第268回・旧日本赤十字社埼玉県支部社屋

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埼玉県比企郡嵐山(らんざん)町に、かつての日本赤十字社埼玉県支部社屋が保存されている。明治38年(1905)竣工。昭和58年に旧所在地の浦和市(現さいたま市)から移築されて現在に至る。埼玉県指定有形文化財。

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現在地へ移築されてからは、近年まで嵐山町立鎌形小学校の講堂や音楽教室として使われていたが、町の人口減により鎌形小学校は閉校、現在は小学校の施設を引き継いだ町立嵐山幼稚園が使用している。

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当時の公共建築としては一般的な左右対称の構成で、割合簡素な外観だが、要所要所に装飾を施しており単調にはならず適度に変化を持たせた外観は優れたものである。

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赤瓦葺きの屋根に水色の壁面、建具の白と外観の色彩も明るく軽快なものである。

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中央及び両翼の赤十字が外観のアクセントになっている。

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公共建築でこのような軽快なデザインのは同時期の建物でいくつか見られる。現存するものでは大阪の浜寺公園駅舎(明治40年)、兵庫県赤穂市の旧塩務局庁舎(明治41)等がある。いずれも軽快なデザインと色彩が特徴的な木造洋館という点では共通している。

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浦和に建っていた頃は埼玉県庁に隣接していた。移築前はこの本館の他、赤煉瓦の倉庫や六角形の便殿(貴賓用の化粧室)等が附属建物として建っていたが、旧便殿は現存している。嵐山町と同じ比企郡内、小川町の小川赤十字病院の敷地内に移築、「日向亭」と名付けられ囲碁室等に使われている。

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戦前に建てられた日本赤十字社の社屋で現存するものは非常に少ない。旧埼玉支部はおそらく規模・質共に最も優れたものと思われる。なお、規模は縮小されているものの旧長野支部も現存、日赤の資料館として公開されている。竣工は明治32年(1899)で埼玉より古く、これが現存最古のようでである。

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側面外壁。軒から垂れ下がる球形の飾りはほぼ全面にわたって取り付けられている。

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平日、幼稚園の開園時間内であれば内部見学も可能のようである。天井や窓枠に装飾が施されている旧支部長室が最も見どころのようである。

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基礎は煉瓦積み。半円形の換気孔には凝った金物飾りがある。

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背面。平面はコの字型。

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背面内側はコロニアル建築によくある吹き放ちの廊下。南国でもないのに何故廊下を吹き曝しにしたのかは謎。

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廊下部分だけ軒飾りは球形ではなく、ドーナツ形。廊下を支える柱の形も面白い。

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周囲に雨除けのテント付き通路が巡らせてあるのは、小学校の校舎であった時期の名残と思われる。無論今も幼稚園の施設として現役のようである。

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背面も正面とは違った趣がある。

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玄関ホールは廊下と同様、殆ど屋外と同じ。

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この玄関扉を開くと上の空間に繋がる。

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このすぐれた建物を設計したのは当時埼玉県技師であった牧彦七(1873~1950)とされていたが、牧は内務省土木試験所長、東京帝国大学教授を務め、道路舗装技術の先駆者として名高い土木技術者だが建築家ではない。立場上監督者の位置にあったものと思われる。

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実際に設計を行ったのは、明治から大正にかけ司法省で監獄や裁判所を多く手掛けた山下啓次郎(1868~1931)のようである。旧奈良監獄(現奈良少年刑務所)や旧名古屋控訴院(現名古屋市市政資料館)等が現存する。司法省の技師がなぜ日赤支部の設計を行ったかはよく分からない。

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ジャズピアニストの山下洋輔は、山下啓次郎の孫。
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第267回・旧E・H・ハンター邸

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神戸在住の英国人実業家エドワード・ハズレット・ハンター(1843~1917)の住居の洋館部分として神戸市街を一望出来る北野町の高台に明治40年(1907)頃建てられた。昭和38年に兵庫県によって灘区の王子動物園内に移築される。国指定重要文化財。

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旧所在地は異人館街として知られる場所だが、その中でもとりわけ規模の大きな邸宅であった。また他の異人館と大きく異なる点は、当時の日本人富裕層の邸宅によくある日本家屋と洋館で構成される邸宅であった事である。
ハンターは日本人女性と結婚、大正6年にこの邸宅で没するまで約半世紀を日本で過ごした。その間に大阪鉄工所(現在の日立造船)など多くの事業を手掛けている。

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洋館は新築ではなく、北野町の西、トアロードを登った突き当たりにあったドイツ人所有の洋館(明治23年頃の建設と推測)を買収、移築改造したものである。菱形の凝った意匠が特徴的な硝子建具はこの時入れられたもので、前所有者のときは無かったようである。

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同じ頃北野町から移築された異人館で、兵庫県庁近くの相楽園(旧小寺邸)内に移築された旧ハッサム邸もハンター邸と同様特徴ある意匠の硝子建具を備えていたが、移築に際し創建当初の形に戻すということで撤去されてしまった。ハンター邸はそのまま残されている。この両者の違いは一体何が分かれ目だったのだろうかと思う。

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正面向かって左側(西側)に三層の塔屋があり、その下が洋館部の玄関になっている。

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移築前はこの左に日本館が繋がっていた。

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玄関ホールにある大理石製のニッチ。見学者の脱いだ靴を入れておく下駄箱が左手に写っている。ニッチ内に建てられた飲食禁止の札と共に雰囲気ぶち壊し。こういう無神経な行為は公的機関が所有・管理している場合に多いような気がする。

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玄関と廊下を仕切るドアには模様の入った摺りガラスが入っている。

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廊下。

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一階、客間から食堂を望む。

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一階客間の暖炉。

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一階食堂から客間を望む。

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食堂の暖炉。

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二階階段への入口。

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階段手摺。

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階段室に設けられた飾り窓。ステンドグラスではなく絵付けを施した摺りガラスと思われる。

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輸入品のようである。

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二階の暖炉はシンプルで石の色調も地味。

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この館で最も特徴的なベランダ兼サンルーム。移築前はここから神戸市街が一望でき、神戸港も見渡すことが出来た。

