第196回・旧三田商店

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金沢市で旧加賀藩時代からの老舗が多く残る尾張町の通りに面して建つ建物。洋品店・三田商店の店舗として昭和5年(1930)に建てられた。国登録有形文化財。

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大林組の施工による鉄筋コンクリート造2階建。

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玄関のあるコーナー部分に装飾を集中させている。

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外壁には茶色のスクラッチタイルを貼っている。

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現在は骨董品店「ギャラリー三田」

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玄関欄間のステンドグラス。旧三田商店はステンドグラスも取り扱っていたという。

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玄関脇にある砲弾状の石は、雪国らしく冬場に店に来た客が、下駄に詰まった雪を落とすために置かれたものらしい。

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裏手には喫茶店も入っている。

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喫茶店の玄関脇にはこのビルの別の場所にあったステンドグラスを移設している。

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喫茶店のある平屋部分は、近年増築か改修かを施された部分だと思うが、実によくできている。

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小品だが、金沢でも指折りの美しい近代建築だと思う。
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第195回・新井家住宅

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大阪府の南部、泉佐野市にある昭和7年(1932)竣工の和風邸宅。国登録有形文化財。弊ブログ第124回で取り上げた新井ビル(旧報徳銀行大阪支店)の所有者の自宅である。

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小高い丘の上に建っており、地形に合わせて延々と伸びている土塀。

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土蔵。

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門。上記の土塀、土蔵と合わせてこの門も登録文化財。

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正面玄関。新井家住宅は時々イベント会場として公開されている。

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唐破風付きの玄関は、来客専用の玄関。

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正面向かって右手に建つ居住棟。上記とは別に玄関が設けられており通常の出入りはここから。現在も新井家の住まいとして現役であり、ここは完全非公開。

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土蔵は居住棟に接して建てられている。

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居住棟側にかつて存在した応接間棟へつながる玄関の屋根。写真で見る通り洋風の造りで応接間棟は唯一の洋風の建物であったが、残念ながらこの玄関部分しか残っていない。玄関部分だけでも細かいモルタル装飾が施されており、見事である。

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大広間棟の外観。新井家は個人住宅には珍しく、屋根は全て本瓦葺きである。

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現所有者の先代が大阪・北浜で証券業を営み、得た富を注いで建てた屋敷である。

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大広間は畳敷きの縁側を巡らせている。

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当時は極めて高価だった筈の、大型の一枚硝子をふんだんに使っている。

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大広間。

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照明器具も戦前からのものと思われる。天井は格天井。

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大広間書院。

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仏間。

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仏間の棚。

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茶室。

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庭園も当初からの規模でそのまま保存されている。個人邸宅が80年近くこの状態で維持されてきたことは驚くべきことである。

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応接間の洋館が残っていれば申し分無いのだが、それだけが残念。

第194回・旧マッケレーブ邸(雑司ヶ谷宣教師館)

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明治25年(1892)から昭和16年(1941)まで51年に亘り布教活動を続けた米国人キリスト教宣教師マッケレーブの住居として明治40年(1907)に現在の東京都豊島区雑司ヶ谷に建てられた。東京都指定有形文化財。

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正面全景。当時の北米の郊外住宅のスタイルに近いデザインであるという。

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反対側には硝子戸を建てこんだサンルームが設けられている。

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ベイウィンドウ。外壁のすそが反りかえっているのは典型的なアメリカ風木造住宅の特徴。

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設計はこの家の主人であるマッケレーブ宣教師自身による。

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玄関。石段には大谷石が用いられている。

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1階居間の暖炉。複数ある暖炉の中でただ一つ装飾的なもの。

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建設当時輸入されていたアールヌーボーのタイルが貼られている。このタイルは同時期建設の他の洋館でも見られる。

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食堂。マッケレーブ宣教師は敷地内で畑を造り、トマトやトウモロコシなどの野菜を栽培して食べていたが生食のため腹を壊すことも多かったという。

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一階居間および食堂の天井。

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食堂の周りに巡らされたサンルーム。

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2階階段ホール。

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2階居室。

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2階の暖炉。1階居間を除き、暖炉はこのような簡素なもの。

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2階居室の天井。竹の竿縁を格子状に組んでいる。さりげなく和風が混じっている。

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マッケレーブ宣教師が実際にこの家で使用していたベッド。

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現在は豊島区の所有となり、「雑司が谷宣教師館」として公開されている。

第193回・ますや旅館

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長野県上田市の郊外にある田沢温泉で一際目立つ大きな木造三階建のますや旅館がある。ますや旅館はかつて島崎藤村が滞在したこともあり、その当時の客室も残る由緒ある、それでいて気取らない雰囲気の温泉旅館である。

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明治時代にますや旅館が描かれた銅版画。ここに描かれている旅館の建物のうち、手前の角に建つ木造3階建及び隣接の土蔵、向かいの土蔵の3棟は今もそのまま残っている。

