第1103回・日産自動車横浜工場1号館

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京浜工業地帯の一角にある横浜市神奈川区宝町の日産自動車㈱横浜工場1号館は、かつての同社の本社屋で昭和9年(1934)に建てられた。現在は工場見学の来訪者を受け入れるためのゲストホールとして活用されており、また同社の歴史や技術を紹介する日産エンジン博物館も併設、公開されている。横浜市認定歴史的建造物。

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日産自動車横浜工場はJR新子安駅に近い位置にある。この一帯は昭和初期に海岸を埋め立てて造成された。昭和9年(1934)に竣工した1号館は鉄筋コンクリート造2階建、操業を開始した昭和10年(1935)には一部が3階建に増築されている。

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昭和初期の日本の自動車市場は、当時日本に進出していた米国のフォードとジェネラル・モーターズ(GM)による事実上の独占状態にあったが、日産自動車は初めて大規模な量産体制を備えた最初の国産自動車メーカーとして、小型車「ダットサン」及び中・大型車「ニッサン」ブランドの2本立てで国産自動車の普及を図った。

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戦前戦後を通じて日産自動車の主力商品となった小型車「ダットサン」は、同社の前身に当たるダット自動車製造によって昭和7年(1932)より生産されていたが、当時のその他の国産自動車と同様に生産体制は零細であった。これを本格的な量産メーカーとしての日産自動車に発展させたのが鮎川義介(1880~1967)である。

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技術者出身の実業家である鮎川義介は、義弟で政治家としても知られる久原房之助(1869~1965)から引き継いだ久原財閥(現在の日立製作所等のルーツに当たる)を発展させ、当時四大財閥に次ぐ十五大財閥のひとつに数えられた日産コンツェルンを築きあげた。

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日産コンツェルンの自動車部門であった日産自動車の本社は横浜に置かれた。日産重工業と改称されていた戦時中の一時期を除き、昭和43年(1968)に東京・銀座に移転するまで1号館が本社事務所として使われていた。なお、日産自動車の本社は平成21年(2009)に再び横浜に戻され、現在はみなとみらい21地区にある。

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1号館は機能性を重視した昭和初期の工場建築であり、装飾的な要素は殆ど無いが、腰壁や玄関ポーチの柱には昭和初期の建築に多く見られるスクラッチタイルが貼られ、玄関ポーチにはアールデコ調の照明燈が取り付けられるなど、僅かに戦前建築ならではの造形を見ることができる。

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内部も昭和初期の工場事務所の佇まいをよく残しており、特に2階は木製枠の窓ガラスを嵌めた間仕切りや扉や床は創当初のまま残されている。廊下に連なる照明燈も、創業当初を偲ばせる円形のシェードを持つ電燈が再現されている。

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2階は日産自動車の歴史や技術を紹介する展示室になっており、1階には同社のエンジンや部品の実物を展示する「日産エンジン博物館」が置かれている。

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階段の手摺りは人造石研ぎ出し仕上げ。

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1階にある「日産エンジン博物館」全景。
間仕切りを取り払い、一室の展示室となっている。

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日産エンジン博物館では、創業当初から今日に至るまでの各車種のエンジン及び関連部品が展示されている他、写真の1957年(昭和32年)式ダットサン210型セダンなど、日産自動車の歴史を語る上で欠かせない一部の車両も展示されている。

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弊ブログの趣旨から少々外れるが、以下は横浜工場で操業を開始した昭和10年(1935)以降生産されていた初期のダットサン自動車である。戦前から量産されていたダットサンは現在も比較的多く現存しており、写真は日産自動車所蔵の1935年式14型ダットサン・フェートン。「幌型」と称され、軍や警察にも多く納入されていた4人乗りオープンカーである。

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開業医が往診用に購入することが多かったというダットサン・セダンの1935年式14型。日産自動車は自社の旧車両を多く所蔵しており、ここに紹介する戦前型ダットサンも同社が修復して所蔵しているものである。但し横浜工場で常設展示されているものではない。写真はみなとみらい21にある本社ショールームで展示されていたときのもの。