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床のタイルが色鮮やかな二階浴室。

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背面。壁面はモルタル塗りで全面硝子戸の正面とは全く違う表情を見せる。

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扉の配置から、かつては裏手に附属棟があったものと思われる。

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上部をバルコニーにした小さなベイウインドウがある。

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通常は内部非公開だが、4・8・10月だけ内部も公開されている。

第266回・旧岸本吉左衛門邸

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前回の旧加賀正太郎邸に引き続き、船場商人の邸宅。
江戸時代後期から鉄を商っていた岸本家の五代目、岸本商店主人岸本吉左衛門の邸宅として船場の一角に昭和6年(1931)に建てられた洋館。国登録有形文化財。

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全景。船場の真ん中東側、瓦町一丁目に旧岸本邸は建っている。東横掘川に正面を向ける。構造は鉄筋コンクリート造・、防火シャッターを完備した耐震耐火建築で、大小の立方体を組み合わせたモダンな外観。

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船場とは、現在の大阪市中央区(旧東区・南区)のうち東西南北を川・堀で囲われた区画で古くからの大阪の中心街、商業の中心地である。4つの川・堀は現在、南の長堀川と西の西横掘川は埋め立てられて現存しない。旧岸本邸の横を流れる東横掘川は堀自体は残るが阪神高速の高架下となり、単なる汚れた水を湛えた区画に過ぎず、往時の面影はない。土佐堀川だけが変わっていない。

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壁面を重厚な石積み風にしているものの、邸宅にしては地味な外観と言う他無く、事務所ビルのようにも見える。
しかし内部は英国風の重厚華麗なインテリアで、ステンドグラスや装飾豊かな暖炉があるという。
現在は岸本家に関係する法人が事務所として管理・使用しており、内部は完全非公開。

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西側(裏側)から望む。裏側には庭園と蔵があり、鉄柵付きの高い塀で囲われている。
真ん中、屋上に飛び出しているのは暖炉の煙突。煙突には避雷針が取り付けられている。

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同上、拡大。ベイウインドウがあることが分かる。欧州では英国で特に好まれるようである。この家も英国風を基調としているのでベイウインドウを設けている。

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岸本吉左衛門はこの時代の富豪の例に漏れず美術品のコレクターであった。特に西洋美術を愛好し、欧州へ渡った際はパリの画廊で自らマネやルノワールの絵を買い求めている。昭和6年当時のこの界隈は木造の伝統的な商家や土蔵が殆どであったことを考えると、耐火性を重視しているのは美術品保護を念頭に置いていた可能性が高い。
竣工の14年後、この構造が幸いするようになる。

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左手に張り出した部分が玄関。右手の棕櫚の木の陰になっているのが通用口と思われる。

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豪商の住まいとは思えない控え目な玄関。
元々京都・大阪では富裕な家でも街中では外見は地味に見せて、玄関の奥に通ると、立派な座敷や坪庭を設ける伝統がある。岸本邸も洋風建築ではあるが、家の建て方は伝統的な船場の豪商のやり方に基づいていると言える。

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逆に言えば、こういう美意識を有する土地では、中身に釣り合わず外見ばかりが立派という見かけ倒しは最も忌避されるところであった筈である。

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旧岸本邸は近年改修されている。平成16年に同じ場所(通用口)を撮影した改修前の写真。石畳や壁面の黒ずんだ部分がきれいになっていることが分かる。黒ずんだ部分は大阪大空襲の痕跡かも知れない。船場は北浜、高麗橋等北部を除いて悉く焼失している。瓦町も同様であったはずなので、耐火建築であったことから焼け残ったのであろう。なお、通用口横の照明器具も改修でクラシックなものに替えられていることが分かる。

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壁面に貼られた石材は同じ船場の北西、土佐堀川に面して現在も建っている旧住友本店ビル(第一期工事大正15年、第二期工事昭和5年完成)に使われているものと同じ。
設計は住友本店ビルを設計した住友の営繕組織・住友工作部(現在の日建設計)に在籍の建築家・笹川慎一による。

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通用口の上部はゴシック風の尖頭アーチを描く。

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同上、細部を拡大。全体はモダンスタイルの造形だが、細部はゴシック風の装飾が施されている。

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事務所として使用されている現在も、洋画など貴重な調度類が多く保存されているらしい。
そのためかいつもシャッターは厳重に閉じられている。

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雑然とした街中に残る宝箱のような館である。

第265回・旧加賀正太郎邸(大山崎山荘)

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京都府と大阪府の境、京都府大山崎町にあるアサヒビール大山崎山荘美術館は、かつては大阪の実業家加賀正太郎(1888~1954)の邸宅「大山崎山荘」であった。大正初年に加賀は週末の休養のための山荘として造営を始めるが、その後大増築を行い加賀家の本邸となっていた。その後加賀家の手を離れ、昭和末期には解体の危機に瀕したが、アサヒビールと京都府によって美術館に改装の上保全されることとなり、主要な建築と庭園の大部分は今もそのまま残されている。

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山道を登ると現れる石の門柱を過ぎてすぐ左手に現れるトンネル「琅玕洞(ろうかんどう)」。
加賀家は江戸時代までは両替商で、明治以降は大阪高麗橋で証券の仲買業等を営んでいた。その加賀家の長男として生まれ、家業の証券業の他現在のニッカウヰスキーの創業にも深く関与するなど実業界で幅広く活躍した人物である。なお加賀証券は現在の三菱UFJ証券の前身のひとつである。

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大山崎山荘では最も新しく昭和11年(1936)竣工の「生々居」。ここは現在も加賀正太郎の親族が住まわれている。
加賀正太郎は趣味人としても知られる。とりわけ登山、ゴルフ、洋蘭栽培に熱中した。また船場の旦那衆のひとりとして大阪財界の社交クラブ・大阪倶楽部の運営には多大な貢献をしている。中でも昭和20年3月の大阪大空襲直後、会館が海軍に徴用されたときは高麗橋の旧宅を臨時の会館として提供している。

