第384回・八丁味噌本社

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「カクキュー」の屋号で知られる、合資会社八丁味噌の本社は愛知県岡崎市にある。
本社事務所や蔵は国の登録有形文化財。愛知県では最初の登録有形文化財に認定された建造物である。

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工場敷地の南側、旧東海道に面して今も残る、かつて本社事務所が置かれていた建物。

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工場内の資料館に展示されている古写真。上の写真の建物と同じであることが分かる。
看板が掛かっているので本社事務所として使われていた頃のものと思われる。

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昭和2年(1927)に現在使われている建物が竣工し、事務所を移転する。
敷地は東側に新たに造成した場所が充てられた。

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事務所遠景。

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四角の中に「久」でカクキュー。

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事務所玄関。

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玄関脇の出入り口。開口部が広いので、商品等大きな荷物の搬入口だろうか。

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木造二階建てと平屋建ての二棟で構成される、和洋折衷建築である。

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黒塗りの板壁に、柱や窓枠を白く塗ったカラーリングが特徴。

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工場内部から見た本社事務所。

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今も現役で使われている。

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赤い「カクキュー」のマークがよく映える。

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事務所以外は伝統的な造りの蔵が並ぶ。

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明治40年(1907)建設の本社蔵。本社事務所と並び登録有形文化財。
当初味噌蔵として建てられ、現在は資料館となっている。

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現在も味噌蔵として使われている蔵。

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甲子蔵。大正13年(甲子〈かのえね〉年)建設なのでこの名がついている。

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同一敷地内に建つ蔵にもいろいろな外観があり、見比べると面白いものである。

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蔵の内部。
NHKの朝のドラマのロケ地となった事でも知られる。

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八丁味噌は事前予約制で、工場見学が可能である。
八丁味噌ホームページ(工場見学)
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第383回・旧三井物産小樽支店(松田ビル)

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小樽に残る、戦前に建てられた銀行・商社の建築群の中では最もモダンで先進的な建物。
昭和12年(1937)に、三井物産小樽支店として建てられた。

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旧三井物産小樽支店は、日本銀行小樽支店の向かい、旧北海道銀行の隣に建つ。

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戦後の財閥解体で、三井物産は占領軍により解散させられたため、各地の支店ビルも所有者が変わる。
現在は「松田ビル」の名で貸事務所として使われている。

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装飾を廃した黒白ツートンの外観が特徴的な、北海道を代表する昭和初期のアメリカ式オフィスビルである。

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設計は横河工務所に在籍した松井貴太郎。

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デザインだけでなく、設備も当時最先端であったといわれる。

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玄関燈はアールデコ風。

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壁に取り付けられた街燈。

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この建物も、小樽市指定歴史的建造物。

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神戸の神港ビルディング(昭和14)等と共に、戦前最後期のオフィスビルの傑作のひとつである。

第382回・旧神戸海上火災ビル

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昭和10年(1935)、神戸・旧居留地内の一郭、明石町に神戸海上運送火災保険㈱(現・あいおいニッセイ同和損害保険)本社屋として建てられる。

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神戸海上運送火災保険は、神戸を拠点とした岡崎財閥の中核企業のひとつであった。なお、同じ旧居留地内に、かつて岡崎財閥の中核を担う岡崎銀行の本店も建っていた。(現在は旧岡崎銀行も前身のひとつに含まれる三井住友銀行の神戸本部が建っている)

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設計は住友財閥の建築部門が独立して設立された、長谷部竹腰建築事務所。
大阪・北浜の旧大阪証券取引所の設計でも知られる。

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全体は平坦でモダンなデザインのビルだが、要所要所にアーチ窓など古典的要素をちりばめている。

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正面向かって左脇にさりげなく設けられた、控えめな印象の玄関。

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一階窓の手摺だけ、やや彫りの深い装飾が見られる。

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壁面の上部に施された装飾。

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旧大阪商船ビル等、重厚なものが多い旧居留地のオフィスビルの中では簡素ながらも、上品な佇まいの建物である。

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旧居留地内において、風格ある街並を演出する重要な役割を果たしている。

第381回・講談社本社(旧大日本雄辯會講談社)

