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第1200回・旧目黒雅叙園百段階段

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東京都目黒区下目黒にある「ホテル雅叙園東京」内にある「百段階段」は、前身にあたる「目黒雅叙園」の3号館として昭和10年(1935)に建てられた。旧目黒雅叙園時代の装飾や客室の一部は現在の施設にも引き継がれているが、建物として創建当時のまま残されているのは「百段階段」のみである。東京都指定有形文化財。

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目黒雅叙園は昭和6年(1931)に創業者である細川力蔵によって、当時は東京の郊外であった目黒川沿いの現在地で開業した。大規模かつ豪華な造りが特徴で、庶民も家族連れで利用できる料亭として人気を博したという。

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開業当初より料亭のほかに、結婚式場、宴会場、美容室、写真撮影場などが一体的に備えられており、今日では一般的になっている総合結婚式場の先駆的存在でもあったことでも知られる。また、大浴場も備えた一大娯楽施設でもあった。

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目黒雅叙園時代には1号館から7号館までの建物が存在し、J・コンドル設計の洋館を改装した建物を始め、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師によって戦時中まで造営が続けられた華麗な施設群であったが、平成3年(1991)に目黒川改修に伴い改築され、百段階段(3号館)以外の建物は全て取り壊された。

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改築された後の新施設ではコンドル設計の洋館内装が中華料理店の特別室として移築復元されているなど、一部の客室や装飾が再利用されているが、建物として現在もそのまま保存されているのは「百段階段」のみである。

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昭和10年(1935)に建てられた百段階段は、一直線に伸びる欅材の階段沿いに、客室や宴会場として建てられた趣向の異なる7つの部屋が配されている。名称は「百段階段」であるが、実際は99段となっている。

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平成30年の年末には建物自体を主題とした企画展が行われ、当記事の写真は全てこのときのものである。

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絢爛豪華な内装が施された中で誰もが一日中「お大尽」気分を楽しめるように造られており、「昭和の竜宮城」とも謳われた、かつての目黒雅叙園の威容を残している。

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階段沿いに配された部屋の中で、最も麓に位置する「十畝の間」
室名は、天井画を手掛けた日本画家である荒木十畝の名に因んでいる。

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黒を基調に、螺鈿細工と七宝細工を施した格天井や長押が特徴である。

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旧目黒雅叙園では、当時一時的に大量に輸入された南米材が至るところに多用されていた。現存する百段階段でも、「十畝の間」では床の間の向かって右側の床柱に南米材が用いられている。写真は左側の床柱で、樹齢約200年とされるアララギの木が用いられている。

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窓枠など、部分的に洋風の造りも見られる。

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「昭和の竜宮城」の名に最もふさわしいのが、「十畝の間」の次に現れる「漁礁の間」

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部屋中が金色で彩られ、床柱、欄間、天井は華やかな彩色彫刻で埋め尽くされている。

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欄間に嵌め込まれた彫刻は平安時代の貴族の五節句に由来する意匠となっている。写真は「七夕」で、右上に短冊を吊るした笹が見える。

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室名は古い中国の山水画の画題「漁礁問答」に由来する。

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床脇の天井は金色の折り上げ格天井。

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階段の天井板にも絵画が描かれている。

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百段階段の中段に位置する、「草丘の間」の床の間。
「草丘の間」は天気の良い日には富士山が見えるなど、見晴らしの良さから昼間の宴会場として人気があったという。

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花鳥画で彩られた「草丘の間」の天井。

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四つに分割された格天井に描かれた巨大な扇が目を引く「静水の間」

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「静水の間」の床の間。

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季節の花や野菜、魚介類が描かれている「星光の間」

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「星光の間」と「静水の間」は天井が低く、広さも小規模で、百段階段の中では比較的こじんまりとした座敷となっている。

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近代日本画壇の大家・鏑木清方の絵で飾られた「清方の間」
この部屋でも南米材が多用されているという。

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斬新な意匠が目を引く控えの間の天井。網代や丸太など数寄屋風の材料が用いられ、茶室風に造られている。

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「清方の間」の上には最上層の部屋である「頂上の間」があるが、催し物の関係で写真撮影禁止だったため、画像はない。

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絵画や彫刻、珍奇な銘木だけでなく、趣向を凝らした建具も百段階段の見どころである。