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当時日本にも輸入されていたドイツのオペル・オリンピアの影響を受けたデザインの1937年(昭和12年)式16型ダットサン・クーペ。戦前型ダットサンの中でも趣味性の強い車種であるクーペは極めて現存数が少なく、希少な車両である。

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日産エンジン博物館に展示されている1936年(昭和11年)15型ダットサン・ロードスター(2人乗りオープンカー)。これらの乗用車は一部の比較的富裕な階層が購入するだけであったが、同時に生産・販売されていたトラックなどの商用車は朝鮮、満州などの外地も含めて全国に普及、「ダットサン」は国産小型自動車の代名詞として広く知られるようになった。

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京浜工業地帯に現存する工場施設で保存されている建物は日産自動車旧本社屋のほか、川崎市の昭和電工㈱川崎事業所本事務所(昭和6年竣工、国登録有形文化財)がある。戦時中に爆撃で破壊されたりその後の設備更新等に伴い破却されているものが多いので、記念館のような形で保存されているものは希少な存在である。
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第1084回・旧一萬田尚登邸(箱根マイセンアンティーク美術館)

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昭和21年(1946)から8年に亘って日本銀行総裁を務め、戦後の混乱期の金融界・経済界で重きを成した一萬田尚登(いちまだひさと 1893~1984)の居宅であった洋館が箱根の強羅に移築・保存されている。現在は箱根マイセンアンティーク美術館として公開されている。

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元々は東京都港区青山に建っていたという旧一萬田尚登邸。竣工年等建物の詳細な来歴は不詳であるが、昭和初年の建物と思われる。洋風を基調としているが、室内には2階に次の間付きの書院座敷も設けるなど、戦前の典型的な中規模洋風邸宅である。

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一萬田尚登がこの洋館の建て主なのか、途中から移り住んだか、またいつまで住んでいたかは判然としない。昭和40~50年代頃に敷地が道路拡幅の対象となり撤去されることになったが、これを惜しんだ東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)が買い取り、自行の保養施設として強羅の現在地に移築したという。

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その後所有者を転々とし、平成23年(2011)に現在の所有者によって改修が施され、箱根マイセンアンティーク美術館として公開されて現在に至っている。東海銀行所有時代に造られたと思われる石造の門をくぐると、木立の先に赤瓦の洋館が現れる。

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正面からの眺め。赤瓦葺の屋根やクリーム色の外壁など外観は南欧風に仕上げられている。室内は写真撮影禁止のため紹介できないが、各室に設けられた暖炉やドーム状の天井を持つ吹き抜けの階段室、数寄屋風を加味した二階の書院座敷、随所に施されたアールデコ風のステンドグラスなど、質の高い内装が残されている。

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庭園側からの眺め。二階の奥に見えるベランダ状の空間は書院座敷の縁側である。美術館として改修される際、建物は元の姿をそのまま残す形で改修されているが、庭園や周囲の植栽は大がかりなリフォームが施された。その模様がテレビ番組「劇的ビフォーアフター」で紹介されている。

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二階窓のねじり柱とプランターボックス。
設計者も不明であるが、しっかりした内外装のデザインから正規の建築家、もしくは富裕層の邸宅を多く手掛けていた清水組(現・清水建設)などの大手建設業者の手によるものと思われる。

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この洋館の主であった一萬田尚登は大正7年(1918)に日本銀行に入行、昭和21年(1946)に当時の新木榮吉総裁が占領政策による公職追放を受けたことに伴い総裁に就任、在任中は強い政治力と鋭い風貌から「法王」の異名を取り、昭和29年(1954)に退任するまで金融界・経済界に君臨した人物である。

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一萬田尚登の日銀総裁在任期間は、偶然ながらも吉田茂の首相在任期間とほぼ時期を同じくしているが、総裁退任後は政界に転身、吉田とは対立関係にあった鳩山一郎と岸信介の両内閣で大蔵大臣を務めた。

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館内は現在、アンティークのマイセン磁器の展示室として使われているが、洋室の暖炉やステンドグラスなど邸宅の内装はそのまま残し、各部屋の造りを活かした形で展示が行われている。

