第394回・旧横浜正金銀行神戸支店(神戸市立博物館)

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現在神戸市立博物館として使われている建物は、昭和10年(1935)竣工の旧横浜正金銀行神戸支店。
我が国における西洋古典様式の銀行建築としては最も完成度の高いもののひとつ。国登録有形文化財。

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この建物が建つ神戸市中央区京町は旧居留地の一画である。
創建当初の写真

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横浜正金銀行は第二次大戦前まで存在した外国為替銀行。戦前は香港上海銀行等と並ぶ世界有数の外国為替銀行であった。敗戦後GHQによって解体され、戦後は普通銀行である東京銀行として再出発、現在の三菱東京UFJ銀行につながっている。

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背面。ドームのある部分は博物館となったときに増築された部分。
なお、隣の高層建築は開港以来の歴史を誇り、阪神大震災で一旦廃業するも新会社によって再建されたオリエンタルホテル。かつては海岸通にあり、今も残る旧大阪商船ビルの隣に威容を誇っていた。惜しくもこの建物は戦災で全焼し、昭和39年現在地に移転した。

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旧横浜正金銀行の建つ旧居留地内・京町筋には他にも銀行が建ち並んでいた。
現在オリエンタルホテルが建っている隣接地には日本銀行、またその隣にはチャータード銀行があった。当時の写真
なおチャータード銀行は、昭和13年海岸通に新築移転、移転後の建物は現存。

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京町筋にはその他、米国資本の貸事務所であるクレセントビルも建っており、ハイカラな港町を形成していた。その京町筋で今も変わらず残るのは、旧横浜正金銀行ただひとつである。

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神戸市立博物館は昭和57年に、それまでの神戸市立南蛮美術館と神戸市考古館が合併して新たに設立された。
旧横浜正金銀行支店の建物は、このときに大幅な増改築が行われている。

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ただし博物館として増改築を受けた後も、正面や側面の外観は旧状をよく残している。
なおこの建物の隣(写真左奥の位置)には、明治初期から今も唯一生き残っている旧十五番館が建っている。

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設計者は桜井小太郎(1870〜1953)。英国人建築家J・コンドルの直弟子で、端正な英国風建築を数多く作っている。
弊ブログでは旧呉鎮守府長官官舎旧横須賀鎮守府長官官舎旧荘清次郎邸静嘉堂文庫を取り上げている。また師・コンドルの作旧諸戸清六邸ではコンドルの下で図面を引いている。

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住宅建築だけでなく三菱財閥お抱えの建築家として、東京駅前の旧丸の内ビルディングや、三菱銀行の本支店等銀行建築も多く手掛けているが、残念ながら悉く現存しない。戦前からの大銀行で、当時の店舗がほとんど残されていないのは三菱だけである。

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なお、旧横浜正金神戸支店は、旧三菱銀行本店(大正11)と構成がよく似ている。(旧三菱銀行本店の画像はwikipediaより引用)

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内部は大幅に改造されており、2層吹き抜けになった旧営業室の天井に僅かに面影を残すだけである。

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天井の梁には精緻な装飾が施されている。

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旧横浜正金神戸支店は、桜井小太郎設計の現存する極めて数少ない銀行建築とも言える。なお桜井はこの建物の設計後引退、最後の作品となった。

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戦前の古典様式建築の、最後を飾る建物のひとつである。

(本記事中、特に記した以外の古写真は、「神戸美観地区写真集」からの引用であることをお断りしておく)

第393回・旧明倫小学校(京都芸術センター)

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京都市内にある、昭和6年(1931)竣工の元小学校校舎。
現在は京都市の施設「京都芸術センター」として活用が図られている。国登録有形文化財。

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もともとは京都市立明倫小学校(明治2年〔1869〕創立、平成5年〔1993〕閉校)の校舎であった。

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大正末期から昭和初期にかけて、一部の大都市では小学校の校舎が鉄筋コンクリートで建てられ始める。
その中で京都は東京などと並んで普及が早く、昭和初年には多くの鉄筋コンクリート造校舎が建てられている。

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中でも旧明倫小学校の校舎は、校区の住民から多額の寄付が寄せられたこともあり、京都市内でも屈指の豪華な校舎であった。

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外観はクリーム色の壁やオレンジ色の瓦屋根など、南欧風を基調としつつ細部には和風の装飾が施されている。

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現在は芸術活動の場として貸し出されているほか、多様な用途に使われているようである。

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京都芸術センターホームページ
http://www.kac.or.jp/

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装飾豊かな外観は、当時の鉄筋コンクリート造小学校校舎の中でも異色の存在であると思う。

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正面玄関。

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ポーチの両側にはステンドグラスの入った小窓がある。

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ステンドグラスの図柄は、氷割れ文という日本の伝統紋様と思われる。
昭和14年に大阪郊外に建てられた旧森平蔵邸(樟徳館)にも同じ図柄のすりガラスを嵌めた飾り窓がある。

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玄関扉まわりにも同じ模様が。

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廊下。
戦前の鉄筋コンクリート校舎は、床や腰壁には木材を貼ったものが多い。

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装飾が施された階段親柱。

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階段踊り場。古いスチールサッシの建具がよく残されている。

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現在の主な用途は芸術活動の為の貸しスペースなので大半の旧教室は改装されているが、一部はこのように昔の教室のたたずまいが残されている。

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最上階階段踊り場のアーチ窓。

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街路に面した校舎に囲われる形で、運動場がある。

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今回は紹介できなかったが、豪華な装飾が施された講堂や、折り上げ格天井のある大広間など、見どころの多い建物である。

第392回・旧鳩山一郎邸(鳩山会館)

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元首相・鳩山一郎(1883〜1959)の自邸。東京・音羽の高台に建つことから「音羽御殿」の別名もある洋館。
現在は鳩山家の記念館「鳩山会館」として一般公開されている。

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護国寺前の通りに面して建つ正門。通りからは正門しか見えない。

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正門を入るとすぐ急なS字型の坂道があり、坂を上り切ったところに鳩山邸の洋館が現れる。

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鳩山家の住居だったころは全面がツタで覆われていたが、改修後は煉瓦タイル張りの旧状に戻されている。

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鳩山一郎は、昭和29年に吉田茂の退陣を受け首相に就任。首相在任中「音羽御殿」は、政治の舞台として世間に一躍知られるようになった。このとき鳩山は71歳だが、屋敷を建てたのははるかに以前で、大正13年(1924)、41歳のときである。

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設計は鳩山一郎の同級生で、親友でもあった岡田信一郎。
東京丸の内の明治生命館(昭和9、国指定重要文化財)等の設計者として著名な建築家である。

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来客用の正面玄関。

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吉田茂ほか、多くの大物政治家がこの玄関から出入りした。

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大理石の階段がまっすぐ伸びる。

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鳩山家が通用使用していた玄関は、側面に別に設けられている。

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正面玄関に比べたら地味だが、それでも堂々としたもの。

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玄関ホールを入ってすぐの場所にある第一応接室。

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第一応接室とは続き間になった第二応接室。

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鳩山一郎専用の椅子。

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第二応接室暖炉。第二応接室は英国のアダムスタイル。明るい色調と繊細な装飾が特徴。重厚な両隣の部屋(第一応接室、食堂)とは対照的。

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食堂。
第一、第二応接室、食堂は引き戸だけで仕切られた続き間になっている。

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サンルーム。
第二応接室、食堂に面している。

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サンルーム床のモザイクタイル。

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サンルームから庭園を望む。

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鳩山邸のインテリアは第二応接室とこのサンルームが一番の見どころだと思う。

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部屋毎に異なる照明器具。
(上左)第二応接室(上右)第一応接室
(下左)食堂(下右)サンルーム

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鳩山邸のインテリアを特徴づけるステンドグラス。小川三知作。
第二応接室とサンルームの間の欄間。

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食堂とサンルームの間の欄間。

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階段室には五重塔をバックに飛び交う鳩。

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二階にあった来客用の寝室3室は、鳩山会館として改修する際に一室の大広間に改装されている。
平成になって新たにデザインされた部屋だが、違和感なく造られている。

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洋館の随所に棲みつく動物達。フクロウ、シカ、ハト。
ハト、ハト、ハト。

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ステンドグラスも階段室のものを始め、ハトだらけ。

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現在、この館で生まれ育った或る政治家が我が国に存在し、この館を見てその人物を連想される方もあるかと思うが、どうか建物とその人物とは切り離して見て頂きたい。この建物のすばらしさとは全く関係ないことである。

第391回・神戸市水の科学博物館

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神戸市水の科学博物館は、神戸市水道局奥平野浄水場内にある展示施設。
本来は浄水場の急速濾過場上屋として、大正6年(1917)に建てられたものを平成元年に、神戸市制100年及び給水開始90年の記念事業として改修・公開したものである。国登録有形文化財。

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奥平野浄水場は神戸市の水道施設としては最初に設置されたもののひとつで、明治33年(1900)より給水を開始、現在に至る。水の科学博物館の建物と同様、外装に花崗岩と白い化粧煉瓦を用いた施設が今も現役で使用されている。
写真の施設は貯水槽と思われるが、アーチ型開口部の右上には、経済産業省指定近代化遺産のプレートが見える。

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貯水槽と思われる上記写真施設の上部は、土を盛っている。
その向こうに水の科学博物館の建物が見える。

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水の科学博物館全景。
煉瓦造外壁を、花崗岩と当時流行した白い化粧煉瓦(タイル)で覆っている。

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設計は、明治から大正にかけ神戸を中心に活躍、既に弊ブログで取り上げた小寺家厩舎、新旧の海岸ビル(兼松商店三井物産)と同じ河合浩蔵。新しい方の海岸ビル(旧三井物産)より1年早い竣工で、花崗岩と白い化粧煉瓦の外装仕上げは共通している。

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両脇に設けられた円筒形の階段室は、旧小寺家厩舎でも同じようなものが見られる。

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明治33年より開始された神戸市の水道事業であるが、現在でも草創期の施設の多くが現役で稼働しており、かつ明治から大正初期のすぐれた土木・建築遺産として知られている。

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明治33年竣工の布引五本松ダムとその関連施設は国指定重要文化財、明治38年竣工の烏原堰堤、大正8年竣工の千苅堰堤は水の科学博物館と同じく、国登録有形文化財に認定されている。
布引・烏原・千苅の各施設は、弊ブログで以前取り上げたのでこちらを参照頂きたい。
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-88.html

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正面中央上部には、「か」の字を図案化した神戸市章をあしらう。
「こうべ」は歴史的仮名遣では「かうべ」になる。

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正面中央部を除き、装飾は控え目である。上部の半円アーチが目を引く。

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円筒形階段室の頂部にはドームを頂く。

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屋根は天然スレート葺。

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二階の半円窓から神戸市街を望む。
もともとは平屋建てだったが、展示施設として改装する際内部は二階建てになっている。
なお余談ではあるが、この窓から見えるすぐ左下の宇治山には、かつて神戸海洋気象台の庁舎があった。

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神戸海洋気象台は大正9年竣工、渡辺節設計で浄水場と同じく白タイル張りの煉瓦造洋館であったが今は無い。
移転した新庁舎にステンドグラスのみ保存されているという。
気象台も外観の一部はこのような円筒形をしていた。

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以前取り上げた大阪市の柴島浄水場や今回の神戸市奥平野浄水場など、戦前の水道施設には優れた建築物が多く、かつ現存するものも多い。

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この建物のように展示施設として公開されているものも多いので、他の都市の水道施設も今後紹介していきたい。

第390回・旧遠山元一邸(遠山記念館)

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日興証券初代会長の遠山元一(1890〜1972)が、没落した生家の再興と、実母への孝養を尽くすために故郷の埼玉県に建てた屋敷。現在邸宅と庭園は財団法人遠山記念館として一般公開されている。埼玉県下でもトップクラスの近代和風建築である。国登録有形文化財。

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埼玉県比企郡川島町、広大な関東平野の田園風景の中に、広壮な屋敷が現れる。
遠山家は代々この地における屈指の豪農であったが、遠山元一の父の代で放蕩のため急激に没落、元一は高等小学校卒業後、明治38年に東京・兜町に丁稚奉公することになる。

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敷地の周囲は濠を巡らす。
遠山元一は丁稚奉公から12年後の大正7年に、川島屋商店を立ち上げ独立、その後は急成長を遂げ第二次大戦下の国策により日興証券の初代会長となり、戦後は長く業界の重鎮として君臨した人物である。

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堂々たる正門。
事業が成功し産を成した遠山元一は、丁稚奉公以来忘れることのなかった生家の再興に着手する。また同時に、生家没落と一家離散で辛苦を嘗め尽くした母親の安住の場を作る目的があった。
このとき工事の総指揮は元一の弟・遠山芳雄(1896〜1945)が行っている。昭和8年から3年がかりで工事を進め、昭和11年(1936)竣工。

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当時雑木林と畑地と化して、面影も無かった生家の跡地を綿密に測量、広大な敷地跡を割り出し所有者から買い戻した。遠山元一本人の意向とは裏腹に、地元や周囲の人々によって構想は壮大となり、建築の規模は当初予定より10倍近くになったという。かつて「梅屋敷」と称された豪家・遠山家の再興は、地元にとっても喜びであったもの思われる。

