第1132回・旧小田小学校本館

s_PB040095.jpg

伊賀市小田町にある明治14年(1881)に建てられた旧小田小学校本館は、三重県内に現存する最古の小学校校舎である。正面の玄関ポーチ及びバルコニー周りを中心に擬洋風建築ならではの造形が見られる。三重県指定文化財。

s_PB040114.jpg

旧小田小学校は上野城に近い高台の上にある。小田村(現小田町)は元々低地にあったが江戸時代より度々水害に見舞われており、大きな被害を受けた明治3年の水害を機に現在地に村ごと移転した歴史を持つ。

s_PB040098.jpg

旧小田小学校本館が建てられたのは村の移転から間もない時期であると同時に、明治の文明開化の風潮の最盛期でもあった。そのような背景のもとで建てられた校舎は、随所に新しい時代への意気込みが感じられる。

s_PB040100.jpg

窓は洋風のアーチ窓となっており、外壁は伝統的な漆喰仕上げながらも角には西洋建築の隅石を模した装飾を施している。

s_PB0401122.jpg

三重県で最初期の洋風建築である津の三重県庁舎(明治12年竣工)とは竣工時期が僅か2年しか違わない。正面のベランダを備えた玄関ポーチは新築間もない県庁舎を模したのかも知れない。

s_PB0401112.jpg

学校そのものが開かれたのは明治8年(1875)であるが、新校舎建設に伴い校名を「教え導く」という意味を持つ「啓迪(けいてき)学校」と改め、数年間この名称が使用されていた。現在も校名入りの屋根瓦が正面玄関ポーチの上に残されている。

s_PB040097.jpg

正面玄関。
糸巻きの形を象ったとも言われる奇妙な形状の開口部と、その上に飾られた龍の漆喰彫刻が目を引く。

s_PB040101.jpg

側面から望む。
隅石を模した角の装飾は正面側にだけあることが分かる。

s_PB0401152.jpg

小田小学校は生徒数の減少から昭和40年(1965)に廃校となったが、本館はそれまでの84年間使用されていた。現在、跡地は保育園となっている。

s_PB040096.jpg

なお、先述の三重県庁舎もほぼ同時期の昭和39年(1964)に新庁舎竣工によりその役目を終え、明治村に移築されたが旧小田小学校は現在ももとの場所で保存されている。昭和50年(1975)には県の文化財に指定された。

s_PB0401102.jpg

玄関上部の龍の漆喰彫刻と「學」の文字。

s_PB040108.jpg

玄関土間の意匠。

s_PB040103.jpg

二階バルコニーへ続く出入り口の硝子戸にはギヤマン(色硝子)が嵌め込まれている。但し創建当初から残る建具ではなく、修復に際しての復元。

s_PB040105.jpg

神戸まで出向いて購入したというオリジナルの色硝子は一部だけ現存しており、階段わきの窓に展示されている。これをもとに上記の硝子戸が復元された。

s_PB040104.jpg

階段わきには明治の色硝子のほか、かつてこの学校で使用されていた明治時代のヤマハ製ピアノが展示されている。左上に写るのは始業終業を知らせていた鐘。

s_PB040106.jpg

小学校として使用されていた時期の末期(昭和中期)には、二階のバルコニーは部屋の一部に取り込まれていた。

s_PB040102.jpg

平成2年(1990)から4年がかりで行われた保存修理工事により、長らく失われていた屋根上の太鼓楼が資料や残された痕跡に基づき復元された。現在は建物と共に、教科書や学習用具等近代の初等教育資料を展示、公開している。
スポンサーサイト

