第165回・旧西園寺公望興津別邸「坐漁荘」

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「最後の元老」と称され、首相も二度務めた公家で政治家の西園寺公望(1849~1940)が、静岡県興津の海岸べりに大正9年(1920)に別邸として建てた。そしてここが西園寺の終の棲家となった。昭和45年に愛知県犬山市の「明治村」に移築され、保存・公開されている。国登録有形文化財。

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移築前は旧東海道に面していた正面。「坐漁荘」とは、のんびり坐って魚を釣る(漁る)ための家という意味らしい。つまり引退後のんびり過ごすための家である。実際は「興津詣で」と称して各界の要人がひっきりなしに訪れのんびりには程遠かったようである。

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正門。

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護衛の警官の詰所。

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玄関側からみた全景。最晩年の西園寺は一年のうち夏季以外は殆どをこの坐漁荘で過ごした。

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かつて興津海岸に面していた裏側。一、二階共に縁側が設けられ、駿河湾の眺望を楽しむことが出来た。また右下の張り出し部分は昭和4年に増築された洋間とサンルームである。屋根の上に立つのは避雷針。

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昭和11年の二・二六事件では、西園寺公望は叛乱将校による襲撃対象の一人であった。(しかし直前で中止されたため襲撃自体は無かった)事件当日はこの坐漁荘に滞在中で、事件の通報を受け西園寺は静岡市の県知事官舎へ避難する羽目になる。

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玄関。数寄屋住宅らしく控え目で上品な造り。

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一階内部の畳廊下。

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廊下と女中室に面して作られた小さな中庭。

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一階座敷床の間。

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一階縁側。

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茶が点てられるように水屋も作られている。

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昭和4年に増築された洋式のサンルーム。純和風の別邸に最初は無かった洋式の部屋を加えている。一年の大半を過ごす別邸には、椅子式の部屋が欲しかったのか。

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サンルームに続く洋間の暖炉。

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洋間暖炉の上に設けられた作りつけの飾り棚。洋間と言っても簡素で質実な印象の部屋である。

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ステンドグラスを嵌めた洋間の窓。二重窓にして和風の外観に配慮したものと思われる。意匠的なものだけでなく防犯や防寒を意図したものなのかも知れない。

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台所のカマド。焚口が小さいので、薪ではなくガスか木炭を使うものだったのだろうか。

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二階、来客用座敷の床の間。

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二階縁側。建具には「バイタ・ガラス」という紫外線を通す特別製の輸入硝子が嵌めこまれているという。(当時紫外線は健康に良いものと考えられていた)

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よく見ると硝子の隅に「VITA」と小さな文字が入っていた。

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なお、元の興津の跡地には現在明治村で保存されているこの建物と全く同じものが平成16年に再建、「興津坐漁荘」の名で公開されている。しかし裏側は埋め立てられており、もはや元の場所でも海を見ることはできないようである。
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第164回・旧沼津御用邸

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静岡県沼津市の海岸沿いにかつての沼津御用邸跡を整備してできた沼津御用邸記念公園がある。皇太子(のちの大正天皇)の療養を目的に明治26年(1893)から造営が始まり、昭和44年(1969)に廃止された。その間戦災で主要な建築を焼失するものの、焼け残った建物が現在整備の上保存・公開されている。

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沼津御用邸はかつては本邸・東附属邸・西附属邸から構成されていた。このうち現存するのは東附属邸と西附属邸。写真は西附属邸正門。

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西附属邸の建物は明治38年(1905)から41年にかけて造営された。また大正11年には洋風の外観を持つ「御玉突所」(撞球室)が増築されている。皇孫殿下(のちの昭和天皇)のために設けられた。

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御玉突所外観。洋館と言っても白木の簡素なもの。

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隣接する本邸内には、明治33年竣工の瀟洒なベランダを備えた木造ペンキ塗り平屋建の洋館があったがこちらは昭和20年7月に戦災で他の本邸建物と共に焼失、現存しない。

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東付属邸。明治36年に皇孫殿下の御学問所として建てられた。

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西附属邸玄関。西附属邸はかつての御用邸時代の家具調度を復原、内部を公開している。

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縁側畳廊下。浜辺の建物なのでそのせいか床が高く造られており、平屋建てだが欄干が巡らせてある。

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中庭がある。

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謁見所。右手の椅子が玉座である。

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御座所。日本座敷だが洋家具を置き、洋室同様の使い方をしている。

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御玉突所内部。撞球台は今は殆ど見かけない四つ球式。戦前の撞球(ビリヤード)は四つ球式が主流(というか現在主流のポケットに落とすものは無かったと思う)。

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表向きの空間だけでなく台所等のバックヤードスペースも保存されている。写真は調理所(台所)。

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調理所外観。硝子張りの天窓を設けていることが分かる。

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石造りの湯沸所。調理所や湯殿で用いる湯をここで沸かした。