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西洋白磁の頂点に君臨するとされるマイセンは、ドイツのマイセン地方で生産される磁器で、日本や中国からもたらされた白磁の影響を受け、18世紀に誕生した。そのためか2階の書院座敷ではシノワズリ(欧州で流行した東洋趣味の美術様式)美術の展示室に充てられている。

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館内には玄関脇の円形窓をはじめ随所にステンドグラスが嵌め込まれている。写真は玄関ホールにある暖炉の飾り窓に嵌め込まれたアールデコ調デザインのステンドグラス。内側からの眺めをお見せできないのが残念。

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大正初期から別荘地として開発の始まった強羅には、弊ブログにてこれまで紹介した白雲洞茶苑旧岩崎別荘(現・強羅環翠楼)などの数寄屋風建築のほか、洋館もいくつか存在したというが、今日も現存するのは旧閑院宮邸(現・強羅花壇)ぐらいしか残されていない。他所からの移築とは言え、旧一萬田尚登邸は強羅に保存されている数少ない戦前の洋館である。

(参考)箱根マイセンアンティーク美術館ホームページ 建物について

第1083回・強羅環翠楼(旧岩崎康彌別邸)

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神奈川県足柄下郡箱根町強羅にある強羅環翠楼は、三菱財閥を築いた岩崎彌太郎の三男・岩崎康彌の別邸を改装して昭和24年(1949)に開業した温泉旅館である。現在も建物と庭園にかつての旧岩崎別邸の佇まいがよく残されている。

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強羅環翠楼は箱根登山鉄道の強羅駅南側の斜面に建っている。駅から少し坂を下りた目立たない位置にあり、いかにも別邸らしい佇まいを見せている。敷地に入ると、質素な洋館を併設した数寄屋風の二階家が現れる。

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旅館とするため増改築が施されているが、玄関周りや玄関脇の洋館などは大正10年(1921)頃に建てられた旧岩崎別邸時代の姿を残しているものと思われる。

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玄関脇に配された洋館は1室のみの質素な山小屋風で、暖炉用の煉瓦積煙突を備えている。

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玄関は左側が内玄関で、右側が主玄関。現在は宿泊客がこの主玄関から出入りする。

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別邸時代の名残を残す畳廊下。玄関を入ってすぐの位置にある客室「松」と、その上にある「晴旭の間」はいずれも次の間付きの書院座敷で、岩崎別邸の造りがそのまま残されているという。

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畳廊下から望む中庭。

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洋館内部。現在は宿泊客用のラウンジになっている。

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内部も簡素な造りだが天井が高く、窓辺には本格的な暖炉を備えている。

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暖炉は煉瓦積の煙突があるところから、かつては石炭か薪を燃やしていたものと思われる。

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焚き口の両側に貼られた火の粉避けタイルには、石榴が描かれている。

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庭園側から望む旧岩崎別邸。
岩崎康彌(1883~1960)は三菱財閥創業者・岩崎彌太郎の三男で、三代目社長・岩崎久彌の異母弟に当たる。

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岩崎康彌は小田原電気鉄道(現・箱根登山鉄道)によって分譲が始まっていた強羅の別荘地を大正4年(1915)に7区画分購入、その一角に6年後の大正10年(1921)頃、木造二階建ての別荘を建設し、避暑に利用していた。皇太子時代の昭和天皇や、陸軍参謀総長も務めた閑院宮戴仁親王も岩崎別邸を利用された。

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特に閑院宮戴仁親王は、昭和3年に岩崎別邸に宿泊して強羅の土地をいたく気に入られ、岩崎康彌より別邸の敷地の半分を譲り受け、自らの別邸とされた。現在、旧閑院宮家別邸は料理旅館「強羅花壇」として営業しており、当時の建物も残されている。

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昭和20年の敗戦後、占領軍によって財閥解体が進められ、岩崎家一族など財閥家を含めた富裕層には高額の財産税が課せられた。岩崎康彌は財産税納付と生活資金捻出のため、昭和23年(1948)に強羅の別邸を売却することになる。別邸を買い取ったのは、同じ箱根の塔之沢で老舗温泉旅館「環翠楼」を経営する鈴木二六であった。

