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第1248回・上田市旧宣教師館

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長野県上田市下之郷にある旧宣教師館は、同市大手にある新参町教会の婦人宣教師のための住宅として、明治37年(1904)に建てられた木造2階建の洋館。平成5年(1993)に上田市の所有となり、現在地に移築、一般公開されている。上田市の指定文化財。

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現地の案内解説版にあった古写真。元々は上田城跡に近い丸堀(現・上田市大手)に建っていた。隣接する梅花幼稚園の建物は現存しており、現在も同園の施設として使用されている。

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現在は上田市の郊外に移築されている旧宣教師館。カナダ・メソジスト派のプロテスタント教会である新参町教会の婦人宣教師用住宅として建てられた。なお、新参町教会の建物は、昭和10年(1935)に建てられた礼拝堂が現在も使用されている。

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宣教師は新参町教会での布教とともに、宣教師館に隣接する梅花幼稚園を運営し、保母の養成も行っていた。宣教師館は宣教師の生活の場であると同時に、保母教育の場としても使用されていた。

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国際関係の悪化に伴い昭和15年(1940)に宣教師が帰国した後、宣教師館は医師の三吉敬蔵氏の所有となり、その後は住宅兼医院として長い間使われていた。

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改築のため取り壊される予定であったが、平成5年(1993)に上田市が取得、市の文化財に指定され、翌年に現在地へ移築された。

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外観は立方体に近い形状に日本瓦葺の寄棟屋根が載っており、外壁はペンキ塗り下見板張り仕上げ、南面には四角いベイウインドウが2つ並んでいる。

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アーリー・アメリカン様式もしくはアメリカン・コロニアル様式と称される、開拓期のアメリカにおける簡素な造りの木造住宅の様式を取り入れているが、瓦屋根や二階ベランダ脇の戸袋など日本的な造りも見られる。

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正面右側の角は、2階はベランダ、その下が玄関ポーチになっている。

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玄関及び階段ホール。
玄関脇にはこの洋館で一ヶ所しかないアーチ窓が設けられている。

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引き戸で仕切られた1階の部屋。奥が食堂と思われる。

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宣教師館らしく、どの部屋も簡素な実用重視の造りの洋室である。

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作り付けの飾り棚。
食器棚として使われていたのだろうか。

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玄関ホールから階段を見る。
階段の親柱や手すりも直線を基調にしたごく簡素なものとなっている。

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2階階段室。
菱形の飾り窓が目を引く。

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2階の洋室。

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玄関ポーチの真上に位置するベランダ兼サンルーム。
天井や壁面は玄関ポーチと同じ造りになっており、半屋外的な空間である。

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使用人用の和室が設けられている。
写真は大小2室あるうち、大きい方の部屋。

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キリスト教宣教師の住居として明治以降建てられた洋館は、東京の旧マッケレーブ邸や静岡市の旧エンバーソン住宅など全国各地に現存する。長野県内では同種の施設として松本市の旧司祭館があり、上田市旧宣教師館と同様に市によって移築保存され、一般公開されている。

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上田市街を見渡せる位置にある旧宣教師館。訪問したのは9月の末だったが、約2週間後には台風19号のため上田市も大きな被害を受けた。心よりお見舞い申し上げると共に、一時も早い復旧を祈りたい。
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第1246回・旧有島生馬邸(有島生馬記念館)

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長野市信州新町上条にある有島生馬記念館は、洋画家の有島生馬の旧宅であった洋館を鎌倉の七里ヶ浜から移築したもの。明治23年(1890)にイタリア人貿易商の住居として建てられたコロニアル様式の木造洋館で、同様式の洋館は長崎や神戸などでは多く残されているが、東京や横浜、及びその近郊にあったもので現存するものは珍しい。

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有島生馬(1882~1974)は横浜生まれの洋画家で、小説や随筆も著し、晩年には文化功労者に選ばれた人物である。前回記事でも紹介した作家・有島武郎は実兄、同じく作家である里見弴は実弟である。

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大正9年(1920)、肺を病んだ有島生馬は稲村ケ崎にあった新渡戸稲造の別荘で静養していたが、その近くに建っていたのがこの洋館であった。当時既に主はなく、留守番の老人が住み込みで管理するも廃屋同様であったという。

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この荒廃した洋館に有島生馬は魅せられ、大正10年(1921)に購入する。留守番の老人は使用人として雇い、荒廃した洋館は手を加え、自らの居住及び創作の場とした。周囲に松の木が生い茂ることから、「松の屋敷」と呼ばれていた。

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同じく鎌倉に邸宅を構えていた実弟の里見弴や、与謝野寛・晶子夫妻、遠藤周作等、有島生馬一家と親交のあった多くの文化人がこの洋館に出入りしていたが、有島生馬の没後は上智大学の所有となり、研修施設建設のため取り壊されることになった。

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有島生馬の一人娘である暁子(昭和天皇皇后の欧州歴訪に同行、通訳を務めた人物)の尽力により、建物は上智大学から信州新町に無償譲渡、移築されることになった。写真は移築するため解体直前の旧有島生馬邸(記念館の展示品)である。