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現在は本邸跡、旧東付属邸と合わせてのどかな浜辺の公園として楽しめるようになっている。

第163回・大阪府庁舎

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大正15年(1926)竣工の大阪府庁舎は現役の都道府県庁舎としては最も古い。
設計は懸賞で選ばれ、当時内務省に勤務していた平林金吾の案が選ばれた。平林はのちに名古屋市役所(昭和8)の設計も手掛けている。6階建で、戦前築の道府県庁舎では愛知(昭和13)と並んで最も高い。

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近年大阪府が行った耐震診断とやらで「倒壊の恐れあり」とされたらしいが、信用できない。着工後間もなく関東大震災が発生したため、工事は入念に行われたようである。関東大震災直後の建物はどれも極めて堅牢に造られており、築90年程度で地震で倒壊するだろうか。亀裂だらけになることはあっても、それはそもそも「倒壊」とは言わない。大阪府庁舎に限らず、この手の耐震診断の話は大袈裟に言うことで、建て替えたいがために口実を作っている感がある。

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外観は石と白タイル貼りの控え目なもの。大阪城の濠端が敷地であることから、場所柄を考慮したのかもしれない。なお、大正15年当時大阪城天主閣はまだ存在しない。(昭和3年に天守閣再建決定、同6年完成。)

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中央上部の壁面には、戦前まで菊の御紋があった。

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堂々たる正面玄関。3年後の昭和4年に竣工した愛媛県庁舎の玄関まわりは大阪府庁舎に似ている。設計者の木子七郎は大阪に自宅と事務所を持っていたので、設計に際しこの庁舎を意識した可能性はある。(但し似ているのは玄関周りだけでそれ以外は全く似ていない)

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正面最上階、旧正庁の窓のステンドグラス。大阪府庁舎は外観よりも内部に見どころが多く、3層吹き抜けの玄関ホール、ステンドグラスで彩られた天井を持つ旧正庁、府会議事堂(現府議会)の内装は秀逸である。

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華麗な内装に対して地味な外観。しかし中央部分には結構装飾が施されている。

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車寄せ入口まわりは濃密な装飾が施された場所である。

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装飾部分を拡大。ちょっと不気味。

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2階中央張り出し部分の両脇にも装飾がある。

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拡大。

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大阪府は昨年、大阪港にある大阪市の無能な都市開発の賜物である大阪ワールドトレードセンタービルディングを買収、第二庁舎として知事室、府議会を除き実質的な移転を進めて行く予定らしい。この庁舎は耐震工事の上引き続き使われるようであるが、果たしてこの庁舎が今後も歴史的建築として保全されるのかどうかは、今なお予断を許さない状況である。

第162回・下関南部町郵便局(旧赤間関郵便電信局)

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前回の中京郵便局に続き、現存する明治時代建設の郵便局。煉瓦造り二階建で明治33年(1900)竣工。設計は中京郵便局と同じ三橋四郎。国登録有形文化財。

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下関南部町郵便局は中京郵便局と異なり内部も含めて完全に残っている。また明治村へ移築された旧山田郵便局と異なり創建時より同じ場所に建っている。そしてこれは3者共通なのだが、今も現役の郵便局舎である。

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この建物が建つ下関市の唐戸地区は周囲に明治・大正の洋風建築が多く残されている。写真右手に写る旧秋田商会ビル、旧英国領事館、また少し離れたところには旧三井銀行下関支店(旧山口銀行本店)等がある。

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南部町郵便局と旧秋田商会。

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旧秋田商会から見た南部町郵便局。

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中京郵便局と同じ煉瓦造だが、こちらは煉瓦の上にモルタルを塗り目地を切って石造風に見せている。正面上部の軒飾りは長らく失われていたが、近年復原された。

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丸ポストがよく似合う。

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局舎裏手。この建物は中庭がある。そこに面した壁面はあえて改修せず古びたままの外壁が残り、かなりいい雰囲気らしい。

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煉瓦造の明治建築である下関南部町郵便局。
鉄筋コンクリート造の大正建築である旧秋田商会とよい対照を見せている。

第161回・中京郵便局

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京都の三条通は明治末から大正にかけて金融機関が集中し、質の高い洋風建築が建ち並んだ。現在もそのうち何軒かが残る。中京郵便局は明治35年(1902)建築の煉瓦造二階建。昭和53年に外壁を保存して内部を改築している。設計は逓信省技師の三橋四郎・吉井茂則。京都市登録文化財。

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保存されているのは明治35年創建当初部分の南面(正面)および西面の全面、東面の一部である。
写真は西側からの眺め。

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煉瓦造の建造物の外壁保存は、戦災復旧によるものは旧兵庫県庁舎等多くの事例が既にあったが、老朽化による改築に伴う外壁保存は中京郵便局が我が国初の事例である。