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小田原の網元であった鈴木家は、明治期より塔之沢温泉の元湯の経営を引き継いでいた。旅館は伊藤博文によって「環翠楼」と名付けられ箱根屈指の高級温泉宿となり、現在も当時の隆盛を伝える建物で盛業中である。

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岩崎別邸の建物と庭園をそのまま活かしつつ、新たな客室棟を増築して昭和24年(1949)4月に「強羅環翠楼」は開業した。その後敷地内で強羅では初めての自家用温泉を掘り当て、昭和30年(1955)には昭和天皇の宿所にも充てられた。

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鈴木二六によって「華清園」と名付けられた斜面に広がる緑豊かな庭園は、岩崎別邸時代の佇まいを残しているという。写真の建物は旧岩崎別邸に隣接して建つ客室棟で、昭和24年の開業当初に建てられた部分と思われる。

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客室棟の一室から望む外の景色。

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昭和30年(1955)に神奈川県で開催された秋季国民体育大会(国体)御臨席のため、昭和天皇・皇后両陛下は強羅環翠楼に宿泊された。写真の建物は、宿泊用に新築された離れ「錦華亭」である。

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前方に張り出した部分は洋室となっている。

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旅館となった後建てられた建物の中では、「錦華亭」は最も趣向を凝らした建物である。

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本家の塔之沢環翠楼は国の登録有形文化財となっているが、強羅環翠楼も現在のすばらしい佇まいを今後も維持して頂きたいものである。(塔之沢環翠楼については弊ブログ過去記事もご参照頂きたい)

(参考) 「岩崎家ゆかりの別邸 強羅環翠楼物語」(館内に置かれた小冊子)

第1081回・旧吉田茂邸(大磯町郷土資料館別館)

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前回の旧住友家俣野別邸と同時期に火災に遭い、ほぼ同時に再建された大磯町の旧吉田茂邸。平成29年4月より大磯町郷土資料館別館として公開されている。旧住友別邸に比べるとオリジナルの部分が殆ど残されていないのは残念であるが、日本の政治史を語る上で欠かせない人物の邸宅として見るには非常に興味深い建物である。

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旧吉田邸への入口である兜門。京都から大工を呼び寄せ裏千家の門を模して建てられた。敗戦後の連合国による占領状態を終結させることになった昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたため「講和条約門」とも称される。吉田が首相を退任した昭和29年(1954)に完成した。

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旧吉田茂邸は平成21年(2009)3月、大磯町が取得し、公開に向けた整備が始まった矢先に住友別邸とほぼ1週間を隔てて不審火によって全焼してしまった。一部の部材等が他所に移されていた旧住友別邸と異なり、屋内の調度品まで全て失われてしまった。上述の兜門と庭園、主屋に付属するサンルーム、伊藤博文などを祀った祠「七賢堂」(後述)のみ、複製ではない本物が残されている。

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焼失前の旧邸は、吉田茂の養父であった実業家の吉田健三(1849~1889)が明治17年(1884)に建てた別荘に、吉田が昭和22年頃及び昭和30年代にかけて2度にわたり増改築を施した主屋と、昭和30年代後半に完成した庭園で構成されていた。

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吉田茂は敗戦の前後から昭和42年(1967)に死去するまで、大磯の邸宅を本邸としていた。なお、首相在任中吉田は永田町の首相官邸(現在は首相公邸となっている建物)を嫌い、白金台の旧朝香宮邸を首相官邸(兼公邸)として利用していた。

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明治期に吉田健三が別邸として建てた部分については、正確に復元できるだけの資料が残されていなかったことから再建されていない。写真のとおり礎石だけが残されている。吉田茂によって戦後増改築された部分のみ、実測図などの資料が存在したため再建が実現した。明治期の部分は規模としては主屋全体のごく一部であり、座敷が数室程度あったものと思われる。