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大正時代撮影の古写真。

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現在のますや旅館遠景。木造三階建の威容は遠くからでも非常に目立つ。

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建物は明治中期から昭和初期のものが現存する。

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木造三階建ての楼閣が三棟並ぶ。

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石畳の道路に面したこの部分が現存する最も古い建物。明治中期の築と伝わる。

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ここの2階にある、島崎藤村が滞在した座敷は「藤村の間」として現在も客室として使われている。

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土蔵も当初から残る建物である。

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客室・土蔵共に国の登録有形文化財に認定されている。

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向かい側に残る土蔵。これも登録文化財。妻壁の上部には枡の中に矢、つまり「ますや」。

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玄関。

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帳場。

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客室階段。

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大正時代建築部分の客室。

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反りのある屋根を持つ左手の建物が明治中期建設の最古の部分。右側は大正期建設。

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繊細な細工が施された客室欄間。

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天気のよい日には浅間山も望める最も眺望のよい客室、51番の書院窓。

第192回・旧田中徳兵衛邸

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埼玉県川口市、国道122号線沿いに茶褐色の煉瓦で外壁を装ったちょっと珍しい外観の洋館が建っている。江戸時代より当地で農業を営み、明治以降は麦味噌の醸造と材木を商って産を成した田中家の当主だった四代目田中徳兵衛(1875~1947)が大正12年(1923)に建設した邸宅である。現在は川口市によって「旧田中家住宅」として公開されている。

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戦前に描かれた田中家全体鳥瞰図。現在も残る邸宅の周囲に味噌醸造施設、道路を隔てた向かい側に材木置き場があり、邸宅は今も当時のまま残るが、味噌蔵はその後取り払われ日本庭園と茶室に変わっている。なお田中家は現在味噌醸造は行っていない(材木業は戦前に既に止めた)が、味噌卸売専門の㈱田中徳兵衛商店として現在も盛業中。

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木造と煉瓦造の混構造3階建て(蔵部分は4階建て)、向かって右手には厨房・使用人部屋のある附属棟がある。
田中家の住居であると同時に帳場を備えた事務所であり、賓客を迎える迎賓館としての機能も持っていた。

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事務所ビルにも見えるあまり住宅らしくない外観。左側が蔵。
設計は桜井忍夫。旧日本郵船小樽支店などで知られる建築家・佐立七次郎の下で長年実務を担っていた人物で、自らの事務所を開業した時期に田中邸を手掛けた。施工には田中家出入りの地元川口の職人が多く携わっていたことが棟札から判明している。

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外壁の煉瓦は焼き過ぎ煉瓦と呼ばれる焦げ茶色の煉瓦。当邸建設のため田中家が直営で焼いたものだという。
なお銅板張りの手摺に隠れているが屋根は日本瓦葺である。

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鋳鉄製の門と門扉、柵。

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洋館正面見上げ。アルミサッシの窓は後年入れたもので奥には当初からの木製上げ下げ窓が残る。つい近年まで田中家の住居として使われていたが非常に旧状をよく残している。「TANAKA」と刻まれた白大理石の板がはめこまれているが、洋館は事務所も兼ねていたので表札と言うよりは看板と言える。いずれにせよ珍しい造りの家である。

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その看板の真下にある玄関。四枚引きの硝子戸で、仕舞屋(普通の家)の玄関ではなく商家の玄関である。

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玄関を入ると畳敷きの上がり框がある。ここで洋から和に変わる。

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神棚を備えた帳場。洋館の玄関先とは思えない。

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帳場の奥にある茶の間。ここが田中家の普段の生活の場だったらしい。

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玄関左手に行くと帳場や茶の間とは全く趣が変わり純洋風の応接間が現れる。この部屋は右手奥に写っているとおりもう一つの玄関につながっている。

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重厚な格天井と、精緻な漆喰細工を施した照明台座とを組み合わせた応接間天井。

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応接間につながるもう一つの玄関。狭いが床から天井まで丁寧な造り。

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同上、ステンドグラスの小窓アップ。

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外から見た応接間専用玄関。田中家の家族用玄関と解説されていたが家族用にしては造りが立派過ぎると思った。
後年は実際そのような使い方をしていたのかも知れないが、当初は貴賓用の特別な玄関として造ったではないかと思う。

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専用の門もある。

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重厚な階段室。

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二階書斎。

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書斎には小さなバルコニーがある。

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書斎の隣は日本座敷。

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3階階段室。洋風の階段と伝統的な蔵の入口の取り合わせが妙。全体的に何とも不思議な和洋折衷で統一された館である。

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3階蔵前の斜め前にある洋室。隣の広間の控室として造られた部屋。応接間や書斎と異なり白を基調とした明るい感じの洋室。

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3階広間。創建当初はこの部屋からの眺望が自慢だったようだ。

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広間飾り柱の柱頭飾り。

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洋館裏手には昭和9年増築、一部二階建の日本家屋がある。この頃四代目田中徳兵衛は多額納税議員として貴族院議員に就任、来客も多くそのための増築と思われる。なお子息の五代目田中徳兵衛は戦後川口市長に選出され、一期務めている。

