第364回・旧児玉竹次郎邸(江戸堀コダマビル)

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大阪市西区江戸堀にある、もと住宅で現在はテナントビル。昭和10年(1935)に、大阪市内で綿布商を営んでいた児玉竹次郎氏の住居として建てられた、スパニッシュスタイルの洋風町家とでもいうべき住宅建築。

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児玉竹次郎氏から数えて三代目の主・児玉竹之助氏によって昭和53年にテナントビルに改装され現在に至る。平成19年には国登録有形文化財に選定されている。

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ビル内部に置かれた創建当初の姿を再現した模型。

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現在は埋め立てられているが、裏側は江戸堀川に面しており、地階を含めて4階建分の高さがあった。

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採光用の中庭がある。

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このビルが建てられた当時の江戸堀界隈は、高塀を巡らせた町家が並ぶ街並みが続いていた。児玉邸も周囲に合わせ前面は和風の高塀を立てていた。現在この界隈には、そのような町家は全く残っていない。

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現在の江戸堀コダマビル。高塀が無くなった以外、外観は変わらない。

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設計・施工は大阪市内にあった岡本工務店。当時米国人建築家・ヴォーリズの建築を多数施工していたことで知られる建築業者である。

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現在は改装されているが、本来は住宅だったので当初内部は和室を中心に構成されていた。

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玄関。屋根瓦は円筒を割ったような形状の本格的なスペイン瓦を用いている。

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玄関照明。当初からのものと思われる。

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玄関脇にある、旧応接間のステンドグラス。スチールサッシも創建当初のからのものであろう。

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玄関のステンドグラス。

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玄関から内部を見る。廊下、階段周りを除き内部は改装されている。

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階段。

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上階から見下ろした玄関の屋根瓦。

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館内には児玉家に伝わる古い家庭道具類を展示する資料室があり、一般公開されている。
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第363回・旧ベリック邸(ベーリック・ホール)

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現在は横浜市が所有・管理するベーリック・ホールは英国人貿易商B・R・ベリックの自邸として昭和5年(1930)に建てられた。山手界隈の洋館では最大の規模を誇り、規模だけではなく質も極めて高い洋館である。

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山手地区の洋館を数多く手掛けた他、ホテルニューグランドの増築工事など横浜とは縁が深い米国人建築家J・H・モーガンの設計。

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軒下の壁面には、ホテルニューグランドの増築部と同じような装飾が施されている。

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正面全景。外観はスパニッシュスタイルを基調としている。

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昭和5年に建てられた後、戦前までは住宅として使用され、戦後昭和31年にベリック家から宗教法人カトリック・マリア会に寄付、セント・ジョセフ・インターナショナル・スクールの寄宿舎として使われていた。平成13年に横浜市が寄贈を受け取得、修復の上翌14年より一般公開して現在に至る。

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煙突の下部にあるタイル張りの噴泉。

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二階の小窓はクワットレフォイルという、イスラム様式の流れを汲む飾り窓なのだそうだ。

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見事なアイアンワークの玄関扉。

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階段室。外観だけでなくインテリアも非常に充実したものであり、横浜を代表する洋館邸宅のひとつと言える。

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黒白チェック模様の床が如何にも外国人の住居らしい。

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リビング。館内で最も広い部屋。天井を他の部屋よりも高く取っているため、玄関ホールからは階段を数段降りて入るようになっている。

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リビング天井。太い梁を走らせ重厚に仕上げる。

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リビング暖炉。冒頭の外観写真で紹介したタイル張り噴泉の裏側に当たる。

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パームルームと称されるサンルーム状の部屋に続く。

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パームルーム内部。籐椅子がよく似合う。

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パームルームにもタイル張りの噴泉がある。

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外と同様、ここにもライオンの頭部を象った水吐きがある。

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リビングとは玄関ホールを挟んで反対側にある客間。

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客間に続く食堂。

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食堂の天井の梁。

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食堂暖炉。暖炉も天井もリビングに比べるとシンプルに仕上げている。

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食堂に設けられた床の間風のくぼみ。他にも横に走る長押など、食堂は少し日本色が見られる。
外国人設計の洋館で、同じような意匠上の工夫は、現在同じ横浜山手に移築保存されている旧内田定槌邸(J・M・ガーディナー設計、明治43年)の居間・客間でも見られる。

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二階の子供部屋。家具等の設えは昔の外国人住宅の子供部屋を再現している。

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クワットレフォイルの飾り小窓。

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客用寝室。内壁に用いられている様々な色を見ると、この洋館が西洋人の住居であることが分かる。食堂等一部の部屋を除き、日本人の感覚では馴染めなさそうな色調の部屋が多い。

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浴室。先述の子供部屋も含め、部屋毎に便所と浴室が完備されている。

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規模、意匠のみならず設備の充実ぶりにおいても横浜随一の洋館ではないかと思われる。

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3連アーチが特徴的な玄関ポーチ。

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一口に日本に建つ「洋館」といっても、外国人のために建てられたものと日本人のために建てられたものは大きく異なる。また外国人向けに建てた洋館も故国からそのまま持ってきたようなものではなく、殆どは異国の地の気候風土や文化を部分的にでも意識して造られている。それが日本の「洋館」の特徴であり魅力でもある。またその差異を探りながらの建物巡りは奥深く、終わるところがない。

第362回・旧多木久米次郎邸「同比閣」(多木浜洋館)

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我が国における化学肥料製造の草分け的存在としても知られる多木化学(株)の創業者・多木久米次郎が、兵庫県加古川市にある自邸内に迎賓館として建てた洋館。大正から昭和に亘り15年の歳月をかけて築かれ、外観を銅板で覆い尽くした木造四階建の異形の洋館は、地元では「多木浜洋館」または「あかがね御殿」の名で知られている。

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多木化学(株)は創業以来本拠を、加古川市は播磨灘に面した別府(べふ)に置いている。
山陽電車別府駅から播磨灘方面を目指して歩くと、途中多木化学の本社事務所に出会う。大正期以前の建築と思われる木造洋館である。

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多木化学本社玄関。細部までしっかりと造られた洋風建築であることが分かる。
なお、すぐ隣には創業当初、本店としても使われていた多木久米次郎の生家も残っている。

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別府川に差し掛かると、別府港に近い河口付近に異様な建物が見えてくる。旧多木久米次郎邸の洋館である。
大正7年(1918)に建設に着手、銅版張りの外観が完成したのが同13年頃、その後内装工事に着手、完成したのは昭和8年(1933)頃のことであったという。設計者は不詳。

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多木久米次郎(1859~1942)は、家業のひとつであった魚肥製造業を発展させて現在の多木化学を創立、化学肥料の製造販売で産を成し「肥料王」と称された人物。また明治41年から衆議院議員を6期務め、昭和14年から死去まで貴族院議員を務めた政治家でもあった。写真右側に写る森は旧多木邸に隣接する住吉神社。ここの境内には彼の業績を称えるため昭和11年に巨大な銅像が建てられている。

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実業家として、また政治家として郷里加古川に多大な貢献を果たした業績を称え建てられた銅像も、建立から間もなく戦時中の金属供出で姿を消した。現在は、海軍大将で当時内大臣であった斎藤実子爵(銅像建立と同じ昭和11年、2・26事件で暗殺された)の揮毫になる、「肥料王」の文字が刻まれた巨大な御影石の台座だけが残る。その上に置かれた石碑には「多木久米次郎翁銅像應召之址」とある。

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上記台座については後日談があり、自分で「王」と名乗るのは如何なものかという声が周囲から挙がったことを聞いた多木久米次郎は「王」を「主」に変えてこれで問題ないだろう、と片付けたとか。
(このエピソードは「NHK人間大学・近代日本の洋館をさぐる」第8回・肥料王(平成10年11月25日放映)にて藤森照信氏が紹介している)

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街路に面した1階外壁は煉瓦積である。昭和8年頃完成の建物の構造としては古い構造を採っているが、先述のとおり建物の外郭が出来たのは大正13年であり、起工は関東大震災前の大正7年である。

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煉瓦積といっても非常に堅牢に造られており、阪神大震災のときも建物につながる煉瓦塀と共に被害は全く無かったらしい。

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石造、和洋折衷の門。門をくぐるとすぐ右手に洋館玄関、そして現存しないが左手には日本館の玄関があった。

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石造の門は珍しい。
銅製の照明器具は当初からのものと思われる。

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銅板で建物を覆ったのは、潮風から建物を守るためと推測されている。
屋根、外壁、軒裏まで徹底的に銅板で覆い尽くされている。

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播磨灘を望む南側にはベランダ(3階の大きな硝子窓がある部分)を備えている。
全体的に閉鎖的な外観の中でも南側からの眺めは幾分開放的に見える。

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洋館正面。かつてはこの洋館と正面を向い合せる形で日本館が建っていた。藤森照信著、講談社刊「日本の洋館第三巻・大正編Ⅰ」の「多木久米次郎邸」の項には以下のように記載されている。「…現位置に、明治四十三年、豪壮な屋敷を構えた。庭に奇岩怪石を配し、不動明王など石像仏を立て、珍樹を植えた木造総二階の純和風住宅である。」
現在は庭石や不動明王の石像、玄関跡の石畳に面影を残す。

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多木久米次郎は日本館で日常生活を送り、洋館は専ら賓客の接待の為に建てた。室内も外観同様、建築の常識に囚われない大胆不敵な意匠を施した部屋の数々が広がる。

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建物は通常非公開だが、要予約で月に一度公開日を設けている。
残念ながら、内部写真は見学に際し、専ら個人観賞用という条件で撮影させて頂いているためお見せできない。
室内の様子は、下記の公式ホームページや上記の「日本の洋館」で見ることができる。
多木浜洋館ホームページ

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現在は多木家が設立した学校法人が所有・管理しており、多木化学が研修等社用で使用されることも多いようである。

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最上階の四階。一間のみ。

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現在内外装の修復が進められており、外部では戦時中の金属供出で失われた一階格子の復原、長年に亘って閉鎖されていたベランダの改修等が近年完了した。引き続き修復作業は随所で行われる予定のようであり、今後も期待される。

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洋館手前の石組がかつての中庭。中庭を挟んで日本館と洋館が並ぶ構成の邸宅であった。古写真によると日本館も洋館に劣らぬ壮大なものであったようである。

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洋館玄関と不動明王の石像。

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洋館玄関の上部には、明治時代から使い始め、現在も多木化学の商標として使われている「神代鍬」があしらわれている。

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この「神代鍬」の印は多木家の家紋と共に、建物の内外の随所で見られる。先述の門にも同様の装飾が施されている。

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旧多木邸洋館、門、煉瓦塀、銅像台座は平成14年に国登録有形文化財に選定されている。

第361回・ときわ荘(旧櫛渕家住宅)

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ときわ荘と言っても若い頃の手塚治虫や藤子不二雄が住んでいたアパートではない。
前回取り上げた富岡製糸場と同じ群馬県富岡市にある割烹旅館の名前である。

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昭和13年(1938)に櫛渕家住宅として建造された和風邸宅で、平成20年には写真の本館(母屋)他、土蔵、長屋門が国の登録有形文化財に認定されている。

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設計は明治神宮宝物殿の設計で知られる大江新太郎(1876~1935)が主宰する大江國風建築塾。
櫛渕家の工事に着手した昭和10年に大江は没しているので、この建物は専ら弟子の設計によるものと思われる。
明治神宮宝物殿とよく似た赤い鬼瓦が用いられている。

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玄関内部。亀甲型の目地を刻んだ土間は研ぎ出し人造石と思われる。

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玄関横の花頭窓と下駄箱。

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すばらしい材木をふんだんに用いて造られた折り上げ格天井。

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建具も凝っている。

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部屋ではなく廊下に折り上げ格天井を用いるのはちょっと珍しい。

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割烹旅館だが、食事のみの利用も可能である。
群馬県の特産品であるこんにゃくを中心とした懐石料理などが楽しめる。

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数寄屋風の小座敷の天井。

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広大な庭園に面した縁側。

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最も格式の高い座敷「金鵄の間」を次の間から望む。

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「金鵄の間」の床の間。

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(参考)
「ときわ荘」ホームページ

第360回・旧富岡製糸場

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群馬県富岡市にある旧富岡製糸場は、明治5年(1872)に明治政府によって設置された官営模範製糸場である。
構内には開業当初の建物が多く現存し、国指定重要文化財に指定されていると同時に敷地は国の史跡に指定されている。現在世界遺産登録に向けての動きが進んでいることでも知られる。

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幕末の開港以来、最大の輸出品であった生糸の品質の維持・向上のためには、生糸の生産から携わる技術者の育成まで模範となる官営工場を設置することが効果的であると明治政府は考えた。