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首相退任後も池田勇人、佐藤榮作など吉田の直弟子に当たる大物政治家などが大磯の吉田邸を絶え間なく訪れ「大磯詣で」と称されたという。玄関手前の石燈籠は邸宅で繰り広げられる様々な人間模様、そして邸宅自体の焼失、再建を見てきたものと思われる。 

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玄関のある斜面下側の建物が昭和22年頃に主屋の応接間棟として増築された部分を再現したもの。大理石の暖炉のある1階応接間は全体的に数寄屋風に仕上げられ、アールデコ調の照明器具を取りつける。天井は船底天井。

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焼失前の旧吉田邸を紹介している書籍などを見ると、応接間の暖炉の大理石はもっと緑色がかっており、同じ石材は入手できなかったものと思われる。

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応接間の照明器具は吉田が首相官邸(公邸)として執務・居住し、非常に気に入っていたと言われる旧朝香宮邸の照明器具とよく似たデザインとなっている。旧朝香宮邸についての弊ブログ過去記事には当該照明器具の写真も掲載しているので、興味のある方は御覧頂きたい。

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二階は吉田の居間や書斎として使われていた座敷が再現されている。

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掘り炬燵と造りつけの机がある書斎。

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船の形をした浴槽のある浴室。

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斜面に造られた階段を登ると新館に続いている。写真の部屋は1階の食堂で、壁はビニールクッションのようなものを貼っている。明治から昭和初期の洋館では、食器の音が響くのを防ぐため食堂は壁を板張りで仕上げるのが定石だが、それに代わるものと思われる。

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新館は数寄屋風を現代的にアレンジした作風で知られる建築家・吉田五十八の設計で、昭和30年代に増築された建物を再現したもの。写真は新館の2階、接客用に使われた「金の間」。

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晩年の吉田の書斎兼寝室として使われていた部屋を再現した「銀の間」
吉田は「銀の間」で89年の生涯を閉じた。

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新館2階からの眺望。邸内でも最も高い位置にあるため見晴らしがよい。最晩年の吉田は新館の窓辺で富士山を眺めることが多かったという。

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吉田が実際に過ごしていた建物として邸内で唯一現存するのが主屋脇のサンルーム。主屋との繋ぎ目には焼け焦げの跡が残されている。サンルームも吉田のお気に入りの場所であったというが、未整備なのか内部に入ることはできない。

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庭園の一角にある「七賢堂」。元々は伊藤博文が大磯の自邸内に岩倉具視・大久保利通・三條実美・木戸孝允を祀る「四賢堂」として明治36年(1903)に建てられたものである。伊藤の死後は伊藤自身も加えられ「五賢堂」となり、昭和35年(1960)に吉田邸内に移築されたものである。

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吉田邸内に移築後は、吉田によって新たに西園寺公望が合祀された。そして吉田の死後は佐藤榮作によって吉田自身も合祀され、現在の「七賢堂」となっている。

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神奈川県内に残る吉田茂(とその縁者)ゆかりの場所として、大磯の旧吉田邸のほか、湯河原町にある昭和11年の二・二六事件の襲撃現場となった伊藤屋旅館別館跡がある。ここでは吉田茂の義父に当たる牧野伸顕伯爵と吉田茂の娘(麻生太郎氏の実母)が事件に遭遇、九死に一生を得た。現在は事件後に再建された建物が一般公開されており、近現代史に興味のある方は両者を併せて見学されるのもよいと思う。(参考 伊藤屋旅館別館「光風荘」弊ブログ過去記事

第1080回・旧住友家俣野別邸

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国指定重要文化財であった横浜市戸塚区東俣野町の旧住友家俣野別邸は、平成21年(2009)3月に不審火によって全焼してしまったが、焼け残った部分や難を免れた建具・照明器具等を再利用して平成28年(2016)に再建された。国指定文化財としての価値は失われたが、広大な敷地と共に昭和初期の財閥当主の邸宅の様子を伝えており、横浜市の認定歴史的建造物となっている。

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旧住友家俣野別邸は横浜市と藤沢市の境、国道1号線沿いにあり、住友財閥当主であった十六代住友吉左衛門友成(1909~1993)男爵の東京別邸として、昭和14年(1939)に建てられた。住友別邸時代の広大な敷地は現在も概ね残されており、横浜市によって「俣野別邸庭園」として維持、公開されている。写真は鎌倉石を用いた旧住友邸正門。

