第1156回・旧鈴木信太郎邸(鈴木信太郎記念館)

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平成30年3月28日に開館した東京都豊島区にある鈴木信太郎記念館は、仏文学者の鈴木信太郎の旧宅を豊島区が取得・整備して公開したものである。昭和3年に建てられ、空襲から蔵書を守った鉄筋コンクリート造の書斎棟と、戦後間もなく再建もしくは移築された2棟の住居棟は共に「旧鈴木家住宅」として豊島区の有形文化財に指定されている。

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豊島区東池袋5丁目、地下鉄丸ノ内線新大塚駅に近い位置にある鈴木信太郎記念館。石積みの擁壁の一部を切って設けられた石段を登ると、時代の異なる3棟の建物で構成された旧鈴木邸が現れる。

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昭和3年(1928)に建てられた書斎棟。鉄筋コンクリート造で書斎と蔵を兼ねており、昭和6年には鉄骨造の2階が増築され、子供部屋として使われていた。昭和20年(1945)4月13日の空襲で鈴木邸は焼失するが書斎棟の1階部分は焼け残り、中の蔵書も無事であった。

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書斎棟に続くホール・茶の間棟。焼失した居住棟の跡地に昭和21年(1946)に再建された。戦後間もない当時、「臨時建築制限令」によって15坪を超える建物の新築・増改築は禁じられていたため、応接空間を兼ねた玄関ホールと茶の間に台所、風呂、便所等の水回りを設けた最低限の間取りでまとめられている。

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ホール・茶の間棟の奥に建つ座敷棟。昭和23年(1948)に現在の埼玉県春日部市にあった鈴木本家から移築したもの。移築は規制の対象に含まれていなかったため、大地主であった本家の離れ座敷の一部を移築したものである。

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ホール・茶の間棟と座敷棟の間に設けられた内玄関。この2棟が戦後の鈴木家の居住棟となった。

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昭和31年(1956)には戦災で焼失した書斎棟2階部分が再建され、鈴木邸の戦災復興が完了したと言える。

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玄関ホールから玄関を望む。玄関ホールは書斎棟と茶の間をつなぐ板張りの部屋で、応接間を兼ねていた。玄関脇(写真左側)には階段室が設けられており、当初から書斎棟2階部分も再建を予定していたものと思われる。

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茶の間。出窓を配し、床には掘り炬燵を設けている。
法令上の制約に加え、建設用資材も不足していた時期であったが、材木商であった夫人の実家から材木を調達したという。

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茶の間には戦前の鈴木邸を再現した模型が展示されている。戦災で焼失した旧居住棟は大正10年(1921)に建てられた木造の二階家で、写真左端の張り出した部分は旧書斎。

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戦災前の書斎棟はマンサード(中折れ)屋根の2階が載る洋風の外観であった。戦後の再建に際しては焼け残った鉄骨を再利用しているが、屋根の形状は変わっている。

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明治20年代に建てられたと推測されている座敷棟。鈴木本家にあった屋敷の離れの一部とされる。

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鈴木家は埼玉県北葛飾郡富多村下吉妻(現在の春日部市)に約100町歩(約30万坪)に及ぶ広大な土地を有し、信太郎の祖父の代からは東京・神田で米穀問屋も営む富裕な家であった。

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江戸時代以前は武士と一部の階層を除き建てることができなかった書院造の座敷も、明治以降は身分制の崩壊により、富裕な農家や商人などが自由に建てられるようになった。

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縁側に嵌め込まれた硝子戸も近代の和風建築ならではの特色である。また戦災後に移築によって新たな住居を確保した事例としても珍しい。(規模は異なるが、麻布にあった旧三井八郎右衛門邸と同じと言える)

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終戦直後の住宅・建築事情を伝える2棟の居住棟も非常に興味深いが、旧鈴木信太郎邸の一番のみどころは戦災から蔵書を守った書斎棟である。書斎棟の入口鉄扉には、火災の熱で歪んだ痕跡が今も残っている。

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書斎には床から天井まで届く造り付けの書棚がいくつも並び、その一角にL字型の特注の机が据えられている。天井からはシャンデリアが下がり、壁には大きな暖炉、窓の欄間にはステンドグラスを嵌め込む。鉄筋コンクリート構造の採用も含め、全て鈴木信太郎の意向によるものである。