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生々居を過ぎて、坂道を引き続き歩くと現れるかつての車庫兼運転手控室。一階はガレージ、二階は運転手控室。
大山崎山荘の建物はアサヒビールの所有だが、旧車庫のみ京都府所有。

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この外観からは想像もつかないが、二階の運転手控室は畳敷きの和室である。

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車庫を過ぎて坂道を引き続き登ると「流水門」がある。かつては左手の池から水が常に溢れ、この門を横切って流れていたことからこの名がある。

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流水門をくぐると正面に現れる山荘本館「霽景楼(せいけいろう)」。現在の形が出来上がったのは昭和7年(1932)頃と推測されている。

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霽景楼の前に建つ山小屋風の茶席「橡之木茶屋」。外観・内装共に和洋折衷。

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霽景楼の完成と同じく、昭和初年の建設と考えられている。通常非公開だが、美術館の茶会等催しの際公開されることもあるという。

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橡之木茶屋の脇に庭門があり、そこから斜面に造られた庭園に出られる。

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庭園側から見た橡之木茶屋。石積みの基壇の上に建ち、南面東面に窓を開けて、庭園を一望できる亭のような造りである。

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名前の由来と思われる橡の木が正面に立っている。

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本館「霽景楼」の手前にある切妻屋根を張り出した部分が、大正4年の山荘造営当初からある部分。

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大山崎山荘からは隣の宝積寺三重塔(国宝)が見える。山荘の造営を始めて間もない大正4年には、京都滞在中だった夏目漱石が加賀正太郎の招きでこの地を訪れ、宝積寺も訪ねている。

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大山崎山荘は現在の美術館となる前、古谷一行主演のテレビドラマ「金田一耕助の傑作推理 死神の矢」(平成元年放映)のロケ地となった。劇中では大山崎山荘が物語の舞台になっている。確かこの屋根裏部屋が殺人事件の舞台になっていた。現在もレンタルビデオで見られると思うので興味のある方は御覧頂きたい。

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加賀正太郎は大山崎山荘の建物、庭園等すべて自らの設計と豪語している。
実際は建築構造等、素人には無理な分野もあり実務は専門の技師がやっていた筈だが、加賀本人の構想をほぼそのまま形にしたものである事は間違いないと思う。
ところで内部は撮影禁止の為、残念ながら室内の写真は無い。

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霽景楼とその北側にあった洋蘭栽培のための大温室(現在は写真の通路部分以外は現存しない。美術館になる前に撤去されていたようである)の間には池がある。また霽景楼の池に面した部分はテラスになっている。

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温室と渡り廊下を兼ねていた部分。屋根も硝子で出来ている。その先にあったかつての温室跡はずっと空地だったが、現在美術館の新展示棟の建設工事が進められている。

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和風庭園もある。写真の庭門の向こう側にある池に配された飛び石の先には持仏堂兼茶室「彩月庵」があるが非公開。橡之木茶屋同様茶会の時などに公開されることがあるだけ。普段は樹木に隠れ外観も見えない。

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山荘を一望できる位置に建つ展望塔「栖霞楼」。大正4年竣工。加賀正太郎はこの塔の上部に籠り敷地を一望しながら構想を練り、図面を引いて、工事の指揮を執ったという。また簡素な外観は大山崎山荘造営当初の姿を偲ばせる建物である。

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現在は霽景楼の玄関となっている大正4年竣工部分。当初の外観は栖霞楼と同様簡素な造りの洋館だったと思われる。右手の屋根裏部屋が当初の寝室であったという。

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加賀正太郎が描かせた山荘からの眺望図。中央に赤い屋根の山荘が描かれているが、まさにこの玄関部分と思われる。

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玄関は当初の規模のままなので、全体に対して非常に小さくつつましい。

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北側テラスから池を望む。大山崎山荘の内部は外観から受ける印象を裏切らない、非常に濃厚なインテリアである。中でもかつての食堂と思われる部屋は、暖炉の上部には古代中国の画像石が嵌めこまれている他、魚網を塗り込めた壁面、暖炉棚や天井廻りの持ち送り装飾には大山崎特産の筍をさりげなくあしらっていたり見どころが多い。

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霽景楼の二階南側は広大なテラスになっている。テラスから室内側を望む。上部の窓は屋根裏部屋。この家は屋根裏部屋がいくつもあるが、来客宿泊用の部屋と思われる。先述金田一耕助の劇中においても屋根裏部屋で殺されたのは、屋敷の主人に招かれて泊まっていた人物だったと思う。

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テラスの天井は太い木の梁を豪快に走らせ、日本の古民家風。

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このテラスからは木津川、宇治川、桂川の三川が合流して淀川となるさまが一望出来る場所である。先述の眺望図と同じ景色が見られる。(テラスの一角に眺望図のパネルが展示してある)山荘内でも加賀正太郎御自慢の場所であったこのテラスにテーブルを並べ宴を催した事もあるらしい。住宅がびっしり建った点を除けば、今も基本的な景色は変わっていないと思われる。ところで右下の飾り石だが、橡之木茶屋の脇に面白いものが転がっているのを発見した。

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テラスの飾り石と同じ装飾が施されている。出来損ないか、それとも試作品か。

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南側の芝生広場から見た霽景楼。
この赤い大屋根は京都と大阪を結ぶ東海道本線、新幹線、京阪電車、阪急電車のいずれからも遠望することが出来る。

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帰りは再び琅玕洞をくぐる。
琅玕洞、旧車庫、霽景楼(本館)、橡之木茶屋、栖霞楼、彩月庵は国の登録有形文化財になっている。

第264回・旧久松定謨別邸(萬翆荘)

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愛媛県、いや四国を代表する大正の洋館と言えば間違い無く松山市の萬翆荘であろう。
大正11年(1922)旧伊予松山藩主・久松伯爵家の別邸として松山城の麓に建てられた。愛媛県指定有形文化財。

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正門を入ってすぐ左手にある門衛所。小規模だが本格的な洋風建築である。S字状にくねった道を登ると左手に土蔵風の倉庫が見え、その反対側に目当ての洋館は緑の中に佇んでいる。

