第295回・旧野口喜一郎邸(和光荘)

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戦前の北海道に建てられた豪邸の中では、間違いなく代表格のひとつと言えるのが、小樽にある和光荘。大正11年(1922)、日本酒「北の誉」醸造元・野口家の本邸として建てられた。

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和光荘が建っているのは小樽市潮見台。市街地と港を見下ろす高台である。路地を進むと緑に囲まれた一郭があり、さらに進むと橋がある。

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緑の奥に見える和風建築を横目に見つつ橋を渡って進むと、視界が開けてこの洋館が現れる。

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全景。設計は施主である野口家二代目・野口喜一郎が原案を作り、建築家の佐立忠雄が実施設計を行ったと伝わる。佐立忠雄は、小樽を代表する近代洋風建築のひとつ・旧日本郵船小樽支店の設計者である佐立七次郎の子息。

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側面に少し覗く和風部分。当初緑越しに見えた部分である。
正面は洋館の造りになっているが、全体としては和光荘は和風が中心となっている邸宅である。

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蔵と思われる付属棟。

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円形の池を持つ前庭が広がっている。和光荘は前庭までの立ち入りは自由である。但し建物内部と日本庭園は非公開で立ち入り不可。

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和光荘は傾斜地に建っており、1階に見える部分は地階である。重厚な石貼りの地階と軽快な1階ベランダの組み合わせがすばらしい。

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2階部分は灰色のモルタル壁、最上層である屋根の切妻部分は白いシングル貼りになっており、各層毎に異なる仕上げの外壁になっている。

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藤森照信・増田彰久著「歴史遺産日本の洋館大正編第四巻・大正編Ⅱ」に載せられている室内の写真と間取り図によると、地階には大小食堂、喫煙室等があり、1階が玄関及び応接間を除いて全て和室になっている。

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半地階テラス。硝子戸の奥は大食堂。

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半地階テラス内側。

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前庭からは見えないが、建物の後方には渡り廊下で繋がれた仏間棟がある。野口喜一郎は父で初代社長の吉次郎共々、熱心な仏教徒で仏間の規模は個人住宅とは思えないほど大規模で立派なものである。他、昭和5~6年に増築された新館がある。ステンドグラスや噴水で飾られた大きな円形のサンルームが特徴である。

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地階喫煙室の窓。

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2階は手前の張り出した部分が洋室になっている他は、全て和室。野口家は元々金沢がゆかりの地であることから、和光荘内の和室の壁は、朱色などの鮮やかな色彩を持つ加賀風に仕上げられている。

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2階外壁の裾が少し反り返る形になるようモルタルを塗っている。

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前回の夕張鹿鳴館同様、昭和29年の天皇皇后両陛下による北海道巡幸に際しては、和光荘は小樽における両陛下の宿所となった。

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玄関に続く階段。

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玄関先から見える小樽市街。

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玄関横の一階テラス。

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玄関。

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一階テラスから前庭を望む。

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テラスに面した窓の内側には、軽快な外観からは想像できない重厚な造りの応接間がある。

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壁面に取り付けられた照明。象が鼻先に灯具を吊り下げた形をしたユニークなもの。象は仏教と密接な関連を持つ動物なので、熱心な仏教徒の施主・野口喜一郎の発案になる装飾と思われる。

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一階テラス床の、色鮮やかなモザイクタイル。

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一階テラスから前庭の池。

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一階テラスは日本庭園に通じているが、この先は非公開エリアなので立ち入り禁止。

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現在は、北の誉酒造(株)の迎賓館として使われている。
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第294回・夕張鹿鳴館(旧北海道炭礦汽船(株)鹿ノ谷倶楽部)

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夕張鹿鳴館は、北海道炭礦汽船(株)の迎賓施設として大正2年(1913)に建てられた。昭和58年まで使用されるが炭鉱の閉山に伴い夕張市に譲渡、夕張鹿鳴館として初めて一般公開される。しかしその後の夕張市の財政破綻により、老朽が進む建物の維持管理もままならず一時は存続の危機に立つも、現在は夕張市から譲渡された民間企業によりレストラン兼宿泊施設として再び一般公開されるようになった。

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正面玄関。岩見沢にあった北海道炭礦汽船の重役宅を大正2年に現在地に移築改装、その後増改築を行い現在の規模に至る。

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結婚式場やステンドグラスのギャラリーに使われている旧第一別館、宿泊施設に改装されている第二別館及び当初からの迎賓館部分があるが、写真の迎賓館部分が最も旧態を良く残しており、建物の規模・質も非常に高い。

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庭園側からの眺め。広い芝生に面して平屋建の和風建築が雁行型に並ぶ構成。

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昭和天皇・皇后両陛下が滞在された棟。昭和29年に昭和天皇が北海道を巡幸されたとき、夕張での宿舎は鹿ノ谷倶楽部が充てられた。