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一階座敷。隣の中の間、仏間と合わせて三間続きの大広間にもできる。

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二階座敷。次の間があるだけのこじんまりした座敷なので、来客を泊めたりするために使ったのではないかと思う。

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附属棟。二階部分はかつて使用人部屋だった。

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邸宅を公共施設として保存・活用することを望んでいた六代目田中徳兵衛氏(故人)の意向もあり、川口市が買い取り公開、現在に至る。なお、洋館・門・塀・文庫蔵は国登録有形文化財に選定されている。

第191回・旧石川県庁舎

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金沢城に隣接して建つ旧石川県庁舎は今年改修工事を終え「石川県政記念しいのき迎賓館」に模様替えした。大正13年(1924)竣工の鉄筋コンクリート(RC)造3階(一部4階)建。戦前の道府県庁舎の中では最も初期のRC造建築である。

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金沢城及び兼六園に隣接し、また弊ブログ第188回で取り上げた旧第四高等学校本館が隣に建っている。
「しいのき迎賓館」の名称の由来である、玄関前の一対のシイノキは推定樹齢400年、天然記念物に指定されている。

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玄関に飾られている落成式当日の模様を写した写真。
設計は大蔵省技師で当時帝国議会議事堂建設の取りまとめ役だった矢橋賢吉(1869~1927)が顧問を務め、内務省技師の笠原敏郎(1882~1969)が設計実務を担当した。

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平成15年に新庁舎が完成するまで約80年にわたる使用された。なお本来は「日」の字形の平面を持つ建物であったが今回の改修工事に際しては、正面を残してあとは解体撤去している。

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背面は正面とは一転し、ガラス張りの現代建築が増築されている。撤去した庁舎跡地には何も建てず、金沢城につながる芝生広場として整備されている。

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横から見ると保存部分と増築部分に分かれていることがよくわかる。旧県庁舎の保存には改修にかかる金銭面等の理由から反対意見もあったらしいが、知事の意向で現在の結果となった。特に旧庁舎保存に反対していた一人が石川県が選挙区である元首相・森喜朗氏らしい。この御仁に限らず、我が国の保守系政治家には歴史的建築の保存に関する見識が乏しい、或いは無い人物が多い気がする。歴史的建築や街並みの保存は保守主義を標榜する上で絶対不可欠であると思うのだが、現実はどうもそうではないようである。

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RC造の道府県庁舎1号は大正12年竣工の福井県庁舎(現存しない)である。石川県庁舎は福井に次ぎ2番目のRC造庁舎であるが陸屋根(フラット・ルーフ)の庁舎としては当庁舎が第1号である。

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側面から見た玄関ポーチ。

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玄関ポーチのレリーフ装飾。

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前年竣工の帝国ホテルで用いられ、昭和戦前にかけて大流行する褐色のスクラッチタイルを壁面に貼りめぐらせている。スクラッチタイルの使用例としては古い部類に入ると言える。

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装飾意匠は歴史様式に基づくものではなく、抽象化・幾何学化された意匠で統一されている。
昭和初期に流行するアールデコ意匠のはしりとも言われている。(藤森照信「アール・デコの館」)

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権威主義的傾向の強いこの時期の官公庁舎としては、重厚さは乏しくモダンな雰囲気を漂わせる玄関ポーチ。

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玄関。

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玄関ホールを過ぎると正面に現れる階段。

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階段を見上げる。柱や手摺に大理石を多用した仕上げ。

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ブロンズ製と思われる、階段室柱頭飾り。

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2階から3階へ上がる踊り場の高窓には幾何学意匠のステンドグラスが嵌めこまれている。

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同上、タイルと大理石を組み合わせた付柱。

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同上、飾りタイル。

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ステンドグラス。

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踊り場から3階へ上がる階段。

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正面3階の部屋。元の用途は不明。位置からして旧正庁か。
なお、この真下にある旧知事室及び副知事室はレストランになっている。

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同上、ステンドグラス。

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先述のレストランの他には会議室、イベントホールなどを持つ多目的施設となっている。

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タイル貼りの大正建築である旧県庁は、隣接する赤煉瓦の明治建築である旧四高と好一対を為している。

第190回・旧古河虎之助邸

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栃木県の足尾銅山で産を成した古河財閥の二代目・古河虎之助の自邸として東京西ヶ原に大正6年(1917)建設。
邸宅の設計は英国人建築家J・コンドルによる。東京都指定文化財。

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第二次大戦敗戦後の財閥解体と財産税課税により古河家から国に物納される。現在、庭園は「旧古河庭園」として東京都の管理のもとで公開されている。

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邸宅正面。外壁は石積みの煉瓦造2階建。

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車寄せ。

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玄関。

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古河家の家紋をあしらったステンドグラスが嵌めこまれた玄関扉。