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東側からの眺め。

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南側。

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西側。

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東側。街路に面していないため、装飾の少ない簡素なものである。

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逓信省建築はいち早く古典様式からモダニズムにシフトしたので、古典様式で建てられた郵便局舎は現存するものが極めて少なく、貴重である。

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玄関。

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窓は改築に際し1枚硝子のアルミサッシに変わったが、この手の古典様式建築には甚だ不調和である。
外壁だけでなく、窓・出入口の建具も建物の姿を決める重要な要素であることを感じさせられる。

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他に現存する明治期の郵便局舎としては伊勢神宮前にあった旧山田郵便局(明治42、現在は愛知県犬山市の明治村に移築保存、国指定重要文化財)、山口県下関市の旧赤間関郵便電信局(明治33、現・下関南部町郵便局)がある。

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屋根窓。

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三条通が金融街として繁栄したのは大正時代までで、昭和に入ってからは烏丸通にその役目を譲ることになる。

第160回・旧大阪商船神戸支店(商船三井ビル)

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神戸・旧外人居留地の一角、海岸通に面して建つ旧大阪商船神戸支店ビル(現商船三井ビル)は神戸の洋風建築を代表する存在と言ってもよい。大正11年(1922)竣工、鉄筋コンクリート7階建て。

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大正3年から8年の第一次世界大戦による大戦景気に沸いた神戸では、多くの船会社・貿易商社が神戸の一等地・旧居留地及びその周辺に続々と事務所ビルを建てた。旧大阪商船はその中でも最後期の建築である。

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もっとも大戦終結の翌年、大正9年以降は反動不況に陥り大戦景気で成り上がった者の大半が没落の憂き目を見ている。この建物はそのような不況の最中、堂々たる偉観を海岸通に出現させた訳である。

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大阪商船は戦前日本の海運業界において日本郵船と並ぶ二大巨頭であった。戦後は合併により大阪商船三井船舶となり、現在の商船三井に至っている。

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設計者・渡辺節(1883~1967)は関西を中心に多くの企業の本支店ビル等を手掛けている。大阪商船本社も入っていた大阪ビルディング(ダイビル)、横浜正金銀行大阪支店、綿業會舘、神戸証券取引所等がある。うち綿業會舘は現存、国指定重要文化財となっている。なお昭和25年失火で焼失した先々代の京都駅舎も鉄道院在籍時代の渡辺の設計による。

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海岸通(神戸港)に面した側の角を正面とし、営業室への入口を設ける。現在はショー・ウインドウになっているためここから出入りは出来ない。

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背面からの眺め。

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側面玄関周り。

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一階は石積み風に仕上げ、二階より上部の外壁にはアメリカ製テラコッタを貼りめぐらしている。大正9年に渡辺節がアメリカを中心に海外視察に出かけた成果が建物の材料、工法等に存分に発揮されている。

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旧大阪商船ビルはテラコッタを外装に大がかりに用いた日本最初の建物である。以後東京の郵船ビル(大正12)、大阪の大同生命ビル(大正14)、南海ビル(昭和7)等テラコッタを大量に用いた建築が続々と出現する。

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重厚に仕上げた一階外壁。

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上層外壁。一見自然石にも見えるが陶器である。

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同上、メダリオンのアップ。

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このビルには3箇所に玄関が設けられている。南側(正面)の玄関。先述の通り営業室に繋がる玄関である。

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西側(側面)玄関。内部の造りからしておそらく貴賓用としても使われた玄関ではないかと思う。

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北側(背面)玄関。上階の貸事務所に繋がる玄関である。左側の小さな入口は当初何だったのか不明。

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西側(側面)玄関の内部。現在は1階の大半が大丸百貨店のインテリア展示場になっている。

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船会社らしく、帆掛け舟のレリーフ。背後の模様も青海波模様。

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上の写真のとおり、石やテラコッタで華麗に装飾された北・西・南の3面に対し、建設当初から街路に面していない完全な裏側であった東側(当時隣には煉瓦造4階建のオリエンタル・ホテルが建っていた)の壁面は驚くほど素気ないものである。東京丸の内のビル街の無機質な裏通りの姿を描いた江戸川乱歩の短編小説「目羅博士」(昭和6)を連想させる。

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大正時代に入ると鉄筋コンクリート構造が普及し始め、7~9階建ての高層建築(当時で言うところの)が建てられ始めたが、関東大震災以前は建築構造の主流はまだ煉瓦、石等による組石造であり、その数は多くない。

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以下、関東大震災以前に建てられた主な高層建築。(旧大阪商船ビルと同じ7階建以上で)
・北浜銀行名古屋支店(名古屋、大正6、設計鈴木禎次、7階建)
・三越呉服店大阪店(大阪、大正6、設計横河民輔、8階建)
・東京海上ビルディング(東京、大正7、設計曽禰中條建築事務所、7階建)
・明海ビルディング(神戸、大正10、設計藤井厚二、8階建)
・丸の内ビルディング(東京、大正12、設計桜井小太郎、8階建)
・堂島ビルディング(大阪、大正12、設計竹中工務店、9階建)

