第1097回・志摩観光ホテル

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三重県志摩市賢島にある志摩観光ホテルは、昭和26年(1951)開業のクラシックホテルであり、平成28年5月に開催された伊勢志摩サミットの会場としても知られる。現在カフェやレストランとして使用されている旧館は、昭和18年(1943)に村野藤吾の設計で建てられた鈴鹿海軍工廠第一会議所の主要部分を移築改装したものである。

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志摩観光ホテルがある志摩半島一帯は、敗戦後間もない昭和21年(1946)に国立公園(伊勢志摩国立公園)の指定を受けた。その一角にある英虞湾では戦前より真珠養殖が盛んであったが、戦後は真珠買付のバイヤーや占領軍の高官など外国人が多く訪れるようになった。

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これを受け、三重県庁や地元経済界からは、外国人も対象とした洋式ホテルを建設して国立公園一帯の観光開発及び外貨獲得を目指す動きが起こり、昭和24年(1949)には三重県庁・近畿日本鉄道(近鉄)・三重交通の三者による協議を経て、志摩観光ホテル㈱が設立された。

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会社設立の翌年よりホテル施設の建設に着手、昭和26年(1951)5月にホテルは開業した。昭和天皇が5回に亘って宿泊されるなど皇室御用達のホテルとなり、伊勢志摩の迎賓館となっている。また、映画及びドラマ化された山崎豊子の小説「華麗なる一族」の舞台となったことでも知られる。

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ホテルの建物は敗戦からまだ間もない時期であり、建設費削減のために鈴鹿市にあった旧海軍の施設を国(大蔵省)から払い下げを受け、移築改装の上一部増築が施された。志摩観光ホテルの前身建物に当たるのが、村野藤吾の設計で昭和18年(1943)に建てられた鈴鹿海軍工廠第一会議所である。

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上がホテル内に展示されている鈴鹿海軍工廠第一会議所の古写真で、下が現在の志摩観光ホテル旧館。
近年の大規模な改修により旧館は一部撤去されているが、2つの写真を比較すると旧鈴鹿海軍工廠以来の由緒を持つ部分はほぼ残されていることが分かる。

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旧鈴鹿海軍工廠第一会議所をホテルとして移築再利用するに際し、村野藤吾は原設計者として近鉄営繕課からの依頼を受け、改めて移築改装の設計を手掛けた。その後も村野藤吾は旧館の増築(昭和36年竣工)や、新館(昭和44年竣工)の設計も手掛けている。

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現在は村野藤吾の設計による部分で現存するのは、旧館の昭和26年開業当初の主要部分と新館で、旧館の一部及び増築部分は取り壊され現存しない。

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移築に際しては、木造の旧海軍施設がロビーや大食堂に充てられ、客室は現地で鉄筋コンクリート造で新築された。また敷地の形状から、木造部分の下には同じく鉄筋コンクリート造で地階が増設された。

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旧館は客室部分が昭和36年の増築部分とともに撤去された外は昭和26年開業当初の姿をよく残しており、現在は補強・改修の上、カフェやバー、レストランが入る「ザ・クラブ」として利用されている。また、ホテルの歴史やサミット会場として使用された際の資料等を展示する場所としても利用されている。

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昭和26年に増築された地階部分は外壁に丸い石を積み上げ、昭和10年代に建てられた雲仙観光ホテル十和田ホテルなどの戦前に建てられた洋式リゾートホテルを彷彿とさせる仕上げとなっている。

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地階はホテル利用客のための正面玄関が設けられていたほか、厨房や事務室、倉庫などのバックヤードスペースに充てられていた。

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正面玄関を入るとすぐ左手に階段があり、1階に設けられたフロント・ロビーに至る造りとなっていた。

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階段を上ると吹き抜けのあるかつてのフロント及びロビーが現れる。

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旧ロビーの暖炉。

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旧ロビーの一角には伊勢志摩サミットの際の円卓が展示されていた。

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太い松材の小屋組みが見事な吹き抜けは、前身である鈴鹿海軍工廠第一会議所として建てられた頃から概ね変わらない姿を残しているものと思われる。

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鈴鹿海軍工廠の建設に際しては、百五銀行頭取であった川喜田久太夫政令(半泥子)が自邸「千歳山荘」の洋館と書院と共に、邸内に自生する大量の松の大木を海軍に献納、第一会議所の建物はこのときの松材を用いて建てられた。

