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第1253回・旧武藤山治邸(再訪)

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神戸市垂水区東舞子町にある武藤山治の旧邸を再訪した。円形のバルコニーが特徴的なこの邸宅はこれまで何度か取り上げているが、「鐘紡中興の祖」「紡績王」として知られる実業家であると同時に、政治家、言論人、美術愛好家でもあった邸宅の主・武藤山治と、邸内に残る家具調度品など氏の人物像を伝える品々について、改めて取り上げてみる。

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武藤山治(1867~1934)は、慶應3年に豪農であった佐久間家の長男として現在の岐阜県海津市に生まれた。慶應義塾で福澤諭吉に学び、卒業後は米国へ渡航、日雇い労働などをしながらパシフィック大学で勉学に励む。帰朝後は複数の職を経て三井銀行へ入り、明治27年(1894)、神戸の和田岬にあった鐘ヶ淵紡績(鐘紡)へ経営立て直しのため派遣される。

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明治40年(1907)、当時40歳の武藤山治は、神戸の西郊である舞子の海岸沿いに大小2棟の西洋館と日本館で構成される自宅を新築、家族共々神戸市内から引き移り、和田岬にある鐘紡の工場には馬車で通った。現在は神戸市の一部である舞子は、旧播磨國の東端に位置することからかつては播州舞子浜とも称されていた。

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この邸宅は「旧武藤家別邸洋館」の名で国の登録有形文化財になっているが、創建時は別邸ではなく、武藤家の本宅であった。温暖で自然環境に恵まれた舞子は家族との団欒を楽しむのに格好の土地であったらしく、戦後に鐘紡社長になった武藤絲治(1903~1970)など5人の子供達は舞子の家で育っている。

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洋館の設計は三井財閥と縁の深い横河工務所に委ねられ、のちに大蔵省で帝国議会議事堂(国会議事堂)建設を主導した大熊喜邦が担当した。ベランダや切妻屋根など変化に富んだ外観は、当時の日本の西洋館には珍しかったアメリカンヴィクトリアン様式を取り入れたもので、米国留学の経験がある武藤山治の意向を汲んだ様式選択かも知れない。

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施工は当時神戸に本店を置いていた竹中工務店による。徳川時代より代々続く名古屋の大工棟梁であった竹中家が近代的建設業に進出したのは明治32年(1899)で、武藤山治邸は竹中工務店にとって初期の請負工事に当たる。武藤山治は時々新邸の建築現場を訪れ、工事の出来映えを褒め関係者を労ったという。

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大正年間に武藤山治は住吉村観音林(現在の神戸市東灘区)に本宅を移し、舞子邸は別宅となったが、舞子は晩年に至るまでこよなく愛した土地であり、没後は舞子浜に近い場所に墓所が設けられている。現在、舞子浜一帯の環境は大きく変わったが、淡路島を一望できる景色は変わらない。

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職工を優遇し福利厚生を充実させるなど、独自の経営方針で鐘紡を国内最大級の企業に成長させた武藤山治は、大正に入ると政界へ進出、大正13年(1924)には大阪府下より衆議院議員に選出されている。この頃には本邸を住吉へ移しているが、鐘紡の経営に専念していた頃と違い、神戸や大阪から遠い舞子邸は活動上不便だったのではないだろうか。

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昭和に入ると武藤山治は、議員活動に限界を感じ政界を退くが、程なくして恩師である福澤諭吉が創業した時事新報社の経営再建を請われて昭和7年(1932)に社長に就任、論説も手掛けるが、昭和9年(1934)に暗殺される。当時同紙が疑惑を追及していた「帝人事件」との関連も疑われたが、今なお真相は不明である。

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主を亡くした舞子邸は昭和12年(1937)に武藤家から鐘紡に寄贈され、「鐘紡舞子倶楽部」の名で同社の福利厚生施設となったが、平成に入り明石海峡大橋開通による国道の拡幅に際して日本館は撤去、洋館だけが垂水区狩口台に移築された。洋館に不似合いな和風のうだつ(卯建)は、この横にかつて日本家屋が続いていた名残である。