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上記のうち、現存するのは大阪の堂島ビルディングだけである。ただし建物の構造体を残すだけで、内外共に当初の姿は殆ど残っていない。

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旧大阪商船ビルは大正12年の関東大震災以前に建てられた高層建築としては、現存する唯一の存在と言ってもよい。建物自体の質の高さは言うまでもないが、現存する最初期の高層事務所建築としても重要文化財に指定されてもおかしくない建物である。

第159回・三越本店

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東京・日本橋に威容を誇る三越本店。
建物は大正3年(1914)に完成したものが増改築を重ねつつ、現在の姿に至っている。
東京都選定歴史的建造物。

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大正3年竣工当初の姿。なお、以下古写真の出典は特記するものを除き、「株式會社三越創立五十周年記念 三越の歩み」(昭和29年㈱三越刊行)より。

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現在もある屋上まで吹き抜けの中央ホール。大正3年開業当初はバロック調の古典的な装飾に飾られていた。
設計はのちの増改築も含めて横河民輔(1864~1945)率いる横河工務所。横河民輔は三井の技師として向かいに建つ三井本館(明治35年竣工の初代。のち関東大震災で全焼。)の設計も手掛けた。また実業家としての顔を持ち合わせた建築家であり、江戸以来の呉服店・三井越後屋が欧米式デパートメントストア三越に生まれ変わるきっかけを作った人物のひとり。

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大正10年大増築後の姿。右手に先述の初代三井本館の一部が写っている。
奥の高塔は現在もそのまま残っている。

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大正12年9月1日の関東大震災による火災で、日本橋一帯は全滅。三越本店も隣接する三井本館と共に全焼する。(出典:「大正大震災大火災」大正12年大日本雄弁會講談社刊行)

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震災後修復に着手、昭和2年に竣工する。この改修により現在の姿になる。なお写真に写っている大正3年当初からあった塔はこの工事で撤去、塔は大正10年増築の一つだけになり現在に至る。

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その後も増改築は続き、昭和10年には写真1枚目の中央ホールが完成し一区切りを迎える。写真は昭和29年撮影。隣接の建物は震災後初代を撤去し昭和4年に竣工した二代目三井本館で、今も健在。

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現在の三越本店。

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戦後も大がかりな増築が行われている。なお近年この左隣に新館が別に建てられた。

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裏側(日銀本店側)からの眺め。

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唯一、関東大震災以前の姿を残す高塔。

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隣接の三井本館、裏斜め向かいの日本銀行本店(明治29年、昭和13年増築)と共に日本橋界隈でも最も重厚な街並みを形作っている。かつては裏に横浜正金銀行東京支店(昭和2)があり、昭和50年代初頭まで近代洋風建築だけで構成された一角が存在した。なお四つ辻の一角は現在、つまらない建物になり果てていることは言うまでもない。

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三越本店は昭和史における一大事件の舞台にもなっている。昭和24年7月、国鉄総裁・下山定則が、出勤の途上公用車を停めさせて三越本店へ立ち寄りそのまま行方不明となり、翌日常磐線にて轢死体で発見された「下山事件」である。

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ライオン像で有名な正面玄関。ライオンは大正3年からいる。

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三井本館側には地下鉄通路への入口がある。近年改装されエレベーターだけになったが、入口上部のステンドグラスで造られた案内表示はそのまま残されている。

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三井本館側玄関。

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同上、風除室。

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中央ホールの硝子天井。中央ホールは古風な洋風建築のスタイルだった震災前と異なり、1930年代最先端のアールデコで統一されている。

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三越以外でも、このような豪壮な吹き抜けを持つ百貨店は大阪・心斎橋の大丸(昭和8)等があったが今もそのまま残るのは三越本店だけである。

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煌びやかな中央ホールの装飾とステンドグラスの数々。

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6階の三越劇場(旧三越ホール)の内装も見どころは多いが観劇をしない限り入れない。
その点、中央ホールは誰でも入れるし昭和5年設置のパイプオルガン(中央区指定有形文化財)の演奏も聴けるのでお勧めである。

第158回・向瀧

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会津藩の指定保養所としての歴史を有する会津若松・東山温泉にある温泉宿。
明治~昭和10年代に建てられた諸建物は、福島県における国登録有形文化財第一号でもある。

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川沿いに面した外観。かつては旅館の屋号の由来となった瀧がすぐ近くにあった。

