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第60回・旧青木家那須別邸

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栃木県那須塩原市青木にある旧青木家那須別邸は、明治期の外交官で外務大臣、駐米大使等も務めた青木周蔵子爵が、那須に開設した農場の一角に別邸として建てたドイツ式洋館。現在は道の駅「明治の森黒磯」の施設として一般公開されている。国指定重要文化財。

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旧青木家那須別邸に続く杉並木。建物のロケーションは創建当初とほぼ変わっていない。

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杉並木の先に現れる別邸。中央部分が明治21年(1888)の創建で、明治42年(1909)に大規模な増築を行い、現在見られる姿になった。なお、創建当初の位置はもう少し奥にあったが、保存に際して現在地に移築されている。

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青木周蔵(1844~1914)は長州藩出身の外交官で、独、英、米などの大使・公使や外務大臣を務め、明治期の外交懸案であった不平等条約の改正に取り組み、子爵に列せられた人物である。留学時代も含めドイツ滞在は25年に及び、ドイツ人女性を後妻に迎えるなどドイツとの関わりは深く「独逸翁」とも称されたという。

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当時、松形正義や山縣有朋など明治の元勲の多くが不毛の原野であった那須野ヶ原を開拓すべく、農園や牧場を開きその中に別邸を設けていた。青木周蔵もそのうちのひとりで、広大な農場と別邸を築き、墓所もこの地に定めた。現在、この一帯の地名が「青木」となっている所以である。

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青木周蔵の本邸は東京にあったが、明治41年(1908)に駐米大使を最後に外務省を退官、このとき那須を生活の本拠としようとしたのか、別邸の大増築を行っている。その後は大正3年(1914)に没するまでの晩年の大半をこの館で過ごしていたものと思われる。没後は昭和末期まで青木家の別邸として維持管理されていた。

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昭和から平成初期にかけて、諸事情によって管理もされない状態が続き老朽化が進むが、平成7年(1995)に青木家から栃木県に建物が寄贈され、場所をわずかに移す形で移築復元の上、「道の駅」の施設として活用されることとなり、平成10年(1998)に移築復元工事が完了した。

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設計者は長らく不明であったが移築前の調査によって、ドイツ留学の経歴を持つ建築家の松ヶ崎萬長(1858~1921)の設計であることが明らかになった。当時日本領土であった台湾に多くの建物を残した建築家であるが、現在、旧青木家那須別邸は唯一日本国内に現存する設計作品であると考えられている。

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背面も正面とほぼ同じ意匠である。

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かつて厨房や使用人部屋があった部分は内部非公開。

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この洋館の外観の大きな特徴であるが、外壁の前面にわたってシングルと呼ばれる小片を一面に貼りつめている。当初は木の板かと思ったが青木別邸に用いられているのはスレート材である。部分的に用いる例は他の洋風建築でも見られるが、全面的に貼るのは珍しい。うろこ形と蔦の葉形の2種類が用いられている。

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正面玄関。現在はここから入ることはできない。見学に際しては正面向かって左側にあるベランダから上がり、旧応接間から入るようになっている。

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玄関ホール。
移築に際しては外観、内装ともに増築された明治42年当時の状態に復元されている。

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1階階段室に置かれているのは青木周蔵が当時使用していた馬車の車台部分である。現在の東北本線黒磯駅で列車を降りると、別邸までの移動手段は馬車であった。

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旧応接室。明治42年の増築部分に当たる。
現在は見学者用の入口がこの部屋に設けられている。

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室内は全体的に明治の洋館としてはかなり簡素なものであるが、写真の旧夫人室はアーチ形の縁取りが施されたアルコーブ(張り出し)、壁紙仕上げの内壁等、比較的華やかな造りになっている。鏡台は青木家で実際に使っていたもの。

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石造りの暖炉。暖炉の意匠は基本的にどの部屋も同じである。
煙突と暖炉の内側には栃木県内で多く産出される大谷石が使われている。

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明治21年当初創建部分の1階にある食堂。家具は一部を除き復元されたもの。
別邸では当時、青木周蔵がドイツから持ち帰って放された鹿が繁殖しており、鹿狩りも行われていた。

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邸内の展示品の中には訪問客からの礼状があり、この食堂で振る舞われたのか、炙った鹿肉と鯉の洗いに舌鼓を打つ、というような趣旨の漢詩が認められたものもあった。

