第328回・栃木病院

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「蔵の街」として知られる栃木県栃木市は、関東地方でも埼玉県の川越、千葉県の佐原等と並び古い街並みがよく残る町である。そのような町には例外なく質の高い近代洋風建築もある。栃木市の場合、筆頭に挙げてよいのが栃木病院であろう。大正2年(1913)の建築で、国登録有形文化財。

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外壁の意匠と屋根は極めて変化に富んだものである。欧州の木造建築に多いハーフティンバースタイルの洋館である。

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ハーフティンバーの洋館は明治末期から昭和戦前にかけて多く建てられた。栃木病院以外で現存する他のすぐれたハーフティンバーの洋館としては愛知県半田市の旧中埜家別邸、広島県呉市の旧呉鎮守府長官官舎、福岡県北九州市の旧松本家住宅などが代表的。

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栃木病院も細部にわたって濃密な意匠を持つ。

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建築に際しては当時の院長が、横浜の建築家に依頼したとも、市内に現存する栃木高校旧講堂の設計者に依頼したとも言われるが定かではない、とのことである。

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尖塔を備える。壁面も曲線を持った柱や、柱に塗られた明るいパステル調の色彩など、ロマンチックな雰囲気が漂う洋館である。

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正面は吹き放しのベランダを備える。下層には玄関と受付が設けられている。

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屋根の形も尖塔、寄棟、切妻、入母屋など様々な形が一つの建物に凝縮されている。

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換気口にも、大谷石と煉瓦片と飾り金物による凝ったデザインがみられる。

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栃木病院は今も現役の医院である。

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随所に生活感がただよう。建物そのものは残っていても、当初からの用途で今もそのまま現役の建物は、なかなかお目に懸かれるものではない、貴重なものである。

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「電話五七番」という古い電話番号の表示が今も残されている。戦前か戦後間もない頃のものと思われる。

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周囲の石の柵も風情がある。

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棕櫚は洋館によく似合う。

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背面。

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これまで映画やドラマのロケ地として度々使われているらしい。

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遠景。左手には土蔵付きの古い和風住宅、右手にはもとの畑跡に建てたと思しき真新しい建売住宅。
唐突に洋館が住宅街に現れるところは大阪・堺の是枝医院を連想させる。

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栃木病院の尖塔は周囲の住宅街からもよく目立つ。

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文化庁が運営する「文化遺産オンライン」の文化遺産データベースで栃木病院を検索すると室内の写真が(一室の天井だけだが)見ることができる。外観同様内部も見事なもののようである。

文化遺産オンライン
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第327回・旧妹尾銀行津山東支店(旧中国銀行津山東支店、旧津山洋学資料館)

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岡山県津山市に建つ異形の銀行建築。大正9年(1920)に津山に本店を置く妹尾銀行の津山東支店として建てられた。津山市指定重要文化財。なお、旧妹尾銀行の店舗は、他に旧林野支店が現存する。

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全景。旧妹尾銀行は周囲に古い家並みがよく残る出雲街道に面して建っている。津山市は戦災を免れ、現在も古い街並みがよく残されている。

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寺院としか思えない外観。昭和48年まで中国銀行の店舗として使われていたが、中国銀行から建物の寄贈を受けた津山市によって昭和53年に津山洋学資料館として整備公開される。しかし平成22年に同資料館は他所に新築移転、現在は公開されていない模様。

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本館の背後には石造と煉瓦造の倉庫がある。金庫や文書庫として使われていたものと思われる。

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純洋風の旧林野支店とは対照的に和風の外観。但し赤煉瓦の門柱・塀や屋根を葺く天然スレート葺など洋風要素もある。
内部も、吹き抜けの格天井や壁、床に至るまで凝った造作が施され見ごたえがあるものらしい。

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建てられた当時は、寺院と間違えて賽銭を投げたり、門前で手を合わせる者もいたという。

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建物は超一流の材木を惜しげもなく使い、内外共に技巧の限りを尽くしている。妹尾銀行の頭取は普請道楽の気があったと見え、工事を請け負った棟梁に注文を付け過ぎた結果、嫌気がさして投げ出されてしまったと伝わる。

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現在は閉鎖中のようだが、新たな活用方法を模索中と思われる。
そのときは右手前の駐車場に改造された部分をもとの赤煉瓦の柵に戻して欲しい。

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裏から。

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煉瓦塀と煉瓦倉庫。

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煉瓦倉庫の入口。

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公開再開が早く望まれる。

第326回・旧福富家住宅(出石史料館)

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兵庫県豊岡市出石にある出石史料館は、明治9年(1876)に当地を襲った大火の後間もなく建てなおされたと考えられる町家建築。豊岡市指定文化財。

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生糸を商う豪商であった福富家の住居として、京都から職人を呼び寄せ、贅を尽くして建てられたという。

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接客用の離れへ直接通じる門が母屋の脇にある。

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門の奥には、庭越しに専用の玄関を備えた離れが建っている。

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母屋正面。一階格子の一部が卍崩しになっている。

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母屋内部。土間。

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土間にある流しと奥に写るのはへっつい(カマド)。建物は創建当初に比べると縮小されており、かつては台所の規模ももっと大きなものであったという。

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囲炉裏と神棚のある茶の間。

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贅を尽くした造りの神棚。

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奥座敷から表を望む。

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奥座敷。

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裏庭に面した、湯殿及び便所への通路。

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母屋から離れへ至る畳敷きの渡り廊下。

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母屋二階座敷の床の間。

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離れは数寄屋風の凝った造作が随所に見られる。

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いかにも明治調の古風な置時計がある。

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一畳分の小空間だが棚や飾り窓など、豊かな意匠をもつ部分。

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円形の炉がある。湯を沸かす場所、即ち茶を点てるための茶席的な場所か。