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西洋館と日本館はそれぞれ別々に玄関が設けられ、独立した造りになっていた。西洋館を普段から使うのは主の武藤山治だけで、家族は主に日本館で生活していた。なお、日本館があった位置に建っている管理棟は、かつて庭園にあった撞球室(昭和初期に国道拡幅のため撤去)の外観を、規模を拡大して再現したものである。

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洋館は上下で洋室六間に便所と洗面所で構成されている。今はないが写真奥の扉の先は厨房と浴室がある和風の平屋建になっており、その奥に二階建の日本館が建っていた。平成8年(1996)に狩口台へ移築された洋館が兵庫県の所有となり、舞子浜に戻ってきたのは平成22年(2010)のことである。

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客待ち部屋としても使われていたという玄関脇の応接間。ソファは武藤家時代からのものである。狩口台にあった頃はピンク色の色モルタル仕上げの壁が印象的だったが、後年の改造ということで再移築に際し白い壁になっている。

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緑色の大理石でできた暖炉が目を引く広間。各室に残る家具や絵画などの調度品は、武藤家から鐘紡に寄贈されたときのものが多数残されている。但し経営が悪化した鐘紡が、建物及び家具調度品一式を兵庫県に寄贈する際、絵画の一部は競売にかけられてしまったという。

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広間に続く食堂はかつては厨房に隣接しており、武藤山治はここで夫人と朝食を摂ったり、会議に使っていたという。腰壁や扉などの木部はニスを薄く塗って木目を見せるなど、日本人の住まいとして、日本人の設計施工で造られた洋館であることが分かる。規模も神戸の異人館などに比べると小作りな印象を受ける。

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玄関ホール兼階段室にはステンドグラスが嵌め込まれている。美術愛好家でもあった武藤山治は仏教美術を収集しており、洋館の階下には、玄関ホールなど各所に大小の仏像が何体も置かれていたという。(現在は書斎に一体だけ残されている)

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2階の山側にある書斎は、武藤山治の邸宅であった頃の姿を最もよく残しており、書棚には武藤が日頃より尊敬し研究対象としていたナポレオンに関する文献が洋書を中心に多数収められ、福澤諭吉の全集や趣味であった囲碁の本なども残されている。

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2階の海側には寝室として使われていた洋室が二間あるが、いずれもベッドなどは鐘紡所有時代に撤去されたものと思われる。写真の、三角形のベランダがある西側の寝室は千世子夫人の部屋として造られたとも言われており、暖炉脇には洋式の鏡台が残されている。

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東側の寝室を写した昭和初年の古写真。右端の洋服簞笥は現在、1階の階段脇にある。暖炉上の絵画は岡田三郎助の作品とされるが、鐘紡が兵庫県へ寄贈する前に競売にかけてしまい、この洋館の中にはない。

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東側の寝室から明石海峡と淡路島を望む。
上の古写真のベッドの位置からは、当時も現在と同じような風景が見られたはずだ。

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階段室のステンドグラスは、外に嵌め込まれた花模様の飾り格子に対応した図柄となっている。色硝子の使い方や図柄が明治末のものとしてはかなり新しい印象を受けるので、後年(大正から昭和初期)に取付られたものかも知れない。

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2階の旧東側寝室を除く各室には明治風の照明器具が残されている。舞子浜一帯に電気が点くようになったのは、武藤邸の竣工から3年遅れる明治43年(1910)というから、現存する照明はこのときに取り付けられたものと思われる。小ぶりな硝子シェードはいずれも非常に美しいものである。

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旧武藤邸の西洋館には6つの石油ランプがある(現在は電気スタンドに改造されている)。洋館の部屋の数と同じなので、未だ電気が開通していなかった明治40年の創建当初、各室の照明用として使われていたものではないだろうか。

