第72回・旧松本健次郎邸(現・西日本工業倶楽部)

convert_20100228005614.jpg

炭鉱経営で財を成し、明治専門学校(現・九州工業大学)を設立した実業家・松本健次郎の自邸兼迎賓館として明治41~45年(1908~12)に建設。設計は辰野金吾及び片岡安が率いる辰野片岡事務所が行った。

convert_20100228005700.jpg

現存するものの中では最高レベルの質を誇るアールヌーボーの洋館が日本館、付属施設、庭園と共によく残されている。また洋館と同時に設計された家具に加え、調度類もよく保存されている。

convert_20100228005901.jpg

洋館、日本館、土蔵2棟が国指定重要文化財となっている。
現在は北九州経済人によって組織された「西日本工業倶楽部」が所有・使用しており、事前申し込みによる一般公開も毎年行われている。

convert_20100228010347.jpg

庭園側から見た洋館。

convert_20100228003418.jpg

明治末期から昭和初期の日本の洋館に多く見られた、ハーフティンバー(半木造)スタイルの洋館。

convert_20100228004435.jpg

正面に扉を向けない控え目な印象の玄関。

convert_20100228004756.jpg

洋館居間。

convert_20100228004909.jpg

洋館二階客室のひとつ。ソファ等家具も明治時代のもの。
当初の家具調度類の大半が残る邸宅は極めて貴重である。

convert_20100228004721.jpg

同じく洋館客室のひとつ。暖炉のデザインは各室全て異なる。

convert_20100228004823.jpg

同じく洋館の別の暖炉。

convert_20100228003326.jpg

洋館に隣接して日本館があるが、洋館内部にもこのような日本座敷が設けられている。
和式の接待・宿泊を望む来客のために設けたものである。

convert_20100228003252.jpg

日本座敷天井。照明周りは折上格天井。

convert_20100228004545.jpg

洋館二階縁側。柱や長押を露出した日本建築風の造り。

convert_20100228004637.jpg

上の写真の真下にある洋館テラス。公開日当日は喫煙スペースに充てられていた。

convert_20100228005418.jpg

洋館テラスの床タイル。

convert_20100228003045.jpg

階段室のステンドグラス。日本画家からステンドグラス作家に転身し、明治末~大正期にかけ数多くの建築に美しいステンドグラスを飾った小川三知(おがわさんち)の作。

convert_20100228002705.jpg

convert_20100228002803.jpg

convert_20100228002824.jpg

convert_20100228003138.jpg

外から見た階段室のステンドグラス。

convert_20100228005339.jpg

洋館に隣接して日本館も現存する。現在残る戦前の邸宅では、洋館は現存するが日本館は現存しないものが多い。

convert_20100228003819.jpg

元々は平屋建だったが、大正10年に松本家の子息の新婚生活用に、二階が増築されたとのこと。

convert_20100228003902.jpg

日本館についても家具調度類が洋館と同様に、大半が松本家から西日本工業倶楽部に引き継がれ残っている。

convert_20100228004342.jpg

日本館から洋館を望む。
かつては茶室もあったが、敗戦後の米軍接収中に米軍の失火で焼失し現存しない。

convert_20100228003615.jpg

建物のみならず、庭園をはじめとする周辺環境、建物を飾る家具調度類が、ほぼ完璧に残る極めて貴重な明治の邸宅である。なおかつそれが今も現役で使われていることが素晴らしい。
スポンサーサイト

第71回・愛媛県庁舎

IMG_3136_convert_20100227002713.jpg

現存する都道府県庁舎のうち、現在国の重要文化財に指定されているのは明治期建設のものは三重・北海道・京都の3道府県、大正期建設のものは山口・山形の2県で、今のところ昭和期建設の重文庁舎は存在しない。近年昭和期の建築も重文の指定対象になっているのでいずれは指定される庁舎が現れると思われる。
現存する昭和戦前の県庁舎で重要文化財級のものは、というと独断と偏見を以て言えば愛媛県庁舎はそのひとつであると思う。平成21年は庁舎竣工80周年ということで普段ならば平日限定の庁舎見学が休日でも可能だったので行ってきた。

IMG_3441_convert_20100227002853.jpg

昭和4年(1929)、木子七郎設計。木子家は代々京都御所出入りの棟梁を務めた建築界の名門。構造計算を東京タワーや大阪通天閣(二代目)の設計で知られる内藤多仲が行っている。両者は親交があり、東京・早稲田に残る内藤自邸の意匠は木子が手掛けている。

