第1170回・旧日本銀行広島支店(現存する昭和戦前期の日銀店舗 その1)

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これまで弊ブログでは、現存する戦前築の日本銀行の本支店店舗のうち、明治~大正期の5件(本店大阪京都小樽岡山の各支店)について紹介したが、今回より3回に分けて昭和期に建てられた建物を紹介したい。昭和11年(1936)に竣工した旧広島支店は、昭和20年の原爆投下により被災しており、現存する数少ない被爆建物としても知られる。

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広島市中区袋町、鯉城通りに面して建つ旧日銀広島支店。大正年間の路面電車開通によりこの界隈は昭和初期から金融街として発展、戦前は電車通りと称されていた。原爆投下時には日銀支店のほか藝備銀行(現・広島銀行)、「人影の石」で知られる住友銀行など、多くの金融機関のビルが建ち並んでいた。現在も戦前の建物が残るのは旧日銀1棟だけである。

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被爆から間もない頃の日本銀行広島支店。(建物前の展示パネルより)
爆心から約380米と非常に近い位置にあったが、堅牢な構造から大破は免れた。しかし火災で3階部分が全焼、また爆風による被害は大きく、日銀及び当時3階に入居していた中国財務局の行員・職員からは多くの死傷者を出した。

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広島市の中心街が壊滅した中で、爆心近くにあって一部を除き焼失を免れた日銀広島支店は被爆2日後から業務を再開している。その後修復を経て平成4年(1992)の店舗移転まで使用されていた。現在は日銀から広島市に無償貸与されており、平成12年(2000)には広島市の重要有形文化財に指定された。

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現在は広島市が管理、催事会場などとして利活用が図られており、建物の一般公開も行われている。

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日銀が広島に支店(当初は出張所)を設置したのは明治38年(1905)で、店舗は当時県庁などがあった水主町(現・加古町)に設けられた。このとき建てられた木造二階建の初代店舗の老朽、狭溢化に伴い二代目店舗として移転新築したのが現存する建物である。

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設計は長野宇平治(1867~1937)による。長野は明治30年から大正元年(1897~1912)、昭和2年から同12年の死去(1927~37)に至るまで通算25年間にわたって日銀技師、技師長を務め、明治・大正・昭和の三代の日銀の本支店設計に従事した。広島支店は最晩年の設計作品のひとつである。

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長野宇平治は初代店舗の設計も辰野金吾の下で手掛けている。またこのほか、大正14年(1925)竣工の三井銀行広島支店の設計も手掛けている。この建物は原爆で大破したが、現在も広島アンデルセンの店舗として壁面の一部が残されている。(同店は現在改築工事が進められているが、被爆した部材を一部再利用して現在の姿は踏襲されるようである)

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旧広島支店の建物は、長野宇平治が設計に従事した一連の店舗の中では、装飾も比較的簡素で平坦なものとなっている。装飾を控えるのはこの当時の時代的傾向でもあるが、翌年に竣工した松江支店と比較してみると広島支店は平坦さが際立っているように思える。

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2層吹き抜けになった旧営業室内部。かつては柱頭に装飾が施されていたが被爆時に損傷を受け、その後の改修工事で撤去されている。被爆2日後の業務再開に際しては、店舗が倒壊・焼失した広島市内の金融機関の仮営業所がこの部屋に集められ営業事務が行われた。

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壁面などに戦前からの内装がほぼそのまま残されている旧支店長室。腰壁の板には、爆風により飛散した窓の硝子片の痕跡が現在も残されている。

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旧支店長室の暖炉。
電気ストーブを置くための形だけのものである。

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美しい色合いを見せる暖炉ストーブ置き場のタイル。

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金庫室のある地階。タイル張りの床や鉄格子、金庫など戦前のものが残されている。
入口の鉄格子は爆風で歪み開閉不能になったため、叩き直して復旧したという。原爆の爆風の威力が凄まじいものであったことが分かる。

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構造体も含めて建物全体が残る被爆建物は、旧日銀支店のほか福屋百貨店、現在改修工事中の広島市レストハウス(旧大正屋呉服店)など、その数は極めて少ない。

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次回は、広島支店の翌年の昭和12年(1937)に竣工した松江支店を紹介予定。
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第1147回・旧広島地方気象台(広島市江波山気象館)

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広島市中区江波南1丁目にある旧広島地方気象台庁舎は、昭和9年(1934)に建てられ、昭和62年(1987)まで約半世紀にわたり使用されていた。現在は気象を取り扱う博物館「広島市江波山気象館」として活用されている。原爆投下にも耐えた被爆建物であると同時に、広島市に現存する希少な近代建築である。広島市指定重要有形文化財。

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明治12年(1879)、全国でも初の府県立測候所として広島県立広島測候所が水主町(現加古町)にあった広島県庁の構内に設置され、これが広島地方気象台の前身に当たる。昭和14年(1939)に国営に移管、同18年(1943)に広島地方気象台と改称された。

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館内に展示されている昭和10年代の庁舎全景。左側の木造建築は当時2棟あった職員用の官舎である。

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現在の全景。官舎のあった位置には現在、江波山気象館の別館として平成10年(1998)に新築された建物が建っている。旧庁舎は平成12年(2000)には「旧広島地方気象台」として広島市指定重要文化財となった。

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旧庁舎の裏手に整備されたトイレ。別館と同様に旧庁舎と意匠を合わせており、一見すると旧庁舎と同時期の建物かと思わせる仕上がりとなっている。

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庁舎が広島市の南外れに位置する江波山頂に移転したのは昭和10年(1935)のことで(建物は前年に竣工)、開設以来二度目の移転であった。以降、昭和62年(1987)に中区上八丁堀にある広島合同庁舎に移転するまでの52年間観測業務が行われていた。移転後旧庁舎は広島市に移管、平成4年(1992)に広島市江波山気象館が開館、現在に至る。

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曲線を多用した形状が特徴的な正面2階、旧台長室に設けられたバルコニー。
庁舎のデザインは、二〇世紀初めドイツを中心に展開された芸術運動で、日本では大正期から昭和初期の建物に多い表現主義の影響が随所に見られる。

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玄関ポーチの屋根は、円錐形を重ねた形状のコンクリート柱一本で支えられている。このような造形は従前の組積造では不可能であり、コンクリートゆえに可能な建築デザインを試みた跡が随所に見られる。

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昭和20年8月6日の原爆投下に際しては、爆心地から約3.7㎞の位置にある庁舎は爆風の直撃を受け、多くの窓硝子が割れ窓枠が曲がる等の損傷が生じたが、火災による被害は免れた。このため内部も創建当初からの造りがよく残されている。

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曲線を多用した装飾が施された梁や腰壁のタイルなどは昭和9年の竣工当時からのものである。

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受付の小窓には愛らしいステンドグラスが嵌め込まれている。

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玄関扉の欄間にもアールデコ風のステンドグラスが残されている。南側に位置する玄関は爆心地には面していないため、受付や玄関にあるこれらのステンドグラスは爆風による破損を免れたものと思われる。

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床や階段の手摺りは人造石の研ぎ出し仕上げで、入念な仕上げが施されている。

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階段室。窓のスチールサッシは被爆当時からのものが残されている。

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床は人造石仕上げであるが、縁の部分だけはモザイクタイルが貼られている。写真は市松模様も施されている一階部分。

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階段から二階にかけては二種類のモザイクタイルで仕上げられている。

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庁舎や観測施設に大きな被害を受け、職員の中には死傷者も出た原爆投下から約1カ月後の昭和20年9月17日には枕崎台風が襲来、広島に大きな被害を齎すが、そのような困難な状況下でも広島地方気象台では1日も欠かさず観測業務が続けられた。その当時の様子については柳田邦男のノンフィクション「空白の天気図」に詳しく記されている。

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爆心地の方向に面した位置にある2階の旧図書室の内壁には、現在も爆風で飛散した硝子片が刺さっており、被爆の痕跡として保存されている。(スポットライトが当てられている位置に硝子片が刺さっている)

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屋上の観測塔。階段まわりなどに曲線を多用し手摺には放物線状の尖頭アーチを連ねるなど、表現主義的な造形が見られる。

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片持ちの階段は正面玄関ポーチの柱と同様に組積造では不可能な造形であり、コンクリートだからこそ可能となる。

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観測塔の上部。広島市街が一望できる。

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原爆の爆風を受けた北側壁面の一部は被爆当時のまま保存されている。壁が黒ずんでいるのは戦時中に施された迷彩塗装の名残である。

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壁面だけではなく窓枠も被爆当時のもので、爆風で曲がったのを戦後、職員が手作業で叩いて直したという。現在も歪んだ痕跡が残っている。

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中国地方の中枢都市である広島には明治から昭和戦前にかけて多くの近代洋風建築が建てられたが、その殆どは原爆で失われ、現存するものも先日紹介した旧大正屋呉服店のように辛うじて外郭を残すだけであるが、旧広島地方気象台庁舎は内装まで当初の造りを残している極めて希少な存在である。