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館内に展示されている、当時の写真。正面玄関前に停まる御料車と出迎える人々。

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正面玄関。

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暖炉のある玄関ホール。外観は和風だが、内部は和洋折衷。

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玄関ホールの先に延びる畳廊下。

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館内で最も格式高い造りの十五畳座敷。両陛下滞在時はこの部屋に椅子を置き、御座所となっていた。

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座敷より次の間を望む。欄間には鳳凰。

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貴賓室の縁側。両陛下の寝室等奥向きの空間として使われた部分。内部は洋風なので縁側も漆喰天井等洋風の造り。

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当時の家具調度類等をほぼそのまま残し、記念室として公開している。

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和風の外観からは想像できない洋風の居間。

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館内展示の、当時の写真。

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寝室。左手にツインベッドがある。

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寝室の照明。

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広大な庭園を望む。

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貴賓室は専用の湯殿と洗面所を備えている。化粧室または更衣室と思われる小さな和室もある。

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高級な材木を惜しげもなく使って造られたと思われる湯殿。

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応接室。暖炉や扉・窓枠飾り等、最も大正初期の形を残している部分と思われる。

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応接室暖炉。もともとは前にストーブがあり、円形の蓋が嵌め込まれた部分に煙突が通じていたのではないかと思われる。そうであれば燃料は当然石炭だと思う。

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応接室の照明。応接室の隣には同じぐらいの広さの洋室がもうひとつある。

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来客の宿泊用と思われるこぢんまりとした座敷。

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貴賓室の湯殿とは別にある、通常の来客や会社の幹部社員が使っていたと思われる湯殿跡の天井。ここは現在浴槽等は取り払われて夕張特産品等の販売コーナーになっており、天井だけがステンドグラスの天窓と湯気抜きなど、当初のまま残っている。

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湯殿跡の更衣室であった部分に残る当時からのステンドグラス。梅の図柄。

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大食堂。最も広い洋室で舞踏会も催された事があるという。造りからして昭和初期の増改築と思われる。

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大食堂壁面の照明。他大理石の暖炉などもそのまま保存されている。ここはレストラン及び各種催事会場として現在も使われている。

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夕張の石炭産業が生み出した富が結実してできた、北海道屈指の近代和風建築である夕張鹿鳴館は、坑道跡を見学できる石炭博物館等、周囲の炭鉱遺産と併せての見学をお奨めする。


第293回・旧川上貞奴別荘(萬松園)

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萬松園は、貞照寺の門前に建てられた川上貞奴の別荘。貞照寺と同じ昭和8年(1933)竣工。参詣の折に滞在するために建てられた別荘である。福澤桃介の影が色濃い二葉御殿と違い、細部に至るまで川上貞奴の意向が行き渡った和風建築であり、貞奴が建てた本当の意味での「川上貞奴邸」はこの萬松園と言える。

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正面。
「萬松園」の由来は、神奈川県茅ケ崎に曾て有った自邸に伊藤博文が名付けたものを、この鵜沼の別荘に改めて冠したという。(鈴木靜夫著「木曽谷の桃介橋」平成6年)

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式台を備えた来客用玄関。
旧川上貞奴別荘は表門、庭園の茶室も含む敷地内の建物が国登録有形文化財となっている。

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数寄屋風の控え目な造りの内玄関。

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女中部屋外観。邸宅は殆どの部分が平屋だがここだけ二階建。

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名前の通り、今でも敷地には松が多く生えている。

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雁行形に建物を並べる、二条城や桂離宮等、伝統的な日本建築によくみられる構成。

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近代和風建築ならではの、洋風のサンルームもある。

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サンルームの庇。硝子製である。

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内外装共に、特異な意匠や材料が用いられた非常に個性的な和風建築である。
現在は主に結婚式場として使われているが事前予約制の見学も可能である。
詳細はこちら↓
サクラヒルズ川上別荘

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外装で最も特徴的なのが鉄製の屋根瓦である。和風建築で一般的によく使われる銅瓦であれば緑青を吹くところだが、鉄瓦なので赤錆を吹いている。

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玄関を入ってすぐ位置する、最も格式高い書院座敷。襖絵は二葉御殿で貞奴に南画を教えていた成木星洲の筆になる。桃山発電所の脇にある発電用水の余水が滝に見える様を描いたもの。(「木曽谷の桃介橋」より)

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欄間には、二葉御殿で屋根瓦やステンドグラスにみられた楓があしらわれている。

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節目の多い板をわざと意匠的に用いた特異な天井。この屋敷の天井は部屋ごとに全て材料意匠が異なり、同じところがない。

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部屋だけではなく、廊下、縁側の天井も同様。

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建具に中国趣味が見られる部屋。

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茶席の水屋。

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近代では珍しい、女性の施主による邸宅建築の特徴は、上記水屋やこの写真にみられる戸袋によく表れている。

