第1168回・石谷家住宅

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鳥取県八頭郡智頭町にある石谷家住宅は、山林経営を主業としていた石谷家によって大正中期から昭和初期にかけて造営された大規模な近代和風建築。当地の特産である杉などの良材を用いており、豪壮な土間空間や意匠を凝らした座敷飾り、階段などが見どころである。国指定重要文化財。

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正面から望む石谷家住宅。江戸時代には参勤交代の宿場町としても栄えていた智頭宿でも、最も広壮な構えを誇る。石谷家は近世以来続く旧家で、明治以降は山林地主として林業経営を主業としていた。

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大正8年(1919)、当時の当主で衆議院議員、貴族院議員も務めた石谷伝四郎(1866~1923)によって改築工事が開始された。江戸時代より建っていた主屋を始め、土蔵など附属建物も含めた大規模な工事であった。

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工事の途中であった大正12年に、当主の石谷伝四郎は滞在先の帝国ホテルで客死するが、実弟で第一高等学校教授であった石谷伝市郎によって改築事業は引き継がれ、約10年の歳月をかけて昭和4年(1929)には完成した。

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土間の木組が豪壮な主屋は昭和3年(1928)に完成、翌年には式台を備えた玄関棟などが整備された。なお、完成後も茶室や座敷の増築が行われ、現在の姿ができあがったのは戦時中の昭和18年(1943)頃とされている。

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石谷家住宅には多くの座敷や部屋が存在するが、住居や迎賓施設としての役割だけではなく、山林経営の事務所としての役割も担っていた。

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松の巨木が交差している土間及び囲炉裏の間の天井は圧巻であり、当邸の大きな特徴となっている。

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式台のある本玄関を入ってすぐの位置に設けられている和式応接室。
床柱を立てない珍しい造りの座敷である。

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和式応接室の書院飾り。欄間は石谷家の全景を鳥瞰した図柄となっている。

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和式応接室の濡れ縁から中庭を望む。

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応接室の先には畳廊下が延びている。

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畳廊下の窓から望む中庭と和式応接室。

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畳廊下沿いには庭園に面した新建座敷、江戸座敷、茶室などの接客空間が広がっている。  

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昭和16~18年(1941~43)頃に増改築されたとされる新建座敷。天井板などに屋久杉などの良材を用いた、戦時中の工事とは思えない良質の座敷である。

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改築に際しては古い家屋を全て撤去せず、一部の座敷や土蔵、庭園など、手を加えつつも江戸時代以来の歴史を有する空間は保全している。写真の仏間も仏壇のほか、天井板、長押などの内装材には改築前の古材を再利用している。

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改築に際しても撤去されず、古い建物自体が残る江戸座敷は次の間と主室から構成されている。写真は次の間。

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江戸座敷の主室。天井の棹が床の間に向かって伸びているのは「床挿し」と称され、江戸中期以降に見られるという珍しい造りである。平書院のハート状の意匠も珍しい。

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江戸時代以来の由緒を残す空間を残しつつ、大規模な改築が施された旧家としては、同時期に改築工事が行われた千葉県野田市の高梨本家(上花輪歴史館)を思い出させる。

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江戸座敷は新建座敷と共に、庭園を望む格好の場所である。大きな池のある庭園は江戸時代以来の形を残しており、県の名勝に指定されている。

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接客用空間のなかでは最も奥まった位置にあり、池に臨む形で建っている茶室。昭和4年の改築工事完成から新建座敷が建てられるまでの間に建てられたと思われる。

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石谷家の居住空間となっていた居間や食堂は、昭和11年(1936)頃に医師で鳥取県における民芸運動の指導者でもあった吉田璋也の指導によって改装されており、床を寄木張りとし洋式家具を配した和風モダンとでも称すべき造りになっている。写真は前室で、居間・食堂は現在は喫茶室として活用されている。

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近代和風建築にふさわしい造りは階段室にも見ることができる。2つある階段のひとつは螺旋階段となっており、曲線を持つ手摺りなど、どことなくアールヌーボー風である。

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設計・工事監督を務めた田中力蔵は英国に留学した経歴があり、階段のデザインに何らかの影響が表れていると考えられないだろうか。

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この螺旋階段は上へ上ると吹き抜けを跨ぐ太鼓橋になっている。和風建築は伝統的に階段を見せ場とする考え方は無く、近代の和風建築でも階段にデザインを凝らしたものは多くない。その点でも石谷家住宅の階段は非常に珍しい。

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二階には神棚を祀った神殿室があり、正月には祭祀が行われていた。

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二階の座敷の一室。山で働く人達の宴会部屋にも使われていたそうだ。

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細部にも見所が多いのが石谷家住宅の魅力である。
屋根は黒い石州瓦で葺かれており、この家のための特注品である。石谷伝四郎の恩顧を受けた彫刻家の國米元俊が鬼瓦の意匠と邸内欄間の製作を手掛けている。写真は鬼瓦の一部。

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照明器具も大正末期から昭和初期のものと思われるものが多く残されている。

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本玄関、内玄関、主屋入口の照明や濡れ縁の釣燈籠も創建当時のものと思われる。

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石谷家住宅は国登録有形文化財を経て平成21年(2009)には国指定重要文化財となった。現在は智頭町によって管理され、邸宅の主要部が一般公開されている。本記事で紹介したのは邸宅のごく一部分に過ぎず、是非現地へ訪れて見て頂きたいすばらしい建物である。
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第1162回・旧第三銀行倉吉支店(協同組合倉吉大店会)

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前回に引き続き、鳥取県倉吉市の打吹玉川伝統的建造物群保存地区にある銀行建築である。魚町にある協同組合倉吉大店会の建物は、明治41年(1908)に第三銀行倉吉支店として建てられた。明治中~後期に各地で建てられた土蔵造の銀行建築の特色を備えており、内部は吹き抜けの営業室など洋風に造られている。鳥取県における国の登録有形文化財第一号である。

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全景。奈良時代からの歴史を有する旧街道、倉吉往来に面して建っており、角地に玄関ポーチを張り出す。明治38年(1905)に火災により魚町一帯が火災で焼失したことを機に、明治41年(1908)に土蔵造で再建された。

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旧第三銀行の「三」の文字をあしらった瓦が現在も残されている。第三銀行は明治9年(1876)に設立された国立第三銀行を前身とする銀行(明治29年に「第三銀行」に改称)で、のちに安田財閥の中核であった安田銀行の前身となった。(三重県にある第三銀行とは無関係である)

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土蔵造の銀行建築は、伝統的な土蔵造の外観と洋風の内装が特徴である。耐火性や安全性において江戸時代から実績があり、また社会的地位の象徴として認知されていた土蔵造は、信頼性が重視される銀行建築の恰好の様式として明治中~後期にかけて各地に建てられた。

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土蔵造の銀行建築は富山県砺波市の旧中越銀行本店や明治村に保存されている旧安田銀行会津支店など外壁を黒漆喰仕上げとするものが多く、白漆喰仕上げのものは珍しい。

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内部は一転して吹き抜けのある洋風の造りとなっている。
金融機関として使われた後は協同組合倉吉大店会の事務所として使われ、現在はレストラン・カフェ「白壁倶楽部」として営業している。

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平成28年10月の鳥取県中部地震で被災し一時閉鎖されていたが修復され、営業を再開している。

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旧営業室天井の漆喰飾り。

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現在は地元産の食材を使ったフランス料理を提供しているほか、結婚式場として利用されるなど、倉吉でも指折りの人気のある場所となっている。

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かつてのカウンターに立てかけられている、金融機関として使われていた当時の古い看板の数々。

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2階へ続く階段。

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階段親柱と手摺。木目を見せるためにニスを薄く塗るのは日本的。
洋風の造りであるが、この階段の他にも随所に伝統的な大工棟梁の感覚で造られたことが窺える箇所がある。

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二階から吹き抜けを見下ろす。吹き抜けの周囲には回廊(ギャラリー)を廻す。

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二階にある個室。
営業室の吹き抜けに面しており、かつては重役室か会議室として使われていたと思われる立派な造りの洋室。

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天井の照明台座に施された漆喰装飾。
装飾の葡萄は平坦なレリーフ状のものと下に垂れ下がる立体的に造られたものがあり、左官細工も凝っている。

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窓や扉の額縁は太い一本ものの材木にモールディング(繰形)加工を施しており、腰壁にも幅広の板を用いるなど、材木に贅を凝らしている。

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派手さはないが、細部まで入念に造り込まれた質の高い銀行建築である。
なお、鳥取県に隣接する島根県の松江市にも、旧第三銀行松江支店の建物が現存する。倉吉と同じく白漆喰仕上げの土蔵造の銀行建築である。

第1161回・旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店

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鳥取県倉吉市東仲町にある旧日本産業貯蓄銀行倉吉支店の建物は、昭和6年(1931)に建てられた鉄筋コンクリート造の銀行建築。国の伝統的建造物群保存地区である打吹玉川の一角にあり、町家や土蔵が建ち並ぶ同地区では珍しい洋風建築である。

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現在は草木染や雑貨を扱う店舗として活用されている。
小規模ではあるが、当時の地方都市ではまだ珍しかった鉄筋コンクリート造で、意匠もセセッション風の凝ったものとなっている。外観は創建時の佇まいをよく残しており、内部もかつての吹き抜けの痕跡が残されているなど、往時の面影をよく残している。

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2階正面の中央には日本産業貯蓄銀行の行章と思われる星形の装飾が施されており、両脇の付柱の上部にはメダリオン飾りが施されている。カブなどの野菜を思わせるユニークな形をしたこのメダリオンは、側面の壁面にもひとつだけ施されている。

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(一社)全国銀行協会の「銀行変遷史データベース」によると、日本産業貯蓄銀行は大正5年(1916)に設立された銀行で、大阪に本店を置いていたが、設立からわずか17年後の昭和8年(1933)には破産している。

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破産した当時の騒然とした様子を伝える興味深い新聞記事を、神戸大学附属図書館の新聞記事文庫で見ることができる。

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「本支店とも一斉に今朝期して差押え 日本産貯 預金者俄然躍動」(昭和8年9月7日付大阪毎日新聞)
記事の一部を下記に紹介したい。なお、記事見出しの「日本産貯」とは日本産業貯蓄銀行のことである。

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「・・・山陰地方は六日夜出発の小野村弁護士が松江支店、中尾弁護士が倉吉支店、近藤弁護士が預金者委員と共同で米子、境、安来の三出張所、吉田弁護士が鳥取支店、磯野弁護士が三朝出張所をそれぞれ執達吏をして備附の金庫はいうまでもなく銀行の資産ならびにこれを明かにする諸帳簿の一切を一瀉千里に差押えることとなった・・・」

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日本産業貯蓄銀行は大阪に本店を置いていたが、上記記事によると倉吉のほか鳥取、米子、松江など、山陰地方に多くの支店を展開していた銀行だったようである。

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銀行店舗としては短命であったが、建物は内外装共に創建時の佇まいを残し、90年近い歳月を刻んで今日に至っている。

第15回・仁風閣(池田侯爵家別邸)

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仁風閣は、鳥取県鳥取市東町に建つ明治時代の洋館。明治40年(1907)に行われた嘉仁皇太子殿下(のちの大正天皇)の鳥取行啓に際し、旧鳥取藩主である池田侯爵家により御座所として建てられた。迎賓館赤坂離宮などの設計で知られる片山東熊の設計とされており、山陰地方でも屈指の明治の洋風建築である。国指定重要文化財。

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鳥取城跡の一角に建っている仁風閣。この名を付けたのは皇太子殿下に随行していた海軍大将・東郷平八郎で、池田侯爵家当主・池田仲博の依頼によるとされる。この地はかつて、「扇御殿」と称された御殿が建っていたため、大正時代ごろまでは地元では「扇邸」と称されていたという。

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鳥取城跡の石垣からは仁風閣を一望できる。
木造二階建てで外壁は白ペンキ塗りの下見板張り、屋根は日本瓦葺きで一部を銅板葺とする。

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御影石の門や鉄の門扉、洋館までのアプローチ及び背面の庭園に至るまで、明治40年創建当時の佇まいがよく保存されている。嘉仁皇太子殿下は、明治40年5月18日から21日まで仁風閣に滞在された。

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一見完全な左右対称のように見えるが、片側には八角形の尖塔を設けて対称を崩したデザインとする。

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庭園側は2層全面にベランダ(2階は硝子戸を入れサンルーム兼用とする)を設けた開放的な造りとし、正面側とは異なる趣を見せる。

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設計者の片山東熊は宮廷建築家として皇室関連の建築を多く手掛けた人物である。国宝の迎賓館(旧赤坂離宮)を始め、京都、奈良の旧帝室博物館(現京都国立博物館、奈良国立博物館)などで知られる。なお、実施設計は地元出身で東京帝大卒の技師・橋本平蔵が行った。

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正面上部の櫛形ペディメントの中央に配された六芒星の中には、池田家の家紋である揚羽蝶がある。池田家は寛永9年(1632)に岡山から国替えとなってから明治維新までの約240年間鳥取藩主の座にあり、明治維新後は侯爵に列せられた。

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この館は池田侯爵家の別邸として建てられ、御座所として使われた後も、昭和42年(1967)に鳥取県に寄付されるまで池田家が所有していたが、別邸として使用されることは無かった。御座所としての役目を終えた後は、鳥取市の迎賓施設として使われたり、市民のための宴会場や結婚式場としても使われたりしていた。

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第二次大戦後は鳥取県立科学館(のち科学博物館)として昭和24~47年(1949~72)まで使用されていた。博物館移転後は存続の危機に立たされるが、保存運動が実を結び、昭和48年(1973)には国指定重要文化財となり、指定後修復工事が行われた。現在は鳥取市の所有となり、一般公開されている。

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皇太子殿下の行啓は山陰地方の近代化を大きく推進し、仁風閣には鳥取では初となる電燈が燈され、山陰線の敷設工事も大きく進捗を見せた。

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館内に入る。
堂々たる円柱が一対建っている一階のホール。

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御座所として使われた当時は、一階には随員の控室や事務室、浴室が置かれ、皇太子殿下の滞在スペースは二階に設けられた。

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尖塔の内側には螺旋階段が設けられている。優雅な形状の階段であるが、用途は専ら使用人が二階と行き来するためのサービス用通路、すなわちバックヤードである。

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主階段の親柱には繊細な彫刻が施されている。

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二階ホールにも一対の円柱が建っている。
東郷平八郎揮毫による「仁風閣」の額が飾られている。

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二階御座所の暖炉。暖炉飾りは黒大理石で出来ており、焚き口の周りには輸入物のタイルが貼られている。

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鳥取では初の電気照明であったシャンデリア。
写真は御座所のもの。

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御座所に隣接する御寝室。
床は畳敷きとするが、壁や天井は洋風に造られており、白大理石で飾られた暖炉を置く。

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仁風閣の背面に広がる日本庭園はかつての扇御殿の庭園で、小規模ながらも江戸時代の大名庭園の流れを汲むものとされる。現在は宝隆院庭園と称されている。「宝隆院」とは、11代鳥取藩主・池田慶栄の正室・整子の号で、扇御殿は宝隆院のために12代藩主・慶徳が文久3年(1863)に建てたものである。

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扇御殿の化粧の間と伝わる建物が宝隆院庭園の一角に現存し、茶室として使われている。

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(参考)「仁風閣の周辺 ―白亜の洋館と池田侯爵家のあゆみ― 」(館内販売の冊子)

〔追記〕
平成28年10月25日 記事写真を修整・追加、本文を全面的に書き改めました。
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