幸運な事例が多くあって欲しいものである。

亀屋旅館ホームページ
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第1254回・旧中川家住宅

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和歌山県御坊市御坊にある旧中川家住宅は、山林業を営む中川家の居宅として昭和13年(1938)に建てられた。良材を多用した伝統的な意匠の和風住宅であるが、洋風の応接間を設けるなど間取りや設備に近代性が見られるのが特徴である。現在は一般公開すると共に、食事処やギャラリーに使うなど各種の活用が図られている。国の登録有形文化財。

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横町通りに面した正面。主屋と土蔵(西蔵)が並んで建っている。
旧中川家住宅が建っている場所は、御坊市の中心街で本願寺日高別院の北側に位置しており、周囲にはかつて寺内町として繁栄していた頃の面影を残す古い家屋を見ることができる。

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主屋は正面側から見ると平屋建であるが、背面の庭園側は一部二階建になっている。特に正面玄関の上、庇が何重にも重なる重厚な造形は当邸の大きな特色となっている。

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邸宅を築いた中川計三郎(1889~1969)氏は明治44年(1911)に独立して中川計三郎商店を開業、紀伊半島及び近畿、中国、四国の各地に山林を所有し、木材の生産を行っていた。なお、現在は中川木材産業(株)として大阪を拠点に盛業中である。

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事務所も兼ねたと思われる居宅は昭和40年代まで使用されていたが、その後長く空家となっていた。取り壊しも考えられたというが、幸いにして社会福祉法人和歌山県福祉事業団の所有となり、平成26年(2014)には改修工事が施され、国の有形文化財に登録された。

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現在は敷地内にあった農機具小屋を改装し、障碍者就労支援施設でもある食事処「なかがわ」を営業している。主屋や土蔵は一般公開すると共にギャラリーとしても活用されている。

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昭和12年(1937)に上棟、翌年に竣工した邸宅は山林業者の居宅にふさわしく良質の材木を多用して建てられており、柱などの材木は80年以上経っているとは思えない質感を保っている。

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玄関左手の横町通りに面した部屋は事務所として使われていたと思われ、カウンターが設けられた板張りの事務室になっている。

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事務室とは続き間になっている一段高い畳敷きの座敷は、事務所を訪れる来客の応接室として使われていたと思われる。

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応接室のさらに奥には上客を通すためか、洋風の応接間も設けられている。

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洋風応接間は暖炉を備え、ステンドグラスの入ったアーチ型の小窓や天井のシャンデリアなど、外観からは想像できない本格的な造りの洋室となっている。

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洋風応接間から横町通りに面した窓を望む。
暖炉の脇にはステンドグラスの入った小窓がある。

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横町通りから洋風応接間の窓を望む。
外観からは洋室の存在は全く分からない。

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玄関の奥には中庭が設えられており、中庭を挟む形で一方に洋風応接間、もう一方に主人居室及び仏間が設けられている。中庭には切支丹燈籠が配されている。

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中庭と主人居室及び仏間との間に設けられた畳廊下。突き当りは東蔵の蔵前。

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主人居室は床柱にも角材を配した端正な書院造の座敷となっている。

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主人居室とは続き間となっている仏間。

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この2室に面して南側(背面)には縁側が設けられ、小さな庭園に面している。

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東蔵の蔵前。敷地内に土蔵は2棟あり、玄関脇、台所などに近い位置にある西蔵とこの東蔵がある。配置からして西蔵は生活用品等の収納に使い、東蔵は貴重品等の保管に充てていたのではないだろうか。

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数寄屋風で日当たりのよい位置にある夫人室。茶室としても使われていたようだ。

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夫人室前の廊下窓に嵌め込まれた障子。
角を丸く取っており、建具にもさりげない趣向が凝らされていることが分かる。

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玄関脇、台所と隣接する茶の間。
日常生活の場であったと思われる部屋で、天井には採光用の天窓が設けられている。

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台所は昭和13年当時の最新式設備が取り入れられていたらしく、地元の女学校からは生徒達が見学に来たという。造り付けの戸棚の一角は隣の茶の間とつながっており、配膳口と思われる。

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洗面台。

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二階には数寄屋趣味を加味した造りの客座敷が2室あるが、原則非公開となっている。階段室腰壁の欄干状の装飾が面白い。

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南側(背面)から望む主屋。

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御坊でも指折りの重厚な造りで「日高御殿」と称されたこの邸宅には、敗戦直後の首相としても知られる東久邇宮稔彦王、和歌山出身の博物学者である南方熊楠などの著名人も逗留したという。

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和歌山県内に残る質の高い昭和初期の和風建築として見どころの多い建物である。
なお、以前紹介した「アメリカ村」の洋風住宅がある美浜町三尾は、御坊市街から車で20分程度の位置にある。

新年の御挨拶

弊ブログご訪問の皆様

あけましておめでとうございます。本年も宜しくお願い申し上げます。 

令和2年 元旦

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年末の御挨拶(平成三十一年 ~ 令和元年を振り返る)

本年も残すところあと1日となりましたが、年末の御挨拶とさせて頂きます。
御訪問頂きました皆様には心より御礼申し上げます。

【平成三十一年 ~ 令和元年を振り返る】
今年訪問し、記事を投稿した主な建物。(建物名称をクリックすると当該記事にリンクします)

第1203回・紀州美浜のアメリカ村 (平成31年1月24日投稿)
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第1204回・旧白石和太郎邸洋館 (平成31年1月27日投稿)
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第1214回・鈴木家住宅(丹徳庭園) (平成31年3月17日投稿)
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第1217回・旧直江津銀行 (平成31年4月29日投稿)
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第1220回・旧伊藤博文邸 (令和元年5月11日投稿)
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第1221回・上野ビル(旧三菱合資會社若松支店)  (令和元年5月14日投稿)
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第1226回・旧鹿児島監獄正門 (令和元年6月6日投稿)
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第1237回・旧堀辰雄山荘 (令和元年7月27日投稿)
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第1239回・旧加悦町役場庁舎 (令和元年8月18日投稿)
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第1246回・旧有島生馬邸(有島生馬記念館) (令和元年10月5日投稿)
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第1252回・旧山本家住宅(再訪その2) (令和元年11月24日投稿)
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第1253回・旧武藤山治邸(再訪) (令和元年12月23日投稿) 
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どうぞ来年も弊ブログを宜しくお願い申し上げます。
良いお年をお迎えください。

第1253回・旧武藤山治邸(再訪)

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神戸市垂水区東舞子町にある武藤山治の旧邸を再訪した。円形のバルコニーが特徴的なこの邸宅はこれまで何度か取り上げているが、「鐘紡中興の祖」「紡績王」として知られる実業家であると同時に、政治家、言論人、美術愛好家でもあった邸宅の主・武藤山治と、邸内に残る家具調度品など氏の人物像を伝える品々について、改めて取り上げてみる。

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武藤山治(1867~1934)は、慶應3年に豪農であった佐久間家の長男として現在の岐阜県海津市に生まれた。慶應義塾で福澤諭吉に学び、卒業後は米国へ渡航、日雇い労働などをしながらパシフィック大学で勉学に励む。帰朝後は複数の職を経て三井銀行へ入り、明治27年(1894)、神戸の和田岬にあった鐘ヶ淵紡績(鐘紡)へ経営立て直しのため派遣される。

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明治40年(1907)、当時40歳の武藤山治は、神戸の西郊である舞子の海岸沿いに大小2棟の西洋館と日本館で構成される自宅を新築、家族共々神戸市内から引き移り、和田岬にある鐘紡の工場には馬車で通った。現在は神戸市の一部である舞子は、旧播磨國の東端に位置することからかつては播州舞子浜とも称されていた。

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この邸宅は「旧武藤家別邸洋館」の名で国の登録有形文化財になっているが、創建時は別邸ではなく、武藤家の本宅であった。温暖で自然環境に恵まれた舞子は家族との団欒を楽しむのに格好の土地であったらしく、戦後に鐘紡社長になった武藤絲治(1903~1970)など5人の子供達は舞子の家で育っている。

