第257回・明治神宮宝物殿

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明治天皇を祭神とする明治神宮の宝物殿として、明治天皇ゆかりの品を保管・展示するため、神宮創建の翌年・大正10年(1921)に建設された。奈良の正倉院に代表される寺社の倉庫によく用いられる校倉造の形を木ではなく石で表現した近代和風建築の傑作。

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門。

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門の列柱頂部。伝統的な寺社建築に見られる舟肘木も石で造られている。

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列柱頂部の鬼面飾り。

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門内部の天井。

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門をはじめ、随所に無色硝子を使ったステンドグラスが嵌めこまれている。

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宝物殿正面。
設計は大江新太郎(1876~1935)。日光東照宮の修復や明治神宮創建、神田明神再建の設計等、寺社建築に精通した建築家として知られる。昭和4年の第58回伊勢神宮式年遷宮に際しては主任技師を務めている。

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大江新太郎は寺社建築の他、邸宅建築でも優れた作品を設計している。和洋併置の川喜田久太夫邸(三重・津、大正2~4頃)、和洋折衷の岩崎小彌太邸(東京・鳥居坂、昭和5)、古民家を移築改造して洋風の地階を増築した長尾欣哉別邸(鎌倉、昭和9)がとりわけ知られている。

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岩崎邸は戦災で焼失し現存しないが、長尾別邸は近年鎌倉市に寄贈され、建物と庭園の利活用方針を模索中である。また川喜田邸は現在解体材の状態で保管されているが、再建が津市により検討されている。

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宝物殿本体は奈良時代に遡る校倉造を象った外観だが、全体の配置は平安時代の寝殿造を参考にしている。

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宝物殿の両脇に配された翼廊。こちらは城閣の石垣を思わせる。

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様々な伝統建築と洋風建築の要素を取り入れ一体化しているが、見事なまとまりを見せている。

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大正期の非常に優れた和風建築の一例と言える。

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法隆寺の列柱も、洋風建築の列柱も両方を連想させる。

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屋根は赤い塩焼き瓦で葺いている。

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翼廊から階段を登り、回廊を経て宝物殿に繋がっている。

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木造建築の造形を石とコンクリートで表現した近代和風建築は少なくないが、その中でもこれだけ見事なものはそう多くないと思う。

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回廊から門を望む。

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宝物殿の裏手。こちらの建物だけ銅板葺。

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回廊内部。

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回廊から翼廊へ降りる階段の手前には、イスラム風の装飾もある。

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平成23年4月、国指定重要文化財となることが決まった。
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第256回・近鉄宇治山田駅舎

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伊勢神宮の玄関口である近鉄宇治山田駅は昭和6年(1931)の竣工。

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近鉄の前身のひとつ、参宮急行電鉄宇治山田駅として建設される。

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設計は鉄道省出身の建築家・久野節(1882~1962)による。

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駅舎の端に設けられた高塔は、戦後一時期火の見櫓として使われ、伊勢市の消防本部が置かれた事もある。

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テラコッタを多用した外観。

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同一設計者による駅舎建築としては大阪難波の南海ビルディング(昭和7)等がある。

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テラコッタの多用という点では南海ビルディングとも共通する。

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入口。

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内部コンコース。

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建設当初の姿をよく残す。

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現在も天皇陛下を始め、総理大臣等要人の伊勢神宮参拝の乗り入れ口なので貴賓室も備えられている。

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国登録有形文化財である。

第255回・旧南葵文庫(旧徳川頼貞大磯別邸「ヴィラ・デル・ソル」)

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前回取り上げた野村塵外荘の主・野村徳七にも縁がある洋館が塵外荘の1キロ足らず東方に建っている。
明治32年(1899)、紀州徳川家十五代当主・徳川頼倫侯爵(1872~1925)が建設した私設図書館「南葵文庫」の本館として東京麻布に建てられた。その後様々な有為転変を経て、現在はレストラン及びホテルとして使われている。国登録有形文化財。

