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第1211回・夕陽丘高等学校清香会館

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大阪市天王寺区北山町にある大阪府立夕陽丘高等学校の構内に、昭和初期に建てられたモダンな外観の建物が残されている。昭和8年(1933)に大阪府立夕陽丘高等女学校の同窓会館として建てられた「清香会館」である。設計は大阪を拠点に大正から昭和戦前期に活動していた木子七郎による。

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夕陽丘高等学校は、明治39年(1906)に大阪府立島之内高等女学校として設立された歴史を有する大阪でも屈指の伝統校である。設立後間もない明治41年に現在地に移転、校名も夕陽丘高等女学校に改められた。

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夕陽丘高等女学校の同窓会は「清香会」と称し、戦後の学制改革で共学校となった現在も同じ名称で続いている。

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清香会館は昭和9年(1934)に竣工した2代目校舎とほぼ同時に建てられた。2代目校舎は平成に入り全面改築されたので、清香会館だけが昭和初期の趣を残している。

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現存する木子七郎設計作品の中では積極的にモダンデザインを取り込むようになっていた後年のものであるが、昭和11年(1936)に竣工した京都の関西日仏学館などに比べると様式主義的な造形が見られる。

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清香会館は曲面を多用した壁面に、円形窓の格子飾りなど細部に施されたアールデコの装飾が特徴となっている。

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一部の屋根庇にはスペイン瓦を葺き、木子が得意としたスパニッシュ風の造形も加えられており、2階のベランダ開口部の形状は東京九段の旧山口萬吉邸のベランダとよく似ている。

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木子七郎が設計を引き受けたのは、木子夫人のカツが同校の卒業生である縁によるとされる。カツ夫人は実業家・新田長次郎の長女で、父親が経営する新田皮革製造所の工事を、大林組に勤務していた木子が担当したことが縁で知り合ったという。

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木子七郎は大正2年(1913)にカツと結婚、同年大阪市東区に自邸兼事務所を構えて以降は昭和10年代にかけて大阪を拠点に設計活動を行った。大阪府下でも清香会館とは近い場所にある筆ヶ崎町の大阪赤十字病院や堺筋の稲畑商店本社屋など、多くの優れた建物を手掛けている。

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現在、木子七郎の本拠とした大阪に今も残る設計作品は、清香会館と旧自邸だけである。
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第1189回・旧山口玄洞別宅(圓井雅選堂)

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前回は実業家・山口玄洞が晩年を過ごした京都の旧邸を取り上げたが、大阪市中央区高麗橋4丁目にも山口玄洞の別宅とされる建物が現存する。明治末期に建てられたとされる町家で、現在は古美術商・圓井雅選堂の店舗として使われている。大阪の旧市街では町家自体がごく少数しか現存しないが、商家ではなく居住専用の仕舞屋はとりわけ希少な存在である。

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大阪の旧市街でも中心的な場所である船場の北側、今橋通と高麗橋通の間に「浮世小路(うきよしょうじ)」と称される細い通りがある。大坂城築城時に豊臣秀吉によって整備され、現在でも一部が現役の下水道として使われている太閤下水(背割下水)の上を道路にしたものである。

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現在、船場界隈に現存する町家は、北浜の適塾、道修町の旧小西儀助商店、伏見町の錢高組高徳寮などがあるが、いずれも店舗兼用の住居、即ち商家であって居住専用の町家、仕舞屋は殆ど見られない。

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商家が建ち並ぶ船場にあって、江戸時代より浮世小路には妾宅や遊芸の師匠の住居が多く、仕舞屋が多く存在する街並みは近代以降も続いていたものと思われる。平成の初め頃までは、船場界隈のほか近接の西区江戸堀などでも仕舞屋と思われる構えの町家が企業施設などとして残されていたのを見た記憶があるが、今は無い。

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平成19年(2007)に大阪府教育委員会が刊行した「大阪府の近代化遺産:大阪府近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」によると、大阪町家の特徴を残す奥座敷も残されているという。

