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第1218回・旧百三十九銀行本店(旧第四銀行高田支店)

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新潟県上越市(旧高田市)本町3丁目にある旧百三十九銀行本店は、昭和6年(1931)に建てられた鉄筋コンクリート造の銀行建築である。戦時中に第四銀行と合併した後は同行の高田支店として平成21年(2009)まで使われていた。現在は上越市の施設「高田まちかど交流館」として公開、活用されている。前回紹介した旧直江津銀行と共に、上越市の指定文化財となっている。

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高田藩の城下町として栄えた旧高田市の中心街にある旧百三十九銀行本店。この建物がある場所は当地の出身で、日本銀行の本支店を始め、明治から昭和初期にかけて多くの銀行建築を手掛けた建築家、長野宇平治(1867~1931)の生家があった場所とされる。

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明治12年(1879)設立の百三十九銀行は、明治初期に国立銀行条例に基づいて全国各地に設立された国立銀行のひとつで、昭和初期にかけて新潟県内の有力銀行であり、上越の高田地域を代表する銀行であった。

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昭和18年(1943)、戦時下の国策(一県一行主義)に基づき、百三十九銀行は新潟市に本店を置く第四銀行に買収される形で合併、統合された。合併後は同行の高田支店として使用されたが、平成21年(2009)に店舗の統廃合により役目を終えた。

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その後、第四銀行から上越市に寄贈され、暫定的な活用を経て、貸館施設として諸法規に適合するよう改修工事が施され、平成30年(2018)より「高田まちかど交流館」として開館した。また、平成31年(2019)3月には直江津の旧直江津銀行と共に、上越市の指定文化財となった。

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外観は昭和初期の銀行建築の殆どで用いられていた古典様式を基調にしており、付柱や基壇、窓周りなどを石造とする他は、全面的にオレンジ色の煉瓦タイルを貼りめぐらせている。銀行建築を多く手掛けた長野宇平治の生家跡とされるだけに、氏を顕彰する施設としてもこの建物を活用できないものだろうか。

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国内有数の豪雪地帯である高田では古くから、町家の軒先に雁木(がんぎ)と称される雪よけ屋根を設けていた。百三十九銀行でも玄関ポーチとアーケードを1階の前面に設け、雁木と同様の機能を果たしていた。 

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他の地域の銀行建築では見られない珍しいものであったが、周囲のアーケードに統一するために撤去されてしまったのは非常に惜しまれる。軒は現在黒い金属板で覆われているが、元々は歯飾りが施された石造の軒蛇腹 (コーニス) が巡らされていた。

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高田まちかど交流館のパンフレットに載っていた昭和6年創建当初の写真。現在は覆い隠されている軒周りと、現存しないポーチとアーケードが写っているのが分かる。昭和初期に建てられた銀行建築は比較的多く現存するが、このような地方性が顕著な建物は珍しい。指定文化財として、いつか復元される日が来るとよいのだが。

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貸館利用がない時は無料で館内見学、休憩ができるが、訪問時は貸館利用中で見学出来なかったのでパンフレットの内部写真を掲載させて頂く。また改めて訪問の機会を設け、本記事はいつか更新もしくは再訪記事を掲載させて頂きたいと思う。

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昭和から平成にかけて約90年にわたる歴史を刻んだ建物は、来たる令和の時代に引き継がれる。
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第1217回・旧直江津銀行

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新潟県上越市(旧直江津市)中央3丁目にある旧直江津銀行は、明治末期に建てられた土蔵造の銀行建築で、大正期に移設改修され回漕店の事務所として長く使われていた。その後上越市に寄贈され、整備改修の上、一般公開されるようになった。上越市指定文化財。

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直江津銀行は明治28年(1895)に「直江津積塵銀行」の名称で発足、経営破綻により大正4年(1915)に解散するまで存在した銀行である。現在の店舗は明治40年(1907)に建てられたもので、前年の大火によって旧店舗が焼失したことから漆喰塗の外壁や玄関や窓に取り付けられた鉄扉など、耐火性を重視した造りとなった。

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直江津銀行が解散した後は直江津で海運業を営む高橋達太が建物を取得、海岸に近い現在地に曳家で移設し、増改築を施し回漕店の社屋として使用した。このときに移設した本館に隣接して別館が増築され、玄関前にはライオン像が置かれるなど、現在残る姿になった。なお、これらの古写真は館内展示の解説パネルにあったものである。

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石炭の荷揚・貯炭等を行っていた高橋回漕店は第二次大戦中の戦時統制により実質的に解体され、戦後は船舶代理店の事務所などに使用されていた。漆喰塗りの外壁がタイル貼りに改装されるなどの改変はあったが、内部は概ね旧直江津銀行時代からの造りが残されていた建物は、平成21年(2009)に保存を目的として土地建物が上越市に寄贈された。

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上越市によって補強改修工事が行われ、平成31年(2019)4月より「ライオン像のある館」として一般公開されるようになった。なお、一般公開に先立つ平成31年3月には、本館部分が旧高田市にある昭和初期の銀行建築である旧第四銀行高田支店と共に、上越市の指定文化財となっている。

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改修に際しては、タイル貼りになっていた外壁を漆喰壁にするなど、高橋回漕店として移設改修された当時の姿に近づけられている。なお、かつては当地で多い大火に備えて増設された煉瓦塀が囲んでいたが、平成16年の中越地震で一部が倒壊するなど老朽が進んでいたため、一部を残して撤去されている。

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本館脇に残る、白い化粧煉瓦(タイル)で覆われた煉瓦塀の名残。

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直江津銀行、高橋回漕店時代を通して外観を特徴づけていた巨大な鬼瓦は現存しないが、軒先には丸にTの文字をあしらった高橋回漕店時代の瓦が残されている。

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この建物を最も印象付けているライオン像は、高橋達太が旧直江津銀行の建物を買い取り、改修する際に鬼門除けに据え付けたもので、柏崎市の彫刻師である小川由廣に注文、製作させた。台座は花崗岩と大理石でできている。

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東京日本橋の三越本店のライオン像とも、上海の香港上海銀行のライオン像を模したとも言われているが、なぜ鬼門除けにライオンを選んだのか詳細は明らかではない。

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本館の玄関は別館との間の通路に面する形で屋内に取り込まれている。

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鉄扉を備えた洋風のアーチ型玄関は、旧直江津銀行時代は角にあったものを移設改修に際し、石段や鉄扉、建具等は再利用してそのまま側面側に移したものと思われる。

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館内では古くから北前船の寄港地として栄えた直江津の歴史や、直江津銀行、高橋回漕店についての展示がなされている。

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銀行時代からのものと思われる木製のカウンター。

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旧直江津銀行本館は1室のホールとして催事用に貸し出しも行っている。

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高橋回漕店時代に設けられたと思われる、天井のドイツ製電気扇や電話室、特注品の壁時計や戸棚、直江津の港湾人夫の木像などの家具調度品もよく残されている。

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本館営業室の壁に据え付けられた時計と、現在は別館2階に展示されている帽子・外套掛けには、本館の屋根瓦にも見られる丸にTの文字が見られる。いずれも高橋回漕店時代の特注品と思われる。

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本館背面の出入り口は洋風に造られた来客用の玄関とは異なり、伝統的な土蔵の扉になっている。

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別館も2階部分は内部を見学できるようになっており、煉瓦塀の補強を兼ねて新設された鉄骨製階段を使って入る。別館は旧直江津銀行当時のものではなく高橋回漕店の一部として増築されたものであり、指定文化財の対象には含まれていない。

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別館は1階を事務室、2階は一般見学のほか、本館を催事等に使用するときの控室として使用できるようになっている。

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別館2階の天井は珍しい造りになっており、入口のある隅から放射状に天井板を貼っている。そのため入口側から見ると。上の写真のように天井が上に広がっているような錯覚を起こさせる。
 
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特注品の帽子・外套掛け。元々は本館営業室にあった。

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明治期の擬洋風建築として直江津では最古の建物である。
また、擬洋風の銀行建築としても、全国的に見て現存する数少ない希少な建物である。

第1025回・松籟閣(旧平澤家住宅)

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新潟県長岡市朝日にある松籟閣(しょうらいかく)は、「朝日山」「久保田」などの銘柄で知られる酒蔵、朝日酒造㈱の初代社長である平澤與之助が昭和初期に建てた自邸。平成16年(2004)の中越地震では大きな被害を受けたが、その後修復された。現在は同社の迎賓館として使用するとともに、一般公開も行われている。国登録有形文化財。

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朝日酒造の工場及び製品倉庫に隣接して建っている松籟閣。平成13年(2001)まで平澤家の住居として使われていたが、製品倉庫新築のため、隣接する現在地に曳家で移動すると同時に改修を行い、迎賓館に生まれ変わった。平成15年(2003)には国の登録有形文化財に認定される。

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平成16年10月23日に発生した中越地震によって、松籟閣及び朝日酒造の施設は大きな被害を受ける。大正9年(1920)の株式会社設立に際し建てられた洋館建ての事務棟は取り壊されたが、松籟閣は室内の壁が崩落するなど大きな被害を受けたものの、翌年より修復に着手、ほぼ旧状どおりに復された。

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創業家である平澤家は、天保元年(1830)には現在地で酒造業を始め、「久保田屋」の屋号を名乗っていた。大正9年(1920)には朝日酒造㈱を設立する。会社は順調に発展し昭和初期には現在の基盤が形成された。社長の平澤與之助は社業の傍ら、県会議員を務めるなど政治家としても活動した。

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昭和初期には旧宅の改築にとりかかり、昭和9年(1934)に洋館や大広間棟を備えた新しい邸宅、現在の松籟閣が完成する。なお、かつて洋館の奥にあった大広間棟は、戦後の昭和22年に売却、移築され現存しない。

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玄関脇に設けられた洋館は、既に完成していた日本家屋に増築する形で、昭和9年に清水組の設計施工により建てられた。設計の主担当を務めたのは、同じく清水組が手掛けた熱海の旧根津嘉一郎別邸洋館や、新潟市の旧新津常吉邸、また今は無い東京五反田の旧正田邸の設計者として知られる大友弘。

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3種類の入母屋造の屋根が重なる正面玄関が印象的な日本家屋は、小千谷市でも現在も営業している㈱安達工務店の設計施工で、昭和9年の洋館増築時点ではすでに完成していたという。間取りなどに当地の伝統的な民家の特徴を備えている。

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式台を備えた正面玄関。

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脇に設けられた内玄関。見学の際はここから館内に入る。

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日本家屋は銘木、巨木がふんだんに使用された贅沢な造りである。写真の内玄関廊下の床板には、ケヤキの巨木の一枚板が使われている。

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内玄関と正玄関の間に設けられた小座敷。

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正玄関の脇に設けられた火頭窓(花頭窓)には、ケヤキを極限まで細く削って組み立てられた繊細な建具が嵌め込まれている。

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正玄関から廊下を進むと、洋館の内部につながっている。洋館の内部は応接間1室のみである。

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応接間は正面に暖炉を備え、その両脇にステンドグラスを嵌め込む。

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ステンドグラス。

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天井の照明と台座の装飾。

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天井の縁周りの装飾と換気口部分を拡大。

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洋館前の廊下突き当りに配された円形窓。

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正玄関を進むと現れる茶の間。
天井は折上格天井、床柱はヤシの木を用いている。

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茶の間から中庭を望む。
書院窓や欄間に、繊細で凝った造作の建具が見られる。

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茶の間に隣接する仏間。仏壇の上には神棚を設ける。
なお、茶の間と仏間の裏には食事室として造られた和洋2室がある。

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内玄関棟にある旧子供部屋。

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旧子供部屋の欄間には千鳥の装飾が施されている。

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茶の間に面した中庭を望む。突き当たりに写っているのが洋館で、中庭に面した廊下は和風の造りとなっている。かつては写真左側の位置に大広間棟の渡り廊下が続いており、中庭は四方を囲まれる構成になっていた。

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洋館の前から中庭を望む。寄棟屋根の平屋建ては寝室棟で、寝室と書斎の2室で構成されている。左側は茶の間のある主屋棟。

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寝室棟の書斎。
最も私的な空間であるため、床の間や天井、建具に意匠を凝らした数寄屋風の造りとなっている。

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書斎から中庭を望む。
縁側の硝子戸は下半分を摺り硝子とし、上部には菊花状の透かし彫り装飾が施されている。

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書斎に隣接した寝室は一転して洋風の造りとなっている。昭和9年の洋館増築時に清水組の手で洋室に改装されたものである。重厚華麗な応接間と異なり、モダンなアールデコ調の洋室となっている。

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アールデコ調のステンドグラスが嵌め込まれた寝室の円形窓。

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建物見学が可能なのは、催し等を除き基本的に平日のみである。(無料)
朝日酒造の酒蔵見学や併設の売店、飲食店利用と併せて見学するのもよい。

第1005回・北方文化博物館(旧伊藤本家)

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新潟市江南区沢海にある北方文化博物館は、かつては越後の大地主として知られた豪農・伊藤家の邸宅を公開するとともに、所蔵されていた美術工芸品等を展示している博物館である。邸宅は明治中期に建てられた主屋を始めとする一連の建物に加え、農地解放によって大地主の座を降りた伊藤家が、博物館として再出発を図るため整備した庭園や茶室等で構成されている。国登録有形文化財。

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豪壮な御影石の門柱を立てる正面の門。この先に土蔵門がある。

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土蔵門。二ヶ所ある入口のうち、右側が通常の入口で、左側は特別な来客や行事のときだけ使用される大広間に繋がる専用の入口。博物館となった現在も、入館は右側から入る。

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土蔵門右側の入口をくぐり、石畳の先に見えるのが明治15年(1882)建築の主屋。伊藤家は、江戸時代中期に当たる宝暦年間に分家して以来、当主は代々文吉を名乗った。分家された当初は小作人同様の農家であったという伊藤文吉家は、幕末期には名字帯刀を許可される豪商にまでなるが、越後屈指の大地主の座に上り詰めるのは明治維新以降である。

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旧幕府から新政府への移行による社会の変動は、土地の所有関係にも変動をもたらし、三代伊藤文吉はこの時期に多くの土地を買収、大地主としての伊藤家の土台を築きあげた。現在残る主な建物は、三代伊藤文吉の孫に当たる五代文吉によって、明治15年から22年にかけて建てられた。

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昭和初期には新潟県下で最大、全国的にみても屈指の大地主となった伊藤家であるが、敗戦後の農地解放により農地を失い、邸宅も手放す大地主が続出する中、米国留学の経歴を持つ七代伊藤文吉は、邸宅や所蔵する美術品、歴史資料を財団所有に移管、博物館として公開することを決める。

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敗戦を機に豪農・大地主から博物館経営への転身を果たした伊藤家では、今日も八代伊藤文吉氏が(一財)北方文化博物館の館長を務めている。

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雪国の豪農の館にふさわしく、主屋の中には囲炉裏がいくつも切られている。
使用人や伊藤家の家族が日常使っていた台所のほか、当主の接客に用いられた「茶の間」にも囲炉裏が切られている。「茶の間」は家族でも当主以外は入ることができない場所であったという。

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主屋に隣接して建っている大広間。主屋竣工の5年後、明治20年(1887)から、2年の歳月をかけて建てられた。 五代伊藤文吉が子息(のちの六代文吉)の婚礼の場として使うことを念頭に建てたと言われる。

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書院造の豪壮な建物で、専用の門と大玄関を備えている。

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大玄関は正月や冠婚葬祭、もしくは皇族の御来訪の際にのみ開かれた。

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現在は見学者に常時開放されているが、伊藤家の住まいであった頃は、通常は立ち入ることすら出来なかった場所である。

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百畳敷の大広間と言われている。

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大広間から望む庭園は、博物館となった後の昭和28年(1953)より5年の歳月をかけて作庭された。銀閣寺の庭園を発掘復元したことでも知られる庭師・田中泰阿弥(1898~1978)による。

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大広間の床の間裏側にある裏座敷。大広間に迎える客の休息の場として使われていた。

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裏座敷から渡り廊下でつながる茶室を備えた離れ「時庵」。七代伊藤文吉の雅号から名付けられたという。

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中庭から大広間の外観を望む。手前が裏座敷。

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正三角形の建物、三楽亭。本邸が完成した明治22年(1889)に着工、2年後の明治24年(1891)に竣工した。

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もともとは六代伊藤文吉の書斎として建てられたが、茶室としても使用できる。
このほか敷地内には、茶室として「積翠庵」「常盤荘」「佐度看亭」の3棟が建っている。

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敷地の西北にある土蔵、集古館。かつては飯米蔵として多い時で2,000俵の米俵が積まれていたという。

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現在は歴代当主達が収集した書・画・古美術品などの展示室に使われている。

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豪農の建物だけではなく、一般の農民の生活を偲ばせる古民家も2棟が新潟県内より移築、保存されている。
写真は刈羽地区から移築され、江戸初期の建立とされる古民家。

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以上紹介した建物を含む主要建造物計26件は、平成12年(2000)に国の登録有形文化財に登録されている。

第985回・機那サフラン酒本舗土蔵

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新潟県長岡市摂田屋にある機那サフラン酒本舗は、サフラン酒の醸造で財をなした吉澤仁太郎によって大正時代に建てられた。極彩色の鏝絵で彩られた帳場蔵は国の登録有形文化財。老朽が進んでいるが、主屋や離れ等も贅を尽くした見事な建物である。

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街路からの眺め。
主屋と帳場蔵が見える。

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帳場蔵は大正年間の創建になる切妻造桟瓦葺の土蔵で、基礎は石積み、腰を海鼠壁とする。軒廻、開口部のまぐさ部と塗戸に極彩色鏝絵を施している。

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帳場蔵と同じく大正年間の創建とされる主屋。裏には昭和初期に建てられた離れも現存し、いずれも材料・意匠共に技巧を凝らした豪壮な造りの建物である。

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「機那サフラン酒製造本舗」と大書された古びた看板が残されている。
サフラン酒は現在も薬味酒(リキュール)として販売されているが、戦前は現在の養命酒のような薬用酒として一世を風靡していたとされる。

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主屋の鬼瓦には、主である吉澤仁太郎に因む丸に吉の紋章が見える。吉澤仁太郎は事業家としてサフラン種の販路を海外まで広める一方、大地主としても活動した。

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主屋を挟んで帳場蔵の反対側には衣装蔵が建つ。帳場蔵には及ばないものの、衣装蔵にも極彩色鏝絵が施されているそうだ。

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なお、通常は帳場蔵周辺を除き、敷地内への立ち入りは不可である。但し、定期的に内部や帳場蔵以外の建物の公開も行われているようである。

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鏝絵の図柄は、鳳凰、麒麟、恵比須、大黒や十二支などの図が施されている。

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左官は地元の河上伊吉と伝えられている。正面軒廻の片隅に河上伊吉のものとされる「左伊」の銘が入っている。

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また機会を得て内部や衣装蔵、主屋や離れも紹介できるとよいのだが。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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