FC2ブログ

第1192回・興正寺竹翠亭〔海運王・日下部久太郎の建築遺産②〕

s_P71705052.jpg

名古屋市にある八事山興正寺の境内にある竹翠亭は、岐阜市米屋町にあった旧日下部邸の一部である。日下部久太郎の故郷である岐阜の本邸として大正6年(1917)頃に建てられた旧日下部邸は、岐阜市に現存する一級品の近代和風建築であったが、現地での存続が困難になったことから分割して移築されることになった。竹翠亭は一階の主要部分等を移築したものである。

201810131620_convert_20181014162114.jpg

岐阜市米屋町に在りし日の旧日下部邸(岐阜邸)。かつての本陣跡に建てられ、敷地内には二階建ての主屋と渡り廊下で結ばれた土蔵2棟があり、正門の両脇には高塀を建て、両脇を防火用の煉瓦塀で固めた重厚な構えの邸宅であった。(平成16年(2004)2月の撮影)

s_P7170506.jpg

現在の姿。分割して2つの寺院に移築されることになった旧日下部邸は、興正寺には平成20年に正門と塀の一部、主屋一階の主要部が移築され、「普門園」の茶席として再生された。主屋の二階部分は和歌山の高野山蓮華院に移築される予定で、現在は解体材の状態で保存中であるという。土蔵等その他の部分は破却されたものと思われる。

s_P7170505.jpg

全景。二階部分は他所で再建されるため、屋根は移築に際して新しく架けられたものである。

s_P7170507.jpg

正面向かって右側は、現在は手洗いや水回りなどのバックヤード空間が新設されているが、移築前は坪庭風の小さな庭園に面しており、主屋から延びた吹き晒し、石畳の渡り廊下が敷地奥の土蔵に続いていた。

s_P7170039.jpg

裏側には縁側が設けられ、全面に凝った造りの硝子戸を入れた近代の和風建築ならではの姿を見せている。移築前は裏庭に面しており、二階部分も同様に全面に硝子戸を入れていたものと思われる。

s_P7170510.jpg

移築された塀の上には、日下部家の家紋が入った瓦が残されている。

s_P7170122.jpg

内玄関。移築前はこの左側に使用人部屋や台所があり、その奥にはもう1棟の土蔵があった。台所の土間部分は当時、蕎麦店「吉照庵」の店舗として利用されており、東海地方の和風建築に多い弁柄を混ぜた赤い土壁や天井の太い梁など、隅々まで凝った造りであったことを記憶しているが、これらの部分は破却されてしまった。

s_P7170117.jpg

武家屋敷のような構えの正面玄関。竹翠亭は茶事等に使われているが、普門園の拝観料(500円)を払えば抹茶と茶菓子付きで他の園内の建物と共に見学できる。

s_P7170048.jpg

正面玄関とその周りは旧日下部邸の姿をそのまま残している。普門園は竹翠亭のほか、旧日下部邸とほぼ同時期の大正7年に建てられた興正寺の大書院や住職の居室棟なども建っており、見どころが多い。当ブログの過去記事もご参照頂きたい。

s_P7170036.jpg

かつては使用人部屋や台所に続いていたと思われる位置にある廊下も、欄間などに意匠を凝らしている。

s_P7170116.jpg

日下部久太郎は大正6年に事業の本拠を神戸に移したが、会社の事業所は神戸、函館、東京、岐阜の4ヶ所にあり、それぞれの地に邸宅を構えていた。この中で東京の邸宅だけは既存の住宅を買い取ったものであったとされるが、現存しない。

s_P7170034.jpg

4つの邸宅は一族もしくは会社の役員に管理させ、自らは2~3ヶ月周期で各地を廻る生活をしていた日下部久太郎は、事業についての連絡や指示を出すためと思われるが「電話魔」と称されるほど毎日のように各地に電話をかけ、毎月の電話料金は夥しい額にのぼったという。

s_P7170108.jpg

玄関脇に設けられた応接室は、長押と床の框には割った煤竹を張り付けた煎茶趣味の座敷である。移築前は床脇の障子を開けると外に出られるようになっており、先述の土蔵に続く渡り廊下につながっていた。

s_P71701112.jpg

渡り廊下の途中には数寄屋風の手洗と雪隠が設けられ、庭園と一体になった風情ある空間が残されていたが失われてしまったのは誠に惜しまれる。現存する神戸邸でも渡り廊下は趣向を凝らしたものになっており、日下部久太郎のこだわりが窺われる。

