第1090回・吉川英治記念館

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東京都青梅市柚木町にある吉川英治記念館には、昭和時代を代表する大衆作家のひとりである吉川英治(1892~1962)が戦中戦後の約10年間にわたって過ごした旧宅が保存、公開されている。明治時代に建てられたとされる現地の養蚕農家の家屋を買い取って一部増改築を施された家屋は、作家の住まいとしても興味深いが、書斎として使われていた離れの洋館など建物自体も見どころに富んでいる。

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街路から望む全景。手前の現在駐車場になっている場所は、かつては梅林であったという。

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敷地内に建つ母屋と離れの洋館、土蔵、長屋門は当地で養蚕業を営む野村氏の屋敷として、江戸時代後期から明治半ばにかけて建てられたという。現在はそれらに加え、記念館の展示室が建っている。

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細い路地に面して建つ長屋門が記念館の入口になっている。吉川英治はここの袖部屋を納戸と書庫として使っていた。

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戦時中は防空壕もあったという。現在防空壕は残されていないが、門の脇にある防火用水のコンクリート製水槽が当時を偲ばせる。戦時中の防火水槽で現存するものではここ以外に横浜の旧柳下家住宅がある。

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正面から望む母屋。明治初期の創建と考えられている。
屋根は元々は板葺きであったが、記念館とする際に銅版葺に改められている。

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吉川英治は昭和16年(1941)にこの家を買い取り、3年後の昭和19年3月に転居、昭和28年8月までの約10年間この家で暮らした。所謂引っ越し魔で、生涯に約30回転居を重ねた中で最も長く住み続けた家であり、戦後の大作「新・平家物語」(昭和25年連載開始)などがここで執筆された。

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離れの洋館。明治の半ばに奥多摩の一角にこのような洋館が建てられていること自体が驚きである。
吉川英治は当初はここを書斎として使っていた。

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江戸時代末期の弘化4年(1848)の創建とされる土蔵。手前にあるのは吉川英治が随筆にて名水と記したという井戸。

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玄関。入って右側は元々は五右衛門風呂のある浴室などがあったが、戦後間もなく数寄屋風の座敷に改装されている。応接間として使われた他、東京から来る編集者の待機場所に充てられていたという。

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旧宅の内部は通常は外から覗きこむ形でしか見学は出来ないが、吉川英治の命日に当たる9月7日(英治忌)と見学会(平成29年は6月に4日間実施、既に終了。)実施時のみ見学できる。

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見学会は学芸員による説明に加え、記念館館長の吉川英明氏(吉川英治の長男)による居住当時の思い出話が聞ける大変興味深いものであった。

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奥の床の間のある座敷が吉川夫妻の寝室で、手前の次の間が書斎として使われていた。

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精緻な組子細工が施された座敷の欄間。

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戦後の昭和22年頃に玄関脇の浴室を応接間に改築するなどの増改築が行われ、母屋の裏に新たな浴室などが作られた。

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離れ洋館の内部。書斎として使われていた当時の設えを再現している。
ただし、吉川英明氏によると専ら書斎として使っていたのは先述の座敷であり、洋館の離れはあまり使っていなかったのでは、とのことであった。

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洋館のテラス。

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洋館から母屋を望む。
洋館テラスの角柱が真ん中にふくらみのあるエンタシスとなっているのは珍しい。

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テラスの床に敷き詰められているのは瀬戸焼の「本業タイル」である。

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洋館内部の天井照明台座。

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洋館の室内やテラスの天井に施された漆喰細工は非常に精緻なもので、明治中期としてはかなり本格的な造りの洋館であったことが窺える。

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弊ブログでは作家の住まいまたは生家として他に、谷崎潤一郎志賀直哉、太宰治(生家及び疎開先)、山本有三里見弴江戸川乱歩の家をそれぞれ既に紹介しているので、興味のある方はそれぞれ御覧頂けると幸いである。
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第1082回・旧原邦造邸(原美術館)

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東京都品川区北品川にある原美術館は、実業家・原邦造の旧邸を利用した私設美術館。昭和13年(1938)に建てられた鉄筋コンクリート2階建の主屋は、邸宅建築としては珍しいモダニズムスタイルで、第一生命館や銀座和光、東京国立博物館等の設計で知られる渡辺仁の設計による。

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原美術館はJR品川駅から西に徒歩15分程度の位置にある。御殿山と称される小高い丘になっており、かつては三井財閥の益田孝や三菱財閥の岩崎彌之助など、貴顕富豪の大邸宅が建ち並んでいた。

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瓦を載せた土塀で囲まれた古風なお屋敷風の敷地を正門から入ると、モダンな原美術館本館が現れる。かつての旧原邦造邸の洋館部である。元々は既存の日本家屋にモダニズムスタイルの洋館を新築した和洋併置型の邸宅であった。日本家屋は現在、附属の煉瓦造の蔵を除き現存しない。

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原邦造(1883~1958)は、満鉄勤務を経て実業家・原六郎の養子となり、愛国生命(のち日本生命に合併)社長や王子製紙、東武鉄道などの取締役を務め、第二次大戦後は日本航空の初代会長も務めた実業家である。

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この館を建てた当時、御殿山の邸宅には養父の原六郎が建てた広大な和風の建物があったが、モダンでコンパクトな住居を望んだ夫人(原六郎の娘)の意向に沿って、モダニズムスタイルの新館を増築した。これが現在の原美術館本館である。

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邸宅として使われた期間は短く、昭和20年の敗戦後は米軍に接収され、返還後もビルマ(現ミャンマー)大使館として貸し出されるなど原家の住宅として使われることは無かった。昭和54年(1979)、原邦造の孫である原俊夫氏によって改装され、現代美術専門の美術館に生まれ変わった。

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上から見ると「レ」の字型をした旧原邸は、二階建ての居住棟と、使用人部屋や事務室が入る平屋建てのサービス棟が、玄関を挟んで両側に伸びる構成となっている。サービス棟の端には、既存の日本家屋に付随していた煉瓦造の蔵が現存している。

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正面玄関から向かって右側が居住棟で、原家の住まいとして使われていた部分。写真は玄関脇に配された応接室の窓で、内部は二層吹き抜けになっており、暖炉を備えている。

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正面玄関。スチールサッシの玄関扉などは創建当時からのものと思われる。現在はカフェとなっている中庭への開口部に入る建具も、創建当時からのものと思われる。

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正面玄関から向かって左側のサービス棟。
通用口と思われる。

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写真撮影禁止のため、写真で内部の模様をお伝えすることはできないが、内部は美術館として改装されているものの上述の応接間や全面を硝子窓にした半円形の朝食室、階段室等、随所に邸宅として使われていた当時の面影を見ることができる。

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応接間の脇には庭園への庭門があるが、かつて日本家屋も併設されていたことが分かる造りになっている。

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中庭から見ることができる煉瓦造の蔵は、現在も美術館の倉庫として使われているようである。明治~大正期に多く見られる焦茶色の焼過煉瓦と、昭和初期のモダニズム建築に見られる白い四角いタイルとの2種類の外装材が併存している。

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現在、御殿山界隈ではこの原美術館と、三菱グループの迎賓館(開東閣)として使われている旧岩崎彌之助邸に、往年のお屋敷街の面影を見ることができる。

第1065回・小机家住宅

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東京都あきる野市(旧西多摩郡五日市町)三内にある小机家住宅は、明治8(1875)頃に当時の銀座煉瓦街の洋風建築を模して建てられた擬洋風建築の住宅。明治初期の文明開化の様相を今日に伝える数少ない擬洋風建築である。東京都指定有形文化財。

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JR五日市線・武蔵五日市駅から徒歩10分程度の場所にある小机家住宅。秋川街道に面して門を開いた敷地の奥にひっそりと建っている。

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江戸時代より林業を営んできた小机家の7代目当主、小机三佐衛門によって建てられた。材木の取引のために出かけた深川木場からの帰り、当時造られて間もない銀座煉瓦街の洋風建築群を見て大いに刺激を受け、洋風の自宅を新築したという。

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伝統的な土蔵造りをベースにしつつ、正面には2層のベランダを張り出し、輸入物の鉄製防火扉やガラス窓、屋根材には同じく輸入品である亜鉛引トタン板を用いて建てられた。

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外側にベランダを張り出すのは、幕末から明治中期の擬洋風建築に多く見られ、長崎の旧グラバー邸や大阪の泉布観、和歌山の郭家住宅旧三重県庁舎、山梨の旧睦沢学校などがあり、官公庁、学校、住宅など建物の用途を問わず、現在でも各地に残されている。

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小机家のモデルとなったという銀座煉瓦街は、大阪の造幣寮(現・造幣局)やその迎賓施設である上述の泉布観などを建てた、お雇い外国人のウォートルスが明治5年(1872)から翌年にかけて設計を担当した。

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銀座煉瓦街はその後大正12年の関東大震災で壊滅し、現存する建物はない。小机家は銀座煉瓦街に直接影響されて建てられ、今に残されている希少な存在と言える。

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関東大震災では小机家自体も被災し、修復が行われている。1階ベランダの硝子戸などは震災後交換されたため、創建当初のものが残る2階と比較すると、窓の形やドアノブなど細部が微妙に異なるのが分かる。

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アーチ型に造られた玄関部分。角の隅石と同様、漆喰を塗って石造風に見せたものである。アーチの要石部分には、獏(ばく)の頭部をあしらった漆喰彫刻が取り付けられている。

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獏の漆喰彫刻は震災で破損し、長年そのままであったというが、現当主が先代当主と共に復元されたという。

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小机家住宅は現在、1階の一部を喫茶室「安居」として開放されているため、営業時間内であれば外観及び喫茶室部分への立ち入りは可能である。また例年11月に東京都が主催する「東京文化財ウィーク」期間中であれば室内も見学できる。以下の写真は平成28年11月の訪問時で、ちょうど屋根の補修工事をされているところであった。

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玄関土間。円形窓周囲の兎の漆喰装飾が見どころ。兎の装飾は他にも釘隠しや階段の彫刻飾りなど、随所に見ることができる。

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洋風を取り入れた外観と異なり、間取りは伝統的な民家の間取りに即したものとなっている。

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見学に際しては、御当主自ら丁寧に案内して頂けるが、それによると、当家で使用されている材木は、節付きだったりして商品としては使えないものを用いているという。

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関東大震災後に交換された1階の正面を除き、創建当時の硝子戸が今も残る。
ドアノブは白い陶器でできている。

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当家の大きな見どころと言えるのが見事な造りの螺旋階段。
奥の扉が喫茶室の入口となっている。

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装飾的な手摺や透かし彫りで飾られた工芸品のような階段。ここにも兎の装飾が見られる。

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階段を上から見下ろす。移動が可能な置き階段になっている。

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2階の一室。太い梁を漆喰で包んでおり、一見鉄筋コンクリート建築かと思わせる。関東大震災後の修復で塗られた箇所は塗りが荒く従前からの壁と見分けることができる。当時は復興需要が高まって職人は多忙を極めたため、丁寧に仕上げてもらえなかったのだとか。

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約150年の歳月を経た硝子窓。

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訪問の度に丁寧に御案内頂いた小机家御当主様に厚く御礼申し上げます。

第1045回・自由学園明日館

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東京都豊島区西池袋2丁目にある自由学園明日(みょうにち)館は、羽仁吉一・もと子夫妻が設立した自由学園の校舎として学園設立と同じ大正10年(1921)に建てられた。設計は帝国ホテル設計のため来日中であったフランク・ロイド・ライトによる。現在は自由学園の施設として使用されると同時に、一般にも広く利用・公開されている。国指定重要文化財。

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羽仁吉一(1880~1955)・もと子(1873~1957)夫妻は、キリスト教精神に基づく理想教育を実践するために東京府北豊島郡高田町(当時)に土地を求め、「自由学園」を開いた。当初は女子のみを対象とする学校であったが、その後共学となり、現在も「学校法人自由学園」として存続している。

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自由学園は生徒自身が自身の責任において毎日の生活を行うなど、独自の教育方法に基づく学校であり、現在もその理念は受け継がれている。名称の由来は、新約聖書の一節「真理はあなたがたを自由にします」(「ヨハネによる福音書」8章32節)による。

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羽仁夫妻と親交があり、フランク・ロイド・ライトの助手であった建築家・遠藤新の紹介により、羽仁夫妻との理念に賛同したライトは校舎の設計を引き受けた。

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現在でこそ都心の一角であるが、当時はまだ辺鄙な郊外であった敷地に、ライトは中央棟を中心に左右に広がるプレーリースタイルの校舎をデザインした。このデザインは、ライトの出身地である米国ウィスコンシンの草原から着想を得たとされている。

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大正デモクラシーの風潮から生まれた自由学園であるが、羽仁夫妻にライトを紹介した遠藤新は、犬養毅(1855~1932 のち首相、五・一五事件で暗殺)や吉野作造(1878~1933 政治学者)といった、大正デモクラシーの旗手である人物の邸宅を設計(吉野作造邸は書斎のみ)しているのは興味深い。

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なお、弁護士で犬養毅の秘書でもあった星島二郎(1887~1980 のち衆議院議長)は遠藤新と親友の間柄であり、この縁によって、ライトの日本における作品のひとつである芦屋の旧山邑家住宅が生み出されている。(山邑家は星島二郎夫人の実家)

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昭和9年(1934)に自由学園は校舎を北多摩郡久留米町(現・東久留米市)に移転、校舎としての役目を終えた明日館は以後、卒業生の事業活動の場として使用された。

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平成9年(1997)、国の重要文化財に指定された。

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重要文化財指定後、3年がかりの保存修復工事を経て現在は自由学園の施設として使われると同時に一般にも貸し出されており、結婚式やコンサート会場などにも利用されている。

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また、先述の旧山邑家住宅と並ぶライトの設計作品として、建物見学専用の日も設けられている。

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かつての教室。
開校時点ではまだ建物は完成しておらず、壁は荒壁がむき出しの状態であったという。

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現在はこれらの部屋は多目的の貸室として利用されている。

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大谷石を用いた廊下。帝国ホテル建設の残材を利用したとされる。

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限られた工費の中でどれだけ豊かな空間を造り出すか、ライトと遠藤による工夫の跡が随所に残されている。

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廊下の天窓。

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食堂。自由学園では、生徒達が自分たちで作った農作物を自分たちで調理して食べていた。

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全生徒が一堂に会し、手作りの温かい食事をとることが教育の基本と考えた羽仁夫妻の理念に沿って、当時の学校建築としては珍しく食堂を校舎の中央に配している。

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現在はコンサートホールとして使われることも多い食堂。

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食堂は竣工から間もなく手狭になったため、大正12年から翌年にかけて遠藤新の設計により、北・東・西の3面に小食堂が増築された。

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小食堂の家具も増築に際し、遠藤新の設計によって作られた。

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前庭に面して作られた二層吹き抜けのホール。明日館の内部では最もみどころ。
現在は喫茶スペースとしても利用できる。

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旧約聖書(出エジプト記)に材を取ったホールの壁画は、昭和6年(1931)の創立10周年記念に、当時自由学園の美術教師を務めていた石井鶴三(1887~1973)の指導に基づき生徒達が製作したもの。戦時中に塗りつぶされていたが、重要文化財指定後の修復に際し上塗りを剥がしたところきれいに残されており、見事に甦った。

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ホールのギャラリー部分の照明柱。

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ホールの暖炉は、現在でも特別に日を限って火を焚いている。

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日本国内に現存するライト設計の建築のうち、完全な形で残されているのは自由学園明日館と旧山邑家住宅のみである。

第1043回・星薬科大学本館

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東京都品川区荏原2丁目にある星薬科大学は、実業家で政治家でもある星一が、自ら設立した星製薬の社内に教育部門を設けたことに始まる私立大学である。同大学のシンボル的建物である本館は、大正13年(1924)にアントニン・レーモンドの設計で建てられた。最も印象付けられるのが写真の大講堂で、天井の意匠は星一の名に因んで星型となっている。

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清水組(現・清水建設)の施工により大正11年(1922)に着工、翌年の関東大震災を挟んで2年後の大正13年(1924)に竣工した。平成14年(2002)には清水建設の設計施工により、耐震補強工事が施されている。

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現在は大講堂、事務室、会議室などとして使われているが、創建当時はこの本館に学校の全ての用途が集約されていた。かつては地下に室内プールも備えていたという。

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本館前にある創立者・星一(1873~1951)の胸像。明治44年(1911)に創業した星製薬は本邦初であるチェーンストアの導入や、外科手術用のモルヒネの国産化成功などによって大正年間に大発展を遂げ、星は「東洋の製薬王」と称されるまでになった。星薬科大学本館は星一の絶頂期に建てられたといってもよい。

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本館の設計者であるアントニン・レーモンド(1888~1976)は、帝国ホテル建設のため来日したフランク・ロイド・ライトの事務所スタッフのひとりであった。モダニズム建築家として知られるレーモンドであるが、星薬科大学本館はライトの弟子として影響を受けていた時期の建物なので、細部装飾など随所にライト風の幾何学模様が見られる。

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正面玄関。
玄関の庇に施された幾何学装飾など、ライトの帝国ホテルを連想させる意匠が見られる。

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1階玄関ホール。突きあたりが大講堂の入口。

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大講堂入口の照明。

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大講堂内部。現役の学校施設であり通常は見学はできないが、春と秋の年2回開催される薬草見学会ではキャンパスが開放されるので、大講堂をはじめとする本館の内部も見学ができる。

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星薬科大学は、明治44年の星製薬設立と同時に設置された社内の教育部門に始まり、大正11年(1922)に星製薬商業学校、昭和16年(1941)に星薬学専門学校となり、第二次大戦後の昭和25年(1950)に現在の星薬科大学が設立され、現在に至っている。

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大学に移行した昭和25年頃には、この大講堂でNHK「のど自慢」(当時はテレビはまだ無いのでラジオ番組)の会場に使われていたという。

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正面の演壇。
公会堂や大学の講堂など、戦前に建てられたホールで現存するものはいくつかあるが、星薬科大学は内部も細部に至るまで、往時の姿を非常によく残しているもののひとつである。

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星型の大講堂天井。

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なお、星一は作家の星新一(1926~1997)の父としても知られている。

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薬草をデザインした大講堂のステンドグラスは昭和58年(1983)に取り付けられた。元々は異なるデザインのステンドグラスがあったが、戦時中の防空対策により窓をコールタールで塗りつぶし、戦後も復元が不可能になってしまったという。

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館内の随所に見られるライト風の意匠。

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廊下の床はコンクリート打ちっ放しの中に、大理石の破片を斑に埋め込んでいる。

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扉の意匠もライト風。
大正末期から昭和初期の洋館の建具には、このようなライト風意匠を施したものがよく見られる。

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星型天井の大講堂と共にこの建物の特徴となっているのが、館内のスロープ。
階段は無く、全てスロープになっている。

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スロープを3階から見下ろす。

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黒と白のコントラストが利いているスロープの吹き抜け。

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スロープの壁面には、飛鳥時代の薬狩りをモチーフにした壁画が4面、大東亜戦争中の昭和18年(1943)に描かれている。

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本館前の並木道からは、大講堂を覆うドーム屋根が見える。
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