第287回・旧福澤桃介別荘「大洞山荘」

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福澤諭吉の娘婿・福澤桃介(1868~1938)は、株式相場で得た莫大な財産を元に実業界へ進出、中でも木曽川の水力を活用した電源開発に情熱を注ぎ、木曽川に7つ(賤母・大桑・須原・読書・桃山・大井・落合)の発電所を作って当時としては莫大な電力を生み出し、東海、近畿地方に多大な恩恵をもたらした事績から「電力王」と称された。現在も木曽川流域及び福澤桃介の活動の拠点であった名古屋には、福澤桃介と彼を支えた女優の川上貞奴(1871~1946)の残した建築及び土木遺産が多く残る。今も残る二人の事績をこれから何回かに分けて取り上げて行きたいと思う。

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長野県木曽郡南木曽町にある「福沢(澤)桃介記念館」として公開されている洋館がある。大正8年(1919)頃に、福澤桃介が社長を務める大同電力(現在の関西電力の前身のひとつ)の第一号社宅「大洞山荘(おおぼらさんそう)」として建てられた。社長である桃介の宿舎であると同時に、事業に関係する外国人技師や、訪れる要人の接待所でもあった。山荘の名は会社名に水力を表す三水偏を付けたものと思うが、読みの「おおぼら」は「大法螺」の洒落であろうか。

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この洋館に名古屋もしくは東京から中央線を使って桃介は足繁く通い、工事の指揮を執った。
木曽川の電源開発が一段落し、福澤桃介が実業界を去った後も大洞山荘は大同電力の迎賓館として使われ、昭和13年に国策により、全国の電力会社を統合して日本発送電(株)が設立された後も引き継がれるが、第二次大戦後は南木曽町に他の社宅群と共に譲渡され、高校の教員宿舎等に使われる。しかし昭和35年失火で二階部分を焼失。その後昭和60年に記念館として整備公開、平成9年度には南木曽町によって失われた二階部分が復元され、現在に至る。

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セメントを荒く塗りつけた壁面の仕上げは、他にあまり例を見ない珍しいものである。
大洞山荘の設計者は不詳とされている。

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当初から残る一階と復元された二階の境目で、壁面のモルタルの色が微妙に異なるのが分かる。なお、写真の煙突は復元ではなく、2階の先端部まで当初からのものが残されている。煉瓦の間に丸い自然石を散りばめているのが特徴的。このような煙突は、当時軽井沢を中心に貴顕富豪の別荘を多く手掛けていた「あめりか屋」の建てた別荘建築に多く見られる。大洞山荘の設計施工には、「あめりか屋」が何らかの形で関与していると筆者は考えている。

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この写真を撮影した当時(平成22年9月)、二階テラス、及びその上のパーゴラが破損したのか撤去、再建工事の準備中であった。現在は工事も終わり元通りになっているようである。

本来の姿はこちら(南木曽町観光協会ホームページ)

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館内に展示されていた古写真。自転車を押す人物が福澤桃介。
下の写真も合わせて見て頂きたいが、現在と異なり窓が二重窓になっている。山の中の一軒家であり、おそらく網戸ではないかと思う。洋館なので日本家屋のように蚊帳を張る訳にも行かず、網戸は不可欠だったのではないだろうか。
(以下、古写真は全て館内の展示品を撮ったもの)

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全景古写真。大洞山荘の管理人住居だった二号社宅と渡廊下でつながっている。渡廊下及び大洞山荘に接続する部分の屋根が板葺・石置屋根になっていることが分かる。なお二号社宅をはじめ他の社宅群は昭和28年の豪雨に伴う土砂災害で全て流失、大洞山荘のみ奇跡的に難を免れた。

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撮影時期不明の古写真。なお、流失した二号社宅跡地には現在、旧御料局名古屋支庁妻籠出張所が移築、「山の歴史館」として公開されている。(また福沢桃介記念館とは渡り廊下で繋がれており、玄関も兼ねている)

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大洞山荘を対岸から木曽川越しに撮ったもの。左上に大洞山荘が写っている。
板葺、石置屋根の家が目立っていた当時の木曽谷では赤い洋瓦葺の大洞山荘は、そこだけ異国のような存在であったものであることが容易に推察できる。なお後方に写る吊橋は発電所建設の資材運搬用に架けられた橋で「桃介橋」と称された。この橋については稿を改めて取り上げたい。

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現在のJR南木曽駅(当時は三留野駅)前にあった、大同電力読書出張所。前に停まるサイドカーを運転する人物は女性のように見える。川上貞奴と福澤桃介とも思われるが確証は無い。
二人の恋愛は曾てテレビドラマにもなっており、書籍も数多いが、その中のいくつかでも貞奴は自らサイドカーを木曽谷で乗り回していたとの描写がある。大正中期においてサイドカーに乗るのは主に軍か警察で、一般人が乗ることは極めて珍しかった筈である。

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川沿いの斜面に沢山転がっている巨大な石の上にコンクリートの柱を立てて、その上に家屋が載る。

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床下。小動物等の侵入を防ぐためか、半割の丸太で隙間なく塞がれている。

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玄関。先述のとおり記念館への入口は、隣接の山の歴史館なのでここから屋内には入れない。

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玄関脇にはサンルーム兼テラスへの入口もある。上記の古写真を見ると、左手の柱にはかつて照明器具が取り付けられていたことが分かる。

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玄関ホール内部。右手は二階への階段、左手は暖炉を備えた洋室に引き戸でつながっている。

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玄関横の洋室。石造りの暖炉を備え、内外共に簡素なこの館の中では最も立派な作りの部屋。現在は桃介と貞奴の遺品等を展示している。おそらくこの部屋が来客の主な接待の場であったと思われる。また桃介と貞奴が山荘に来るときは、名古屋の屋敷から専属の料理人もついて来たという。当時この館で用いられていた洋食器もここに展示されている。

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暖炉。石はその辺の河原で拾ってきた石ではないかと思う。暖炉棚の木も反っていて、左程質のよいものではない。
別荘と言っても、福澤桃介の電源開発のための一施設なので材料や技巧を凝らした建物ではない。それでもこのような瀟洒な洋館にまとめあげる所は流石である。

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洋室から窓側を望む。天井の梁には昭和35年の火災の際、消火活動によって二階から水が染み出した痕跡が今も残っている。

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北側に設けられた廊下。突き当りの扉の先は桃介の書斎。その手前の扉は上記洋室。

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桃介の書斎。畳敷きの小部屋。当時使っていたものかどうかは不明だが古びた長火鉢が置かれており、桃介はここで事業の構想を練っていたのであろうか。洒落た洋風の外観に似つかわしくない部屋である。

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桃介と貞奴の寝室。右手は浴室、奥はサンルーム兼テラス。

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寝室には作り付けのクローゼットが残っていた。

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寝室の横の浴室は、上記桃介の書斎より広い感じがする。大洞山荘時代は岩風呂になっており、湯は裏山から流れる清水を引いて電気ボイラーで沸かしていたという。今は浴槽は普通のタイル張りで再現されているが写真手前に写る、廊下からも出入りできる構造のトイレのみ、当時からのタイルが床に残っている。

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サンルーム兼テラス内部。展示されている古い籐椅子も当時のものかも知れない。

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二階への階段。階段親柱は上部が細くなっており頂部には平たい飾りを載せる。簡素ないかにも大正期らしいデザインの階段である。親柱の上部にはかつて照明燈があったと思われる痕跡がある。

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復元された二階部分。写真は廊下。二階は畳敷きの和室で構成されていた。現在は間取りや障子・襖は旧状を再現しているが、床は板張りにして展示室に充てている。大洞山荘時代は二階座敷に大同電力の重役が集まり、会議の場にも使われたらしい。

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二階にもサンルーム兼テラスがある。木曽谷が一望出来る。

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次回は名古屋の、貞奴と桃介の屋敷を取り上げたい。
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第286回・ライオンビヤホール

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東京・銀座にあるライオンビヤホール。昭和9年(1934)建築当初の内装をそのまま残している。

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ライオンビヤホールは新橋駅に近い銀座7丁目に建っている。外観、特に1階部分は改装が激しく当初の形は残されていないが、二階より上層は当初から現在と同様、無装飾のモダニズムスタイルだった。なお当初は、2階より上部は大日本麦酒(現在のアサヒビールとサッポロビールの前身)本社のオフィスであった。

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ビヤホールの中に飾られている、創建当初の玄関まわりを撮った古写真。1階部分のみ旧帝国ホテルで知られるF・L・ライトを思わせる濃厚な装飾で飾られていた。

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側面にわずかにかつての面影が残っている。

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ただし最上階及び塔屋は当初の形をよく残している。

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当初最上階は会議室として建てられた。現在は宴会場として使われている。

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1階のビヤホール。床から壁面、天井まで殆どの部分が昭和9年以来変わっていない。
以下、この建物の来歴を、建物の還暦を機に出版された「ビヤホールに乾杯」(企画・(株)サッポロライオン、平成6年刊)に沿って紹介する。

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大日本麦酒の社長として戦前最大のビール会社を築き上げ、ビール王とも称された実業家の馬越恭平(1844~1933)は、銀座に本社屋を兼ねたビヤホールの建設を決める。当時関東大震災からの復興途上でバラック建築が中心だった他のビヤホールと異なり、豪華なビヤホール建設を目指した馬越社長が設計者として指名したのが菅原栄蔵(1892~1967)であった。

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菅原栄蔵は、地元仙台の工業学校を卒業後、伊東忠太や曽禰達蔵といった大物建築家にその才能を認められ、曽禰が率いる曽禰中條建築事務所の臨時雇、正所員を経て大正11年には独立を果たした人物である。馬越恭平は新橋にあった菅原設計の設計作品を見て魅せられ設計を依頼する。しかし昭和8年、社長在職のまま88歳で死去した為、完成したビヤホールを見ることは出来なかった。菅原は後年に至るまでそのことを心残りとしていたという。

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ビヤホールの見どころのひとつがこのモザイク画。菅原自身が原図を描き、ガラス工芸家の大塚喜蔵(1890~1968)が作った約46,000種のガラスから厳選に厳選を重ねて選び抜いたガラスで作られている。材料のガラスまで日本人の手になるモザイク画はこれが最初とされている。

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柱及び壁面のタイルは古陶磁研究でも名高い小森忍(1889~1962)の作。これもモザイクガラスと同様十数回も焼き直した上で選ばれたものが貼られているという。

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天井に貼られている石は新島産の坑火石。現在でも建材用として採掘されている石だが、この当時建築の仕上げ材として使用した例は極めて珍しいのではないかと思われる。石そのものは本来白っぽい色だが、長い時間を経て黒ずみ、独特の風合いを出している。

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時間が経っても色褪せないモザイク画のガラスと絶妙な対照を見せる石。

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日本一立派なビヤホール。これらの拙劣な写真でその魅力を本当に伝えることは出来ない。
是非実物を御覧頂きたい。

第285回・大阪松竹座

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道頓堀の盛り場に威容を誇る大阪松竹座は大正12年(1923)竣工・開場した大阪初の鉄骨鉄筋コンクリート造の純洋式劇場。当初は洋画封切専門、その後洋画と邦画の両方を扱う映画館ととして平成6年まで多くの映画ファンを集めた。閉館後正面の壁面を残して改築、平成9年に歌舞伎を主とする劇場として再開し現在に至る。

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設計施工は大林組。設計を担当した木村得三郎は劇場建築を得意とし、大阪松竹座以外にも京都の先斗町歌舞練場、弥栄会館などを設計している。

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正面の大アーチが特徴。壁面に使われているのはアメリカから輸入したテラコッタ(建築装飾用陶器)。大阪に現存するテラコッタを用いた大建築としては、目と鼻の先にある南海ビルディング(高島屋本店)と並ぶ存在。ただし南海ビルディングは大阪松竹座と違い、国産品のテラコッタで飾られている。

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大阪松竹座が建てられた大正12年当時は、テラコッタは質量共にアメリカ製が群を抜いていたのでこの建物に限らず
神戸の旧大阪商船神戸支店ビル(大正11)、東京丸の内の旧郵船ビル(大正12、現存しない)等いずれもアメリカ製テラコッタで壁面を飾っている。南海ビルは約10年後、昭和7年の建築なので、そのころから国産品も大型建築の壁面を飾るだけの量産体制が整い始めたということが分かる。

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建設当初のまま残るのは正面外壁のみだが、外観の見どころは正面に集約されているので、外観に関してはこの建物の価値ある部分はほぼそっくり残されたと言ってもよいと思う。

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内部も外観同様、密度の濃い洋式劇場のインテリアがあったが、改築後は歌舞伎主体の劇場ということもあって和風を基調とした内装に変わっている。

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映画評論家の淀川長治(1908~1998)は、昭和8年から13年までアメリカの映画会社の大阪支社に勤務していたが、そのときのオフィスはこの建物の中にあったという。

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なお、正面外壁だけとは言えこの堂々たる外観が新しい建物に引き継がれた大阪松竹座に比べ、同じ松竹によって現在改築中の東京歌舞伎座は中途半端なイメージ再現という、相当ひどいものになりそうな気がする。まだ完成していないので一概に言い切る訳には行かぬが、わずか10数年でこの見識の違いは如何なる訳か。

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大阪松竹座の斜め前に架かる戎橋(大正15年架橋)も近年袂の照明燈だけ残して「道頓堀に飛び込めない」だけがポイントで旧橋のような風情や美しさなど微塵も無い橋に架け替えられてしまった。もっともこちらは弊ブログで度々悪口を書いてきた大阪市による。もはや見識の有無を論ずるにも及ばないと筆者は考えている。

第284回・旧乾新兵衛邸

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前回2回に亘って渡辺節の建築作品(綿業会館、自泉館)を取り上げた。今回はそれらの後に建てられた旧乾新兵衛邸を取り上げたい。上記2件との共通性が随所にみられる邸宅建築である。そして個人邸宅ゆえの運命に晒されている建築でもある。昭和11年(1936)竣工、所在地は神戸市東灘区住吉山手。神戸市指定有形文化財。

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外観。乾汽船社長・二代目乾新兵衛(1888~1940)の住居として建てられたが4年後の昭和15年に二代新兵衛は逝去。以後養子の豊彦氏が後を嗣ぎ、平成の世まで至るが、豊彦氏逝去後相続税納税のため物納される。その間阪神大震災では隣接する木造平屋建の日本館が倒壊してしまったが洋館と土蔵は残った。