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有島生馬と信州のつながりは戦時中に佐久へ疎開していたことが縁で、戦後は度々信州を訪れ、信州新町にも8回にわたって訪れていた。昭和57年(1982)に現在地に再建された旧宅は「有島生馬記念館」として公開され、現在に至っている。

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玄関を入るとすぐ右手に主室のある2階への階段が設けられている。全面的に赤く塗られた外壁が目を引くが、有島生馬が購入する前は、神戸の異人館にあるような、ベージュに茶色の縁取りが施された外観であったという。

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外観、室内共に至って簡素な造りで、暖炉や装飾的な階段などは見られないが、ベイウインドウや広く取られたベランダなど、明治期に長崎や神戸、横浜などの外国人居住地に多く建てられたコロニアル様式の洋館の特色を備えている。

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この洋館を特徴付けている八角形の小窓。
館内の随所に見られる。

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館内は有島生馬とその家族についての紹介や有島生馬の作品(絵画、書など)展示のほか、有島家で使われていた家具なども保存、展示されている。

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古風な飾り棚。

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古めかしい硝子製のシャンデリアも有島家時代からの品だろうか。

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一階と二階の玄関側は展示室として活用するため間取りも改装されているが、かつては七里ヶ浜に面していたベランダとそれに面した3つの洋室は移築前の面影を残している。

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広々としたベランダ。
八角形に張り出した両端と、中央の入口両脇の八角窓が空間に変化を与えている。

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かつては湘南の海を望むことができたベランダからは現在、有島生馬の命名によるダム湖「琅鶴湖」の眺めが広がっている。

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有島生馬は冬はサンルームとしても使えるこの空間を「サロン」と称して愛用し、ソファや書棚を置き、観葉植物を飾って使っていたという。ベランダで過ごす写真も残されており、実弟の里見弴と写っているものもある。

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ベランダの真下は吹き放ちの通路となっている。一階は二階に比べるとかなり天井が低く、玄関を置くほかは使用人部屋や厨房、物置などのサービス空間に充てられていたのではないかと思われる。

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横浜や鎌倉では明治期のコロニアル様式の洋館は関東大震災と戦災でほぼ失われており、他所に移築されたとは言え、現存するものは珍しい。

第1245回・旧有島武郎別荘(浄月庵)

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軽井沢にある「軽井沢高原文庫」に移築、公開されている「浄月庵」は、大正期の人気作家として知られる有島武郎(1878~1923)の別荘であった。外壁を杉皮張りとした素朴な造りの山荘であるが、愛人との心中という形で最期を迎えた建物としても知られる。

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「浄月庵」の向かいには道路を隔てて、以前紹介した野上彌生子の書斎や堀辰雄山荘があり、いずれも「軽井沢高原文庫」の施設として見学が可能である。

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2階に有島武郎についての展示室が設けられている。
以前は階下の一室を喫茶室としていたが、訪問時は営業していない様子であった。

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外観、内装共簡素で、外壁を杉皮貼りにするなど和風の要素が強い建物であるが、屋根窓のある急勾配の屋根や、張り出したベランダなど、明治末期以降の小規模住宅で多く採用されたコテージ風の山荘である。

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有島武郎の父であり、官僚・実業家であった有島武(1842~1916)の別荘として大正初期には建てられたと思われる。

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正確な創建時期や設計者などは不明であるが、階段下の作り付け箪笥など、建築家よりは地元の大工棟梁の手によるものと思われる工夫が見られる。

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有島武の死後は武郎が毎夏を過ごし、代表作の一部はこの別荘で執筆されたという。

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大正12年6月9日に愛人である波多野秋子と1階の一室で縊死心中、1ヶ月後に発見されたときには2人とも判別も付かない腐乱死体と化していた。2階の資料室にはその模様を伝える新聞記事が展示されている。

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元々この別荘は、旧軽井沢の三笠地区の一角にあり、今も残る旧三笠ホテルの近くにあった。心中事件の後は他所に移築され集会所として使われていたが、保存のため軽井沢高原文庫に二度目の移築が行われた。

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三笠地区の跡地には現在、有島武郎終焉の地であることを示す碑が立っている。

第1243回・旧レーモンド別荘 軽井沢夏の家(ペイネ美術館)

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軽井沢の塩沢湖にある複合レジャー施設「軽井沢タリアセン」には、建築家のアントニン・レーモンドが昭和8年(1933)に軽井沢に建てた別荘兼アトリエが移築、保存されている。昭和戦前期に建てられた木造モダニズムの傑作とされる建物のひとつである。

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軽井沢タリアセンでは軽井沢ゆかりの歴史的建造物も多く保存、公開されている。以前紹介した写真の旧朝吹家別荘(睡鳩荘)や、軽井沢高原文庫の建築群も、軽井沢タリアセン内の施設である。

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旧レーモンド別荘は現在、フランス人画家のレイモン・ペイネ(1908~1999)の美術館として活用されている。

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昭和期の日本におけるモダニズム建築家として知られるアントニン・レーモンド(1888~1976)は、大正8年(1919)に帝国ホテル建設のため、フランク・ロイド・ライトの事務所スタッフの一員として米国より来日した建築家である。