第1145回・旧大正屋呉服店(広島市平和記念公園レストハウス)

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広島市平和記念公園内にあるレストハウスの建物は、昭和4年(1929)に大正屋呉服店として建てられたもので、被爆建物のひとつとして知られている。また、原爆投下前の広島市街の面影を伝える極めて数少ない建物でもある。現在は広島市が所有、観光案内所兼休憩所として使われている。

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昭和4年竣工直前の姿。(レストハウス入口脇に配された説明版より)
大正屋呉服店は大阪に本店を持つ呉服商で、広島支店の新しい店舗として江戸時代以来の繁華街であった中島本町(当時)に当時としては珍しい鉄筋コンクリート造で新築したものである。

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現在の姿。設計は大阪を本拠に活動していた建築家の増田清で、施工は清水組(現・清水建設)による。増田清は広島でも旧広島市庁舎や旧本川小学校など多くの建物を残している。他に現存する建物では、以前当ブログでも紹介した大阪・心斎橋筋の三木楽器本店(国登録有形文化財)がある。

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現在は白い塗料で塗りつぶされているが、窓台や外壁の縁取りには昭和初期の建物に多く使われているスクラッチタイルが貼られていることが分かる。木造の商家や民家が連なる中で当時としては極めてモダンな建物であり、竣工時は目立ったものと思われる。

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3階の外壁、本記事2枚目に掲げた竣工直前の写真(左上)では棹状のものが伸びており、現在その位置には横に穴の開いた金物が残されている。おそらく広告用の垂れ幕などを吊り下げるためのものと思われる。

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一階は扁平なアーチ窓が連なり、呉服店時代は一部がショウウインドウになっていた。一階部分の外壁は元々は浅く目地が切られ、石造風に仕上げられていた。現在は全面が白く塗りつぶされており単調な印象の外観であるが、本来はもっと重厚かつモダンな印象の建物であった筈である。

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被爆後の旧大正屋呉服店。(レストハウス入口脇に配された説明版より)
大東亜戦争勃発後の経済統制により呉服店は閉店、これに伴い建物は広島県燃料配給統制組合が買収、事務所として使われることとなり「燃料会館」と呼ばれていた。

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原爆投下に際しては爆心地から約170mと極めて近い位置にあり、崩壊は免れたものの床や梁が破損、地下室を除いて全焼した。堅牢な造りであったことに加え、爆心地側に面している建物背面には窓が殆ど無い構造が大破を免れた要因と考えられている。(写真右側にある横長の窓は、戦後の改装に伴い開けられたものである)

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被爆当日は37名の職員が勤務していたが、原爆が炸裂した瞬間地下室にいた1名を除き全滅したと考えられている。(被爆直後ほかに7名の職員が負傷しながらも建物から脱出したことが判明しているが、いずれもその後行方不明となっており、急性放射線障害などで死亡したものと推定されている) 

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1名だけが奇跡的に生き永らえた地下室は現在も被爆当時のまま残されており、レストハウスの職員に申し出れば見学も可能である。なお、広島市編「広島原爆戦災誌」第二巻第三節には地下室にいた生存者の手記が収録されている。(電子ファイルで閲覧可能)

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戦後も補修の上引き続き「燃料会館」として使用されたが、昭和32年(1957)に広島市が買収、「東部復興事務所」となった。昭和57年(1982)には改装されて「レストハウス」と名称を改め、広島市観光協会の事務所等が入るほか、観光案内所及び平和公園利用者のための休憩所として使われ、現在に至っている。

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平成の初めには被爆当時のまま残る地下室部分だけを残し、上階部分を撤去改築する構想も打ち出されたが、反対運動の結果計画は凍結された。現在は一転して上階部分を呉服店時代の姿に復元する計画が進められている。

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地下は現状のまま保存しながらも、より見学しやすいような形での整備が行われる予定である。

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被爆建物としての価値もあるが、戦前の広島中心街の面影を伝える建物として昭和初期の姿を再現するという形での整備が行われることになったのは実に喜ばしい。

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完成した暁には、改めて紹介できる日が来ることを期待したい。

第1144回・岩惣旅館

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広島県廿日市市宮島町にある老舗旅館「岩惣」は、国宝である厳島神社の裏手、紅葉谷公園の一角に建っている。木造の本館と鉄筋コンクリート造の新館からなるが、明治時代に建てられた本館や大正から昭和20年代にかけて建てられた離れなど、現在も歴史ある木造和風建築が現役で使われている。

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海上から望む宮島と厳島神社。写真右上に岩惣の新館が写っている。

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厳島神社の裏手から紅葉谷まで続く緩い坂を登ると、神社から徒歩5分程度の位置に現れる。

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岩惣の創業は江戸時代末期の安政元年(1854)に、初代である岩国屋惣兵衛によって開かれた。旧くから名所として知られる宮島において、紅葉谷を旅人の憩いの場として管理しながら、その一環として茶屋を開いたことに始まる。

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紅葉谷の整備が進むと共に岩惣は旅館となり、宮島を訪れる皇族、華族、政財界人、文人など多くの貴顕名士の宿泊に使用された。明治25年(1892)には写真の母屋が竣工した。現在、この建物は本館の玄関ロビーとして使われている。

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大正から昭和初期にかけては絶えず工事の金槌の音が響いていたと言われ、この時期に本館客室、宴会場、複数の離れ、紅葉谷に面した川座敷など多くの建物が建てられた。

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現在、旅館としての施設の中心は昭和56年(1981)に宴会場跡に建てられた新館に移っているが、本館の玄関ロビーや客室、離れは現在も古い建物を使用している。本館向かいにある写真の二階家は元の用途は不明であるが、現在は喫茶室として使われている。

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敗戦から間もない昭和20年(1945)9月17日に、観測史上に残る猛烈な台風として知られる枕崎台風が中国地方に襲来、原爆投下から間もない広島市を始め、近隣の宮島にも大きな被害を齎した。このとき紅葉谷は土石流によって壊滅的な被害を受けるが、昭和23~26年(1948~51)にかけて復旧及び砂防工事が実施され、往年の風致を取り戻した。

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枕崎台風では、岩惣は本館や離れは難を免れたが川座敷が流失、紅葉谷が荒廃する等の大きな被害を受けた。昭和26年に紅葉谷が復旧するまでの間、昭和22年(1947)には広島を巡幸された昭和天皇の宿所として利用された他、新たに離れ2棟を新築するなど、激動の時期をくぐりぬけてきた。

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昭和22年に昭和天皇の宿所として使用されたのが、昭和8年(1933)に貴賓館として建てられた「錫福館」である。なお、今上天皇も皇太子時代の昭和53年(1978)にこの建物を利用されている。

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紅葉谷川の渓流に沿って5棟の離れが隣接して建っており、「錫福館」は最も本館に近い位置にある。旧広島藩主で岩惣とは縁の深かった浅野長勲侯爵(1842~1937)の命名になる建物である。なお、この離れは客室としては使用されていない。

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「錫福館」の奥にあり、同じく浅野長勲侯爵の命名になる大正13年(1924)竣工の離れ「龍門亭」。

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「龍門亭」に隣接して建つ「秋錦亭」は昭和3年(1928)に建てられた。玄関は勝手口かと思われるような控えめな造りとなっている。

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「秋錦亭」の奥に建つ2棟の離れ「錦楓亭」「洗心亭」は戦後間もなく新築されたもので、写真は手前側に建つ「錦楓亭」の玄関。

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最も奥まった位置にある「洗心亭」は昭和24年(1949)に建てられた小規模な離れである。吉川英治や池波正太郎などがこの部屋を利用しており、文人とのゆかりが深い建物である。

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「錫福館」「洗心亭」以外の3棟の離れが客室として利用可能である。

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明治25年に建てられた本館の玄関ロビーは昭和56年(1981)に改装されたもので、床の間を備えた小座敷が設えられている。

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本館玄関ロビーの奥に昭和初期に建てられた客室棟があり、現在2階部分が客室として使用されている。

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床の間や書院窓まわりに銘木を用いた客室「紅葉の間」

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縁側からは紅葉谷川の渓流を望むことができる。

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館内に展示されている人力車は、浅野長勲侯爵が岩惣へ宿泊の際に用いていた専用のものである。

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食事処や大浴場、客室の大半が入っているのは昭和56年(1981)に建てられた鉄筋5階建の新館であるが、大浴場へ続く階段まわりには3枚のステンドグラスが嵌め込まれている。推測であるがこれらのステンドグラスはいずれも、硝子の色合いや古びた感じから戦前のものと思われ、かつてここに建っていた宴会場に使われていたものかも知れない。図柄は厳島神社の神事。

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秋草の図柄。

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宮島の鹿。

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日暮れ時の本館。

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宮島の夜景。

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厳島神社の西側にある宮島歴史民俗資料館の建物は、明治末期から昭和にかけて岩惣の別館(岩惣別荘)として使われていた。元々は江戸時代後期から明治期にかけて醤油の醸造を営む豪商であった江上家の屋敷であった。