s_P7170110.jpg

応接室の隣には仏間が設けられ、その先には階下では最も格の高い部屋と思われる主座敷が設けられている。

s_P7170052.jpg

仏間の天井は材も造作も見事な格天井である。
周辺部分は除却されてしまったが、中心の主要部分は間取りもそのままに移築、復元されている。

s_P7170051.jpg

滞在するのは最も短く年間で1週間程度であったというが、岐阜邸を本宅として所得税を納めていたようである。大戦景気の最盛期における日下部久太郎の納税額は、岐阜市の総所得税額の2倍に相当する額であったという。

s_P7170040.jpg

岐阜邸には朝香宮や閑院宮などの皇族も訪問されている。格調の高い造りの座敷が連なる岐阜邸は、日下部家の生活の場というよりも、岐阜を訪れる貴賓を迎えるための迎賓館であったと思われる。

s_P7170044.jpg

一代で百万長者になった日下部久太郎は郷土が生み出した立志伝中の人として岐阜では評判になり、岐阜市に代々続く旧家で二代にわたり当主が貴族院議員も務めた渡辺甚吉家も凌ぐ勢いであったとされる。

s_P7170032.jpg

床脇には襖が立てられているが、横には窓が設けられており、裏側には花燈窓が開かれているので、押入れではなく水屋が設けられているのではないだろうか。なお、移築前は右側の壁が押入れになっていた。

s_P717003322.jpg

茶席としても使えるように造られたと思われるこの座敷で抹茶を頂いた。

s_P7170045.jpg

縁側の硝子戸の先には現在の名前の由来となったと思われる竹林が広がっている。この硝子戸も当時のもので、角を丸く取るなど凝ったものとなっている。注目すべきは左側の欄間で、海運王の本宅として実にふさわしい意匠を発見した。

s_P7170026.jpg

日下部家の家紋を碇が囲んでいる。海運で家を再興した氏の誇りと海運にかける思いが伝わってくるようだ。

s_P7170038.jpg

この邸宅が米屋町でそのまま残せず、また主要部のみを上下に分割する形での移築であるため、失われた部分も多いのは実に残念なことであるが、日下部家の子孫は現地での保存も模索されたものの邸宅を末永く確実に後世に残したいという思いから、最終的にはこのような形での保存を決断されたようである。

s_P71700022.jpg

近代以降に建てられた大規模な和風邸宅の一部が移築され、寺院に転用されることは戦前戦後を通じていくつか事例が存在し、古い例では昭和初年に東京から比叡山延暦寺に移築された村井吉兵衛邸の大書院、戦後の例では東京から名古屋の龍興寺に移築された藤山雷太邸の日本館が挙げられる。旧日下部邸の移築もこれらの同種のものと言える。

s_P717051122.jpg

和歌山の高野山蓮華院に移築される予定の二階座敷はまだ再建はなされていないようであるが、再建された暁には可能であればぜひ探訪したいものである。

s_P7170119.jpg

重厚な岐阜邸は岐阜の地からは姿を消したが、新たな用途を得て他所で蘇った。また、邸内の一角に建てられた洋館はそのまま建っており、海運王の事績を伝える建物がその生まれ故郷から全て姿を消さなかったのはせめてもの幸いである。次回は岐阜邸の洋館部分を紹介したい。

s_P717012522.jpg

ところで、本記事で言及した渡辺甚吉家については、14代当主が東京の白金に建てた邸宅を以前弊ブログで紹介したが、残念ながら白金の地からは姿を消すようだ。近日中に解体保管工事が行われ、当面は解体材の状態で保存されるようである。早く新たな地で甦る日が来ることを祈る。

海運王・日下部久太郎の建築遺産③ につづく
スポンサーサイト



第1106回・興正寺普門園

s_P71700822.jpg

愛知県名古屋市昭和区八事本町にある八事山興正寺(こうしょうじ)は「八事観音」の通称をもつ真言宗系の寺院。境内にある「普門園」では、大正7年(1918)に建てられた大書院などの質の高い近代和風建築を見学するこができる。

s_P7170128.jpg

興正寺は貞享3年(1686)、高野山において弘法大師の五鈷杵(ごこしょ)を授かった天瑞圓照によって建立された。尾張藩二代藩主・徳川光友の帰依を受け尾張徳川家の祈願寺として繁栄、「尾張高野」とも称されている。写真の五重塔は文化5年(1808)の築で、東海地区に現存する唯一の木造五重塔として国の重要文化財に指定されている。