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壁も窓と暖炉を除き、全て造り付けの書棚で覆われている。

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瓦斯ストーブが据え付けられたタイル貼りの重厚な暖炉。

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鈴木信太郎(1895~1970)は大正10年から東京帝大講師として仏文学の講義を担当、戦後は東大の文学部長を務めた。同じく仏文学者として知られる辰野隆(辰野金吾の息子)らと共に日本におけるフランス文学の研究に大きく貢献した人物である。

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大正14年には約1年間パリへ私費留学、このとき買い求めた大量の稀覯本が船便で輸送中に船火事のため全て焼失するという事件に遭遇する。これが当時の個人邸としては珍しい、鉄筋コンクリート造、防火設備完備の書斎棟を建てる動機となった。

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書斎は学究の場であると同時に親しい人との交友を楽しむサロンとなった。かつては窓際に応接用テーブルがあり、そこで将棋や麻雀を楽しむこともあった。また、空襲で罹災後はホール・茶の間棟が再建されるまで、書斎の一角に畳を敷いて生活していたという。

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窓の欄間には鈴木信太郎が自らデザインした5枚組のステンドグラスが嵌め込まれている。5種類の動物がそれぞれペアとなり、中央に広げた書物を掲げるという図柄で、仏語で「世界は一冊の書物に至るために作られている」という文言が入っている。これは研究対象としていた詩人ステファヌ・マラルメの言葉である。

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最晩年までフランス文学の研究に取り組んだ鈴木信太郎は、昭和45年(1970)3月4日にこの書斎で病を発し急逝、75年の生涯を閉じた。邸宅はその後も遺族によって大切に維持され、平成22年(2010)に豊島区に寄贈された。

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同じ豊島区にある旧江戸川乱歩邸の土蔵と同様、文化人の書斎を直接見ることができる魅力的な場所である。展示も文学、建築共に大変充実したものとなっている。

(建物の内部撮影は書籍等展示資料の接写以外は基本的に可能)
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第1102回・旧小坂家住宅

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東京都世田谷区瀬田にある旧小坂家住宅は、実業家で政治家の小坂順造の別邸として昭和13年(1938)に建てられた。武蔵野台地の一角である国分寺崖線沿いに多く建てられた近代の別邸の中で今も残る唯一の存在とされる。現在は広大な敷地と共に世田谷区が所有しており、公園施設として公開されている。世田谷区指定有形文化財。

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東急田園都市線二子玉川駅からバスに乗り、以前弊ブログでも紹介した「静嘉堂文庫」で下車すると、停留所のすぐそばに広大な緑地と和風の門が現れる。かつての小坂邸の裏門で、敷地に沿った坂道を登ると洋風の旧正門があり、共に現在は公園の入口となっている。現在、旧小坂邸の敷地は「瀬田四丁目旧小坂緑地」として開放されている。

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邸宅を建てた小坂順造(1881~1960)は長野県の旧家に生まれ、信濃毎日新聞や信越化学工業の社長を務めるなど実業家として活躍すると共に、衆議院議員・貴族院議員も務め政治家としても活動した。元外務大臣の小坂善太郎は長男、元運輸大臣の小坂徳三郎は三男、元文部科学大臣の小坂憲次は孫である。

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旧正門をくぐりしばらく進むと、旧小坂家住宅の主屋が現れる。
小坂順造の本邸は渋谷にあり、この邸宅は別邸として建てられたが昭和20年の戦災で本邸が焼失したため、戦後はここが本邸となった。

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主屋の脇に配された庭門。

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現在も随所に武蔵野の自然が残るこの界隈には近代以降、富裕層の別邸が多く設けられた。現在も往年の別邸の佇まいを残しているのは旧小坂邸のみである。旧小坂邸は邸宅だけではなく、広大な敷地がほぼそのまま残されている点でも貴重である。

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写真中央のベンチが置かれている場所にはかつて茶室が建っていた。戦時中には日本画家の横山大観が池之端にあった自邸から夫人と共に一時期疎開していた。自邸は東京大空襲で焼失したが、大観は既に小坂邸内に疎開していたため難を免れたという。

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主屋玄関。設計施工は清水組(現・清水建設)による。
施主である小坂順造は建築に関心があったのか、建設中も工事現場によく顔を出していたという。

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玄関の土間。自然豊かな郊外でくつろぐための別邸として建てられたためか、玄関周りは故郷の長野の生家をイメージしたものと思われる古民家風の造りとなっている。