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萬翆荘を建てたのは久松定謨(さだこと)伯爵(1867~1943)。陸軍軍人でフランス滞在が長く、仏公使館駐在武官も務めた人物である。大正9年に予備役となり現役を退いた後、故郷松山にフランス風洋風建築の別邸を建てる。

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設計は木子七郎(1884~1955)。岳父は松山出身の実業家・新田長次郎であることから大正初期より松山で建築設計をいくつか手掛けていた関係で久松伯爵の別邸の設計を行うことになった可能性もある。萬翆荘竣工の7年後には目と鼻の先にある愛媛県庁舎も設計している。

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正統派の西欧古典建築であるが、構造は当時はまだ珍しかった鉄筋コンクリート造を採用、外壁にはこれもまた当時目新しい外装材であった白色タイルを貼りモダンさも持ち合わせている。

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右手側面より望む。外観は左右対称を崩し、正面右手には尖塔を持つ。

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木子七郎の設計作品は住宅、官庁、事務所、文化施設等多岐にわたるがデザインの幅は広い。
住宅(現存するものに限る)を例に取っても、純和風の新田長次郎別邸(温山荘、大正4)、スペイン風とアールデコの新田利國邸(昭和3)、そして萬翆荘と珠玉の名作揃いと言ってよい。なお木子家は代々京都御所出入りの棟梁の家系である。

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背面。中央一階から二階にわたる大きな窓は、冒頭に掲げたステンドグラスのある階段室の窓である。

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左手側面にある通用口。

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通用口の扉の窓には洒落たアールヌーボー風の飾り格子がある。

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正面玄関ポーチ。

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玄関ホール。現在は愛媛県立美術館分館となっている他、各種の催事等のために貸室も行っている。

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玄関ホールの大理石石柱。桜御影とも呼ばれる、岡山県産の万成石で出来ている。

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一階は玄関ホール及び大ステンドグラスのある階段室を中心に左右に分けられ、右手は広間が二室、南側は白を基調としたフランス風の部屋で、北側は重厚な板張りの部屋になっている。生憎訪れた時一階は催事の最中で、御覧頂けるような写真があまりない。写真は南側広間入口欄間のステンドグラス。なお玄関ホール左手は事務室等バックヤードスペースである。

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二階は久松伯爵の居住、及び来客の宿泊のための小部屋で構成されている。どの部屋も見事な暖炉が設けられている。(無論、一階広間の暖炉が最も凝った造りである)現在は美術館分館としての展示場所に充てられている。

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暖炉は殆どがガスストーブが嵌め込まれた形のものだった。

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比較的小ぶりな部屋にもキチンと立派な暖炉が設けられていた。

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二階の主な部屋にはベランダが設けられていた。松山市街の眺望を楽しむ為か、それとも住居なので夏場過ごしやすくするための配慮か。

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一階の二つある広間には、どちらからでも出入り可能なバルコニーが設けられていた。

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二階正面向かって左端の小部屋。萬翆荘は竣工直後に当時摂政であった昭和天皇が宿泊、この小部屋では朝食を摂られた。萬翆荘は久松伯爵の別邸であるが、同時に皇族等の貴賓をお迎えする迎賓館としての使用も主目的であったと思われる。事実萬翆荘はその後松山の迎賓館であり、社交場でもあった。

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純フランス風の佇まいの他に、萬翆荘を特徴づけるのが、大正期の洋館らしく館内の随所に設けられたステンドグラス。写真は二階ベランダへ出る扉。

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以上、二階。

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一階広間。

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一階、南北各広間からバルコニーへ至る出入口の欄間。非常口の表示が雰囲気ぶち壊しで邪魔である。
大方、消防法の規定で設置せざるを得ないのだろうが、こんな所に設ける必然性があるのかどうか、非常に疑わしいと思うのだが。

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最後は階段室の大ステンドグラス。波間に浮かぶ南蛮船。

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海鳥。
萬翆荘のステンドグラスは、日本におけるステンドグラス制作の草分けの一人・木内真太郎によるものであることが近年行われた県の調査で判明した。

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久松定謨伯爵は郷土愛の強さで知られ、明治維新以降国の所有となっていた松山城を私財を投じて買い取り維持費を添えて松山市に寄贈した人物である。その城の下に久松伯爵が別邸として建てた洋館は、今や松山城に劣らぬ、松山の誇るべき文化遺産となっている。

第263回・旧古田土雅堂邸

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明治後期から大正中期にかけて米国で活躍した日本画家の古田土雅堂(こだと がどう 1880~1954)が、栃木県宇都宮市の郊外に大正13年(1924)に建てた住居。平成11年に解体後、古田土雅堂の生まれ故郷である栃木県茂木町に移築され現在は「道の駅もてぎ」内で公開されている。茂木町指定有形文化財。

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古田土雅堂(本名・貞治)は明治39年に米国へ渡る。ノリタケカンパニーの前身のひとつである森村ブラザースに入社、「ノリタケ」の洋食器のデザインや、科学者・実業家の高峰譲吉のニューヨーク別邸「松楓殿」(この建物は現在も米国に現存する)の室内装飾を行っている。米国で産を成すも、子供に日本の教育を受けさせるため帰国を決意する。

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その矢先に大正12年の関東大震災があり、米国では「日本では震災の被害のため住宅の新築もままならない」との噂が流れたため、古田土雅堂は通信販売の組立住宅のキットを購入し、船便で日本に輸送して自邸を建てることを思いつく。館内には当時のカタログのコピーが展示されていた。旧古田土邸と全く同じ形の住宅が載っている。

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古田土邸は大正13年の暮れに完成する。米国直輸入の住宅が建ったことは地元では大きなニュースになり、地元の新聞(大正13年12月2日付「下野新聞」)にも報じられることとなった。以下、建物の解説はこの記事からいくつか引用しながら進めてみたい。

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「…白い壁とレモン色の屋根とで調和をとつた新らしい純洋式の住宅が見える後に男体の雪の姿を背負つて廣い野の中へポッチリとコッジテー風へクラシック味を加味した様な如何にも瀟洒たる建物である…」
この記事から大正期とは思えない配色も当初のオリジナルであることが分かる。なお、「コッジテー風」とはコッテージ(コテージ)の誤りと思われる。よく分からないまま聞き書きで記事を書いた様が想像されて面白い。

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「…古田土氏が米國からの帰朝土産として持つて來て建てた者で梁から板も窓のハリ戸まで全部米國物で出來てゐる宇都宮には珍しいものである。設計もあちらですつかり組立てるばかりに出來て來たものであるから洋館としては實に遺憾ない。」

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側面。装飾的要素は玄関ポーチを除き、全くと言ってよいほど無い。洋館であっても日本の家は軒を深く張り出すが、軒が全く出ていないのも米国直輸入であることをよく物語っている。

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裏口。

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ポーチのある側から見た側面。

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この館で唯一装飾的な玄関ポーチ。

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「玄関のポーチは米國式にポーチを楽しむ為に幾分廣くとつている」

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玄関扉を開けるとすぐ階段のあるホールがある。

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続き間になった隣の食堂。

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内部も外観と同様、至って簡素。壁に掛かる絵は古田土雅堂氏が描き、実際この家に飾られていたもの。

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台所。造りつけの食器棚があり、右手窓の横に裏口への扉がある。

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台所から地下へ降りる階段がある。

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地下室。壁面は一部煉瓦積だが大半は大谷石を積み上げている。大谷石は栃木県の特産なので基礎の石材のみ地元で調達したのであろう。

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この家は設備も総て米国直輸入である。石炭を焚いてボイラーで湯を沸かし、スチーム暖房を暖を取る方式である。昭和19年頃、即ち戦争末期には石炭が入手困難になり、代用の薪では火力が弱いため使えなくなってしまったという。

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各室には暖房用のラジエーターが据え付けられていた。

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二階にある浴室。

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無論欧米式に便所と洗面所も兼ねている。この家の見どころは地階のボイラー他、当初の設備がよく残っていることである。

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二階は家族の居室や古田土氏の画室にあてられていた。

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旧古田土邸の横は真岡鐵道の線路が通っている。土日は蒸気機関車が走る。

第262回・神戸税関

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神戸港に堂々たる威容を誇る神戸税関庁舎。昭和2年(1927)に竣工、以来80年以上現役の庁舎として使われている。その間平成10年(1998)には大規模な増改築を受けたが、主要部分は内外共に旧状をよく残している。

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設計は大蔵省営繕課。曲線を描く正面玄関やその上に載る円筒形の塔屋は、同じ大蔵省営繕課設計で東京桜田門にあった先代警視庁庁舎(昭和4)を連想させる。

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明治初期に建てられた旧庁舎が大正11年に失火焼失したため大正末期より工事が始まり、昭和改元後間もなく竣工した。

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巨大な船舶を思わせる現在の庁舎全景。平成7年の阪神大震災では旧館は被害軽微であったが戦後増築の別館は損傷が激しく、震災前より計画されていた改築計画が進む。結果、旧館は大部分を保存改修して別館は全て撤去、別館跡地には高層の新庁舎を建てて旧館と接続、その際低層部は旧館と同一意匠で統一され現在の姿になった。

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余談だが某大手新聞はこの庁舎の改築工事を伝える記事の中で、震災によって「昭和初期の近代洋風建築のほとんどが倒壊」などと大嘘を書いていた。昭和11年築の阪急三宮駅等、震災で姿を消した建物がいくつかあったのは事実だが、この時期の建物で今も健在なものは多い。(神戸駅、神港ビル等)古い=脆い式の根拠の無い勝手な思い込みで出鱈目な記事を書いたのであろう。

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玄関の重厚な石積みの3連アーチが特徴的な正面。官庁建築も昭和に入ると内外共に意匠の単純化が進むが、この建物は大正期の設計なので外観内部共に変化に富んだ意匠を有する。

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正面アーチの上部には右書きで「神戸税関」の文字が刻まれている。

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アーチをくぐるとすぐに階段があり、登った先にある木製の硝子戸を押すと、見事な円筒形の吹き抜けを持つ玄関ホールに出る。

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玄関ホールの柱と腰壁は大理石、床はモザイクタイルで模様を描く。

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吹き抜けは3層分の高さがある。これだけ立派な吹き抜けのホールを有する官公庁舎は現存するものでは大阪府庁舎(大正15年)ぐらいだと思う。関東大震災後間も無い神戸港は日本第一の港であり、その重要性の高さがこれだけ立派な庁舎の建設に結びついたのだろうと思われる。

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2階へ上がる螺旋階段。

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二階には吹き抜けに面する形で貴賓室も設けられており、凝った意匠の暖炉等見どころの多い部屋があるそうだが
こちらは通常非公開。

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玄関は山側(北側)の角に設けられているが、海側(南側)の角にもアーチ型の出入口がある。

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海側からみた庁舎。3連アーチから左側が平成の改築による新館部分。

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山側、新館部分。旧館の意匠を見事に再現し、旧館と全く違和感なく繋いでいる。

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山側も旧館と新館の繋ぎ目は3連アーチの出入口を設けている。この3連アーチも平成の新築。

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旧館外壁。

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新館外壁。

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旧館玄関見上げ。

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新館玄関見上げ。

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旧館の石積みアーチ。

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新館の石積みアーチ。

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新館の玄関内部も天井や梁に装飾が施され、外観に相応しいものとなっている。
歴史的意匠を持つ建築を残しつつ増改築を施す場合、ガラス張り等の現代建築の手法で済ませるか、もしくは中途半端な「レトロ調」程度に終わるもの殆どだと思うが、歴史的意匠を忠実に踏襲して質の高い増改築を実現した極めて数少ない事例と思う。

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現代でもこれだけ立派なものが出来るのである。この建物だけが特殊な例外などということはない筈である。

第261回・旧根津嘉一郎熱海別邸(起雲閣)

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前回に引き続き起雲閣。今回取り上げるのは、二代目の主・根津嘉一郎によって昭和7年(1932)に建てられた洋館。

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庭園から望む洋館全景。木造平屋建で山荘風の外観。設計は離れと同じく清水組の大友弘、施工も同じ清水組。