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川と山に挟まれている。

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斜面に面して階段状に建てられた昭和10年増築の客室。

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池のある中庭を客室が取り巻く。

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屋根は雪国に多く見られる赤瓦で葺かれている。

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大正4年竣工の離れ。

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離れ内部。欄間には離れの完成した大正4年に投宿した野口英世の揮毫になる扁額が掛けられている。

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離れ専用浴室。

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玄関の真上にある大広間。

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大広間の書院窓。

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大広間の舞台。

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浴室前にある、白大理石をくりぬいて造った手洗い場。

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池に面した廊下。

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池に面した棟の2階、百合の間。昭和10年頃の増改築部分。

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同上、書院建具。

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同上、床脇の窓。

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昭和初期の建築らしく、洋室の会議室もある。

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会議室入口欄間のステンドグラス。ただしなぜか反対側は漆喰で塗りこめられており、光を通さない。

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山の斜面、最も高い位置にある客室、桐の間。名前の通り桐材が多用されている。

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桐の間縁側。
客室毎に造りも眺めも全く異なり、何度行っても楽しめる宿である。

第157回・旧佐々紅華邸(京亭)

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埼玉県の寄居、荒川の上流に面した一画に昭和初期の和風住宅が料理旅館として使われている。
大正から昭和初期に活躍した作曲家・佐々紅華(1886~1961)の自邸として施主自らの設計で昭和6年(1931)着工、同11年頃現在の形になったという。現在は鮎料理を主とした料理旅館「京亭」となっている。

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門。佐々紅華は夫人の故郷である寄居の地が気に入り、自邸を建てて昭和36年に死去するまで過ごした。
その間戦時中にはある皇族の住居として半強制的に買い上げられたこともあるらしいが、戦後再び買い戻している。なお「京亭」は佐々家が経営している。

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門を入ってすぐこの姿が目に入る。

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玄関正面。

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式台のある玄関内部。

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玄関そばの板戸にはコウモリをあしらっている。コウモリは古くから縁起のよい動物とされる。

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中庭。

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同じく中庭。上の写真の反対側から見た姿。

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中庭に面して置かれたテーブルと椅子。

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一階縁側。

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二階階段の欄干。

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二階座敷。次の間・広縁付きの立派な座敷である。

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二階座敷次の間側。壁は下地の荒壁が露出した状態になっている。わざとそうしたのか、未完成なのか。

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三方に雪見障子をはめこみ外の景色がよく見えるように工夫されている。

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二階座敷の外廻りには高欄を巡らせる。ここからは荒川の渓谷を借景とした庭園が一望できる。

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二階座敷専用洗面所の小窓。

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二階座敷書院。意匠はやや中国風。

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二階座敷専用洗面所からの眺め。建具は摺り硝子と透明硝子を組み合わせている。

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一階中庭に面してある小さな飾り出窓。このような洗練された意匠が随所に見られる。
なお、この家を設計した施主・佐々紅華は作曲家として知られるようになったが元々は東京高等工業学校(現・東京工業大学)工業図案科卒で広告図案の仕事に携わったこともある人物である。

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庭園からの建物全景。

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庭園には池もある。

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料理も建物も景色も絶品である。



第156回・旧神戸市迎賓館(須磨観光ハウス)

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神戸市の西郊にある須磨浦公園の一角にある須磨観光ハウスは、昭和12年(1937)に神戸市の迎賓館として建てられた。設計は神戸市営繕課。(但し竣工年は昭和13年、14年等諸説ある)現在は料理旅館になっている。

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須磨浦公園内のロープウェーから見下ろすことが出来る。

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急勾配の屋根と青緑色のスペイン瓦が特徴。

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全景。スイスの山荘を模したと伝わる。

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源平の古戦場としても名高い須磨浦の松林は明治以降御料林となっていたが、昭和10年に須磨浦公園として市民に解放された。

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山陽電鉄須磨浦公園駅を降り、大阪湾を望みつつ須磨浦公園内の山道を登ると、やがて石畳の坂道が現れる。
この先に旧神戸市迎賓館は建つ。

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坂道を登った先に現れる正面。かつて神戸でも指折りの高級宿泊施設であったという。

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なお、昭和10年代半ばの神戸の高級ホテルとしては他にオリエンタル・ホテル(昭和20年6月戦災で全焼崩壊)、トーア・ホテル(米軍接収中の昭和25年に泥酔した米兵の狼藉により全焼)、舞子ホテル(旧日下部久太郎別邸、昭和17年頃開業、現在も盛業中)等があった。

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この宿の魅力のひとつは周辺環境である。周囲の松林も、ここから望む大阪湾、淡路島、瀬戸内海も、殆ど創建当初と変わっていないのがよい。その点、戦後古い松林の殆どが枯死壊滅(現在はその後の植え直したものが中心)した上、明石海峡大橋開通に伴う開発により環境が激変したすぐ西隣の舞子公園とは大きな違いである。

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玄関脇の窓。

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半地階から庭園へ通じる出入口。

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周囲には桜の木が多く植えられ、春は花見の名所となる。

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内部の一室。階下は洋室を中心に構成、階上は日本座敷から構成されている。

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内外共に改装された個所も多いが、創建時からさほど変わっていないと思われる箇所もある。

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神戸の隠れ家的な名旅館である。

第155回・旧岩崎家深川別邸(清澄庭園・涼亭)

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現在東京都によって管理・公開されている深川の清澄庭園で集会施設として使用されている「涼亭」は明治42年(1909)三菱財閥の岩崎家により建てられた。保岡勝也設計。東京都選定歴史的建造物。

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清澄庭園は三菱財閥を築いた岩崎弥太郎が貴賓接待、自社の社員の慰安・親睦等を目的に設けた「深川親睦園」に始まり、その後三菱財閥二代目・岩崎久弥により洋館の建設や庭園の整備が行われた。

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涼亭は国賓の接待のために建てられた。戦前は富豪が迎賓施設を自ら建設、国賓の接待を国に代わって行うということは珍しくなかった。

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大正12年の関東大震災では洋館を始め主要な建築が焼失する。その際庭園が近隣住民の避難所の役割を果たしたことを機に、震災の被害が少なかった庭園部分が岩崎家より東京市に寄贈、公園として公開される。

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深川に大被害が出た昭和20年の東京大空襲では再び避難所となると同時に、犠牲者の仮埋葬所にもなった。

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真横からの眺め。波乱の歴史を秘めながら、今も美しい姿を水面に映す。

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第154回・旧武毛銀行本店

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埼玉県秩父市、旧吉田町にある大正7年(1918)竣工、煉瓦造2階建のモダンな銀行建築。
当時、秩父から群馬県の上毛地方を経営基盤としていた武毛銀行の本店社屋として建てられた。
国登録有形文化財。

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正面。昭和初期に屋根周りが改造された他は旧状をよく残す。

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白い化粧煉瓦(タイル)の使用、幾何学化・簡素化された細部装飾等、大正初期~中期の洋風建築の特徴をよく表す。同年竣工の旧第八十五銀行本店と並んで、埼玉を代表する大正期の銀行建築と言える。

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玄関。登録文化財のプレートが右上にある。

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武毛銀行はのち秩父銀行と合併、さらに川越の第八十五銀行と合併、戦争中の企業統合により埼玉銀行となり、現在の埼玉りそな銀行に繋がっている。

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秩父の山深い地に、最新式のデザインをまとい、かつ煉瓦造の本格的建築として建てた銀行社屋が出来たということは、当時この地域が相当繁栄していたということを物語っている。

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正面2階中央窓周り。窓上に2枚貼られた鮮やかな青色のタイルがアクセントになっている。

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建物前にあった解説板。

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同上、解説板にあった昭和2年当時の武毛銀行の写真。現在は瓦屋根だが創建当初は陸屋根で、正面上部も今より装飾的だった。この姿で残されていないのが残念。

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同じ角度から見た現在の姿。比較すると創建当初のほうが断然いい。

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側面後方は構造体の赤煉瓦がむき出しになっている。

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側面。かつては後方に木造の附属棟もあったが現存しない。写真には写っていないが金庫室が後方に張り出している。

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側面3分の2と後方全面は赤煉瓦の外壁を持つ。

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このような紅白ツートンカラーの煉瓦造洋館は、現存するものでは他に神戸の旧兼松商店本店(日濠館、明治44年)、秋田の旧秋田銀行本店(明治45)がある。

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銀行としての役目を終えた後は法務局庁舎、民俗資料館に使われたが、近年修復を終えて以後は教育委員会で管理、展覧会場等に使われている。

第153回・旧三輪善兵衛別邸(沼津倶楽部)

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静岡県の沼津は駿河湾に面した温暖な場所として明治以降御用邸が置かれた他、貴顕富豪の別荘地となった歴史を持つ。旧三輪家別邸は今も往時の別荘の佇まいを残す数少ない建物のひとつである。

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海岸沿いの松林に囲まれた広大な敷地に建っている。建物は大正初期頃のものと推測されている。
戦時中軍に徴用された後、戦後は社団法人沼津倶楽部の所有となり現在に至る。近年まで料亭として使われていたが現在はイタリア料理店になっている。

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茅葺の長屋門。この写真は平成16年の撮影で、現在は場所を少し移している。

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平屋建の建物が3棟、渡り廊下で接続されている。

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かつての家族用居室と思われる座敷。この家を建てた二代・三輪善兵衛(1871~1939)はミツワ石鹸等の会社を興した人物。実業家であると共に茶や能を嗜む風流人で別荘の造りにも建主の趣味がよく現れていると思える。大変品のよい数寄屋別荘である。

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渡り廊下。設計・施工は江戸幕府出入りの棟梁であった柏木家十代目・柏木祐三郎と推測されている。

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どの座敷も非常に洗練された造りである。

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上記座敷からみた庭の眺め。

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畳廊下。

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中庭。

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茶室風に造られた座敷。以下しばらく、同座敷の写真。

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造りつけの文机もある。

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床脇。仏壇か?