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吹き抜け風になった玄関土間の天井。
天井の太い梁は、解体された奥多摩の古民家の部材を貰い受けたものであるという。

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玄関前の畳廊下。

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織部床が設えられた玄関脇の茶室。

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茶室の先にある書斎。

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書斎は梁や柱に太い松の丸太を用いた豪快な造りとなっており、英国の田舎家といった趣のある洋室となっている。

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書斎の暖炉廻りに平積みされている石は長野県内で産出される鉄平石である。地元で主に屋根葺き材に使われていた鉄平石は大正期頃より今日に至るまで、建築材料として広く用いられている。以前紹介した西宮の旧山本家住宅や東京白金台の旧渡辺甚吉邸でも、門柱などに鉄平石が使われている。

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玄関から畳廊下を挟んだ位置にある居間と茶の間。

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居間から茶の間を望む。
欄間には「五三の桐」があしらわれている。

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続き間となっている2つの座敷の周りを入側が囲み、硝子戸の先に庭が広がる。

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派手さはないが、材料に贅を尽くした座敷である。

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居間の軒下から庭越しに内蔵と二階建ての寝室棟を望む。

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居間・茶の間、玄関、茶室、台所、使用人部屋等がある主屋棟。
主屋棟を中心に、その両側に書斎棟、内蔵と寝室棟がそれぞれ配されている。

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主屋棟と寝室棟の間に位置する鉄筋コンクリート造の内蔵。

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邸内で唯一、二階建てになっている寝室棟の内部は洋風に作られている。
二階は子息用の部屋だが非公開。

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漆喰塗の天井や大理石張りの暖炉、簡素なステンドグラスが嵌め込まれた窓を持つ純洋風の寝室。

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寝室の窓の欄間には斜め格子紋様のステンドグラスが嵌め込まれている。

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寝室天井の照明と台座飾り。

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寝室に附属するベランダ兼サンルーム。天気の良い日はここから木々越しに富士山が見えるという。

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旧小坂家住宅は外観は和風で統一された比較的簡素な印象であるが、内部は古民家風、数寄屋風、洋風、和洋折衷など様々な意匠の部屋が見られる、趣味性に富んだ別邸である。

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平成8年(1996)に世田谷区が公園用地として小坂家より敷地を購入、建物は寄贈を受けた。平成11年(1999)には世田谷区指定有形文化財となり、現在は「一般財団法人世田谷トラストまちづくり」が区の委託を受け、公開管理に当たっている。

第1093回・旧四谷見附橋(長池見附橋)

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JR四ツ谷駅を跨ぐ跨線橋である四谷見附橋は、大正2年(1913)に架けられた鋼製アーチ橋で赤坂離宮(現・迎賓館)に近接する橋として華麗な意匠の欄干や照明燈で飾られていた。道路拡幅のため平成3年(1991)に現在の橋に架け替えられたが、旧橋の本体は多摩ニュータウンに移設、長池見附橋として再生され、親柱と欄干は現在の四谷見附橋に再利用されている。

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長池見附橋がある長池公園は、東京都八王子市別所2丁目にある多摩ニュータウンの地区公園である。長池見附橋は公園内を横切る市道の橋として現役で使用されている。

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四谷から移設されたのは鋼製アーチの主構部で、親柱、欄干、照明燈、煉瓦と石で仕上げられた橋台は移設に際して新しく作られたものだが、いずれも旧橋の意匠を忠実に復元したものとなっている。

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四谷にあった当時は外堀と中央線を跨ぎ、新宿通りを通していた。近接する赤坂離宮(現在の迎賓館)の外門的に位置づけられたことから、ネオ・バロック様式の装飾を取り入れた華麗な意匠が施された。

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設計は東京市技師の華島正義が構造設計を行い、福田重義が装飾設計を担当した。福田重義は日比谷公園内に現存する旧公園事務所の設計者であり、横浜市開港記念会館の現設計者としても知られる。

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旧四谷見附橋は幅員が約22メートルであったのに対し、長池見附橋の幅員は約17メートルとされていたため、移設に際しては約5メートル分狭められている。長さは移設前と変わっていない。

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同じ時期に架けられた装飾的な鋼製アーチ橋で現在も当時の面影をよく残しているものに、名古屋の納屋橋(大正2年)、大阪の難波橋(大正4年)本町橋(大正2年、大阪市指定文化財)があるが、このうち橋梁本体も架橋当初のものが現存するのは本町橋だけである。

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旧四谷見附橋と本町橋は、国内で現存する最古の鋼製アーチ橋と思われる。

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昭和末期に新宿通りの拡幅工事が決定し、四谷見附橋は架け替えられることとなり旧橋は解体撤去される予定であったが、昭和47年には彫刻工芸部門の文化財にも指定されていた旧橋の保存を求める声が地元住民や土木学会から起こった。 

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調査の結果、旧橋は架橋から70年以上超えていたが現役の道路橋として引き続き使用するには十分な強度を有することが判明した。検討が重ねられた結果、当時東京都住宅・都市整備公団によって整備中であった多摩ニュータウンに旧橋の本体部分を移設、市道の道路橋として再利用されることになった。

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一方、親柱や欄干、照明燈は地元の要望に配慮して現地で保存、新しい四谷見附橋に取り付けられることになったため、移設される本体部分には複製が取り付けられた。

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このような経緯から、旧四谷見附橋は八王子と四谷の2ヶ所に別れて保存・再利用されている。
それでは長池見附橋に対し、現在の四谷見附橋はどのようになっているのかを見てみたい。

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JR四ツ谷駅中央線ホームから見た現在の四谷見附橋。
欄干及び石の親柱、その上に載る照明燈、煉瓦と石で仕上げられた橋台は長池見附橋と同じ形のものが見える。

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橋の主構は形態こそアーチ状であるが、旧橋とは全く異なる現代の橋梁である。
幅は旧橋に比べて大幅に広げられており、全長と全幅はほぼ同じとなっている。

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旧橋のものが再利用されていると思われる欄干。

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本記事5枚目の写真と比較すると、旧橋の面影がかなり踏襲されているのがお分かり頂けると思う。

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橋の上から欄干、親柱、照明燈を望む。

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四谷見附橋では橋銘を親柱ではなく、欄干の中央部に設けられた橋銘版に記している。

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親柱や欄干の御影石で造られた部分は黄色味を帯びており、青みを帯びている長池見附橋のものと色調が異なる。これは石に含まれる鉄分が錆びたことによるもので、年数を経ている証拠である。即ち四谷の方に旧橋の部材が再利用されていることが分かる。

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用途を終えながらも引き続き使用に耐える橋梁を他所に移設・再利用した事例は、大阪の旧心斎橋(現・緑地西橋)等戦前より多く存在するが、旧四谷見附橋(長池見附橋)のように歴史的・文化財的側面から移設・再利用が図られた事例は珍しい。

(参考)一般社団法人 建設コンサルタンツ協会ホームページ

第1092回・堀商店

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錠前・建具金物の老舗である合資会社堀商店は、明治23年(1890)の創業以来、東京都港区新橋2丁目で営業を行っている。現在の本社屋は昭和7年(1932)に建てられ、スクラッチタイル貼りの重厚な洋風建築は国の登録有形文化財にもなっている。

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明治時代に建てられた先代社屋が大正12年(1923)の関東大震災で罹災したため、昭和7年(1932)に再建されたのが現在の建物である。先代社屋も現在と同様角地に面しており、塔屋を載せた擬洋風建築であった。(堀商店のホームページで紹介されている)

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欧米の錠前、建具金物また暖炉金物などの輸入販売から始まった堀商店は、大正初期には自ら錠前、建具金物、そして船舶金物などの製造販売を始めて西洋金物店としての地位を築いた。現在でも独自性のある製品で知られ、歴史的建造物の錠前・金物の修理復元なども手掛けている。

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鉄筋コンクリート造4階建で、3階までを店舗及び事務所、4階が店主の住居となっており、江戸時代以来の伝統的な商家の居住形態が踏襲されている。

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設計は公保敏雄とその実兄である小林正紹の共同設計で、施工は安藤組(現・安藤ハザマ)による。小林正紹は大蔵省技師で、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館(大正15年、国指定重要文化財)の設計者としても知られる。

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局面を持つ角地に店舗の入り口を設け、両端に設けられた開口部がそれぞれ通用口及び居住階への玄関と思われる。

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外観からは想像できないが、居住空間である4階には床の間付きの客間や仏間などの和室が暖炉を備えた応接間などの洋室と混在しているという。(現在も当時の内装が残されているかどうかは分からない)