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洋館と日本館。

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洋館は白木を露出した外壁や緩やかな勾配の屋根で、日本館や庭園とも違和感なく調和している。

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古写真。右手の入口が客室棟と接続されたことで撤去されたことを除けば殆ど変わっていない。
根津別邸時代、右側石造アーチの内側には古い石仏が配されていた他、建物の内外にわたって根津嘉一郎の収集した古美術品で彩られていた。なお根津嘉一郎は昭和戦前における屈指の古美術収集家の一人である。

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東京青山にある旧本邸は、現在根津美術館になっている。本人の遺志により没後間も無い昭和16年に開設された。本邸の建物は戦災で焼失し現存しないが、いくつかの茶室および庭園は当時のまま残っている。本邸は熱海別邸と同じく清水組設計施工の英国風木造洋館だった。熱海別邸のサンルームは、本邸にもあったものを熱海にも同じように造ったらしい。

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サンルームの屋根は硝子屋根になっている。

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街路に面した洋館裏側。

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自然石と煉瓦を配した煙突。

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中へ入る。
内田信也が建てた日本家屋とを結ぶ、太鼓橋のような造りの渡り廊下。この先が洋館になっている。

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渡り廊下を洋館側から望む。天井は船底天井になっている。

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渡り廊下古写真。

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英国風チューダーゴシック様式の居間。但し暖炉脇に立てた床柱風の太い古材(古い寺社の廃材とも、難波船の帆柱とも伝わるが実態は不明のようだ)、暖炉上部に嵌めこまれた石仏等、本来のチューダーゴシック様式からは大きく逸脱している。設計者ではなく施主である根津嘉一郎の意向が働いたものと思われる。

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古写真。当初の照明は釣り行燈風の形をしている。現在のもののほうが違和感なく部屋の雰囲気に合っていると思う。

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石仏は旅館時代に取り外され、近年まで取り外しの跡も生々しい穴のままだったが、熱海市による修復の際に複製が嵌めこまれて面目を取り戻した。ところで暖炉の両脇にある腰掛風の部分は上げ蓋になっており、暖炉にくべる薪を収納できるようになっている。

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離れと同様、こちらの暖炉内部にもおどろおどろしい古代中国風紋様が刻み込まれている。また暖炉上部の火除けの金物の中央には梵語が刻まれている。

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暖炉脇のステンドグラス。濃い雰囲気の部屋に相応しい華やかなもの。最初の写真はこのステンドグラスのアップ。

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床柱風古材の左手は廊下への出入口があり、暖炉は部屋の中央ではなく片側に寄せられている。この部屋は、様式は英国風だが日本座敷の床の間風の構成を取っていることが分かる。即ち古材が床柱、暖炉と暖炉上部の石仏が床の間の掛軸と置物、ステンドグラスは書院窓、といったところか。

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居間の南面と西面は窓を大きく取り、庭園がよく見渡せるようになっている。自ら泥まみれになってまで造った庭園を、自らの趣味嗜好を存分に反映させた部屋からよく見えるように造るのは、当然の成り行きだったのだろうと思う。

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居間は食堂とサンルームにそれぞれ繋がっている。
なおこの部屋の柱や梁は主に栗や胡桃が使われているという。長斧で荒々しく仕上げられたこれらの材木は東京深川の木場で下拵えをしたあと、熱海まで船で運んだと言われる。

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居間と続き間になった食堂に入ると雰囲気は一変する。和風とも洋風とも中国風ともつかぬ摩訶不思議な部屋。

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食堂から居間を望む。壁の内側に収まっているが二つの部屋は本来板戸で仕切られている。

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食堂からサンルームを望む。こちらも本来は硝子戸で仕切られている。下記の古写真参照。

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食堂天井。日本の御殿建築に見られる折上格天井。それにしても濃厚なインテリアである。

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古写真。シャンデリア以外は全く変わっていないことが分かる。居間及びサンルームとの仕切り建具が写っている。

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サンルーム。これまた派手な部屋。硝子屋根からの日光が、一面ステンドグラスを張りつめた天井から燦燦と注ぐ。

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床には色鮮やかなモザイクタイルが敷き詰められている。

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食堂との仕切り部分の欄間。薄く切った貝殻と色硝子を組み合わせた特殊なステンドグラス。

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サンルーム天井。全面ステンドグラス。
根津嘉一郎は平素継ぎの当たった服を着、外出先でも鱈や鰊の煮付けや漬物しか食べない、といったような具合に日常生活は極めて質素だったようである。したがってこれらの洋館で日常を過ごすことは殆ど無かったものと思われる。当人にとってはこのような庭や家を造ること自体が楽しみであり、出来てしまえば興味は無く、用途は専ら来客の接待用だったのではなかろうか。

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控え目な佇まいからは信じられない、和漢洋折衷で構成される各種建築様式のワンダーランドがこの別邸の内側に隠されている。なお旧内田・根津別邸は現在、熱海市指定有形文化財となっている。

第260回・旧内田信也・根津嘉一郎熱海別邸(起雲閣)

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現在熱海市が所有・公開している起雲閣は、平成11年までは熱海屈指の高級旅館「起雲閣」だった。
倒産後紆余曲折を経て熱海市が買収、文化施設として公開・利用されて現在に至る。元は第一次大戦の海運王・内田信也と東武鉄道を中心に数々の鉄道会社の経営を手掛けた鉄道王・初代根津嘉一郎が二代にかけて造り上げた別邸であった。旅館となった後もそれぞれの建物は当初の形をよく残している。2回に分けてそれらの建築群を取り上げたいと思う。

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正門。表通りから少し引いて斜めに建てられており、風情ある構えを見せる。

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正門から玄関までのアプローチ。

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起雲閣には古写真が多く展示されている。以下古写真があるところは古写真と現状を並べながら紹介して行きたい。最初は根津別邸時代の玄関。当時は平屋建で、玄関まわりは旅館時代に大分改造されていることが分かる。

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この地に別邸を最初に造営したのは海運王で後年政治家にもなった内田信也(1880~1971)。第一次大戦で船成金として巨万の富を得た大正5~8年(1916~19)頃、母親の静養のため熱海に木造平屋建、土蔵付和風建築の別邸を建てた。ただし竣工から間もない大正末年には根津嘉一郎へこの別邸を譲渡、別の場所に新たな熱海別邸を建てている。写真は上棟式の模様。玄関脇にあたる場所には石造二階建の土蔵が建っている。