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物納により国の所有となったあとは神戸市に貸与され撮影等に貸し出されていた。その間、管理を委託された市民団体により公開されていた時期もある。写真はいずれもその時のものである。

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神戸市は当初国から購入し利活用を考えていたが震災による財政難で頓挫。国(財務省)と協議の上、指定文化財にして保存を条件に競売にかけられるが買い手はつかず、結局神戸市の外郭団体が購入し、現在は新たな活用用途を模索中の様子である。それにしても、文化財級の建築が納税のために破壊の危機に瀕する時点でおかしな話である。暴論を承知で言えば、国は現行税制の許で文化財建築の破壊という犯罪的行為を繰り返しているのである。旧乾邸は所詮例外に過ぎない。

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玄関そばの車庫前にある噴泉。

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玄関車寄(ポーチ)の天井部分。使われている黄色い石は自泉館の玄関車寄と似たような色調と質感を持つが、同じ石材かどうかはわからない。

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円形の穴には、明り取りのガラスブロックが嵌め込まれていた。

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一枚目の写真、正面玄関前の外壁の角にある照明。上部の石の彫刻がすばらしい。奥に写るアーチは内玄関。

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通常の出入りに用いられた内玄関。広さは今日の一般的な住宅の玄関と変わらない。

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階段室。欄干には重厚な彫刻が施されている。

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階段室のステンドグラス。淡い色調の色硝子で組まれた、菱形格子文様。

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綿業会館や自泉館と同じく、二層吹き抜けになったホール。

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室内に階段を設けるところも綿業会館・自泉館と共通する。

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この階段の金属製手すりは創建当初からのものである。

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階段横にある小部屋の窓。ホールの様子が一望できる覗き穴のような小窓。

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ホール北側、階段上がり口の手前にあるカーテンで仕切られただけの小部屋。作り付けの棚があるところからして書斎かとも思うが詳細は不明。

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暖炉。今は何もないが、乾家所有の頃の写真を見ると暖炉上部には神戸ゆかりの洋画家・小磯良平画伯の絵が掛かっていた。

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綿業会館・自泉館の暖炉は形だけのものだったが、旧乾邸の暖炉は実際に薪が燃やせる。ただし暖房設備は別途整備されており、火を焚くのも実用というよりは演出のためだったと思われる。

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ホールの高窓にあるステンドグラスも階段室と同じ意匠。かつて存在したという自泉館ホールのステンドグラスもこのようなステンドグラスではなかったのではないだろうか。

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ホール西側は、引き戸で仕切られた食堂につながっている。

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食堂天井。旧自泉館と同様、白を基調とした明るく繊細な意匠の部屋。残念ながら塗装を重ねたために漆喰飾りが消えかけている。

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食堂壁面の飾り棚。部屋を広く見せるためか鏡が貼られている。

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旧乾邸も綿業会館・自泉館同様、古典様式でデザインされた部屋とモダンデザインの部屋が併存する。
写真は2階のサンルーム兼展望室にある空調の吹き出し口。

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同上、エッチングガラスの飾り窓。船会社のオーナー邸だけに、波の模様。

(平成23年11月29日追記)
このエッチングガラスは、今は亡きそごう百貨店本店のエッチングガラスや、大阪証券取引所旧市場館のステンドグラスに組み込まれたエッチングガラスの制作者である生田徳次によるものであると、生田徳次氏の子息で、(株)生田ステンドグラス・大阪エッチンググラス(株)代表取締役の生田哲氏より御教示頂いた。

貴重な情報をお教え頂いた生田哲様には、この場を借りて厚く御礼申し上げます。

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取り壊しの危機こそ去ったものの、現在も旧乾邸は使われることなく閉じられたままである。所在地が高級住宅街の真ん中であるため同じ神戸は須磨の旧西尾類蔵邸のような有効な活用策もなかなか打ち出せないようである。新たな用途を得て公開される日が来ることを望む。そして国家が文化遺産の存続を保障するどころか、税制等によりそれを妨げるような事態は根絶せねばならない。最早この国に残る個人所有の文化遺産は、かかる愚行が許される程多くは存在しないのである。

第283回・旧自泉館(岸和田市自泉会館)

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前回の綿業会館に引き続き、今回も同じ大阪府下で、かつ同一設計者の建築。岸和田市にある旧自泉館は昭和7年(1932)岸和田を本拠とする関西の地方財閥のひとつで寺田財閥の傘下企業のひとつである岸和田紡績の倶楽部「自泉館」として建てられた。国登録有形文化財。

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全景。岸和田城に隣接した場所に建つ。設計は渡辺節。外観は当時流行したスパニッシュ風だが、曲線をもつベイウインドウ等モダンな要素も持つ。

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建物の横には寺田財閥を築いた寺田甚與茂(1853~1931)の胸像が建っている。自泉館は岸和田紡績から寺田甚與茂に贈られた慰労金をもとに、子息で岸和田紡績社長、岸和田市長、貴族院議員を務めた寺田甚吉(1897~1976)によって建てられた。なお甚與茂は吝嗇家として名高く、当人の生前であればこのような建物の建設は絶対に出来なかったものと思われる。

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正面外壁に設けられた壁泉。寺田甚吉は昭和18年に岸和田市長の職を退くに際し、自泉館を市に寄贈した。その後市議会議場、商工会議所を経て現在は多目的ホールとして音楽会等の会場等に使われている。

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玄関ポーチ。

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創建当初はこの石柱の間にも金物細工の装飾格子が嵌め込まれていたが、戦時中の金属供出で失われてしまった。

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玄関。

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現在は木製の扉が嵌る玄関ホール入口もかつては装飾豊かな金属製の扉であったという。

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玄関を入ってすぐ右手は大ホール。

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大ホール。綿業会館談話室と同様、二層打ち抜きの豪壮なもの。自泉館室内で最も見ごたえのある部屋。

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ギャラリーも備えた二層吹き抜けの大ホールという点では、同じ大阪府は池田市の旧小林一三邸と共通する。

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建物前にあった岸和田市による説明版の古写真。シャンデリアが異なる他、ギャラリー及びギャラリーに至る階段の手すりが現在と異なり金属製であることがわかる。いずれも金属供出で木製の手摺に変えられたということが分かる。

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ギャラリー下の天井。かつては隣接する旧食堂と続き間になっていたが現在は仕切りの壁が設けられている。旧食堂は白を基調とした明るい感じの部屋であった。(上記古写真に写る奥の部屋)ギャラリー下天井部分も旧食堂と同じ意匠で仕上げられている。なお旧食堂は、現在事務室として使われている。

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創建時の形をそのまま残す暖炉。

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外観がスパニッシュ風であるためか、スパニッシュとは縁深いイスラム風のタイルが貼られている。

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タイル部分拡大。

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現在自泉会館は音楽コンサートの会場等、週末は殆ど予定が入っており人気がある場所である。したがって建物の見学をしたい場合は平日に行くのが無難である。

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ギャラリーへの階段。木製の手摺は戦時中に造られたものと思われる。

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ギャラリーから大ホールを見下ろす。昭和25年のジェーン台風で破損するまでは正面高窓にステンドグラスが嵌め込まれていたと伝わるが、資料はなくどのような図柄・色彩だったのか詳細は不明。

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大ホール天井の梁は一見木に見えるが、コンクリートに漆喰とペンキで木目調の仕上げを施したものである。

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ギャラリーから暖炉を見下ろす。

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階段室。

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階段室にも随所にイスラム風タイルが使われている。

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階段手すりもかつては金属製であった。

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大理石が貼られている階段室壁面の目地は、今はかなり色あせているが金色で仕上げられている。

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美しい曲線を描く階段。

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二階は会議室一室のみ。かつては貴賓室として使われたという。現在は普通の壁布に張り替えられてしまったが、かつては壁面に銀箔が塗り込められていたという。

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壁面に埋め込まれた照明は創建当初からのもの。大ホールと違ってモダンな造りの部屋。

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奥は壁面と天井が曲線を描く。また奥の部分のみ天井は間接照明になっている。

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小規模であるが、寺田財閥の財力が窺える建物である。

第282回・綿業会館

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大阪の紡績業関係者を中心に設立された日本綿業倶楽部の本拠地として、昭和6年(1931)に建てられた。大阪に現存する近代建築の代表格のひとつであり、平成15年には西日本に建つ昭和期の建造物としては初めて、国の重要文化財に指定されている。

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全景。一見5階建てに見えるが上層階は壁面がセットバックしているため見えない。実は7階建。

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設計は関西を中心に活躍していた渡辺節(1884~1967)。施工は清水組。(現在の清水建設)綿業会館以外で知られる渡辺節設計の建築には旧大阪商船神戸支店がある。また現存しないが先々代の京都駅舎(昭和25年失火焼失)を設計した建築家である。

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奥に写っているのが昭和37年増築の新館。同じく渡辺節の設計。本人が最晩年にあたる83歳の折に残した回想「綿業会館の設計と私」には、設計当初から新館増築時に至るまでの諸々の興味深い挿話が語られている。

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1階、アーチ窓の部分は会員専用食堂。

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側面の非常階段も鉄のアーチで飾るなど芸が細かい。右下に写る横長窓はかつて日本座敷があった名残。敗戦後の米軍接収中に荒らされ、返還後は改装されたため座敷は今はない。

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東洋紡重役・岡常夫氏の遺言で寄付された100万円、及び業界関係者からの寄付金50万円、合わせて150万円という当時としては巨額の資金を以て建設された。当時のお金の価値を説明するには代表的な物価や初任給等を例に示す等方法は様々あるが、昭和6年当時発行されていた貨幣・紙幣も目安になると思うので以下に掲げる。
(紙幣)100円・20円・10円・5円・1円(貨幣)50銭・10銭・5銭・1銭
物価水準も違うので一概には言えないが、一万円札に相当するのが十円札ではないかと思う。そういう時代の150万円である。

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玄関風除室天井。

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ホール入口扉。

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イタリア産大理石で飾られたホール。

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ホールに面した会員専用食堂の窓。

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同上、欄間のエッチングガラス。

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綿業会館は毎月第四土曜日に事前予約制で見学できる。

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階段踊り場。

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用いられている大理石はトラバーチンで、渡辺節自身の回想によると、米国で盛んに用いられていた建築材料のひとつだったがその色調風合いが日本人の嗜好に合うと思ったという。

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踊り場からホールを見下ろす。シャンデリアは戦時中に金属回収で失われたため、戦後新たに作られたもの。

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綿業会館の白眉というべき談話室。最も設計に苦心した場所であると渡辺節は回想しているが、最も優れた部屋に仕上がっている。一度設計が終わってから再度設計変更を行い、現在みられる2層打ち抜きの豪壮な空間はこのときの変更によって生み出されたものだそうである。

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談話室入口横にある階段。かつては階段の先には図書室があったが現在は改装されて無いとの事。

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見事な金属製の手摺。

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天井まで届く暖炉脇壁面の高窓。硝子はフランスから輸入したワイヤー入りの耐火硝子。大阪大空襲で周囲は焼け野原と化すが、この耐火硝子のおかげで綿業会館は焼失を免れた。

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暖炉とその横の壁面一面に広がるタイル・タペストリー。

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タイルは京都の泰山窯で焼かれた特注品。渡辺節は助手も使わず一人でタイルの組み合わせを考えながら貼り方を決めた。なお、壺に飾られているのは綿の実。

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タイルを拡大。芸術品。

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談話室と同じく2階にある貴賓室。戦前は皇族の来賓が来ない限りは開けられなかった部屋。

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貴賓室の天井には鳩がいる。

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貴賓室の隣接する会議室。両端に設けられた鏡張りの扉に因み、鏡の間とも呼ばれている。

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会議室天井及び入口廻り。

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地階グリル。外観及び上階の内装が西欧古典様式に則したものであるのに対し、グリルはモダンデザイン。但し渡辺節にとっては最も気に入らない出来栄えであったため新館増築の際に改装を行ったとのことである。グリルと1階とを結ぶ階段は優美な螺旋階段で、談話室内の階段に匹敵するものだが、このときの新設である。

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美しい色調の硝子モザイク。

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高層ビルに一部が組み込まれた形で保存されている東京丸の内の日本工業倶楽部会館と異なり、綿業会館は建物全体が保存されている。現存する倶楽部建築の中では綿業会館は最も規模が大きく、かつ最も質が高いと言える。

第281回・旧神戸居留地十五番館

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旧神戸居留地十五番館は建設時期が開港当初にさかのぼる事のできる唯一の建物である。國指定重要文化財。

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明治13年(1880)頃、米国領事館として建設されたと伝わる木骨煉瓦造二階建。

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開港当初の神戸居留地は十五番館のような木骨煉瓦造の商館建築と赤煉瓦の倉庫で構成される街であった。

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外国人による治外法権が認められていた居留地は明治32年に日本に返還、その後第一次世界大戦を契機に日本人商社が旧居留地に進出、旧大阪商船神戸支店ビル等にこれらの商館建築は駆逐されることになる。
左手の神港ビルヂングも昭和14年に、当時としても古ぼけた存在でしかなかったこれらの商館建築を取り壊して建てられたものである。

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それでも大東亜戦争末期の昭和20年に米軍の空襲を受けるまでは、依然として開港当初を偲ばせる古ぼけた商館建築群が旧居留地には軒を連ねていた。

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大東亜戦争の戦災に際しては神戸は市街地の中心に至るまで、耐火性のある煉瓦、鉄筋コンクリート建築も戦火の洗礼を受ける。その結果十五番館の斜め向かいにあったオリエンタル・ホテル(明治40年建築、煉瓦造り4階建)等も、ベルリンやハンブルグ空襲後の如く瓦礫の山と化す。その中で旧十五番館が焼け残ったのは奇跡的と言ってよい。

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戦災で、旧十五番館を除く旧い商館群は悉く灰燼に帰してしまった。これら今は亡き商館群、昭和10年代までの神戸旧居留地の姿は、」戦前戦後を通して旧居留地や異人館街を描き続けた洋画家・小松益喜(1904~2002)画伯の作品に鮮やかに残されている。

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その後野澤セメント(現・(株)ノザワ)の所有となり平成の世まで明治の姿を伝えるが阪神大震災で無残にも崩壊する。しかし火災による焼失ではないため旧部材を用いての再建が技術的に可能だったこと、国指定重要文化財に既に指定されていたこと、所有者の奇特ともいうべき深い見識があった事、以上の要因が幸いにも相まって間もなさ旧部材を用いて復元された。

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震災後の復元に際しては、旧米国領事館時代の古写真が提供され、それをもとに門柱や柵が復元された。

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二階ベランダは昭和後期まで硝子戸が嵌め込まれていたが、現在は明治初期の形を復元するため、吹き曝しになっている。

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現在はカフェ及びレストランとして利用されている。

第280回・賓日館

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賓日館は、伊勢神宮に参拝する賓客の宿泊施設として明治20年(1887)に、神苑会(伊勢神宮の崇敬団体)によって二見浦を望む地に建設された。

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その後昭和初期までに2度の大増築を重ね現在の形となる。その間明治44年には隣接する旅館・二見館の別館となり、平成11年の休業まで旅館として多くの宿泊客を迎えた。休業後賓日館は二見町に寄贈、資料館として整備・公開されて現在に至る。

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正面は二見浦を一望できる。夫婦岩もすぐ近くにある。

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庭園。材料・技術共に粋を凝らした近代和風建築そのものを公開すると同時に、かつての客室は催事等に貸し出されている。

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唐破風を持つ玄関。

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国登録有形文化財を経て県指定有形文化財、そして平成22年には国指定重要文化財となった。

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玄関入ってすぐの位置にある階段の親柱にはカエルの親子がいる。
客が「無事帰る」ように施した装飾。

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寄木細工を施した踊り場と面白い意匠の親柱。

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中庭に面した硝子戸の型押し硝子はどこかで見たと思ったら、石川県山中温泉の旧新家別邸応接間のものと同じだった。

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中庭。

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賓日館でも一番の見所、大広間の縁側。

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大広間床の間側。折上格天井にシャンデリアという典型的な近代和風建築。

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床の間の反対側は舞台になっている。ここで長い間、様々な宴が繰り広げられた。

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大広間は120畳分の広さがある。

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大広間、天井折上部分をアップ。

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御殿の間。皇太子時代の大正天皇をはじめ多くの皇族方が宿泊・逗留された部屋。

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明治20年の創建時の姿をそのまま残しているという。

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御殿の間の縁側には、古風な洋式椅子が置かれている。

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大広間及び御殿の間は二階にあるが、二階には他に二間ある。お付きの人の為の部屋のようである。

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御殿の間の真下にあり、明治期の形をよく残すとされる「ことぶき」の間。

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一階の客室の一部。床の間の意匠は部屋ごとに異なる。

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帳場。かつて使われていた道具類が展示されている。

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二見浦の旅館街も、近県の小学校からの修学旅行生の宿泊所として以前は多く利用されていたが現在はだいぶ減ってしまったようである。伊勢神宮が近年パワースポットとやらで脚光を浴びているのとは対照的に、隣接する二見浦は幾分寂しい感じがした。

第279回・旧原田六郎別荘「三五荘」(三五荘資料館)

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軽井沢に戦前建てられた別荘建築のひとつ。山梨県塩山市にあった江戸時代後期の古民家を昭和10年(1935)、日立造船社長も務めた大阪の実業家・原田六郎が別荘として移築改修したもの。現在は学校法人中央工学校の研修等施設「南が丘倶楽部」内にあり、「三五荘資料館」として一般公開も行われている。国登録有形文化財。

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全景。原田六郎氏は昭和の初めに当時としては非常に珍しい、自動車による全国ドライブなどを行う趣味人であった。この家はその途中発見し気に入って購入したものという。

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移築に際しては梁の上に長年に亘って積もった煤や塵も、石油缶に詰めて一緒に軽井沢へ持って行った。

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ゴルフも大好きだった原田六郎氏は、この家を軽井沢でプレーを楽しむ時に使うつもりだったようである。

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移築工事が完成した昭和10年=西暦1935年に因み「三五荘」と名付けるも、原田氏は同年に急逝。
使ったのはひと夏だけであった。

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その後も戦中戦後にかけて原田家によって守られる。その間近衛文麿、鳩山一郎等軽井沢に別荘を構えていた多くの著名人がこの館を訪れている。皇太子時代の天皇陛下も訪問されている。

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原田家から引き継いだ二代目の主は東急グループ総帥の五島慶太。現在の中央工学校は三代目の所有者に当たる。

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移築改修に際しては鉄筋コンクリートの地階を設けた他、輸入品のガラスを用いた建具を入れたり随所に近代的改修を施している。一方で移築前は一部トタン屋根となっていた大屋根をもとの萱葺に戻す等、快適な別荘として改造すると同時に古い形のよさを最大限残そうとした様子が伺える。

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玄関扉。

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内側からみた玄関。

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カットグラスがはめ込まれている。

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かつての土間はゴルフシューズのまま上がれるように板張りとし、居間及び食堂に改修されている。

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古民家を自らの別荘として移築改修するのはこの三五荘に限らず、この当時の富裕層におけるちょっとした流行のようなものであった。現在も三五荘ほか、各地に事例が現存している。

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原田氏は造船業を中心に事業を営んでいた関係から、三五荘には随所に船の部品・古材等が使われているという。しかし具体的にどこに使われているか発見できなかった。

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和風センスの飾り棚。

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座敷から外を見る。

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古いままに残された座敷の床の間。

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座敷書院窓。

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二階寝室。

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寝室扉。

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上階は中央工学校の所有になってから若干間取り等改修されているようである。

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無論、柱や梁はそのまま。

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昭和初期の移築であることを窺わせるモダンな円形窓。

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第278回・奈良ホテル

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明治42年(1909)開業の奈良ホテルは、開業当初の建物で現在も営業を続ける数少ないクラシックホテルである。

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荒池に面した前景。御殿風の和風建築が雁行型に配置される。この建物が建った当時の奈良では、帝室博物館のような洋風建築は奈良公園の風致を乱すと反発を買ったため、県庁、県立図書館のような官庁、公共建築も和風の外観をまとっていた。奈良ホテルもそのような流れの中で建てられたものである。

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もうひとつの背景として考えられるのが当時洋式ホテルの利用者は外国人が大半であり、外国人に日本情緒を味わってもらう、とりわけ奈良のような土地ではそれが強く求められたのではないかと思われる。これは奈良に限らず当時のホテル全般に言えることである。

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客室部分は二階建てだが、食堂の入る棟は天井の高い平屋。現在朱色に塗られているテラスの欄干はかつては他の部分と同様白木だったが、敗戦後米軍に接収された時、白木は不潔だから全館ペンキを塗れというとんでもない事を言う者がいたそうだが、ホテル側の必死の説得の結果、この手すりを塗るだけで難を免れたという。

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正面玄関。設計は辰野金吾と片岡安とされているが異説もある。しかし極めて確率は高いと思う。
開業当初は暖房は暖炉を用いていたため屋根には煙突がいくつも立っていた。しかし小さな和風の屋根をてっぺんに載せており屋根の形に変化をつけていた。煙突があった頃に比べると屋根はいささか単調な感じがする。

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写真右手、駐車場になっている場所には昭和末期まで平屋建のラウンジ棟があった。開業当初は撞球室兼酒場として建てられた棟であったが、残念ながら現在は他所に移築されてしまった。

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奈良郊外、大阪府との境に近い近鉄学園前駅近くにある近鉄系列の美術館「大和文華館」の敷地内に移築されている現在の旧ラウンジ部分。「文華ホール」と名付けられ時折催事等の会場に使われているようである。

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この建物の特徴は、本館にはないステンドグラスが2枚はめ込まれている点である。

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もう1枚。いずれも木にとまる小鳥の図柄。

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堂々たる正面玄関車寄せ。

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天皇陛下はじめ我が国の皇族方は無論、外国からも英国皇太子、科学者のアインシュタイン、満州国皇帝溥儀、等々多くの貴賓がこの玄関をくぐった。

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吹き抜けになっているロビー。

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吹き抜け上部。照明器具以外は明治42年以来ほぼ全く変わっていないといってよい。

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ロビーに続く大階段。

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大階段の脇、現在はバーになっている旧読書室入り口の欄間には五重塔や鐘楼を描いたすりガラスがはめ込まれている。古い絵葉書の写真にも写っており、開業当初からのものと思われる。

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談話室。右端に少し写るピアノは大正11年にアインシュタインが宿泊の際、弾いたもの。横に当時の写真が掲げてある。

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大階段。

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二階から見た吹き抜け部分。欄干の擬宝珠は当初は金属製だったが戦時中の金属供出で陶器に改められ現在に至る。照明器具は昭和10年に満州国皇帝溥儀訪問に際して照明器具類を一新したというから、そのときのものだろうか。

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廊下。非常に天井が高い。4メートル位はある。

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客室。現在でも開業当初の暖炉が残っている。他木の天井や古風な照明器具等、客室部分までクラシックなクラシックホテルはなかなかあるものではない。

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客室の照明器具と天井。

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小食堂。暖炉脇の食器棚も古いものだ。

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小食堂とは襖で仕切られた大食堂。

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食堂部分の照明。

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小食堂からテラスへの出入り口。

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館内の暖炉は異なる意匠のものがある。
1階ロビー。鳥居を象った特異なもの。

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1階談話室。他、宴会場(旧喫煙室)、小食堂、大食堂も細部が若干異なるが基本的にはこの形。

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客室。少しアールヌーボー風のデザイン。
客室は2階貴賓室のみ、これとは異なる意匠の暖炉があるようだ。

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夜の奈良ホテル。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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