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東京都文京区音羽、護国寺門前に建つ。
大手出版社・講談社(旧社名:大日本雄辯會講談社)の本社屋として、昭和8年(1933)建設。

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大日本雄辯會講談社は、大衆向け雑誌「キング」、少年向け雑誌「少年倶楽部」等の出版で知られ、戦前既に出版界においては一代勢力を誇っていた。そのため当時の出版社の社屋としては規模・質ともに際立っている。

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現在は、隣接して高層の新館が建っている。

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設計も、当時の超一流の設計事務所が手がけている。
弊ブログでも既に度々紹介している、曽禰中條建築事務所の設計。

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既に取り上げた同事務所の設計になる建物としては、慶応義塾図書館旧小笠原長幹伯爵邸旧三井銀行小樽支店旧日本郵船神戸支店旧田中光顕伯爵小田原別邸がある。

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また同じ昭和8年竣工のものでは、同じ東京は中央区京橋に建つ、明治屋京橋ビルがある。

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建物の全体は、装飾の無い立方体を組み合わせたような形であるが、玄関周りは西洋古典建築の様式に則って造られている。

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柱や入口周りの装飾も簡略化しない、緻密なものになっている。

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なおこの建物は、昭和61年に発生したビートたけし(北野武)による雑誌「フライデー」編集部襲撃事件の舞台でもある。

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新館建設に際しては、旧館も改修されたようであり、外壁の汚れが落とされ綺麗になっている。

第380回・旧伊藤次郎左衛門祐民別邸「揚輝荘」(その3 聴松閣・揚輝荘座敷)

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揚輝荘第3回目、今回は南側の敷地に残る建物と庭園を紹介する。
現在南側に残るのは、揚輝荘造営初期の建物であり、伊藤次郎左衛門祐民の住居でもあった揚輝荘座敷と、揚輝荘造営末期の大規模建築である聴松閣、及び土蔵等の付属建物である。

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聴松閣正面。昭和12年(1937)竣工、設計・施工は竹中工務店(担当:小林三造)
小林三造と設計作品については、竹中工務店のホームページにて紹介されている。(創建時の聴松閣の写真もある)普請道楽の伊藤次郎左衛門祐民の意向が隅々まで行き渡った建物である。
また、それまでの揚輝荘内の主要な建物が、既存建築の移築改修だったのに対し、聴松閣ははじめての大規模で本格的な新築建造物であった。

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南側(庭園側)から見た聴松閣。一階右側にはかつて八角型平面のサンルームが張り出していたほか、その左側は洋風の両開き硝子戸があり、本来は現在よりも洋館らしい外観だった。一階テラスにある、擬木で出来た手すりは前回紹介した北側庭園の橋と共通する。

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聴松閣は、揚輝荘における迎賓館として、昭和9年の伊藤次郎左衛門祐民の東南アジア・インド旅行に先立って計画される。前年に長野上高地に竣工した上高地帝国ホテル(現在の建物は昭和52年にほぼ同一意匠で改築されたもの)の建物に魅せられ、新たな山荘風建築を思い立ったとも言われるが、東南アジア及びインドから戻ると、旅先で見た数々の建築の意匠を取り入れるべく、大幅な設計変更を行っている。

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明治戊寅年(=11年、1878年)生まれの伊藤次郎左衛門祐民は、同年生まれの著名人による親睦会「戊寅会」の会合を昭和12年に、自ら幹事となって名古屋で行っている。無論、竣工したばかりの聴松閣は饗宴の会場にあてられた。やってきた同年生まれの来客には松井石根陸軍大将(同じ愛知県出身で伊藤祐民とは元々親交があった)、時の首相・廣田弘毅(敗戦後、松井大将と「戦犯」として連合軍により処刑される)、竹中藤右衛門(竹中工務店社長、公私に亘って親交が深かった)、三島海雲(カルピスの発明者として知られる実業家)らがいた。

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聴松閣の玄関ポーチ前にある半円形の池。かつては噴水の仕掛けがあったという。
ポーチに据え付けられた石の虎は、伊藤祐民が昭和初年の中国旅行の折に手に入れたもの。無論自らの干支に因む。