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南葵文庫はその後より蔵書を広く一般に公開するため、明治41年には新館を建設して規模を拡大するが、大正13年に閉鎖される。前年の関東大震災により蔵書一切が焼失した東京帝国大学図書館の復興のために、徳川頼倫が蔵書の全てを寄贈したためである。なお徳川頼倫は翌年大正14年に狭心症のため死去する。

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蔵書を寄贈した後の文庫の建物は、新館は震災による損傷がひどかったため取り壊された。旧館となっていたもとの本館は紀州徳川家の育英会組織の事務所としてしばらく使われたのち、昭和8年に頼倫の子で十六代当主・徳川頼貞(1892~1954)によって、別邸として使うため神奈川県大磯に移築される。

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昭和18年に紀州徳川家から野村塵外荘の主・二代野村徳七に譲渡、昭和50年代まで野村家の所有となる。
その後、老朽が進み取り壊しが検討されるがそれを惜しんだ熱海伊豆山の温泉旅館「蓬莱旅館」の女将が購入、旅館に繋がった現在地に移築してレストラン兼ホテルとなったのが昭和54年。以後現在に至る。

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現在の名称はホテル「ヴィラ・デル・ソル」、レストラン「南葵文庫」
「南葵文庫」は徳川頼倫が開設した私設図書館の名に由来、「ヴィラ・デル・ソル(「太陽の館」の意)」は徳川頼貞が大磯別邸となったこの洋館に付けた名称である。

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大磯時代も海を見渡す場所にあったそうだが、現在も絶好の位置に建っている。

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現在の洋館の外観は、昭和8年大磯移築時の姿を留めている。八角形に張り出したサンルームと玄関部分が創建当初とは最も異なる部分である。サンルームは別邸とするための新設、玄関は当初中央部分にあった。外壁の仕上げも大磯移築時に改められている。

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玄関扉。

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「ヴィラ・デル・ソル」の文字と兜の前飾りをあしらったステンドグラス。

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現在受付として使われている部分。

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1階洋室。南葵文庫開設当初は閲覧室、新館建設後は応接室として使われた。各部屋の内装は可能な限り明治期のインテリア復元を目指したという。家具類も英国から買い付けたアンティーク家具が置かれているが、古写真をもとに類似のものを集めたと思われる。

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上記部屋の暖炉。

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続き間になった、もうひとつの1階洋室。

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いずれの部屋からも出入り可能なサンルーム。

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1階廊下及び階段室。カマボコ状の曲線天井は昭和8年大磯移築時の改造。階段踊り場から、昭和54年熱海移築時新築の宿泊棟に繋がっている。

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階段室の天井は大きなステンドグラスが嵌めこまれている。昭和8年移築時の新設。

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2階旧会議室。この洋館で最も広い部屋。

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レストランを利用または宿泊する場合、食事は洋館2階で提供される。

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会議室の隣は庫主室(=館長室)。徳川頼倫の執務室である。暖炉上部の鏡に映る天井飾り。

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シャンデリアの中央をよく見ると葵の装飾が見られる。

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庫主室暖炉。

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海を見ながら食事。

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サンルームの上部はバルコニーになっており、出られる。

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海と松。

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二度目の移築から30年を経ていることもあるだろうが、最初からこの場所にあったかと思われるぐらい違和感なく溶け込んでいる。


※本文中の建物の来歴に関する記載は、レストラン南葵文庫の方より頂戴した冊子「南葵文庫 目学問・耳学問」(坪田茉莉子著)に基づいたものです。

第254回・野村塵外荘(旧野村徳七熱海別邸)

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野村塵外荘は、野村証券の創業者であり、一代で野村財閥を築いた証券王・二代目野村徳七の熱海別邸として建てられた白亜の南欧風洋館。熱海でも有数の戦前建築である。

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伊豆の海が一望できる位置に建つ野村塵外荘。

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熱海でも市街地の東端、海光町の断崖に面して建っている。

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山側からの遠景。周辺には旧山本五十六邸、旧岩波茂雄邸等著名人の別邸も残る。