IMG_3442_convert_20100227011302.jpg

中央にドームを載せ、両翼を前面に張り出した堂々たる構成。昭和に入ってからの官公庁舎の形態は平坦な箱形で中央部分のみ張り出す、という形が多い。当時の建築界からすればやや古風な構成に見えたかも知れない。

IMG_3253_convert_20100227011116.jpg

全体構成は古風だが、球体を半分に切って載せたようなドームは西洋古典建築のドームとは異なり、モダンな感じを受ける。

IMG_3145_convert_20100227000344.jpg

玄関ポーチ。愛媛県庁より3年早い大正15年(昭和元年)に竣工した大阪府庁(現存)のポーチと似ている。
木子七郎は大阪に自宅と事務所を持っており、大阪府庁舎をある程度意識した可能性もあるのではないかと思う。

IMG_3237_convert_20100226235940.jpg

微妙な曲線が美しい玄関ポーチ前の照明。

IMG_3243_convert_20100227010457.jpg

重厚な扉。

IMG_3238_convert_20100227010711.jpg

ポーチ内部の照明と台座の装飾。

IMG_3231_convert_20100227002528.jpg

玄関ホールの階段を登って3連アーチをくぐり、階段室に至る。

IMG_3156_convert_20100227000600.jpg

階段前から玄関を見る。

IMG_3157_convert_20100227000713.jpg

階段前から見た1階廊下。

IMG_3158_convert_20100227001046.jpg

戦前の姿をそのまま残す電話室。
無論、中の電話機は新しく取り替えられている。

IMG_3153_convert_20100227000438.jpg

階段室と踊り場。

IMG_3154_convert_20100226235747.jpg

階段室踊り場のステンドグラス。

IMG_3226_convert_20100227011704.jpg

3層に亘って太い円柱が貫く階段室。手すりは大理石。

IMG_3183_convert_20100227003328.jpg

3階貴賓室の天井と照明。

IMG_3185_convert_20100227003650.jpg

貴賓室暖炉。中に嵌めこまれたラジエーターの放熱器、装飾グリルも創建当初からのものと思われる。

IMG_3195_convert_20100227003049.jpg

4階正庁。当庁舎で最も見応えのある部屋。

IMG_3189_convert_20100227003210.jpg

見事な装飾が施された天井。

IMG_3198_convert_20100227010105.jpg

IMG_3208_convert_20100227010230.jpg

現在も「正庁」として各種の儀式に使用されている。

IMG_3170_convert_20100227000827.jpg

階段室の最上部に張り出す大きな円筒。

IMG_3221_convert_20100227001305.jpg

その正体はドーム下の部屋へ行くための螺旋階段。

IMG_3225_convert_20100227000229.jpg

螺旋階段の途中にはめ込まれた小さなステンドグラス。

IMG_3218_convert_20100227001416.jpg

ドーム下の部屋。現在は会議室として使用されている。当初の用途は不明。
四方に巡らされたギャラリーの欄干には元々金属製の装飾か何かをはめ込まれていたような痕跡があった。また天井が新建材で塞がれており、ひょっとしたら本来の天井はドーム状になっているのかも知れない。

IMG_3147_convert_20100227005731.jpg

文化財の指定乃至登録はされていないが、当庁舎は今も現役で大切に使われている。

第70回・旧津島家離れ(太宰治仮寓・旧津島文治邸・斜陽館新座敷)

convert_20100225223310.jpg

前回取り上げた斜陽館(旧津島家住宅)には、かつて和洋折衷の離れがあった。
大正11年(1922)に津島家の跡取りである津島文治(戦後の公選による最初の青森県知事、自民党衆院・参院議員。太宰治の長兄。)の新婚生活用に建てられた。昭和20~21年には妻子と共に生家に疎開してきた太宰治の住まいとして使われた。戦後母屋を売却した際、この離れは文治の住居として近所に曳家移築され、母屋とは切り離された。その後津島家の手を離れ、現在は「太宰治疎開の家」として公開されている。

convert_20100225223341.jpg

玄関、次の間付きの座敷、洋間、サンルーム、座敷2室で構成されている。
母屋とは裏で渡り廊下で結ばれていた。津島文治が青森県知事を辞職、衆議院議員に当選した後は青森市に転居したため、この建物は金木における津島家の最後の住まいとなった。