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百段階段は国の登録有形文化財を経て、平成21年(2009)には東京都の指定文化財となった。現在は各種催事の会場として利用されているほか、食事付の見学会も定期的に開催されている。
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第1184回・旧山口萬吉邸〔再訪〕

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平成28年(2016)2月7日付弊ブログ記事(第946回)にて紹介した東京都千代田区九段北にある旧山口萬吉邸は、平成30年(2018)5月に国の登録有形文化財になった。そして改修工事の上、会員制オフィス「kudan house」として再生、平成30年9月より開業した。

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正門脇の門衛所と思われる付属棟の窓も前回記事では塗装が剥げ落ちていたが、きれいに塗り直されていた。

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平成30年9月14日から16日にかけて、旧山口萬吉邸はファッションデザイナーで現代美術家である館鼻則孝氏の個展会場として公開されていたため、初めて敷地内に入ることができた。

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旧山口萬吉邸は、鉄筋コンクリート造3階建地階付のスペイン風洋館で、昭和2年(1927)に竣工した。木子七郎が設計、構造設計を内藤多仲、そして今井兼次が木子の助手という形でそれぞれ担当したようである。なお、同じ3者の組み合わせで大正15年に建てられた内藤多仲の自邸も現存しており、内藤が長年教鞭を執っていた早稲田大学によって保存されている。

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内玄関。山口家で通常使用されていたのはこちらと思われる。
山口萬吉は新潟の長岡に本拠を置く事業家で、現在の新日本石油の前身会社の設立にも関わった。(新潟はかつては石油の産出地であり、同社発祥の地でもある)

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日本の洋風邸宅にスペイン風意匠が取り入れられるのは大正後期に始まり、昭和戦前期にかけて流行した。元々は米国のリゾート地での流行であったが、建築家の武田五一や米国人であるヴォーリズ、また大林組などがこの様式を盛んに取り入れたことが知られている。都内では他に旧朝吹常吉邸(大正14年)、旧小笠原長幹邸(昭和2年)などが現存する。 

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大林組に勤務していた経歴を持つ木子七郎も、この様式を比較的早くから自らの設計作品に多く取り入れており、旧山口萬吉邸のほか、大正後期の建設と考えられる大阪の自邸、山口邸の翌年に竣工した兵庫県西宮市の旧新田利國邸が現存する。

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旧山口萬吉邸の2階内部には、以前取り上げた木子設計による旧稲畑二郎邸と同様に、次の間付きの本格的な日本座敷があるが、外観からは座敷の存在が全く分からないようにデザインされている。玄関ポーチのある正面2階、アーチ窓の内側が書院座敷となっている。

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スペイン風意匠の特色である、簡素ながらも重厚なポーチを張り出した正面玄関。
装飾豊かな木製の扉と玄関燈が出迎える。

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装飾意匠は木子七郎だけではなく、今井兼次によるデザインも多分に含まれているものと思われる。

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玄関脇にあるかつての応接間と思われる洋室。改修後もかつての雰囲気をよく残しているものと思しき部屋である。造り付けのソファーが設けられた出窓の開口部には緩やかな扁平アーチが見られるが、木子七郎設計の邸宅ではよく見られる意匠である。

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シンプルな意匠の暖炉。
この部屋は会員制オフィスになった現在も、山口家時代の照明器具や家具が再利用されているようだ。

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大きな半円アーチが3つ連なる1階ベランダ。庭園につながっている開口部には網戸が嵌め込まれ、実用性を重視した造りとなっている。なお、庭園の整備はまだこれからのようである。

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アーチの下の飾り窓には和風の青海波の意匠が見られる。

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かつては住み込みのボイラーマンも居たという地階。
今回は展示室に充てられていたが、連なるアーチが特徴的な地階も今後多目的に活用されるようである。

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旧山口萬吉邸の内部で最も魅力的な階段室。
床のモザイクタイルやラジエーターグリルも美しい。

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邸宅内に噴泉を設けるスパニッシュスタイルの定石に従って、旧山口萬吉邸では階段室に噴泉が設けられている。展示作品で覆われているが噴泉の後ろのアーチ窓はシンプルな意匠のステンドグラスになっており、その内側には洗面所が設けられている。