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邸宅の建物は(財)大谷美術館が管理、事前予約制で見学も可能。また建物内での喫茶室を利用すれば邸宅の1階部分の一部は予約なしで見学出来る。

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サンルーム。

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サンルーム内部。外部窓から撮影。

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庭園から見た洋館。

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ベランダ。コンドル設計の邸宅はいずれもベランダを強調した外観が特徴だが、旧古河邸の場合は、珍しくベランダが外観の主要な構成要素となるほどの存在感はない。

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建設当初は古河家の本邸として使われたが、古河虎之助が牛込に転居した大正15年以降は専ら会社の迎賓館として使われた。また昭和14年には中国の政治家・汪兆銘の滞在先に充てられている。

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外観からは想像できないが、古河家の私的空間に充てられていた2階内部は殆ど和室である。したがって当邸は洋館のみで日本館はない。(庭園内の茶室は除く)

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洋館本館に隣接する附属棟。使用人部屋等がある。また附属棟と本館の間には蔵があるが、全て本館と同一意匠で統一されている。

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車庫。戦前の邸宅の車庫は珍しく貴重。

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井戸小屋まで本格的な洋風意匠で造られている。

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庭園の一角にある石造りの書庫。

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大名屋敷を思わせる和風の裏門。

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邸宅は洋館で統一されているが、庭園は和洋併置式。洋館周囲は洋式庭園だが、その隣には和式庭園がある。作庭は京都の無隣庵、野村碧雲荘等で知られる小川治兵衛。

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茶席が2つある。

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一般公開されている東京都内の大正期の邸宅の中では、質・規模共に最大かつ最高のものである。


(おまけ)
撮影時、丁度閉苑が近く洋館の鎧戸を閉めるところを見られた。

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第189回・旧浜松銀行協会(木下惠介記念館)

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昭和5年(1930)に浜松銀行協会集会所として建てられる。平成16年に浜松銀行協会が静岡県銀行協会
に統合された後は浜松市に譲渡、現在は浜松出身の映画監督・木下惠介(1912~1998)の記念館として活用・公開されている。国登録有形文化財を経て浜松市指定有形文化財。

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設計は浜松出身の建築家・中村與資平(1880~1963)。明治45年に朝鮮・京城(現韓国・ソウル)に竣工した朝鮮銀行本店(辰野金吾基本設計、現韓国銀行本店旧館)の実施設計及び工事監督を担当、成功に導いたことから朝鮮銀行の建築顧問に就くと同時に京城に建築事務所を開業して、朝鮮半島や満州に銀行等多くの建築を残した人物である。現在も韓国の徳寿宮美術館、中国の旧朝鮮銀行大連支店等が現存する。

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大正9年に失火により京城の事務所が全焼、それを機に欧米旅行を実施、そのとき訪れたスペインの建築がこの建物のデザインに反映されているという。同様の傾向はその後の豊橋市公会堂(昭和6)、静岡市役所(昭和9)にも見られ、両者共スペイン建築に由来すると思われるイスラム風意匠が見られる。

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欧米旅行より帰朝後は東京で設計活動を始める。以後昭和初期にかけて出身地である静岡県下に銀行、官公庁等を多く手掛ける。そのうち現在でも静岡県庁、静岡銀行本店、同浜松支店、先述の静岡市役所、そして今回取り上げた浜松銀行協会が現存する。

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玄関ポーチ。

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ソテツの植え込みが建物によく似合う。

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浜松は大戦末期の昭和20年に米軍の空襲で市街の大半を焼失したが、銀行協会は戦災を免れた。

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向かいには旧浜松警察署(昭和2)が現存する。一時は解体が決まりかけたが保存されることになり、現在改修工事中。

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工事が終われば昭和初期の建築が向かい合う景観が復活する。

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内部へ入る。写真は玄関内部と受付。

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玄関欄間に嵌めこまれた、この建物唯一のステンドグラス。

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昭和初期、1930年代の建築に多く見られるモダンな意匠のステンドグラスである。

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玄関扉の硝子はカット硝子を用いている。

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床には色鮮やかなモザイクタイルが敷き詰められている。来館者の履物による損傷を防ぐため、床の大半はゴムシート等で覆われている。

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色漆喰に引っかき傷を付けて仕上げた玄関内部の壁面。

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1階ホール。1階には旧手形交換室、旧球戯室、旧囲碁室等があり現在は木下惠介記念館の展示室となっている。

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2階階段。2階は通常は非公開だが特別に見学させて頂いた。
2階には講堂、会議室、喫煙室がある。

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講堂。かつては講演会や映写会も行われた部屋。現在は木下作品の上映会を行う際に使われている。本来の機能と現在の機能が見事に合致した活用方法と言える。

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会議室。1、2階共に当初からの家具が多く残る。これらの家具は地元企業のヤマハ(昭和5年当時は日本楽器製造)が制作している。内装・建具は松坂屋装工部による。(館内解説資料より)

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旧喫煙室。

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色漆喰に金を混ぜ、引っかき傷で市松模様を描いた喫煙室の内壁。