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サンルーム。透明硝子を菱形に配したステンドグラスが嵌め込まれている。

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透明硝子を用いて、木曽川も見える外の眺めを楽しめるように作った萬松園のステンドグラス。ステンドグラスそのものが絵画であった二葉御殿のステンドグラスとは対照的。

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サンルームの照明器具。照明器具も部屋毎に非常に趣向を凝らしたものが用いられている。

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茶室風の落ち着いた感じの座敷。

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廊下。襖ではなく色彩鮮やかな板戸が立て込まれている。

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茅葺屋根を持つ田舎家風の部屋。

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太い柱と梁が縦横に走る豪快な部屋。

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梁組を露出した、野趣に富む天井。

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田舎家風棟の外観。移築の痕跡があり、創建時は邸宅内でも別の場所にあったようである。

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田舎家風棟からすぐ近くにある茶室。岐阜県下にあった明治期建築の茶席を大正13年に、名古屋の二葉御殿敷地内に移築したもの。昭和10年に現在地へ再移築した。なお、この年に当時六十七歳の福澤桃介が貞照寺を初めて参詣、萬松園に滞在している。(貞奴との同居生活は昭和8年に本宅へ戻る事により終えていた)それから3年後の昭和13年2月、福澤桃介は七十歳を迎える少し前に世を去った。

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萬松園に滞在するときの貞奴は、木曽川を眺め暮らす日々であったという。
大東亜戦争末期には疎開も兼ねて萬松園に定住、そして敗戦を迎えると間もなく売却、熱海に転居する。そして翌昭和21年12月、川上貞奴も七十五歳で世を去った。

第292回・貞照寺

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木曽川の下流、岐阜県各務原市鵜沼にある成田山貞照寺は、川上貞奴が昭和8年(1933)に私財を投じて建立した寺院。本堂をはじめとする境内の諸建物は国の登録有形文化財に認定されている。

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仁王門。
川上貞奴は若い頃より厚く信仰を捧げていた不動明王をまつるべく、福澤桃介に相談の上、木曽川の下流で犬山城にも近い鵜沼の現在地に寺院を建立することを決める。しかし新しい寺院の建立は困難であった事から八王子に名ばかりを残す廃寺を買収して鵜沼に移し、同時に名称を変更することで実現に漕ぎ付ける。

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貞照寺の名は、芸者時代の貞奴を贔屓にしていた伊藤博文の側近で、政治家の金子堅太郎(1853~1942)の命名である。なお現在は成田山貞照寺だが、当初は金剛山貞照寺と称していた。貞奴の死後一時荒廃した時期もあったが、現在は成田山名古屋別院の管理下に入っている。

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本堂。本邦初の女優が建立した寺院ということで、建立当時から演劇関係を中心に芸能関係者とは縁が深い。狛犬は松竹創業者の一人・大谷竹次郎の寄進による。玉垣にも貞奴と親交のあった十五代市村羽左衛門(1874~1945)他、著名な歌舞伎、新派役者の名が連なる。現在も芸能人の参拝が多いそうである。

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鉄筋コンクリート造の高床の上に木造の本堂が載る。境内を見ると、傾斜地でもない平地にこのような階段を設ける必要は無いと思われるのだが、あえて意識して造ったように思われる。

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後に紹介する宝物館を除く伽藍の建築群は、名古屋の堂宮大工・伊藤平左衛門の設計に成る。

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本堂の外観を最も印象付ける堂々たる階段。二葉御殿の回り階段も貞照寺の階段も、見せ場を強調するような階段は長年舞台に立ち続けた貞奴の意向だったのではないかと思われる。

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本堂の廻廊から鐘楼を望む。
鐘楼の先に見える山の前には木曽川が流れている。その上流には前回までに取り上げた、福澤桃介が築いた発電所群がある。

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本堂の周囲には、貞奴が生涯における数々の危難を不動明王の加護で乗り切った、と言う霊験記の形をとった一代記の浮彫が十一面に亘って施されている。その中で少女時代の貞奴が乗馬の帰途、野犬の群に襲われる場面がある。このとき貞奴を救ったのは、福澤家に養子入りする前の桃介である。

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十一面の最後、大井ダムの完成を祈願する貞奴の頭上に不動明王の後光が降り注ぐ図。

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本堂の裏山にある貞奴の墓所近くから、庫裏・書院と仁王門を望む。

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宝物庫。鉄筋コンクリートの耐火建築で前回までに紹介した読書、桃山等の発電所を設計した佐藤四郎の設計。
貞奴の遺品や二葉御殿で使われていた家具調度類が保存されている。現在は貞奴縁起館として公開されており、これらの品々を見ることが出来る。

