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第1241回・茶六別館

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茶六別館は、京都府宮津市島崎にある料理旅館で、北前船の寄港地として古くから栄えていた宮津で享保年間より営業していた旅宿「茶六」の別館として昭和初期に開業した。現在も開業当時の数寄屋造りの建物で営業を続けている。

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茶六別館は日本三景のひとつに数えられる名勝、天橋立を望む海岸に近い位置にある。写真は向かいにある島崎公園から見た外観で、一見普通の民家と変わらない地味な佇まいである。

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立派な石組みを備えた生け垣と銘木を用いた門が目を引く。この門の先は裏庭と露天風呂で、門としては使われていない。

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正面からの眺め。
初代に当たる茶谷六斎が「茶六」の屋号で旅宿を始めたのは江戸時代中期の享保年間とされており、茶六別館は十代目の茶谷六治が昭和6年(1931)に料理旅館として開いた。

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大工と共に全国各地の和風建築を見学して建てられたという別館の建物は、控えめな外観に対し内部は洗練された数寄屋風の空間が広がっている。太い竹格子のある玄関奥の張り出しは洋式の応接室。

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玄関は茶席の待合風に造られており、小さな腰掛が設けられている。
腰掛の脇にある青い陶器は手焙り火鉢。

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繊細な数寄屋風を基調にしながらも、自然木の円柱やその脇の太めの竹格子など、要所に豪快さを見せている。

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玄関脇に配された応接間の前室は織部床が配され、天井には手斧仕上げの梁と煤竹が用いられるなど、野趣に富んだ造りとなっている。左手の硝子戸の先が応接室。

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昭和初期の和風建築らしく玄関脇には和風意匠の洋式応接室が設けられており、現在はロビーとして使われている。

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奥に進むと回廊で囲まれた中庭があり、回廊よりそれぞれの客室へ通じる構成となっている。

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回廊は1階、2階共に四面がそれぞれ異なる造りとなっている。写真は1階の回廊で、赤く仕上げた土間が目を引く。

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中庭には2つの手水鉢が置かれ、ひとつは赤い廊下から、もうひとつは手洗用である。

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手洗の中から手水鉢を見る。

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2階の階段室。伝統的な和風建築では階段は単なる通路としての扱いで、意匠的に特に見所が無いものが多いが、昭和6年に建てられた茶六別館は、船底天井やモダンな手すりなど階段室も見所に富んでいる。

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2階の回廊。赤い廊下の真上に当たる。突き当たりが上記の階段室。

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2階の回廊から中庭を望む。

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2階の回廊のうち、2面は全面的に硝子戸を嵌めこんだ近代和風建築ならではの造りとなっている。

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11室ある客室は床の間や欄間、建具などにそれぞれ異なる意匠が施されている。

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「難波(なにわ)の間」の床の間は、腰壁を備えた珍しいもの。

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夏は葦簀戸が入る。

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中庭とは別に奥庭に面した客室もある。
奥庭に面した廊下の硝子戸は、中庭のものとは異なる意匠である。

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なお、別館開業前よりあった「茶六」は茶六本館として現在も宮津市魚屋で営業を続けており、別館とほぼ同時期に建てられた木造三階建の建物は国の登録有形文化財となっている。

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このすばらしい宿が変わらずに永く続くことを祈念する。
また、次に宮津を訪れる機会があったときは本館にも泊まり、別館との違いを楽しみたい。
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第1239回・旧加悦町役場庁舎

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京都府与謝郡与謝野町字加悦にある旧加悦町役場は、北丹後地震で倒壊した旧庁舎に代わり昭和4年(1929)に建てられた。周囲は国の重要伝統的建造物群保存地区にも指定されており、「ちりめん街道」として保存、整備が行われている同地区でも目を引く木造洋風建築である。京都府の指定文化財として現在は耐震補強及び修復工事が行われている。

