第1155回・旧木子七郎邸

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大正初期より大阪で設計事務所を開いていた建築家・木子七郎(1884~1954)の旧邸宅兼事務所が大阪市内に現存する。大正年間に竣工したと思われるスパニッシュスタイルの洋館で、商家や長屋が多い旧大阪市街の一角で異彩を放っている。

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大阪市中央区(旧東区)の一角にある旧木子七郎邸。昭和20年(1945)に戦災により和室部分が焼失しているというので、元々は和洋併置式の邸宅であったものと思われる。

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現存する洋館は正門や塀、門衛所などの附属屋も含めよく旧態を止めている。正門脇に建つ写真の建物は門衛所と思われる附属屋。

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附属屋には門に面した位置に楕円形の小窓が開かれており、来客を確認するためのものと思われる。

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2階正面の横長の窓の部分が周囲の雰囲気とは異なるが、ここは本来はベランダかサンルームで現在の姿は後年の改造と思われる。

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敷地の北側には3階建の建物があるが、旧木子七郎邸の一部か後年の増築かどうかは不明である。

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木子七郎は宮内省内匠寮技師であった木子清敬(1845~1907)の四男として東京に生まれた。木子家は先祖代々宮中出入りの棟梁の家柄であり、兄には父と同じく宮内省内匠寮技師を務めた木子幸三郎(1874~1941)がいる。

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明治44年(1911)、東京帝国大学を卒業した木子七郎は大阪に本店を置く大林組に入社するが、新田帯革製造所(現・ニッタ(株))の工場設計を担当したことから社主である新田長次郎(1857~1936)の知遇を得る。新田長次郎は工業用ベルトの製造で産を成した実業家で、当時大阪でも有数の資産家でもあった。

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大正2年(1913)には木子七郎は大林組を退職、新田皮革製造所の建築顧問となる。また、新田長次郎の長女と結婚し公私共に新田家とのつながりを深めた。この年に自邸兼事務所を建てたとされるが、現在の建物はおそらく当初からのものではなく、その後改装されたものと思われるが、大正年間には現在の姿になったようである。

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設計事務所を開いた後は昭和10年代にかけて大阪を拠点に活動を行い、新田家や関西財界に関連する事務所や工場、邸宅の設計を多く手掛けたほか、愛媛・新潟の両県庁舎などの官公庁舎や、大阪赤十字病院や日赤大阪支部など日本赤十字社関係の施設も多く設計した。

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現在も残る木子七郎の設計による建築では、旧新田長次郎別邸(大正4)、旧久松定謨別邸旧稲畑二郎邸(大正11)、旧山口萬吉邸(昭和2)、旧新田利國邸(昭和3)・愛媛県庁舎(昭和4)、旧関西日仏学館(昭和11)などがある。

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旧木子七郎邸が建っている場所は、現在も長屋や小規模な商家が周囲に残る古くからの商人町であり、赤い屋根のスペイン風洋館は相当目立ったと思われるが、このような自邸を建てた木子七郎の人となりが窺える文章がある。

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新田利國(新田長次郎の孫)夫人は、木子七郎について「・・・たいへんな美男子でハイカラで、昔気質の長次郎は結婚した後でも、七郎のオシャレぶりを目にするとご機嫌がななめでした」と語っている。(藤森照信著・講談社刊「歴史遺産日本の洋館 第五巻昭和編Ⅰ」「新田長次郎邸」より)

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現存するかどうかは不明だが、この邸宅のベランダにはベルギーから贈られた小便小僧の像が据え付けられていたという。設置に際して木子は「招健康像」と題する記念の小冊子を作って関係者に贈呈している。藤田嗣治(レオナール・フジタ)などの芸術家とも交友があったという。

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華やかな戦前までの活動とは対照的に、戦後の消息は乏しく、昭和20年(1945)に自邸が空襲で被災した後間もなく熱海に転居、昭和29年(1954)に同地で70歳で没している。

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自邸被災とほぼ同時期と推測される昭和20年3月に木子七郎は自らタイプを打ち、設計活動の業績をまとめた履歴書を残している。敗戦が近いことを見越して戦後の活動に備えてのものだったのか、建築家としての活動の終わりを意識して自らの経歴を書き残そうとしたのか、その心持はわからない。

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大阪の一角に残る珠玉の洋館。これからも健在であり続けることを願って止まない。


※本記事の作成については、本文でも引用の藤森照信氏の著作「歴史遺産日本の洋館 第五巻昭和編Ⅰ」及び山形政昭氏による「独自に生きた様式建築家 木子七郎」(INAX REPORT 特集記事)を参考にさせて頂いた。
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第1098回・本町橋

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大阪市中央区の東横堀川に架かる本町橋は、大正2年(1913)に架けられた3連の鋼アーチ橋。橋脚まわりに施された石の重厚な装飾が特徴で大阪市内では最も古い現役の道路橋である。大阪市指定文化財。

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本町橋は、豊臣秀吉が大坂城築城に際して東横堀川を外堀として開削した時に架けられたと考えられており、江戸時代には幕府が直轄管理する公儀橋の一つとなった。周囲は大坂の中心的な商業地のひとつとして賑わい、享保9年(1724)の大火以降は橋の北東側に西町奉行所が設置され、行政の中心にもなっていた。

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明治に入るとそれまでの木橋から鉄柱を持つ混合構造の木橋に架け替えられ、鉄橋に架け替えられていた心斎橋や高麗橋と共に当時の大阪では珍しがられたという。その後、大阪市電の敷設及び当時は市区改正と称された都市計画事業による道路拡張に合わせ、大正2年(1913)に現在の橋に架け替えられた。

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架橋から1世紀を超えた現在の本町橋は、3連の鋼アーチ橋で橋脚には石造りの装飾柱が取り付けられ、その上部にはバルコニーを設ける。

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また橋の両端にも、半円形に張り出した石造のバルコニーが設けられている。

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現在見られる欄干や照明燈は戦後の改修時に取り付けられたものと思われるが、架橋当初の欄干や照明燈も鉄製の比較的簡素な意匠のものであったようだ。

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これまでに弊ブログで紹介した同時期の鋼アーチ橋である東京の旧四谷見附橋、名古屋の納屋橋、同じ大阪の難波橋と比べると、本町橋は欄干や親柱が比較的簡素な意匠であるのに対し、橋脚部分に重点的に装飾が施されているのが特徴である。

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東横堀川一帯が現在は阪神高速1号環状線の高架下となり、薄暗い水路でしかない今日からは想像もできないが、架け替えられた当時は船の往来が盛んであり、川面からの眺めを重視した意匠となったのかも知れない。

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橋の両側に合計4つずつあるバルコニーには現在、大きな石が複数埋め込まれているが、その用途や由来は不明である。

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昭和57年(1982)に大規模な補修が行われているが、現在も現役の道路橋として使用されている。平成24年(2012)には大阪市の指定文化財に指定された。

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大阪市内では現役最古の道路橋であると共に、全国的にみても東京の旧四谷見附橋と並び現存する国内最古の鋼アーチ橋である。

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欄干の鉄柵部分や照明燈は当初のものが失われているものの、橋梁本体が現在も架橋当初の原位置にあり、かつ現役で使用されている橋は本町橋の他には例がないものと思われ、貴重である。

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風格のあるすばらしい橋であるが、現在の周辺の景色は極めて殺風景なのが残念である。

第1052回・四條畷学園本館

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大阪府大東市学園町にある学校法人四條畷学園の敷地内には、昭和4年(1929)に建てられた本館が90年近く経った現在も現役で使われている。玄関まわりの外壁には、建設当時の生徒達が作った装飾タイルが嵌め込まれているのが珍しい。

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JR片町線四条畷駅の東側すぐの位置にある四條畷学園。幼稚園から小中高校、短大、大学を擁する大阪でも有数の私立学校である。

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四條畷学園は、旧制四條畷中学校(現・四條畷高等学校)の校長を務めていた牧田宗太郎が、実弟で三井鉱山社長など務めた実業家の牧田環などの協力を得て、大正15年(1926)に四條畷高等女学校を開校したのが始まりである。

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開校当初は大阪府北河内郡門真村(現・門真市)古川橋に仮校舎を置いていたが、開校3年後の昭和4年(1929)6月に現在地に新築移転した。

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その後校舎は拡充され現在に至るが、本館と正門は創建当初から変わらぬ佇まいを見せている。

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本館は現在、学園の本部及び高等学校の校舎として使われているようだ。

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側面を望む。
本館はL字型で、背面に設けられた校庭を囲む形になっている。

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3階の側面外壁には、曲面を持つ張り出しが設けられている。

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車寄せのある正面中央部分の外壁も、わずかに曲面を描いて前面に張り出している。

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本館の2階正面中央には、6体の鳥の塑像が据え付けられている。

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羽を広げた堂々とした姿は鷲にも見えるが、頭は鳩のようにも思われる。

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大阪府下に現存する昭和初期の学校建築は、以前紹介した大阪大学会館(旧浪速高等学校本館)などのようなシンプルな外観の建物が多く、四條畷学園のような重厚な建物は珍しい。

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玄関ポーチの開口部は放物線アーチを描く。放物線アーチは20世紀初頭にドイツなどで見られた建築様式である表現主義建築においてよく見られ、日本でも一部の若手建築家が取り入れていた。

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玄関ポーチの天井は梁を斜めに交差させるなど、放物線アーチの開口部と共に特異な意匠を見せている。

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創建当時からのものと思われる玄関ポーチの照明器具。

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本館1階の外壁には、昭和初期に流行したスクラッチタイルのほか、型押しを施した素焼きの装飾タイルが用いられている。また、玄関ポーチにも同じ意匠の装飾タイルが用いられている。

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玄関ポーチの装飾タイル。

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本館1階外壁の装飾タイル。

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1階外壁の正面部分には上記の装飾タイルと共に、昭和4年当時の生徒達が製作した手作りの装飾タイルが嵌め込まれている。

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四條畷学園は楠木正行を主祭神とする四條畷神社のすぐそばにあり、菊水紋など楠木氏に因む図柄なども散見され、興味深い。

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あまり知られていないように思われるが、大阪府北河内地方でも屈指の名建築である。

第989回・商船三井築港ビル(旧大阪商船ビル)

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大阪市港区海岸通にある商船三井築港ビルは、戦前の日本を代表する船会社のひとつであった大阪商船(現・商船三井)の大阪港における施設として昭和8年(1933)に建てられた。船会社の建物らしく、船を思わせる造形が見られる外観が特徴。

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商船三井築港ビルは、日本一低い山とされていた天保山の近くに建っている。大阪でも有数の観光地である水族館の海遊館にも近い。

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大阪市港区は大阪市内でもとりわけ空襲の被害が甚大であった区域であり、戦前から残る建物は極めて少ない。白い外壁の部分は、戦後増築された部分。

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この建物を建てた大阪商船は、同社が独占していた南米航路に就航していた貨客船「あるぜんちな丸」「ぶら志゛る丸」などでも知られる。東京に本社を置く日本郵船と共に、戦前の我が国を代表する船会社であった。

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大阪商船の本社は大阪市北区宗是町(現・中之島)の大阪ビルディングに置かれていた。現在は超高層ビル(ダイビル本館)に代わったが、旧ビルの部材を用いた低層部には往年の姿がよく残されている。(当ブログ過去記事参照)

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戦前の建物がそのまま残されているものでは、本建物のほか、神戸市の旧神戸支店(現・商船三井ビル)と北九州市の旧門司支店がある。

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この界隈は地下水の汲み上げによる地盤沈下が深刻で、台風や高潮で浸水する事も多かったため、戦後に周囲の嵩上げを行った。そのため、もとの1階部分は埋没しており、現在の玄関はかつての2階に新たに設けられたものである。

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内部の廊下。
現在は店舗やギャラリーなどが入居している。

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うどん店となっている1階(旧2階)の1室。

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以前紹介した赤煉瓦倉庫(旧住友倉庫)などと共に、戦前から残る希少な建物である。

第922回・築港赤レンガ倉庫(旧住友倉庫)

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大阪市港区海岸通にある築港赤レンガ倉庫は、大正12年(1923)に住友倉庫として建てられた。
平成11年(1999)に倉庫としての役目を終え、今年、平成27年(2015)にクラシックカーミュージアムやレストランが入居する商業施設として再生された。

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大阪港の第1号岸壁沿いに建っている。
水族館「海遊館」の最寄駅でもある、大阪市営地下鉄の大阪港駅から徒歩圏内の位置にある。

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築港赤レンガ倉庫は、北側の旧200倉庫と南側の旧300倉庫の2棟から構成される。かつては倉庫の間と両脇を、大阪臨港線(平成18年廃線)が走っていた。

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大阪港第1次修築工事(明治30年(1897)~昭和4年(1929))の末期にあたる大正12年(1923)、同年に住友合資会社倉庫部から独立したばかりの(株)住友倉庫によって建設された。

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大正12年に発生した関東大震災を契機に煉瓦造りは衰退したため、同年に竣工した旧住友倉庫は煉瓦造の大型建築物としては末期の事例である。

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第二次大戦後に行われた地盤嵩上げのための盛り土工事により、壁面は創建当初より低くなっている。

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大阪市内では第二次大戦前より、工業用の地下水汲み上げによる地盤沈下が深刻であった。このため港湾部では高潮による浸水対策として、大規模な地盤嵩上げ工事が行われたものである。

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平成11年に倉庫としての役割を終えた後は、管理が住友倉庫から大阪市に移管され、再利用が模索されていた。

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その後、大阪市では平成25年(2013)に民間事業者による利活用案を募集、その結果、クラシックカーミュージアムなどから構成される商業施設として再生されることになった。

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築港赤レンガ倉庫が、既に観光名所としても定着している函館、横浜、舞鶴などの赤煉瓦倉庫群のような存在になることを期待したい。
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