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正門をくぐってしばらく進むと、「俣野別邸」(横浜市による現在の名称)が現れる。再建された旧住友家俣野別邸で、外観及び内装の主要部は残されたオリジナルの部材も用いてほぼ忠実に再現されている。奥が主屋で左手前が事務棟。内部は貸室や喫茶スペースが設けられている。火災から8年を経て平成29年4月から公開されている。

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旧住友邸の建物として唯一焼失を免れた、事務棟脇にある附属棟。使用人の休憩室や物置として使われていたものと思われる。戸袋の斜め格子や下見板張りの外壁など簡素ながらも主屋と対応した意匠をもつ洋館である。写真奥の給水塔らしき櫓も旧住友邸時代からのものと思われる。

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玄関ポーチまで葺き下ろした大屋根が特徴的な主屋。玄関ポーチの石張りの柱や床の石畳、鉄筋コンクリート造の基礎や煙突などは焼け残ったものを再利用したものと思われる。なお、同時期の住友系列の建築物で、愛媛県新居浜市にある住友倶楽部(昭和11年)も同様の大屋根が見られる。

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設計者である佐藤秀三(1897~1978)は、住友総本店営繕課勤務を経て、昭和4年(1929)に設計施工を一貫で手掛ける佐藤秀三建築工務所(現・㈱佐藤秀)を創業、昭和初期から後期にかけて住宅建築を中心に多くの建物を手掛けた。弊ブログで以前紹介した長野県山之内町の旧澁澤信雄邸(昭和13年)も佐藤秀三の作品である。

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庭園側からの全景。二階建の部分が主屋で右側の平屋建が子供室棟、その背面には先述の事務棟があり、3棟をYの字型に配する構成を取る。住友友成男爵は昭和12年(1937)、栃木県那須塩原市に那須別邸を佐藤秀三の設計施工で建てており、俣野別邸は那須別邸に続けての注文であったことになる。

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半円形に張り出した展望室などに1930年代のモダニズムデザインが見られる。庭園側の開口部に設けられた青と白の日除けテントもこの時期の邸宅建築に時折見られるものであり、現存するものでは名古屋の豊田喜一郎邸(昭和8年)がある。

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住友友成男爵の2人の令嬢のために設けられた子供室棟。3室から構成される居間に、寝室、サンルーム、専用の浴室や便所も備えられていた。そのうち寝室部分だけは壁体を煉瓦積みとし、窓には頑丈な鉄扉やガラスブロックを用いるなど堅固な造りとなっている。火災時にはその構造により、子供室棟は壁体や浴室部分などが焼け残った。

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主屋の食堂及び子供室棟から続くタイル張りの屋外テラスは、火災前のオリジナルがそのまま残されている。現在は室内と共に喫茶スペースとして利用できるようになっている。

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仰々しさのない控えめな印象の玄関。玄関脇のレリーフと門燈は火災時には修復のため取り外されており、難を免れた。以前取り上げた旧岩崎久彌邸旧三井八郎右衛門邸など他の財閥当主の邸宅と比べると、接客や社交よりも家族の居住本位で造られた邸宅であることが分かる。

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この邸宅が竣工した昭和14年(1939)は支那事変から大東亜戦争の間に当たり、戦時体制の下で建築資材にも様々な統制が及んでいた。比較的簡素な造りである邸宅の構造や意匠にも、時局の影響は現れていたものと思われる。

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玄関内部。象嵌細工の施された扉と照明器具がオリジナル部材。扉や窓などの建具と照明器具は火災当時は取り外されていたため、改装等で既に失われていたものを除き昭和14年竣工当時のオリジナルを現在も見ることができる。

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玄関脇に設けられた控室(応接室)への入口。玄関及び控室の床に敷き詰められているのは栗の木のブロックで、那須別邸でも同様の仕上げが見られる。床や色ガラスの入った窓はいずれも再建による複製である。

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控室(現在は受付)内部。天井は栗の化粧梁を配した船底天井となっている。

