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第1247回・旧下関英国領事館

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山口県下関市唐戸町にある旧下関英国領事館は、明治39年(1906)に建てられた赤煉瓦2階建の西洋館である。英国領事館として建てられた建物で現存するものとしては国内最古であり、付属棟や塀まで施設一式がよく残されている。国指定重要文化財。

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英国が下関に領事館を設置したのは明治34年(1901)で、当時駐日英大使であったアーネスト・サトウが、当時外交・経済・交通の拠点であった下関への領事館設置を本国政府に具申したことによる。領事館設置から5年後の明治39年(1906)に現在残る建物が竣工した。

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設計は英国工務局上海事務所技師長であったウィリアム・コーワンと推定されている。なお、下関より少し遅れて明治41年(1908)に竣工した長崎の英国領事館の建物も同じ設計者によるものとされており、下関と同じく国指定重要文化財である。

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現在は埋め立てられ国道2号線が通っているが、かつては領事館の建物は関門海峡に面しており、3連アーチのあるベランダからは海岸が一望できたという。

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領事館の北隣には、帝国主義時代のアジア一帯に勢力を築いた英国の貿易商社であるジャーディン・マセソン商会の下関支社があった。赤煉瓦造の3階建でアーチが連なるベランダを備え、すぐ近所の田中町に現存する旧宮崎商館とよく似た外観の洋館であったが、戦災を受けて取り壊され、現存しない。

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昭和16年(1941)の大東亜戦争勃発により英国領事館は閉鎖され、戦後、領事館が再開された後もこの建物に領事館機能が復活することはなく、下関警察署唐戸派出所として昭和43年(1968)まで使用されていた。

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派出所としての役目を終えた後は下関市の施設(下関市考古館)として公開されていたが、昭和62年(1987)に下関市指定文化財、平成11年(1999)に国指定重要文化財となり、大規模な保存修理工事が行われた。

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平成26年(2014)より「旧下関英国領事館」として公開を再開、現在に至っている。

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館内は領事の執務室などを中心に、領事館として使われていた頃の姿を再現展示しているほか、2階には喫茶・パブなどの飲食店が設けられている。

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領事の執務室。
ベランダに面しており、かつては関門海峡を一望できた。

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館内には暖炉が複数設けられており、中でも領事執務室の暖炉は最も重厚な装飾が施されている。

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その他の部屋の暖炉飾りは領事執務室よりは簡素だが、部屋ごとに異なる意匠が施されている。

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暖炉の火除けタイル。

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領事室や領事の居室などに使用されていた2階建の主屋に隣接して、使用人室や厨房、便所などを備えていた平屋建の附属屋も現存しており、これらの施設も重要文化財に指定されている。

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中庭から望む付属屋。付属屋はかつての使用人室や厨房があった部分はギャラリーとして貸し出されており、便所は設備は新しくなっているが、現在も同じ用途で使用されている。

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かつての英国領事館、大使館関係施設で現在、文化財建造物として保存、公開されているものとしては下関、長崎の旧領事館の他、栃木県の中禅寺湖畔に明治29年(1896)に建てられた旧英国大使館別荘がある。下関領事館設置を進言したアーネスト・サトウが建てた簡素な和洋折衷の山荘で、現在は栃木県の施設として保存、公開されている。
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第1231回・旧宮崎商館

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山口県下関市田中町にある旧宮崎商館は、石炭商の事務所として明治40年(1907)頃に建てられたとされる煉瓦造2階建、英国風の端正な洋館である。国登録有形文化財。

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下関でも近代洋風建築が多く残る唐戸地区に建っており、周囲には写真の左奥に写っている旧下関電信局電話課局舎のほか、南部町郵便局旧秋田商会ビルなども建っている。

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明治時代、下関は船舶用燃料である石炭の貯蔵、補給を行うための港として、多くの石炭事業者が下関に店舗を構えるようになっており、旧宮崎商館もそのひとつであった。

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宮崎商館の経営者であった宮崎儀一は神戸で石炭輸出業を興し、下関には当初支店を置いていたが、その後神戸から下関に本拠を移した。

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英国の貿易商社であるジャーディン・マセソン商会は、宮崎商館から近い英国領事館の隣に下関支社の建物を構えており、赤煉瓦に白い石を配した外壁にアーチが連なるベランダを備えるなど、宮崎商館とよく似た外観の洋館であったという。

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ジャーディン・マセソン商会はその後下関から撤退、社屋は筑豊の炭鉱財閥である貝島商店の事務所となっていたが、昭和20年の空襲で大破、戦後に取り壊された。なお、同商会は宮崎商館が創業した神戸にも赤煉瓦の支店を構えており、建物は戦災を受けながらも昭和後期まで残っていた。