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邸内に2箇所ある階段室。
現在、見学者の昇降に使われているのはかつての使用人用として使われていた階段である。

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2階の階段室。写真右手の階段は屋根裏(非公開)につながっている。

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寝室。鉄製の寝台は青木家で使用していた当時のものと思われる。
四半世紀に亘ってドイツで過ごした青木周蔵は、当時の日本人としては珍しく完全な純洋式の生活をしていた。

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2階には和室が2室あり、写真の部屋はそのうちの1室で、洋室の床に畳を敷いただけで造りは完全な洋室となっている。主の青木周蔵は「畳の上に座るのは苦痛」と言うほどの人物なので、来客の宿泊用に用意された部屋と思われる。

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2階正面ベランダから杉並木を望む。

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青木家の生活を伝える品々。
先述の馬車の他、駐米大使時代に購入し退官後持ち帰ったと思われる石炭ストーブ、ソファ付書棚、バスタブなど。

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旧青木家那須別邸は、移築復元工事が行われた翌年の平成11年(1999)に国指定の重要文化財となった。

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建物自体が残されていること自体も貴重なのであるが、建物だけではなく、周辺環境も創建時と左程変わらずに残されているのは極めて珍しい。

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栃木県は外国人リゾート地として繁栄した日光や、維新の元勲達によって開拓された歴史を持つ那須などがあることから、現在も近代の優れた邸宅建築の遺構が数多く残されている。旧青木家那須別邸もそのひとつであると共に、全国的に見ても現存する数少ない明治期のドイツ式洋風邸宅としても貴重な存在である。

(平成30年10月9日追記)
写真を再訪時のものに全面的に差し替えを行い、本文も全面的に書き加え、表題も一部修正(「旧青木周蔵別邸」→「旧青木家那須別邸」)しました。
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第59回・旧土岐家住宅洋館

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群馬県沼田市の沼田公園内にある旧土岐家住宅洋館は、大正13年(1924)に旧沼田藩主であった土岐家の当主・土岐章子爵の住まいとして、現在の東京都渋谷区広尾に建てられた。平成2年(1990)に洋館部分が土岐家より沼田市に寄贈、現在地に移築された。ドイツの郊外別荘風の外観が特徴の和洋折衷住宅である。国登録有形文化財。

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土岐家は、江戸時代中期の寛保2年(1742)から明治2年(1869)の版籍奉還まで127年にわたり沼田藩主を務め、明治維新後は子爵に列せられた。この邸宅を建てた土岐章(1892~1979)は、最後の沼田藩主である土岐頼知の子で、土岐家の十四代目当主である。

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土岐章が子爵家の家督を継いだ頃には家産が大きく傾いており、そのためか大学卒業後の一時期はパンの製造販売に乗り出すなど、戦前の華族では少々異色の経歴を有する人物である。その後昭和に入ると貴族院議員に選ばれ、敗戦後の貴族院廃止までは政治家として活躍した。なお、その経歴から「パンの殿様」とも称されたという。

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パンの製造販売を経て、東京日本橋でワインの製造販売を手掛けていた近藤商会に入社した土岐章子爵は、発酵学の研究のためドイツに派遣されるが、留学中の大正12年(1923)に関東大震災が発生、日本に戻ることになる。帰朝後新たに土地を求め新築したのが現在残る邸宅である。

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昭和54年(1979)に土岐章元子爵は死去するが、その後も夫人が引き続き居住、使用されていた。平成2年(1990)に、当時の土岐家当主であった鉄道技術者の土岐實光(1922~2011)氏によって洋館部分が沼田市に寄贈され、沼田城址に作られた沼田公園の一角に移築された。

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現存するのは洋館部分のみであるが、内部は和洋折衷となっている。1・2階とも、写真の右半分は和室、テラスの張り出した左半分が洋室となっている。

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館内に展示されている新築当時の設計図の写し。洋館和室部分の先に平屋建ての和風建築が続いていた。また、和洋館の境目に当たる位置には半円形と思われる形状のサンルームが張り出していたようである。

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背面。勝手口の照明や、不規則な形状の銅版を貼り重ねた庇の軒裏などは少々凝ったデザインとなっている。

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玄関の裏手には大谷石の軒飾りを廻した納戸が設けられている。

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変化に富んだ正面外観。ドイツの郊外別荘を模したデザインとされるが、邸宅を新築する直前までドイツに滞在していた土岐章子爵の意向を反映させたものと思われる。但し先述のとおり、外観とは裏腹に室内は約半分が和室で構成されている。

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「牛の目窓」と称される横長の屋根窓はドイツの民家に見られるもので、日本では同時期のドイツ風意匠の洋館である大阪の旧谷口房蔵別邸(大正11年)の屋根にも、同様の意匠を見ることができる。

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設計は伊藤平三郎、施工は森田錠三郎とされるが詳しい経歴等は不詳。大正13年8月に着工、同年12月に竣工したという。

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かつては土岐家の庭園に張り出していたと思われるテラス。土岐章子爵は敗戦後の食糧事情の悪い時期には、かつての経験を活かして邸宅の庭先にパン窯を築き、自らパンを焼いていたという。

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玄関上部のアーチに嵌め込まれたモルタル彫刻のレリーフ。

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玄関脇の照明器具も凝ったデザインである。

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玄関のステンドグラス。同じデザインの窓が3つ連なっている。

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玄関の照明器具と同様、渦巻き状の模様が特徴。

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玄関ホールの先に応接間が設けられている。部屋の隅に切られた暖炉を除き、全体的に簡素な造りの洋室である。なお、突きあたりの硝子戸は外のテラスに続いている。

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応接間の隅には、抽象的なデザインを施した石積みの暖炉が設けられている。暖炉棚の上に土岐章子爵の肖像が飾られている。

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室内は外観ほど凝った造形は見られないが、この暖炉は材料、デザイン共に他であまり見かけない珍しいものである。

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応接間の奥に配された和室。
1階は主要な居室としては以上の2室のみで、その他は玄関ホール、書生室、トイレ、洗面所、納戸等がある。

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2階へ続く階段の親柱にも、ワラビのような渦巻状の装飾が見られる。

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2階も1階と同様に、和・洋1室ずつを配する構成となっている。写真は書斎。

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1階内部の見どころが応接間の暖炉とすれば、2階の見どころは座敷である。一見普通の床の間、書院窓を備えた日本座敷であるが、殿様の屋敷にふさわしく、一段床を高く上げた上段の間が設けられている。

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上段の間を正面から望む。公開されていないが、上段の間の奥には着替え用の小部屋が設けられているという。旧土岐子爵邸洋館は、旧藩主である土岐子爵家の接客内容が部屋の造りに現れている点でも興味深い建物である。

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旧土岐家住宅洋館は平成29年現在、沼田市によって現在建っている旧沼田城址の整備に伴い、中心街への再移築が検討されている。再移築予定地は明治後期の擬洋風建築である旧沼田貯蓄銀行の隣接地であるという。どのように利活用がなされていくかは未知数であるが、再移築を機に、現存しない日本家屋やサンルームも外観だけでも再現されないだろうか。

(追記)
本記事は平成29年3月13日に写真、記事本文ともに全面的に差し替えの上、書き改めました。

(参考資料)
「歴史遺産日本の洋館第4巻 大正編Ⅱ」藤森照信・増田彰久

第58回・旧司法省庁舎(法務省赤れんが棟)

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東京・霞が関に唯一残る明治期竣工の中央官庁庁舎である。明治28年(1895)完成。
当時政府がドイツ人建築家ヘルマン・エンデ、ヴィルヘルム・ベックマンに依嘱して推進していた官庁集中計画の一環として建設されたものである。
なお、同計画は当初の構想に反し、最終的に完成を見たのはこの司法省庁舎と隣接して建てられた大審院(現在の最高裁判所)庁舎のみである。

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実施設計と工事監理はエンデに建築を学んだ河合浩蔵(第53回・相楽園参照)が担当している。
奥には現在東京地裁・高裁庁舎が建っているがかつては大審院庁舎が建っていた。

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昭和20年3月10日の東京大空襲で外壁を残して焼失した。なお、この3月10日の空襲では隣接する大審院および有楽町の東京都庁(旧東京府庁・東京市役所)も焼失している。
言うまでもないが、同日深川等下町方面では10万人の犠牲者が出ている。

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昭和26年に改修工事完成。以後法務省庁舎として使われる。改修に際しては屋根が簡素な瓦屋根に変更、外壁も上部が削られ側面および背面のベランダ石柱は撤去された。
(写真は正面なので上部の石柱は創建時からのオリジナル)
なお、隣接の大審院も昭和24年改修、以降最高裁庁舎として使われたが別の場所に現庁舎が完成後、破壊され現存しない。その後の現状は1,2枚目の写真のとおり。