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同じ座敷にある千鳥の釘隠し。千鳥というよりは太めの鳩サブレーという感じもしないではない。

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隣の座敷の床の間。写真の部屋ではないが、昭和15年帝国議会における反軍演説で知られる出石出身の政治家・斎藤隆夫(1870~1949)の書も、この離れの床の間に掛けられている。

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書院窓。建具も凝ったものだ。

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鳳凰かニワトリか、いずれにしてもあまり威厳のない意匠の釘隠し。

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離れ二階座敷の床の間。

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離れ縁側。創建当初からかどうかは分からないが、当時としては貴重な硝子戸をふんだんに用いている。

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現在は但馬の小京都・出石を代表する歴史的建造物のひとつとして公開されると同時に、出石の歴史資料が数多く展示されている。

第325回・旧仁科家住宅(都留市商家資料館)

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山梨県都留市にある、大正中期に絹問屋として建てられた商家。当地はかつて甲斐絹と呼ばれる絹織物の産地として栄えたところである。

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大正5年(1916)に建築着手、5年後の大正10年(1921)の完成。絹問屋を営むと同時に谷村町議(当時この地は山梨県南都留郡谷村町)も務めていた仁科源太郎によって建てられた。二階建の土蔵造。

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母屋の背後には土蔵が三棟ある。

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土蔵は現在も仁科家の所有のようである。痛みが激しいのが気になる。

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母屋は都留市に寄贈され、現在は市が所有。平成5年には都留市有形文化財に指定。

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雨戸には金属板が貼られ、防火防犯を重視した商家ならではの造り。

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都留市商家資料館として公開されている。

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帳場内部。土間と上り框。この建物と同時期に建設された埼玉県川口市の旧田中徳兵衛邸は煉瓦造の外観を持つ洋館だが、内部には同じような帳場を備えている。比較するのも興味深い。

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おそらくこれが、江戸時代以来の伝統的な商家の帳場の造りであろう。材木は良材をふんだんに用い、建具は材料細工共に凝ったものである。

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帳場の奥にある、接待用と思われる座敷。欄間や付け書院の細工の細かさはものすごい。

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建具の細工を拡大。

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同じく帳場の奥で、座敷の横には茶の間を挟んで洋式の仏間と応接間がある。

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縁側との仕切りに嵌め込まれた仏間の窓。様々な種類の型押し硝子が用いられている。下段の硝子は、前回の旧甲府商工会議所と同じものである。

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仏間。床は市松模様の寄木張り。仏壇は当家の主人が菩提寺の住職と京都へ出向いて購入したものであるという。

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仏間と応接間の境のドア。大正期の建築らしく象嵌細工による平坦な装飾が特徴。

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応接間。当家で扱う絹織物の売り込み先は当時は日本領であった朝鮮半島・台湾、そして大連・天津等中国大陸の諸都市など海外に及んでいた。洋式応接間の存在は建築主の商圏の広さも影響しているのでないかと考えられている。

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応接間の天井。金属板をプレスし装飾を打ち出した部分と漆喰塗りの部分で構成されている。照明は金属板部分の内側に設えた間接照明である。

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天井中央の金属板製飾り。換気口も兼ねているものと思われる。

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部屋の隅、仏間へのドア横に設けられた暖炉。直線を強調したセセッション風というべきか。

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仏間側からみた暖炉。二部屋同時に暖が取れるよう造られているユニークなもの。

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応接間の出窓。

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仏間の窓と同様、型押し硝子が用いられている。

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出窓は外部に面していない。建物の正面向かって右側に専用の出入り口があり、そこを入ると目の前にこの出窓が現れる。

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中庭からみた母屋。二階には洋風意匠の金属製手摺りがある。

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二階座敷から望む土蔵。手前には離れになった便所、その奥には湯殿がある。

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便所は洋館風の外観。

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母屋とは短い渡り廊下で結ばれている。

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便所横の装飾柱。用途は不明。

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縁側の硝子障子越しにみる中庭。

第324回・甲府法人会館(旧甲府商工会議所)

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甲府における初期の鉄筋コンクリート建築。大正15年(1926)竣工。山梨県における登録有形文化財認定第1号である。

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大正12年の関東大震災の経験を踏まえて設計施工された極めて堅牢な建築。近年の耐震診断でもマグニチュード8級の地震でも耐えられるとのお墨付きという代物。

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元々は甲府商工会議所として建てられたが、商工会議所移転後は甲府法人会の所有となり、現在に至る。

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甲府市は大東亜戦争(太平洋戦争)に際し、米軍の空襲で市街の大半を焼失した。旧甲府商工会議所は旧山梨県庁舎等と並び、戦災をくぐり抜けた数少ない建築のひとつである。戦後一時期は焼け出された周辺住民が館内に仮住まいして、煮炊きの煙で天井が煤だらけになった部屋もあるという。

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現在は、甲府法人会所有のテナントビルとして使われているが、希望者には建物を公開している。
甲府法人会ホームページ

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随所にステンドグラスが嵌め込まれているが、後述の部分を除き、後年の改修に際して新たに嵌め込まれたものであるそうだ。

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人造石仕上げの外壁は改修に際し、創建当初と同じ仕様で再現されたものであるとの事である。

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正面。

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玄関まわり。

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玄関内部。腰壁の人造大理石や建具、照明器具などは創建当初のもの。

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正面玄関の扉建具。

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上記建具を始め、館内の随所に用いられている硝子。戦前の建築でよく見られる型押し硝子である。

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一階から二階への階段手すり。人造大理石で重厚に飾られている。右手に写る木製の手摺りは近年の改修で新たに設けられたもの。登録有形文化財であるため、教育委員会に手摺りの形状について事前承認を取って制作したものであるとのこと。