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周囲の道路は、函館や長崎を思わせるような石畳の道になっている。

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この石畳は、戦後間もない占領下に敷き詰められたものだそうだ。

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野村塵外荘は現在、増築した新館と共に野村証券の迎賓・保養施設となっている。

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手前の建物が増築された新館で、旧野村邸に合わせた外観である。この増築工事を手掛けたのは旧野村財閥系の企業である野村建設工業㈱(当ブログで以前紹介した大阪の高麗橋野村ビル内に本社がある)だが、同社のホームページに野村塵外荘の全景写真が載っている。

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正面全景。
野村塵外荘は昭和14年(1939)の竣工。施工は竹中工務店。

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二代目野村徳七(1878~1945)は、両替商であった初代野村徳七の子として大阪に生まれ、野村證券や大阪野村銀行(現りそな銀行)から構成される金融財閥を形成、戦前の15大財閥のひとつとなった。また茶道や能楽を嗜み「得庵」の雅号でも知られる。現在彼の収集した茶道具等の美術品は、京都の野村美術館で公開されている。

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二代徳七は当時の実業家の例に漏れず、各地に大規模な邸宅を有していた。本邸「棲宜荘」は兵庫県武庫郡住吉村(現在の神戸市東灘区)にあった(二代徳七逝去後の昭和20年、空襲により焼失)。現存するものでは熱海別邸「塵外荘」のほか、京都別邸「碧雲荘」があり、これは国指定重要文化財となっている。

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塵外荘は城郭風の趣も有する外観の南欧風洋館である。地階付3階建で、1階がホール、大食堂等があり、2階は書斎・寝室等野村家の居住空間、3階は日本座敷で構成されている。

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二代野村徳七(野村得庵)は実業家としても名高いが、同時に趣味であった茶道と能楽に対しては、事業と同等の情熱を以て打ち込んだ人物としても知られる。塵外荘にも茶室と思われる和風建築が敷地内に建っていることが、上記野村建設工業の全景写真より分かる。

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3つの邸宅をみると、「棲宜荘」は煉瓦タイル貼りの外壁に六層の尖塔を持つ城郭風洋館と茶席を持つ和風建築の並立、「碧雲荘」は外観は純然たる数寄屋建築だが北欧民家風の洋室を内包、そして「塵外荘」は純洋風の外観に和風座敷を内包、といった具合に、二代徳七は伝統文化に堪能であると同時に、濃厚な西洋趣味を一方で絶えず持ち続けていたと思われる。

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野村塵外荘は鉄筋コンクリート造だが、壁面をよく見ると型枠の跡が分かる。コンクリートの壁面に白ペンキ塗装を施しただけの、案外簡素な外壁仕上げである。

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変化に富み、実に風情ある天然スレート葺きの屋根。

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西側からの眺め。崖下には現在有料道路の熱海ビーチラインが通っている。歩行者の立ち入りは厳禁だが、塵外荘の西側手前に自動販売機を備えた休憩スペースがあり、ここに車を停めれば塵外荘の西面外観を鑑賞できる。

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南面3階の窓は横長になっており、日本座敷になっていることが窓の形で推察できる。

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二代徳七が自伝を執筆した場所とされる塵外荘は、敗戦後米軍に接収される。写真は当ブログで以前紹介した旧琵琶湖ホテル(現びわ湖大津館)に展示されている、昭和24年(1949)頃に米軍が作成した占領軍専用宿舎マップ。ここには接収され、占領軍専用施設となった建物のひとつとして塵外荘が載っている。

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「NOMURA HOUSE」と記載された洋館は、明らかに西側からみた塵外荘の姿である。他には現在も盛業中の富士屋ホテルや川奈ホテル等が描かれているが、個人邸は野村塵外荘のみだった。

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南面には半円形のベイウインドウ、及び円形の亭(あづまや)をもつ展望台を備えていることが分かる。

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文化財等の指定・登録はされていないが、京都の「碧雲荘」と同様、文化財として保全が望まれる美しい洋館である。

(平成26年8月25日追記)
写真の配列と本文を一部修正致しました。

第253回・高谷家住宅

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風見鶏の館は神戸だけではなく大阪にもある。
大正13年(1924)頃建設の国登録有形文化財・高谷家住宅。大阪市内の数少ない高級住宅地である住吉区帝塚山に建つ。

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鉄骨造で壁体はコンクリートブロック積みという特殊な構造。関東大震災直後の建設であり、耐震耐火を重視した現れと考えられている。また当初の建て主は、鉄骨を扱う商社に勤める人物であったことも影響しているらしい。

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設計者は不詳だが、内外共に建築の質は極めて高いという。

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大正後期の小~中規模邸宅によくみられるコテージ・スタイルの住宅である。急勾配の屋根と簡素な外観が特徴。大阪府下でも他に数例現存し、葛原家住宅(富田林市、大正13年、国登録有形文化財)等がある。

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正面。なんとなく人の顔に見える。

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銅板で出来た風見鶏。風が吹くと廻る。

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屋根窓アップ。わかりにくいが、よくみるとバラのステンドグラスがある。ステンドグラスは他にも随所に使われているらしい。

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門。

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蔵。乾の方角(北西)に配置されている。
伝統的な配置。

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これが、大阪の風見鶏の館。

第252回・岩崎家玉川廟

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岩崎家玉川廟は前回取り上げた静嘉堂文庫の敷地内にある岩崎家の納骨堂。明治43年(1910)に三菱財閥四代目総帥の岩崎小彌太が父で二代目総帥・彌之助の三回忌に合わせて建設したものである。

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静嘉堂文庫の真向かいにある参道入り口。静嘉堂文庫美術館の庭園に続く形で敷地内への立ち入りは許されている。

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少し歩くと視界が開け、岩崎家玉川廟が目の前に現れる。

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正面全景。設計は英国人建築家ジョサイア・コンドル(1852~1920)

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コンドルは明治から大正初期にかけ岩崎家の本邸・別邸の多くを設計している。そのうち現在でも高輪の開東閣(岩崎彌之助・小彌太のもと高輪別邸、のち三菱財閥の迎賓館となり現在に至る。但し戦災を受け内部は造り替えられている)、湯島の茅町本邸(三代目総帥岩崎久彌の本邸)は現存する。

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ブロンズ製の正面入り口扉。図柄は「二十四孝」

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前に置かれたブロンズ製狛犬と鼎。

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不思議な取り合わせ。納骨堂を囲っているのは神社に見られるような石の玉垣。

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煉瓦造大理石張りの納骨堂。

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正面に入口があるほかは、四面とも同じ形をしている。

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明かり採りの窓がある。内部は大理石のモザイクで華麗に飾られているという。

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静嘉堂文庫と同じく、東京都選定歴史的建造物。

第251回・静嘉堂文庫

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東京・世田谷の二子玉川に、静嘉堂文庫美術館がある。三菱財閥第四代総帥の岩崎小弥太(1879~1945)が建設した私設図書館「静嘉堂文庫」に由来する。現在は私設図書館であると同時に、岩崎家旧蔵の古美術コレクションも公開する公益財団法人静嘉堂文庫美術館となって現在に至る。

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正門。この界隈は現在は宅地化されているが、かつては田園地帯であると同時に政治家や財界人の別邸が点在する場所であった。

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門をくぐって森の中の坂道をしばらく歩く。岩崎小弥太は、父親で三菱財閥第二代総帥の岩崎弥之助(1851~1908)の墓所を建設するため山一つを丸ごと買い取った。その後、弥之助の墓所に隣接して静嘉堂文庫を建てる。
父子二代に亘る日本・東洋の古典籍のコレクションを収蔵・閲覧するためである。

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森を抜けた先に静嘉堂文庫の建物が見えてくる。

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静嘉堂文庫の全景。大正13年(1924)建設の鉄筋コンクリート造2階建。東京都選定歴史的建造物。

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英国の田園住宅(カントリーハウス)風の外観が特徴的な洋館。設計は桜井小太郎(1870~1953)。三菱銀行本支店や丸ビル等、大正期を中心に三菱・岩崎家関係の建築を多く手掛けた。

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桜井小太郎は英国人建築家コンドルの直弟子であり、ロンドンに留学し日本人初の英国公認建築士の資格を取得した。建築作品、特に邸宅は上品で渋いものが多い。

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現存するものとしては海軍在籍時に手掛けた広島・呉の旧鎮守府長官官舎(明治38、国指定重要文化財)、鎌倉の古我家住宅(大正5)等がある。

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通用口のある側面。

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裏。左下は背後の書庫に繋がる渡り廊下。

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この洋館部分は古典籍の閲覧室として建てられた。現在も専門の研究者を対象に収蔵の古典籍を公開している。その中には国宝や重要文化財も含まれている。したがって一般人の立ち入りはできない。

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半円アーチの奥が正面玄関。玄関の構えは裏口かと思うほどつつましい。

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外壁に貼られているのは、この時期の建築に多く見られる茶色のスクラッチタイル。

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いかにも英国風と感じさせる佇まいの煙突とベイウインドウ。

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通用口。

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背後に建つ収蔵庫。

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昭和5年(1930)に建てられた古美術品収蔵のための収蔵庫。設計者等詳細は不詳。反りのある屋根など中国風の色合いが濃い。この建物のすぐ左には新しい建物があり、現在美術館の展示室としての機能はこちらに集約されている。

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テラス風の場所も設けられており、収蔵庫以外の機能もあったのではないかと思われる。

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設計者の桜井小太郎は晩年、この館へ通い古典籍を読むのを楽しみとしていたらしい。

第250回・千歳楼

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千歳楼(せんざいろう)は、岐阜県の養老公園内に建つ料理旅館である。創業は宝暦14年(1764)、現在の建物は明治初期から昭和初期にかけて順次増改築が施されたものである。弁柄の赤い壁が特徴的。

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玄関。最も古い部分。

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客室へ至る長い廊下。

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数寄屋造の見事な廊下天井。

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水車の廃材を用いたと思われる、洒落た明り採り窓。

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昭和初期に建てられた、竹の間。床柱は竹、障子の腰壁も細い竹を並べたもの。写真に写っていないが天井は竹網代張り。

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竹の間の床脇には、中国風の装飾が施された扉を嵌めた地袋がある。

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写真はこの1枚だけだが、松の間(の欄間)。大正天皇がお泊りになったとき御座所として建てた座敷を昭和に入ってから現在の場所に移築したもの。名前のとおり松材をふんだんに使う。右端に一部写る障子欄間の細工は松葉をあしらったもの。欄間は松の幹を縦に薄く切ったものか。

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袖の間。千歳楼の主人と親交があり、長期滞在することもあった日本画家の竹内栖鳳(1864~1942)がデザインしたと言われる部屋。

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床の間。

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次の間との境の襖と欄間。この欄間も竹内栖鳳がデザイン。

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襖の取っ手。鶴の形。

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どことなく大正期の洋館を思わせる袖の間天井。竹内栖鳳は洋行の経験もあるので、洋風建築のデザインを意識した可能性はある。

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袖の間縁側。どの部屋も見晴らしはすばらしい。天気のいいときは名古屋の駅ビルも見える。

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客室だけでなく、洗面所や手洗い、湯殿も凝った造りである。

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湯殿横の洗面所。

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手洗い入口。

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手洗い内部。

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洋風手洗い。地元岐阜県は大理石の産地のせいか、手洗いや洗面所、湯殿には大理石を多用している。

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洗面所のステンドグラス。

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小鳥の図柄。

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ステンドグラスは湯殿にも嵌められている。

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湯殿天井の明かりもステンドグラス。アールデコ風なので昭和初期か。

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腰壁や床の大理石も昔のまま。浴槽もかつては大理石で出来ていたが、ヒビが入ってしまったので取り替えたらしい。写真は湯殿の隅にあった正体不明の小さな出入口。大正天皇始め貴賓の宿泊も多い宿なので、緊急時の避難口かとも考えてしまう。実際のところは不明。