第1131回・旧上野警察署

s_PB040076.jpg

旧上野警察署は、三重県伊賀市上野丸ノ内1丁目にある明治中期の洋風建築。明治21年(1888)に上野城(伊賀上野城)東大手門の近くに建てられ、昭和初年まで警察庁舎として使用されていた。その後現在地に移築され、近年まで個人住宅であったが現在は伊賀市の所有となっている。国登録有形文化財。

s_PB040066.jpg

伊賀鉄道西大手駅の近くに建っており、上野城にも近い位置にある。

s_PB040067.jpg

当時の署長の呼びかけによって官民双方から建設資金を集めて建設された。

s_PB0400682.jpg

釘を一本も使わずに建てられたという庁舎はその後の三重県内における警察庁舎の範となったという。

s_PB040079.jpg

約40年にわたって警察庁舎として使用され、役目を終えた後は民間に払い下げられることとなった。地元で伊賀合同新聞社を営む北泉氏の所有となり、昭和13年(1938)に現在地に移築された。 

s_PB040069.jpg

当初は伊賀合同新聞社の社屋として使用されていたが、その後は北泉家の住居として近年まで使用されていた。

s_PB040082.jpg

北泉家の現当主によって伊賀市に寄贈され、現在は「伊賀まちかど博物館 明治な館北泉邸」の名で催事等の会場に利用、公開されることもあるという。

s_PB040075.jpg

小規模であるが随所に密度の濃い細部装飾が施され、見応えのある洋館である。

s_PB040072.jpg

特に玄関まわりに施された装飾は見どころで、伝統的な社寺建築の装飾である蟇股(かえるまた)を洋風建築の装飾に取り込んでいる。

s_PB040081.jpg

一度移築されているが、創建当初の姿をよく残している。なお、警察署時代は屋上に火の見櫓が載っていたという。

s_PB040084.jpg

同時期の現存する警察庁舎では埼玉県の旧本庄警察署(明治16年、現・本庄市立歴史民俗資料館)などが現存するが、全国的に見てもかなり古いだけではなく、建物の質も高いと言える。

s_PB040088.jpg

戦災を免れ、城下町の風情を今もよく残す伊賀上野では、旧上野警察署の直ぐ近所にも明治の洋風建築を見ることができる。上野城の麓にある県立上野高等学校(旧県立第三中学校)の明治校舎である。

s_PB0400912.jpg

旧三重県庁舎旧三重県尋常師範学校(現在は共に明治村に移築されている)を手掛けた清水義八の設計による擬洋風建築で明治33年(1900)に建てられた。三重県の有形文化財に指定されている。

s_PB040086.jpg

現在も現役の校舎であり敷地内には入れないが、事前予約すれば内部の資料館を見学できるという。再訪の機会があれば改めて紹介させて頂きたいと思う。

第1130回・一乃湯

s_PB040124.jpg

一乃湯は、三重県伊賀市上野西日南町にある昭和25年(1950)創業の銭湯。建物は大正末期の木造二階建で堂々とした唐破風付きの玄関を備える。以前弊ブログで紹介した大阪の源ヶ橋温泉と同様、国の登録有形文化財となっている。

s_PB040117.jpg

大正15年(1926)に建てられた木造二階建、唐破風屋根の玄関を持つ本館と、花崗岩の門柱に洋風の門扉と柵を備えた門が登録有形文化財となっている。旧式の円形ポストがよく似合っている。

s_PB040128.jpg

門の上には、屋号と温泉マークをかたどったネオン管の看板が取り付けられている。昭和25年の一乃湯開業時に設置されたものである。

s_PB040140.jpg

細長い花崗岩の門柱に、洋風意匠の門扉と鉄柵を備えた袖塀が付く。門柱脇の庭石には登録有形文化財のプレートが嵌め込まれている。

s_PB040118.jpg

現在は別の店舗として使用されているようであるが、門の脇にある平屋建ての建物も銭湯と同時に建てられたものではないかと思われる。国登録有形文化財である京都の銭湯・船岡温泉のように理髪店も備えていたのかも知れない。

s_PB040137.jpg

門の先に入母屋屋根と唐破風を重ねた正面外観が特徴の本館が現れる。

s_PB040122.jpg

唐破風は銅版で覆われており、大正15年建築当初の経営者のものか、丸に片喰の家紋があしらわれている。

s_PB040121.jpg

建物全体は和風の造りであるが、浴場入口の壁には植物模様をかたどったテラコッタの装飾レリーフや、入口上部の飾り金物を嵌め込んだアーチ形欄間など、洋風の要素も取り入れられている。

s_PB040130.jpg

唐破風の下に下がる暖簾をくぐると、下駄箱を備えた玄関。

s_PB040131.jpg

見事な格天井。脱衣場でも折り上げ格天井や仕切りの欄間など凝った造りが見られる。

s_PB040136.jpg

なお、先述の源ヶ橋温泉を始め伝統的な銭湯に多く見られるが、一乃湯でも建物の2階は入浴後の休憩所として造られていた。現在は使用されておらず、脱衣場には階段の跡が残されている。

s_PB040139.jpg

内部の様子は一乃湯の公式ホームページで見ることができる。

第1129回・明野航空記念館(旧明野陸軍飛行学校将校集会所)

s_PB04002322.jpg

去る11月4日に三重県伊勢市小俣町明野にある陸上自衛隊明野駐屯地にて、駐屯地開放イベント「航空祭」が開催されたので行ってきた。駐屯地内にありイベント時には一般公開される明野航空記念館は、かつてこの地にあった明野陸軍飛行学校の将校集会所として、大正11年(1922)に建てられた瀟洒な洋館である。

s_PB040058.jpg

大正9年(1920)、陸軍航空学校射撃班がこの地に移転したことに伴い飛行場が設けられた。翌大正10年(1921)には陸軍航空学校明野分校に昇格、 大正13年(1920)には明野陸軍飛行学校として独立した。

s_PB0400082.jpg

将校集会所は陸軍航空学校明野分校時代の大正11年(1922)に建てられた。創建当初はテラスを挟んで2つの切妻屋根が並ぶシンメトリーの洋館であったが、昭和3年(1928)に増築、現在見られるL字型の外観となった。

s_PB0400032.jpg

右側の白黒写真が竣工当初の姿。施工は名古屋に本社を置く建設業者で、戦前は軍関係の施設も多く手掛けていた北川組が請け負っている。同社のホームページでも明野航空記念館について紹介されており、同じ写真を見ることができる。

s_PB040022.jpg

設計者は不詳であるが、陸軍航空学校はその設立に際しフランスから顧問団を迎え指導を受けていたことから、フランス人が設計を手掛けたという伝承もある。そのためかどうか、屋根にはフランス瓦と称される形式の洋瓦が用いられている。

s_PB0400092.jpg

かつて屋根にあった煙突と半円形の屋根窓が撤去されている点を除けば、外観は将校集会所時代の姿をよく残している。

s_PB040020.jpg

クリーム色の粗いモルタル壁に屋根はオレンジ色の洋瓦葺きという明るい色調に加え、自然石を配した煉瓦積の基壇、パーゴラを備えたテラスなど、軍の建物とは思えない瀟洒な佇まいの洋館である。

s_PB0400502.jpg

創建当初は正面のテラスを挟む形で建っていたと思われる片方の切妻屋根の部分は、増築に際しそのままL字型に張り出した部分の先に移築したものと思われる。

s_PB040053.jpg

昭和3年に増築された部分。
横長の大きなアーチ窓が目を引く。基壇は煉瓦積ではなくモルタルで石造風に仕上げられている。

s_PB0400562.jpg

背面からの眺め。

s_PB040005.jpg

同じく背面側からの眺め。手前が昭和3年に増築された部分で、奥が大正11年の創建当初からある部分。

s_PB040006.jpg

現在は航空記念館として館内の一部を公開している他、明野駐屯地の広報関係の事務所が置かれるなど、現役の庁舎としても使われているようだ。

s_PB040007.jpg

s_PB0400192.jpg

壁面やパーゴラの柱など随所に装飾が施されている。
切妻にあしらわれた楕円形のメダリオンは大正期の洋館によく見られる装飾デザインである。

s_PB040028.jpg

明野陸軍飛行学校は大東亜戦争末期の昭和19年から20年にかけて明野教導飛行師団、第一教導飛行隊と改編を重ねるが敗戦によって解散する。その後、昭和30年(1955)に陸上自衛隊航空学校が浜松から明野に移転したことにより、明野駐屯地が開設され現在に至る。

s_PB040048.jpg

敗戦後は構内の施設の多くが戦後復興のための資材として解体、払い下げられた。旧将校集会所も例外ではなく、昭和26年(1951)には県内にある鳥羽中学校の建設用材として使うため解体される予定であった。

s_PB040026.jpg

解体を惜しんだ旧軍関係者の努力が実を結んで建物は残り、駐屯地開設後は改修が施され現在の航空記念館となった。現在2室が顕彰室として公開されており、明野陸軍飛行学校の歴史やゆかりの人物、旧陸軍の軍装品などが展示されている。

s_PB040038.jpg

顕彰室のうちの1室は、重厚な格天井や窓枠の額縁飾りなどに往年の面影を残している。

s_PB040037.jpg

格天井の換気口は桜花の形。

s_PB0400402.jpg

展示資料の中にあった将校集会所の内部と思われる古写真。現存するかどうかは不明だが館内には暖炉もあったようだ。前に座る人物は大正15年12月から約3ヵ月間教官を務めたフランス陸軍の航空中尉。

s_PB0400422.jpg

昭和3年11月に行われた昭和天皇即位の御大典に際し設けられた饗宴会場の様子。増築から間もない頃の写真である。奥に現在も残っている横長のアーチ窓が写っている。

s_PB0400612.jpg

陸上自衛隊では、各地の駐屯地内に現存する旧軍関係の施設のうち、明野航空記念館は以前紹介した乃木館(旧陸軍第十一師団司令部庁舎)などと共に歴史的建造物に指定している。

s_PB0400472.jpg

明野航空記念館は今後も歴史的建造物として保存が図られるものと思われるが、できれば後年の改変箇所についても復元するなど、文化財として今後も大切に扱って頂くことを切望する次第である。

第1097回・志摩観光ホテル

s_P616025822.jpg

三重県志摩市賢島にある志摩観光ホテルは、昭和26年(1951)開業のクラシックホテルであり、平成28年5月に開催された伊勢志摩サミットの会場としても知られる。現在カフェやレストランとして使用されている旧館は、昭和18年(1943)に村野藤吾の設計で建てられた鈴鹿海軍工廠第一会議所の主要部分を移築改装したものである。

s_P6160265.jpg

志摩観光ホテルがある志摩半島一帯は、敗戦後間もない昭和21年(1946)に国立公園(伊勢志摩国立公園)の指定を受けた。その一角にある英虞湾では戦前より真珠養殖が盛んであったが、戦後は真珠買付のバイヤーや占領軍の高官など外国人が多く訪れるようになった。

s_P6160237.jpg

これを受け、三重県庁や地元経済界からは、外国人も対象とした洋式ホテルを建設して国立公園一帯の観光開発及び外貨獲得を目指す動きが起こり、昭和24年(1949)には三重県庁・近畿日本鉄道(近鉄)・三重交通の三者による協議を経て、志摩観光ホテル㈱が設立された。

s_P6160239.jpg

会社設立の翌年よりホテル施設の建設に着手、昭和26年(1951)5月にホテルは開業した。昭和天皇が5回に亘って宿泊されるなど皇室御用達のホテルとなり、伊勢志摩の迎賓館となっている。また、映画及びドラマ化された山崎豊子の小説「華麗なる一族」の舞台となったことでも知られる。

s_P61602172.jpg

ホテルの建物は敗戦からまだ間もない時期であり、建設費削減のために鈴鹿市にあった旧海軍の施設を国(大蔵省)から払い下げを受け、移築改装の上一部増築が施された。志摩観光ホテルの前身建物に当たるのが、村野藤吾の設計で昭和18年(1943)に建てられた鈴鹿海軍工廠第一会議所である。