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先代社屋と同様に塔屋を備えている。塔を持ち濃厚な装飾とスクラッチタイルで覆われた外観はほぼ同時期の建物である大阪の生駒時計店を連想させる。生駒時計店もかつて最上階は居住空間となっており、住み込みの店員の寝起きに使われていたという。

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外壁の老朽化が進んでいるのかここ数年来、外壁は剥落防止用と思われるネットで覆われている状態が続いている。

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修復される日が遠からず来ることを念ずる。

第1090回・吉川英治記念館

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東京都青梅市柚木町にある吉川英治記念館には、昭和時代を代表する大衆作家のひとりである吉川英治(1892~1962)が戦中戦後の約10年間にわたって過ごした旧宅が保存、公開されている。明治時代に建てられたとされる現地の養蚕農家の家屋を買い取って一部増改築を施された家屋は、作家の住まいとしても興味深いが、書斎として使われていた離れの洋館など建物自体も見どころに富んでいる。

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街路から望む全景。手前の現在駐車場になっている場所は、かつては梅林であったという。

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敷地内に建つ母屋と離れの洋館、土蔵、長屋門は当地で養蚕業を営む野村氏の屋敷として、江戸時代後期から明治半ばにかけて建てられたという。現在はそれらに加え、記念館の展示室が建っている。

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細い路地に面して建つ長屋門が記念館の入口になっている。吉川英治はここの袖部屋を納戸と書庫として使っていた。

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戦時中は防空壕もあったという。現在防空壕は残されていないが、門の脇にある防火用水のコンクリート製水槽が当時を偲ばせる。戦時中の防火水槽で現存するものではここ以外に横浜の旧柳下家住宅がある。

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正面から望む母屋。明治初期の創建と考えられている。
屋根は元々は板葺きであったが、記念館とする際に銅版葺に改められている。

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吉川英治は昭和16年(1941)にこの家を買い取り、3年後の昭和19年3月に転居、昭和28年8月までの約10年間この家で暮らした。所謂引っ越し魔で、生涯に約30回転居を重ねた中で最も長く住み続けた家であり、戦後の大作「新・平家物語」(昭和25年連載開始)などがここで執筆された。

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離れの洋館。明治の半ばに奥多摩の一角にこのような洋館が建てられていること自体が驚きである。
吉川英治は当初はここを書斎として使っていた。

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江戸時代末期の弘化4年(1848)の創建とされる土蔵。手前にあるのは吉川英治が随筆にて名水と記したという井戸。

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玄関。入って右側は元々は五右衛門風呂のある浴室などがあったが、戦後間もなく数寄屋風の座敷に改装されている。応接間として使われた他、東京から来る編集者の待機場所に充てられていたという。

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旧宅の内部は通常は外から覗きこむ形でしか見学は出来ないが、吉川英治の命日に当たる9月7日(英治忌)と見学会(平成29年は6月に4日間実施、既に終了。)実施時のみ見学できる。

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見学会は学芸員による説明に加え、記念館館長の吉川英明氏(吉川英治の長男)による居住当時の思い出話が聞ける大変興味深いものであった。

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奥の床の間のある座敷が吉川夫妻の寝室で、手前の次の間が書斎として使われていた。

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精緻な組子細工が施された座敷の欄間。

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戦後の昭和22年頃に玄関脇の浴室を応接間に改築するなどの増改築が行われ、母屋の裏に新たな浴室などが作られた。

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離れ洋館の内部。書斎として使われていた当時の設えを再現している。
ただし、吉川英明氏によると専ら書斎として使っていたのは先述の座敷であり、洋館の離れはあまり使っていなかったのでは、とのことであった。

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洋館のテラス。

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洋館から母屋を望む。
洋館テラスの角柱が真ん中にふくらみのあるエンタシスとなっているのは珍しい。

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テラスの床に敷き詰められているのは瀬戸焼の「本業タイル」である。

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洋館内部の天井照明台座。

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洋館の室内やテラスの天井に施された漆喰細工は非常に精緻なもので、明治中期としてはかなり本格的な造りの洋館であったことが窺える。

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弊ブログでは作家の住まいまたは生家として他に、谷崎潤一郎志賀直哉、太宰治(生家及び疎開先)、山本有三里見弴江戸川乱歩の家をそれぞれ既に紹介しているので、興味のある方はそれぞれ御覧頂けると幸いである。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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