s_P7170102.jpg

境内の一角にある「普門園」は、結婚式場等に使われている大書院、写真右側の赤瓦葺の建物「耕雲亭」、茶席として使われている「竹翠亭」など、大正から昭和期に建てられた和風建築で構成されている。

s_P7170105.jpg

大書院は本堂の裏にあり、大正7年(1918)に建てられた後昭和期に増築され、現在の規模になった。

s_P7170080.jpg

大書院の縁側。

s_P7170073.jpg

普門園内の建物は、茶席「竹翠亭」を拝観(有料・抹茶及び和菓子付)すれば、大書院等も併せて見学できる。(使用中の場合を除き)

s_P7170072.jpg

大書院は襖を外すと120畳の広大な広間として利用が可能であるという。

s_P7170074.jpg

仏前結婚式、各種会合、研修等の会場として利用されている。

s_P7170070.jpg

s_P7170076.jpg

尾張徳川家にゆかりの深い寺院であることから、襖や欄間など随所に葵紋があしらわれている。

s_P71700792.jpg

大正期からのものと思われる雪洞風の照明器具。

s_P7170086.jpg

花頭窓を開いた付書院。

s_P7170087.jpg

ここにも葵紋。

s_P71700832.jpg

大書院の床の間。

s_P71700842.jpg

床の間から付書院を望む。

s_P7170095.jpg

大書院に隣接する「耕雲亭」の内部。

s_P7170099.jpg

大書院と同じく大正7年(1918)に建てられた。

s_P71700962.jpg

住職の客間兼執務室として使われていたという。

s_P71700692.jpg

夏場は葭簀戸が嵌め込まれ、よい雰囲気である。

s_P7170103.jpg

なお、本記事で言及した「竹翠亭」とは、大正期に海運王と呼ばれた岐阜出身の実業家・日下部久太郎が岐阜市米屋町に建てた本邸の一部を平成20年(2007)に興正寺へ移築したものである。この建物については別途稿を改めて紹介したい。

第899回・旧大喜多寅之助邸(愛知県議員会館)

IMG_371011_convert_20150712230352.jpg

名古屋市東区東外堀町にある愛知県議員会館は、元々は名古屋市長も務めた弁護士・大喜多寅之助の自邸兼事務所であった。大正9年(1920)に建てられた邸宅は、木造平屋建の洋館と木造二階建の日本家屋、土蔵で構成されており名古屋市の中心街に残る数少ない戦前の邸宅建築である。

P504246822_convert_20150712230649.jpg

正面全景。
東外堀町は旧名古屋控訴院(現名古屋高等裁判所)庁舎に近いため、裁判所が移転した現在も法律事務所が多く存在する。

P5042471_convert_20150712225555.jpg

それらの多くが長屋建ての中で、弁護士事務所を兼ねた洋館と重厚な土蔵を備えた旧大喜多邸はひと際広壮な構えを見せている。

IMG_7293_convert_20150712225403.jpg

正面に洋館と土蔵を配し、奥に二階建ての日本家屋と平屋建ての離れと附属棟が連なる構成。

P5042473_convert_20150712225739.jpg

二階建て部分には名古屋市内の古い邸宅の例に漏れず、茶席があるという。

IMG_3707_convert_20150712230121.jpg

正門越しにまず目につくのが、弁護士事務所と応接間を兼ねた洋館。概ね創建当初からの佇まいを残しているが、近年の改修で建具が木製サッシからアルミサッシに代えられてしまったようだ。

IMG_37112_convert_20150712230910.jpg

洋館の玄関。こちらは古い扉がそのまま(ドアノブは交換されているが)のようだ。

IMG_3708_convert_20150712225852.jpg

洋館の奥にひっそりと配された日本家屋の玄関。
第二次大戦後大喜多家の手を離れ、現在は愛知県議員会館として県議会議員の会合や宿泊等に使われている。

IMG_37052_convert_20150712231256.jpg

大喜多寅之助(1868~1961)は岐阜県の出身で、名古屋弁護士会会長、名古屋市会議長、名古屋市長(在職大正10~11年)、中京法律学校(現中京法律専門学校)校長など名古屋の法曹界・政界・教育界で活躍した人物である。

P5042470_convert_20150712225650.jpg

現役の施設として今も使われているのは喜ばしい限りであるが、重要文化財に指定された愛知県庁舎に匹敵する文化財級の建造物として、今後もひきつづき維持保全されることを望むばかりである。