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古美術商の店舗として一階にショウウインドウを設置するなど、改装はされているが、犬矢来を設けた高塀など、風雅な佇まいは重厚かつ簡素な船場の商家とは異なる趣を見せる。

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商都の町家にふさわしく、うだつ(卯建、梲)には分銅型の巴瓦が取り付けられていた。

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山口玄洞は洋反物商として成功を収めた後は、多くの企業の役員を務めるなど大阪財界で活躍、大正元年には備後町(故郷・尾道の旧国名「備後國」と同じ地名である)に堂々たる土蔵造の店舗を新築するが、それまでの激務が祟って健康を害したことから大正6年に実業界を引退、京都で仏道に精進する晩年を過ごした。

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浮世小路の別宅は、激務の合間の僅かな休息の場だったのだろうか。
なお、山口玄洞は当時の実業家の多くがそうであったように数寄者としても知られ、引退後は表千家の後援者としても活躍したという。その旧別宅が現在、古美術商の店舗として活用されているのは奇縁というべきかも知れない。

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大阪の中心部のビル街で今も残る旧山口玄洞別宅の存在は奇跡的と言ってもよい。適塾や旧小西家などの商家や、近在の大阪倶楽部、住友本店などの近代建築群と共に、船場の地に今後も是非残される事を願う。

第1181回・西川家長屋

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大阪市中央区(旧東区)龍造寺町にある西川家長屋は、明治43年(1910)頃に建てられたとされる六軒長屋。大阪市内には戦前から多くの長屋が建てられ現存するものも多いが、西川家長屋は間取りなどに近世以来の伝統的な様式を残す長屋である。国の登録有形文化財。

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旧東区の一角にある龍造寺町は戦国大名、龍造寺政家の屋敷があったとされることに由来するとされる。大阪市内でも戦災を免れた区域のひとつで、現在でも古い長屋や商家が点在する。以前紹介した木子七郎の旧自邸兼事務所はここから近い場所にある。

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現在、大阪市内で国の登録有形文化財として登録されている長屋は西川家長屋のほかに2棟(阿倍野区の寺西家長屋、北区の豊崎長屋)存在するが、西川家長屋が最も古い時期の長屋である。

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戦前の大阪市内では住宅は持ち家よりも借家が圧倒的に多く、その殆どが長屋であった。明治以降も近世以来の伝統的な形式の長屋が多く建てられていたが、やがて間取りや規模、意匠などに近代的発展が見られ、昭和戦前期にかけて様々な種類の長屋が建てられた。

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明治末期に建てられた西川家長屋は外観、間取り共に近世以来の伝統的な形式を踏襲したもので、2階の壁面や屋根の軒裏を漆喰で塗り固め、棟の両端にはうだつ(卯建)を建てている。

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間取りは西側に土間(通り庭)、東側に三室を配し、北側(背面)に裏庭と便所を配する構成となっている。なお、大正期以降は伝統的な通り庭に代わり、玄関脇に台所を配する現在のアパートやマンションに近い構成の間取りを持つ長屋が多くなる。

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西川家長屋では石灯籠が置かれた裏庭や小さな釣り床が配された座敷など、外観だけでなく内部も建築当時の面影が色濃く残されているという。

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現在はそのうちの1軒が時間単位での貸しスペース「銀杏菴」として使用されている。

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銀杏菴の出格子には登録有形文化財のプレートが掲げられている。
茶道、華道、書道教室が開かれている他、各種イベント会場としても利用されているようだ。

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平成25年(2013)、西川家長屋は大阪市内の長屋としては先述の寺西家長屋、豊崎長屋に続く3件目の国登録有形文化財となった。

(参考)大阪文化財ナビ 西川家長屋紹介ページ

第1180回・北浜長屋

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北浜長屋は、大阪市中央区北浜にある木造二階建、事務所兼用の二軒長屋である。外観、室内共に和洋折衷の造りが特徴で、大正元年(1912)に建てられたとされる。長らく使われていなかったが近年改修され、店舗として再生された。平成30年(2018)7月に出された文化審議会の答申に基づき、国の登録有形文化財として今後登録される予定である。

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難波橋の近く、土佐堀通に面した正面。通りの反対側には大阪取引所(旧大阪証券取引所)が建っている。
正面側の外観は明治期以降の大阪の町家に多く見られる土蔵造を基調としており、窓や玄関など随所に洋風の造りを取り入れている。

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背面は土佐堀川に面しており、1、2階共欄干を巡らせた縁側を配した開放的な造りとなっている。現在は護岸で覆われているが煉瓦造の地階があり、かつては土佐堀川から船でも出入りできるようになっていたようだ。硝子戸を入れた縁側や煉瓦を用いた地階など、近代の和風建築の特徴を備えている。

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明治11年(1878)に取引所が設置されて以来、今日に至るまで北浜は大阪の証券街となっている。取引所の向かい側にある土佐堀川沿いには多くの証券業者の事務所が建てられ、明治から昭和戦前期には様々な構造、意匠の建物が建ち並んでいた。現在も往時の姿を残す建物は北浜長屋と以前紹介した北浜レトロビルヂング(旧桂隆産業)の2棟のみである。

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北浜長屋と北浜レトロビルヂングの竣工時期は共に大正元年 = 明治45年(1912)とされている。同時期の建物で立地条件も共通しているが、片方は煉瓦造の洋風建築に対し、片方は木造、和洋折衷の事務所兼用二軒長屋で、それぞれ異なる特徴を備えている。共に店舗として再生され、国の登録有形文化財となるのは大変喜ばしいことである。

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以前は証券業者の事務所や弁護士事務所として使われていたが、近年は空家となっていたようである。改修後は2軒それぞれに飲食店などの新しい店舗が入居している。

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内部は外観に対応した造りとなっており、創建当初は土佐堀通に面した正面側が洋室で、土佐堀川に面した背面が和風の座敷になっていたようである。また、地階には厨房や便所、洗面所など伝統的な町家、長屋の通り庭の機能が集約されていた。現在も正面側の洋室天井には、装飾を打ち出した金属板が張られている。

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玄関の上部にはペディメント(三角破風)が取り付けられ、内側には装飾彫刻も施されている。
正面側の洋室部分が事務所(店舗)で、川沿いの座敷及び地階は居住空間であったと思われる。

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二軒長屋であるが、正面向かって右側が特に保存状態がよく、窓や扉の建具は創建時のままで残されているようである。特に二階上げ下げ窓の意匠は他では見かけない、珍しい意匠である。

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平成28年(2016)に、大阪の近代建築の再活用に取り組んでいる近畿大学建築学科の髙岡伸一准教授の改修設計・工事監理により改修工事が施され、往年の姿が甦った。

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昭和40年代に行われた改装によって、黒漆喰仕上げの重厚な正面外壁は白く塗られ、川沿いの背面側も風情あるかつての姿は失われていたが、改修によりもとの姿に戻されている。

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建具が入れ替えられるなど比較的改変が多かった正面左側は復元改修が施されている。

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道路に面した正面を重厚に仕上げ、川に面した背面を開放的に造っている点では同じ大阪市内に現存する旧鴻池本店・本宅 (現在、川は埋め立てられている)と共通するが、水都と称されたかつての大阪ではこのような建物は少なくなかった。北浜長屋は昔の大阪の街並みを偲ばせる希少な建物のひとつである。

第1155回・旧木子七郎邸

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大正初期より大阪で設計事務所を開いていた建築家・木子七郎(1884~1954)の旧邸宅兼事務所が大阪市内に現存する。大正年間に竣工したと思われるスパニッシュスタイルの洋館で、商家や長屋が多い旧大阪市街の一角で異彩を放っている。

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大阪市中央区(旧東区)の一角にある旧木子七郎邸。昭和20年(1945)に戦災により和室部分が焼失しているというので、元々は和洋併置式の邸宅であったものと思われる。

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現存する洋館は正門や塀、門衛所などの附属屋も含めよく旧態を止めている。正門脇に建つ写真の建物は門衛所と思われる附属屋。

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附属屋には門に面した位置に楕円形の小窓が開かれており、来客を確認するためのものと思われる。

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2階正面の横長の窓の部分が周囲の雰囲気とは異なるが、ここは本来はベランダかサンルームで現在の姿は後年の改造と思われる。

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敷地の北側には3階建の建物があるが、旧木子七郎邸の一部か後年の増築かどうかは不明である。

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木子七郎は宮内省内匠寮技師であった木子清敬(1845~1907)の四男として東京に生まれた。木子家は先祖代々宮中出入りの棟梁の家柄であり、兄には父と同じく宮内省内匠寮技師を務めた木子幸三郎(1874~1941)がいる。

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明治44年(1911)、東京帝国大学を卒業した木子七郎は大阪に本店を置く大林組に入社するが、新田帯革製造所(現・ニッタ(株))の工場設計を担当したことから社主である新田長次郎(1857~1936)の知遇を得る。新田長次郎は工業用ベルトの製造で産を成した実業家で、当時大阪でも有数の資産家でもあった。

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大正2年(1913)には木子七郎は大林組を退職、新田皮革製造所の建築顧問となる。また、新田長次郎の長女と結婚し公私共に新田家とのつながりを深めた。この年に自邸兼事務所を建てたとされるが、現在の建物はおそらく当初からのものではなく、その後改装されたものと思われるが、大正年間には現在の姿になったようである。

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設計事務所を開いた後は昭和10年代にかけて大阪を拠点に活動を行い、新田家や関西財界に関連する事務所や工場、邸宅の設計を多く手掛けたほか、愛媛・新潟の両県庁舎などの官公庁舎や、大阪赤十字病院や日赤大阪支部など日本赤十字社関係の施設も多く設計した。

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現在も残る木子七郎の設計による建築では、旧新田長次郎別邸(大正4)、旧久松定謨別邸旧稲畑二郎邸(大正11)、旧山口萬吉邸(昭和2)、旧新田利國邸(昭和3)・愛媛県庁舎(昭和4)、旧関西日仏学館(昭和11)などがある。

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旧木子七郎邸が建っている場所は、現在も長屋や小規模な商家が周囲に残る古くからの商人町であり、赤い屋根のスペイン風洋館は相当目立ったと思われるが、このような自邸を建てた木子七郎の人となりが窺える文章がある。

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新田利國(新田長次郎の孫)夫人は、木子七郎について「・・・たいへんな美男子でハイカラで、昔気質の長次郎は結婚した後でも、七郎のオシャレぶりを目にするとご機嫌がななめでした」と語っている。(藤森照信著・講談社刊「歴史遺産日本の洋館 第五巻昭和編Ⅰ」「新田長次郎邸」より)

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現存するかどうかは不明だが、この邸宅のベランダにはベルギーから贈られた小便小僧の像が据え付けられていたという。設置に際して木子は「招健康像」と題する記念の小冊子を作って関係者に贈呈している。藤田嗣治(レオナール・フジタ)などの芸術家とも交友があったという。

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華やかな戦前までの活動とは対照的に、戦後の消息は乏しく、昭和20年(1945)に自邸が空襲で被災した後間もなく熱海に転居、昭和29年(1954)に同地で70歳で没している。

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自邸被災とほぼ同時期と推測される昭和20年3月に木子七郎は自らタイプを打ち、設計活動の業績をまとめた履歴書を残している。敗戦が近いことを見越して戦後の活動に備えてのものだったのか、建築家としての活動の終わりを意識して自らの経歴を書き残そうとしたのか、その心持はわからない。

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大阪の一角に残る珠玉の洋館。これからも健在であり続けることを願って止まない。


※本記事の作成については、本文でも引用の藤森照信氏の著作「歴史遺産日本の洋館 第五巻昭和編Ⅰ」及び山形政昭氏による「独自に生きた様式建築家 木子七郎」(INAX REPORT 特集記事)を参考にさせて頂いた。
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