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貞照寺と同時に、川上貞奴が建てた建物がもうひとつある。貞照寺の門前、木曽川のほとりに建てた別邸「萬松園」である。次回、この建物を取り上げて桃介と貞奴の足跡巡りはひとまず終わりとしたい。

第291回・旧大同電力桃山発電所・大井発電所(関西電力桃山発電所・大井発電所)

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大正12年(1923)竣工の桃山発電所は、一連の木曽川水系の発電所の中では珍しい鉄筋コンクリートの構造体と同時に、そのゴシック風の外観を特色とする発電所建築である。

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全景。読書発電所と同年の竣工だが、桃山は9月1日の関東大震災より後に竣工、送電開始で読書より少し遅い。送電開始当時の最大発電量は23,100キロワットで、読書発電所に次ぐものであった。

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木曽の緑の中に浮かぶ白亜の外観。現在は外壁に塗装が施されているが、当初はコンクリート打ち放しであった。
西洋古典様式主義の装飾を施していて、かつコンクリート打ち放しの壁面を持つ建築は非常に珍しいものと思われる。

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設計は読書発電所と同じく佐藤四郎による。

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桃山発電所は長野県木曽郡上松町にある。福澤桃介が木曽川水系に造った8つの発電所の中では、最も上流に位置する。前後3回に亘り、福澤桃介の建設した発電所8つのうち4つを取り上げたが、今回は取り上げなかった旧八百津、賤母、大桑、落合の各発電所もそれぞれ特徴ある外観を持つ。これらについても機会があれば紹介したい。

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桃山発電所は前回取り上げた桃介橋と同様、福澤桃介の名前に由来する。他の発電所の名前は、いずれも所在地の地名が付けられている中で異例と言える。

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先述のとおり、この桃山発電所が完成した大正12年には関東大震災が発生している。なお、そのとき福澤桃介は大洞山荘に居り、避暑のため滞在中だった政治家の犬養毅(のち首相、5・15事件で暗殺)と共に震災の発生を山荘で知ったという。直接的な被害は殆どなかったものの、関東大震災は大同電力を絶対絶命の窮地に陥れる。

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この時、大同電力が進めていた大井発電所(大井ダム)建設には莫大な経費がつぎ込まれ、、さらに多額の資金を必要としている状態だった。しかし震災後国内の銀行は、震災復興関連の融資を優先していた上金利も急騰、金融の途を事実上閉ざされた状態に陥る。そこで福澤桃介が考えたのは当時金利が低かった米国での社債発行、即ち外資導入である。

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当時の米国は排日機運の盛んな時でもあり、交渉は難航するものの、大正13年5月福澤桃介は自らニューヨークに乗り込み、機知に富んだ交渉と話術が効を奏し最終的には大同電力の社債は完売、その年だけで1,500万ドルの資金調達に成功、同年大井発電所は無事完成、送電を開始する。

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桃山発電所より下流、岐阜県中津川市にある大井ダムの全景。本邦初の大規模発電用ダムとして名高い。しかし一方で須原、桃山等の水流の落差を利用するだけのそれまでの木曽川水系の発電所と異なり、大井発電所は川をせき止めるダム式発電所である。その後長年にわたり電力会社と下流域の農民等の間に水争いを生むという禍根を残した。

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湖面を一望できるダム上部。手すり等にはセセッション風の幾何学的装飾が施されている。ダム建設によって生じた巨大な人造湖と、湖を縁取る巨岩・奇石群は恵那峡という新しい名勝を生み出した。

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福澤桃介は自ら作った発電所のヘッドタンク(水量調整用の貯水槽)礎石に、それぞれ内外の著名人に自ら懇望して得た記念の文言を刻み付けた。ここに取り上げた4発電所で言えば、須原が英国の元首相ロイド・ジョージ、読書は山縣有朋、桃山は無線電信の開発者であるイタリアのマルコーニ、そして大井発電所は養父で師の福澤諭吉の言葉「獨立自尊」である。

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ダム堰堤から大井発電所の本屋を望む。大井発電所は須原、読書等と同様に煉瓦と鉄筋コンクリートの混構造。当初あった細部装飾は殆ど残っていないため、あまり見た目は古さを感じられない簡素な外観である。最大発電量は42,900キロワットで、読書を上回る大同電力最大の発電施設となった。

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桃介はその後も木曽川に落合発電所(大正15)を建てるが、大井発電所が完成した大正13年には一段落ついたと見たのか貞奴と共に名古屋から東京へ転居する。大洞山荘と二葉御殿はここにその役目を終えた。そして4年後の昭和3年には病気のせいもあり、桃介は実業界から完全に引退する。

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福澤桃介が一大事業を成就、電力王の名を不動のものとして実業界を去るのと入れ替わるかのように、昭和に入ると今度は川上貞奴が、自らの人生の最後を飾るかのような二つの建物を木曽川の下流に作ることになる。