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玄関ポーチ天井の丸太を組んで作られた間接照明。
なお、聴松閣は現在修復工事中で、外観及び内部の見学は出来ないが、今回記事の写真はいずれも工事前の一般公開時に撮ったもの。

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玄関内部。玄関扉に用いられたケヤキの一枚板には「尾州名古屋 伊藤次郎左衛門」の墨書があった。(現在は殆ど消えて読めない)先代か先々代の伊藤次郎左衛門が買い求め、蔵にでも眠っていた材木を、十五代次郎左衛門祐民が山荘の扉に加工したようである。土間の床は、伴華楼洋館書斎の暖炉周りでもみられた、丸太の小口を敷き詰めたものだがこちらの方が仕上げは荒々しく、野趣味を出そうとした様子が窺える。

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手斧仕上げの材木で組み上げた階段。

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玄関ポーチの真上にある部屋の内部。作りつけの机や書棚など、書斎として作ったものと思われる。

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外から見ると太い石積みの煙突が目立つとおり、内部には暖炉がいくつもあり、それぞれ異なる意匠が施されている。写真のモダンなデザインの暖炉は一階客間のもの。手前の扉は薪を収納する場所と思われる。

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一階食堂の暖炉。聴松閣は米軍の接収解除後は松坂屋社員の独身寮として使われ、広い食堂は間仕切りが施されいくつもの小部屋になっていた。写真は間仕切り撤去中のもの。伴華楼書斎の暖炉と同様、焚き口のまわりを古瓦で飾る。玄関土間の床もそうだが、伴華楼でやってみたけど気に入らないから別の建物でやり直してみたのか、反対に面白くてもう一回別の建物で趣向を変えてやってみたのかとも思うが、真相は謎。

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地階舞踏室の暖炉。地階にはインド風意匠を施した、舞台及びバーカウンターも備えた舞踏室がある。東南アジア及びインド旅行から帰朝後、設計変更をして新たに付け加えた部屋である。

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カンボジアのアンコール・ワットの、踊り子のレリーフをそっくり模している。

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柱の柱頭や根元に施された装飾は、インド建築に由来するものが多い。

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舞踏室に隣接する小部屋。洗面所とも瞑想室ともいわれるが詳細は不明。

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同上、見事なモザイクタイルとレリーフ。

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舞踏室の外、階段に続くホールの壁一面に施された壁画。昭和8年から揚輝荘に寄宿し、伊藤次郎左衛門祐民のインド旅行にも通訳として随行したインド人留学生・ハリハラン氏が描いたものである。

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かつては聴松閣を中央に据える形で、両脇に渡り廊下でつながれた日本建築があった。
片方は聴松閣よりも先にこの地に建っていた揚輝荘座敷で、写真の渡り廊下と共に現存する。もう片方は、昭和13年に尾張徳川家より譲渡・移築された「端の寮」と称する、大石内蔵助ゆかりの伝えがある建物であったが、昭和20年の戦災で焼失、跡地はマンションの敷地になっている。

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揚輝荘座敷全景。現在松坂屋本店が建っている矢場町にあった建物を、大正8年に現在地へ移築した揚輝荘でも造営初期の建築。移築前には一時期川上貞奴が居住していたという。ちょうど東二葉町の福澤桃介と建てた洋館に移り住む直前に住んでいたと思われる。

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揚輝荘最初期の迎賓施設であると同時に、伊藤次郎左衛門祐民の居住の場でもあった。
聴松閣新築に先立ち、揚輝荘座敷も昭和に入ってから玄関やサンルーム等の増改築を行っている。

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揚輝荘座敷と棟続きになった土蔵。この建物も隣接の聴松閣と同様、米軍接収を経て松坂屋社員寮(女子寮)に使われている。手前のフェンスは侵入者防止のため設置されたもので、女子寮であった頃の名残だそうである。(現在は整備が進みフェンスは撤去されている)

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揚輝荘座敷の西隣にある小さな土蔵。本瓦葺、ナマコ壁を持つ小規模だが重厚な外観の土蔵。
この土蔵の前にはかつて、昭和5年に茶屋町の本家から移築した「暮雪庵」と称する茶席があった。そのときに新築(または移築)された茶席専用の土蔵であったようである。(暮雪庵は戦後間も無く伴華楼のそばに移築、現在は岐阜県土岐市に再移築され保存されている)

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庭園側から見た揚輝荘座敷全景。右側の、前に張り出した部分が昭和に入ってから増築されたサンルーム。
さらに右手には聴松閣が建っている。

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伴華楼三賞亭でも見られるが、揚輝荘座敷の外壁の漆喰部分は華やかな紅殻塗り。
このような壁の色調は、東海地方の別邸や料亭・旅館建築に非常によく見られる。(岐阜・下呂温泉「湯之島館」の記事も参照頂きたい)

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揚輝荘座敷のサンルーム部分。
二階の手すりは伴華楼の上階と同様、市松模様の無双窓になっている。無双窓も東海地方ではよく好まれるようである。

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揚輝荘座敷及び聴松閣の前に広がる、南側庭園。見晴らしのよい斜面に造られている。
「揚輝荘の会」の方々の長年にわたる努力もあって、ここ数年で見違えるほど庭園らしさを取り戻した。
建物と共に今後整備が一層進んでいくものと思われ、楽しみである。

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現在はマンションで分断されてしまった揚輝荘内で、北側と南側とを移動するには通常立ち入り禁止の細い通路を通らなければならない。写真の揚輝荘座敷と通路の間に残る石の彫刻は、茶屋町の本家と並んで建っていた旧伊藤銀行本店(昭和5、鈴木禎次設計)の玄関飾りの一部を解体時にここに移設したもの。なお茶屋町の本家は戦災で壊滅し今は跡形も無い。なお、伊藤次郎左衛門家は戦後、本家を揚輝荘の一画に移されている。

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現在は、平成25年度の完成を目指して、聴松閣の修復整備工事が進められている。
まだまだ先になるが、揚輝荘座敷や伴華楼等もいずれは整備が進むと思われ、機会があれば整備後の姿を紹介したい。

揚輝荘シリーズ  おわり

(以下、主要参考資料)
竹中工務店大阪本店「揚輝荘主人遺構」昭和17年
上坂冬子「揚輝荘 アジアに開いた窓」平成10年
揚輝荘の会「揚輝荘と祐民」平成20年

第379回・旧伊藤次郎左衛門祐民別邸「揚輝荘」(その2 三賞亭・白雲橋・豊彦稲荷)

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前回に引き続き、揚輝荘第2回。
約20年をかけ造営が続けられた揚輝荘には、最盛期には茶席や四阿など小規模な建物も含めると、約30棟の建物が存在したが、現存するものは10棟足らずで、3分の1以下に減ってしまった。敷地も約3分の1に縮小され、かつ南北に分断されている。前回紹介した伴華楼はその北側に残る建物であるが、今回はその他の北側に残る建物と庭園について紹介する。

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以下、揚輝荘の歴史を時系列に記す。
大正7年(1918)、伊藤守松(のちの十五代伊藤次郎左衛門祐民。当時はまだ家督を継いでいない。)は覚王山に一万坪の土地を購入、別邸の造営を始める。名古屋城に近い茶屋町(現丸の内2丁目)の本家敷地にあった建物を煎茶席として移築し、「三賞亭」と名づける。写真の建物である。

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同時に京都の修学院離宮に範を取った池のある庭園の造園に着手、千歳橋を模した亭橋を架け、白雲橋と名付ける。
また大正8年には自らの居住用に、矢場町の松坂屋建設予定地にあった和風建築を移築する。

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居住空間の整備が済むと、本格的な迎賓施設の整備に着手する。大正11年から昭和4年にかけて尾張徳川家から譲り受けた建物を、2棟移築改修して貴賓の宿泊・接待施設とする。前回記事で触れた有芳軒・伴華楼である。
写真は三賞亭内部。伴華楼茶席の半月窓に対し、こちらは満月を思わせる円形窓。

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上記の建物の外、茶席も竣工順に列記すると、「三賞亭」(大正7)「峠の茶屋」(大正12)「西行庵」(大正15)「間松亭」(昭和4)「暮雪庵」(昭和5)「不老庵」(昭和14)と、敷地内に続々と移築、新築された。これらの茶室の大半は戦後失われ、現存するのは写真の三賞亭と、岐阜県土岐市に移築保存されている暮雪庵のみである。

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昭和9年に伊藤次郎左衛門祐民(大正13年家督を継ぎ、次郎左衛門を襲名)は、インドシナ半島からビルマ、インドに仏跡参拝の旅に出る。帰朝後から死去する昭和15年直前まで、再び揚輝荘では続々と普請が始まり、昭和12年竣工の山荘「聴松閣」に代表される、多くの建物の新築・移築が行われる。またアジア各地からの留学生受け入れのために、学舎「愛知舎」などが整備される。

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戦時中から戦後、近年に至るまでの半世紀は、揚輝荘の縮小衰退の歴史である。
戦災でいくつかの建物は消失、残った建物も敗戦後は米軍に接収され、傍若無人な改造を受ける。返還後敷地は宅地開発等で縮小、建物も続々と取り壊され、残ったものも松坂屋の独身寮等となり改装を重ね、贅を尽くした別荘・迎賓館としての姿は薄れて行った。

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平成に入り揚輝荘は再び脚光を浴びる。
残った敷地についても宅地開発計画が浮上したことを機に、名古屋市・伊藤家・「揚輝荘の会」に代表される市民有志によって保存活用が模索され始める。結果、建物及び庭園が残存する部分については名古屋市が寄贈を受け保存、その他の敷地はマンション開発を行う形で決着する。残った建物群は名古屋市有形文化財として、現在修復整備が進められている。

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三賞亭に残る、米軍接収時の痕跡と思しき部屋番号札と英語の警告表記。
風流な茶席には似つかわしくない無粋で醜悪なものだが、歴史の証人としての価値はある。
なお、新聞雑誌等の揚輝荘の紹介記事では、戦災で大半の建物が焼失したと書かれているものが多いが事実に反する。大半の建物は焼け残っており、米軍接収中に取り壊されたり返還後取り壊されたものの方が多い。

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三賞亭と並ぶ揚輝荘最初期の遺構、白雲橋。
先述の通り京都・修学院離宮の千歳橋を模したものだが、直写ではなく竹中工務店(或いは伊藤祐民)の創意が施されている。腰高な造りの本家よりも全体が低く造られており、プロポーションは優美である。

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反りのある石垣や、本家以上に中国趣味の濃い緑釉瓦の屋根も、全体とよく調和が取れていると思う。

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一般に公開されるようになった現在、白雲橋はイベントの舞台として使われることが多い。
ただし、通常は見学者が橋を渡ることはできない。

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正面から見ると、橋というよりはお堂のような形をしている。

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白雲橋全景。
白雲橋は伴華楼と並ぶ揚輝荘北園のシンボル的存在である。

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中国風と数寄屋風が混じり合ったような印象の回廊部分。
亭部分の天井には、伊藤次郎左衛門祐民の筆と伝わる龍の天井画がある。

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白雲橋のそばにある野外ステージ。
昭和13年に傷痍軍人を招待してここで催された、慰労園遊会の写真が残されている。
「揚輝荘の会」の方々の努力により、近年までの荒れ果てた姿が嘘のように見違えた。白雲橋と同様イベントの舞台として使われている。

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野外ステージの反対側、庭園の一画に石の鳥居がある。昭和2年に京都から勧請した豊彦稲荷社である。
この区画のみ名古屋市の所有ではなく、宅地開発で建てられたマンションの管理組合の所有名義とされている。
市有ではないので、従前どおり神社として存続している。

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赤い鳥居が連なる参道。

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大正15年起工、翌年竣工の豊彦稲荷社。写真の建物は覆屋で、中に朱塗りの本殿が収まる。

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稲荷社のすぐ隣に伴華楼が建つ。

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豊彦稲荷社と伴華楼を仕切る塀は信長塀と呼ばれる平瓦を積み重ねた土塀。
各種の瓦で賑やかに飾り立てている。

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この写真には写っていないが、徳川家の葵の紋が入った瓦も埋め込まれている。有芳軒か伴華楼の移築時に生じた古瓦と思われる。

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揚輝荘の随所に見られるのが五色の玉石飾り。伴華楼、白雲橋の石段ほか随所に用いられている。現存しないものでも正門や有芳軒の地階にも用いられていたようである。写真は北園入口そばの橋。
平成19年には、同様の装飾を施された聴泉洞と称するトンネルも敷地東側より発掘されている。

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五色の玉石飾りと共に揚輝荘で随所に見られるのが、コンクリート製擬木である。北園でも3つの橋やベンチが残されている。
今日、公園等でよく見られる擬木だが、大正から昭和初期のものは珍しい。

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次回は南側の敷地に残る建物と庭園を取り上げる予定。

あと1回つづく。

第378回・旧伊藤次郎左衛門祐民別邸「揚輝荘」(その1・伴華楼)

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「揚輝荘」とは、松坂屋百貨店の創業者・十五代伊藤次郎左衛門祐民(1878~1940)が、名古屋市の郊外・覚王山に造営した別邸の名で、近代の名古屋を代表する実業家の邸宅遺構と言える。現在は現存する建物と庭園が名古屋市の所有となり、修復整備が進められている。3回に分けて現存する建物と庭園を紹介したい。

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最初に取り上げるのは、明治33年(1900)竣工の尾張徳川家名古屋別邸(現在の徳川園)の一部を移築、その際洋館と地階を増築した「伴華楼」である。大正15年(1926)に起工、昭和4年(1929)の竣工とされる。

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伴華楼全景。左手前の建物は昭和42年に改築された部分。もとは平屋の付属棟であったという。
地階を備えた平屋建だが、傾斜地に建っており正面から見ると二階家に見える。右端に一間のみの洋館、左手背後に土蔵を備える。付属棟が改築された以外は旧状をよく残す。

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地階部分は鉄筋コンクリート造、上階部分は移築・増築部共に木造。
設計・施工は、施主の十五代伊藤次郎左衛門とは縁が非常に深い鈴木禎次と竹中工務店。竹中工務店は元々は江戸時代以来の名古屋の大工棟梁で、神戸に本拠を置く近代的建設請負業に転身した明治以降も、伊藤家・松坂屋関係の建物の設計施工を一手に請け負っていた。

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明治から昭和戦前にかけ名古屋を中心に活躍したことで知られる鈴木禎次は、松坂屋の本支店の設計を前身のいとう呉服店時代より一手に引き受けており、松坂屋及び伊藤家の建築顧問的存在であった。揚輝荘内の建物は基本的に全て竹中工務店の設計施工だが、伴華楼のみ設計に携わっている。

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東側側面より地階と洋館部分を望む。洋館の背後に徳川家時代の茶室付き座敷がある。
側面から見ると純然たる洋風建築で、いかめしい建物の来歴とは裏腹に、中からムーミンでも現れそうなロマンチックな外観。

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外観を最も特徴づけている、市松模様の大きな煙突。
壁面は下半分をうろこ型のシングル葺き、上半分をハーフチンバーとする。

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このようなシングル葺き仕上げの外壁をもつ建物としては、同じ名古屋市内では川上貞奴・福澤桃介邸(大正9)、滋賀県大津市の伊庭貞剛邸(明治37)などが現存する。

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揚輝荘には、尾張徳川家より譲り受け移築改造を施した建物が伴華楼以外に、書院座敷を移築、伴華楼同様地階と月見台を増築した有芳軒(大正11竣工、昭和35年撤去)と、大石内蔵助ゆかりと伝わる座敷を移築した端之寮(昭和13竣工、昭和20年空襲で破壊)の2棟もかつて存在した。当時の当主・徳川義親侯爵との親交によるものであろう。

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座敷部分の外観。伴華楼は茶室付き座敷を持つ数寄屋風であるのに対し、上記の有芳軒は厳格な造りの書院座敷で、二棟で一対をなす揚輝荘の迎賓施設であったと言える。(先日取り上げた和歌山の湊御殿は、外観や座敷の造りがよく似ている)地階にはバーカウンターを備えた食堂、月見台の前にはテニスコートも備えたユニークな建物であった有芳軒が現存しないのが惜しまれる。

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とはいえ現存する伴華楼も、先述の通りムーミンでも現れそうな個性的な洋館の外観などユニークさでは有芳軒に負けず劣らずである。写真は地階のテラス内側に設けられた玄関。

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側面の大きな煙突や丸い自然石で飾った石段など、木曽の福澤桃介別荘(大正8)と似ているような気がする。
もっとも名古屋の伝統商人である伊藤次郎左衛門と、新参の余所者である福澤桃介の関係は決して良くなかったようである。

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玄関に入ると、面白い意匠を持つカウンター付きクロークがある。正面向かって右手に暖炉を備えた応接間、左手には撞球室がある。そして右手奥には上階への階段がひっそりと設けられている。
カウンターの前に置かれた胸像の人物が、十五代伊藤次郎左衛門祐民。

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旧撞球室の硝子戸越しに庭を望む。
旧撞球室は現在、間仕切りが設けられるなど雑然としているが、壁や天井は当初のままと思われるので、もとの姿に戻すのはそう難しくないと思われる。二種類の硝子を組み合わせた戸や、節目のある板を張り合わせた壁がみどころ。

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応接間。鉄筋コンクリートの大きな梁と柱で暖炉周りを小さく仕切る。
梁の左右には餅を搗くウサギのレリーフがある。揚輝荘がある覚王山周辺は見晴らしの良い高台になっており、江戸時代より名古屋における月見の名所として知られ、旧有芳軒の月見台や伴華楼のウサギなど、月見にまつわる設備や装飾が随所にある。

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応接間の造りつけ戸棚。違い棚や板絵を施した扉など和洋折衷。
壁面は天井まで板壁仕上げになっている。戸棚の右手は一部が取り外し可能になっており、中には隠し部屋が設けられている。(見学すればガイドの方が実演して教えてくれる)

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大理石と渋い色調のタイルで仕上げた暖炉。意匠はごくシンプル。

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地階とは対照的に上階書斎の暖炉は凝っている。古瓦の破片を塗り込めており、瓦は飛鳥時代のものや朝鮮半島のものなど、年代、出土時期も様々なものが用いられているようである。

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縁側。高低差のある敷地内でも高所に建つ伴華楼は、上階からの眺望がよいのが特徴である。
桜、新緑、紅葉、雪景色と四季折々の景色が楽しめる。

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茶席。床の間の明り取り窓は半月。
土壁は引き摺り仕上げという、さざ波を打つような表面仕上げが特徴。

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徳川家時代から移築した座敷部分。外観の煙突に見られる市松模様は、襖の下部、縁側の無双窓など内部でも随所に見られる。この座敷では「お帖綴じ」という伊藤家の新年行事が行われており、名古屋市の所有になった現在も、名古屋市民へ抽選付き一般公開の上で続いている。

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移築部分の内部にも洋間がある。天袋などが残りもとは和室であったと思われる。
市松模様を持つ寄木細工の床、漆喰仕上げの天井、ステンドグラスの欄間など小さいが華やかで瀟洒な洋間。徳川家時代の改装か、移築の際の改装かは不明。

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大正末期から昭和初期のものとしては古めかしい感じがするので、徳川家時代に加えられた改装かも知れない。
ところで無造作に道具類が置かれていたりして、雑然としているのは残念だがまだ整備途上のため致し方ないと思う。
手を入れて、部屋の雰囲気にふさわしい家具でも入れたら見違えるはず。

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伴華楼は細部に見どころの多い建物である。
外部煙突下部のアップ。市松模様はクリーム色のスクラッチタイルとドイツ壁風のモルタル吹き付けで作られているのが分かる。

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木を使った遊びも見られる。
(左)地階撞球室の壁は、節目部分ばかりをかき集めて張りつめている。現在は殆どが間仕切り等で覆われて見ることができないが、部屋一面がこれだと結構不気味かも知れない。
(右)上階暖炉の周囲には、大小の丸太の小口を敷き詰めた寄木細工が施されている。

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上階書斎暖炉の古瓦。

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(左)地階応接間の梁で満月をバックに餅をつく兔。
(右)上階座敷襖の茶壺型引手。

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現実に現れたのはムーミンではなく、お稲荷さんだった。
隣接の豊彦稲荷前から望む伴華楼洋館。

揚輝荘 次回につづく。
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