s_P61602352.jpgs_P61602202.jpg

上がホテル内に展示されている鈴鹿海軍工廠第一会議所の古写真で、下が現在の志摩観光ホテル旧館。
近年の大規模な改修により旧館は一部撤去されているが、2つの写真を比較すると旧鈴鹿海軍工廠以来の由緒を持つ部分はほぼ残されていることが分かる。

s_P6160225.jpg

旧鈴鹿海軍工廠第一会議所をホテルとして移築再利用するに際し、村野藤吾は原設計者として近鉄営繕課からの依頼を受け、改めて移築改装の設計を手掛けた。その後も村野藤吾は旧館の増築(昭和36年竣工)や、新館(昭和44年竣工)の設計も手掛けている。

s_P6160223.jpg

現在は村野藤吾の設計による部分で現存するのは、旧館の昭和26年開業当初の主要部分と新館で、旧館の一部及び増築部分は取り壊され現存しない。

s_P6160224.jpg

移築に際しては、木造の旧海軍施設がロビーや大食堂に充てられ、客室は現地で鉄筋コンクリート造で新築された。また敷地の形状から、木造部分の下には同じく鉄筋コンクリート造で地階が増設された。

s_P6160238.jpg

旧館は客室部分が昭和36年の増築部分とともに撤去された外は昭和26年開業当初の姿をよく残しており、現在は補強・改修の上、カフェやバー、レストランが入る「ザ・クラブ」として利用されている。また、ホテルの歴史やサミット会場として使用された際の資料等を展示する場所としても利用されている。

s_P61602412.jpg

昭和26年に増築された地階部分は外壁に丸い石を積み上げ、昭和10年代に建てられた雲仙観光ホテル十和田ホテルなどの戦前に建てられた洋式リゾートホテルを彷彿とさせる仕上げとなっている。

s_P61602442.jpg

地階はホテル利用客のための正面玄関が設けられていたほか、厨房や事務室、倉庫などのバックヤードスペースに充てられていた。

s_P6160236.jpg

正面玄関を入るとすぐ左手に階段があり、1階に設けられたフロント・ロビーに至る造りとなっていた。

s_P6160226.jpg

階段を上ると吹き抜けのあるかつてのフロント及びロビーが現れる。

s_P6160246.jpg

旧ロビーの暖炉。

s_P6160233.jpg

旧ロビーの一角には伊勢志摩サミットの際の円卓が展示されていた。

s_P6160228.jpg

太い松材の小屋組みが見事な吹き抜けは、前身である鈴鹿海軍工廠第一会議所として建てられた頃から概ね変わらない姿を残しているものと思われる。

s_P6160230.jpg

鈴鹿海軍工廠の建設に際しては、百五銀行頭取であった川喜田久太夫政令(半泥子)が自邸「千歳山荘」の洋館と書院と共に、邸内に自生する大量の松の大木を海軍に献納、第一会議所の建物はこのときの松材を用いて建てられた。

s_P6160248.jpg

旧館の1階に開業当初から残る茶室「愚庵」

s_P6160247.jpg

茶室はホテル開業に際し村野藤吾の設計で新たに設けられ、川喜田半泥子によって命名された。

s_P6160260.jpg

外観を特徴づける大屋根の下はホテル開業当初は大食堂であった。海軍時代のこの建物の詳細な用途は定かではないが、会議所であると同時に将校のためのクラブや接待所として使われていたものと思われる。

s_P6160252.jpg

窓の外に広がる英虞湾の景色と、室内の豪壮な吹き抜けに村野藤吾デザインの照明器具などが一体となった、館内で最も充実した空間。

s_P6160249.jpg

吹き抜けの二階部分に張り出したオーケストラボックス。食堂部分は村野藤吾が最もデザインに力を入れた場所であるという。

s_P6160261.jpg

現在はカフェ、ワインバーとして使われている。

s_P6160221.jpg

戦前のリゾートホテルの名残を残しつつ、戦時中から戦後の復興期にかけての複雑な歴史的背景も併せ持つクラシックホテルである。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。なお、リンクを張らせて頂いている他の方のページは一部を除き相互リンクとなっております。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード