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第99回・旧聖ヨハネ教会堂

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前回に引き続き明治村の建築。
京都・五條河原町に明治40年(1907)に建てられ、昭和38年(1963)まで使われた旧日本聖公会京都五條教会堂である。設計は第96回・旧内田定槌邸の設計者、J・M・ガーディナーによる。
国指定重要文化財。

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京都にあった頃は、上階が礼拝堂、下階は日曜学校・幼稚園として使われていた。

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煉瓦造+木造の混合構造の建物である。

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側面。

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側面の屋根窓。

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側面奥にあった小さな出入り口。通用口か?

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礼拝堂へ行くには、玄関を入って両側にある階段を登って行く。

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礼拝堂へ上がる階段室の内壁。壁には尖塔へ登るためと思われる梯子がある。

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上階礼拝堂内部。

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夏暑い京都の気候に考慮したものと言われる簾を貼った天井。

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機能的なものもあるのだろうが、意匠的にも優れたものと言える。
旧内田定槌邸でもそうだが、ガーディナーの建築にはレベルの高い和洋折衷デザインが見られる。

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礼拝堂を彩るステンドグラス。

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階下は現在、旧用途に因み子供の遊び場になっている。
当教会堂は、昭和9年に近畿地方に大被害を齎した室戸台風のため、ステンドグラスが破損したらしい。
昭和9年から解体移築まで約30年間使われていたというステンドグラスが展示されていた。
現在復元されているオリジナルと比較すると、色調・意匠共に極めてシンプルなものである。

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前回紹介した旧西郷従道邸のベランダから遠望することができる。
といっても、前回の写真にもこの教会堂は写っていたのだが。
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第98回・旧西郷従道邸

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明治10年代(1877~86)、東京・目黒に西郷隆盛の実弟で海軍、内務、農商務等の各大臣を歴任した西郷従道(1843~1902)の別邸内に建てられた洋館。現在は愛知県の「明治村」に移築保存されている。国指定重要文化財。

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西郷家の邸宅であった頃は、広大な日本庭園の中に洋館と日本館が配されており、洋館は接客専用の為のものであった。従道没後は昭和16年まで西郷家の本邸として使われていたが、戦後広大な屋敷は西郷家から国鉄に所有が移り、庭園と日本館は潰され、社宅等に変わってしまったが、洋館は敷地内で移築され昭和37年まで目黒の地にあった。その間、プロ野球の国鉄スワローズ(現ヤクルトスワローズ)の選手宿舎に使われたこともあるという。

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フランス人建築家レスカスの設計によると推定されている。レスカスは兵庫の生野銀山の開発等に関与し、明治中期まで日本で活動していたようである。耐震構造についての論文を自国の学会誌に投稿したりしていたためか、この洋館でも壁の下半分に煉瓦を充填したり、屋根材を軽い金属板にするなど、耐震性を意識した工夫が随所に見られる。

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現存する明治初期の西洋館の中でも、飛びぬけてあか抜けたデザインの洋館である。

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切り紙細工のような欄干や軒下の装飾が繊細な印象を与える洋館正面のベランダ。

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基壇の換気口。

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洋館は日本館とは接続せず、それぞれ独立して建てられていた。

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洋館のベランダ反対側の外観。

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洋館玄関。

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1階室内。天井は金属板をプレスして装飾を型押ししたものに塗装を施したもの。明治初期の建築なので間違いなく輸入品と思われる。

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2階の一室。日本三景をあしらった、特注品の陶器製暖炉飾り。

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1階の旧客間。食堂を思わせる家具を配置している。家具は明治村が所蔵する旧赤坂離宮(現迎賓館)等の家具を配している。旧西郷邸オリジナルの家具は存在しないと思われるが、家具も洋館も明治時代当時の本物には違いないので、明治の西洋館の雰囲気を十分味わえる。

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客用寝室風に家具をセッティングした1階の一室。

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2階ベランダ。

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切紙細工のような欄干は、日差しを受けて美しい影を映し出す。

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1階ベランダ。

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2階ベランダの天井。

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1階室内の天井。

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同じく別の1階室内の天井、照明台座の装飾。

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暖炉も部屋毎に異なり、見応えがある。

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弊ブログでは明治村の物件を紹介するのは今回2回目となる。(1回目は旧芝川家別邸)
特徴的なベランダを有するという意味で、旧芝川家別邸と比較するのも面白いと思う。
明治村には他にも興味深い建築物、土木構造物が沢山あるのでまた稿を改めて紹介したい。

第97回・旧石川組製糸西洋館


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埼玉県入間市河原町にある旧石川組製糸西洋館は、全国有数の製糸業者として国内に多くの工場を有し、米国にも事務所を構えていた石川組製糸の迎賓館として大正11~12年(1922~23)頃に建てられた。宮大工の技巧が随所に見られる洋館は写真撮影や映画、テレビのロケ地等に多く使われていることでも知られる。国登録有形文化財。

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国道16号線沿いに建つ旧石川組製糸西洋館。棟札から大正10年(1921)の上棟であることが判明しているが、正確な竣工時期は不詳である。現在は石川家から寄贈を受けた入間市が所有、管理しており、定期的に一般公開も行われている。修復・活用が計画されているが本格的な修復はまだ先で、現在は暫定的な公開、活用の段階である。

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外壁の全面に小豆色の煉瓦タイルを貼った木造の洋館は、2階建ての本館と平屋建て別館で構成されており、本館は客室や食堂、大広間、貴賓室など迎賓機能を備える。敗戦後の米軍接収中に写真右側の2階大広間ベランダがキッチンに改造されるなど、多少の改変はあるが概ね創建当時の形をよく残している。

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別館は厨房や使用人部屋を備えたサービス用空間であったと思われるが、後年の改装が多いため詳細は不詳である。設計者の室岡惣七は当地から近い堀兼村(現・狭山市)の出身で、東京帝大卒業、司法省勤務の経歴を持つ建築家である。後年には同じ埼玉県の川島町にある旧遠山元一邸(昭和11年)の設計も手掛けている。

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施工を請け負った関根平蔵は川越で建築請負業を営み、町家から西洋館まで手掛ける優秀な棟梁で、社寺や祭りの山車も造る宮大工でもあった。そのためか建物の内外の随所には和風意匠が見られ、窓枠や階段、扉などはペンキを用いず木目を生かした仕上げにするなど、日本的な造りが随所に見られる西洋館となっている。

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当初の敷地は現在よりも広大で、茶室や和風の庭園もあったという。別館の前にも後年に設けられた茶室があったが、平成に入り国道の拡幅に際し撤去されてしまった。現在は数寄屋風の渡り廊下の一部と庭石などに僅かに面影を残している。

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石川組製糸の創業者で西洋館を建てた石川幾太郎(1855~1934)は明治26年に製茶業から転身、一代で全国有数の製糸家となり、自社の製品を横浜港へ送るために武蔵野鉄道(現在の西武鉄道)の設立に協力、同社の社長も務めた。また、一族を挙げて熱心なキリスト教徒であり、従業員の福利厚生を重視するなどキリスト教精神に基づく家族主義的経営を行っていた。

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石川組製糸の生糸は主にネクタイの材料として米国に輸出されており、ニューヨークには石川組製糸の営業所があったという。西洋館は米国から買付に来る貿易商を接待するために建てられたが、敗戦後は米軍に接収されて将校やその家族の宿舎として使われ、思いがけない形で米国からの客人を迎えることになった。

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石川幾太郎は地元を見くびられないためにも贅を尽くした館で来客を迎えようとした。1階の応接室は最も格式の高い折り上げ格天井となっている。壁には自社製品と思われる絹の壁布が張られており、2階の貴賓室と共に創建当初の壁布が残されている数少ない部屋である。

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応接室の折り上げ格子天井は細い格子を幾重にも重ねた精緻かつ繊細なもので、手掛けた棟梁や職人の腕の冴えを感じさせる見事なものである。応接室は壁布のほか、照明器具や家具調度、床のペルシャ絨毯まで創建時のインテリアが良く保存されている。

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一部屋挟んだ奥には、応接室と同様に意匠を凝らした豪華な造りの広い食堂がある。この当時地方の名士によって建てられた迎賓用の西洋館としては規模、造り共に破格の豪華さと言ってよい。

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応接室と食堂の間にあり、応接間の控えの間として造られたと思われる小部屋。壁に柱と長押を見せる和風色の強い洋室である。
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食堂と厨房の間にある本館のサービス用通路から別館の廊下を望む。天井には玄関ホールと同様、装飾を型押しした金属板が張られている。

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階段ホールに配された椅子とテーブルセット。
石川組西洋館本館は建物自体だけでなく、照明器具や創建時に造られた家具もその多くが非常によく保存されている。

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階段は一本の材木から削り出されたという親柱や手摺、欄干、踏板まで木目を生かしたもので、日本建築特有の趣味嗜好がよく現れたものとなっている。

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2階ホール。ベッドにもなるリクライニング式のソファや木製のベンチが配されている。シャンデリアは創建当時のもので、1階もかつては同様のものであったという。

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2階大広間。突き当りの扉の外はかつてはベランダであったが接収中に改造され、屋内に取り込まれてキッチンとなっている。接収時の改造では3世帯が住めるように間仕切りや扉を設け、それぞれバス、トイレなどが設けられた。現在も接収時に受けた改造の痕跡が随所に残されている。

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大広間には、ベランダの反対側に4枚のステンドグラスが嵌め込まれている。山水画の画題によく用いられる四君子(アヤメ、梅、竹、菊)の図柄であるが菊は無く、代わりに茶の花と実らしい図柄となっている。狭山茶の産地に近いためかも知れない。

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和式の接待もできるよう日本座敷も設けられている。現在はくすんでいるが、壁には金箔らしいものを散らした豪華な座敷であったと思われる。かつては床の間を備えた座敷が二つ連なる構成であったが接収中に板張りの居室に改装され、床の間はクローゼットに、床脇はホールへの出入り口に改造された。

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昭和33年(1958)まで石川家に返還された後、床の間のひとつは元に戻されたが床脇のドアと隣の座敷のクローゼットは改造されたままとなっている。日本座敷としては甚だ不体裁な姿となってしまっているが、歴史の証人としては貴重なものかも知れない。この部分が今後の修復でどのようになるのかは分からない。

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宿泊用に造られた貴賓室は、壁は絹布の布団張り仕上げで天井には金色の雲を描き、その周囲に社寺風の装飾を施すなど最も豪華な設えの部屋であるが、老朽が甚だしいため非公開となっている。富士屋ホテルなどのように、欧米人が日本情緒を味わいながら故国の生活様式どおりに過ごせるように工夫した跡が窺える。 (写真は館内展示品)

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旧石川組西洋館は細部に見どころの多い建物である。
別館の屋根瓦、本館正面玄関の照明、玄関ポーチの天井にはそれぞれ、石川家の家紋である「丸に笹竜胆」をあしらった装飾を見ることができる。

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1階の玄関及び階段ホール、別館へ続くサービス用通路の天井にはそれぞれ、装飾を打ち出して塗装を施した鉄板が用いられている。

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本館の照明器具は、1階の玄関及び階段ホールなど一部を除き、創建当初のものがそっくり残されている。

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正面玄関と1階玄関脇の客間の照明器具にはステンドグラスが用いられている。

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1階応接間や食堂等、本館の各室に残る創建時の家具。

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(上)2階広間のステンドグラスと同様に四君子をあしらった戸棚もあり、こちらは菊の図柄となっている。(下)応接間に置かれた書棚は大正15年に石川幾太郎の69歳の祝いに作られたもの。

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西洋館の竣工から間もなく、石川組製糸は大正12年の関東大震災で横浜にあった大量の商品が焼失、経営に打撃を受ける。その後も生糸価格の暴落やレーヨンなどの化学繊維の出現もあり業績は低迷、遂に昭和12年(1937)には解散する。西洋館はかつての石川組製糸の往時の隆盛を伝えている。

(追記)
本記事は平成31年4月7日に写真、記事本文ともに全面的に差し替えの上、書き改めました。また、川越市に現存する西洋館を施工した棟梁、関根平蔵の旧自邸についても同日付で新規投稿しましたので、併せて御覧頂けると幸いです。

(参考資料)
入間市博物館紀要第9号 平成23年3月 入間市博物館刊行
入間市ホームページ 旧石川組製糸西洋館の世界

第96回・旧内田定槌邸(外交官の家)

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明治から大正にかけ、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使を務めた外交官・内田定槌の自邸として、明治43年(1910)に当時はまだ東京の郊外であった渋谷南平台に建てられた洋館。

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設計者は在日アメリカ人建築家ジェームス・マクドナルド・ガーディナー。
宣教師・教育者でもあり立教大学の学長も務めた人物で、日本で生涯を終えた。教会などがいくつか現存するが、住宅も内田邸など僅かながら現存する。

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現在は内田定槌の子孫より寄贈を受けた横浜市が、横浜の山手に移築、「外交官の家」の名称で一般公開している。
移築後の平成9年には国の重要文化財に指定されている。
なお、実現はしなかったが内田は横浜市長への就任を地元政界から懇請された事があり、横浜市には縁がある。

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19世紀末の米国の邸宅に多く見られるアメリカンビクトリアン様式の洋館。塔やベランダで変化に富んだ外観と、ペンキ塗りの下見板やシングルと称する木片で仕上げた外壁がアメリカ式ビクトリアン様式の特徴。旧内田定槌邸は旧武藤山治邸(弊ブログ第2回及び94回参照)と並ぶ本様式の現存例。

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 日本の洋館は元々は接客専用で、日常生活は日本家屋で行う、というパターンが中心だったが、明治末期より洋館を日常生活の場とする日本人も増える。旧内田邸は洋館が生活の中心であり、日本家屋は使用人部屋や台所から構成される付属屋的な存在であったと言える。
 ただし、令嬢の部屋だけは日本家屋にあった。洋式生活がまだ一般的ではない当時、嫁ぎ先で困らないようにという内田夫妻の配慮である。

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日本家屋は南平台時代に既に取り壊されており現存しない。洋館との接続部分だけが僅かに残っている。ただし先述のとおり付属屋的なものなので、当時の他の和洋並立式の邸宅と比べるとそれほど規模の大きな建物ではなかったようである。

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正面玄関ポーチ。屋根は入母屋の日本風。

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正面玄関扉。現在は旧日本家屋の位置に建つ管理棟から入るので、この玄関から上がることはできない。

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正面玄関ポーチの床タイル。

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現在の見学順路は無視して、内田家の客人になったつもりで玄関から写真を並べる。現在は開けられない玄関ドアをくぐるとこの玄関ホールに通される。

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 玄関ホール正面向かって左手の、伴待と称する小部屋。
来客のお付きの人は主人の用事が済むまでここで待たされる。
 暖炉上に掛かる写真の人物は、設計者のガーディナー。

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玄関ホール正面向かって右手は、来客が最初に通される大客間。
家具は一部は当初からのオリジナルが残っていたが、大半は古写真等により復元されたもの。

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大客間暖炉。暖炉は据え付け式のガスストーブで、薪や石炭を使わない形式のものである。したがってこの家には当時の洋館につきものである煙突がない。

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暖炉脇小窓のステンドグラス。

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大客間と続き間になっている小客間。居間として内田家の人々の団欒の場にも使っていたようである。
白壁に黒っぽい柱と長押を配した、和風要素の強い造りの洋室。装飾も控え目で、この洋館が接客だけでなく日常生活の場であったことが伺える。

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小客間暖炉。

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洋館南東角に設けられた八角形のサンルーム兼ベランダ。小客間から出入りできる。
旧武藤山治邸も洋館の南東角に円形のベランダがあったが、硝子戸が無いのでサンルームの機能は無い。

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食堂。日常の食事も晩餐会もこの部屋で行った。食堂は重厚に仕上げるという洋館建築の定石通りの造り。

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同じ設計者によるデザインの食堂食器棚。これは復元ではなくオリジナル。

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食堂暖炉脇小窓のステンドグラス。

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玄関ホールに戻る。玄関扉を内側から見る。玄関扉の窓飾りには内田家の家紋があしらってある。

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玄関ホールと玄関を仕切る硝子戸に嵌められた、アールヌーボーのステンドグラス。

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玄関ホールは階段室も兼ねている。

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2階は私生活専用の部屋を中心に構成されている。
写真は書斎。

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内田夫妻の寝室。完全に洋式の生活をしていたことが分かる。

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寝室に隣接したバスルーム。

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寝室暖炉。

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展示されていた古写真のひとつで、洋館庭先で撮った内田家の人々。右後ろに日本家屋が写っている。
前列左から4人目の人物が内田定槌、1人置いて右の傘を持つ女性が陽子夫人と思われる。
ここはこの洋館がかつてどのように使われていたか、よく分かるような展示が為されている。

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最後に余談だが、アニメ「のだめカンタービレ」にこの家をモデルにしたと思われる家が登場する。

第95回・高麗橋野村ビルディング

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大阪のメインストリートのひとつである堺筋と金融街の高麗橋が交差する場所に建つ。
大阪発祥の金融財閥・野村財閥の経営による貸事務所ビルとして昭和2年(1927)竣工。

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鉄筋コンクリート造6階建。
戦後7階部分が増築された点を除けば、昭和2年当初の形を極めて良く残している。

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設計は建築事務所を開いて間もない安井武雄。今も盛業中の安井建築設計事務所の創業者。
弊ブログで取り上げたものでは、旧日本郵船神戸支店(神戸郵船ビル)の戦災復旧設計(昭和28年)がある。

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野村財閥総帥・二代野村徳七は安井のパトロンであり、野村財閥系の建築設計を多く彼に委ねている。
野村銀行本店(大正13、現存せず)、同銀行京都支店(現存せず)、日本橋野村ビルディング(野村証券本社、昭和5)、大阪瓦斯ビルディング(昭和8、登録文化財)等がある。

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現在サンマルクカフェとなっている一階南側は、昭和2年当時資生堂が入居していたようである。
(藤森照信「日本の近代建築(下)」(岩波新書)に当ビルの創建当初と思しき写真が載っている)

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東洋風意匠が建物の内外に濃厚に施されている。黄土色の外壁の色調も中国風とも受け取れる。

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野村建設工業(株)・野村殖産(株)、共に旧野村財閥系企業の本社が入居している。

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野村建設工業は戦後間もなく財閥解体に際して設立された会社である。初代社長は安井武雄。

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照明柱。三日月部分が照明。安井は帝大卒業後、満鉄で暫く仕事をしていたので、満州の建築をヒントに当ビルの装飾をデザインしたとも言われる。

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一階部分の装飾と軒の装飾瓦。

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角を丸く仕上げたところが、このビルを魅力あるデザインにしている大きな要素のひとつと思う。

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側面を見ると、幅に対して奥行が極めて浅いため衝立のようなビルであることが分かる。
向かいに建つのは旧三井銀行大阪支店(現・三井住友銀行大阪中央支店。昭和11・曽禰中條建築事務所設計)

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裏側。

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一階北側・通用門周り。不規則な窓の配置がいい味を出している。

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実に渋い味わいの素晴らしいビルディング。いつまでも在って欲しい。

第94回・旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)移築復元工事見学会報告

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 弊ブログの第2回目で取り上げた旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)は、現在兵庫県立舞子公園内にて移築復元工事が行われている。今回は先月14日に実施された工事見学会について御報告させて頂く。
 当日は工事現場見学に先立ち、すぐ近所の舞子ビラ(旧有栖川宮家別邸跡)にて公開講座が行われ、冒頭に武藤山治の孫である武藤治太氏の挨拶、引き続き本工事の監修を行っている足立裕司神戸大学大学院教授による講演があり、非常に充実した内容であった。
 写真は当日展示されていた古写真のひとつ(昭和4年撮影)。明治40年に建てられたこの屋敷は、武藤山治没後の昭和12年に武藤家から鐘紡に寄贈され、福利厚生施設「鐘紡舞子倶楽部」として社員研修等に使われていた。昭和50年代初頭にはNHKのドラマをきっかけに神戸の異人館が脚光を浴び、観光名所となり現在に至る訳だが、当時の異人館関連の書籍・写真集を見ると「異人館」ではないが武藤邸も紹介されているものが多い。このころまでは上の写真と殆ど変わらない姿を見る事ができたようである。建物も、その周辺の風景も。

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 昭和57年に台風のためベランダが大破、撤去された頃からこの建物の運命が狂ったように思える。
 ベランダは取り払われ屋根と外壁をトタン板に覆われたその後の洋館は、この写真を見る限り管理が行き届いていたとは到底思えず、化物屋敷の如き無残な姿を晒していたようだ。
 同時に明石海峡大橋の架橋で周辺の風景も大きく変わる。前を走る国道2号線が拡幅される事になり、平成7年鐘紡は洋館のみ他所に移築、日本館は撤去された。
 写真は平成7年撮影、舞子浜時代最晩年の姿である。右上に明石海峡大橋が写っている。

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 鐘紡(後カネボウに改称)は行政や建築史の専門家等には相談も何もせず、独断で洋館の移築を行ったようである。
 屋敷の一部(洋館)だけでも残しただけましと言われるかも知れないが、洋館は構造材・外装材の殆どを廃棄、新調しており移築というよりは複製と言った方が妥当かも知れない。(ただし内装材および家具調度類はオリジナルをほぼ残している)取り壊した日本館も記録すら取っていないようである。独断で事を進めなければもう少しよい残し方があったのではないかと思われる。
 写真は狩口台時代の旧武藤邸洋館。

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 カネボウは業績悪化と粉飾決算で会社解散→消滅という末路を辿ったが、そのときこの洋館も存続の危機に晒された。
 武藤治太氏によると、カネボウより洋館を時価で買い取れないかと打診を受けた由。会社中興の祖の遺族が、会社のためにと寄贈したものをその子孫に対して、時価で買い取ってくれという行為を、背に腹は代えられぬやむを得ぬ行為と取るか、ただの恥知らずと取るか、弊ブログをお読みになった皆様は如何思われるだろうか。
 武藤氏の尽力で、洋館は家具調度と併せて兵庫県がカネボウより寄贈を受け、元の場所に近い舞子公園内に再度移築復元される事になった。

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 移築のための解体に先立ち、行われた一般公開(平成19年11月)の際に撮った洋館1階応接間。
 この部屋の壁は、ピンク色の色モルタルを塗って引っかき傷を付け、かつ白色の塗料で斑点を付けたと思われ、他に見た事が無い独特のものだったので大変印象的だったのだが、今回の講演を聞くとこの壁は後年の改修によるもので、武藤家時代のものでは無いらしい。今回の復元工事ではどうするか未定のようである。

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同じ仕上げの壁だった2階貴賓室。この2つの部屋は復原後、大きく印象が変わるかも知れない。

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平成20年2月、工事開始直前に撮った舞子公園内の復元工事予定地。白線で洋館の位置が示されている。
円を描いている箇所は洋館の角に円形に張り出したバルコニー部分。

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同年夏撮影。鉄筋コンクリートの基礎が造られているのが分かる。

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平成21年9月撮影。
左後ろに写る建物は、今回講演会場に充てられた舞子ビラ。

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 国道2号線から望む旧武藤邸復元工事現場。右後ろに明石海峡大橋が写っている。
 今回の復元予定地は、もとの場所より200米ほど西になる。

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 復元工事現場は、通常はシートに覆われているが3月14日の見学会当日は一部見えるようになっていた。
洋館屋根の天然スレート葺き工事がだいたい終わっている事が分かる。

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 復元予想図(洋館東側)
 洋館外壁は武藤家所有時代の色に戻すようである。
 ただし、実際の仕上げはこの絵よりももう少し緑色がかった感じだと思う。
 移築前のような白一色に塗られたのは、おそらく鐘紡に所有が移った昭和12年以降と思われる。
 狩口台時代は無かった避雷針も復元される。

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 洋館右手の平屋の建物は管理棟。2枚目の写真でお分かり頂けると思うが、本来この位置には日本館があった。今回の復元工事ではかつて反対側(つまりこの図で言えば左手)にあった撞球室の外観を模した管理棟を建てることになる。足立教授はできれば本来の配置で再現したかった旨の話をされていたが、そりゃそうだろうと思う。
 
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 この管理棟は飽くまでも旧撞球室のイメージ再現であって、規模は旧撞球室よりかなり大きいようである。
出来てみないと分からないが、主屋の存在感を減殺するものにならなければよいのだが、という不安がある。

古写真(大正期?)

 第2回の記事にも載せた写真だが、右の平屋建洋館が管理棟のモデルである旧撞球室。
そして、これが本来の配置。

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 洋館復元工事現場。写真は階段室部分。先述のとおり構造材は前回移築に際してオリジナルが全て廃棄されているので真新しい材木が用いられている。明治以来の旧部材は、写真に写っている中では階段部分のみと思われる。

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 洋館円形バルコニー部分。ここの基壇石材は創建時からのオリジナル。

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 管理棟内部。

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 管理棟ベランダ部分。

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 本見学会のために展示されていた、オリジナルの部材。
 写真に写っているのは暖炉の金物。右は1階食堂、左は2階広間のもの。

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 暖炉の飾り石材。左は1階食堂、右は1階広間のもの。
 奥に見えるのは1階便所・洗面所の腰壁に貼られていた白大理石。

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 階段室ステンドグラスの前に嵌められていた飾り鉄格子。

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 明石海峡大橋前から見た工事現場遠景。右手の尖り屋根の洋館は移情閣。(大正4・国指定重要文化財)
 平成22年度、即ち今年度中には完成予定との事である。

第93回・大蔵省造幣局(独立行政法人造幣局)

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前回取り上げた旧造幣寮鋳造所を取り壊した後に建てられた現造幣局庁舎。
昭和13年(1938)竣工。

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旧庁舎が大川(旧淀川)に正面を向けていたのに対し、新庁舎は同時に開通した国道1号線に正面を向けている。
なお、移築保存された旧庁舎の玄関は国道を挟んだ反対側の敷地に建っている。

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正面と異なり、大川側に面した外観はアーチ窓を連続させている。

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先代建物のイメージを継ぐ意図があったかどうかは、知らない。

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正門。

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明治3年に旧庁舎と共に建てられた旧正門。移設された旧玄関と異なり、当初からの位置にそのまま保存されている。

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両脇に門衛所がある。

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大正8年頃までは陸軍からの衛兵が配置されていた。

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造幣寮では創業当初から、貨幣鋳造に用いるため直営でガスを製造しており、構内の照明にもガス燈を用いていた。写真は旧鋳造所玄関前にあったもの。
ちなみに、大阪において一般向けのガス供給が始まったのは明治38年とのこと。

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造幣局の構内には八重桜を中心に多くの品種の桜が植えられており、花の時期は構内へ立ち入ることができる。
上記のガス燈や旧正門についての情報は現地に置かれた解説板による。

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明治中期から約120年に亘り、「桜の通り抜け」は大阪の春の風物詩と言ってよい。

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第92回・旧大蔵省造幣寮鋳造所玄関(旧桜宮公会堂)

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明治3年(1870)に大阪の大川(旧淀川)沿いにある桜宮に建てられた大蔵省造幣寮(現・独立行政法人造幣局)鋳造所の玄関部分。旧鋳造所は昭和初年に現在の造幣局庁舎建設のため解体されたが、玄関部分の石材が保存され、のち昭和10年(1935)に、旧造幣寮の敷地の一角に建てられた明治天皇記念館の正面玄関に取り付ける形で保存された。
明治以降の歴史的建築物の保存事例としては最初期のものと言える。

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大阪でも現存する最も古い洋風建築。明治維新後、新政府は大阪に造幣寮・陸軍砲兵工廠を設置した。2つの官営工場に加えて明治中期には紡績工場を中心に民間企業の工場が多く建設される。
江戸時代は「天下の台所」と称された商都・大坂は、明治以降は工業都市として発展することになる。

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造幣寮の建築及び機械設備等一式の設計はイギリス人土木技術者のトーマス・J・ウォートルス。
幕末より日本に居り、薩摩藩で工場建設の仕事をしていた他、造幣寮建設後は東京銀座の煉瓦街の建設も手掛けた人物である。

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当初、明治天皇記念館として建てられたが、戦後は桜宮公会堂となり用途を改め、その後図書館として使われた時期もあった。近年は小学生の絵画等の展示場として使われた時期もあったが、現在は閉鎖されており中には入れない。

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明治3年建築の玄関ポーチおよびそこに付属する玄関まわりの外壁が国指定重要文化財となっている。しかし建物本体は昭和10年の建築であるが、文化財の指定乃至登録は受けていない。登録文化財位の価値はあると思うのだが。

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昭和10年築の本体部分にも窓周り等に旧造幣寮の部材を用いている。

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本体部分、大川に面した側面。二階の丸窓が昭和初期の建築らしい。手入れが悪いので御覧のとおり荒れている。

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建物の立派さに対して管理状態はお世辞にもいいとは言えない。
なお、この建物の所有・管理者は大阪市である。

第91回・神奈川県庁舎

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大正12年の関東大震災で、横浜はほぼ全市街が文字通り壊滅した。
しかし復興は早く大正末から昭和初年にかけて官公庁、事務所ビルが続々と建てられた。
神奈川県庁舎は震災から5年後、昭和3年(1928)竣工の建築。

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現在、現役で使われている都道府県庁舎の中では2番目に古い。(1番が大正15年築の大阪府庁舎、3番は弊ブログでも既に取り上げた昭和4年築の愛媛県庁舎)

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登録有形文化財制度の発足(平成8年)に伴い、官公庁舎では最初に登録された建物のひとつである。
(他に同時に文化財登録された官公庁舎に群馬県庁舎(昭和5)、静岡市庁舎(昭和9)がある)

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「キングの塔」として知られる塔屋。
名前の由来は、昭和10年代に外国船の船員が港から見える3つの塔(神奈川県庁・横浜税関・開港記念会館)にそれぞれ「キング・クィーン・ジャック」と愛称を付けたのが由来と言われる。
残り2つの塔も健在である。ただ、今は3つの塔を港から一望することはできない。

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設計は競技(コンペ)で決められ、小尾嘉郎の案が一等に選ばれた。

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正面玄関、玄関ポーチ。

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北面玄関ポーチ。

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外壁に貼られている茶褐色のタイルは大正末~昭和初期の建築によく見られるスクラッチタイル。

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塔のデザインは五重塔をイメージしたと言われる。
デザインの選考に際して、横浜港へ着いた日本人が故国へ戻って来た、と感じさせるデザインが求められた結果このようなデザインが選ばれたとも言われている。

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和風が強く意識されたと言われるが和風というよりは幾何学的なデザインである。昭和3年の建築なので、当時最先端の建築スタイルであるアールデコとも受け取れるデザインである。

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夕闇に佇むキング。

第90回・南葛原家別邸

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戦国時代に形成された宗教自治都市・寺内町を流れを汲む街並みが今も残る大阪・富田林。その富田林の旧家・南葛原家の別邸として大正13年(1924)に建てられた洋館。

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南葛原家は市街地の重厚な本宅とは別に、町外れに洋館造の別邸を建てた。
今も葛原家の子孫が住まわれている。

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国登録有形文化財。

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泥臭い印象のつきまとう大阪の河内にも、こんな洒落た大正時代の洋館が存在するのである。

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玄関。

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2階、ステンドグラスの嵌められた小窓。

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煙突。内部には暖炉があることがわかる。

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建物だけでなく、敷地全体が当初の構えをよく残しているようである。
写真は擬木で出来た橋と門。門の向こうには円形の池泉も見える。現在は公園などでよく見られるコンクリートの擬木も、大正時代はまだ珍しいものであった筈である。

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煉瓦タイル貼りの柱に、擬木で棚を組んだパーゴラ。絡まっているのは藤だろうか。

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こちらは旧寺内町の本宅。軽快な洋館とは正反対の重厚な町家。

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三階蔵。

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現在でこそ、すぐ近くに車道が通り住宅や高い建物に囲まれてしまっているが、かつては周囲は田畑ばかりだったと思われる。別荘・別邸というと現在はリゾート地に建てるイメージが強いが、江戸時代などは町はずれの田園地帯に建てる場合が多かった。リゾートタイプの別荘は明治以降西洋からもたらされたものである。この館は江戸時代以前からあった古くからの別荘の類型に属すると言える。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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