第961回・小岩井農場

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岩手県岩手郡雫石町にある小岩井農場は、明治24(1891)年に開設された日本最大の民間総合農場である。125年の歴史を有する同農場には明治から昭和戦前にかけて建てられた施設があり、その多くは今も現役で使われている。そのうち写真の本部事務所を始めとする9件が国の登録有形文化財となっている。

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小岩井農場の名称は、実業家の小野義眞(1839~1905)、三菱財閥二代目総帥として知られる岩崎彌之助(1851~1908)、鉄道庁長官であった井上勝(1843~1910)の三名の共同創始者の頭⽂字に由来する。現在は日本最大の民間総合農場であると同時に、岩手県でも有数の観光名所となっている。

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農場でも最古の建物である第一倉庫。農場開設の翌年に当たる明治25年(1892)に建てられた。

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第一倉庫に近接して建つ本部事務所は、小岩井農場をこよなく愛した作家で詩人の宮澤賢治(1896~1933)は、自作の中で「本部の気取った建物」と表現している木造平屋建の洋館。

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明治36年(1903)に建てられた。
国の登録有形文化財に認定されている9件のうちのひとつ。

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軒に円形の垂れ飾りがついた玄関ポーチが特徴。

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現在は鬱蒼と樹木が生い茂っているが、農場が開かれた当初は周辺の樹木はまだ小さく、二階の望楼部分から農場全体を見渡すことができたという。

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裏からみた本部事務所。

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本部事務所の裏手の木立ちの先に、邸宅風の建物が見える。

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内部に暖炉を備えているのか、煉瓦積の煙突を備えた建物には「倶楽部」の表札が掛っていた。農場関係者の社交・迎賓施設と思われる。

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農場の一部は観光客に開放されており、登録有形文化財となっている施設も間近で見ることができる。

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昭和9年(1934)に建てられた一号牛舎。国の登録有形文化財である。一階は搾乳牛用の牛舎、二階は乾牧草の倉庫となっている。

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一号牛舎の一階内部。当時の場主であった三菱財閥三代目総帥・岩崎久彌(1865~1955)の命により、「30年後でも恥ずかしくない牛舎を」と建てられたという。80年経った現在も現役である。

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明治41年(1908)に建てられた四号牛舎(登録有形文化財)のサイロ部分。

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明治40年(1907)、41年(1908)に建てられた一号サイロと二号サイロ。

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煉瓦造で、現存する日本最古のサイロとされる。いずれも国の登録有形文化財である。

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(参考) 小岩井農場ホームページ(登録有形文化財の紹介ページ)
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第953回・齋藤實記念館(齋藤實水沢別邸)

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前回に引き続き、二・二六事件に関連する建物を取り上げたい。事件で暗殺された齋藤實(1858~1936 子爵、内大臣、海軍大将、元朝鮮総督、元首相)が、昭和7年(1932)に郷里の岩手県水沢町(現・奥州市)の生家跡に建てた別邸が現存する。別邸は齋藤實が郷里に贈った私設図書館でもあり、木造平屋建の母屋に隣接して赤煉瓦張りの書庫が建っている。

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現在は奥州市が運営・管理する齋藤實記念館の一部として公開されている。齋藤實記念館は昭和47年(1972)、水沢市(当時)により旧別邸内に設けられた。齋藤實と春子夫人(1873~1971 水沢市名誉市民)を顕彰し、その遺品等を展示・公開している。別邸は建物のほか、池のある庭園も残されている。

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旧別邸の母屋。水沢の地に別邸を設けた経緯は、昭和6年(1931)に齋藤實が通算10年に亘り在任した朝鮮総督を退任する際、総督府職員をはじめ朝鮮半島の官民有志が餞別金を贈ったことに始まる。当時千葉の一宮に持っていた別邸が余りに質素で小規模なものであったことから、餞別金は別邸の改築費用にと贈られたものだった。

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しかし齋藤はこれを受け、郷里・水沢に別邸を兼ねた文庫を建てて、自らの蔵書を公開することを考えた。齋藤の水沢に対する愛着は非常に強いものであり、雅号としていた「皋水(こうすい)」も「水沢」を逆さにしたものであった(「皋」は「沢(澤)」の古字とされる)。寄贈者の了解を取り付け速やかに別邸の建設に着手、海軍技師の設計、大林組の請負により翌昭和7年(1932)に竣工した。

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齋藤實は昭和7年10月に水沢に帰省、新築成った別邸にも立ち寄るが、それは図らずも内閣総理大臣としての帰省となった。同年5月15日、海軍の一部急進派将校を中心とするテロ事件である五・一五事件が発生、時の首相・犬養毅(1855~1932)は暗殺され、齋藤はその後任として組閣の大命を受けることとなった。

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写真の別邸北側は齋藤夫妻の私的空間に充てられ、書斎・寝室として使われた洋間二室の他、洗面所、浴室が配されていた。南側には玄関脇にサンルーム風に造られた土間を設け、その奥には三間続きの座敷を配する。土間と座敷は文庫の閲覧室としても使えるようになっていた。

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齋藤實は昭和9年に首相を退任、翌10年12月に病気と長期在任を理由に退任した牧野伸顕に代わり、内大臣に就任する。そして翌昭和11年(1936)2月26日の早暁に二・二六事件に遭難、東京・四谷の本邸で壮絶な最期を遂げる。その間、水沢の別邸には夫人同伴で数回訪れ滞在するが、昭和10年8月に約20日間滞在したのが最後となった。

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主を失った水沢の別邸はその後、大東亜戦争末期には春子未亡人を始めとする齋藤家の人々の疎開先となるが、四谷の本邸は空襲で焼失する。春子未亡人は以後水沢に定住、昭和46年(1971)に98歳で逝去するまで、地元の人々と親密な交流を深めながら夫の追憶と追慕に日々を過ごした。

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庭園の一角に建てられた、朝倉文夫の作になる齋藤夫妻の銅像。
春子未亡人は最晩年に至るまで、反乱将校の銃口から夫を庇って自らも重傷を負った事件当時のことを鮮明に覚えていたが、家族の前では噫にも出すことなく、恰も夫が現在も健在であるかの如く振る舞っていたという。

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別邸の中心施設というべき書庫は鉄筋コンクリート造2階建、外装は昭和7年当時では古風というべき赤煉瓦で仕上げられている。海軍関連の施設は赤煉瓦の建物が多い(霞が関の海軍省庁舎江田島の海軍兵学校)が、施主の齋藤實もしくは設計者である海軍技師がそれを意識したのかどうか、今となってはそれを読み解くことは困難である。

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書庫内部は旧宅と共に写真撮影禁止であるため紹介できないが、主が海軍軍人であることを物語る造りが随所にみられる。2階へ上る階段は軍艦のハッチ(甲板への昇降口)を模して造られており、軍艦と同様、波や海水を防ぐための可動式の覆蓋もついている。それを見ると外装の赤煉瓦も、何かしらの意味があるものと思われる。

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斎藤實が「この本を読めば、内のことも外のこともわかるだろう」と、東京の本邸にあった自分の蔵書を郷里の子弟に閲覧させる目的で設計された書庫には約38,000冊が収められており、今日では朝鮮半島関係の資料はとりわけ貴重なものとされているという。

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旧別邸の隣には、昭和16年(1941)に斎藤子爵記念事業会の手によって建てられた「皋水記念図書館」の建物が現存する。同図書館はのちに水沢市立図書館(現・奥州市立図書館)の母胎となった。

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これまで当ブログで紹介している二・二六事件に関連する建物としては他に、旧高橋是清邸旧軍人会館(九段会館)旧宮内省庁舎(宮内庁庁舎)がある。

第935回・旧紺屋町消防番屋

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岩手県盛岡市紺屋町にある旧紺屋町消防番屋は、大正2年(1913)竣工の木造洋風建築。江戸時代以前からの破壊消防からポンプでの注水による近代消防への転換を示す近代化遺産である。現在は役目を終え、盛岡市が所有している。盛岡市保存建造物。

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紺屋町は旧盛岡銀行本店第九十銀行本店など近代の建造物が多く残る中ノ橋通に隣接、盛岡市の中心街の一部を構成している。

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木造二階建で、階下に消防車の車庫、消防器具置き場、消防団詰所、台所を配し、階上は消防団の寄合に用いるため、畳敷きの大広間となっている。また、屋根の上には火事を発見するための望楼を設けている。

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この地に消防番屋が置かれたのは明治24年(1891)で、当初の建物は伝統的な町屋の屋根に望楼を載せたものだった。
大正2年(1913)に、現在の建物に改築される。

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明治24年の設置当初は「盛岡消防よ組」、大正2年の改築時は「盛岡市消防組第四部」、その後、平成17年に役目を終えるまで「盛岡市消防団第五分団」と、名称は変遷を重ねている。

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屋根上の六角形の望楼。火の見櫓として使われていた。

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かつては消防団員が交代で常駐し、街を見張っていた。

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平成17年(2005)に役目を終えた後、建物を確実に後世に残すために昨年(平成27年)、盛岡市消防団第五分団から盛岡市に寄贈された。盛岡市では現在、建物の活用方法を検討中である。

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紺屋町には旧消防番屋のほか、古い町屋が点在するが、その代表格が写真の茣蓙九(現森九商店)
くの字状に曲がった街路に合わせる形で、幕末から明治末にかけて増改築を重ねた佇まいが残されている。

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旧消防番屋と中ノ橋通の旧盛岡貯蓄銀行本店との中間に建っている。現在も雑貨店として営業中である。

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紺屋町寄りの部分は、二階の階高が高く腰壁にはタイルを貼っており、近代の町家の特徴を備えているところから、明治末の増築部分と思われる。

第930回・旧盛岡貯蓄銀行本店(盛岡信用金庫本店)

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岩手県盛岡市中ノ橋通にある盛岡信用金庫の本店店舗は、昭和2年(1927)に盛岡貯蓄銀行本店として建設された。
同じ中ノ橋通に面して建つ旧九十銀行本店・旧盛岡銀行本店と並ぶ戦前の銀行建築である。

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盛岡貯蓄銀行は大正10年(1921)に設立され、6年後に本店店舗を完成させるが、その後岩手殖産銀行に統合された。現在の盛岡信用金庫本店となるのは戦後の昭和33年(1958)。

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設計は辰野金吾の片腕として盛岡銀行本店の設計にも携わった葛西萬司。
旧盛岡貯蓄銀行本店は辰野の没後、独立して設計を手掛けたものである。

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鉄筋コンクリート造であるが、一部は煉瓦も用いられているという。

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背面、通用口側から望む。

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通用口の門。

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外観のデザインは古典様式であるが、内装はステンドグラスなどに当時最先端のアールデコの意匠が取り入れられている。

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赤煉瓦の旧盛岡銀行、タイル貼りのモダンな旧九十銀行に比較すると、最も重厚で堅実な印象の建物である。

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現在も現役の金融機関店舗である。

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社章周りの装飾は創建当初からのものと思われる。

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盛岡市の保存建築物に指定されている。

第928回・旧緯度観測所本館(奥州宇宙遊学館)

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岩手県奥州市水沢区星ガ丘町にある旧緯度観測所本館は、大正10年(1921)に建てられた木造二階建ての洋風建築。現在は奥州市が所有、奥州宇宙遊学館として公開されている。国登録有形文化財。

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明治31年(1898)に開催された国際測地学協会総会で、世界共同の緯度観測所を北緯39度8分の線上に6ヶ所設置することとなり、日本では岩手県の水沢が選ばれ、翌明治32年より「臨時緯度観測所」が設置、緯度観測が行われることとなった。

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以降水沢は日本及びアジアにおける国際測地学研究の拠点となり、今日でも測地学に関連する研究及び測定が行われている。

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観測所構内に建つ旧緯度観測所庁舎。
緯度観測所はその後国立天文台に統合され、現在の名称は「国立天文台水沢VLBI観測所 」である。
(VLBI=超長基線電波干渉法)

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庁舎としての用途を終えた後は取り壊される予定であったが、奥州市に譲渡、曳家・改修の上、宇宙科学を学べる科学館として活用されることとなった。

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屋上に設けられた塔屋。
大正期の洋風建築に多く見られる、直線を基調とした簡素な意匠。

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緯度観測所は宮澤賢治が度々訪れ、作品の着想を得た場としても知られており、賢治と観測所の関わりは奥州宇宙遊学館の展示内容にも反映されている。

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玄関燈と玄関周りの装飾。

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旧緯度観測所本館の斜め向かいに建つ平屋建ての洋風建築は、初代所長であった木村榮(1870~1943)の業績を紹介する記念館である。

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木村榮記念館の建物は明治33年(1900)に建てられた臨時緯度観測所創立時の庁舎であり、奥州宇宙遊学館の建物は緯度観測所の二代目庁舎ということになる。

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奥州宇宙遊学館・木村榮記念館は共に無料で公開されている。
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