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家具は帽子掛け、三角棚、食器棚、鏡台、書棚、椅子、ソファ、洋服箪笥など、鐘紡に寄贈された際に新調されたと思われる一部を除き、武藤山治の住まいであった頃のものがよく残されている。

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西洋館には暖炉が4つあり、いずれも異なる材質の石材で造られた暖炉飾りが施されている。特に階下の2つは凝ったものとなっているが、上部にあった木製の鏡飾りが失われているのが惜しまれる。

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漆喰や木彫による装飾が施された各室の天井飾り。写真の左上、玄関脇応接間にある天井の漆喰装飾は、明治40年の創建当時のものを切り取って移設したものである。(ほかの部屋は2度にわたる移築の際に再現もしくは復原されたものである)

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武藤山治は美術品の収集と研究にも熱心で、先述の仏像のほか、与謝蕪村や尾形乾山の作品を愛好していたことでも知られる。また、古美術品だけではなく(当時の)現代美術の支援者でもあり、鹿子木孟子郎、向井潤吉などの若い洋画家に対し、作品を積極的に買い上げたり、あるいは直接援助することもあった。現在西洋館の各室に残る調度類はその一部である。

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武藤山治が心血を注いだ鐘紡は、のちの経営者の放漫経営により平成時代に消滅、また、兇弾に斃れるまで経営に当たった時事新報は産経新聞の下で休眠状態にある。しかし、国民の政治意識の向上を目指して大阪に設立した「國民會舘」は、現在も公益財団法人として盛んに活動を続けている。

(武藤山治の足跡及び人物像は各種伝記等のほか、公益財団法人國民會舘のホームページを主要参考資料とさせて頂いたことをお断りしておく。)
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第1252回・旧山本家住宅(再訪その2)

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弊ブログにて過去2回紹介したことのある、兵庫県姫路市網干区興浜の旧山本家住宅を訪れた。姫路市の所有となり一般公開されている旧山本家住宅は明治期の主屋と土蔵2棟、大正7年(1918)に建てられた洋館と離れ座敷から構成される邸宅である。これまでの記事で紹介していない箇所も含めて改めて紹介したい。

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旧室津道に面して建つ旧山本家住宅。2件隣に先日紹介した旧水井家住宅がある。明治初期に建てられたという主屋の脇には和洋折衷の造りで望楼が目を引く洋館があり、街路とは高塀と専用の門で仕切られている。

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洋館は大正7年(1918)に、当時の当主で網干銀行頭取や網干町長も務めた山本真蔵氏によって建てられた。山本家は呉服商であったが、氏の代に当時神戸や姫路で盛んであった燐寸(マッチ)の製造などで財を成したという。先日レストラン・カフェとして再生された煉瓦造の洋館である旧網干銀行もほぼ同時期に建てられた。

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唐破風のある玄関ポーチを備えた和洋折衷の意匠が目を引く洋館。玄関ポーチの石段や正門に続く石畳には巨大な御影石が使われ、水はけをよくするためか石畳の表面は緩い円弧状に仕上げるなど材料、仕上げ共に贅を尽くしている。

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洋館の側面外壁。奥の硝子戸が嵌め込まれている場所はサンルームで、洋館の奥に庭園と離れ座敷がある。

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洋館の裏側のみモルタル仕上げになっており、ステンドグラスが嵌め込まれた書斎の出窓がある。

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庭園は創建当時の規模を残していると思われる。かつては庭園には様々な種類の石燈籠が建っていたが、戦後に売却されたという。

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庭園から望む洋館と離れ。
反りのある瓦屋根が特徴の離れも、洋館と同時期に建てられたものと思われる。

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特別な来客のために建てられた離れは次の間付きの座敷と大広間で構成されていたが、大広間は昭和25~6年頃に山本家の斜め向かいにある丸万鮮魚店に売却され、料理店も営んでいた同店の宴会場として移築された。

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大広間は移築されたが、付随していた外便所はもとの位置に残されている。吹きさらしになっているのが小便所で小窓があるのが大便所である。手前には手水鉢があり、旧水井家住宅の外便所と同じ形式である。