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喫煙室の窓は玄関ポーチの上部につながっている。

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第188回・旧第四高等学校本館(石川四高記念文化交流館)

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明治24年(1891)に現在の金沢大学の前身、第四高等学校(建設当初は第四高等中学校)の本館として建てられた。設計は文部省技師の山口半六と久留正道。国指定重要文化財。

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旧制高校のうちナンバースクールと呼ばれた第一(東京)、第二(仙台)、第三(京都)、第四(金沢)、第五(熊本)、第六(岡山)、第七(鹿児島)、第八(名古屋)のうち、本館が現存するのは第四、第五高等学校の二校である。

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金沢のほか、熊本の旧第五高等学校本館も国指定重要文化財。なお名古屋の第四高等学校は、旧正門が現在犬山市の明治村正門として使われており、こちらも国指定重要文化財。また京都の第三高等学校も一部の校舎が京都大学のキャンパスの一部として使われている。

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金沢城、兼六園、市役所、旧県庁に囲まれた金沢の中心街に建つ。

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平成20年より従前の「石川近代文学館」に「石川四高記念館」としての機能を加えた「石川四高記念文化交流館」と名を改めた。四高記念館部分は無料で見学できる。

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正門の横にある門衛所。旧四高の建物は正門・門衛所・本館が現存する。また本来の地から離れてしまったが、旧物理科学教室の主要部分と武道場が愛知県犬山市の明治村に移築・保存されている。

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フランス留学の経歴を持つ山口半六による穏やかな意匠の旧本館。

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山口は退官後大阪で設計事務所を開き、弊ブログでも取り上げた(第1回)兵庫県庁舎の設計を行い、その工事中に病没している。

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正面玄関の車寄。

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車寄を支える鋳鉄製の柱と装飾的な持ち送り金具。

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正面入り口。

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廊下。

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階段。内部も旧状をよく残している。

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旧四高本館は赤煉瓦の建築だが、細部に白・焦茶色の異なる2色の煉瓦を用いているのが特徴。

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異なる色の煉瓦を部分的に用いることにより、意匠上のアクセントになっている。

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腰壁部分は焦茶色の煉瓦を貼りつめている。

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明治の学校建築としては勿論、煉瓦建築としてもすばらしい建築のひとつである。

第187回・旧オルト邸

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長崎の観光名所のひとつ、グラバー園には旧グラバー邸をはじめとする幕末から明治期の外国人貿易商の邸宅が保存されている。そのうちの一つがこの旧オルト邸。元治元年(1864)の竣工と伝わる。設計施工は大浦天主堂も手掛けた棟梁・小山秀。国指定重要文化財。

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石造平屋建て日本瓦葺き、周囲にベランダを巡らせる典型的な初期洋風建築。

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噴泉を備えた正面玄関ポーチ。

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この屋敷を建てたのは、幕末に茶の輸出で利益を挙げた英国人商人ウィリアム・オルト。

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ただしオルト邸として使われた期間は短く、明治初頭にはオルトは日本を去っている。

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ベイウィンドウ。

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フランス窓(床まで開けられた窓)が並ぶベランダ。

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室内には古い家具や調度類が置かれ、往年の外国人貿易商の暮らしぶりを想像できるようになっている。

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第二次世界大戦までは外国人住居として使われていたので、家具類はその時のものかも知れない。

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見事な飾り棚を備えた暖炉。

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室内から見たベイウインドウ。

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硝子製の衝立。

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厨房等を備えた附属棟もそのまま残っている。また裏の崖には食品を冷蔵するための貯蔵庫も残っている。

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附属棟は煉瓦造。

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厨房の調理用ストーブ。

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同じく、もうひとつある調理用ストーブ。

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流し。

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旧グラバー邸等と並ぶ長崎の代表的な異人館である。

第186回・旧安保小児科医院

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鎌倉駅から歩いて数分程度の場所にある。大正13年(1924)頃に建てられた洋館建の小児科医院。
現在は鎌倉風致保存会の事務局が置かれ、一般公開もされている。

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安保小児科は安保隆彦氏により大正6年に鎌倉(ただし現在とは別の場所)で開業する。

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大正12年の関東大震災で医院が倒壊したため、翌年に現在の場所に医院を再建する。

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その後子息の隆文氏が引き継ぐ。その後、この建物は隆文氏が平成7年に逝去したことにより閉院するまで71年間、小児科医院として使われ続けた。

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鎌倉市の景観重要建築物に指定されている。

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創建当初からのものと思われる玄関燈。

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待合室。古い家具もよく残されている。

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待合室の天井。ここの照明も古いものがよく残されている。

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同上、照明台座。兔と人参。

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診察室。現役だったときの佇まいがそのまま残されている。机上には二代にわたる安保医師の写真が飾られている。

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診察室の照明。こちらの台座飾りは鶴。主たる利用者である子供を意識した装飾である。

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つい直前まで人がいたかのような雰囲気が漂っている。

第185回・旧内閣文庫本庁舎

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旧江戸幕府以来の古書・古文書を保管するため明治政府が設置した内閣文庫(旧太政官文庫、現在の国立公文書館の前身のひとつ)の本庁舎として明治44年(1911)に皇居大手門内に建てられた。

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昭和46年に国立公文書館が設置されてからは空き家となり同59年に解体、現在は愛知県犬山市の明治村に移築・公開されている。国登録有形文化財。

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旧内閣文庫本庁舎は2階建の事務棟とその裏に接続された3階建の書庫棟の2棟から構成されていた。保存されているのはそのうちの事務棟。堂々たる正面に対して両脇が短すぎる気がするが、移築に際し切り縮めた訳ではない。当初からこの規模であったようである。

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設計は大蔵省臨時建築部の大熊喜邦。のち帝国議会議事堂(国会議事堂)の建設を主導する人物で、弊ブログでは他に旧武藤山治邸、旧山口県庁等を以前取り上げたことがある。

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正面玄関周りを中心に古典様式でまとめられている。一方で2階の壁面は、当時新しい外装材であった白タイルで仕上げておりモダンな感覚も見せている。

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執務室には暖炉が設けられている。写真はそのうちのひとつ、上部の暖炉棚の部分は白大理石、それ以外の暖炉飾り部分は人造石で出来ている。

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こちらは木製。

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第184回・旧澁澤信雄邸

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近代日本における資本主義経済の立役者と言える実業家・澁澤榮一(1840~1931)の孫、澁澤信雄の自邸として昭和13年(1938)、東京・目黒の上大崎に建てられた。昭和60年に長野県の志賀高原に移築され現在に至る。

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設計は住友工作部(現・日建設計)に勤務、その後独立した佐藤秀三(1897~1978)。佐藤が興した佐藤工務所は現在㈱佐藤秀として続いている。戦前の作品では住友家那須別邸、戦後では三木武夫邸等の設計で知られる。

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澁澤信雄は新居を建てるにあたり、これ見よがしな豪華な邸宅は嫌がり英国の田舎家風の家を希望した。そんな折、昭和12年に竣工したばかりの住友家那須別邸を見る機会を得てすっかり気に入った澁澤は佐藤秀三に自邸の設計施工を依頼する。

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背面。

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住友家那須別邸の工事で余材として生じた良質のクリの木をふんだんに用いている。

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しかし、澁澤家の住まいとして使われた期間はごく短く昭和20年までの7年間だけであった。敗戦後間もなく米軍に接収、従軍カメラマンのカール・マイダンスの住居となる。接収解除後も澁澤信雄氏は昭和42年に没するまでこの家に戻ることは無かった。

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玄関。

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造りつけの下駄箱。

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玄関ホール。

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居間の暖炉。左右対称を崩し、日本座敷の床の間風に構成するのは佐藤秀三が得意とした手法。

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居間から見た庭。

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サンルーム。

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二階から見た階段室。一流の材料を用いつつ、規模も造りも仰々しくない親しみの持てる邸宅である。

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階段の途中、中二階に設けられた茶室の窓。三枚引きの障子が珍しい。

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二階の一室にある、斜め格子の嵌められた窓。

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同じく二階の一室、扉の小窓に嵌めこまれたステンドグラス。

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邸宅の内外に用いられる各種金物類は鋳物職人であった佐藤秀三の実弟・文雄が作った。写真が玄関照明。

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食堂食器棚の取っ手。

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暖房用ラジエーターのグリル。

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ドア取っ手。

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同じく、ドア取っ手。

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つい近年まで「志賀山文庫」の名称で公開されていたが現在は閉館している。今後どのようなかたちで再活用されるのかは分からない。建物の前途が幸運であることを祈るばかり。

第183回・旧小林一三邸「雅俗山荘」(旧逸翁美術館、現小林一三記念館)

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阪急電鉄、東宝の創業者で、宝塚歌劇の創始者でもある実業家・小林一三(1873~1957)の旧邸「雅俗山荘」。小林一三没後の昭和32年から平成20年までは彼のコレクションの古美術品を展示する「逸翁美術館」として使われていたが、美術館は近くに新築移転、平成22年より「小林一三記念館」として改めて公開されることになった。

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旧小林邸は大阪府池田市建石町、閑静な住宅街の一角にある。門は大阪府北部の能勢の旧家から移築されたもの。

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現在は小林一三の足跡と業績を紹介する記念館であると同時に、旧食堂や座敷部分はフランス料理店になっている。

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門をくぐると奥に雅俗山荘の洋館が見える。一見木造に見えるが鉄筋コンクリート造。古美術品を収蔵・陳列するため耐火を重視したと言われる。

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玄関脇の袖塀に穿たれたアーチ型の庭門をくぐると庭園に出られる。

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庭園から見た山荘。

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茶席「費隠」。昭和19年に京都から移築、近衛文麿の命名による伝わる。小林は第二次近衛内閣の商工大臣を務めた他、私的にも親交が深かったようである。