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旧館の1階に開業当初から残る茶室「愚庵」

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茶室はホテル開業に際し村野藤吾の設計で新たに設けられ、川喜田半泥子によって命名された。

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外観を特徴づける大屋根の下はホテル開業当初は大食堂であった。海軍時代のこの建物の詳細な用途は定かではないが、会議所であると同時に将校のためのクラブや接待所として使われていたものと思われる。

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窓の外に広がる英虞湾の景色と、室内の豪壮な吹き抜けに村野藤吾デザインの照明器具などが一体となった、館内で最も充実した空間。

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吹き抜けの二階部分に張り出したオーケストラボックス。食堂部分は村野藤吾が最もデザインに力を入れた場所であるという。

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現在はカフェ、ワインバーとして使われている。

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戦前のリゾートホテルの名残を残しつつ、戦時中から戦後の復興期にかけての複雑な歴史的背景も併せ持つクラシックホテルである。
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第1096回・廣永陶苑(その2 泥仏堂ほか)

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前回に続き、三重県津市の廣永陶苑(半泥子廣永窯)内の建物の紹介。
後半は、昭和33年(1958)に川喜田半泥子の八十歳の祝いとして親族及び関係者から贈られた庵室「泥仏堂」と、戦後間もなく本邸「千歳山荘」が米軍に接収されている間に建てられた仮本邸などの建物を紹介したい。

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山里茶席を過ぎて、苑内の最も奥まった場所に窯場があり、その近くに泥仏堂が建っている。元々は山里茶席も窯場の傍に建っていた。写真は泥仏堂に隣接して設けられた月見台。

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泥仏堂全景。床の間と押し入れを備え、正面には仏壇を配した十畳の茶室を配し、その周りに水屋、腰掛待合、手洗いを設ける。写真右側の吹き放ちの土間が腰掛待合、左側の暖簾が下がっているのが手洗いである。なお、「泥仏堂」とは、元々は千歳山荘内にあった窯場の名称であった。

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廣永陶苑の見学に際してはこの泥仏堂に通され、抹茶と和菓子の接待に与る。向かいにある「仙鶴館」では窯場で焼かれた作品が展示されており、購入もできる。

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軒や梁など随所に皮付きの丸太が用いられ、野趣に富んでいる。また、腰掛待合の一角にはステンドグラスが嵌め込まれている。当初からあったものかどうかは不明だが、珍しい。

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川喜田半泥子は美食家としても知られる北大路魯山人(1883~1959)と、「東の魯山人、西の半泥子」と並べて称されるが、その魯山人が古民家を改造して建てた自邸(春風萬里荘)が現在、茨城県に移築保存されている。ここでも江戸時代の古民家にステンドグラスを嵌め込むなど、和洋のユニークな組み合わせが見られる。

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腰掛待合は六畳足らずの土間に、造りつけのベンチ2脚が斜めに向き合う形で配され、壁面の一部は嵌め殺しのステンドグラスになっている。そして天井の近くには、通常ならば屋根裏に置かれる棟札が人目に付く場所に掲げられている。

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棟札には昭和32年上棟であることが記されている。右手には寄進者として半泥子の長男で実業家の川喜田壮太郎(1904~1972)を始めとする親族・関係者の名が記されている。また棟梁の前田勇は川喜田家出入りの大工棟梁で、半泥子が山里茶席を建てる際は共に工事に当たった。

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泥仏堂の室内。天井は和紙を貼った紙貼り仕上げで、朱で鳳凰が描かれている。そして正面に据えられた仏壇は、ユーモアに富んだ半泥子の人となりがよく表れている。

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自らを象ったという自作の陶像は実際よりも非常にとぼけた顔をしており、嫌な来客にはそっぽを向けるように、首が回る仕掛けになっている。開き戸の内側には「把和遊(=How are you)」「喊阿厳(=Come again)」の文字を描く。

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泥仏堂の床の間。掛軸は半泥子の自画像と書。
半泥子は陶芸以外にも書、絵画、建築、写真と幅広い分野にわたって豊かな才能を発揮した。

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山里茶席のすぐ近くに建つ「幽照館」
廣永陶苑が開かれた昭和21年より半泥子に師事、半泥子の没後は陶苑を継承した坪島土平(※正しくは「土」の字に点を付ける 1929~2013)の記念館として作品などが展示されている。

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陶板を貼った幽照館の外壁。
続いて最後に紹介するのは、半泥子ゆかりの建物を各地から廣永陶苑に移築、一体化して昭和43年(1968)に建てられた「山の館」である。