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昭和46年(1971)に宮島町(現・廿日市市)の所有となり、現在は主屋と土蔵が宮島歴史民俗資料館の展示施設の一部として利用されており、国の登録有形文化財になっている。

第1071回・耕三寺聴聲閣

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前回記事にて紹介した広島県尾道市瀬戸田町の耕三寺には、寺を開いた金本耕三(耕三寺耕三)が母親の居宅として昭和2年(1927)から建設に着手した和洋併置式の書院「聴聲閣」がある。贅を尽くした造りの母親の居室や濃密な空間を持つ洋館など見どころの多い建物である。国登録有形文化財。

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耕三寺を開いた耕三寺耕三(旧名・金本福松 1891~1970)は、明治24年に神戸に生まれ、溶接工から発明家、実業家となり、昭和の初めには大阪で大口径特殊鋼管の製造会社を経営していた。昭和2年(1927)より母親の故郷である瀬戸田に母親のための別荘を建て始めた。

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昭和9年(1934)に母親が没すると、その菩提を弔うと共に報恩感謝の念を込めた寺院の建立を発願、翌昭和10年には得度し「耕三」の法名を受けた。(昭和31年には姓を金本から耕三寺に改め、耕三寺耕三となった)その後、昭和45年(1970)に78歳で没するまで、生涯をかけて伽藍の造営を行った。

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耕三寺の伽藍は既存の聴聲閣に隣接する形で造営が行われ、鉄筋コンクリート造2階建ての洋館と木造平屋建ての書院から構成される聴聲閣も、耕三寺の書院、客殿として一部増改築が加えられ、現在残る形になった。

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庭園越しに見る書院棟。

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正面玄関は洋館の隣にあり、唐破風付きの車寄せを備える。その内側の天井は、写真のように彫刻と天女像に飾られた豪壮な造りであるが、ここから入ることはできないので、内側から見学する形になる。

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正面玄関は写真の来客用玄関とその脇に設けられた内玄関で構成されている。台所側には勝手口があり、見学に際しては勝手口から入るようになっている。

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畳廊下のある縁側。

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主座敷。床の間の掛け軸に描かれている人物が耕三寺耕三。

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仏間は格天井となっており、天井画で華やかに飾られている。

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聴聲閣は母親の居室に最も贅を尽くしているのが特徴である。天井は折上格天井、銘木を据え床柱、色鮮やかな金襖や欄間彫刻など、絢爛豪華の一語に尽きる造りとなっている。

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母親のために建てた住まいと言えば、以前当ブログで取り上げた埼玉県川島町の旧遠山元一邸(遠山記念館)がある。いずれも母親への感謝の念を込めて建てた点では共通するが、その趣は対照的であるのは興味深い。(旧遠山邸の過去記事も御参照頂けると幸いである)

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欄間には梅と小鳥がいる。
桃山調の彩色された欄間彫刻は個人邸では珍しい。

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洋館と書院の間には石組を配した中庭を設ける。写真は洋館側から見た母親居室。

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洋館に隣接して浴室及び脱衣場・化粧室が設けられている。
ステンドグラスを嵌め込んだ円形窓は浴室の窓である。

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以前取り上げた小樽の和光荘(旧野口喜一郎邸)では、象が照明を吊り下げていたが、聴聲閣では小鳥が照明を咥えぶら下げている。

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洋風に造られた脱衣場・化粧室。写真の反対側には造りつけの鏡台が置かれている。

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石造りの湯船を備えた浴室。

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ステンドグラスと型押し硝子を組み合わせた浴室の窓。

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浴室側からみた円形窓。

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円形窓のステンドグラス。

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ステンドグラスを嵌め込んだ円形窓は、ほかに2箇所ある。
洋館応接間の入口前には貝の図柄。

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階段踊り場には船の図柄。
いずれも瀬戸内の島にある館にふさわしい図柄と言える。

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洋館の1階応接間には、庭に面してテラスを兼ねたポーチが設けられており、来客はここから直接中へ入ることも出来る。

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中華風の家具調度品で飾られた洋館1階応接間。

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部屋の角に設けられた暖炉。

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洋館の2階は来客用の寝室となっているが、非公開である。

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勝手口がある台所の土間。現在は見学者用の玄関及び受付として使われている。造りつけの戸棚など創建当時の設備が残されている。

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裏方である台所の建具や窓の欄干にも意匠を凝らす。

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広島県内に現存する戦前の和洋併置式の邸宅の中では、耕三寺聴聲閣の造りの充実ぶりは群を抜いている。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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