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敗戦後の昭和21年、雅俗山荘は米軍に接収される。そのため小林一三は隣接する南邸と呼ばれる子息の邸宅に引っ越すが、その際この茶席を南邸内に移築している。もとの場所に戻されたのは近年のことである。

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庭園側から見た雅俗山荘。手前に張り出しているのは茶席「即庵」。

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スタイルの基本は英国の木造住宅に多く見られるチューダー様式だが、和風色の強いものになっている。

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「即庵」。鉄筋コンクリート造の山荘本館に接続する形で建てられている。

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山荘を正面玄関から見上げる。クローバーのような形の壁面装飾が特徴的。
設計施工は竹中工務店(担当:小林三造)で昭和12年(1937)竣工。

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玄関を入って正面に現れるマントルピース。

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石造風の内装を持つ玄関から右手へ進むと玄関ホール。肖像画は小林一三氏。

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玄関ホールの照明器具。

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玄関ホールから客間へ進む。

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雅俗山荘の内部で最も見どころのひとつがこの客間。2層吹き抜けの空間がすばらしい。

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客間の暖炉。美術館時代は陳列ケースで隠されていたので、記念館となって初めて見ることができた。

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2階ギャラリーから客間を見下ろす。面白いのは、随所に床の間風の陳列スペースを設けていることである。またそれが洋室にさほど違和感なく造り込まれている。無論小林一三のコレクションである茶道具や古美術品を展示するためである。当初から美術館的要素を有する邸宅であったことが分かる。

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客間のシャンデリア。

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客間の隣は重厚な雰囲気の食堂と対照的に軽快な雰囲気のサンルームがある。(現在レストランとして使われている部分)さらにその奥には写真のような座敷がある。茶事の折は広間として用いられた。ここも現在はレストランの一部である。

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茶席「即庵」内部。周囲に平瓦を敷き詰めた土間を巡らせている。写真右端のとおり、ここに椅子を並べ椅子に腰かけた客に茶を点てることができる。小林一三のアイデアによるもので昭和の名席のひとつとされる茶室である。椅子式の茶席は今日では別段珍しくない気がするが、昭和の10年代では斬新だったのだろうか。

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美術館時代は完全非公開だった2階も公開されるようになった。写真は小林一三の書斎。書棚の蔵書も当時のもの。

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庭園に面した2階座敷。床がフローリングになっているのは当初からのオリジナルなのか、米軍接収中の改造なのか、またはそれ以後の改造なのか、不明。

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2階座敷の窓から見た庭園。

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同上。「費隠」の屋根が見える。山荘の敷地は高低差があり、「費隠」は低地にあるのでここから見ると遠くにあるように見える。

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2階の一室にある照明器具。

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婦人家事室と説明されていた部屋。奥に浴室があるので化粧室や洗面所として使うための部屋だろうか。

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浴室。完全に洋式。小林一三は茶人として知られるが日常生活は椅子・ベッドの洋式生活が基本だった。茶事における食事も座敷での懐石とは限らず、洋室である客間や食堂で洋食を供することもあったという。

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平成21年に雅俗山荘本館、門、塀、「費隠」「即庵」が国登録有形文化財となっている。

第182回・旧稲畑勝太郎邸「和楽園」(現「何有荘」)

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京都東山・南禅寺の元塔頭の一部であった場所を明治38年(1905)染色技師で実業家の稲畑勝太郎(1862~1949)が入手、大正年間にかけて邸宅の造営を行い「和楽園」と称した。稲畑勝太郎の没後、宝酒造の大宮庫吉(1886~1972)が入手、「何有荘」と名を改め洋館の内装等邸宅にも改修が施された。その後所有者を転々としつつも今も邸宅・庭園共に往時の姿を止めている。

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全景。東山山麓を一望できる眺望の良い場所にある。左から洋館、土蔵、日本館。

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邸宅洋館部。大正5年(1916)、京都高等工藝学校教授でのちに京都帝国大学教授も務める武田五一(1872~1938)の設計。

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煉瓦造地下一階、地上部木造二階建で屋根は日本瓦葺き。

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洋館サンルーム部分。当初は平屋だったという。

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ベイウインドウの採用等、基本は英国風の木造洋館の様式である。

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細部には社寺仏閣等、我が国の古建築に由来すると思われる装飾が見られる。

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洋館と日本館の繋ぎ目傍にあるステンドグラス。桜の図柄。当初からのものかどうかは不明。

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玄関は日本館に設けられている。

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日本館書院座敷と庭園。庭園は無鄰庵、野村碧雲荘等南禅寺界隈に現存する多くの名園を手掛けた小川治兵衛(1860~1933)の作庭による。

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庭園内には多数の茶席、待合、亭がある。

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園遊会の折に接待所として用いられた神泉亭。床の下は池の水が通るように造られている。

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神泉亭の土間に貼られていたタイル。

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庭園内には洞穴が穿たれている。

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洞穴入口。

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洞穴内部。

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以上の写真は平成16年秋の撮影。何有荘は近年所有をめぐり競売に掛けられたり、不法行為による逮捕者が出たりとゴタゴタが続いていたが、その少し前に当時の所有者によって一時期公開が行われていたものである。現在は米国人実業家の所有であるらしいが、公開はされていない。


(平成25年7月4日追記)
洋館部分が武田五一に縁の深い京都工芸繊維大学に寄贈され、移築されることになりました。
記事はこちら

ところで移築の記事を書くのに際し改めて旧稲畑邸について調べると、現在の米国人実業家に所有が移るまでの経緯が分かる資料を見つけましたので、併せてご参考までに。→こちら

不動産を歴史的な側面からも評価して、投資活動としての修復を行い商品として売り込む。
こういう企業がもっと増え、またやって行けるようになるといいんですけどね。

第181回・高島屋東京店(旧日本生命館)

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東京日本橋にある高島屋東京店は、昭和8年(1933)に建設。百貨店建築としては最初の国指定重要文化財。

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当初の名称は日本生命館。日本生命が建設、高島屋が入居するという形であった。昭和38年までは日本生命東京支店が同居していた。現在は高島屋に所有が移っている。なお、日本生命と高島屋は共に大阪を本拠とする。

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建設に際しては昭和5年に設計競技が行われ、高橋貞太郎(1892~1970)の案が当選・採用された。高橋貞太郎は宮内省技師を経て建築事務所を開業、戦前は旧前田侯爵邸、學士會舘、川奈ホテル、戦後は帝国ホテル(現在の建物)等の設計で知られる。

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設計競技の規定では建築意匠は「東洋趣味ヲ基調」とするものとなっており、骨格は西洋古典建築の様式に則りつつも細部意匠には随所に和風を意識したものが見られる。

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昭和8年の開店当時、全館冷暖房装置完備を売りにしていた。暖房装置は明治からあるが、冷房装置を備えた建物ができるのは昭和に入ってからである。

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当時日本橋界隈の百貨店は三越と白木屋の二件があり、共に江戸以来の歴史を誇る老舗であった。そこに大阪の高島屋が進出したわけである。現在三越と高島屋は当時の建物のままで盛業中だが、白木屋はのちに東急百貨店日本橋店となり平成11年には閉店、今はない。

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正面両端を丸く仕上げている。

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北側側面。現在は本館が一街区全体を占めており、隣接する街区にも別館が建っているが、昭和8年当初は一街区のうち三分の一だけの規模だった。竣工後間もなく増築に着手するが昭和12年に支那事変が勃発、鋼材等建築材料の統制が行われ、調達が困難になったことから地階のみ出来た段階で頓挫した。

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南側側面。増築工事が再開されたのは昭和26年。その後昭和40年まで14年かけて漸く全館が完成する。戦後の増築の設計は村野藤吾(1891~1984)による。なお増築部分を含めた全体が重要文化財に指定されている。なお、村野藤吾の百貨店建築は高島屋増築が最初ではない。昭和10年に大阪で十合(そごう)百貨店本店を設計している。モダンスタイルの傑作だったが、そごう破綻後経営再建をを図った西武の手により解体され今は無い。(もっともそごう大阪本店の経営再建は失敗、薄っぺらい新店舗は現在隣接する大丸本店の別館となっている。)

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北側よりも南側の方が、戦前建築部分と戦後建築部分の対比が際立つものになっている。戦後の増築部はガラスブロックの外壁などモダンスタイルで構成されているが最上階の3連アーチ窓等、当初部分との連続性も図ったデザインが為されている。

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現在、高島屋東京店で買い物客用に使われる手提げ紙袋は全面にこの建物のイラストをあしらったものである。

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百貨店等の商業建築は性格上内外装の改装が行われやすく竣工当初の形が保持される例は少ない。高島屋東京店は内外共に当初の形をよく残しており、重要文化財指定の大きな理由であると思われる。(ただし、現存する他の百貨店建築でも他に重要文化財に指定されてもおかしくない建築は大阪の大丸百貨店本店等、まだまだ存在する。)

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正面玄関内側。ショウウインドウを備えたアーケードがある。

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同上、天井。緩やかな曲線を描く。1階エレベーターホールの天井もこのような曲線を持つものである。

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歴史的建造物の店舗を現在も使い続けている百貨店は複数あるが、風格ある建物を保存し、かつ建物自体を店の宣伝に積極的に用いているのは高島屋と大丸である。しかし重要文化財指定まで受け入れたのは現在高島屋のみ。(我が国の文化財保護は強制性が極めて低いので、どんな文化財も所有者の意向次第でどうにでもできるのが実態である。)

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現在高島屋東京店も周囲の再開発(高層化)が計画されているが、本館の保存を前提としている点で折角の名建築を取り壊し薄っぺらなビルに建て替えた阪急やそごうとは雲泥の差がある。
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