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大広間としても使われる一階座敷。明治期建築の部分。

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二階大広間。著名人の揮毫になる扁額が随所にある。

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千歳楼に泊まった著名人は大正天皇、竹内栖鳳の他、数知れない。以下一部を挙げると、(皇族)秩父宮・高松宮、(華族)徳川義親侯爵、(作家)谷崎潤一郎・佐藤春夫、(画家)伊東深水・東郷青児・岡本太郎・・・・・
そのような宿だが、敷居の高さなどは微塵も感じない。むしろ親しみやすい感じがある。
こういう宿は、いつまでも続いて欲しい。

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庭先に建つ茶室。残念ながら今は使われていないようだった。

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袖の間部分の外観。高床式になっているのが分かる。

第249回・高碕記念館(旧諏訪邸、旧高碕達之助邸)

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前回に引き続き、ヴォーリズ設計の建築。
宝塚市雲雀丘にある高碕記念館は大正12年(1923)に医学博士だった諏訪榮一氏の住居として建てられた米国風洋館。宝塚市の都市景観形成建築物にも指定されている。

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高碕記念館は以前紹介した正司家住宅とは、目と鼻の距離である。

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昭和4年に二代目の居住者となったのが高碕達之助(1885~1964)。
水産技師から実業家になり、東洋製罐社長、満州重工業開発総裁、電源開発総裁等を務め、また戦後は政治家として活躍、通産大臣や経企庁長官も務めた人物である。岐阜県の荘川桜の移植でも知られる。

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現在は高碕達之助が設立した東洋食品研究所が所有。「高碕記念館」として管理、事前申し込みをすれば水~金曜に庭園部分まで立ち入り可能のようである。

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ヴォーリズの設計した住宅はこの雲雀丘にいくつかあったが、現存するのはここのみ。

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北側からの全景。

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この家の外観を特徴づけているマンサードルーフ。

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雲雀丘一帯は大阪平野を一望できる位置にある。

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近年修復が施されたこともあり、90年近く前の建物とは思えないほど綺麗に保全されている。

第248回・旧紐育ナショナルシティ銀行神戸支店(旧神戸居留地38番館)

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昭和4年(1929)、神戸旧居留地38番地に紐育(ニューヨーク)ナショナルシティ銀行(ナショナルシティ銀行、ナショナルシチー銀行と表記する場合もある)神戸支店として建設。

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現在は大丸百貨店神戸店の一部として使われている。

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現在の名称は旧居留地時代の区割りに基づいている。なお現在も住所表記は「神戸市中央区明石町38番」で、居留地時代の区割りは現在も生きている。

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設計は米国人宣教師で建築家のW・M・ヴォーリズ。山手の北野町には同一設計者による社宅も現存する。また現存しないが大阪支店の設計も手掛けている。(大阪支店社宅は兵庫県西宮市夙川に現存)

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紐育ナショナルシティ銀行は香港上海銀行等と並び戦前から日本で営業していた外資系銀行のひとつ。

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昭和16年には日米関係悪化に伴い、同年の大東亜戦争(太平洋戦争)開戦直前に一時閉鎖するが戦後間もなく再開、現地法人化(現在のシティバンク)して現在に至る。

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神戸支店の建物は、大丸の所有となってから倉庫として目立たない使われ方をしていた時期もあったが、現在は大丸神戸店を代表する存在となっている。

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神戸旧居留地は電線が地中に埋設されており、このような近代建築も実に引き立つ。ここを見れば、地中化されていない電柱は都市景観の観点から言えばいかに目障りな存在であることがよく分かる。

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隣接する近代建築2棟は正面外壁のみ保存されている。旧紐育ナショナルシティ銀行と同じく現在は大丸神戸店の一部である。

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二棟とも、大正~昭和初期の建築と思われる。

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神戸旧居留地内でも、海岸通と並び戦前の街並みの面影を偲ぶことができる一角である。

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