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山の館はその名の通り、山の斜面に沿って建っている。玄関がある写真の二階建家屋は、百五銀行の行員寮として使用するため津市弓屋敷(現在の幸町・修成町・岩田)に他所から移築された古民家を、同行頭取であった半泥子が「弦月寮」と名付けたもの。

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旧弦月寮の1階玄関。土間の一部は廣永陶苑への移築に際し、陶板を張り詰めた洋室に改装されている。

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半泥子こと川喜田久太夫政令が百五銀行頭取を務めたのは大正8年(1919)から昭和20年(1945)までの約四半世紀にわたる。その間、堅実な経営で昭和初年の金融恐慌や第二次世界大戦を乗り切り、同行を三重県を代表する地方銀行に育て上げた。

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斜面に沿って建てられた階段を上ると旧仮本邸に至る。本邸である「千歳山荘」が米軍に接収された際、同じ千歳山に昭和21年(1946)に建てられた仮住まいの奥座敷部分を移築したものである。

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建設の経緯からごく簡素な造りではあるが、格調高い旧仮本邸の内部。床の間と仏壇を備えた八畳の主座敷に六畳の次の間、廊下を隔てて炉を切った四畳半の茶室から構成されている。

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旧仮本邸の茶室。敗戦後は全国各地で戦災を免れた富裕層の邸宅が米軍を始めとする占領軍に接収されたが、その間の仮住まいとして建てられた建物として現存するものは珍しいと思われる。

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主座敷の前には、床に竹を敷き詰めた張り出しを設けた半屋外の空間が造られている。

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見上げると、泥仏堂と同様に棟札が掲げられている。
「千歳山先生旧居 莫加椰廬(ばかやろ)」とあるのが旧仮本邸を指すと思われる。

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移築時の改造と思われるが、陶板を嵌め込んだ飾り窓。

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旧仮本邸よりさらに斜面の上側にも、「自在庵」と称する茶席があり、開放的な渡り廊下と階段で繋がれている。

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「自在庵」の茶室。
これらの建物は現在も茶席として使用されているが、山里茶席と同様に㈱半泥子廣永窯に申し込めば見学できる。

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㈱半泥子廣永窯は伊勢神宮の御用窯を務めるほか、伊勢志摩サミットでは晩餐で器が使用されるなど、現在も三重県有数の窯元として作陶を行っている。

第1095回・廣永陶苑(その1 山里茶席)

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三重県津市分部に、実業家で陶芸家の川喜田半泥子(1878~1963)が戦後間もない昭和21年(1946)に開いた窯場である廣永陶苑(現・半泥子廣永窯)がある。苑内にある茶室「山里茶席」や「泥仏堂」など、型に囚われない自由な造形が施された川喜田半泥子ゆかりの和風建築を2回に分けて紹介したい。

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廣永陶苑は津市の西郊・長谷山の山麓にあり、人里離れた趣の山林の中に広大な敷地を有する窯場である。風情ある総門から苑内に入り、竹藪と雑木林に囲まれた小道をしばらく進む。

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小道をしばらく進むと左手に現れる藁葺きの小さな建物が山里茶席である。川喜田半泥子が出入りの大工棟梁の手助けを借りつつ自ら大工道具を振るい、昭和14年(1939)に津市垂水の千歳山にあった本邸「千歳山荘」内に建てた茶室である。

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敗戦後「千歳山荘」は米軍に接収されたため、昭和21年(1946)に廣永陶苑を開く際、千歳山にあった窯と共に山里茶席も移築された。その後老朽化に伴い、平成23年(2011)に苑内で再移築、修復が行われた。

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半泥子は茶の湯の師であり、また山荘内に茶席を造ることを勧めた表千家の久田宗也の助言も受け、自ら設計を行った。

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正面から見ると田舎家風の趣を見せる山里茶席。その間取りは畳を横に七枚並べ、うち四畳分が茶席で残る三畳分を水屋とする、横に非常に細長い、特異な平面の茶室となった。

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奥行きが畳一畳分しかないため側面から見ると印象は大きく変わり、庵室のような雰囲気を見せる。

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正面向かって左側に配された水屋への入口。
材木は山荘がある千歳山内に自生する杉や檜などを切り出して使用した。

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正面真ん中に設けられた腰掛待合。
「山里」の扁額は、三井物産を設立した実業家で近代を代表する大茶人でもある益田孝(鈍翁)の揮毫になる。