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小便所の腰壁にある色鮮やかな花模様のタイルは、同じ兵庫県内の淡路島を発祥とする老舗タイルメーカーである淡陶(ダントー)の製品。

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洋館脇にある主屋にはタイル貼りの竈が残されている。

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洋館玄関から室内を望む。玄関の床は大理石仕上げである。
内外共に個性的な造りが特徴的な旧山本家住宅の洋館は、播磨地方では加古川市の多木浜洋館(あかがね御殿)と並ぶ存在である。

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洋館の中では最も華やかな造りの応接室。隣接する書斎と共に照明器具から家具調度類まで大正時代の形が極めてよく残されている。暖炉脇の扉はサンルーム及び書斎に通じている。

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ステンドグラスの出窓が目を引く書斎。暖炉脇の窓にもステンドグラスが配されている。窓の奥にはサンルームがある。

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書斎と応接間に配されている暖炉。燃料としてコークスを燃やし、天井の四隅に開けられた通風口から暖気を送り込むように造られているという。書斎の暖炉飾りには花頭窓や蟇股など和風意匠が見られる。応接間の鏡枠は高級材として知られる黒柿で造られている。

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応接室の椅子やテーブルには大正期の洋館や家具によく見られる象嵌細工が施されている。洋館建設と同時に誂えられた特注品と思われる。床の寄木細工も美しい。

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書斎にも戦前からのものと思われる家具がよく残されているが、こちらは書棚や机などアールデコ調の装飾が施されており、昭和初期の製作と思われる。取っ手などに黒柿が用いられた高級な仕上げである。

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旧山本家住宅に残る古い照明器具。写真は応接間と離れの便所。

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旧山本家住宅は洋室である書斎だけではなく、和風の離れでも廊下の天井などにステンドグラスが使われている。

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離れに付属する洗面所にまでステンドグラスがある。離れに泊める来客用に造られたと思われる洗面所では、貝合わせの蛤を壁一面に埋め込むという装飾が施されており、他では見られない独特のものである。

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洗面所と浴室と共に趣向を凝らした贅沢な造りとなっている。
洗面台は白大理石で周囲は白いタイル貼りとなっており、その一部は松葉と花の模様が見られる。

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洗面所の隣にある客用浴室。
浴槽と床は大理石で造られており、壁にはタイルと高野槇が用いられている。

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欅財で仕上げられた洋館の階段室。望楼の真下に位置する。手摺りや欄干の意匠は装飾的な明治期の洋館とは異なり、シンプルながらも一本一本が曲線を持つ、非常に手の込んだものとなっている。

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望楼の中は姫路城の大天守も遠望できる展望室が設けられている。展望室は畳敷きの小部屋で、特別な来客を通すためなのか天井は精巧な造りの格天井である。

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展望室から斜め向かいの丸万鮮魚店を見下ろす。二階部分がかつての山本家離れ大広間。第二次大戦後は戦前からの富裕層の多くが没落し、家屋敷を手放したり一部を切り売りする例が多く存在したが、これもそのような事例の一つと思われる。

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山本家は床の間を備えた座敷が数多く設けられ、意匠や材料など座敷毎に異なっている。洋館の書斎の向かいにある金庫室にまで床の間が設けられている。

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当家では最も格式の高い部屋であったとされる離れ座敷。
先述のとおり、この離れには専用の浴室と洗面所があり、奥には接待の宴席用か大広間も設けられていた。

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洋館2階の街路に面した位置にある座敷。床柱は当家の敷地内にあった梅の木とされる。場所や大きさからして、格式張らない来客や家族のために使う部屋と思われる。洋館の2階にはこのほか、次の間と書院を備えた座敷が別に設けられている。

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地方の名士が建てた戦前の和洋折衷の邸宅としては、意匠や造りの凝りようなど指折りの存在と言ってもよい旧山本家住宅。まだあまり知られていないが再生された旧網干銀行共々、網干の名所となることを願うものである。