第898回・松重閘門

P50424242_convert_20150524174209.jpg

愛知県名古屋市中川区にある松重閘門は、昭和7年(1932)に建設、昭和43年(1968)まで供用されていた閘門(水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置)である。その特徴ある姿から役目を終えた後も、住民の要望で保存されることとなった。名古屋市指定有形文化財、土木学会選奨土木遺産。

P5042426_convert_20150524174902.jpg

名古屋駅に比較的近い位置にある松重閘門は、東海道新幹線の車窓からもよく見える。

P5042442_convert_20150524175301.jpg

現在は、4本ある尖塔の間を名古屋高速の高架が横切っている。

P50424482_convert_20150524174838.jpg

松重閘門は堀川と中川運河とを結び、名古屋の産業発展を水運面から支えていた。

P50424372_convert_20150524175116.jpg

中川運河の開削工事が始まった大正15年(1926)に着工、6年後に完成、運用を開始した。
当時は「東洋一の大運河」「東洋のパナマ運河」とも称されたという。(写真は現地に置かれた解説版より)

P50424462_convert_20150524174657.jpg

第二次大戦後、物流の中心が水運から自動車輸送に移行すると閘門の必要性も減少し、昭和43年(1968)に閉鎖、昭和51年(1976)には名古屋市は松重閘門を廃止した。

P5042427_convert_20150524175719.jpg

4本の尖塔を持つ姿は地元住民に親しまれ、当初撤去が予定されていた松重閘門は、住民の要望で保存されることになった。

P5042428_convert_20150524175008.jpg

松重閘門の設計は名古屋市建築課の藤井信武による。

P5042435_convert_20150524174252.jpg

構造は鉄筋コンクリート造で尖塔の壁面は人造石塗り洗出し仕上げ、基壇の一部に花崗岩が張られている。

P5042425_convert_20150524174407.jpg

西欧の城郭を思わせる尖塔。

P50424412_convert_20150524175509.jpg

松重閘門は、名古屋に残る代表的な近代土木遺産と言える。

第895回・鶴舞公園普選記念壇

P5042479_convert_20150506221607.jpg

名古屋市昭和区にある鶴舞公園にある普選記念壇は、大正14年(1925)の普通選挙法施行を記念して、昭和3年(1928)に名古屋新聞社(現・中日新聞社)が寄贈した野外演壇。名古屋市指定有形文化財。

P5042476_convert_20150506221837.jpg

鶴舞公園は明治42年(1909)に開設された名古屋で最初の近代的な都市公園である。当ブログでも以前紹介している噴水塔及び奏楽堂(明治42年、但し奏楽堂は平成9年の復元)、名古屋市公会堂(昭和5年)は同公園内にある。

P5042484_convert_20150506221752.jpg

明治23年(1890)の帝国議会開設以来、我が国の選挙制度は納税額による制限選挙であったが、大正時代に入ると大正デモクラシーの風潮を受け、普選運動が盛り上がりをみせた。その成果が大正14年施行の普通選挙法である。

P5042482_convert_20150506222219.jpg

なお、このときの普通選挙法で選挙権が与えられたのは、日本国籍を持ち(当時日本領土であった台湾・朝鮮を含む)かつ内地に居住(台湾、朝鮮、樺太等の外地、及び国外居住は含まない)する満25歳以上の全ての成年男子であった。

P50424802_convert_20150506222406.jpg

正面中央には、普通選挙の基本精神とする「五箇条の御誓文」(慶応4年(1868)に明治天皇が示した明治政府の基本方針)が掲げられている。

P5042481_convert_20150506221942.jpg

正面向かって右側には名古屋新聞社による銘文が刻まれている。但しオリジナルは戦災で失われており、現在のものは昭和43年(1968)に明治改元百周年を記念して名古屋市によって復元されたものである旨の添え書きがある。

P5042478_convert_20150506222439.jpg

正面向かって左側には「五箇条の御誓文」の英訳文が刻まれている。なお鶴舞公園には戦前、普通選挙法成立時の首相で、愛知県出身でもある加藤高明の銅像があったが戦時中に供出され、今は台座のみが残されている。

P5042487_convert_20150506222050.jpg

壇上より客席を望む。現在は野外劇場として、各種の催しの会場に使用されている。

P5042488_convert_20150506222131.jpg

背面からみた普選記念壇。
設計は、日比谷公会堂群馬栃木滋賀の各県庁舎などの設計で知られる佐藤功一(1878~1941)による。

P5042477_convert_20150506221705.jpg

昭和61年(1986)に噴水塔とともに名古屋市の指定有形文化財に指定されている。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード