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お見舞い(台風19号災害)

この度の台風19号による災害で亡くなられた方のご冥福をお祈り申し上げます。
これまでに弊ブログでも取り上げた建物の中にも、浸水等の被害を受けたものがあるかと思われます。

被災された方々へお見舞い申し上げますと同時に、自衛隊、関係省庁、企業、自治体等、復旧に尽力されている方々へ感謝と敬意を払うものです。

一刻も早い災害の収束を願います。
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第1246回・旧有島生馬邸(有島生馬記念館)

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長野市信州新町上条にある有島生馬記念館は、洋画家の有島生馬の旧宅であった洋館を鎌倉の七里ヶ浜から移築したもの。明治23年(1890)にイタリア人貿易商の住居として建てられたコロニアル様式の木造洋館で、同様式の洋館は長崎や神戸などでは多く残されているが、東京や横浜、及びその近郊にあったもので現存するものは珍しい。

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有島生馬(1882~1974)は横浜生まれの洋画家で、小説や随筆も著し、晩年には文化功労者に選ばれた人物である。前回記事でも紹介した作家・有島武郎は実兄、同じく作家である里見弴は実弟である。

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大正9年(1920)、肺を病んだ有島生馬は稲村ケ崎にあった新渡戸稲造の別荘で静養していたが、その近くに建っていたのがこの洋館であった。当時既に主はなく、留守番の老人が住み込みで管理するも廃屋同様であったという。

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この荒廃した洋館に有島生馬は魅せられ、大正10年(1921)に購入する。留守番の老人は使用人として雇い、荒廃した洋館は手を加え、自らの居住及び創作の場とした。周囲に松の木が生い茂ることから、「松の屋敷」と呼ばれていた。

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同じく鎌倉に邸宅を構えていた実弟の里見弴や、与謝野寛・晶子夫妻、遠藤周作等、有島生馬一家と親交のあった多くの文化人がこの洋館に出入りしていたが、有島生馬の没後は上智大学の所有となり、研修施設建設のため取り壊されることになった。

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有島生馬の一人娘である暁子(昭和天皇皇后の欧州歴訪に同行、通訳を務めた人物)の尽力により、建物は上智大学から信州新町に無償譲渡、移築されることになった。写真は移築するため解体直前の旧有島生馬邸(記念館の展示品)である。

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有島生馬と信州のつながりは戦時中に佐久へ疎開していたことが縁で、戦後は度々信州を訪れ、信州新町にも8回にわたって訪れていた。昭和57年(1982)に現在地に再建された旧宅は「有島生馬記念館」として公開され、現在に至っている。

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玄関を入るとすぐ右手に主室のある2階への階段が設けられている。全面的に赤く塗られた外壁が目を引くが、有島生馬が購入する前は、神戸の異人館にあるような、ベージュに茶色の縁取りが施された外観であったという。

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外観、室内共に至って簡素な造りで、暖炉や装飾的な階段などは見られないが、ベイウインドウや広く取られたベランダなど、明治期に長崎や神戸、横浜などの外国人居住地に多く建てられたコロニアル様式の洋館の特色を備えている。

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この洋館を特徴付けている八角形の小窓。
館内の随所に見られる。

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館内は有島生馬とその家族についての紹介や有島生馬の作品(絵画、書など)展示のほか、有島家で使われていた家具なども保存、展示されている。

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古風な飾り棚。

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古めかしい硝子製のシャンデリアも有島家時代からの品だろうか。

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一階と二階の玄関側は展示室として活用するため間取りも改装されているが、かつては七里ヶ浜に面していたベランダとそれに面した3つの洋室は移築前の面影を残している。

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広々としたベランダ。
八角形に張り出した両端と、中央の入口両脇の八角窓が空間に変化を与えている。

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かつては湘南の海を望むことができたベランダからは現在、有島生馬の命名によるダム湖「琅鶴湖」の眺めが広がっている。

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有島生馬は冬はサンルームとしても使えるこの空間を「サロン」と称して愛用し、ソファや書棚を置き、観葉植物を飾って使っていたという。ベランダで過ごす写真も残されており、実弟の里見弴と写っているものもある。

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ベランダの真下は吹き放ちの通路となっている。一階は二階に比べるとかなり天井が低く、玄関を置くほかは使用人部屋や厨房、物置などのサービス空間に充てられていたのではないかと思われる。

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横浜や鎌倉では明治期のコロニアル様式の洋館は関東大震災と戦災でほぼ失われており、他所に移築されたとは言え、現存するものは珍しい。

第1245回・旧有島武郎別荘(浄月庵)

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軽井沢にある「軽井沢高原文庫」に移築、公開されている「浄月庵」は、大正期の人気作家として知られる有島武郎(1878~1923)の別荘であった。外壁を杉皮張りとした素朴な造りの山荘であるが、愛人との心中という形で最期を迎えた建物としても知られる。

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「浄月庵」の向かいには道路を隔てて、以前紹介した野上彌生子の書斎や堀辰雄山荘があり、いずれも「軽井沢高原文庫」の施設として見学が可能である。

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2階に有島武郎についての展示室が設けられている。
以前は階下の一室を喫茶室としていたが、訪問時は営業していない様子であった。

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外観、内装共簡素で、外壁を杉皮貼りにするなど和風の要素が強い建物であるが、屋根窓のある急勾配の屋根や、張り出したベランダなど、明治末期以降の小規模住宅で多く採用されたコテージ風の山荘である。

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有島武郎の父であり、官僚・実業家であった有島武(1842~1916)の別荘として大正初期には建てられたと思われる。

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正確な創建時期や設計者などは不明であるが、階段下の作り付け箪笥など、建築家よりは地元の大工棟梁の手によるものと思われる工夫が見られる。

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有島武の死後は武郎が毎夏を過ごし、代表作の一部はこの別荘で執筆されたという。

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大正12年6月9日に愛人である波多野秋子と1階の一室で縊死心中、1ヶ月後に発見されたときには2人とも判別も付かない腐乱死体と化していた。2階の資料室にはその模様を伝える新聞記事が展示されている。

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元々この別荘は、旧軽井沢の三笠地区の一角にあり、今も残る旧三笠ホテルの近くにあった。心中事件の後は他所に移築され集会所として使われていたが、保存のため軽井沢高原文庫に二度目の移築が行われた。

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三笠地区の跡地には現在、有島武郎終焉の地であることを示す碑が立っている。

過去記事の更新について

いつも弊ブログをご訪問頂き、ありがとうございます。

第1回目の旧兵庫県庁舎の記事について内部の写真を追加し、外観の写真も一部追加または差し替え、本文も書き直しました。
外観は10年前の記事作成当時の写真が中心ですが、冒頭の写真は外壁の改修が行われた後に再訪したときのものです。

もしよろしければ御覧頂けると幸いです。

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第1244回・旧鹿児島県庁舎(鹿児島県政記念館)

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鹿児島市山下町にある鹿児島県政記念館は、かつてこの地にあった鹿児島県庁の旧庁舎を、一部曳家により移設、保存したもの。設計は明治末から昭和初期にかけて多くの優れた建築を設計した曽禰中條建築事務所による。国登録有形文化財。

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旧鹿児島県庁舎は大正14年(1925)に竣工、平成12年(2000)に一部を残して解体されるまで75年間使用されていた。同時に建てられた別棟の県会議事堂は、昭和30年代に県議会棟建設のため県庁舎よりも先に取り壊されている。

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ロの字型平面の県庁舎に隣接して県会議事堂を設ける構成は、鹿児島より少し早く竣工した旧山形県庁舎旧山口県庁舎(大正5年、いずれも国指定重要文化財)でも見ることができる。

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平成8年(1996)に鹿児島県庁が鴨池新町に移転した後、跡地は多目的複合施設の「かごしま県民交流センター」となった。旧県庁舎は正面中央部分が敷地内で曳家保存され、鹿児島県政記念館として再利用されている。

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平成20年(2008)には元の位置に残る旧正門と共に国の登録有形文化財となった。なお、明治期に建てられた先々代庁舎の正門も姶良市の重富小学校正門として現存しており、同じく国の登録有形文化財である。

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正面玄関及び中央階段室のある3階建の部分が大正14年創建時のまま残る部分で、両翼は曳家後に旧庁舎の外観を部分的に再現する形で新築されたものである。

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同時期に竣工した府県庁舎として岐阜石川(大正13年)、大阪(大正15年)の3府県庁舎が現存するが、いずれも近代的なオフィスビルの形式となっており、鹿児島は構造こそ鉄筋コンクリート造(一部煉瓦造)ながらも、日本瓦葺の屋根を載せた古風な外観が特徴である。

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背面外観。旧鹿児島県庁舎と同様の保存手法が取られた旧県庁舎としては、曳家で正面の中央部のみ移設された旧栃木県庁舎(昭和館)や、同様に正面中央部のみ旧部材も一部用いる形で移築再建された旧徳島県庁舎(県立文書館)がある。

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側面の外壁は取り壊された両翼の意匠を再現したもの。

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設計を行った曽禰中條建築事務所は、曽禰達蔵(1852~1937)と中條精一郎(1868~1936)が共同で運営していた設計事務所で戦前では最大かつ最良の設計事務所と称されていた。

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教育者としても知られる中村順平(1877~1977)など優秀な人材が多くスタッフとして在籍し、明治41年の設立から昭和12年の解散まで事務所ビル銀行図書館邸宅など、品格のある優れた建築を多く設計している。

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曽禰中條建築事務所は民間の建築が主で官公庁舎の設計は少なく、旧鹿児島県庁舎は珍しい事例と言える。(但し、中條精一郎は先述の旧山形県庁舎と、戦災で消滅した旧沖縄県庁舎の設計に顧問として関与している)

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旧鹿児島県庁舎は昭和20年7月の鹿児島空襲で被災しているが、正面玄関まわりは焼失を免れたのか、木製の玄関扉や大理石を用いた腰壁や円柱など創建時の内装が残されているようである。

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1階の1室と3階の塔屋内部が県政記念館として公開されており、鹿児島県政の歴史及び旧県庁舎についての紹介展示が見られる。本記事冒頭の旧県庁舎と県会議事堂の古写真はいずれもここで展示されていたものである。

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当時の官公庁舎としてよくある形式の階段室。大理石の円柱が目を引く。

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簡素な装飾が施された階段親柱。雷文をアレンジしたと思われる和風の意匠が見られる。

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同時期の岐阜県庁舎や大阪府庁舎が、シンプルな外観とは対照的に内部は豪壮な吹き抜け空間やステンドグラスで重厚華麗に造られているのに対し、鹿児島は重厚な外観に対して内部意匠は比較的簡素なものとなっている。

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2階の中央部にはかつては他の府県庁舎と同様に、正庁などが置かれていたものと思われるが戦災で内部を焼失したのか、創建当時の面影は感じられない。現在、2階には地元産の食材を用いたレストランが入っている。

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元唐津藩士の曽禰達蔵は明治維新に際し、佐幕派の一員として江戸幕府に最後まで付き従った経歴を持ち、そのためか国家の威厳を示すような建築に対する関心は薄かったという。その曽禰が率いる設計事務所が、江戸幕府を倒した旧薩摩藩の県庁舎を手掛けることになったという事実は興味深い。

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これまで弊ブログでは、明治から昭和戦前期の庁舎が現存(移築、部分保存を含む)する24の道府県のうち、宮崎県以外は全て取り上げている。本文で言及している鹿児島以外の府県庁舎のうち現存するものについてはリンクを張っているので、興味のある方は併せて御覧頂けると幸いである。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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