第290回・桃介橋・旧大同電力読書発電所(関西電力読書発電所)

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福澤桃介による一連の木曽川における電源開発においては、建設資材を現場まで運ぶためのルートを確保する必要があった。途中までは鉄道(中央線)で東京や名古屋から輸送することができたが、殆どの現場は間に木曽川を挟んでおり。このため木曽川には資材運搬用の橋が多数架けられた。大正11年(1922)、読書(よみかき)発電所建設のために架けられた桃介橋は、それらの橋の中でも最大規模を誇る。

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以下に掲げる古写真は全て、木曽川電源開発に係る建築・土木遺産を紹介する本企画において、最初に取り上げた福澤桃介別荘(福沢桃介記念館)内に展示されている建設時に撮られた写真を撮ったものである。

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当時は木曽川の水位がかなり高く、流れも急であったことが分かる。

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ワイヤロープの上に鳶職が何人も乗っている写真。完成間近の時に撮られたものか。

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現在は痕跡のみで現存しないが、主塔のアーチ部分及び柱には文字があるのが分かる。アーチ部分は「桃之橋」、柱の文字は「大同電力株式會社」ではないかと思われる。

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当初、福澤桃介は自らの名前の一字を取って「桃之橋」と名づけた。しかし当時から通称となっていた「桃介橋」が現在では定着してしまったようである。桃介橋に限らず、一連の開発に際して架けられた橋は、大同電力の他工事関係者の名前に由来するものが多い。

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例えば前回取り上げた須原発電所の前に架かる「満寿太(ますだ)橋」は桃介の片腕的存在で大同電力常務の増田次郎(1868~1951)に因む。元々内務省の官僚であったが、秘書として仕えた後藤新平に才覚を見出され、福澤桃介に紹介されたことを機に財界に転身、桃介引退後は大同電力社長、日本発送電初代総裁を務めた人物。(なお、満寿太橋は後年架け替えられており当時のものは現存しない)

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昭和25年に日本発送電から読書村(現・南木曽町)に寄贈され、村道として利用されるが老朽が進んだ昭和53年以降は通行禁止となっていた。平成5年に南木曽町によって修復、再び通行可能となる。
なお、桃介橋は昨年長野県の観光ポスターに取り上げられたので駅頭などで御覧になった人も多いと思われる。

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福澤桃介と川上貞奴の二人が並ぶ、このアングルで撮られた渡り初めの記念写真が残されており、福沢桃介記念館に展示されている。

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下層部石積、上層部コンクリート製の主塔部は意匠が凝らされている。

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主塔部は架橋当初のままだが、ワイヤーと橋桁は老朽が激しかったため、金具等一部を除き新しい材料で新調されている。

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福沢桃介記念館のすぐ近くには当初の橋桁が一部保存されている。

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主塔のコンクリート製部分の足元に穿たれたアーチ。

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片側のアーチは中洲へ降りられる石段につながっている。手すりは近年設けられたもので、かつては石段だけだった。手すりが無ければ上部は相当な高さがあり、怖くてとても降りられない。

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福沢桃介記念館で職員の方に聞いたところによると、実際に昔、転落事故もあったらしく手すりが整備されるまではここは立入禁止だった。現在は安心して上り下りできる。なお中洲は現在天白公園として整備されている。

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重厚な主塔下部の石積。

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中洲より真下から橋桁を見上げる。

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桃介橋は地元の学校の通学路にもなっており、現在も地元に密着した現役の橋である。修復された翌年の平成6年には、同時に建設された転勤コンクリート造の水道橋である柿其導水路、そしてこれから紹介する読書発電所と併せて、「読書発電所施設」として国の重要文化財に指定された。

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読書発電所全景。大正12年(1923)竣工・送電開始。当時木曽川水系の導水路式発電所の中では、最大の発電量(40,700キロワット、因みに須原は9,200キロワット)を誇った。現在は発電設備が更新されたことにより、最大発電量はもっと多くなっている。

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読書発電所の名称は当時の地名(読書村)に基づくものである。明治7年に与川(よがわ)、三留野(みどの)、柿其(かきぞれ)の3村が合併した際、新しい村の名を旧村のそれぞれ一部を取って合わせ、「読書」の字を当てたものである。これからの時代は読み書きが重要である、という理由でこの字を当てたという説もあるらしい。実際長野県は教育熱心な土地であり、ほぼ同時期に松本では旧開智学校のような建物が建っている。

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関西電力管内では唯一の、重要文化財指定を受けた現役の発電施設である。
なお重要文化財に指定された現役の発電施設は他に、東京発電(株)所有の石岡第一発電所(明治44年、茨城県)等がある。