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洋館の設計は三井財閥と縁の深い横河工務所に委ねられ、のちに大蔵省で帝国議会議事堂(国会議事堂)建設を主導した大熊喜邦が担当した。ベランダや切妻屋根など変化に富んだ外観は、当時の日本の西洋館には珍しかったアメリカンヴィクトリアン様式を取り入れたもので、米国留学の経験がある武藤山治の意向を汲んだ様式選択かも知れない。

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施工は当時神戸に本店を置いていた竹中工務店による。徳川時代より代々続く名古屋の大工棟梁であった竹中家が近代的建設業に進出したのは明治32年(1899)で、武藤山治邸は竹中工務店にとって初期の請負工事に当たる。武藤山治は時々新邸の建築現場を訪れ、工事の出来映えを褒め関係者を労ったという。

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大正年間に武藤山治は住吉村観音林(現在の神戸市東灘区)に本宅を移し、舞子邸は別宅となったが、舞子は晩年に至るまでこよなく愛した土地であり、没後は舞子浜に近い場所に墓所が設けられている。現在、舞子浜一帯の環境は大きく変わったが、淡路島を一望できる景色は変わらない。

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職工を優遇し福利厚生を充実させるなど、独自の経営方針で鐘紡を国内最大級の企業に成長させた武藤山治は、大正に入ると政界へ進出、大正13年(1924)には大阪府下より衆議院議員に選出されている。この頃には本邸を住吉へ移しているが、鐘紡の経営に専念していた頃と違い、神戸や大阪から遠い舞子邸は活動上不便だったのではないだろうか。

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昭和に入ると武藤山治は、議員活動に限界を感じ政界を退くが、程なくして恩師である福澤諭吉が創業した時事新報社の経営再建を請われて昭和7年(1932)に社長に就任、論説も手掛けるが、昭和9年(1934)に暗殺される。当時同紙が疑惑を追及していた「帝人事件」との関連も疑われたが、今なお真相は不明である。

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主を亡くした舞子邸は昭和12年(1937)に武藤家から鐘紡に寄贈され、「鐘紡舞子倶楽部」の名で同社の福利厚生施設となったが、平成に入り明石海峡大橋開通による国道の拡幅に際して日本館は撤去、洋館だけが垂水区狩口台に移築された。洋館に不似合いな和風のうだつ(卯建)は、この横にかつて日本家屋が続いていた名残である。

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西洋館と日本館はそれぞれ別々に玄関が設けられ、独立した造りになっていた。西洋館を普段から使うのは主の武藤山治だけで、家族は主に日本館で生活していた。なお、日本館があった位置に建っている管理棟は、かつて庭園にあった撞球室(昭和初期に国道拡幅のため撤去)の外観を、規模を拡大して再現したものである。

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洋館は上下で洋室六間に便所と洗面所で構成されている。今はないが写真奥の扉の先は厨房と浴室がある和風の平屋建になっており、その奥に二階建の日本館が建っていた。平成8年(1996)に狩口台へ移築された洋館が兵庫県の所有となり、舞子浜に戻ってきたのは平成22年(2010)のことである。

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客待ち部屋としても使われていたという玄関脇の応接間。ソファは武藤家時代からのものである。狩口台にあった頃はピンク色の色モルタル仕上げの壁が印象的だったが、後年の改造ということで再移築に際し白い壁になっている。

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緑色の大理石でできた暖炉が目を引く広間。各室に残る家具や絵画などの調度品は、武藤家から鐘紡に寄贈されたときのものが多数残されている。但し経営が悪化した鐘紡が、建物及び家具調度品一式を兵庫県に寄贈する際、絵画の一部は競売にかけられてしまったという。