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階段室。資料に基づき忠実に再現されているものの、手摺りや床、階段の踏み板は当然ながらいずれも真新しく、建物自体は複製品であることを感じさせられてしまう。

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一階の日光室(サンルーム)。意匠や間取りは再現されているが、用いられている石材まで同じものが使われているかどうかは不明。なお、このサンルームから屋外に続く自然石とタイルを組み合わせたテラスと、半円形に張り出す石積みの擁壁は創建時のものが残されている。

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接客と家族の団欒の場であったと思われる暖炉を備えた居間。暖炉脇の赤い円柱はカシュー(漆を模した人工塗料)塗り仕上げで、日本座敷の床柱を意識したものと思われ、先述の旧澁澤信雄邸でも似たような構成の暖炉を見ることができる。暖炉内の鉄製火置きは焼け残ったものを磨き直して再利用している。

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居間と続き間になっている食堂。現在は居間、屋外テラスと共に喫茶スペースとなっている。
花鳥をあしらった彩色彫刻を施した天井板と籐細工の照明が焼失を免れた。

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二階の展望室は条件が良ければ富士山が望める。曲面ガラスを用いたスチールサッシと、戦前からのものであれば極めて珍しい蛍光灯の照明がオリジナル部材。

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展望室に続く住友友成男爵の書斎には、イングルヌック風の小空間が設けられていた。造りつけソファの向かいにある小窓は展望室と同じ方向を向いており、ここからも富士山が望めるものと思われる。なお、住友友成氏は敗戦による財閥解体・華族制度廃止後は一切の公職から退き、「泉幸吉」の名で歌人として過ごした。(泉は江戸時代の住友家の屋号に因む)

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書斎の隣には夫人居室があり、その横に男爵夫妻の寝室と専用の浴室がある。桐板の船底天井や黒色のカシューで仕上げられた柱と上がり框など、焼失前の造りが再現されている。

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再現された夫妻専用浴室。窓ガラスや扉、洗面台上部の青い蛍光灯はオリジナル。

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子供室棟の内部。居間は畳敷きの座敷と寄木張りの洋室2室から構成されていた。現在は貸室として使えるように作られているが、意匠や仕上げは旧態を再現している。

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居間に続く寝室部分。先述のとおり煉瓦造であったことから構造体は焼け残ったが内装は焼失したため、照明や窓を除き新材による再現となっている。なお余談ながら、昭和21年(1946)にはこの家に住んでいた長女が誘拐(その後無事保護)される事件が発生(住友家令嬢誘拐事件)、財閥解体に揺れる敗戦後の住友家に更なる衝撃を与えた。
 
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内装も含めて焼失を免れたのが写真の子供室棟浴室。暖房のラジエーターなども残されている。このほか、事務棟の書庫部分が焼失を免れている。

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幸いにしてその殆どが焼失を免れた旧住友家俣野別邸の照明器具。硝子など部分的に補修、復元されたものはあるが、昭和14年当時のモダンデザインを複製ではなく本物で見ることができる。写真は玄関、控室、居間、階段室、日光室の照明器具。

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(上から)子供室寝室、居間、食堂、展望室の照明。展望室や男爵夫妻の浴室には蛍光灯が用いられているが、展望室にはマツダランプ(現在の東芝)の蛍光灯が用いられている。マツダランプの蛍光灯は昭和16年(1941)から販売されているが、戦前からのものであれば実用されていた最初期の蛍光灯であり、極めて珍しいものと言える。

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かつての財閥家の邸宅が敷地も含め往時のまま残されていただけに、不審火による焼失は憤懣やるかたないが可能な限りもとの部材も用いて再建されたことはせめてもの救いであり、今後は市民の憩いの場として有効に活用されることを期待したい。

なお、住友男爵家の旧邸宅は京都の本邸(住友有芳園)及び先述の那須別邸等が現存するが、いずれも非公開である。また、かつて神戸郊外にあった住吉本邸の一部として使われていた旧田辺貞吉邸が京都市左京区に移築されており、武田薬品の研修施設として再利用されている。
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