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昭和2年(1927)3月7日に発生した北丹後地震では丹後地方を中心に大きな被害が生じ、加悦町(当時)でも多くの建物が倒壊、破損した。震災の翌年に加悦町長に就任した尾藤庄蔵は各種の復興事業に着手するが、そのひとつが倒壊した町役場の庁舎再建であった。

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尾藤庄蔵家は江戸時代には加悦の大庄屋で、幕末以降は当地の主要産業である縮緬(ちりめん)を扱う商家として財を成した。加悦町長を務めたのは11代庄蔵で、この頃には縮緬からは撤退し、鉄道(加悦鉄道)や銀行などの事業に乗り出していた。なお、現在は宮津に本拠を移し、当地の老舗である袋屋醤油店の経営を引き継いでいる。

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11代尾藤庄蔵(1885~1945)は学生時代に横浜を訪れて以来洋館建築に強い関心を示し、洋館建築に関する書籍を購入したり大阪で開催された住宅博覧会に出向くなど自ら勉強していたが、町長就任を機に長年の念願を実現する。

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再建する町役場庁舎のほか、自邸の離れ、銀行(宮津銀行)店舗の3棟を洋館造りで建てた。なお、自邸は現在は旧尾藤家住宅として保存、公開されている。1階が数寄屋風座敷、2階が洋館となっている離れも「新座敷」として公開されている。(弊ブログ第76回記事参照)

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加悦町役場の外観意匠は、当時邸宅を中心に流行したスパニッシュ・ミッション様式に近い南欧風の外観を採用している。官公庁舎でこの様式は非常に珍しいが、洋館については人一倍関心があった尾藤町長の意向によるのではないかと思われる。

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設計者である今林彦太郎は加悦に近い宮津の出身で、当時大阪の大林組で設計部長を務め、大正13年に竣工した甲子園球場などの設計にも従事していた人物である。なお、大林組は当時スパニッシュ・ミッション様式を得意としており、同様式の邸宅を多く設計、施工していた。

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木造2階建であるが、当時としては最先端の耐震技術が取り入れられているという。スパニッシュ様式は外壁を全面的にモルタルで塗り込めるため、同様式を取り入れたのは耐火性にも配慮した様式選択かも知れない。

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丹後地方は豪雪地帯であるためか、赤瓦葺きの屋根は竹筒型(またはS字型)のスパニッシュ瓦ではなく、北近畿や山陰地方などで多く見られる雪止め付きの瓦が用いられている。その上にあるのは換気塔と思われる。

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正面及び側面の2階外壁に配されている装飾レリーフ。

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全体的には簡素ながらも、細部には目を引く装飾が随所に見られる。

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1階が町役場、2階が町議会議事堂として使われていた。平成14年(2002)まで73年にわたり町役場として使用され、平成9年(1996)には京都府指定文化財に指定されている。役場が新庁舎に移転した後は1階のみ観光案内所として利用していたが、修復完了後は2階の旧町議会議事堂も催事などに活用される予定である。(参考 与謝野町広報誌 令和元年8月号

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2階にベランダ(サンルーム)状の横長窓を配した背面の外観は、車寄せを張り出した正面に比べ、役場というよりは邸宅の趣を見せている。大阪にある木子七郎の旧自邸を思わせる佇まいである。

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側面入口の上に張り出す半円アーチの庇。
煉瓦で縁取りを施した階段は同様に半円形になっており、洒落た造りとなっている。

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右書きの「加悦町役場」の文字が残る正面車寄は開口部に補強用の枠が嵌め込まれているが、修復後は優美な繰形のある本来の形が甦ると思われる。修復完了後は内部と併せて再度紹介したい。

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北丹後地震の復興建築としては、同じ昭和4年に竣工した丹後震災記念館峰山小学校本館が現存するが、いずれも使用中止の状態が続いており前途が懸念される。丹後震災記念館については京都府指定文化財にもかかわらず、改修の目処も立っていない(と思われる)現状は何とも苛立たしく、もどかしい限りである。

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幸いにして補強・修復工事が始まった旧加悦町役場は、来年には工事が完了する見込みである。