第1250回・旧水井家住宅

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兵庫県姫路市網干区にある旧水井家住宅は、大正11年(1922)に材木問屋の住居として建てられた。黒漆喰仕上げの重厚な造りが特徴の古民家で、近接する旧山本家住宅と共に現在は姫路市が所有、管理している。

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網干区の旧市街地は戦災を免れたため、現在でも古い町並みがよく残されており、以前紹介したダイセル異人館旧網干銀行などの近代洋風建築も点在する。その中でも旧網干銀行は修復、改装され、レストラン「旧網干銀行湊倶楽部」として甦るなど、これらの建物を活かした取り組みが行われている。

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旧水井家住宅と同じく姫路市が所有しており、平成28年より定期的に一般公開されている旧山本家住宅。網干銀行の頭取であった山本真蔵氏の邸宅で、大正7年(1918)に建てられた和洋折衷の洋館棟は播州でも屈指の邸宅建築である。弊ブログでも以前2回にわたり紹介しているが、回を改めて再訪記事を投稿させて頂く予定である。

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その旧山本家住宅とは目と鼻の先にあるのが旧水井家住宅。主屋は旧山本家洋館と同様に、黒漆喰仕上げの重厚な外観が特徴である。ナマコ壁が目を引く土蔵は大正3年(1914)に建てられたものである。

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旧水井家住宅は近年姫路市に寄贈され、現在は同市が管理している。

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通常は非公開であるが、催事等のときに公開されることがある。
今回訪問した際は1階の一部が公開されていたので紹介したい。

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玄関周りの柱や壁など木部は紅いベンガラが塗られている。
柱などにベンガラを塗って仕上げる例は近畿地方や中国地方の古民家で時折見ることができる。

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式台を備えた玄関。

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玄関の間の先には立派な仏間がある。

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床脇の仏壇は仏間の中でも独立した造りとなっており、僧侶が出入りするためと思われる出入口も設けられている。入口上部の欄間や格天井に精緻な造りが見られる。

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当家で最も格式の高い部屋と思われる、仏間に隣接する座敷。

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床脇には金箔貼りの壁に寺院風の花頭窓が穿たれ、太い床柱と共に重厚な意匠が目を引く。床の間との間に穿たれた菱形の狆潜りも珍しい。

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座敷から裏庭を望む。縁側に嵌められた硝子戸など古い建具類もよく残されている。

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縁側の角に残るランプシェード。

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座敷の裏には来客専用と思われる洗面所と浴室があり、色鮮やかなタイルなど創建当時の造りがよく残されている。

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タイル部分を拡大。

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かなりうすれているが、花模様が描かれた電燈の笠。

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玄関の奥には小屋組みの一部を見せる吹き抜けがある。

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主屋の裏手にも土蔵がある。

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裏の土蔵脇に設けられた外便所。
小便器は現在では珍しい絵入りの陶器が残されている。

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今は荒れているが、旧網干銀行と同様に甦る日が来ることが祈る。

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旧水井家住宅は和洋の技巧を凝らした旧山本家住宅に比べると少し地味な印象の建物であるが、内外共に重厚な造りがすばらしい建物である。貴重な歴史的建造物に恵まれた網干の街がこれらの資産を生かすかたちで活性化する事を祈りたい。

第1228回・旧柏原町役場(丹波市役所柏原支所)

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兵庫県丹波市柏原町柏原にある丹波市役所柏原支所の建物は、昭和10年(1935)に柏原町役場の庁舎として建てられた。以前取り上げた旧氷上高等小学校旧柏原尋常中学校と同様、木造下見板張り、ペンキ塗り仕上げの洋風建築であるが、玄関ポーチなどの細部意匠に明治期の洋館とは異なる趣を有する昭和初期の木造洋風建築である。

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柏原藩の陣屋が置かれていた陣屋町の面影を残す街の中心地に建っている丹波市役所柏原支所。現在も現役の行政庁舎として使われている。

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庁舎の脇にある欅の大木は、「木の根橋」と称される推定樹齢1000年の古木。根の一本が脇を流れる奥村川を跨いで橋状になっていることからこの名があり、兵庫県の天然記念物にも指定されている。

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設計は兵庫県内に設計事務所を開き、大正から昭和にかけて北播磨から丹波地方を中心に、学校や役場など多くの公共建築を設計した内藤克雄(1890~1973)による。昭和初期の木造洋風校舎で近年保存が決まった西脇小学校の設計者としても知られる。

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同じ木造下見板張りペンキ塗り仕上げの洋風建築でも、明治18年(1885)に建てられた旧氷上高等小学校や明治30年(1897)に建てられた旧柏原尋常中学校に比べると昭和10年(1935)に建てられた柏原町役場は、建てられた時期に4~50年の開きがある。

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コンクリートで固めたアーチ型の玄関ポーチや五角形の屋根窓など、細部意匠には明治期の洋館には見られないモダンな造形が施されている。

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アーチ型の玄関ポーチは同時期のコンクリート造の建物では多く見られるが、下見板張りの木造建築に取り付けられるのは珍しい。

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昭和初期の洋館らしいモダンな意匠の屋根窓。

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金属製の棟瓦には柏原町の「柏」の文字が打ち出されている。窓の下の腰壁には、塗装を施したトタン板と思われる金属板が張られている。

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内部も装飾が施された天井や階段などが今もよく残されているという。丹波市ではこの建物を観光施設として活用を模索しているようだが、まだ具体的な方針は決まっていないようである。

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兵庫県内には旧柏原町役場のほか、当ブログでも以前取り上げた旧出石郡役所旧七美郡役所旧豊岡町役場など、明治から昭和初期に建てられた郡役所もしくは役場の庁舎が播磨、丹波、但馬地方を中心に数多く残されている。

第1206回・旧柏原尋常中学校本館(柏原高等学校柏陵記念館)

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兵庫県丹波市柏原町には、前回紹介した旧氷上高等小学校のほかにも美しい明治の洋風校舎が残されている。兵庫県立柏原高等学校内にある「柏陵記念館」は、明治30年に建てられた旧柏原尋常中学校本館の一部を移築したもので、現在は同校の記念館として保存・活用されている。国登録有形文化財。

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柏原尋常中学校は明治30年(1897)に設立された旧制中学校で、第二次大戦後の学制改革によって柏原高等女学校(前回の旧氷上高等小学校を校舎の一部として使っていた)と合併、男女共学の兵庫県立柏原高等学校となり、今日に至っている。

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元首相の芦田均など著名人も学んだ校舎は、昭和16年(1941)の改築に際し一部が移築、保存され、昭和35年(1960)に現在地に再移築された。

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現在、柏陵記念館として保存されている建物は明治30年竣工とされているので、創立当初の校舎の一部と思われる。創建時の全体像は分からないが、正面玄関等の主要な部分を移築したものと思われる。

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端正な玄関ポーチには柱頭や玄関まわりの彫刻など、擬洋風建築ならではの装飾が施され、天井の意匠も凝っている。欄間の両脇には彩色を施した竹と鳩の彫刻が飾られている。

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背面は吹き放ちのベランダになっている。同時期の木造洋館である旧日本赤十字社埼玉支部(明治38年)のように、移築前はおそらく中庭か裏庭に面した廊下(通路)だったのではないかと思われる。

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ベランダの柱頭部分にも彫刻装飾が施されている。

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二つの柱を繋いだような手摺の意匠も珍しい。

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昭和55年(1980)より同校の記念館となっており、現在は歴史資料等の保管に使用しているほか、館内にある応接室をスクールカウンセリングに使用しているという。

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平成28年(2016)には国の登録有形文化財となった。翌年には創立120周年記念事業として改修工事が行われ、外壁の補修や塗り直しが行われている。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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