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正面玄関のある東棟。
旧遠山邸の最大の特色は、生家の再興を象徴すべく、この地方における豪農の館を再現したことである。
遠山芳雄は印刷業などを営む実業家であったが、幼少より手先が器用で建築にも造詣が深く、当時既に技法が廃れかけて居た茅の葺き方に職人が困惑していると、自ら屋根に上がり仕上げてしまったという挿話も残る。

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中棟。東京風の二階家で貴賓の接待空間として建てられたものと思われる。
生家再興の総指揮は遠山芳雄が行い、元一は芳雄が求めるがまま資金を出した。そして邸宅の設計を行ったのが東京帝大卒の建築家・室岡惣七である。同じ埼玉は入間市に建つ、旧石川組西洋館の設計者である。

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西棟。京都風の数寄屋造平屋建。背後に土蔵が建つ。遠山元一の母・美以の居住空間として造られた。
基本は弟に任せっきりであった元一も、母の居室については色々と注文を付けたようである。

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庭園に建つ茶室。
遠山元一邸は、東棟の存在を除けば典型的な近代和風建築の邸宅と言える。

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東棟の玄関。武家屋敷を思わせる堂々としたもの。

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東棟は玄関の他、囲炉裏のある居室がある。
母・美以は京都風の西棟よりもこの囲炉裏端を好み、昭和23年に82歳で長逝するまでこの家で晩年を過ごした。

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建設当初、天井は古民家の造りに従い骨組みをむき出しにしていたが、その後寒さ対策で網代を張っている。

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側面に設けられた家族用の内玄関。床の人造研ぎ出し石の磨き上げ具合が半端ではない。
規模が大きいだけではなく、材料・仕事共に最高のものを追求して造られた邸宅である。

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中棟の廊下。天井は船底天井。

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中棟の主座敷。首相在任中の吉田茂が訪れたときはこの座敷に通されている。

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主座敷からの眺め。広大な庭園が広がる。
大きな一枚ものの硝子は米国からの輸入品。

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中棟一階の縁側。

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中棟の二階は宿泊する貴賓のための空間と思われる。ソファを備えた客間と書斎、寝室が一続きの洋間としてある他、座敷と洗面所・便所がある。
二階は通常非公開だが、年に一時期だけ公開しているようである。

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寝室。ソファやベッドなどの家具は当時からのものと思われる。
朝香宮鳩彦王が戦前、ここで宿泊されたそうである。

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二階に施された造作の数々。
(上左)床の寄木細工(上右)寝室小窓の建具
(下左)洗面所扉のステンドグラス(下右)洋間入口の扉に施された彫刻と象牙細工

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再び中棟一階に戻る。
数寄屋風の優雅な化粧室。隣の浴室に続く。

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中棟から西棟への渡廊下。片面を角柱、もう片面を面皮柱とする。

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西棟、母の居室。
残月床を備える。母・美以の死後は客室として使用されたようである。

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京風の優美な造りの座敷で構成される。

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ところで、母のために心を尽くしてこの屋敷を作り上げた遠山芳雄は、不幸な最期を遂げている。
昭和14年に中国大陸で馬賊に囚われ各地を引き回された挙句、敗戦後間もなく、帰国も叶わず現地で病死した。

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仏間。
遠山元一は晩年の昭和43年に、財団法人遠山記念館を設立して邸宅を一般に開放した。
弟・芳雄の「生涯から残されたたったひとつの事業」「なにごとも忘れて打ち込むことができた芸術品」(遠山元一の言)を永久に残そうとしたのかも知れない。

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近代和風建築の見どころは細部にある。建具に施された装飾の数々。
(上左)中棟一階主座敷の飾り小窓(上右)東棟囲炉裏の間の小窓
(下左)中棟二階洋間の窓のオパールグラス(下右)中棟一階主座敷の書院飾りの彫刻

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照明器具も見どころ豊か。
(上左)正門(上右)中棟一階主座敷
(中左)中棟二階洋間(中右)西棟座敷
(下左)西棟縁側(下右)西棟軒下の釣り行燈

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(参考資料)牧野武夫「遠山元一」昭和39年刊
現在は販売しているかどうか不明だが、以前は遠山記念館で販売していた伝記本。
遠山元一が綴った、自らの半生を顧みる文章も多数収録されているがすぐれた名文である。生家再建のいきさつも詳しい。

遠山記念館ホームページ
http://www.e-kinenkan.com/
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