第271回・氷川丸

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建築探訪記である弊ブログの趣旨に反するかと思われるかも知れないが、客船のインテリアというものは建築、とりわけ邸宅に近く、かつ非常に質が高い。明治以降から昭和戦前までに建造された我が国の洋式客船の多くは、内外の建築家や工芸家が腕を振るって数多くの素晴らしい内装が施された。横浜港に停泊保存されている氷川丸はその中でも今日残る唯一の存在である。横浜市指定有形文化財。

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横浜船渠㈱(現・三菱重工㈱横浜製作所)で昭和5年(1930)に竣工。日本最大の船会社であり、かつ「N・Y・K LINE」として世界的な存在であった日本郵船の太平洋航路(神戸~米国シアトル)の貨客船としてに同年就航。大東亜戦争(太平洋戦争)では病院船として戦地を往来するが奇跡的に生き永らえ、敗戦後は引揚及び国内輸送に活躍、そして太平洋航路に復帰、そして航空輸送の発達に伴う客船輸送の衰退と船体の老朽化により昭和35年に引退、という氷川丸の履歴は我が国海運の昭和史を体現するものと言える。

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氷川丸は貨客船であって客船ではない。同時期に客船として建造され就航した日本郵船の浅間丸や秩父丸、大阪商船のぶら志゛る丸、ぶゑのすあいれす丸などの客船に比べると客船としては小規模である。それでも往時の豪華船の華やかさを偲ぶことは十分にできる。

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華麗な手摺の階段。内装の設計はフランス人マルク・シモンの手になる。
現在は母港横浜港の山下公園前に永久停泊している。日本郵船が保存・管理しており一般公開もしている。近年修復工事が行われ客船時代の姿に復元された。

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一等船室及び特別室への通路。

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一等船室。

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秩父宮殿下、チャップリン等が利用した一等特別室。
写真の寝室、専用浴室、居間の3室で構成される。

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一等特別室寝室に嵌め込まれた3枚のステンドグラス。

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一等特別室居間。

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一等特別室居間のステンドグラス。

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客室は上から一等特別室、一等船室、二等船室、三等船室があった。写真は三等船室。
無論一等特別室は皇族等貴賓専用、一等は上流階級、二等は中流(戦前の中流であって今日の「中流」ではない)、一般庶民は三等船室、と利用者層は分かれる。但し三等でも結構乗船賃はいい値段だったようである。

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最上部にある船長室。写真は居間(執務室)で、こことは別に寝室、浴室がある。

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ブリッジ。
一昔前話題となった映画「タイタニック」は、かなり厳密な考証を元に船のセットが作られており、船のインテリアや、上流階級から庶民を含む乗客の様子等、かつての豪華客船がどのようなものであったのかがよくわかる映画である。昔の豪華客船に興味がある人は「タイタニック」で映像を観て、氷川丸で当時の現物(規模はタイタニックより相当小さいが)を見るのが一番手っ取り早いと思う。

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一等食堂。
随筆家の内田百は昭和14年から20年まで日本郵船の嘱託として東京・丸の内の本社に勤務していた。
その間会社の計らいで新田丸、鎌倉丸(秩父丸から改称)等多くの船で一等船室に乗り、台湾旅行もしている。戦前の豪華客船最後の時期に当たるが、往時の豪華船の模様が伝わってくる随筆も多い。

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船内の一日の食事メニューについて、以下「船の御馳走」(昭和16年)から。
「・・・朝は先づ船室に水菓子と珈琲に小さなトーストを添へて、部屋のボイがおめざに持つてくる。それから暫らくして朝食のオルゴールが鳴る。昼餐の後にはお茶の時間がある。甘いお菓子をいくらでも食べる事が出来る。」

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「それから晩餐があつて、夜寝る前にもう一度お茶に軽いお菓子を添へて来る。右の外に長い航海になると、午餐の前にもう一度茶菓が出るさうであつて、それは私は知らないが、何しろ一日の内に六回か七回口を動かさなければならない。」
なお、氷川丸では当時の食事スケジュールやメニューが朝食から晩餐まで展示されている。上記随筆を裏付ける内容である。

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子供室。
まだ食堂に入れられないような子供がいる一等船客が、食事中子供を預けるための部屋である。

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一等社交室。(ラウンジ)
氷川丸の内装は1930年代最先端の工業デザインであるアールデコで統一されているが、一等社交室は最も充実したアールデコのインテリアである。

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昭和16年には氷川丸で先述の内田百をはじめ、柳田国男(民俗学者)、林芙美子(作家)らによる海上座談会が催されている。ひょっとするとここが会場だったのかもしれない。

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社交室入り口の扉。

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付柱の柱頭飾り。

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黒大理石の暖炉。

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トップライトの天井。

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照明器具の硝子部分に施された装飾。これもアールデコ。

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一等喫煙室。写真奥、入り口横にはバーカウンターが見える。
全体的に直線を強調したデザインで統一されている。

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一等喫煙室暖炉。

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一等喫煙室天井。
横浜には旧日本郵船横浜支店(昭和11年竣工)ビルが現存しており、現在は日本郵船歴史博物館として公開されている。共通券も売っているので氷川丸見学の際は同時見学をお奨めしたい。

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大東亜戦争では、本文中に記載した氷川丸以外の船は全て、否、氷川丸を除く戦前の主要な客船、貨客船は殆どが海の藻屑と消えた。氷川丸は何度訪れても、往時の華やかな豪華客船の数々と同時に、それらを悉く葬り去ったあの戦争へ思いを巡らせずには居られない。
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第270回・徳川美術館本館

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名古屋市東区にある徳川美術館は、尾張徳川家第十九代当主・徳川義親(1886~1976)侯爵によって昭和10年(1935)に、尾張徳川家の名古屋別邸(現・徳川園)敷地内の一角に設立された私設美術館。開館当初の本館と収蔵庫は国登録有形文化財になっている。

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旧正門。現在は、昭和62年に増築された新館に主要な機能は移されており、この門および本館の玄関から出入りすることはできない。

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自然石を用いた珍しい形の門柱。

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青緑色の釉薬をかけた平瓦を積み上げた塀。熱田神宮にある信長塀を連想させる。

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旧正門から望む本館。銀杏の木の向こうに玄関の車寄せがある。

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現在の徳川美術館玄関は、名古屋市の公園となっている徳川園の門をくぐった先にある。徳川園は明治33年に建てられた尾張徳川家名古屋別邸の跡地である。昭和6年、徳川義親侯爵は美術館建設を決めると同時に名古屋別邸を名古屋市に寄贈、一般に開放されるも昭和20年に戦災で全焼、別邸当時の建物はこの正門と脇長屋を残すのみ。

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本館の前庭には入れないので、外観は旧正門越しか、新館から本館へ続くガラス張りの連絡通路から見ることになる。

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塀と同様に本館も青緑色の瓦で葺かれている。

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鯱を頂く城郭風の外観。設計は競技設計で決められた一等案をもとに行われ昭和7年着工、3年かけて完成した。

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入母屋屋根の本館に対して、収蔵庫は反りのある切妻屋根をもつ。

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本館玄関ホールの天井。

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玄関ホールの腰壁は黒大理石を貼り、陶器の象嵌細工が施されている。

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展示室への入り口欄間に描かれているのは「竹林の虎」
徳川義親侯爵は一時期狩猟を趣味とし、マレーでは虎狩を行った事から「虎狩りの殿様」の名で知られる。
そのことを意識した絵なのかどうか。

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裏側から見た本館。
私設美術館としては、最も初期のものであり、開館当時他に存在した私設美術館としては、兵庫県住吉の白鶴美術館(昭和9年開館)くらいであった。大正から昭和初年の不況を受けて、旧大名家では代々伝わる美術品類を手放して金に換える家が続出した。そのような風潮を嘆いた徳川義親侯は、尾張徳川家に伝わる品を散逸させないために財団法人に所有を移し、一般公開した。

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第二次大戦敗戦後、旧大名家も含む華族、財閥、地主等の富裕層は莫大な税金を課せられ個人所蔵の美術品、歴史資料類は多くが散逸してしまった中、尾張徳川家の所蔵品は今もまとまった形でここに保存されている。

第269回・旧露亜銀行横浜支店

※パソコン故障のため御無沙汰をしておりました。今後暫く更新頻度が下がるかもしれませんが、極力早めに旧に復したく存じます。

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横浜に残る数少ない関東大震災以前の建築。
関東大震災では横浜は市街地のほぼ全てが壊滅したため、大正12年以前に建てられた建物は極めて少ない。
大正10年(1921)建築の旧露亜銀行はそれだけでも貴重な存在といえる。横浜市指定有形文化財。

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外人商館が多くあった山下町の通りに面して建つ。設計は当時日本に滞在して設計活動を行っていた英国人建築家・ワードによる。

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露亜銀行は文字通りロシア資本の銀行である。銀行として使われた期間は短く、その後ドイツ領事館、横浜入国管理局庁舎、警友病院別館を経て現在は結婚式場として再利用するため修復・改装工事が行われている。

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大正12年の関東大震災では倒壊は免れたが火災で内部を全焼した。
旧露亜銀行以外で、現在横浜に残る関東大震災以前の近代建築は赤レンガ倉庫(明治44~大正2)、神奈川県立博物館(旧横浜正金銀行本店、明治37)、横浜市開港記念会館(大正6)、旧三井物産横浜支店(明治44)等、極めて僅かである。それだけ横浜の被害は凄まじかった訳である。

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作家の谷崎潤一郎は大正10年に小田原から横浜へ転居、関東大震災で被災全焼するまで、山手にある、もと外国人が住んでいた洋館で純洋風の生活をしていた。震災後にかつての横浜を回想した随筆には、次のような一節がある。ひょっとするとこの建物ではないかと思わせる記述である。

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「そのY子さんの住居と云ふのは、ボリス君の勤めてゐる山下町の銀行のビルディング内にあるのだつた。
今度新しくコンクリートの堂々たる普請をして、三階をアパアトメントに拵へたので、二人はそこの湯殿のついた二た部屋を借りたのである。」(「港の人々」中央公論社刊「谷崎潤一郎全集」第九巻所収、仮名遣いは原文のまま)

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文中の「ボリス君」は谷崎が横浜は本牧海岸に住んでいた時の隣人のロシア人、「Y子さん」はその愛人。
この時期(大正10~12年)に山下町で新築されたロシア人が勤務する外国資本の銀行となると、確証は無いが旧露亜銀行である可能性は極めて高いと個人的には考えている。

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筆者の推測が正しければ、この建物は当初は上階をアパートとして使っていたことになる。
なお、銀行店舗の上階が住居として使われていた事例は香港上海銀行長崎支店(現存)等、他にもある。

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長らく空家となっており、廃墟同然の姿を晒していただけに新たな用途を得て復活しようとしている事は本当に喜ばしい。

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改修前の姿。

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今年の秋には工事が終わり、新たな門出を迎えるようである。

プロフィール

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