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宮崎商館がジャーディン・マセソン商会と何らかの関わりがあるかどうかは分からないが、宮崎商館の店舗は同時期の洋風建築としては日本離れした端正さを備えており、英国人の設計によるものとも考えられる。

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旧宮崎商館の建物は戦後、何度も改装を受け、外壁の煉瓦が塗装で塗りこめられたり2階のベランダは屋内に取り込まれるなど創建当初の面影は薄れていたが、近年になり復元改修が行われている。

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昭和後期から平成にかけて長年にわたり美容院として使われていたが、現在は医院として使われているようだ。

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(参考)日本遺産 構成文化財の紹介 旧宮崎商館

第1223回・旧逓信省下関電信局電話課局舎

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山口県下関市田中町にある旧逓信省下関電信局電話課庁舎は、逓信省営繕課の設計で大正13年(1924)に竣工した。放物線アーチを描く塔屋など、当時としては斬新な意匠を備えた「逓信建築」のひとつである。現在は地元出身の映画女優・田中絹代の記念館「下関市立近代先人顕彰館」として活用されている。下関市指定有形文化財。

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南部町郵便局や旧英国領事館、旧秋田商会ビルなど、下関でも近代洋風建築が多く残る唐戸地区の近くにある旧下関電信局電話課局舎。逓信省営繕課の設計で大正11年(1922)に着工、2年後の大正13年に竣工した。

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逓信省(現・総務省)営繕課は、同省の所轄であった郵便局や電話局、電信局の庁舎を手掛けていた部署で、大正から昭和戦前にかけて従前の建築の主流であった古典様式とは異なる、近代建築(モダニズム建築)のはしりとも言える先端的な意匠の庁舎を数多く建てていた。

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これらの建物は「逓信建築」と称されており、逓信省営繕課に在籍した著名な建築家としては東京・大阪の両中央郵便局などを手掛けた吉田鉄郎(1894~1956)や、東京・大阪の両中央電信局など主に電話局や電信局舎の設計を担当していた山田守(1894~1966)がいる。

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外観を特徴づけている塔屋の放物線アーチは、日本初の近代建築(モダニズム建築)運動とされる分離派建築会の建築家が盛んに取り入れた意匠で、参画していた山田守も東京・大阪の両中央電信局舎(現存しない)で同様の意匠を用いている。現在、このような意匠の逓信建築で残っているのは旧下関電信局だけとされる。

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誰が旧下関電信局の設計を担当したかは不明で、山田守が設計に関与したかどうかは分からないが、当時の逓信省営繕課が分離派の建築思想の影響を強く受けていたことが窺われる。なお、この塔屋は機能上は防火用水槽を収納するためのものである。

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建物廻りの縁石にも塔屋と同じような放物線意匠が見られる。

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半円アーチの窓が連なる3階部分には電話交換手の休憩室が設けられていた。電話交換手は当時の女性の花形的職業のひとつであり、昭和2年に増築された別館(現存しない)には、裁縫などを習う訓育室や蓄音機の置かれた畳敷きの休憩室など、女性のための施設も備えていた。

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建物の三方に巡らされた太い円柱は古典様式的だが、柱身部分だけで柱頭や土台を持っていない。当時としては大胆かつ斬新な表現であったと思われる。

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昭和41年(1966)に電話局が移転した後は下関市が取得、市庁舎の別館として使用されるが、平成3年(1991)以降は空家となり、一時は解体が予定されていたが、保存運動を受け平成14年(2002)に本館部分が市の文化財に指定され保存されることになった。写真は改修前の平成18年(2006)に訪れたときのもの。

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現在は下関出身で昭和期の女優、映画監督である田中絹代(1909~1977)の記念館「下関市立近代先人顕彰館(田中絹代ぶんか館)」として公開されている。なお、館内にも換気口や柱頭などに大正期らしい細部意匠が現在も残されているようである。

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旧下関電信局のほかに現存する大正期の逓信建築としては、吉田鉄郎の初期作品である三重県伊勢市の旧山田郵便局電話分室と京都市の旧京都中央電話局上分局(共に大正12年竣工)がある。

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時代が下がるに従って、逓信建築は東京中央郵便局などに代表されるような無装飾のモダニズム建築へと移行するが、大正期の逓信建築は屋根など随所に目を引く大胆な造形が施されているのが特徴である。

第1220回・旧伊藤博文邸

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明治の元勲の一人で、初代内閣総理大臣を務めた公爵・伊藤博文(1841~1909)が生家跡に建てた洋館が山口県光市に残されている。明治43年(1910)に竣工した洋館は、伊藤博文自ら基本設計を行ったとされるが完成した姿を見ることは無かった。現在は伊藤公記念公園の施設として公開されており、山口県の有形文化財に指定されている。

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伊藤博文(出生名は林 利助)は、天保12年(1841)に熊毛郡束荷村(現・光市大字束荷)に生まれた。現在、伊藤公記念公園として整備されている場所は生家である林家の跡である。

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伊藤博文の遠祖に当たる林淡路守通起の没後三百年法要を前に、生家跡には一族が故郷に集まる場所が無いことから建てられたのが現在残る洋館である。伊藤博文は自ら基本設計を行い、法要の後は地元の公共施設に転用する予定であったという。

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清水組(現・清水建設)の施工で明治42年(1909)3月に着工、10月23日には上棟式が行われるが、その3日後の10月26日に伊藤博文は満洲のハルピンで暗殺され、この洋館を見ることは一度も無かった。

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洋館は明治43年(1910)年に竣工、法要は養子の伊藤博邦によって執り行われた。法要の後は神奈川県大磯の本邸「滄浪閣」から遺愛の家具等が移され、伊藤公記念館として保存されてきた。

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平成16年(2004)には大規模な修復工事が行われ、後年の改装で当初の姿が失われていた正面玄関の車寄せが復元された。

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現在は伊藤博文の業績を紹介する「伊藤公記念公園」の施設「旧伊藤博文邸」として、後年に復元された生家と、隣接して新築された伊藤公資料館と共に公開されている。

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旧伊藤博文邸は和洋折衷の内装を持つ小規模な洋館で、1階は階段室を兼ねた玄関ホールの両脇に洋室2室、背面側には便所等が配されている。

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滄浪閣にあった伊藤博文愛用の家具等はかつてこの館で保存、展示されていた。寝台や洗面台、当時としては珍しいガラステーブル、回転式書棚や安楽椅子など、明治期の洋家具として興味深いものである。

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これらの家具類は現在、隣接する伊藤公資料館に移されており、旧伊藤博文邸には椅子などごく一部の家具だけが残されている。その他に棟札の複製等、建物に関する展示もある。

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玄関ホールの主階段。
奥に見えるのは主階段とは別に設けられた、使用人が使うサービス用階段である。

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親柱には藤の花の装飾が施されている。「伊藤」に因む装飾であろう。

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洋館の背面側に設けられたサービス用階段。

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背面側からみた洋館。元々は洋館の背面に続く形で、厨房や配膳室等のバックヤードの機能を備えた附属棟があったものと思われる。

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2階は次の間付きの座敷を含めて和室が3室、洋室1室を備える。和室が主であるためか、ホールも白壁に柱を見せた和風の造りになっている。

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2階ホールから望む束荷の風景。

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廻り縁側と次の間を備え、書院欄間には菊と桐を透かし彫り装飾を施した本格的な書院造の座敷。

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座敷の縁側。
突き当りには洗面所と便所が設けられている。

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床の間と床脇。
地袋の襖が3枚になっているなど少々歪な印象を受けるが、元勲の館にふさわしい格式を感じさせる座敷となっている。

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菊と桐を透かし彫りにした書院の欄間。
おそらくこの座敷が法要の会場として使われたものと思われる。

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背面に設けられた控室と思われる小部屋。扉の先は先述のサービス用階段に続いている。畳敷きの和室であるが、天井は漆喰塗り仕上げで、窓と扉は洋風に造られている。

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ホールを挟んで座敷の反対側に設けられた洋室はこの洋館の中で最も広い部屋で、座敷と並んで格調高い造りの洋室となっている。おそらく階下は控室で、階上が座敷と共に主室として使われたものと思われる。

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部屋の片隅には緩やかなアーチで区切られたアルコーブ(小空間)が設けられている。白い漆喰で縁取られたアーチと壁布の色調の取り合わせがすばらしい。

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この部屋は創建当初の壁布が断片的に残されていたため、平成16年の修復に際し創建当初の内装が復元された。

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玄関ホールの漆喰装飾を始め、細部の随所に見どころがある。

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外観基壇の換気口と、2階洋室の換気口。

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各洋室にはそれぞれ、金属板に装飾を型押しした円形の換気口が設けられている。

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地元では郷里の偉人ゆかりの建物として今日まで大切に扱われ、平成5年(1993)には山口県の文化財に指定された。

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簡素ながらも外観、内装共に端正な造りの明治の洋館であり、基本設計を手掛けるという形で伊藤博文の意思が示されている建物としても興味深い邸宅である。

第1219回・旧周防銀行本店(柳井市町並み資料館)

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山口県柳井市柳井津字金屋町にある旧周防銀行本店は、明治末期に建てられた県内に現存する銀行建築としては最古とされる木造2階建の洋風建築で、日本銀行技師の長野宇平治が原設計を手掛けた。現在は「柳井市町並み資料館」として観光案内所等に活用されている。国登録有形文化財。

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柳井津は古くより商業が発展していた港町で、室町時代には大内氏の下で繁栄した歴史もあり、現在でも室町時代以来引き継がれているとされる区画に、近世から近代にかけて築かれた白壁に土蔵造りの商家が連なる町並みが残されており、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

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柳井津の中心部に当たる金屋町に建つ旧周防銀行本店。JR柳井駅前から伸びる駅通りに面して建っており、近年道路拡幅のため曳家による保存工事が行われたため、創建時の位置からは少し後方に移設されている。保存地区への入口に当たる位置にあり、観光案内所としては恰好の場所にある。

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近代以降も柳井津は住友銀行などの財閥系銀行の支店が置かれ繁栄していた。周防銀行は明治31年(1898)に地元有力者の共同出資により設立され、明治末期には山口県下最大の銀行となり、朝鮮の釜山にまで支店を構えていたが、大正に入ると経営は傾く。

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大正6年(1917)に周防銀行は倒産、同行の倒産は柳井の経済に打撃を与え、その後の経済活動衰退の一因になったとも言われる。建物はその後下関に本店を置く山口銀行の前身である百十銀行の所有となり、昭和中期まで山口銀行の支店として使われていた。

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周防銀行の全盛期であった明治40年(1907)に竣工した本店は、当時日銀の技師長として各地の店舗設計を手掛けていた長野宇平治が原案を作成、実施設計は長野が独立後には設計事務所の所員であった佐藤節雄が担当した。写真は館内に展示されていた創建当初の姿を写した古写真で、現在の姿とはかなり異なるのが分かる。

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百十銀行~山口銀行時代に正面右側に1スパン分増築が行われた。その際に正面玄関の位置を移すなど1階を中心に大きく改装が施され、現在見られる姿になったようである。なお、増築部分はその後の曳家保存工事に際して撤去されたが、意匠は改装された時の姿で残されている。

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増築及び改装が施された正確な時期は分からないが、全体的に装飾が簡略化された他、弓型に曲線を描く1階玄関及び両側の窓上部のアーチなど大正風の造形が施されており、少なくとも戦前期の改装と思われる。

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2階中央に配されたバルコニーは、創建当初の意匠が現在もそのまま残されている。
なお、下関市にある山口銀行の旧本店は長野宇平治の設計で大正9年に竣工した旧三井銀行下関支店の建物で、現在は「やまぎん史料館」として保存、活用されており、県の有形文化財にも指定されている。

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屋根のパラペット(手摺)の両端には、創建当初より存在した球形の飾りが近年まであったが現在は失われている。何かの折に損傷し撤去されたとのことで、未だ復旧されていないのは甚だ残念である。

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柳井市町並み資料館で頂いたパンフレットの写真。
微細な装飾のひとつではあるが、有るのと無いのでは印象が大きく変わるとは思われないだろうか。

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山口銀行の店舗としての役目を終えた後、昭和50年(1975)より柳井市が建物を借り受け、図書館や観光案内所として使用していたが、平成10年(1998)に駅通りの道路拡幅工事に伴い、山口銀行より建物を譲り受け曳家によって移設、補強工事が行われた。このとき同時に増築部分が撤去され、タイル貼外壁をモルタル塗にするなどの復元改修も行われた。

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1階の旧営業室。大ぶりの格子と板張りを組み合わせた天井の意匠は、長野宇平治が辰野金吾の下で設計を行った日銀京都支店小樽支店の営業室を簡素化したような印象を受ける。おそらく天井は明治期のまま残されていると思われる。

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換気口も兼ねたと思われ、装飾が透かし彫りで施された照明台座。

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旧営業室の奥には金庫が残されている。
現在、1階は柳井市の町並み資料館として柳井津の模型などが展示され、観光案内所も兼ねている。

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営業室の奥には階段室が配されており、この階段も創建当時の姿を残しているものと思われる。

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2階には大小2室が配されている。
階段室に近い小部屋は頭取室など特別な部屋として造られたものと思われ、他の部屋とは少し異なる造りとなっている。

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小部屋の天井は営業室など他の部屋とは異なる意匠となっており、カーテンボックスには装飾彫刻が施されている。

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大部屋は天井など営業室と同じ意匠となっている。この部屋は現在、柳井出身で昭和初期から流行歌手として人気を博した松島詩子(1905~1996)の記念館として公開されている。

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柳井では周防銀行以外にも、先述の住友銀行を始めとする金融機関が明治から大正にかけて洋風建築の店舗を建てたが、今も健在なのは旧周防銀行本店のみである。近代の柳井津の繁栄を伝える建物として、また、明治から昭和初期にかけて多くの優れた銀行建築を手掛けた長野宇平治が設計に関与した建物としても貴重な文化遺産である。
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