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広間に続く食堂はかつては厨房に隣接しており、武藤山治はここで夫人と朝食を摂ったり、会議に使っていたという。腰壁や扉などの木部はニスを薄く塗って木目を見せるなど、日本人の住まいとして、日本人の設計施工で造られた洋館であることが分かる。規模も神戸の異人館などに比べると小作りな印象を受ける。

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玄関ホール兼階段室にはステンドグラスが嵌め込まれている。美術愛好家でもあった武藤山治は仏教美術を収集しており、洋館の階下には、玄関ホールなど各所に大小の仏像が何体も置かれていたという。(現在は書斎に一体だけ残されている)

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2階の山側にある書斎は、武藤山治の邸宅であった頃の姿を最もよく残しており、書棚には武藤が日頃より尊敬し研究対象としていたナポレオンに関する文献が洋書を中心に多数収められ、福澤諭吉の全集や趣味であった囲碁の本なども残されている。

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2階の海側には寝室として使われていた洋室が二間あるが、いずれもベッドなどは鐘紡所有時代に撤去されたものと思われる。写真の、三角形のベランダがある西側の寝室は千世子夫人の部屋として造られたとも言われており、暖炉脇には洋式の鏡台が残されている。

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東側の寝室を写した昭和初年の古写真。右端の洋服簞笥は現在、1階の階段脇にある。暖炉上の絵画は岡田三郎助の作品とされるが、鐘紡が兵庫県へ寄贈する前に競売にかけてしまい、この洋館の中にはない。

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東側の寝室から明石海峡と淡路島を望む。
上の古写真のベッドの位置からは、当時も現在と同じような風景が見られたはずだ。

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階段室のステンドグラスは、外に嵌め込まれた花模様の飾り格子に対応した図柄となっている。色硝子の使い方や図柄が明治末のものとしてはかなり新しい印象を受けるので、後年(大正から昭和初期)に取付られたものかも知れない。

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2階の旧東側寝室を除く各室には明治風の照明器具が残されている。舞子浜一帯に電気が点くようになったのは、武藤邸の竣工から3年遅れる明治43年(1910)というから、現存する照明はこのときに取り付けられたものと思われる。小ぶりな硝子シェードはいずれも非常に美しいものである。

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旧武藤邸の西洋館には6つの石油ランプがある(現在は電気スタンドに改造されている)。洋館の部屋の数と同じなので、未だ電気が開通していなかった明治40年の創建当初、各室の照明用として使われていたものではないだろうか。

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家具は帽子掛け、三角棚、食器棚、鏡台、書棚、椅子、ソファ、洋服箪笥など、鐘紡に寄贈された際に新調されたと思われる一部を除き、武藤山治の住まいであった頃のものがよく残されている。

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西洋館には暖炉が4つあり、いずれも異なる材質の石材で造られた暖炉飾りが施されている。特に階下の2つは凝ったものとなっているが、上部にあった木製の鏡飾りが失われているのが惜しまれる。

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漆喰や木彫による装飾が施された各室の天井飾り。写真の左上、玄関脇応接間にある天井の漆喰装飾は、明治40年の創建当時のものを切り取って移設したものである。(ほかの部屋は2度にわたる移築の際に再現もしくは復原されたものである)

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武藤山治は美術品の収集と研究にも熱心で、先述の仏像のほか、与謝蕪村や尾形乾山の作品を愛好していたことでも知られる。また、古美術品だけではなく(当時の)現代美術の支援者でもあり、鹿子木孟子郎、向井潤吉などの若い洋画家に対し、作品を積極的に買い上げたり、あるいは直接援助することもあった。現在西洋館の各室に残る調度類はその一部である。

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武藤山治が心血を注いだ鐘紡は、のちの経営者の放漫経営により平成時代に消滅、また、兇弾に斃れるまで経営に当たった時事新報は産経新聞の下で休眠状態にある。しかし、国民の政治意識の向上を目指して大阪に設立した「國民會舘」は、現在も公益財団法人として盛んに活動を続けている。

(武藤山治の足跡及び人物像は各種伝記等のほか、公益財団法人國民會舘のホームページを主要参考資料とさせて頂いたことをお断りしておく。)
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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