なお、北近畿には兵庫県を中心に、明治から昭和初期の郡役所や町役場の庁舎が多数現存しており、資料館などに活用されている。その中で旧加悦町役場と同じ昭和期のものとしては旧豊岡町役場旧柏原町役場がある。

第1188回・旧山口玄洞邸(聖トマス学院)

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明治から大正にかけて大阪で洋反物商として財を成し、その多くを公共事業や慈善事業への寄付、寺社への寄進に使い、「寄付王」とも称された実業家・山口玄洞が引退後の住まいとした洋館が、京都市上京区梶井町に残されている。京都を中心に活躍した武田五一の設計で、現在は聖ドミニコ修道会京都修道院の施設(聖トマス学院)として使われている。

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現在の広島県尾道市に生まれた山口玄洞(1863~1937)は、医師であった父親の急死により、家計を支えるために学業を断念、明治11年(1878)には15歳で大阪・心斎橋筋の洋反物店へ丁稚奉公に出た。その後独立し洋反物商として成功を収め、明治37年(1904)には多額納税者として貴族院議員に選ばれるまでになった。

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大正6年(1917)に実業界を引退した後は昭和12年(1937)に死去するまで京都で過ごした。現在残る本邸は大正12年(1923)に建てられたもので、鴨川の西岸、東山を一望できる場所にある。なお、以前旧附属図書館の建物を取り上げた京都府立医科大学がすぐ南側に隣接している。

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建物は原則非公開で、通常は立入禁止のため門から覗くに止める。
主屋は鉄筋コンクリート造り2階建で、武田五一の設計、清水組(現・清水建設)の施工により大正12年(1923)に竣工した。特徴的な玄関ポーチは、現在は舞子ホテルとして使われている神戸の旧日下部久太郎別邸の玄関とよく似ている。

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敷地内には主屋の他に、土蔵、事務所らしい3階建の小さな洋館が街路側に建っている。訪問時は補修のためか足場が組まれていた。

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玄関の欄間にはステンドグラスが嵌めこまれており、室内にも多くのステンドグラスが残されているそうだ。

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北隣は有料駐車場になっており、建物を間近で見ることができた。
東(写真左側)から主屋、土蔵、付属棟が並んでいる。

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外観は比較的簡素なデザインで、腰壁を薄茶色のタイル貼りとする他は外壁はクリーム色のモルタルで仕上げられており、屋根は黒い日本瓦を葺いている。

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中央に配された階段室の大きなアーチ窓が外観のアクセントになっている。

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かつては窓に鎧戸が設けられていたが、現在は殆どが取り外されている。
主屋は洋風建築であるが門や塀、庭園は和風の造りとなっており、茶室もあったようだが存否は確認できなかった。

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山口玄洞は事業家として成功した頃から、公共事業や慈善事業への寄付や寺社への寄進に多くの財を注ぎ込んだ。特に、故郷である尾道へ上水道の敷設費用の大部分を寄付した話は著名である。紅葉の名所として知られる京都・高尾の古刹である神護寺の金堂と多宝塔も、山口玄洞の寄進によって昭和の初めに再興されたものである。

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山口玄洞の住まいは、終の棲家となった京都の本邸のほか、大阪で事業家として活動していた頃の住居も現存する。これは次回に紹介したい。

第1069回・佐藤医院

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京都府宮津市字京街道にある佐藤医院は、大正15年(1926)に建てられた洋館建ての医院建築。以前紹介した宮津カトリック教会と並び、宮津市内に残る洋風建築の中でも随一の存在である。

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全景。京街道に面した正面に主屋を置き、その背後には病室棟が続く奥行きの深い造りとなっている。

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洋風の外観は、設立者である佐藤理兵衛氏がそれまで勤務していた東京の順天堂病院の建物をイメージして建てさせたと伝わる。また、背面の病室棟は、旧宮津中学校(現・宮津高等学校)寄宿舎の古材を転用しているという。

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近年行われた、前を通る京街道の拡幅によって、かつて主屋の前にあった正門と塀が撤去されているが、主屋とその背後の病室棟などはそのまま残されている。