convert_20100225224350.jpg

玄関脇、洋間の出窓。

convert_20100225224010.jpg

洋間内部。

convert_20100225224213.jpg

室内側から見た洋間出窓。造り付けのソファーがある。

convert_20100225224035.jpg

洋間天井の照明台座。

convert_20100225223426.jpg

洋間内部造り付けの飾り棚。戦後占領軍の将校が津島家を訪れたとき、太宰はこの飾り棚に書きかけの原稿を隠していたらしい。
現在この建物を所有、公開する白川氏より、このような太宰疎開中の興味深いエピソードをいくつか伺うことができた。何でも太宰の姪に当たる人から直接聞かれたとの事。

convert_20100225223623.jpg

飾り棚アップ。天井の照明台座と同様、大正期らしいあっさりしたデザイン。
母屋の洋室や階段の明治調な装飾と比較すると、時代の違いが分かり興味深い。

convert_20100225223537.jpg

出窓の反対側はサンルームに繋がっている。

convert_20100225223650.jpg

サンルーム。疎開中の太宰はここに畳を敷いて執筆した事もあるが落ち着かなかったのか長続きしなかったとの事。

convert_20100225223837.jpg

サンルームを外から見る。

convert_20100225223805.jpg

座敷縁側。建築当初の位置は傾斜地で石垣の上であったため、欄干が設けられている。

convert_20100225223512.jpg

座敷床の間。母屋の座敷と比べると軽快であか抜けた印象を受ける。
文治の新婚生活用に建てられた離れだが、実際には完成の翌年に父・津島源右衛門が急逝したため、文治夫妻は母屋で生活することとなりこの離れは使われなかったという。

convert_20100225223946.jpg

床の間側から見た座敷。昭和17年に太宰は妻子と共に危篤に陥った母を見舞っている。その時、この座敷が母の病室にあてられていた。その時の模様は短編「故郷」に詳しく描写されている。

convert_20100225223737.jpg

座敷次の間。
この部屋の押し入れには、津島家が母屋を売却し離れを住居とした際に母屋から運び出した仏壇が入れられていた。
なお、仏壇は近年津島家から金木町に寄贈され、母屋へ里帰りした。(前回記事参照)

convert_20100225231548.jpg

座敷と洋間の間にある廊下。見事な寄木細工の床である。

convert_20100225223901.jpg

太宰一家の生活の場となっていた部屋。太宰の執筆部屋にも使われた。

convert_20100225223147.jpg

作家・太宰治の生活・執筆の場として残る数少ない建物として貴重なことは言うまでもないが、母屋から切り離されてしまったこの離れは、戦後の津島家の没落に直面し、残った財産も自らの政治活動で使い果たしてしまった長兄・文治の生涯をも語る存在である。
斜陽館(母屋)同様、いずれは文化財として修復整備され、母屋と共に保存される事を望みたい。

第69回・旧津島源右衛門邸(斜陽館)

convert_20100225222007.jpg

作家太宰治の生家として知られる「斜陽館」は明治40年(1907)に太宰治の父親である津島源右衛門によって建てられた。設計は青森県下に洋風建築を数多く残す堀江佐吉。昭和23年に津島家の手を離れ長らく旅館として使われたが現在は金木町が修復整備の上、太宰治の記念館として公開している。

convert_20100225222033.jpg

母屋も壮大なものだが、刑務所のような高さの煉瓦塀が目立つ。

convert_20100225222140.jpg

この門の向こう側には庭園がある。

convert_20100225221819.jpg

母屋の規模に比べると玄関はこじんまりした感じである。なお、この建物は津島家の住居であると同時に当時津島家が経営していた金木銀行の本店でもあった。玄関を入ってすぐ左手すぐの部屋にその面影が残る。