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平成6年に復原改修工事が完成、外観は創建当初の姿に復した。同年国指定重要文化財となる。
現在は法務省庁舎の一部として使用されている。

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司法省庁舎と司法大臣公邸を併設したためか、中央部分に玄関を置かず左右にそれぞれの玄関を配置する珍しい構成。
写真は正面向かって左側の入口。

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玄関から廊下、階段室は戦災復旧工事の際の内装を保全している。その他の部屋は現役の庁舎として使用するべく平成期の改修に際して一新されている。
(ただし、旧司法大臣公邸食堂部分のみ、創建当初のインテリアが復元され展示室に当てられている)

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廊下。

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半円形の階段室と照明。

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階段室外観。

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背面。こちらの上部石柱は平成に入って復原した部分。
後ろに写るのは警視庁庁舎の塔。

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同じく背面。

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皇居の濠に面した側面。

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背面から皇居側(桜田門のあたり)を見る。(1枚目の写真と丁度正反対の位置)
皇居側をバックにして撮ったときは、余計なものが何も写らずに済む。

第57回・旧栃木県庁舎

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戦前の県庁舎のうち、部分的に保存されているものが何件かある。
昭和13年(1938)竣工の旧栃木県庁舎は新庁舎完成後、正面中央部分のみが敷地内で曳家の上保存されている。
現在は「昭和館」の名前で公開されている。

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設計者は重要文化財の早稲田大学大隈講堂や東京の日比谷公会堂も設計で知られる佐藤功一。
県庁舎も多く手掛けており、群馬(昭和5・登録文化財)、宮城(昭和6・破壊され現存せず)、栃木、滋賀(昭和14)の4箇所。

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因みに佐藤は栃木出身。

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玄関。

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玄関ホール。

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貴賓室。

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階段室周りは壁一面にタイルを貼りめぐらしている。タイルの質感がすばらしい。
佐藤は陶芸を好み、建築においてもタイル、テラコッタといった陶器を建物の内外に多用した作品が多い。

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階段室のステンドグラス。

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3階正庁前廊下。

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正庁。この建物の一番の見どころ。

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天井の繊細な石膏細工。

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東京丸の内の日本工業倶楽部会館の大食堂を思わせる。

第56回・旧山崎家別邸

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大正14年(1925)に埼玉県川越に建てられた、和洋折衷式の小規模な別邸建築。地元の有力者で和菓子の老舗、亀屋の主・山崎家の隠居所。現在は山崎家の手を離れ、川越市が所有・管理している。川越市指定文化財。

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庭園から望む母屋。二階建の小規模な洋館に平屋の座敷が付く構成。
蔵造りの家が立ち並ぶ表通りから少し離れた路地裏に建つ、いかにも別宅といった佇まい。

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門を入ってすぐの場所にある待合。人力車の車夫等が控える場所として使われたのではないかとのこと。

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重厚な蔵造りの本宅とは異なり、別宅にふさわしい軽快な造りの玄関。

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玄関のある洋館部分の一階外壁はドイツ壁仕上げ、二階は同じくモルタル塗り仕上げながら横目地を切った磨き壁とする。

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階段室のステンドグラス。

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同じく階段室下部のステンドグラス。この二枚のステンドグラスのうち上部のものは、大正期を中心に活躍したステンドグラス作家・小川三知(1867~1928)の制作。

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洋館の脇には、母屋と外壁の意匠を揃えた土蔵がある。また屋根も母屋と同様に緑色の洋瓦で葺いている。

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戦前の邸宅の面白い所のひとつは、土蔵ひとつ取っても伝統的意匠あり、洋風あり、和洋折衷ありで飽きない。
しかしながら土蔵の配置は必ずといっていいほど北西(乾の方角)に配置されている。伝統的な配置と近代的な意匠の取り合わせが面白い。

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玄関に戻る。薄緑色の色硝子が実にいい雰囲気を醸し出している。

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設計者及び施工者は旧八十五銀行本店と同じく保岡勝也設計、印藤順造施工。

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保岡勝也は早くから大邸宅ではない中小住宅の設計に本格的に取り組んだ建築家としても知られる。旧山﨑家別邸はそのような中小住宅の数少ない現存例である。内部も家具や照明器具が創建当時のものが残り、保存状態も極めてよい。

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洋館一階応接間の窓のステンドグラス。こちらは小川三知ではなく、大正から昭和戦前に多くの建物のステンドグラスを手掛けていた別府七郎の作品と言われている。