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主屋の正面中央部分の外壁は人造石洗出し仕上げで、目地を切り石造風に仕上げる。

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中央部を除く外壁は粗く塗ったモルタル仕上げとする。

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人造石の円柱を立てた重厚な玄関ポーチ。

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玄関ポーチの上部はバルコニーになっている。主屋の内部は玄関ホールを中心に薬局、診察室、待合室、検査室などが配されているという。

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現在も産婦人科・産科の医院として現役である。

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文化財等にはなっていないが、今後も宮津の代表的な洋風建築として永くこの地にあって欲しいものである。

第1061回・月桂冠旧本店

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京都市伏見区南浜町に、日本最大の酒造メーカーである月桂冠㈱の旧本社屋がある。大正8年(1919)に建てられ、洋風の作りも取り入れた土蔵造の重厚な外観が特徴。隣接する大倉家本宅や月桂冠大倉記念館などの建造物群とともに、伏見界隈でも歴史的な街並みを構成している。

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鍵の手に曲がった街路に沿って、月桂冠旧本店と大倉家本宅が並んで建っている。平成5年(1993)に現在の本社屋が完成するまで、月桂冠本店として現役で使われていた。

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外観は伝統的な町家の作りとなっているが、内部は洋風の事務室が中心となっており、1階に事務所、2階に応接室、会議室、印刷室などを配している。

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側面から望む。主屋と土蔵の間に建つ平屋建ての棟は社長室で、ステンドグラスのある出窓を備えるなど、洋風の造りになっているという。

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宇治川の氾濫による水害を防ぐため、1階は石囲いを築いて床を高く作っている。
建ちの高い外観は黒い外壁と相まって、白壁の酒蔵や軒の低い町家が並ぶ伏見の酒蔵界隈でも目立つ存在である。

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現在は1階の一部を開放して喫茶、土産販売、観光案内所として活用されている。

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明治から大正にかけて、黒漆喰仕上げの外壁を有する土蔵造の銀行店舗が各地に建てられた。(当ブログでは土蔵造の銀行建築として、現在は黒漆喰塗ではないが、富山県礪波市の旧中越銀行本店を取り上げている)

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旧月桂冠本店も、それらの銀行建築から何かしらの影響を受けているものと考えられている。

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現在は1階の旧事務室部分だけが公開、利用できるようになっているが、旧社長室や2階なども見てみたい建物である。

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旧本店に隣接する大倉家本宅(非公開)。文政11年(1828)に建てられ、京都市内では最大規模の町家とされる。

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慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、周囲の町家や船宿が戦乱に巻き込まれ焼失した中、大倉家は罹災を免れたという。

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大倉家本宅と月桂冠旧本店を比較すると、同じ伝統的な町家と言ってもかなり趣が異なることがお分かり頂けるのではないだろうか。

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大倉家本宅の裏に続く酒蔵。明治39~42年(1906~09)にかけて建てられた酒蔵が並び、現在は月桂冠大倉記念館として保存、公開されている。

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酒蔵に続く、月桂冠大倉記念館の玄関。

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江戸時代の建造である大倉家本宅を除き、これらの明治以降の建物や酒造りの道具類は、経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。

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こことは別にある北蔵の施設も近代化産業遺産に認定されていたが、近年の再開発によって失われてしまった。

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酒蔵及び月桂冠大倉記念館の背後にまわると、濠川に面して酒蔵が並ぶ景色を見ることができる。

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酒どころ伏見を代表する景色のひとつとなっている。

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月桂冠旧本店から少し北側に位置し、大倉家本宅に劣らぬ重厚な佇まいを見せる山本本家。月桂冠と同様に古い歴史を有する酒蔵で、延宝5年(1677)の創業である。

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鳥羽伏見の戦いでは大倉家本宅とは異なり全焼の憂き目をみたが、直ちに再建されたのが現在残る建物であるという。

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高塀を巡らせた部分は大正時代の増築で、茶室や応接間を備えた近代和風建築である。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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