convert_20100225222753.jpg

土間。

convert_20100225222518.jpg

囲炉裏のある、常居と呼ばれる部屋。太宰治の「津軽」では常居や下記の仏間における場面がある。

convert_20100225222905.jpg

一階座敷からみた仏間。中央に写る仏壇は戦後津島家から他家に譲渡される際移されたが、近年津島家から金木町に寄贈され元の場所に戻された。

convert_20100225222422.jpg

一階座敷の床の間。

convert_20100225222334.jpg

一階小間。太宰治(津島修治)はこの部屋で生まれた。

convert_20100225222401.jpg

旧店舗。金木銀行の本店事務所として使われた。カウンターが残っている。

convert_20100225222449.jpg

同じく旧店舗。壁のくぼみは金庫を納めていたのだろうか。

convert_20100225222544.jpg

洋風階段。外観は和風だが、内部は上記の旧店舗をはじめこの階段、二階応接間など洋風意匠が見られる。

convert_20100225222606.jpg

洋風階段を上の写真とは反対の位置から見る。

convert_20100225222652.jpg

階段周辺には凝った細工が散見できる。写真は階段脇通路の天井。

convert_20100225222724.jpg

階段親柱の象嵌細工。

convert_20100225224250.jpg

階段天井の照明台座。

convert_20100225222212.jpg

二階応接間。旅館時代は洋風のこの部屋も客室として畳が敷かれていた。

convert_20100225222305.jpg

二階応接間から続くベランダ。

convert_20100225222822.jpg

二階座敷のひとつ。メインの座敷は別にあるので、来客のお付きの人を泊めたりしたのだろう。

convert_20100225223048.jpg

「斜陽の間」として有名な部屋。写真下部に写る襖の漢詩の中に「斜陽」の文字がある。

convert_20100225221931.jpg

斜陽館こと旧津島家住宅は母屋、蔵3棟、煉瓦塀、宅地が平成16年に国の重要文化財に指定された。

第68回・旧加賀屋新田会所

convert_20100221233034.jpg

大阪市の南端、住之江区にある新田会所跡。江戸時代の大坂では町人による新田開発が多く実施された。
新田会所は、新田開発及び経営の前線基地であると同時に代官等の接待所としての機能も有していた。
また、この旧加賀屋新田会所は数寄屋風の造りが多分に取り入れられており、江戸時代後期における大坂の豪商の別荘建築としても貴重な文化財である。現存する建物は文化年間(19世紀初頭)頃の建設と推定されている。

convert_20100221232901.jpg

大阪市指定史跡・指定有形文化財。
現在は大阪市の所有で一般公開されている。

convert_20100221232959.jpg

この建物は江戸時代の建物である。したがって「近代建築探訪」と称する本ブログの主旨に外れるかもしれないが、明治以降に付け加えられた部分もそのまま残されており、またそれが意匠上、重要な役割を果たしていると思うので取り上げた。

convert_20100221233229.jpg

一番古い部分である、旧書院の床の間。書院の窓は寺院建築によく見られる花頭窓。

convert_20100221233804.jpg

旧書院外観。上部の屋根は重厚な本瓦葺。一方、下の庇は桟瓦と銅板を組み合わせた軽快なもの。

convert_20100221232758.jpg

旧書院から渡り廊下を経て、旧居宅及び後から増築された茶席付き座敷・鳳鳴亭(ほうめいてい)に続く。
突き当たりに写る硝子戸は無論、明治以降に付け加えられたもの。

convert_20100221232710.jpg

旧書院と渡り廊下の間にある欄間。かつてこの建物は大阪湾が見える場所であったので、欄間には波に千鳥があしらってある。

convert_20100221232231.jpg

旧居宅及び鳳鳴亭から見た渡り廊下と旧書院。

convert_20100221232333.jpg

旧居宅。

convert_20100221234109.jpg

鳳鳴亭の座敷。

convert_20100221232617.jpg

鳳鳴亭の床の間。現在では入手不可能、もしくは困難な木材が多数使われているとの事。

convert_20100221232416.jpg

鳳鳴亭広縁。前回の旧芝川家別邸のベランダと比較すれば、旧芝川家別邸が洋館とは言いつつも数寄屋建築の要素を多分に取り込んでいることが分かる。

convert_20100221232453.jpg

鳳鳴亭広縁の硝子戸。当然ながらここも明治以降の増設。江戸時代は雨戸しか無かった。
とは言え、透かし彫りの装飾が施された凝った意匠の建具と歪みのある古い硝子は、この広縁をより魅力あるものにしている。江戸時代の形を尊重する場合はこのような近代以降の増設部は撤去されるものだが、これを残したのは英断であると思う。

convert_20100221232111.jpg

外から見た鳳鳴亭広縁。硝子戸が外観を特徴づけており、この建物は江戸時代の数寄屋建築であると同時に、近代和風建築の貌も持ち合わせている事が分かる。

convert_20100221232535.jpg

鳳鳴亭全景。

IMG_0175_convert_20100221232012.jpg

旧居宅部分は一部二階建になっている。

convert_20100221233610.jpg

庭園には池がある。江戸時代には池は外部と掘割でつながっており、船で道頓堀まで芝居見物といったことも出来たらしい。

convert_20100221233323.jpg

会所全体を見渡すような位置に建つ東屋・明霞亭(めいかてい)。
ただし現在のものは近年の再建。もとの明霞亭は既存の大木を一部削って階段とし、その上に楼閣を載せた非常にユニークなものだったが、昭和20年の戦災で焼失してしまった。手前に写るのが、かつての階段の一部。