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正面向かって右側に配された茶席への入口。立て込まれた障子は下層部が硝子になっており、他であまり見かけない代物である。既存品の建具の腰壁部分を切り落として作ったようにも見える。

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茶席内部。板戸の奥が水屋となっている。古民家の囲炉裏のような大きな炉が切られており、自由で形式に囚われない造りで他では見られない、随分変わった茶室である。

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床の間の両脇に配された柱のうち片方には竹が用いられている。
掛軸は半泥子の書。

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天井に張られたへぎ板は奈良の新薬師寺の古材を用いているが、茶室の広さに対し少々寸足らずであったため、竿縁や廻り縁に太い竹や木材を用いることで隙間をふさいでいるという。

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床の間の踏み込みに張られた板は松花堂昭乗の書を彫ったものとされる。

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茶室の窓としては特異な斜め格子の大きな障子は伏見城のものと伝わる。これらの古材や建具は半泥子が自邸の倉庫などに保管されていたものの中から、使えそうなものをかき集めたようだ。

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腰壁の紙貼りには尾形乾山についての研究をまとめた半泥子の自著「乾山考」の図版部分のゲラ刷りを用いている。

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畳敷きと板の間で構成される水屋。奥に土間がある。天井は藁葺屋根の小屋組みを見せている。

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山里茶席は自邸内に自生する木や持ち合わせの骨董品、もしくは不要と思われるようなものなど、建築材料には徹底してあり合わせの品を用いているものと思われる。

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この茶席で半泥子は自ら作った茶碗などを用いて茶事を楽しんだ。
茶席から道具まで大半を自ら作った、今日から見れば実に贅沢な日曜大工であり、何とも羨ましい限りである。

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山里茶席を始めとする廣永陶苑の建物は、㈱半泥子廣永窯に事前予約すれば見学が可能である。茶室も室内に上がり込んで拝観できる。

廣永陶苑 その2に続く

第1091回・伊勢河崎商人館(旧小川酒店)

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伊勢河崎商人館は、伊勢市でも古い街並みが残されている河崎にある商家のひとつである旧小川酒店の建物を保存、公開している施設。明治期に建てられた主屋、茶室や洋風の応接間、サイダー工場跡などもあるのが特色である。国登録有形文化財。

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河崎は伊勢湾に注ぐ勢田川沿いにあり、戦国時代には水運を利用して町が成立していたとされる。江戸時代以降は問屋街として栄え、伊勢神宮への参拝客で賑わう宇治と山田に生活物資を供給する伊勢の台所としての役割を果たしてきた。第二次大戦後、陸上輸送の発達に伴い町は衰退する。

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そのために古い街並みが今日までよく残されており、現在では古い蔵や商家の建物のうち、一部を飲食店等に改装して観光資源にしている。この地方の伝統的な造りの商家や蔵が多いが、中には洋風意匠を加味した土蔵なども見られる。

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伊勢河崎商人館は江戸時代から酒問屋を営んでいた小川家の店舗兼住居で、江戸時代から明治、大正期にかけて建てられた家屋と蔵、また明治末期から製造を始めたサイダー工場の跡から構成されている。現在は伊勢市が所有、運営管理は地元住民主体で行う形で資料館・貸店舗等として活用されている。

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奥が明治中期に建てられた主屋で、店舗と住居を兼ねている。その隣(写真手前)にコンクリート塀で囲われた応接間や茶室等の接客用空間を設けている。

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主屋は明治25年(1892)の火災後再建されたものと考えられている。壁面全体を板張りとして、切妻部分には「大庇」と称される小さな張り出しを設けるなど、この地方の伝統的な商家の造りが見られる。

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主屋に続くコンクリート塀には観音開きの扉が設けられ、内側にある応接間や茶室に直接出入りできるようになっている。応接間は小さな洋室だけの離れになっており、コンクリート塀の内側に設けられた渡り廊下及び前室で主屋とつながっている。

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主屋を入ると帳場があり、その先は吹き抜けを持つ土間になっており、台所が設けられている。

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土間に面して居室2室があり、そのうち10畳間は床の間を備えた座敷となっている。その先は前栽を挟んで内蔵が設けられており、現在は昔の酒屋の資料などを展示する資料室となっている。

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2階にも居室が3室設けられており、写真は街路に面した床の間付きの座敷で、家族用の居室または接客用の部屋と考えられる。