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食堂前のテラス。
別邸の施主・五代目山崎嘉七は、保岡勝也が本店建物を設計した第八十五銀行の副頭取も務めて居る。隠居所として建てたものの、五代目嘉七氏は竣工後間もなく死去したため、山﨑家の迎賓館として使われていたようである。

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応接間に付随したテラス。
山崎家別邸は川越を訪れる貴賓の接待・宿泊所にも充てられ、朝香宮殿下、李王垠殿下など皇族方の御宿所にも使われた。現在も庭園には李王垠殿下御手植えの松がある。

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このテラスで貴賓を迎え、撮った記念写真が今も多く残されている。

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内部は公開されていないが、洋館・日本座敷共に非常に質の高いものである。
日本座敷は数寄屋風の洗練されたもので材料・意匠共に優れている。なお写真は縁側から撮ったものである。

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庭園と庭園にある茶室も、母屋と同じく保岡勝也の設計による。

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保岡勝也は茶室を始めとする数寄屋建築の研究者としても知られ、著作も残る。

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旧山崎家別邸では、茶室と庭園についても自らの研究を実作に反映させている。

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川越市では庭園の公開を平成25年10月で一時休止、約2年間の建物及び庭園の復元整備を行い、再公開する予定であるという。

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再公開の際は建物内部も公開されるようなので、楽しみである。

注:本記事は平成25年10月21日に山崎家本宅の記事公開と併せて、写真の差替・追加を行うと同時に本文も書き改めました。

(平成29年4月16日追記)

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修復が終わり、平成28年3月から室内も含めて公開されるようになった旧山﨑家別邸。

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洋館正面。

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洋館に隣接し、外観は洋風意匠を施された土蔵。

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人力車夫の待機用に設けられた伴待。

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内玄関側からの全景。

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庭園側からの全景。修復後庭園は保護のため、一部を除き立ち入り禁止となっている。

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茶室。

旧山﨑家別邸内部については、こちらの第1078回記事を参照されたい。

第55回・旧羽室家住宅

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大阪北部の郊外都市である豊中市に、昭和戦前の宅地開発に伴い建てられた和洋折衷の住宅建築が昨年より豊中市の手で保存修復の上、公開されている。
昭和12年(1937)、住友化学工業の重役であった羽室廣一氏の住居として建てられたもの。国登録有形文化財。
現在は敷地内に残る戦国時代の城館・旧原田城跡(豊中市指定史跡)と併せて土日のみ公開されている。
写真は旧羽室邸の門。ただしこの門は現在閉ざされており、敷地には別に新たに造られた門から入る。

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閉ざされている門から玄関へのアプローチ。前回の旧又野邸と似て坂道を一寸登る形になる。

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庭から見た全景。二階建て母屋に平屋建ての離れ座敷が繋がっている。(写真右手)
改修に際して一階部分の庇を瓦葺から銅板葺に改変している。耐震性向上のため屋根を軽量化したと展示の解説にあった。

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外壁はクリーム色のモルタル塗り仕上げ、木部を白ペンキ塗りにした和洋折衷の外観。
ただし全体的に軒を深く出した和風の造り。

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サンルームとテラス。外観で最も洋風色の強い部分。

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客用玄関。伴待ち風の腰掛が設えられている。
この奥には家族用の内玄関があるが、こちらは和風の引き戸になっていた。

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応接間の暖炉。昭和10年代のものらしいアールデコ風のデザイン。
ストーブも古い。

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応接間と続き間になっているサンルーム。

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食堂も洋風に造られている。暖炉の奥は造りつけの食器棚。食器棚の真ん中は配膳口で台所とつながっている。

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食堂暖炉(実質はストーブ置場)。金網と縄暖簾みたいな鎖で囲ったデザインは珍しい。

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暖炉脇のガス燈。戦前(大正年間)の住宅でガス燈と電燈を併用していた事例はあるが(当時の電気供給は今日と比べると非常に不安定であったため)、昭和12年竣工の当家の場合は装飾的なものではないかと思う。(他の部屋にはガス燈は無い)

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応接間隣の数寄屋風座敷。

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離れの畳廊下。

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離れ仏間。

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離れ主座敷。炉が切られており、茶室としても使える。床の間、床脇の装飾も茶室風である。
洋室、和室共に前回の旧又野邸と同時期の建築として比較して見て頂くと面白いと思う。

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玄関脇の土蔵入口脇にある写真の暗室。写真を趣味にする人が居たのであろう。

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土蔵内部。古道具類が残されている。右手前にあるのは戦前のラジオ蓄音機か?

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土蔵外観。前回の旧又野邸内の土蔵と比べると母屋と同じモルタル塗りで軒の出も浅く、モダンな母屋に合わせていることが分かる。

第54回・旧又野家住宅(旧木下家住宅)

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神戸市垂水区東舞子町にある舞子公園旧木下家住宅は、海運業(貸船業)を営んでいた又野良助氏の居宅として、戦時中の昭和16年から18年(1941~43)にかけて建てられた和風邸宅。創建時の屋敷構えがほぼ完全に残されており、随所に戦時下の建築規制や資材難など時代相を見せながらも洗練された意匠でまとめ上げられている。国の登録有形文化財。

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JR山陽本線及び山陽電車の線路北側にある旧木下家住宅こと旧又野邸。現在は舞子公園の施設となっているが、公園自体は線路の南側の海岸べりにあるため、飛び地となっている。

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邸宅の敷地全体が小高い丘になっており、麓に配された門から入る。
緑に包まれた坂の小道を登るアプローチはこの屋敷の大きな魅力のひとつである。

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小道を登りきると庭門が現れ、広い芝生のある庭園に出られる。

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主屋全景。当時は戦時体制により大規模な建築工事が禁止されていたことから二期に分けて建てられた。右側から中央部分が昭和16年、左側の入母屋造の部分が昭和18年の竣工である。また、屋根の一部を天然スレートやこけら(杮)葺きとしているのは、数寄屋風住宅でよく用いられる銅板の代用と思われる。

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主屋の右側(東側)には、石畳のテラスを備えたモダンな応接間を配している。

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対照的に左側(西側)には、軒を深く張り出した伝統的な数寄屋座敷の仏間を配している。

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中央部分はつし2階(屋根裏部屋)を備えており、虫籠窓を設けるなど町家風の意匠も見られる。又野氏は大工任せにはせず、自ら建築書を読んで勉強するなど邸宅にかけた意気込みは相当のものであったようである。

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戦時の悪条件下とは思えない見事な邸宅も、戦後の諸変動などにより手放さざるを得なかったのか、又野家の住まいとして使われた期間は短かった。昭和27年(1952)には明石市で鉄工所を営む木下吉左衛門氏の所有となった。

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平成12年(2000)に兵庫県に寄贈されるまで木下家の住居として使用されていたが、当初の姿は殆ど変えられることなく大切に扱われ、寄贈後は近接する舞子公園の施設として修復・活用されることになった。修復後を経て現在は一般公開されており、展覧会や伝統文化の体験等の催事会場としても使われている。

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玄関脇の応接間。家具なども含めて当時のものがよく残されている。
元々は和室であったものを竣工後間もなく洋室に改造されたものと推測されている。

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床の間をモダンにアレンジした暖炉まわりや模様入りの擦り硝子、アールデコ風の装飾が施された照明器具等が見どころである。家具も竹をあしらうなど和風意匠が見られる。

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旧又野邸のすぐ近くには、少し早い時期(昭和15年頃)に建てられた舞子ホテルの新館がある。私見であるが、旧又野邸は舞子ホテル新館とは洋間の意匠等に似たところがあり、建てる際に参考にした可能性もあると考えている。

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応接間から庭園を望む。
旧又野邸からは六角堂の名で親しまれていた移情閣(呉錦堂別邸)や、明石海峡、淡路島も遠望できた。

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客間として造られた十畳座敷。

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通常ならば違い棚は床の間の脇に配されるが、ここでは床の間の反対側に設けられている。

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現在では珍しい夏用の葭簀戸も残されており、夏場には建具の入れ替えが行われる。

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腰板に透かし彫りが施されている源氏模様は、建具の他にも欄間などにも見られ、又野氏のこだわりが窺える。

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十畳座敷の西側に配された六畳座敷は茶席としても使えるように設計されており、押入れの脇には水屋が設えられている。

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六畳座敷の南側には船底天井を備えたサンルーム状の広縁が設けられている。旧又野邸は全体的に明るく、かつ風通しよく造られているのが特徴で、伝統的な意匠と近代的な感覚が並立した住宅である。

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仏間。ここからは昭和18年に竣工した第二期建築分に当たる。

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昭和18年の増築で建てられたのは仏間のほか、茶室及び付属の待合、水屋等である。

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敷地の北側には茶室に面して露地を設け、開放的な南側の芝生とは異なる趣を見せている。

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茶席の待合として建てられた部屋には、造り付けの書院に大きな円形窓を開いている。
又野家の住まいとして使われていた頃には子息の勉強部屋として使われたこともあるという。

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奥まった位置にある茶室。
昭和18年と言えば大東亜戦争の最中であり、しかも戦局が不利になりつつあった時期であるが、よくこのような普請ができたものである。

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茶室の裏にある土蔵は大正10年(1921)頃の建築で、木下氏が旧又野邸を取得後間もない時期に明石市内から移築したものである。邸内には土蔵のほか、納屋、使用人部屋、外便所と、付属棟一式が残されている。

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旧又野邸は、阪神大震災によって多くが失われた、神戸・阪神間界隈における洗練された近代和風邸宅の姿を現在も残している貴重な邸宅である。

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戦時下にも関わらずこのようなすばらしい邸宅を築いた又野氏と、長年にわたって形を変えることなく邸宅を維持し、公共の財産として寄贈した木下氏に心より敬意を表したい。

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明石海峡大橋の架橋に伴って高層マンションが増えるなど環境が激変した中にあって、旧又野邸は先述の舞子ホテルや移情閣、旧鐘紡舞子倶楽部(旧武藤山治邸)などと共に、閑静な別荘地であった往年の舞子界隈を偲ぶことができる貴重な場所である。

〈参考資料〉
「兵庫県の近代和風建築:兵庫県近代和風建築調査報告書」 平成26年刊行 兵庫県教育委員会

(平成30年10月17日追記)
写真の追加及び差替を行い、本文も参考資料や見学時の見聞等に基づいて書き直しました。

第53回・相楽園(旧小寺家厩舎他)

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前回取り上げた旧ハッサム邸が保存されているのがここ相楽園。大地主小寺泰次郎の邸宅を昭和16年に子息で政治家の謙吉(戦後間もなく神戸市長に当選、在職中死去)から神戸市に寄贈されたもの。邸宅は戦災で焼失したが門、塀、厩舎、日本庭園は旧状をよく残している。兵庫県庁の目と鼻の先に存在するが、市街地の中とは思えない別天地の趣がある。

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門を入ってすぐにある建物。現在は切符売場だが、もとの門衛所か何かではないかと思う。

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旧小寺邸の規模が偲ばれる厩舎。明治43年頃の建築で国指定重要文化財。
神戸を拠点に活躍した河合浩蔵の設計になるドイツ風建築。なお、今も神戸には河合浩蔵設計の建築がいくつか残る。
(旧奥平野浄水場ポンプ場上屋(大正6)、旧兼松商店日豪館(明治44、現海岸ビルヂング)のほか、外壁しか残っていないが神戸地方裁判所(明治37)、旧三井物産神戸支店(大正7、現海岸ビル))

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円筒形の部分は階段。

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高い天井を有する馬房。

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正面向かって左側は下層が車庫、上層が厩務員のための畳敷きの部屋。

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馬房の天井。

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車庫には小寺謙吉氏が使用した馬車が今も保存されている。いつごろのものだろうか。
昭和も戦前になると上流階級は自動車を使う時代なので明治~大正頃のものかも知れない。

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旧ハッサム邸と同様外部から移築保存された歴史的建築物に、この船屋形がある。
もとは旧姫路藩主が用いていた川御座船の屋形部分。17世紀~18世紀初頭のものと推測されている。国指定重要文化財。

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5月頃はツツジが美しい。

第52回・旧ハッサム邸

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神戸市中央区中山手通にある元神戸市長・小寺謙吉の邸宅であった相楽園の敷地内に、インド系英国人貿易商K・ハッサムの邸宅として明治35年(1902)に建てられた洋館(異人館)が保存されている。設計は神戸の異人館を多く設計した英国人建築家のハンセルと推測されている。国指定重要文化財。

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元々は明治以来、多くの異人館が建ち並んでいた北野町2丁目の高台に建っていた。昭和36年(1961)に当時の所有者であった神戸回教寺院から神戸市に寄贈され、2年後の昭和38年に現在地に移築・復元された。