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土蔵は当初の位置にそのまま残っている。

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一階座敷。内田信也が建てた和風部分は根津別邸時代は左程手を加えなかったようである。大幅に手が加えられるのは三代目の主で起雲閣創業者、実業家で政治家の桜井兵五郎(1880~1951)の所有になってからである。石川県出身の桜井が経営する起雲閣は、加賀風に色鮮やかな群青や朱色に座敷の壁を塗った。桜井は昭和22年に旧内田・根津別邸を本館、自らの別荘を別館として旅館「起雲閣」を開業する。

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現在は離れとなっている座敷。当初は母屋と繋がっており、上記座敷と雁行状に配置されていた。旅館時代に曳家で移動したものである。作家の舟橋聖一(1904~1976)が愛用、執筆部屋によく用いたという。

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二階座敷。古写真に二階は無いので、根津または桜井による増築と思われる。
昭和23年に太宰治は愛人の山崎富栄と起雲閣別館に滞在し、最晩年の代表作「人間失格」を執筆している。その間本館にも宿泊(一泊或いは二泊)しており、そのとき利用したのがこの部屋と伝わっている。その後間もなく二人は玉川上水で入水自殺を遂げたのは周知のとおりである。なお起雲閣別館は昭和末年に取り壊され現存しない。

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一階座敷から庭園を望む。旅館開業以前に建てられた日本座敷は以上3室であり、派手な内壁も旅館時代の改装である事を考えると、内田別邸時代は小規模で地味な構えの別邸であった事が分かる。この小さな別荘建築に派手な洋館と大規模な庭園を加えて一変させたのが二代目の主・初代根津嘉一郎(1860~1940)である。

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昭和初期は地元では「根津庭園」と称された広大な庭園。根津嘉一郎自らが庭師の中に混じり造り上げた。現在は昭和末期~平成初期建築の客室棟が取り囲む形になり若干狭まっているが、主要部は根津庭園時代の姿をよく残す。かつては茶席もいくつかあったが、旅館時代に全て取り壊され現存しない。
左手、黄土色の瓦葺の建物は根津が母屋に接続して増築した洋館、客室棟二棟の間に微かに黄土色の屋根を見せるのが離れとして建てられた洋館。

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建設年代は離れの方が先であり、昭和4年(1929)築。施工は清水組(現清水建設)。設計を担当したのは同社社員の大友弘。住宅建築を多く手掛けており、弊ブログで以前取り上げた新津恒吉邸(新潟市、昭和13年)等が現存する。

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この離れは温泉を引いた洋風の浴室を備えていた。旅館時代の改築で向きが45度変えられているが、かつては南側を向いており、海を望むこともできたと思われる。

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離れ及び浴室古写真。右手が浴室。玄関は左側の奥にある。

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玄関側から見た離れ全景古写真。現在左側が客室棟に取り込まれたかたちになっている。

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玄関内部。現在は右半分が客室棟への廊下入口となっているが、かつては全面硝子戸が建てこまれていた。

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玄関から居間への入口。天井は和風の造り。

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内部は続き間になった居間とサンルームで構成される。写真は暖炉を備えた居間部分。
近年熱海市によって修復工事が行われ、板張りに変えられていた床をタイル張りに戻す等の工事が行われた。

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古写真。照明器具も修復の際この写真と同じ形に戻された。

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浴室。タイルや浴槽等は改変されているが基本的な構成は変わらない。ステンドグラスは創建当初からのもの。

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浴室古写真。

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居間の暖炉。両側にステンドグラスの入った小窓を配する。

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暖炉焚口部分。古代中国の銅器にありそうな模様が刻みこまれている。

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中国風意匠を施された暖炉脇小窓のステンドグラス。1枚目に掲げたもの。

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居間からサンルームを望む。

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居間とサンルームの間の袖壁に嵌めこまれたステンドグラス。濃厚な色調の暖炉脇小窓に比べると淡い色調。

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サンルーム。

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サンルームの天井。中央部はステンドグラスを嵌めた硝子天井になっている。これも修復の際復原されたもののようだ。

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床のタイル。サンルームは創建当初からのタイルがそのまま残っている。

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暖炉周りの濃厚な造形を除けば穏やかな意匠の離れ。この建物から3年後の昭和7年に根津嘉一郎は母屋に接続する形で新たに物凄く派手なインテリアの洋館を建てることになる。

次回へつづく。

第259回・旧田中光顕小田原別邸(小田原文学館・白秋童謡館)

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土佐出身の維新の元勲で、警視総監・会計検査院長・宮内大臣等を務めた田中光顕伯爵(1843~1939)が小田原に建てた別邸。大正14年建設の日本館と昭和12年建設の洋館から構成される。いずれも国登録有形文化財。

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洋館遠景。日本館・洋館は同じ敷地内にあるだけで門も玄関も別々に作られており、渡り廊下等で連結されてもいないので一見すると別々の家かと思う。

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洋館の脇に建つ附属家。元々は使用人の住まいや厨房等が入っていたものと思われる。また背後にはボイラー用と思しき大きな煙突が建っている。

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スペイン風外観が特徴の洋館玄関。設計は曽禰中條建築事務所。同じ設計事務所が手掛けたスペイン風洋館としては東京の旧小笠原長幹伯爵邸(昭和2年)が知られるが、旧田中伯爵邸は旧小笠原伯爵邸に比べると装飾要素は玄関周りに集約され、全体的にはモダンスタイルに近い。

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モザイクタイルで彩られた飾り壺。壺からこぼれる葡萄と思われる装飾は現在、苔がこびりついてグロテスクな姿になってしまっている。

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スペイン風建築には欠かせない装飾を施した鉄格子。

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玄関以外は、装飾は殆ど見られない。鉄筋コンクリート二階(一部三階)建て。

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玄関上部の庇。

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緩やかなドーム状になった玄関の天井。

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玄関の壁に穿たれたスペイン風飾り窓。

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穏やかな色合いのタイルで飾られたニッチ(窪み)がある。これもスペイン風洋館にはよく見られる。

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洋館は「小田原文学館」として小田原ゆかりの文学者の資料を展示している。展示室は撮影禁止なので内部写真は殆ど無いが、内部は非常に簡素。階段室もこのようにシンプル。創建当初からのものと思われるスチールサッシがよく残されている。手摺は黒大理石。

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最上階の3階に一部屋だけある洋間。暖炉はストーブを嵌めこむ形だけのもの。この部屋は休憩室として見学者が寛げるようになっている。

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上記の部屋からは屋上テラスに出られる。小笠原伯爵邸は屋上テラスだけでなくパティオ(中庭)もあったが、田中伯爵邸にパティオはない。

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白く塗られたパーゴラと、噴泉も備えられている。

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噴泉アップ。

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オコゼ?

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小笠原伯爵邸と同様、青いスペイン瓦が使われている。

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スペインより取り寄せたと伝わる。渋い色合いの瓦。

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庭園に面した南面全景。玄関側と違って、建具がアルミサッシに替えられてしまっているのが惜しい。
庭園側の外観はスパニッシュの要素は殆ど無く、モダンデザインと言ってよい。

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テラスとサンルームが各階及び屋上に設けられている。

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洋館庭園から少し歩くと日本館がある。木造二階建て銅板葺き。

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藤棚を縁先に設けている。規模は小さいが一枚硝子の建具など贅沢な造りの日本家屋である。

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日本館の門は3月11日の震災で倒れたままだった。これから修復するのだろうか。

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玄関。日本館は「白秋童謡館」として小田原に住んでいたこともある詩人で童謡作家・北原白秋(1885~1942)についての展示が中心になっている。

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蔵もある。

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田中光顕伯爵は普請道楽であったのか、小田原別邸以外にも各地に邸宅を建てて今もその多くが健在である。東京目白の本邸「蕉雨園」、静岡県富士川の別邸「古渓荘」、終の棲家となった静岡県蒲原の「青山荘」等がある。そして小田原別邸洋館は昭和12年、田中伯94歳のとき完成した最晩年の建築である。なお、明治末期建設の古渓荘は国指定重要文化財となっている。

第258回・千歳文庫

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三重県津市の郊外、JR阿漕駅からほど近い千歳山は大正初期に当地の素封家・川喜田久太夫家によって「千歳山荘」と称する広大な邸宅が営まれた。その一角に建つ千歳文庫は川喜田家に伝わる古文書や古美術品を収蔵するため、昭和5年(1930)に建てられた洋風の蔵。収蔵品を保存・公開するため川喜田家により設立され、今年5月に津市中心街から新築移転した財団法人石水博物館の敷地から見ることが出来る。

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千歳山荘の造営及び石水博物館を設立したのは川喜田家十六代目・久太夫政令(きゅうだゆうまさのり、1878~1963)。雅号の半泥子で知られる。百五銀行頭取等財界の要職を務める傍ら陶芸、絵画、書等に才能を発揮した人物である。千歳山荘の土地及び建物の大半は平成20年に川喜田家から津市に寄贈された。写真は津市の所有となっている正門。すぐ隣に石水博物館の入口がある。

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正門右手には門番の住居が繋がっている。昭和の初めには川喜田半泥子が旅行の途上、上海で雇ったインド人の門番が一時期住んでいたという。身長2メートルを超える大男で、来客があると右手の窓から顔を出して用件を訊ねたそうである。

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千歳文庫の建物及び周辺の土地は川喜田家から石水博物館に所有が移っている。現在も現役の収蔵庫で内部は非公開。設計は京都市美術館(昭和8)等も設計した前田健二郎と伝わる。国登録有形文化財。

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正面外壁は円形に張り出しており、その横に入口がある。鉄筋コンクリート造4階建。内部にはエレベーターも備え付けられている。

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3階と4階にはバルコニーが設けられている。この4階部分内側には収蔵品の閲覧・鑑賞のためと思われる暖炉やシャンデリアで飾られた部屋がある。それ以外の内部はすべて収蔵庫である。

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入口。基壇が高く造られているが、収蔵品保存のためである。

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入口は華麗な意匠の鉄格子で飾られている。

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石水博物館では川喜田家伝来の美術品や川喜田半泥子の作品を鑑賞できる。ガラス張りの建物なので、博物館内部からも千歳文庫を見ることができる。


(甦るかも知れない旧川喜田邸)

半泥子・川喜田久太夫政令は大正2~4年頃、千歳山の森の中に英国風洋館と書院造日本家屋から構成される別邸(のちに本邸となる)を建てた。その後昭和18年に海軍へ献納、鈴鹿海軍工廠内に移築され貴賓宿泊所となる。戦後は再度移築され、鈴鹿電気通信学園の宿泊施設を経て昭和60年に解体されるまでは電電公社の福利厚生施設「鈴鹿荘」となっていた。移築を前提に解体された洋館・日本家屋の部材は25年以上経った現在も奈良県下に保管されているという。川喜田家からの寄贈を受けて千歳山の整備を始めた津市により、現在この邸宅の再建が検討されている。

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写真は半泥子撮影による創建当初の洋館正面。裏側に平屋建の日本家屋があった。前回の明治神宮宝物殿の記事で触れたが、設計は大江新太郎。施工は清水組。大正8年には大正建築の名手・田辺淳吉により1階内部の改装が行われた他、昭和初年までに正面玄関や側面テラス周りが改造されている。

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洋館側面。英国風を基調としているが、テラスの柱頭部は明治神宮宝物殿にも見られる船肘木の形をしており、和風のデザインも織り込まれている。
外観・内装共に極めて質の高い大正の名建築であり、洋館・日本家屋共に再建されることを強く望む。三重県を代表する近代の名邸として、桑名の旧諸戸邸等と並ぶ存在となるにちがいない。

※上記写真2点は石水博物館に展示してある写真パネルを撮ったものである。再建検討の状況等は下記・津市ホームページに載っている。

千歳山の整備について(津市ホームページ)
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