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その後戦時下の一時期を除き、戦前から戦後にかけて長年にわたり日本で設計活動を行っていた。来日から間もない大正期の作品としては東京の星薬科大学本館や東京女子大学などが現存する。また、築地にある聖路加国際病院の設計原案を手がけたことでも知られる。

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軽井沢の別荘はアトリエも兼ねており、夏の仕事場としても使われていたが、昭和12年(1937)の離日後間もなく売却、レーモンドの別荘として使われた期間は長くなかった。

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企業の保養施設などに使われていた別荘は昭和の末には解体寸前であったが、現在地に移築保存された。昭和61年(1986)にペイネ美術館となり、現在に至っている。

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軽井沢の別荘は、昭和3年にレーモンドの設計で中禅寺湖畔に建てられた旧イタリア大使館別荘や、同じ軽井沢で昭和10年に建てられた聖パウロカトリック教会と共にレーモンドによる木造モダニズムの初期の傑作とされる。

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なお、軽井沢の2つの建物はイタリア大使館別荘を手がけた日光の大工を呼び寄せて建てたという。

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施設の性格上、内部撮影禁止のため写真で紹介できないが、丸太と板材を用いた内部空間は日本の古民家に通じるシンプルなものとなっている。階段の代わりに設けられたスロープ(星薬科大学でも採用されている)や、暖炉脇の小さな書斎スペースなどが見所である。

第1238回・旧近衛文麿別荘(市村記念館)〔再訪〕

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明治より欧米人の避暑地として発展した軽井沢では、大正に入ると上流階級を中心に日本人の別荘も増加した。それらの別荘建築に多かったのが、住宅建築を専門とする「あめりか屋」の設計施工による和洋折衷の西洋館であった。旧近衛文麿別荘(市村記念館)は現存する軽井沢の「あめりか屋」別荘の中で唯一、文化財として公開されており、見学が可能である。

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市村記念館は中軽井沢駅に近い軽井沢町歴史民俗資料館の施設の一部として公開されている。この建物は弊ブログ第169回記事で紹介済みであるが、平成28年(2016)に軽井沢町の文化財に指定され、耐震補強及び補修工事が行われた。本記事は文化財指定後の再訪記事である。

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それまでの軽井沢の別荘建築の多くが民家を改装したものであったり、旧堀辰雄山荘のような素朴な造りのバンガローやコテージ風であったのに対し、「あめりか屋」の別荘は、華やかなアメリカンヴィクトリアン様式を取り入れた明るい色調の外観に、内部は階下を洋室、階上を日本座敷とする点が特徴であった。

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大正7年(1918)頃に軽井沢の別荘地開発を行っていた野澤組によって建てられた市村記念館は、大正期の「あめりか屋」別荘の特色をよく残しており、唯一見学が可能な建物である。なお、軽井沢の「あめりか屋」別荘で現存するものでは、田中角榮別荘として知られる旧徳川圀順別荘や隣接する旧徳川慶久別荘などがあるが、いずれも非公開である。

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大正15年(1926)から近衛文麿の別荘として使われていたが、昭和7年(1932)に親交のあった政治学者の市村今朝蔵が近衛文麿から購入し移築した。現在の姿は市村家の別荘として移築改装された昭和8年当時のもので、耐震補強に伴う補修工事では窓枠が当時の色である焦茶色に復元されている。

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前回訪問時は館内の撮影は禁止であったが、階下の一室のみ撮影可能になっていた。玄関を入って左手にある暖炉を備えた洋室で、居間兼食堂として使われていた部屋と思われる。

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暖炉は床に炉を切って囲炉裏風に造られている。この部屋の真上に位置する日本座敷にも暖炉があるが、長火鉢が据え付けられており、いずれも珍しい形式の暖炉である。

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椅子と卓子、戸棚や蓄音機など、戦前のものと思われる家具調度類もよく残されている。

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隣接する玄関ホールとの間の仕切りは、同じ「あめりか屋」の設計施工による名古屋の旧川上貞奴邸の大広間にもよく似たものがある。貞奴邸の洋室部分は移築時には既に現存していなかったため、復元に際し市村記念館の室内意匠が参考にされたものと思われる。

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暖炉に用いられている型押しタイルは昭和初期以降の建物でよく見られるタイプのものである。大正7年の創建当時は通常の形式の暖炉であったと思われるが、昭和8年の移築に際し現在の形に改造されたものと思われる。「あめりか屋」別荘の多くには煉瓦積の煙突が設けられているが、市村記念館には煙突はない。

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戦前の軽井沢の別荘建築で内部まで見学できるものは市村記念館の他、旧堀辰雄山荘旧朝吹山荘(睡鳩荘)旧原田家別荘(三五荘)などがある。

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現存する軽井沢の「あめりか屋」別荘の中でも立地、造り共に最上級と思われるのは先述の旧徳川圀順別荘であるが、現在は「田中角栄記念館軽井沢分室」となっているものの現状は完全非公開のようである。施設の性格からも非常に公開が望まれるものである。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
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