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曲線を多用する階段室は木子七郎が得意としていた意匠なのか、旧山口萬吉邸だけではなく旧新田利國邸や愛媛県庁舎などでも見られ、いずれも非常に美しい空間となっている。

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噴泉の水吐き口には女人像の頭部が据え付けられている。

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手摺りの意匠も秀逸。

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設計者の技量も大理石の手摺や漆喰壁、床タイルなどこの空間を造り上げた職人の腕前も、共にすばらしい。

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2階階段室に置かれたラジエーターグリル。1階と同じような意匠である。

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何となく南国情緒を感じさせる2階のベランダ。
2階は先述の日本座敷のほか、家族用の居室として使われていたと思われる部屋が並ぶ。

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1階のベランダと同様に、床はタイル貼り、開口部には網戸を嵌め込む。

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旧山口邸では屋内ベランダのほか、2階から3階にかけて屋外テラスも設けられている。
写真は2階屋外テラスへの出入り口。

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3階への階段。3階にはダンスホールとしても使われていたという洋室がある。

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旧新田利國邸と同様に、今も随所に残されている華麗な照明器具の数々も旧山口邸の見どころである。

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近代の邸宅を会員制オフィスとして再生させるというのは従前にはない新しい試みと思われるが、その成功と、旧山口萬吉邸に続く事例が更に現れることを願う。

第1172回・日本銀行本店別館(現存する昭和戦前期の日銀店舗 その3)

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弊ブログでは現存する昭和戦前期の日銀店舗を、平成24年(2012)の正月に投稿した本店本館に始まり、大阪京都小樽岡山広島松江の各支店をこれまで紹介してきた。今回は本シリーズの締めくくりとして、3期に亘る工事を経て昭和13年(1938)に竣工した本店別館を取り上げる。建築家人生の大半を日銀店舗の建設に関与してきた長野宇平治(1867~1937)最後の大作である。

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昭和2年(1927)、当時の日本銀行総裁・井上準之助は、関東大震災で被災し前年に修復工事が終わった本館に大規模な増築工事を施すことを決定する。

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震災時、竣工間近であった7階建の別館が震災に伴う大火で激しい損傷を受けるなど、本館以外の建物は震災による被害が深刻であったこと、震災不況に起因する度重なる金融恐慌などによって業務が増加、既存の建物だけでは対応できない状況になっていたことが大がかりな増築工事を決めた理由であった。

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増築設計は、明治以来日銀技師として大阪を始めとする各地の支店設計に従事し、本館の震災復旧工事も手掛けた長野宇平治に委ねられることとなった。既に日銀を辞して設計事務所を開いていた長野は技師長として日銀に復帰、昭和12年に死去するまで本店増築のほか、広島など各地の支店設計を手掛けた。

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工事は昭和4年(1929)に着工、3期に分けて行われ(第1期=昭和7年(1932)、第2期=昭和10年(1935)、第3期=昭和13年(1938)竣工)、それぞれ1号館、2号館、3号館と称された。写真の建物は最後に竣工した3号館。左奥に一部が写っているのは明治29年(1896)に竣工した辰野金吾設計の本館。

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昭和10年竣工の2号館部分を望む。写真の奥が3号館。

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日銀本店別館の向かいには昭和4年竣工の三井本館、斜め向かいには昭和2年改装の三越本店(共に国指定重要文化財)が建っている。

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かつてはもう1棟、長野宇平治の代表作とされた横浜正金銀行東京支店(昭和2年竣工)が3号館と向かい合う形で建っていた。昭和後期までこの界隈は、四つ辻全てが重厚な様式建築で占められた希少な一角であった。

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2号館の角の奥にはかつて1号館が建っていたが、新館(昭和48年(1973)竣工)建設のため解体され現存しない。別館は元々L字型平面で本館を囲い込むような形で建っていたが、1号館が撤去されたため現在は I 字型平面となっている。

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竣工から約40年で姿を消した1号館であるが、井上総裁から「絶対に壊れない建物」を設計するよう命じられた長野は極めて堅牢な設計を行っており、解体は困難を極めたという。

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三越本店前から望む別館(2号館・3号館)全景。
1号館撤去により建物自体の規模はかつての約半分程度に縮小されたが、このアングルからの眺めは竣工以来変わらない。

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本館と別館を比較すると、長野宇平治は師である辰野金吾の意匠を極めて忠実に踏襲しつつも、細部には巧みに独自の造形を加え、より大規模な建物を造り出していることが分かる。