IMG_0174_convert_20100221233435.jpg

第67回・旧芝川又右衛門別邸

IMG_1002_convert_20100220225036.jpg

大阪・船場で江戸時代より唐物商を営む芝川家は明治以降不動産開発等の事業に主軸を移し、現在の兵庫県西宮市に甲東園と称する果樹園を拓いた。旧芝川邸は明治44年(1911)その甲東園を見下ろす一角に設けられた別宅である。その後昭和2年に新館を増築し、芝川家本邸となった。平成7年の阪神大震災で煙突が折れる被害を受けたのを機に旧館が明治村へ寄贈され、暫く解体材の状態で保管されてきたが平成19年に再建された。国登録有形文化財。

IMG_1003_convert_20100220224558.jpg

国会議事堂の設計にも関与し、のち京都帝国大学教授も務めた建築家・武田五一の設計。かなり大胆な和洋折衷を試みた洋館であり、今日の目で見ても相当斬新なデザインの住宅である。

IMG_1007_convert_20100220224720.jpg

傾斜地に建っているので、御影石と煉瓦で高い基壇を築いている。
明治村に移った現在地でも、敷地は移築前の地形に合わせて造成している。

IMG_0988_convert_20100220223908.jpg

白いスタッコ塗りの外壁と赤いスペイン瓦葺の屋根を持つ現在の外観は、昭和2年に新館を増築した際、旧館も外装を新館に合わせたものに改造されたものである。明治44年の創建当初は外壁が杉皮貼りで、もっと和風色の強い建物だった。尚、昭和2年の増改築設計も武田五一が指導を行っている。

convert_20100220231927.jpg

暑い時期は、二階向かって左側もベランダ同様に硝子戸の無い状態になっている。

convert_20100220225541.jpg

旧館裏手。移築前はここに新館がつながっていた。和室をメインに、一部洋室から成る新館は震災後も甲東園にあったが、近年解体されてしまった。現在、玄関及び洋室部分の部材は保管されているというが、明治村に再建できないものだろうか。明治村の現在の敷地は、旧館の裏に丁度納まるのではないかと思えるスペースがある。

IMG_1000_convert_20100220224501.jpg

玄関ドア上部欄間のステンドグラス。
色硝子を使っていないので一見ステンドグラスには見えないが、切った硝子片を鉛で繋いでいるので、立派なステンドグラスである。

IMG_0998_convert_20100220224914.jpg

玄関ホール兼階段室のステンドグラス。

convert_20100220230824.jpg

外から見た上記ステンドグラス。

convert_20100220230133.jpg

一階広間。芝川家では茶会の古美術品の展示場にも、またダンスホールとして使われた事もある。
天井は網代と葦簀張り、内壁は赤みがかった聚楽壁、床はリノリウム貼り。
椅子・テーブルは古写真を基に復元したものと思われる。

IMG_0990_convert_20100220224312.jpg

一階広間の暖炉。同じデザインのものが反対側にも据え付けられている。
焚き口の両脇にはアールヌーボーのタイルが貼られている。

convert_20100220230209.jpg

一階広間天井。網代と葦簀を市松に配した斬新なもの。

convert_20100220225213.jpg

室内側から見た一階ベランダ。天井だけ見れば数寄屋建築と変わりない。細い丸太の並ぶ軒裏が美しい。

convert_20100220230051.jpg

外から見た一階ベランダ。明治44年の創建当初こそ、このような吹き放ちのベランダだったが、昭和2年の増改築時には硝子戸がはめ込まれサンルーム的な造りとなっていた。つまり建物全体は昭和2年当時の姿に復元している中で、ベランダ部分だけは明治44年というわけで、時代考証の面から見るとちぐはぐなのだが、デザイン上の大きな見せ場である当初の姿を重視し、敢えてこのようにしたようである。