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横浜の商館に勤務し、明治政府によるお雇い外国人の一人でもあったフランス人ポール・ブリュナが、関東近辺の主な生糸の生産地を調査した結果、富岡が最も好条件であったことからこの地に製糸場が建設されることとなった。

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主要な建物は、フランス人バスティアン(バスチャン)の設計で建てられた木骨煉瓦造。

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昭和62年(1987)に操業を停止するまで、115年に亘って稼働し続けた。

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操業停止後も、所有者であった片倉工業(株)でよって大切に維持されてきた。
重要文化財指定後の平成17年に敷地建物一式が富岡市に寄贈され、現在に至る。

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明治初期の官営工場で、これだけ大規模な形で残るものは無く、旧富岡製糸場だけである。

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現在、施設は一般公開されておりボランティアガイドの解説を受けながら見学できるようになっている。

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東繭倉庫。ベランダ状の通路を有する。

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上記写真の反対側。

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女工館。当初は技術指導に当たる外国人の宿舎として建てられたもの。

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製糸場。外光を採り入れるため大きく取った窓が特徴。

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製糸場内部。白く塗られた木組みは圧巻。
下の製糸機械は操業停止時点まで稼働していた昭和期のものが保存されている。

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首長館とも呼ばれるブリュナ館。上述のポール・ブリュナのための住宅として建てられたもの。

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後年は工場内の医務室として使用されていたそうである。

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平成19年に「富岡製糸場と絹産業遺産群」として、他の絹業関連遺産と共に世界遺産暫定リストに登録されている。
(参考)
富岡製糸場世界遺産推進ホームページ

第359回・ブラフ18番館

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横浜は神戸と同様開港地として、幕末以来多くの外国人が住宅を建てて住んでいたが、現存する外国人住宅の建設年代は神戸と異なり建設年代に偏りがある。大正12年の関東大震災では、在留外国人の間で「ブラフ」と称されていた山手界隈も壊滅的な被害を受け、神戸のような異人館街は存在しない。しかし震災後から昭和初期の短い期間に建てられたいくつかの外国人住宅は現存する。ブラフ18番館はその中でも震災後間もなく建てられた住宅である。

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石川町駅の近くにあるイタリア山庭園に移築保存されているブラフ18番館。当初は同じ山手界隈でも少し離れた別の場所にあった。なお、ブラフ18番館というのは、現在建物が保存されている土地のかつての区割り番号から、移築後新たに名付けられた名称である。

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移築前の所在地において、街路と敷地を隔てていた特徴的なコンクリート塀が、現在地にて公園の外構として再現されている。

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この建物は震災で大破した外国人住宅を解体し、その古材を用いて急造で建てられた。竣工は大正12~13年頃というから竣工当時は焼け野原の中に建っていたものと思われる。

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横浜の異人館に震災前からよく用いられているのがこのフランス瓦。神戸の異人館の殆どが日本瓦葺であるのとは対照的である。

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神戸の異人館は外壁がペンキ塗りの下見板張りのものが大半だが、横浜の異人館は震災の経験から防火を重視してモルタル塗りにしたものばかりである。この建物も前身建物は下見板張りであったことが古写真等から判明している。

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異人館には付きもののベランダ兼サンルーム。

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同じく異人館の定番であるベイウインドウ。

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玄関ポーチ。

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内部から見た玄関ポーチの硝子戸。

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内部は簡素な造りである。

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室内。建具の色からか、明るい印象の部屋。

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暖炉。

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部屋からベランダ兼サンルームへの入口。

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ベランダ兼サンルーム内部。

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現在は横浜市の施設として、隣接する旧内田定槌邸とともに公開されている。

第358回・移情閣(孫文記念館)

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前回の望淡閣の次は移情閣。
望淡閣のある神戸市垂水区塩屋からさらに西、明石海峡を挟んで淡路島を眼前に望む舞子の浜に建つのが移情閣。
明治から大正にかけて、在神華僑の中でも屈指の富豪として知られた呉錦堂(1855~1926)の別荘「松海別荘」の一部として、大正4年(1915)に建てられた西洋風楼閣である。国指定重要文化財。

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明石海峡大橋と移情閣。八角形の楼閣であるが見る角度によっては六角形に見えることから地元では、「舞子の六角堂」の名で長年親しまれてきた。現在移情閣は兵庫県立舞子公園の中にあり、「孫文記念館」として一般公開されている。同公園内には、既に弊ブログで取り上げた旧武藤山治邸(旧鐘紡舞子倶楽部)旧又野良助邸(旧木下邸)も保存・公開されている。

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呉錦堂は明治半ばに、舞子浜に事務所を兼ねた別荘を建て「松海別荘」と名付ける。その後呉の事業の拡大により明治40年ごろには、広壮なコンクリートブロック造2階建の西洋館が隣接して建てられた。その後、呉錦堂の自らの還暦と実業界からの引退を記念して三層の楼閣を増築する。それが現在残る移情閣である。

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旧武藤山治邸の記事でも触れたが神明国道(現在の国道2号)拡幅により、海岸べりの旅館や別荘の多くが立退き、或いは敷地を削られた。松海別荘も明治40年築の洋館は完成から僅か20年で取り壊される。残った移情閣に明治半ばからある当初からの建物を接続し、厨房等を備えた付属棟を増築して、現在見るような形になったのは昭和3年(1928)のことである。

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白大理石に刻まれた「移情閣」の扁額。
移情閣はその後、戦争を挟んで約40年間舞子浜に特徴ある姿を見せていたが、昭和39、40年に立て続けて台風の被害を受け大破。そのため改修工事が施される。それらの結果、それまで残っていた建設当初からの姿はこのときかなり失われている。

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兵庫県の文化財に指定後、明石海峡大橋架橋に伴う周辺の埋め立てと国道2号線拡幅に際して、海岸べりのロケーションを維持するため現在地に解体移築、このとき概ね昭和3年当時の姿に復元された。その後移情閣が重要文化財に指定され、現在に至る。写真手前の建物が附属棟。最も古い部分で兵庫県の指定文化財である。海側にはベランダを設け、硝子戸を立て込む。旧居留地の十五番館を連想させる建物である。

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開放的な海側とは対照的な山側の外観。手前の切妻屋根の平屋建は昭和3年に増築され、昭和40年代の改修で撤去された厨房棟の外観を今回の移築復元時に再現新築した管理棟。

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木骨煉瓦造二階建、モルタル塗りで石造風に見せる。

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附属棟の玄関。すぐ横に移情閣の玄関があるので、内玄関的な使われ方をしていたのではないかと思われる。

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移情閣の玄関。現在は管理棟に入口があるので、催事等の場合を除き、通常見学者はここからは入れない。

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催事でこの玄関から入る機会があったので、写真はそのときのもの。
内側のアーチがキューピーの頭のように少し尖っているのが分かる。

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玄関を入ってすぐ現れる一階の部屋。現在は孫文に関する資料等を展示する記念館になっている。
孫文は大正2年に来神しているが、このとき今は無い松海別荘の西洋館で歓迎の昼餐会が行われている。そのため孫文ゆかりの建物として古くから知られ、孫文記念館となった契機でもある。ただし移情閣は大正4年の新築なので、移情閣の建物自体と孫文に直接的な関係は無い。

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一階の暖炉。オリジナルは昭和40年代の改修で撤去され現存していなかったので、古写真をもとに復元されたもの。

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松海山荘及び移情閣の変遷、孫文記念館開館のいきさつは孫文記念館のホームページで詳細が分かる。
孫文記念館ホームページ 移情閣概要

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天井の照明台座飾りは中国風。極彩色の龍の彫刻を飾る。

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2階への階段。八角形の部屋に沿って設けられているのでガクガク曲がりつつ登る。

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階段から玄関を見下ろす。

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移情閣の見どころのひとつ、館内を彩る金唐革紙。昭和40年代の改修で壁紙も全て貼りかえられていたが、カーテンボックスの裏から断片が発見されたことから復元が可能になった。

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2階は天井を全面に亘って木製の格縁と鏡板で仕上げた、最も重厚な印象の部屋。

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2階の天井飾りは牡丹の彫刻。3階は全面白漆喰塗でセセッション風の幾何学文様を施した1・2階とは全く異なる趣の天井を持つ部屋であるが、残念ながら非公開。

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2階暖炉。1階同様復元であるが、持ち送り(上の暖炉棚を支える部分)のみ創建当初のオリジナル部材。撤去した際に工事を請け負った業者が保管していたものが復元工事に際し帰ってきたものである。

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暖炉まわりのタイルは英国製。創建当初からのオリジナルは非公開の3階暖炉にのみ残り、写真のものを含めた1・2階のタイルは、移築復元に際し英国で新たに制作された復元品。

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扁額は創建当初から残る数少ない調度のひとつである。

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呉家により移情閣で使われていた中国式家具。家具調度類は多くが散逸あるいは失われた中、近年里帰りしたもの。

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附属棟の暖炉。各部屋に同じものが据え付けられている。附属棟は一時期荒廃が甚だしい時期があったためか、復元した箇所が多いように思われる。

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附属棟1階のベランダ。台風で倒壊・撤去されていたため今回復元された。
旧武藤山治邸も昭和50年代に移情閣と同様にベランダが台風で倒壊しているが、白砂青松の地として江戸以前より名高かった舞子浜の風光も明治・大正期までの話で、昭和以降は砂浜が徐々に浸食・消滅していたため、いずれの建物も台風のときは高波の直撃を受けやすくなっていたのであろう。

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平成12年に移築工事が完成してから12年を経て、今は神戸の新たな名所として定着しつつある。
写真は早春の大阪湾を望む移情閣。天気のよい日は紀伊半島まで遠望できる。

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黄昏時の移情閣。

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夕日が沈む明石海峡と移情閣。

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ライトアップされた雨の夜の移情閣。

第357回・旧ジェームス邸(望淡閣)

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神戸は北野町以外にもある、もうひとつの異人館街・垂水区塩屋にあるスパニッシュスタイルの大邸宅。
大阪湾から瀬戸内海、そしてその間に浮かぶ淡路島を一望できる位置にあることから「望淡閣」の名がある。

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正門越しの眺め。塔屋を持つ洋館は地元にの人々に親しまれている。
塩屋界隈は海の近くまで山が迫っており、平地は少ないが見晴らしの良い高台と砂浜を備えた風光明媚な地として、明治以降は英国人を中心に多くの外国人が別荘や自邸を建てた。

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坂道に沿って続く長大な塀。
神戸で貿易業を営む英国人アーネスト・ウイリアムス・ジェームスは、昭和初期からこの地で英国人向けの宅地開発を行った。周囲一帯はジェームス山と呼ばれ現在に至る。そして自邸としてこの界隈でも最も大規模な邸宅を築く。昭和9年(1934)のことである。

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車庫兼運転手用住宅。一階をガレージ、二階が運転手の居住スペースと思われる。
使用人の住まいとはいえ、今日の一戸建て分譲住宅ぐらいの規模がある。

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車庫兼運転手用住宅の向かいにある、同時に建てられたと思しき建物。
守衛の詰所だろうか。

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正門。
ジェームスは大東亜戦争開戦に伴い、一時日本を去るが戦後再びこの邸に戻ってきた。そして引き続きジェームス山の開発に取り掛かるがそれから程なく病没している。その後三洋電機創業者の井植歳男が購入、自邸とする。「望淡閣」の名はこのとき付けられた。

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スパニッシュスタイルの邸宅は昭和初期の阪神間で流行したが、現存するものの中では旧ジェームス邸は、同じ神戸市内では東灘区御影の旧大林義雄邸(昭和7)と並ぶ大規模でかつ質の高いものである。

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設計施工は竹中工務店(担当:早良俊夫)。

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旧グッゲンハイム邸旧ジョネス邸と並ぶ塩屋の異人館である。

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井植家の住居を経て、現在は三洋電機の所有になっている。

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庭園側(南側)の外観。庭園側の一角はコンクリート塀ではなくフェンスによる仕切りしかないので、公道から壮大な邸宅の様をうかがう事ができる。

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南側に広がる広大な庭園。

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庭園に建つ茅葺きの茶室。

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庭園の先には大阪湾と明石海峡、淡路島が一望できる展望が広がっているはず。

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三洋電機はパナソニックの子会社となったが、今後もこの邸宅が安泰であることを願う。

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第356回・旧栃木町役場(栃木市役所別館)

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現在栃木市役所別館として使われている建物は、大正10年(1921)に栃木町役場の庁舎として建設された木造洋館。

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古い街並みが残る栃木市内でも、旧横山家住宅離れや栃木病院と並ぶ洋館建築として観光名所にもなっている。

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上記2件と同様、国の登録有形文化財である。

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大正期の建築らしい、軽快な色彩と意匠が特徴。

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手前に写るのは戦後の増築部分。

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屋根の角に乗る小さな時計塔。

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細部装飾は幾何学的なセセッション風のものが多いが、アールヌーボー風の曲線装飾も見られる。

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細部装飾は幾何学化された典型的なセセッション風。建物の意匠や色調は、一足早く建った先述の栃木病院(大正2)や横山家離れ(大正7)と共通するところがある。

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ハーフチンバー(半木造。上層を木造、下層を組石造とするスタイルの建築様式)スタイルの建築では、木造でも下層部はモルタルを塗って目地を切り、組石造風に見せる手法がよく見られるが、この建物では、一階外壁は横板張りだが、組石造風に見せようとしたのではないかと思う。

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玄関ポーチ。
建物前に置かれた解説版によると「大正9年4月起工、同10年11月竣工、設計者・堀井寅吉」とあった。

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玄関ポーチの柱頭飾り。

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現在も栃木市役所の庁舎の一部として現役である。

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埼玉の川越でもそうであるが、重厚な蔵造りの商家が多い街の洋館は対照的に軽快なものが多いような気がする。

第355回・山内ビル

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山内ビルは大阪市西区土佐堀1に建つ事務所ビル。土佐堀川に面して建ち、背面対岸は中之島という大阪の中心地の一角である。もとは法律事務所であったが現在はレストラン等を主体にしたテナントビルになっている。

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地下1階、地上4階建ての鉄筋コンクリート造。設計は今北乙吉(1894~1942)という建築家だが、現存する作品は極めて少ないようである。

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昭和初期の竣工(昭和5年~7年頃)と考えられている。平成12年に国登録有形文化財となっている。

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昭和初期の建築でよく見られる茶褐色のタイルを貼った外壁が特徴である。しかし当時最もよく使われた、ひっかき傷のあるスクラッチタイルではない。

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4階の飾り窓。ステンドグラスを嵌め込んでいる。

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創建当初からのものと思われる、1階入口アーチの欄間飾り。

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外壁を飾るのは茶褐色のタイルと、何という石か不明だが黄褐色の石材。タイルの色とよく調和している。

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1階に3つある入口のうち、正面向かって左側の2つは1階及び地階の部屋につながっている。ここは戦後間もない頃から近年まで「青楓グリル」という西洋料理店があったが閉店、現在は有機野菜をメインにした「里山カフェ」というレストランが入っている。

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右側の入口は入ってすぐ階段になっており2階から上の階につながっている。アーチ上部に左書きで「山内○法律特許事務所」(○は欠損部分)の文字があるところから、建物の所有者である山内弁護士の事務所は上階にあったものと思われる。名前からして特許を中心に扱う弁護士であったのだろう。

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階段は大理石をふんだんに用いた贅沢な造り。

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このような事務所ビルを自ら建てたところを見ると、山内弁護士は相当裕福な家の出であったか、経営の才に長けた人物であったと思われるが、経歴等詳細は不明。

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肥後橋から望む、土佐堀川に面した北側背面。よくみると外壁がわずかに円弧を描いていることが分かる。
レストランの看板がある部分はかつて「山内法律特許事務所」と白地に黒文字で書かれていた。
現在、建物の上部すれすれに阪神高速の高架が走っている。

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対岸の中之島からの眺め。山内ビルが竣工した昭和初期、ここには時計塔を備えた大阪朝日新聞本社ビル(大正5)、本邦初の電光ニュースが屋上に設置された朝日会館(大正15)、戦前では珍しい10階建の朝日ビルディング(昭和6)が建ち並んでいた。

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朝日本社ビル、朝日会館はもはや半世紀近く前に姿を消し、今残るのは昭和初期のモダニズム建築としての評価も高い朝日ビルディングのみだが、再開発による高層ビル建設の為、近い将来姿を消す予定である。朝日新聞には今後、歴史的建築や文化財の価値についてなど語られたくはない。

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朝日ビルディングが消えれば、肥後橋周辺ではただひとつだけの近代建築となる山内ビル。
今後も末永く健在ならん事を。
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