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庭の眺め。

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茶室風と書いたが、茶事が出来るよう水屋が造られていた。

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水屋のデザインもひねりが効いている。

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縁側の天井。

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座敷の天井。異なる材料を組み合わせ変化に富む。

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茶室。ここだけ新築ではなく京都から移築、別荘に接続したものらしい。

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サンルーム。椅子式で、本別荘唯一の洋間だが数寄屋意匠で統一されている。

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ドーム状に造られた網代天井がすばらしい。



第152回・旧山吉デパート

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小江戸、蔵の街の別名を持つ埼玉・川越には蔵造りの商家のほか、大正~昭和初期の洋風建築も随所に見られるのが特徴である。この旧山吉デパートも蔵造りの家が並ぶ一画に建つ近代洋風建築。昭和11年(1936)築。旧八十五銀行本店、旧山崎家別邸など、今も川越に質の高い近代洋風・和風建築を残す保岡勝也の設計。

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表側に鉄筋コンクリートの店舗、奥には伝統的な木造の建物が配置される構成だったが木造部分は現存しない。
店舗部分も近年まで廃墟に近い姿だったが、見事に修復され甦った。

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保岡勝也(1877~1942)の建築作品としては最晩年のものと考えられている。

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1階ショーウインドウ欄間のステンドグラス。玄関を挟んで一対あるもののひとつ。

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玄関欄間のステンドグラス。噴水の図柄。

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夜景。

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3階建の小規模な建物だが、こうやって見上げると結構迫力がある。

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川越まつりの山車と。

(H25.10.20追記 冒頭写真を差し替えました)

第151回・杉山小児科医院

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奈良県大和郡山市、郡山城の城下町の一角に建つ洋館造の診療所兼住宅。
伝統的な建物が多く残る城下町にあって異彩を放つ。

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左手のハーフチンバーの外観を有する部分が診療棟で、大正年間の建築と伝わる。

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最初にこの洋館を建てた医師はドイツ留学の経歴を持つ人物であったという。戦後一時空き家となっていたが、昭和29年に現在の杉山小児科が入居、現在に至る。

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手前に写るモルタル塗りの外観の二階家が居住棟。診療所棟より若干新しく昭和初期の建築と伝わる。

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診療所棟・居住棟共に国登録有形文化財。

第150回・台中駅舎

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台湾には駅舎建築にも日本統治時代の遺構が結構残っている。
台中駅舎はその中でも代表格と言ってよい。大正6年(1917)竣工。設計は台湾総督府交通局。

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堂々たる外観の煉瓦造平屋建。

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以前は大きな駅名看板やデジタル時計が掲げられていたが現在は撤去、建物の持ち味を損なわないよう配慮されている。

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旧状を大変よく残している。

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内部の保存状態もよい。

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1999年の地震で破損したが、補強・修復され今も現役。史跡にも指定されている。

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夜はライトアップされる。

第149回・御影公会堂

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御影公会堂は昭和8年(1933)、兵庫県武庫郡御影町(当時)に建てられた。御影町が神戸市東灘区となった現在は神戸市御影公会堂となっている。

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地元灘の造り酒屋である白鶴酒造七代目・嘉納治兵衛からの寄付金20万円に御影町費4万円、計24万円を建設資金に建てられた。嘉納治兵衛は公会堂の建設費用を地元に寄付した以外にも、当時としては非常に珍しい私設美術館(白鶴美術館)を開設するなど、戦前の阪神間の文化を語る上で欠かせない人物のひとり。

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設計は神戸市建築課長も務めた清水栄二。神戸における同一設計者による他の建築物としては、旧神戸市立生糸検査所庁舎(昭和2)などが現存する。

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昭和13年の阪神大水害では地階が浸水、同20年の戦災では内部をほぼ全焼する被害を受けている。戦後内部を改修復旧、現在に至る。

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野坂昭如の「火垂るの墓」「焼土層」など戦時下の神戸を舞台とした短編小説には、この御影公会堂が登場する。

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正面からこの曲面を描くコーナー部分の壁面も以前は茶色のスクラッチタイルが貼られていた。

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正面以外の外観は概ね創建当初から変わっていない。

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石屋川に面した側面は、非常に変化に富んだ外観である。

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円形窓にスクラッチタイル、いずれも昭和初期の建築の定番。

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船のデッキを思わせる造り。

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当時としては大変モダンな建築である。

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平成7年に正面部分を残す形での改築計画が持ち上がったが直後に発生した阪神大震災で計画は頓挫、現在は改築計画はないものの、手入れはあまりよくないので老朽化が目立つ。