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洗練された意匠や正面及び側面に張り出したベイウインドウとベランダ、オイルペンキ塗りの下見板外壁、日本瓦で葺いた寄せ棟屋根などは、いずれも神戸の異人館に共通して見られる特徴である。旧ハッサム邸はその中でも特にすぐれたものとされている。

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主屋の他、厨房等が入る付属棟、倉庫、門などの附属建物・工作物も一式が移築保存されている。
なお、前庭に建っている2基のガス燈は、明治初年に旧居留地内で実際に使われていたものを移設したものである。

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移築前の旧ハッサム邸には、同時期に北野町に建てられた異人館である旧シャーブ邸(萌黄の館)旧ハンター邸と同様に、ベランダには凝った意匠の硝子窓が嵌め込まれていたが、移築に際して取り払われてしまった。

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創建当初の形に復元するためと説明されているが、それはほんの極く僅かな期間だけだったのではないだろうか。北野町にあった時代の歴史の大半を占めていた(と思われる)姿であり、意匠的にも非常に優れていると思えるだけに、そもそも「復元」する必要があったのかどうかと、個人的には感じる。

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旧ハッサム邸では、玄関のある正面ベランダの中央部が側面のベイウインドウと同様に六角状に張り出しており、外観を一層変化に富んだものにしている。他の異人館のベランダではこのような張り出しは設けていないものが多い。

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通常は外観のみで内部は非公開であるが、春と秋の2回、公開期間が設けられている。

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正面玄関のアーチ型欄間には、明治期の和風建築で障子窓などに多く用いられていた、模様入りの擦り硝子が嵌め込まれている。

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1階は階段のある玄関ホールを中央に挟んで、両側に居室が配されている。写真の部屋は正面向かって右側にある応接間。隣の居間とは引き戸で仕切られた続き間になっており、風通しのよさそうな造りになっている。

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完全な静態保存で生活感が感じられないのは致し方ないが、古風な家具や調度からかつての異人館の雰囲気を感じることはできる。

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応接間の反対側にある食堂。応接間と食堂は正面(南側)のベランダに面している。この奥(北側)には配膳室があり、家族用の食堂としても使われていたものと思われる。

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配膳室。奥の小さな扉は地下倉庫への入口で、洋酒などを貯蔵していたのではないだろうか。なお、テーブルの下に見える水色の丸い穴は、硝子を嵌め込んだ地下倉庫の明り取り窓らしい。

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主屋の北側にあり、別棟になっている附属棟。下が厨房、上が使用人部屋で主屋とは渡り廊下で繋がれている。このような付属棟の配置も神戸の異人館では多く見られる。

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厨房内部。石炭を用いると思われる料理用ストーブや石の流し台が残されている。床には煉瓦を敷きつめている。

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玄関に続く階段室。
階段は親柱や手摺だけではなく、壁や階段裏にまで凝った意匠を施している。

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階段の下に設けられているトイレ。木製の貯水槽が上にあることから水洗式のようだ。

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階段の踊り場には和風の格天井を設けており、意匠を凝らしている。

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設計者のハンセルは、自邸(シュエケ邸として現存)でも土蔵のような正面切妻や神社風の玄関ポーチなど、随所に和風意匠を取り入れている。

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2階の階段室。

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2階の居室。2階は本来は寝室や子供部屋として使われていたが、現在はいずれの部屋も椅子と卓子だけが配されている。

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浴室を2階に設けるのは典型的な外国人住宅の特徴。

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旧ハッサム邸では殆どの部屋に暖炉が設けられている。

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暖炉枠は1階の応接間や食堂では大理石を用いているが、その他は木製である。他の部屋と全く同一意匠の暖炉を備えている部屋もあり、写真のように壁を挟んで見ると、鏡を見るような感じになる。

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暖炉は合計で8基あるが、暖炉枠の材料や意匠で見ると大きく4種類に分けられる。

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昭和30年代以降、北野町とその周辺では老朽化した異人館が続々と取り壊され、一部は他所へ移築保存された。旧ハッサム邸に続き、兵庫県によって旧ハンター邸が王子動物園内に移築され、旧ブルム邸が愛知県犬山市の明治村に移築されたが、この頃より北野町の街並み保存に向けた機運が盛り上がり始める。

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その後、昭和50年代の異人館ブームを経て、現在北野町は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。最初に北野町から移築された旧ハッサム邸は、異人館街の街並み保存のきっかけを作った建物でもある。

(平成30年10月11日追記)
写真を再訪時のものに差し替えて本文も書き直し、記事を全面的に書き直しました。
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