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上の写真を見て、どちらが本館でどちらが別館かすぐに判別できる方はそう居られまいのではなかろうか。

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細部を見ると本館との相違を発見できる。
3階上部のパラペット(手すり壁、胸壁)は本館では銅板張りだが、別館では石造である。また、その上に設けられた飾り壺は別館だけに見られる装飾である。

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3階建の本館に対し新館は5階建となっているが、辰野の意匠を損なわないために4・5階の壁面はそれぞれ下層階よりもセットバックさせ、古典的な石張り仕上げとしつつも、意匠は平坦で控えめに仕上げられている。

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古典様式に精通していた長野宇平治だからこその造形であり、辰野金吾の本館とはまた異なる魅力がある。

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現在(平成30年)、日銀本店本館は免震工事が行われているが、日本銀行のホームページによると別館は先行して既に免震工事が完了しているので、別館も保存されるものと思われる。本館は既に国指定の重要文化財であるが、別館も将来は重要文化財に指定して、辰野・長野の師弟コンビによる作品として一体として保存されることを願う次第である。

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現存する昭和戦前期の日銀店舗シリーズ  おわり

(付記)
本記事及びこれまでの日銀本支店に関する記事の作成にあたっては、日本銀行の広報誌「にちぎん」に掲載された日本銀行の支店建物についての記事を主要参考資料とさせて頂いた。(PDF版で閲覧可能)

また、この建物については日本銀行のホームページを始め、各種書籍などによって「新館」「別館」「旧館」「増築部分」など様々な表記が見られるが、当記事では「別館」として統一させて頂いたことをお断りしておく。

第1156回・旧鈴木信太郎邸(鈴木信太郎記念館)

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平成30年3月28日に開館した東京都豊島区にある鈴木信太郎記念館は、仏文学者の鈴木信太郎の旧宅を豊島区が取得・整備して公開したものである。昭和3年に建てられ、空襲から蔵書を守った鉄筋コンクリート造の書斎棟と、戦後間もなく再建もしくは移築された2棟の住居棟は共に「旧鈴木家住宅」として豊島区の有形文化財に指定されている。

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豊島区東池袋5丁目、地下鉄丸ノ内線新大塚駅に近い位置にある鈴木信太郎記念館。石積みの擁壁の一部を切って設けられた石段を登ると、時代の異なる3棟の建物で構成された旧鈴木邸が現れる。

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昭和3年(1928)に建てられた書斎棟。鉄筋コンクリート造で書斎と蔵を兼ねており、昭和6年には鉄骨造の2階が増築され、子供部屋として使われていた。昭和20年(1945)4月13日の空襲で鈴木邸は焼失するが書斎棟の1階部分は焼け残り、中の蔵書も無事であった。

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書斎棟に続くホール・茶の間棟。焼失した居住棟の跡地に昭和21年(1946)に再建された。戦後間もない当時、「臨時建築制限令」によって15坪を超える建物の新築・増改築は禁じられていたため、応接空間を兼ねた玄関ホールと茶の間に台所、風呂、便所等の水回りを設けた最低限の間取りでまとめられている。

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ホール・茶の間棟の奥に建つ座敷棟。昭和23年(1948)に現在の埼玉県春日部市にあった鈴木本家から移築したもの。移築は規制の対象に含まれていなかったため、大地主であった本家の離れ座敷の一部を移築したものである。

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ホール・茶の間棟と座敷棟の間に設けられた内玄関。この2棟が戦後の鈴木家の居住棟となった。

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昭和31年(1956)には戦災で焼失した書斎棟2階部分が再建され、鈴木邸の戦災復興が完了したと言える。

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玄関ホールから玄関を望む。玄関ホールは書斎棟と茶の間をつなぐ板張りの部屋で、応接間を兼ねていた。玄関脇(写真左側)には階段室が設けられており、当初から書斎棟2階部分も再建を予定していたものと思われる。

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茶の間。出窓を配し、床には掘り炬燵を設けている。
法令上の制約に加え、建設用資材も不足していた時期であったが、材木商であった夫人の実家から材木を調達したという。

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茶の間には戦前の鈴木邸を再現した模型が展示されている。戦災で焼失した旧居住棟は大正10年(1921)に建てられた木造の二階家で、写真左端の張り出した部分は旧書斎。

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戦災前の書斎棟はマンサード(中折れ)屋根の2階が載る洋風の外観であった。戦後の再建に際しては焼け残った鉄骨を再利用しているが、屋根の形状は変わっている。

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明治20年代に建てられたと推測されている座敷棟。鈴木本家にあった屋敷の離れの一部とされる。

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鈴木家は埼玉県北葛飾郡富多村下吉妻(現在の春日部市)に約100町歩(約30万坪)に及ぶ広大な土地を有し、信太郎の祖父の代からは東京・神田で米穀問屋も営む富裕な家であった。

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江戸時代以前は武士と一部の階層を除き建てることができなかった書院造の座敷も、明治以降は身分制の崩壊により、富裕な農家や商人などが自由に建てられるようになった。

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縁側に嵌め込まれた硝子戸も近代の和風建築ならではの特色である。また戦災後に移築によって新たな住居を確保した事例としても珍しい。(規模は異なるが、麻布にあった旧三井八郎右衛門邸と同じと言える)

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終戦直後の住宅・建築事情を伝える2棟の居住棟も非常に興味深いが、旧鈴木信太郎邸の一番のみどころは戦災から蔵書を守った書斎棟である。書斎棟の入口鉄扉には、火災の熱で歪んだ痕跡が今も残っている。

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書斎には床から天井まで届く造り付けの書棚がいくつも並び、その一角にL字型の特注の机が据えられている。天井からはシャンデリアが下がり、壁には大きな暖炉、窓の欄間にはステンドグラスを嵌め込む。鉄筋コンクリート構造の採用も含め、全て鈴木信太郎の意向によるものである。

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壁も窓と暖炉を除き、全て造り付けの書棚で覆われている。

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瓦斯ストーブが据え付けられたタイル貼りの重厚な暖炉。

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鈴木信太郎(1895~1970)は大正10年から東京帝大講師として仏文学の講義を担当、戦後は東大の文学部長を務めた。同じく仏文学者として知られる辰野隆(辰野金吾の息子)らと共に日本におけるフランス文学の研究に大きく貢献した人物である。

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大正14年には約1年間パリへ私費留学、このとき買い求めた大量の稀覯本が船便で輸送中に船火事のため全て焼失するという事件に遭遇する。これが当時の個人邸としては珍しい、鉄筋コンクリート造、防火設備完備の書斎棟を建てる動機となった。

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書斎は学究の場であると同時に親しい人との交友を楽しむサロンとなった。かつては窓際に応接用テーブルがあり、そこで将棋や麻雀を楽しむこともあった。また、空襲で罹災後はホール・茶の間棟が再建されるまで、書斎の一角に畳を敷いて生活していたという。

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窓の欄間には鈴木信太郎が自らデザインした5枚組のステンドグラスが嵌め込まれている。5種類の動物がそれぞれペアとなり、中央に広げた書物を掲げるという図柄で、仏語で「世界は一冊の書物に至るために作られている」という文言が入っている。これは研究対象としていた詩人ステファヌ・マラルメの言葉である。

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最晩年までフランス文学の研究に取り組んだ鈴木信太郎は、昭和45年(1970)3月4日にこの書斎で病を発し急逝、75年の生涯を閉じた。邸宅はその後も遺族によって大切に維持され、平成22年(2010)に豊島区に寄贈された。

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同じ豊島区にある旧江戸川乱歩邸の土蔵と同様、文化人の書斎を直接見ることができる魅力的な場所である。展示も文学、建築共に大変充実したものとなっている。

(建物の内部撮影は書籍等展示資料の接写以外は基本的に可能)

第1102回・旧小坂家住宅

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東京都世田谷区瀬田にある旧小坂家住宅は、実業家で政治家の小坂順造の別邸として昭和13年(1938)に建てられた。武蔵野台地の一角である国分寺崖線沿いに多く建てられた近代の別邸の中で今も残る唯一の存在とされる。現在は広大な敷地と共に世田谷区が所有しており、公園施設として公開されている。世田谷区指定有形文化財。

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東急田園都市線二子玉川駅からバスに乗り、以前弊ブログでも紹介した「静嘉堂文庫」で下車すると、停留所のすぐそばに広大な緑地と和風の門が現れる。かつての小坂邸の裏門で、敷地に沿った坂道を登ると洋風の旧正門があり、共に現在は公園の入口となっている。現在、旧小坂邸の敷地は「瀬田四丁目旧小坂緑地」として開放されている。

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邸宅を建てた小坂順造(1881~1960)は長野県の旧家に生まれ、信濃毎日新聞や信越化学工業の社長を務めるなど実業家として活躍すると共に、衆議院議員・貴族院議員も務め政治家としても活動した。元外務大臣の小坂善太郎は長男、元運輸大臣の小坂徳三郎は三男、元文部科学大臣の小坂憲次は孫である。

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旧正門をくぐりしばらく進むと、旧小坂家住宅の主屋が現れる。
小坂順造の本邸は渋谷にあり、この邸宅は別邸として建てられたが昭和20年の戦災で本邸が焼失したため、戦後はここが本邸となった。

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主屋の脇に配された庭門。

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現在も随所に武蔵野の自然が残るこの界隈には近代以降、富裕層の別邸が多く設けられた。現在も往年の別邸の佇まいを残しているのは旧小坂邸のみである。旧小坂邸は邸宅だけではなく、広大な敷地がほぼそのまま残されている点でも貴重である。

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写真中央のベンチが置かれている場所にはかつて茶室が建っていた。戦時中には日本画家の横山大観が池之端にあった自邸から夫人と共に一時期疎開していた。自邸は東京大空襲で焼失したが、大観は既に小坂邸内に疎開していたため難を免れたという。

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主屋玄関。設計施工は清水組(現・清水建設)による。
施主である小坂順造は建築に関心があったのか、建設中も工事現場によく顔を出していたという。

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玄関の土間。自然豊かな郊外でくつろぐための別邸として建てられたためか、玄関周りは故郷の長野の生家をイメージしたものと思われる古民家風の造りとなっている。

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吹き抜け風になった玄関土間の天井。
天井の太い梁は、解体された奥多摩の古民家の部材を貰い受けたものであるという。

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玄関前の畳廊下。

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織部床が設えられた玄関脇の茶室。

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茶室の先にある書斎。

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書斎は梁や柱に太い松の丸太を用いた豪快な造りとなっており、英国の田舎家といった趣のある洋室となっている。

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書斎の暖炉廻りに平積みされている石は長野県内で産出される鉄平石である。地元で主に屋根葺き材に使われていた鉄平石は大正期頃より今日に至るまで、建築材料として広く用いられている。以前紹介した西宮の旧山本家住宅や東京白金台の旧渡辺甚吉邸でも、門柱などに鉄平石が使われている。

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玄関から畳廊下を挟んだ位置にある居間と茶の間。

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居間から茶の間を望む。
欄間には「五三の桐」があしらわれている。

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続き間となっている2つの座敷の周りを入側が囲み、硝子戸の先に庭が広がる。

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派手さはないが、材料に贅を尽くした座敷である。

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居間の軒下から庭越しに内蔵と二階建ての寝室棟を望む。

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居間・茶の間、玄関、茶室、台所、使用人部屋等がある主屋棟。
主屋棟を中心に、その両側に書斎棟、内蔵と寝室棟がそれぞれ配されている。

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主屋棟と寝室棟の間に位置する鉄筋コンクリート造の内蔵。

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邸内で唯一、二階建てになっている寝室棟の内部は洋風に作られている。
二階は子息用の部屋だが非公開。

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漆喰塗の天井や大理石張りの暖炉、簡素なステンドグラスが嵌め込まれた窓を持つ純洋風の寝室。

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寝室の窓の欄間には斜め格子紋様のステンドグラスが嵌め込まれている。

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寝室天井の照明と台座飾り。

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寝室に附属するベランダ兼サンルーム。天気の良い日はここから木々越しに富士山が見えるという。

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旧小坂家住宅は外観は和風で統一された比較的簡素な印象であるが、内部は古民家風、数寄屋風、洋風、和洋折衷など様々な意匠の部屋が見られる、趣味性に富んだ別邸である。

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平成8年(1996)に世田谷区が公園用地として小坂家より敷地を購入、建物は寄贈を受けた。平成11年(1999)には世田谷区指定有形文化財となり、現在は「一般財団法人世田谷トラストまちづくり」が区の委託を受け、公開管理に当たっている。
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