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二階階段室。狭い感覚で張り巡らされた梁や柱が堅牢さを印象付ける。

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二階から三階へ至る階段室。上述のとおりステンドグラスは後補。

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三階ホールの天井はステンドグラスを張り巡らせている。甲府では最初に造られたホールであるという。

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改修前、天井のステンドグラスは後補の天井板によって塞がれていたが、日本建築学会会長も務めた建築家の清家清(1918~2005)の進言により、創建当初の形状への復原が進められたという。なおこのときは内装だけでなく、外観も創建当初の形態に最大限の復原が図られている。

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天井の色ガラスは、色の淡い部分は修復によって新たに嵌め込まれたものだが、それ以外は大正15年の創建当初そのままであるという。

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この建物は外観の人造石仕上げをはじめ、窓のスチールサッシまで大正末期の形状を保全している。保存改修を進言した側についてはもはや言うまでもないが、それを実施した所有者の英断はいくら評価しても足りないことは無い。

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天井天窓周辺の装飾。卍崩しの東洋趣味の装飾が施されている。
建物の設計・施工は山梨県建築士会初代会長を務めた内藤半二郎。山梨市の根津嘉一郎生家を設計した人物でもあるとの事である。

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舞台袖の照明器具を嵌め込んだ付柱も東洋的意匠を施している。

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暖炉のある三階の部屋。

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暖炉金物にはハートがあしらわれている。

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希望者には平日に館内を公開している。上記甲府法人会ホームページを参照頂きたい。

※今回、突然の訪問に快く応対頂き、様々な貴重なお話も聞かせて頂いた甲府法人会の方々に心より御礼申し上げます。

第323回・旧野田商誘銀行本店(千秋社)

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千葉県野田市は東日本における最大の醤油生産地である。野田の醤油醸造は江戸時代に遡り、また市街地は戦災を受けなかったため、醤油醸造に関係する歴史的遺産も多い。この建物もそのひとつである。

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大正15年(1926)に野田商誘銀行本店として建てられた。

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野田商誘(しょうゆう)銀行は、醤油醸造家達の出資で明治33年に設立された。昭和19年に戦時下の国策で千葉銀行に営業を譲渡した後、建物は千葉銀行野田支店として昭和44年まで使用される。

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現在は、野田に本社を置く醤油メーカー・キッコーマンの系列会社である(株)千秋社の社屋として使用されている。なお銀行の名称は言うまでもなく、醤油との語呂合わせである。

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玄関上部の装飾。

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中央上部の装飾。

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玄関。建物の設計者は不詳。

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玄関脇には、経済産業省による近代化産業遺産認定のプレートが貼りつけられている。なお近代化産業遺産に認定されているのは旧野田商誘銀行だけではなく、これを含む一連の野田市に現存する醸造関連遺産である。

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(参考)
経済産業省 近代化産業遺産
近代化産業遺産一覧野田市の醸造関連遺産については、58-60頁参照。

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正面外壁の大部分は石貼りだが、窓下や軒など正面の一部、及び側面の大半は同系色のモルタル塗り。

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腰と入口周りのみ石を貼りつけている。

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正面よりは簡素だが、側面入口にも装飾が施されている。

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背面。

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この建物の最大の特徴は、外壁に貼られた黄色い石である。大阪の住友本館旧岸本吉左衛門邸に用いられている竜山石(たつやまいし)と色調が似ているが、竜山石よりも軟らかそうなので別種の石と思う。

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何処の何という石か知らないが、この石材を用いたことが建物を魅力的なものにしている。

第322回・旧東山梨郡役所

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明治18年(1885)に、東山梨郡役所として山梨県東山梨郡日下部村(現山梨県山梨市)に建てられた。
昭和39年に解体、翌40年に明治村へ移築。明治村では最初期の移築建物のひとつ。国指定重要文化財。

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以前取り上げた甲府市の旧睦沢学校と同様、明治初期に当時の県令・藤村紫朗によって建設が推進された、山梨県下における初期洋風建築のひとつである。

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全体として見れば左右対称の構成だが、翼部だけを見ると変な柱の配置。

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背面。ベランダは正面にだけ設けている。

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ベランダの天井を網状に仕上げるのも、先述の旧睦沢学校をはじめ、この時期の洋風建築に広く見られる特徴である。

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入母屋造の屋根に白壁、正面に巡らせたベランダなど、明治初期の内務省系官庁建築の特徴を備えている。東京大手町にあった旧内務省庁舎(大正12年に関東大震災で焼失)、旧三重県庁舎(旧東山梨郡役所と同様に明治村に移築、現存)等も同様な形をしている。

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いわゆる擬洋風建築と称される、初期洋風建築特有の奇妙な形の柱。

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ファンライト(半円形欄間)を持つ正面玄関入口。

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2階内部。1室の大広間になっているが、当初からの間取りか移築後に改めたのかは不明。

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天井照明台座の漆喰細工は伝統的な花鳥風月のモチーフ。

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2階正面窓からの眺め。

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2階ベランダ。

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村長室はここに置かれており、明治村の中心的建築物と言える。
なお、東山梨郡は平成17年、最後の構成自治体であった勝沼町と大和村が合併により郡を離脱したため消滅した。

第321回・旧鴻池銀行七条支店

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明治以降、京都の金融街は当初は三条通、その後烏丸通へ移って現在に至るが、京都駅に近い七条通にも戦前は小規模ながら金融機関の店舗が軒を連ねていた。旧鴻池銀行七条支店はそのひとつ。昭和2年(1927)築。

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設計は大倉三郎(1900~1983)。京都出身の建築家で、戦後は京都工芸繊維大学、西日本工業大学の学長も務めた人物。

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鴻池銀行は江戸時代における大阪の豪商・鴻池家が明治に入って興した銀行である。昭和11年に、大阪の中堅銀行3行が合併、三和銀行が誕生するがその3行のうちのひとつが鴻池銀行であった。(他2行は三十四銀行、山口銀行)

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三和銀行は近年のめまぐるしい金融機関の合併再編を経て、三菱東京UFJ銀行の前身のひとつとなって現在に至る。

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旧鴻池銀行の店舗は近年まで大阪今橋の本店、広島支店がそれぞれ現存していたが、今は共にない。
なお、旧広島支店は昭和20年に米国により原爆が投下された際は大林組広島支店として使われており、被爆建物としても知られていた。

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旧七条支店の建物は金融機関の店舗としての役目を終えた後は仏具店に代わり、近年まで外壁が仏壇の如く黒く塗られていた。

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現在はフレンチレストラン兼結婚式場に代わり、外壁もクリーム色に塗りなおされている。
現在のテナントのホームページ

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玄関脇柱の持ち送り装飾。

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この建物のすぐ近くには、以前取り上げた富士ラビットが建っている。

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また東西両本願寺も近く、東本願寺前噴水西本願寺伝道院も近い。

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七条界隈は他に比べると小規模で地味ではあるが、京都における近代建築が集積された地域のひとつであると言える。

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第320回・旧北海道庁立図書館(北海道立文書館分館)

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大正15年(1926)に北海道庁の図書館として建てられた。現在は北海道立文書館分館として使われている。

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大正13年に摂政(天皇の公務を皇太子が代行するときの称号。即ちのちの昭和天皇)行啓を記念して建設が決定、2年後に完成した。

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床など一部が鉄筋コンクリート構造である点を除けば、煉瓦造の白色タイル貼り仕上げの地階付き2階建。

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背面。左手は書庫棟なので天井を低くし、5階建になっている。

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角地に塔屋を設け、その下に玄関を設ける。

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2層にまたがって伸びる円柱(ジャイアントオーダー)。

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デザインは大正期の建築によくみられるセセッション・スタイル。平面的で幾何学的な装飾が特徴。

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札幌に残る近代建築では、明治期を代表するものとしては旧北海道庁、時計台、豊平館等があるが、旧道庁図書館は旧札幌控訴院と並び、札幌における大正建築の代表格と言える。

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北海道立文書館の本館は先述の旧北海道庁、所謂赤煉瓦庁舎の中に本館があり、こちらは一般に公開されている。
それに対して分館は書庫的な扱いと思われ、一般には非公開。

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いかにも幾何学的な玄関。

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裏玄関。金属製の持ち送りもセセッション風。

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札幌の質の高い大正建築のひとつとして、もっと積極的な活用が望まれる。

第319回・大棟山美術博物館(旧村山家住宅)

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寺院の門前ではない。越後の豪農の館である。
新潟県十日町市にある旧村山家住宅は、現在大棟山美術博物館として、一般公開されている。

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杉並木に囲まれ、苔むした石畳の先に建つ門。

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門をくぐると豪壮な母屋が見えてくる。

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母屋正面。平成元年に当時の31代目村山家当主が屋敷を博物館として公開、現在に至る。
作家・坂口安吾(1906~1955)は村山家の縁戚に当たり、当家にも度々訪れ逗留していたという。

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一部は洋風に改造されている。戦前期の改造と思われる。

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訪れたときは雪の時期を目前にした頃だったので、一階は雪囲いで覆われていた。

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越後の豪農の館にふさわしい豪快な切妻屋根とはいささかチグハグな感のある入母屋屋根を持つ玄関。洋風部分同様後の改造と思われる。地方の旧家へ行くと、江戸期以来の古い母屋に近代以降、数寄屋風の座敷や洋館を次々と増築、あるいは改装を施した家にしばしば出くわす。弊ブログでも以前このような家を取り上げたことがある。

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玄関内部。

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茶の間。

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数寄屋風の一階座敷。

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一階廊下の欄間に嵌め込まれていた絵入り砂摺り硝子。摺り硝子の技法で模様を施したもので、明治~大正期の建物にしばしば見られる。弊ブログで取り上げた建物では、大阪の泉布観、神戸の旧ハッサム邸、東京の旧高橋是清邸、埼玉・川口の旧田中邸にあった。

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京町家などによく見られる箱階段。

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箱階段から二階を望む。階段横の部屋の出入り口はかなり強引に作った感がある。

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二階座敷。材料意匠共に凝ったもの。この家は古い母屋を近代以降、先程言及した京都・丹後の旧尾藤家のように増築ではなく、様々な改造を母屋に加えている事例である。

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同上、欄間の建具。

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卍崩しの高欄を廻した二階縁側。

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色硝子を嵌め込んだ窓もある。色硝子を用いるのは明治初期の文明開化趣味である。金沢の尾山神社神門や、長野・松本の旧開智学校など、この時期の建物によく見られる。

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洋風に改造されていた部分の内部。洋間ではあるが意匠は和風。

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お洒落なな洋風家具もあった。茶卓子。

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二階、上記で紹介した部屋とは別の座敷の天井。

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3月の震災で一時閉館していたものの、9月より再開したようである。

十日町市観光協会ホームページ

第318回・表慶館

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東京上野の東京国立博物館内に建つ表慶館は、明治41年(1908)竣工の、都内でも現存する数少ない明治建築。
国指定重要文化財。

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東京国立博物館がある上野公園一帯は歴史的建築物の宝庫である。表慶館をはじめ近代建築も多いので、今後も紹介していきたいと思う。

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日本人建築家の第一世代であり、宮廷建築家として生涯を捧げた片山東熊の設計による。弊ブログにて以前紹介した同一設計者の建築としては、迎賓館赤坂離宮奈良国立博物館仁風閣神宮徴古館及び神宮農業館がある。

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皇太子(のちの大正天皇)の御成婚を祝って全国から奉納された資金によって建設された。表慶館の名称もここに由来する。

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一見石造に見えるが、煉瓦造石張り仕上げである。入念な基礎工事と堅牢な構造により、大正12年の関東大震災でも無事であった。

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なおこの時、片山東熊の師・英国人コンドル設計の旧帝室博物館本館は一部が崩壊してしまった。その後これを解体して新しい帝室博物館本館(現在、東京国立博物館本館として現存する)が完成する昭和12年まで、表慶館は帝室博物館の中心施設となる。

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戦後帝室博物館は東京国立博物館となり、表慶館は展示の用途を変えつつも博物館施設としての役目は変わらず現在に至る。

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現在は向かい側に建っている東洋館(昭和43年竣工、明治村の生みの親としても知られる谷口吉郎設計)が耐震改修工事に入っていることを受けて、東洋館の仮展示室となっている。

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博物館としての性格上、壁面に窓は少ない。

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表慶館は近年大規模な修復工事が施された。
銅版葺のドーム屋根は、工事竣工間もない頃は人口処理による毒々しい緑青の色に唖然とさせられたが、年数を経て自然な色に近づきつつある。

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経年により自然緑青が覆うようになる新技術なのだそうだ。
こういう配慮は、高く評価してよいと思う。

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(参考)こちら表慶館の記事。

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正面石段両脇に据えられたブロンズの獅子像は片方は口を開け、片方は閉じている。神社の狛犬と同じで阿形・吽形に分かれている。

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中央ドームの下は、円筒形の二層吹き抜けになった華麗な玄関ホール。

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同上、天井画が施されたドーム内部。

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ドーム頂上は硝子屋根(トップライト)になっている。

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床は大理石による見事なモザイク。

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円形をモチーフにした床モザイクの模様。

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現存する円筒形の吹き抜けホールを有する近代建築としては、神戸税関本館(昭和2)と比較するのも興味深い。

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片山東熊の設計作品の中でも、表慶館は旧東宮御所には規模・質共に及ばないが、代表作と言える屈指の名作であると思う。

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展示室から側面階段室への間を仕切る天井アーチ。

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建物の左右に対になって設けられている階段室。外から見ると横についた円筒形の部分である。

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階段室から外へ通じる扉。

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池に写る表慶館。池は東京国立博物館本館の前庭にあるもの。

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黄昏時の表慶館。

第317回・旧清水医院

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明治村の旧清水医院は、かつては木曽谷の宿場町に建っていた医院建築。
明治30年代の建築と考えられている。国登録有形文化財。

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旧所在地は長野県木曽郡大桑町須原。かつては中山道の宿場町であった場所である。当時の須原宿は鉄道も開通していない山間の不便な宿場町であった。中央線が名古屋から須原まで伸びるのは明治42年、東京八王子までの全線が開通するのが明治44年のことである。なおその後、以前取り上げた旧大同電力須原発電所が建設されている。

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この医院を建てたのは須原出身の医師・清水半次郎。東京で医学を修めたのち故郷に戻り医院を開業、そのとき建てたのがこの建物である。

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館内に展示されている、須原にあった当時の古写真。前に立っているのがこの館の主・清水半次郎医師。
写真では屋根がトタン葺になっているが、現在は創建当初の杮(こけら)葺きで復元・保存されている。

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土蔵造で、窓の形状に洋風建築の影響がみられる。明治前半に全国各地に建てられた擬洋風建築のひとつと言える。
一階が受付・待合室・診察室など医院、二階は数寄屋風の居室となっている。但し二階は非公開。

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顔ではない。壁。

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玄関。脇に建つ壁は町家にみられる卯達(うだつ)の一種と言えるのか、袖塀と言うべきなのか。

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その壁の下部に施された左官細工。

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一階窓下の通風孔にも、同じパターンの模様が金物細工であしらってあった。

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入口をくぐると、裏まで続く通り土間になっている。手前に写るのが受付及び投薬用の小窓。

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同上、入口側から見た受付。

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受付内部。患者に処方する薬をここで調製していたのだろうか。

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受付の手前の上り框から待合室へ上がる。待合室は畳敷きの座敷。

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アーチ型の窓を除けば、洋風要素は見られない。

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待合室から診察室を望む。待合室の襖に書かれた文言は医院らしく、全て養生訓。

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診察室は板張りの洋式。

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全て旧清水医院で使用していたものではないと思うが、昔の医療道具類が置かれている。保存されている昔の医院建築としては、以前紹介した鎌倉の安保小児科と比べるのも面白い。

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木曽生まれの文豪・島崎藤村の姉が入院していたこともあり、旧清水医院は藤村の小説にも描かれているという。

第316回・東本願寺前噴水

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京都の東本願寺の門前を通る烏丸通にある、大正初期に建てられた噴水。

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大正3年(1914)(大正7年説もある)に、武田五一(1872~1938)設計で建てられた。武田五一は大正9年に設置された京都帝国大学建築学科の初代主任教授を務め、明治末から昭和初期にかけて関西、とりわけ京都を中心に活躍した建築家である。

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噴水の後ろに写るのは東本願寺の御影門。

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噴水を取り巻く植え込みの縁に用いられているのは、修復によって不要になった御影堂の古瓦である。

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現存する戦前の噴水では、名古屋市の鶴舞公園噴水(明治43、鈴木禎次設計)等と並ぶ数少ないものである。

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蓮の花を象った青銅製の吹き出し口。

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この蓮の部分は日本画家の竹内栖鳳のデザインであるという。

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竹内栖鳳は建築と縁の深い画家である。弊ブログで紹介したものでは座敷欄間のデザインを手掛けた紫織庵(旧川崎家住宅、大正15、洋館部分設計に武田五一関与)、客室「袖の間」のデザインを手がけた岐阜・養老公園の千歳楼などがある。

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東本願寺には、前回取り上げた西本願寺伝道院のような強烈な個性を持つ近代建築は無いが、伽藍は明治期造営の近代和風建築である。他、この噴水を始め、すぐれた近代建築物は東本願寺にも存在する。

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噴水の水は琵琶湖疏水から引いているという。

第315回・旧真宗信徒生命保険本社屋(西本願寺伝道院)

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京都・西本願寺の門前に建つ異様な姿の洋館。明治45年(1912)に真宗信徒生命保険の本社屋として建てられた。
京都市指定有形文化財。

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瓦屋根の家並み越しに、インド風とも西洋風ともつかない不思議な形状の屋根とドームを頂く塔屋が見える。

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西本願寺の門前、仏具を商う店が並ぶ中に建っている。

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当初保険会社の社屋として建設された建物であるが、建設後建物の用途は変遷を重ね、西本願寺が運営する診療所に使われたこともある。近年は「伝道院」の名称で研修施設として使用されてきた。そして近年大がかりな修復を終え、現在は展示施設として使われている。

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赤煉瓦の外壁で、角地に玄関を置き屋根はドームや尖塔で賑やかに飾るのは、辰野金吾が好んだスタイルで、英国のクイーンアン様式を辰野流にアレンジしたものである。この建物と同時期の建設で、現存する辰野設計の金融機関の本店建築としては旧日本生命九州支店(明治42)、旧盛岡銀行本店(明治44)等がある。

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真宗信徒生命保険の設計は、その辰野金吾の教え子であり、当時東京帝国大学教授であった伊東忠太(1867~1954)。
法隆寺の柱はギリシャのパルテノン神殿と類似性があると言い出した最初の人物で、中国からインドまで建築史研究の旅を行った事もある。そこで同時期大谷探検隊を派遣していた西本願寺と繋がりができたようである。

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後年、関東大震災で焼失した東京の築地本願寺の再建に際しては伊東が設計を行い、インド寺院風の本堂を昭和9年に完成させている。

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「辰野式」と呼ばれる赤煉瓦の壁体に、濃厚なインド風の味付けを施した外観。

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背面からの全景。建設当初はこの本館のほかに、倉庫、別棟になった便所、人力車控所等の付属建物もあったが、現在は本館のみが現存する。

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正面上部の円形ドームを頂く塔屋。

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上記円形ドームとは対角線上にある、背面の六角形塔屋。

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イギリス、インドだけではなく中国風、日本風と思われる細部装飾も見られ、何とも摩訶不思議な外観である。

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六角形塔屋の下部。

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角の小塔。

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なおこの建物の当初の建設目的であった真宗信徒生命保険とは、明治28年に西本願寺を大株主として設立された保険会社であった。

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その後共保生命、野村生命、東京生命と変遷を重ね、現在はT&Dフィナンシャル生命保険に受け継がれている。

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裏口。上部のアーチが特徴的。

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正面玄関の上部廻り装飾。曲線を用いた装飾が内外の随所に見られ、アールヌーボーの影響もあると思われる。

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通用口へ入るための袖塀の入口上部にも、インド風アーチが施されている。

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窓の間に並ぶ石柱の上部に、横に置かれているのは船肘木と称される日本の伝統建築特有の飾り。旧山口県庁舎(大正5、設計武田五一+大熊喜邦)の玄関ポーチにも同じ装飾が用いられている。

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もっとも、随所に和風意匠がちりばめられた旧山口県庁舎はあっさりと仕上げられており、この建物のような強いアクはない。それぞれ設計者の個性がよく現れている。

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建物をとりまく石の柵の上には、これも伊東忠太デザインの怪獣装飾が載っている。これも文化財の指定対象に含まれている。

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これは怪獣ではなく、象。以前和光荘の回でも触れたが、仏教の世界では象は仏の使いとも言われる尊い動物である。

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伊東忠太お得意の空想獣。伊東は常日頃漫画を描く事を好み、そこで描いた空想上の様々な動物や怪獣の類を自らの建築における装飾に織り交ぜている。

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以下、西本願寺のホームページに建物の由来や修復工事の詳細が載っている。
修復経過1
修復工事2

第314回・旧北里研究所本館・医学館

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旧北里研究所本館・医学館は、明治村に保存されている大正建築。大正4年(1915)に東京・芝白金三光町に建てられた。昭和55年に明治村へ移築。国登録有形文化財。

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旧北里研究所本館・医学館は移築から30年目に当たる平成22年に改修工事を実施した。1枚目及びこの写真は改修前の姿。

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改修工事後の姿。ペンキが色褪せていた壁面は塗り直され、鮮やかな鶯色になっている。なお両方の写真共、車寄に日の丸が掲げられているのは撮影日が旗日、即ち祝日だったからである。

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移築前、芝白金三光町時代の姿。当初はL字型平面を持つ建物だったが、左側の翼部は移築されていない。

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遠景。奥に見えるオレンジ色の屋根は旧芝川又右衛門邸、手前の日本家屋は旧東松家住宅、1軒置いて奥が旧札幌電話交換局。いずれも弊ブログにて既に紹介済。

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医学者で細菌学者の北里柴三郎(1853~1931)は、明治25年に自ら設立した伝染病研究所が東京帝国大学に移管されたことを契機に下野、大正3年に北里研究所を設立、翌年その拠点としてこの建物が完成した。

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北里柴三郎は、自ら留学し学んだドイツの研究所を模して、研究所の建物はドイツ風洋風建築とした。
曲線を持つ腰折れ屋根や正面の高く立ち上がった切妻、尖塔など、アクの強い外観が特徴。

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正面玄関を入ってすぐにある中央階段。飾り棚も当時のもの。飾り棚の上部には、車寄上部にもある北里研究所のマークが彫り込まれている。

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内部では、細菌学を中心に日本の医学の近代化に関する展示が為されている。

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室内柱の柱頭飾り。

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廊下は南側に設けられている。研究の性質上顕微鏡を覗く時間が多いので、一定量の太陽光線が安定して確保できる北側に研究室を配している。

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現代の小中学校の理科室の原型のような部屋。

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1枚目写真と比べると、塔屋の銅版も貼りかえられているのが分かる。

第313回・旧横浜ゴム平塚製造所記念館

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旧横浜ゴム平塚製造所記念館は、明治39年~44年(1906~1911)頃の建設と考えられている、神奈川県平塚市では現存する唯一の洋風建築とされている。国登録有形文化財。

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明治38年に日英同盟に基づき、軍事用火薬製造の為に英国と合弁で設立された日本火薬製造株式会社の英国人支配人の宿舎として建てられたと推測されている。

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日本火薬製造株式会社は大正8年に海軍が買収、海軍火薬廠となる。宿舎の建物は横須賀水交社平塚集会所として使用される。

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敗戦により海軍火薬廠は廃止、建物は戦後しばらく米軍に接収されるが昭和25年に横浜ゴムが取得ところとなり、以後長らく同社の応接施設として使われた。

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平成16年に、建物が平塚市へ無償譲渡され現在地の八幡山公園内へ移築、現在は集会等に用いることの出来る施設として市民に開放している。

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塔屋上部。

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基壇の換気口。

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ベランダを二方向に巡らせている。

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玄関はベランダの中にある。

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ベランダからの八幡山公園の眺め。

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ベランダには椅子とテーブルが置かれ、利用者が寛げるようになっている。

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幕末に洋風建築が流入して以来、明治期いっぱいまで広いベランダを巡らせるのが洋館(とりわけ住宅)建築の定番であった。

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しかし、冬の寒さに対応出来ない吹き放ちのベランダは、我が国の気候風土に合わないものとして徐々に用いられなくなる。

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その点、この建物は明治期の洋館らしい特徴を備えている。

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背面にはベイウインドウが2つある。どこから見ても、変化に富んだ外観の洋館である。

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横浜をはじめ関東大震災の被害がとりわけ大きかった神奈川県では、明治期の洋風建築は希少な存在である。

本文は以下のホームページを参考とさせていただいた。
平塚市ホームページ

第312回・旧出石郡役所・旧出石町役場車寄

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兵庫県北部・但馬地方の城下町・旧出石町(現豊岡市)に残る洋館。明治20年(1887)に出石郡役所として建てられた。現在は豊岡市立出石明治館として公開・活用されている。

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館内に展示されている古写真。当初は出石城跡に近い大手町に建っていた。

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その後現在地に移築され、昭和59年から資料館として一般公開され現在に至る。

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上記古写真と比較すると分かるが、当初玄関ポーチは2階まであったが現在は1層分だけになっている。

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兵庫県下には同時期に同じようなデザインの郡役所庁舎が建てられ、現在もいくつか現存する。

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いずれも明治前期の洋風建築としては質の高いものであり、本県における洋風建築の普及の速さがうかがわれる。

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正面。玄関ポーチの配置、窓の割り付けなど、まとまりのよい形を見せる。

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玄関ポーチの柱頭。擬洋風建築ならではの造形。

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上部にペジメント(三角破風)を載せた一階窓。

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大正15年(昭和元年)の郡役所制廃止まで使われた。

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玄関内部。

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階段手摺。

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「但馬の小京都」と称される城下町にあって、明治の洋風建築の姿を今に伝えている。

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旧出石郡役所庁舎旧所在地である出石城跡の近くには、昭和13年(1938)竣工の旧出石町役場庁舎の車寄部分のみが保存されている。

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第311回・旧札幌電話交換局

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愛知県犬山の明治村に保存されている旧札幌電話交換局は明治31年(1898)の竣工。明治村に現在10件存在する国指定重要文化財のひとつである。

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移築される前は札幌市の中心街にあった。(現在の大通公園の一部)近郊で切り出された札幌軟石を用いた石造二階建。

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明治43年には大増築が施され、札幌中央郵便局及び札幌電信電話局の局舎の一部として昭和37年まで使用される。

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昭和37年に解体を前提に払い下げられ、旧札幌電話交換局は豚小屋を建てる材料の石材となるところだった。

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解体に際し、創建当初の外壁が増築部分との間仕切壁の中に塗りこめられていたことが判明、明治31年当初の建物がそのまま残されていたことから明治村への移築が決まり、昭和40年移築工事が完了する。

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明治村でも最初に移築が決定し、昭和40年の開村当初から建つ建物のひとつである。

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昭和43年には国指定重要文化財となった。なお弊ブログで既に取り上げた明治村内の建物で国指定重要文化財は、旧札幌電話交換局の外に、旧西郷従道邸聖ヨハネ教会堂旧東松家住宅がある。

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1階と2階の外壁の間にある、花模様が掘り込まれた銅蛇腹。

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上下階で窓の形を変えており、上記銅蛇腹の装飾と併せて外観に変化をつけている。

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正面玄関。

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玄関内部。館内では明治から昭和にかけての電話機等、電話の歴史に関係する展示がある。

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階段親柱。

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第310回・神谷バー本館

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浅草に残る大正中期の鉄筋コンクリート建築、神谷バー本館。ワイン製造に取り組んだ実業家・神谷傳兵衛(1856~1922)が、最晩年にあたる大正10年(1921)に建設した。施工は清水組(現在の清水建設)。平成23年7月には国登録有形文化財となることが決まった建物である。

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浅草は吾妻橋の袂に建つ神谷バー。右隣のビルは東武浅草駅ビル。南海ビルディングの設計者・久野節設計の建物で現在創建当初の形態に戻すべく改修工事が進められている。こちらの建物も工事が終わった暁には紹介したいと思う。

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神谷バーは浅草名所として戦前から名高い。ここで出すカクテル「電気ブラン」は太宰治「人間失格」等の文学作品にも登場する。

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神谷傳兵衛が建てた建物は3つ現存する。古い順に並べると明治36年に茨城の牛久に建てられた牛久シャトー
、大正7年頃に千葉の稲毛海岸に建てた別邸の洋館、そして大正10年に東京浅草に建てた神谷ビル(神谷バー)である。

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大正期の建築らしく、正面は明るい色調のタイル張り。2階の3連アーチが外観の特徴。

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円形を取り込んだスチールサッシ。創建当初からのものかどうかは不明だが、戦前からのものであると思われる。

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竣工当時の浅草は、東京でも一番の歓楽街で、明治以来十二階の名で親しまれた凌雲閣もまだ建っていた時代である。しかし2年後の関東大震災で周囲は廃墟と化し、凌雲閣も震災により姿を消した。

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直ちに震災から復興した浅草界隈は再び歓楽街としての隆盛を取り戻すが、関東大震災から22年後の昭和20年、3月10日の東京大空襲で再び周囲一円は廃墟となる。

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東京大空襲では、神谷バーも上層階には火が入り内部を焼失したが、下層階の内部は火災を免れたようである。

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神谷バーは、関東大震災と東京大空襲をくぐりぬけて今も浅草に残る、唯一の建築物であると思われる。

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1階玄関。所在地は浅草1丁目1番地1号。定休日(火曜日)だったため残念ながら中には入れず。

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地下鉄銀座線浅草駅出入り口(昭和2年竣工)の飾り格子越しに望む、神谷バーと人力車。

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今度は中に入って電気ブランを飲みたいと思う。

第309回・福住楼

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福住楼は、箱根・塔之澤温泉にある、明治23年(1890)創業の温泉旅館。
明治初期から昭和中期に至る、各時代の建築から構成されている。国登録有形文化財。

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国道1号線に面して建っている福住楼。以前取り上げた千歳橋の袂に建っている。そして目と鼻の先の距離で、もう少し山側にはやはり以前取り上げた環翆楼がある。

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館内にあった古写真。正面に写っている建物は今も現存し、上の写真の左端の建物がそれである。明治初期に「玉の湯旅館」として建てられた和洋折衷建築である。当初福住楼の建物は少し上流にあったが、明治43年に関東地方を襲った大洪水で流失してしまった。しかし同年末にはこの建物で営業を再開、その後は昭和の半ばにかけて増改築を重ね、現在に至っている。

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城郭か御殿を思わせる堂々とした外観の環翆楼と比較すると福住楼のたたずまいは極めて地味なものである。
写真は上記古写真にも写っている、玄関及び帳場がある棟だが、唐破風を加えた以外は古写真の形と左程変わっていない。

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帳場に掲げられた福住楼の木彫扁額。

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玄関天井の照明は洋風の装飾が施されている。

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派手な彫刻やキンキラキンの装飾は無いが、建具等にシンプルながらも実に凝った造りが見られる。

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廊下の欄干の意匠も、派手さは無いが趣向を凝らしたものである。。

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蝙蝠をあしらった廊下の欄干。中国や朝鮮では古くから、蝙蝠は縁起のよい動物とされている。

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手洗いの扉まで凝ったものである。

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客室「桜一」の縁側。建具は中国風装飾も加味したものになっている。

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川に面した「桜一」の次の間。

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脱衣場。床は箱根名物の寄木細工。

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脱衣場の流しには見事なタイル模様がある。

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脱衣場の欄間彫刻。

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浴場。この宿のシンボルとも言える、松の幹をくり抜いたものを組み合わせて造った浴槽は、一枚目に掲げた写真の大丸風呂とこの写真の中丸風呂と2種類ある。

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もうひとつの浴室、岩風呂は3連円形窓など、アールデコ風造形が随所に見られる。根府川石とコンクリートで固められた造りで、木製の上記大丸風呂とは対照的な趣を有する。

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中庭。奥に大広間棟がある。

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大広間。奥庭と中庭に挟まれた風通しのよい座敷。近年は夏場は宿泊客にこの大広間を開放しており、好評なのだそうだ。

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奥庭に面した大広間の縁側。奥庭には茶室がある。

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特異な意匠の大広間天井。凝った造形は随所に見られるものの、同じ塔之澤にある環翆楼と比べると内外共に地味である。しかし仰々しさが無く穏やかな印象を受ける。皇族、政財界人等の利用が多かった環翆楼に対して、福住楼は文人の利用が多かったと言われる。

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大広間の床の間。反対側には舞台がある。環翆楼の大広間と比較して頂きたい。
なお言うまでもないが、よい悪いの問題では無い。それぞれの異なる持ち味を楽しんで頂きたい。

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三階にある客室、「桜五」。

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同上、窓からの眺め。以下全て同客室にて撮影。

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早川の渓流を目と耳で楽しめる縁側。

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凝った欄干。右側に写る障子の桟の本数に注目。

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床脇の書院。

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窓際に設けられた読み書きに便利な造りつけの机という、書院の本来の由来がこれを見るとよくわかる。なお机上の電話は帳場(フロント)への内線電話。

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書院窓から見える中庭。透明硝子と型押し硝子と、二種類の硝子が使われている。

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