convert_20100220230946.jpg

完全に和風デザインのベランダ灯具。

convert_20100220230913.jpg

湯殿天井。湯気抜きのスリットの模様は昆虫をイメージ。

IMG_0994_convert_20100220230355.jpg

二階階段室。壁はキンキラキンだが、不思議と簡素なデザインの階段や葦簾と調和している。

IMG_0996_convert_20100220230454.jpg

一階から階段室を見上げる。葦簀・網代・板の組み合わせが美しい。

IMG_0991_convert_20100220224007.jpg

二階座敷の床の間。

convert_20100220225625.jpg

床の間の天井は見事な格天井。

IMG_0993_convert_20100220224126.jpg

床の間側から見た二階座敷。この広さの座敷としては異様に天井が高いことが分かる。
面白いのは真ん中の襖である。床の間の正面にあるこの襖を開くと↓

IMG_0992_convert_20100220224223.jpg

暖炉が隠されていた。

convert_20100220225949.jpg

座敷の天井は棹縁と網代を交互に組み合わせた特異な意匠。

IMG_0989_convert_20100220224812.jpg

震災後解体から再建まで12年、その過程には関係者の大変な苦労があり深く敬意を表したい。
ただ贅沢を承知で言うと、現在一部が解体保存中と言われる新館も、ここに再建できないものだろうか。

第66回・神港ビルヂング

IMG_62072_convert_20140831223504.jpg

神戸市の旧外国人居留地内、海岸通に面して建っている神港ビルヂングは、昭和14年(1939)に竣工した戦前では最後の大建築で、アールデコ様式の装飾を施した塔屋が特徴的なアメリカ式オフィスビルである。

IMG_6212_convert_20140831223057.jpg

日本郵船、商船三井に次ぐ大手海運会社である川崎汽船の本社ビルとして建てられた。川崎汽船は現在、東京に本社を置いているが登記上の本店は現在もこの建物に入っている。設計は木下建築事務所(木下益次郎)、施工は竹中工務店。

IMG_62082_convert_20140831223535.jpg

全体的に装飾の少ないシンプルな外観のビルであるが、塔屋には濃密なアールデコ様式の装飾が施されている。百貨店などに現存例が多いアールデコ様式の建物だが、オフィスビルで現存するものは少なく、貴重である。

IMG_6213_convert_20140831223149.jpg

支那事変勃発の年である昭和12年、政府によって鉄骨等建築資材の統制が行われ、大規模なビル建設は事実上不可能になっていた。神港ビルは統制法令の公布に先立ち、工事が既に進んでいたことから法令の適用も免れ、竣工にこぎつけることができた。

IMG_62123_convert_20140831223603.jpg

昭和13年(1938)7月に神戸市及び阪神地方に大被害をもたらした阪神大水害では現場が浸水したため、竣工が少し遅れている。同年9月30日付の「大阪朝日新聞」では、建設中の神港ビルヂングについて報じられており、当該記事は神戸大学付属図書館の新聞記事文庫(デジタル版)にて見ることができる。

1_convert_20140831222852.jpg

東側の前町通に面した側面玄関には、アメリカのオフィスビルではよく見かける回転ドアがある。戦前から現在まで残る回転ドアは珍しく、戦前の建物で他に回転ドアがある建物は、神港ビルに隣接する旧チャータード銀行や、栃木県にある日光金谷ホテルなどがある。

IMG_2016_convert_20140831222923.jpg

上記「大阪朝日新聞」記事を見ると、戦争の影響が随所に現れていることが分かる。同記事によると、鉄骨の統制こそ免れたが、銅などその他の建設資材が統制対象となり使えなくなったことから、ドアハンドルや蝶番、階段滑り止めの金具、部屋のナンバープレートなどには代用品を用いた、とある。

IMG_28202_convert_20140831223430.jpg

戦時下の代用品というとスフ(ステープル・ファイバー)や松根油など、当時から評判の悪かった製品を連想するが、このビルにおける「代用品」の中には、陶器やガラスのほかに、当時出回り始めたばかりのステンレスやベークライト(プラスチックの一種)などの最新素材が含まれているのは興味深い。

IMG_28182_convert_20140831223340.jpg

市松模様の床タイルやエレベーター脇のメールシューター付き私設郵便箱などは、戦前のままと思われる。

IMG_3865_convert_20140831222957.jpg

昭和14年の竣工時には、同じ海岸通に面して2軒西隣にあり、神戸を代表するホテルであったオリエンタル・ホテルのグリルが神戸港を一望できる8階に入居するなど、神戸でも最新の高層ビルとして評判になったようである。