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設計は大正10年に大同電力へ入社した佐藤四郎による。民間の建築事務所で工場等を多く手掛けていた経歴を買われ、福澤桃介自らが招いた建築家である。

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重要文化財に指定されるだけあって白く塗られた窓のスチールサッシ等、当初の形をよく残す。

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上部の半円窓や壁体上部のアールデコの装飾等、意匠を凝らしている。前回の須原発電所に比べるとモダンな造形で統一されている。

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構造は須原発電所と同様に、鉄筋コンクリートと煉瓦壁の混合構造である。

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本館の縮小・簡略化版といった感じの付属棟。

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木曽川水系の発電所の中で、読書発電所等煉瓦と鉄筋コンクリートの混構造とは異なる純然たる鉄筋コンクリート造で建てられたのは、同じ大正12年に一足遅れで竣工した桃山発電所であるが、これは次回紹介したい。

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読書発電所竣工の翌年、大正13年には大井発電所(大井ダム)が竣工する。本邦初の大規模発電用ダムが完成して、福澤桃介の木曽川電源開発はクライマックスを迎える。

第289回・旧大同電力須原発電所(関西電力須原発電所)

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福澤桃介が木曽川流域の電源開発に着手した明治末から、還暦を機に財界を引退する昭和3年までに建設した発電所は8つある。うち須原発電所は4番目に当たる。大正11年(1922)に竣工・送電開始、現在も現役の発電所である。なお、明治44年建設の旧八百津発電所(現在は資料館として公開、国指定重要文化財)を除く大正年間建設の7つの発電所は全て今も現役である。

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全景。発電所は木曽川の対岸を通る国道・中央線の双方からよく見える。この発電所が設けられた場所はかつての須原宿で、中山道の宿場町。現在は長野県木曽郡大桑村。

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福澤桃介は当初、旧尾張藩士が中心になって設立した会社である名古屋電燈の社長として木曽川の電源開発を進めるが、排他的な名古屋財界との確執を生じ、名古屋電燈からは手を引く。そして名古屋に代わる電力の販路として京阪方面に照準を定めた。名古屋電燈から分離した木曽電気製鉄を皮切りに合併を繰り返した末、大正9年に発電・送電・販売を一貫して行う電力会社として大同電力を設立、社長に就任する。長野県から岐阜県で生産された電気が関西電力の管轄である理由は、開発当初の経緯によるものである。

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本館全景。鉄筋コンクリートと煉瓦壁の混合構造。帽子のような形の尖塔が特徴的。木曽川に発電所が建設されることになった時、木曽の風致を害するものとして非難する声も多かった。福澤桃介はこれに対し木曽の景観を損なうものではなく、新たな景観の構成要素となるような発電所の建設を目指す。

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そのため、発電所のデザインを場所によって異なる形状色彩とする他、発電所の周囲に桃や桜など花の咲く木々を植える等の工夫が行われた。現在、そのうち賤母発電所などは桜の名所として名高い。須原発電所も周囲には桃の木が植えられている。

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明治末から大正期にかけて、建築の世界では住宅を中心に、変化に富んだ形状と色彩が特徴的なピクチュアレスク(絵画的)趣味の建築が多数建てられている。発電所のような構造物においてもこの手法が取り入れられたのではないだろうか。なお発電所の設計者は不詳である。

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発電所本館の下層部は重厚な石積みで、ロマンチックな曲線を描く上部の塔屋と切妻部分や、シャープな直線で構成される本体壁面とは対照的である。

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石積み部分も切石積の地階部、玉石積の一階腰壁と仕上げが異なり芸が細かい。

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宮崎駿のアニメに出て来そうな地階部分。

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桃介が建てた発電所は、半円アーチが連なる賤母(大正8)、煉瓦タイル貼りの大桑(大正10)、ゴシック風の桃山、アール・デコの読書(共に大正12)、等それぞれが異なる個性を持つが、須原発電所の自然石の造形は特に魅力的なものだった。

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次回も引き続き、旧大同電力の発電所と関連施設を取り上げたい。

第288回・旧川上貞奴・福澤桃介邸

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現在名古屋市によって「文化のみち二葉館(旧川上貞奴邸)」として保存・活用されている洋館がある。女優・川上貞奴の住まいとして建てられた。(大正9年(1920)頃建てられたと推測されている)しかしこの邸宅は同居人である福澤桃介を抜きにしては語れない。この館には建設の経緯から間取り、用途まで彼の影が常に存在している。あえて「川上貞奴・福澤桃介邸」という表題にした所以である。

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創建時古写真。名古屋市が作成した移築復元工事報告書によると、「あめりか屋」の設計施工によるものとされている。当初の所在地である名古屋市東区東二葉町(現・東区白壁)は、江戸時代の旧武家屋敷街で現在も続く高級住宅街の外れに当たる。なおこの界隈は戦災を免れた数少ない地域で、旧井元為三郎邸等、現在保存・公開されているものもある。
(以下建物に関しての記述は、上記報告書他貞奴、桃介それぞれの伝記等関連資料を参考として進めることとする)

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桃介の事業が一段落する大正13年までの約5年間、貞奴は桃介とこの家で生活、その間貞奴はこの館で政財界人等を接待、桃介の事業を側面から支えた。「二葉御殿」とも地元では称されたこの屋敷はその後昭和12年に売却、敷地は分割され、建物も二代目の所有者により大改造を施される。戦後は桃介が設立した会社のひとつである大同特殊鋼の所有となり、「二葉荘」の名で福利厚生施設として使われる。

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建物の老朽に加え、所有者側の事情もあって現地存続は難しくなり、最終的には名古屋市が建物の寄贈を受け、他所において創建時の姿で移築・復元を行い文化施設として再利用することとなった。他所での保存である事、60年以上前に取り壊された部分を再現するために建物の約半分がレプリカである事等については種々の意見があるが、現地保存が不可能で一旦解体せざるを得ない以上、また建物の歴史的価値が貞奴と桃介の住居であった、という点にある事を考慮すれば、改築後の形で復元するのではなく創建時の姿で復元する、とした判断は妥当なものと言うべきであろう。

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邸宅は右奥洋館部分(ベル状の切妻を道路側に見せている部分)、中央日本座敷部分(外観は洋館)、そして和風平屋建の付属棟、及び土蔵で構成されている。

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南木曽の福沢桃介記念館に展示されていた「二葉荘」時代の写真。昭和13年の改造工事で洋館部分を除却、付属棟の和風平屋建は洋館の廃材を活用して赤瓦葺の洋間に改造された。手前の半円形の張り出し部分は応接間である。(その奥には書斎)この改造工事の設計は以前取り上げた下呂温泉湯之島館の設計者である丹羽英二建築事務所が手掛けている。上の写真とほぼ同じアングルなので比較して頂けば、どこがそのまま残っているか分かると思う。

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付属棟の和風平屋建、内玄関からの眺め。左側に土蔵が写っている。

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洋館とは全く異質な、江戸風の土蔵。当時この土蔵の内部には、貞奴の厳しい躾に耐えかねて逃げ出した小間使が残して行った手荷物を包んだ行李や風呂敷包がごろごろしていた、と言われる。

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創建当初から殆ど変らずに残る部分は中央部分の日本座敷だけだが、外観を見る限りは洋館にしか見えない。なおこの部分のみ国登録有形文化財である。

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玄関車寄。赤い洋瓦で葺かれた和風の入母屋屋根を、4本の石張りの太い柱が支える異様な姿。
貞奴は外出に際しては黒塗りの馬車か、桃介が買った米国製高級乗用車に乗っていた。(当時名古屋で自家用車を持っていたのは福澤桃介と伊藤次郎左衛門(松坂屋創業者)ぐらいではないかと思はれる)そのような貞奴を当時の名古屋人はどのように見ていたか、羨望か、それとも嫉妬と嘲笑か。

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玄関を入ってすぐ左手にある大広間。手前に写るのは階段の照明燈。
二葉御殿での生活の様子については、川上貞奴の伝記「女優貞奴」(山口玲子著、昭和57年)に詳細な記述があり以下参考とさせて頂く。桃介を訪れる事業関係の来客は昼夜を問わず多数あり、それらの来客に対し貞奴は待たせる間の茶菓から晩餐の献立まで自ら決め、小間使を指揮してもてなしに努めた。現存する古写真によると、この大広間には撞球台も置かれていたようだ。

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大広間の螺旋階段。この階段の復元は、川上家の遺族からの聞き取りが唯一の根拠で、写真や図面は残っていなかったため、現存する同時期のあめりか屋設計の建築を参考にした推定復元である。また現行の建築法規に則って建てる必要があったため傾斜も推測されたものより緩やかなものになっている。但し照明燈は現物が数基残っていたため、不足分だけコピーを制作して取り付けている。

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大広間のステンドグラス。この邸宅はステンドグラスが多数使われており、昭和13年の改築後もその大半は転用されて現存していたが、このステンドグラスは現存が確認出来なかったため、古写真等に基づいて新たに制作したもの。古写真は当然モノクロなので、硝子の色彩は推定による。

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半円形に張り出した部分の内側はこのような作り付けのソファになっている。手前のものも含めてこのソファは創建時からのオリジナルを修復したもの。上記改築後の写真を見ると半円形の応接間があったが、このソファを転用したためあのような形になった訳である。壁の照明もオリジナル。付け柱は軽井沢の旧市村今朝蔵邸内部によく似たものがあり、旧市村邸を参考にしたものと思う。(実際、旧市村別荘も復元に際しての参考調査対象になっている)

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大広間からテラスへの出入り口に嵌め込まれたステンドグラス。邸内で最も大規模なもので一番の見どころ。
欄間の両端と右側両開き窓部分以外は、大正期のオリジナル。昭和13年改築後は扉部分は応接間に、欄間と左側両開き窓部分は玄関に転用されていた。

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上記踊り子のものと共に、杉浦非水の原画に基づいて制作されたものと伝わっている。杉浦非水(1876~1965)は、当時の三越やカルピスの広告図案等を手掛けグラフィックデザイナーの先駆的存在として名高い人物。なお妻で歌人の翠子(1885~1960)は福澤桃介の末妹で、即ち非水と桃介とは義兄弟の間柄でもある。

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当時まだ名古屋市中でも電燈はガス燈と併用するなど、電気の利用度合は低い中、二葉御殿は電気設備完備の豪邸であった。地階に自家発電の設備を備え、夜は煌々と電気照明を灯した。派手な色調のステンドグラスは人々に電気照明を印象強く見せつけるための舞台装置のひとつであったと思われる。

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近づいて見ると図柄に応じてさまざまな色硝子が使われていることが分かる。
杜若の花びら部分は、本物のような色調と模様の硝子を使っている。

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大広間に隣接する食堂。貞奴は夕方からの来客に対しては夕食を用意させ、献立は客の顔ぶれによって、専属の三人の料理人達と相談の上決めた。フルコースの洋食の後に出される鯛茶漬か鶏飯の夜食は二葉御殿の名物料理として評判だったという。(「女優貞奴」)

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ここのステンドグラスも創建当初からのオリジナルが残されている。山岳と高山植物の図柄。桃介による木曽川の電源開発を意識した図柄だろうか。

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当初厨房があった場所は昭和13年の改築で書斎に変えられている。内部に限って言えば昭和13年当時の改築部分も、創建時の部分の復元の支障にならない範囲で一部が保存されている。この書斎は右手窓の欄間に上記食堂のステンドグラスが嵌められていた点を除けば、ほぼそっくり移築保存されている。

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もうひとつ残る創建当初からのステンドグラス。二階の桃介書斎に飾られた、楓の図柄。貞奴は楓を好み、屋根瓦にも楓の葉をあしらっている。改築後は浴室に転用されていたが最初の位置は不明なので、推定復元の桃介の書斎にはめ込まれたようである。

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和室前の廊下。洋館の外観の合わせて廊下は漆喰塗りの壁と天井、寄木細工の床等、洋風に仕上げられている。

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貞奴と桃介の主要な日常生活の場は洋館ではなく日本座敷だった。居間や客間として使っていた座敷や茶の間、桃介の小書斎が当時のまま残っている。写真は1階座敷の床の間。柱は皮付き丸太を面取りしており、日常の居間にふさわしい寛いだ数寄屋風の造り。

古写真

この座敷の床の間を背に撮られた福澤桃介と川上貞奴。床の間の飾りからして正月の記念撮影と思われる。
(館内展示の古写真より)

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座敷に隣接する茶の間。窓が洋式の縦長窓になっていることが分かる。
桃介は早朝まだ暗いうちから起きて、近くの名古屋城までサイクリングに出かけ、済むと茶の間へ上がり新聞が届いていないか催促するのが二葉御殿の一日の始まりであったという。(「女優貞奴」)

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茶の間の奥にあるのは押入ではなく、桃介の小書斎。館内の展示解説によると工事途中で付加された可能性が高いようである。前回取り上げたとおり木曽谷の大洞山荘でも桃介は狭い書斎を作っている。狭い所は桃介にとって余程落ち着く場所だったのだろうか。

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二階の廊下は一階と異なり、完全に和風の縁側となっている。もともとここは北側を向いており(現在は移築に際して方角が変えられている)、当時の東二葉町は名古屋城もよく見える見晴らしの良い高台で、天気の良い日には木曽の御嶽を望める場所であったと言われる。

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二階座敷。一階座敷と異なり床柱以外は角材で仕上げられている。
貞奴は女友達を迎えるとここで花札を打っていたという。
なお隣は仏間になっており、毎朝必ず夫である川上音二郎の位牌にお経を上げていた。

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貞奴にとってこの屋敷は、桃介の事業を成就させるためだけにあったのではないかと思う。
屋敷の主人は法的にも実質的にも貞奴であったが、当時世間一般では二葉御殿は桃介邸、あるいは桃介の妾宅と見なされていたようである。保守的な名古屋の土地では異端児の桃介は浮いた存在であり、その妾同然に見られていた貞奴が如何なる目で見られていたかは想像に難くない。しかしこの屋敷での政財界人への接待等貞奴によるバックアップを受けた桃介は事業に邁進、木曽川には続々と発電所が作られることになる。
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