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主屋の裏はサイダー製造工場の跡地を挟んで蔵2棟が並ぶ。サイダーは明治42年(1909)に当時の当主・小川三左衛門が自らのイニシャルを付けた「エスサイダー」の名で製造販売を開始、昭和50年(1975)まで生産されていたという。現在も館内で復刻品が販売されており、飲用可能である。

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サイダー製造工場の施設のうち、写真の濾過施設のほか検査室が現存し、主屋と同様国の登録有形文化財となっている。大正時代に建てられた鉄筋コンクリート造の施設である。

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主屋に隣接する接客用の建物は、先述のとおり応接間と茶室から構成される。コンクリート塀に穿たれた門をくぐると、塀の内側は主屋と応接間を結ぶ吹き放しの渡り廊下になっており、モザイクタイル貼りの土間を持つ前室を介して応接間につながっている。

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応接間内部。大正期の建設とされる。ごく小さな洋室だが、立派な暖炉を備えている。

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漆喰と白・緑2色のタイルで固めた暖炉。

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照明器具は創建時からのものが残されている。

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渡り廊下から主屋への入口。渡り廊下を支える柱は簡素ながらも、基壇と柱頭飾りを持つ洋風の円柱となっている。

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渡り廊下から望む茶室。
露地が設けられており、その先に茶室がある。

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茶室前の露地から望む応接間と渡り廊下。

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応接間と茶室の間に設けられた離れ便所。入口の横に手水鉢が設けられている。
角を円柱にするなど、応接間や渡り廊下に対応した洋風の外観となっている。

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茶室は明治期の建設で京都裏千家の茶室の写しとされる。天井の造りが珍しい。

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茶室の欄間はカブをあしらった模様を透かし彫りにしたもの。カブは縁起物として、現在は明治村に保存されている名古屋の旧東松家住宅など、商家の欄間に時々見ることができる。

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裏側から見た茶室。濡縁を配している。
伊勢河崎商人館は規模は小さいが、洋風意匠を取り入れた接客部分やサイダー工場の遺構など、他では余り例を見ない特色を備えた興味深い造りの商家である。

第1089回・旧山田郵便局電話分室(ボン・ヴィヴァン)

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伊勢市本町の伊勢神宮外宮前にある赤い瓦屋根の洋館は、大正12年(1923)に山田郵便局(現・伊勢郵便局)電話分室として建てられた。東京中央郵便局などの設計で知られる建築家・吉田鉄郎の初期作品のひとつで、現在はフランス料理店「ボン・ヴィヴァン」の店舗として利用されており、伊勢市の観光名所となっている。

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明治42年(1909)に新築移転した山田郵便局舎(現在は明治村に移築、博物館明治村簡易郵便局として現在も使用されている)が手狭になったため、電信事務を行う執務室として大正12年(1923)11月に隣接地に増築された。(当時は電話や電報についても郵便局(逓信省)の所轄となっていた)

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木造(切手倉庫等一部を除く)の山田郵便局舎に対し、電話分室は煉瓦造である。

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写真の左手がかつて旧山田郵便局舎が建っていた敷地に当たり、現在はその一角に伊勢外宮前郵便局が建っている。

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昭和42年(1967)の伊勢郵便局(昭和30年に山田郵便局から改称)の新築移転に伴い旧局舎は明治村に移築されたが、旧電話分室は今日に至るまで創建当初の位置に建っている。

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同時期の作品である旧京都中央電話局上分局と同様、ドイツの民家を意識したという瓦屋根を載せた外観が特徴。京都は日本瓦葺であるがこちらは赤い洋瓦葺で、規模も平屋建。

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昭和30年(1955)に電話分室としての役目を終えた後は健康管理所や郷土資料館として使用され、現在はフランス料理店の店舗として活用されている。

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外壁は煉瓦の上からモルタルを塗っているので一見煉瓦造であるとは分からないが、壁が非常に厚いのが分かる。

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コの字型平面の建物で、内側に中庭を有する。

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中庭に面して木造吹き放ちの回廊を設けている。

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現在では伊勢を代表する観光名所のひとつとなっている。

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木製サッシの上げ下げ窓など建具も含め建物は極力原型を損なわずに、建物と良く調和した中庭を設けるなど、センスの良さが感じられる。

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大正建築の旧山田郵便局電話分室は、明治の神宮徴古館、昭和戦前の宇治山田駅舎と共に、伊勢市を代表する戦前の洋風建築である。
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