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屋上には展望塔がある。

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玄関。御影公会堂は平成7年の阪神大震災に際して約1年間に亘り、避難所として使われた。

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玄関脇の受付用の小窓。

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1階ホール。灘五郷がすぐそばなので、奥のガラスケースには酒瓶が並んでいる。
内部は戦災で大半が焼けてしまったが、焼失を免れた地下の食堂は往時のインテリアがよく残されている。

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極めて堅牢な造りであることはこの柱の太さを見ても分かる。

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三階階段室踊り場。屋根は硝子天井。

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松の木と。

第148回・下呂温泉湯之島館

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岐阜県の下呂温泉にある昭和6年(1931)創業の旅館・湯之島館。名古屋の実業家岩田武七により大正末期から工事にかかり、建物は昭和2年から4年の歳月をかけて建てられた。天皇陛下も宿泊された下呂温泉でも最も格式高い宿である。

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湯之島館は、通称「下呂富士」と称される山の中腹に、下呂の温泉街を見下ろす形で建っている。
紅殻色の土壁が派手な印象を与えるが、東海地方では旅館、料理屋、別荘等数寄屋趣味を取り入れた和風建築にはこのような外壁を持つ建物が多い。

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杉の木立に囲まれて建つ木造三階建の本館。今年2月に玄関、渡り廊下、本館の3棟が登録有形文化財に認定された。

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登録文化財となったこの3棟以外にも洋館(娯楽棟)、離れ(貴賓室)等昭和6年開業当初の建物が今もそのまま現役で使われている。

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創建当初から変わらない玄関ロビー。昔は囲炉裏に火が焚かれていた。

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登録文化財の渡り廊下。

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渡り廊下からの眺め。

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欄間には無双窓が設けられている。紅殻色の土壁と同様、東海地方の和風建築にはなぜか無双窓が多い。

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本館客室の一例。どの部屋もゆったりと造られており、縁側からは下呂市街を一望できる。

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敷地の地形に合わせたためか、複雑な形状の本館。

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意匠も形も複雑な渡り廊下。

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豪壮な本館の瓦屋根。

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洋風の渡り廊下もある。

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娯楽棟として建てられた洋館。客室は無く、家族風呂、ダンスホール、読書室、撞球室等の設備から成る。当時としては至れり尽くせりの最高級リゾート旅館であった。現在もその大半は内装も目的も当初のまま使われているものが多い。

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洋館テラス。上部の張り出し部分は硝子張りの尖がり屋根を持つサンルーム。

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旧ダンスホール(現クラブ)外観。二層吹き抜けの内装は戦前のまま残っている。

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洋館地階、家族風呂前の廊下。モザイクタイルの床も腰壁のタイルも創建当初のもの。

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階段室のステンドグラス。ライト設計の旧帝国ホテルの意匠の影響を受けたものと思われる。

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洋館の階段。照明はアールデコ。湯之島館の設計を行ったのは名古屋で建築事務所を開業したばかりの丹羽英二である。現在も(株)丹羽英二建築事務所として続いている。

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旧娯楽室。喫茶室や麻雀室に使われていたが現在は用途を改めているようである。

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同上、ステンドグラス。

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会議室。

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欄間にステンドグラスを嵌めた会議室の窓。

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会議室暖炉。

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会議室に続くサンルーム。

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湯之島館は温泉旅館には珍しい和洋併置の建物構成を持つ旅館である。

第147回・吉池医院

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山形市の中心街、旧山形県庁舎(現山形市郷土館・文翔館)前の通りに面して建つ洋館造りの医院。
大正元年(1912)の建築で、設計は同県出身の建築家・中條精一郎(1868~1936)と伝えられる。

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街路に面した門柱の先、敷地の奥に引っ込んだ所に建っている。現在駐車場になっている場所には、以前居住用と思われる平屋建の日本家屋があったように思うが、今はない。

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中條精一郎は、現在の山形県米沢市出身の建築家で、先述の旧山形県庁舎建設に際しては顧問として設計に関与している


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戦前の日本における最大の建築設計事務所であった曽禰中條建築事務所を、建築界の大先輩に当たる曽禰達蔵(1852~1937)と共に率いた人物。

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小規模だがしっかりしたデザインの洋館である。

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現在も現役の医院である。

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旧山形県庁舎と並ぶ、山形の大正建築の代表格。今後も健在であり続けることを願う。


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以上、本記事の写真は平成17年撮影であるが、平成26年3月に再訪した際の写真を追加する。

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現在も変わりなく、現役の医院として健在だった。

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背面からの姿。隣接して建っていたビルが撤去され、跡地は駐車場になっていたので側面及び背面からも見ることができた。

(平成26年3月25日 写真追加・記事本文修正)
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