IMG_8656_convert_20140831223225.jpg

竣工から6年後の神戸大空襲では、旧居留地でも上述のオリエンタル・ホテルが海岸通に面した外郭の一部を残して全焼崩壊するなど、大きな被害を受けるが神港ビルヂングは焼け残った。そして敗戦後は接収され、占領軍の神戸司令部として使われたという歴史もある。

IMG_8659_convert_20140831223301.jpg

現在、神港ビルヂングは「旧居留地銀行ビル群、海岸通商業ビル群」の一部として、経済産業省により近代化産業遺産の認定を受けている。

(平成26年9月2日追記)
写真を一部追加・差替、画像修整の上、写真の配列と本文を修正致しました。

第65回・旧台湾総督府(現・中華民国総統府)

convert_20100207232500.jpg

大正8年(1919)完成。長野宇平治の原案を基に森山松之助をはじめとする総督府技師の実施設計で建てられた。

convert_20100207232557.jpg

昭和20年(1945)に台湾は米軍の空襲を受けている。総督府庁舎もこのとき直撃弾を受け内部を全焼してしまった。
戦後、日本に代わって統治者となった蒋介石率いる国民党政府の庁舎として修復、中華民国総統府となり今日に至る。

convert_20100207232815.jpg

現役の官庁であると同時に、現在では台北指折りの観光スポットとなっており一般公開も行われている。

convert_20100207232636.jpg

convert_20100207232701.jpg

convert_20100207232532.jpg

外観は概ね総統府時代と変わらないが、玄関ポーチだけはかなり改変されている。

第64回・旧台湾総督府専売局

convert_20100205233844.jpg

前回に引き続き、台湾に残る日本時代の建築。
台湾総督府技師・森山松之助の設計。台湾だけではなく日本内地にも作品を多く残しており、新宿御苑の台湾閣(12/1付・第51回参照)等が現存する。

convert_20100205234228.jpg

convert_20100205234035.jpg

建物自体は大正2年(1913)の完成だが、塔を含めた全体が完成したのは大正11年(1922)。

convert_20100205234136.jpg

convert_20100205234101.jpg

ここは日本敗戦後の1947(昭和22)年に起こった二・二八事件(闇タバコの摘発を発端とする、国民党政権による台湾人虐殺事件)の発端となった場所でもある。

convert_20100205234001.jpg

convert_20100205233933.jpg

近年まで現役の庁舎であったが、現在博物館として整備・公開する構想があるとの事。(ウィキペディア解説より)
台湾に残る日本時代の洋風建築の中でも、最も美しい建物のひとつだと思う。

第63回・旧台湾総督府博物館(国立台湾博物館)

convert_20100204213500.jpg

明治28年(1895)~昭和20年(1945)まで半世紀に亘り日本の統治下にあった台湾に残る日本時代の建物を取り上げる。写真の建物は大正4年(1915)、台湾総督府博物館として台北市内に建てられた。現在は国立台湾博物館として使われている。政府より国定古蹟の指定を受けている。

convert_20100204213546.jpg

設計は野村一郎。台湾総督府の技師として総督府博物館を始め多くの建物の設計をしている。また朝鮮・京城(現韓国・ソウル)の朝鮮総督府庁舎(大正15,主設計はデ・ラランデ。現存せず)の設計にも関与している。

convert_20100204213735.jpg

台北新公園(現・二二八和平公園)の中に建てられた。

convert_20100204213812.jpg

熱帯植物に囲まれ南国情緒に溢れる。

convert_20100204213708.jpg

外壁。元々は吹き放しのアーケードであったが、日本敗戦後の国民党政権時代に改造されている。

convert_20100204213641.jpg

正面玄関。

convert_20100204214325.jpg

この建物の一番の見所は玄関ホール。

convert_20100204213422.jpg

convert_20100204213904.jpg

ステンドグラスが美しい玄関ホールの天井ドーム。

convert_20100204214222.jpg

総督府博物館時代はここに第四代総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平の銅像が対になって置かれていた。
(なお、銅像自体は博物館内に今も2体とも健在であり、時折展示されることもあるらしい。)

convert_20100204214143.jpg

convert_20100204214049.jpg

convert_20100204213946.jpg

玄関ホールの列柱柱頭飾り。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。なお、リンクを張らせて頂いている他の方のページは一部を除き相互リンクとなっております。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード