第388回・旧谷口房蔵別邸(田尻歴史館)

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旧谷口房蔵別邸は大阪府の南端、泉南郡田尻町にある。大正11年(1922)竣工の煉瓦造2階建洋館、木造二階建の日本家屋、茶室、土蔵で構成される邸宅で、当初からの構成をよく残している。大阪府指定文化財。

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現在は邸宅だけが残されているが、かつて邸宅の前には大阪湾に面して、谷口房蔵が設立した吉見紡績の工場があった。写真は館内に展示されている吉見紡績の鳥瞰図。右下に邸宅が描かれている。そのすぐ下を走るのは南海電車である。

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谷口房蔵(1861~1929)は、田尻町出身の実業家。戦前日本の主要産業であった紡績業の、関西における中心的人物として明治から昭和初年にかけて君臨、「綿の国から生まれた綿の王」と称された人物である。日本綿業倶楽部の初代会長も務めている。

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谷口房蔵は鄙びた集落であった生まれ故郷を活性化させるべく、工場を建てる。またそれだけではなく、別邸を置いて自らの収入を所得税として故郷に還元した。なおこの屋敷の主な用途は谷口家の別邸というよりは、実際は工場を訪れる賓客のための接待所であり、迎賓館であったと思われる。

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南海本線吉見ノ里駅を降り、紀州街道に沿って歩くと長い土塀の向こうに、白壁の土蔵と日本家屋を構えた屋敷が見える。その奥には特徴的なデザインの西洋館が建っている。

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邸宅の前には広い前庭がある。かつては街道に面して正門もあったものと思われるが、現存しない。
前庭を通ると、土塀で囲われた洋館が現れる。

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土塀に穿たれた薬医門形式の中門をくぐるとすぐ、洋館の玄関ポーチ前に出る。
煉瓦造タイル貼りの、当時としては非常にモダンなデザインの洋館である。設計は辰野金吾の片腕としても知られる片岡安の事務所による。ただし実際に設計を担当した者は誰か、未だ不詳のようである。

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洋館のスタイルは、ユーゲントシュティール(ヤングスタイルのドイツ語読み。ドイツ語圏における19世紀末の芸術運動で英仏のアールヌーボーに相当する)の傾向が色濃い。このようなデザインは大正期の建築にしばしば見られる。

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外壁のタイルも、明るい色調に芋目地と、いずれも大正建築によく見られる。
弊ブログで紹介した建物では、谷口別邸と同年竣工の大阪の旧報徳銀行や、奈良の天理大学創設者記念館に、同様のタイルの使い方を見ることができる。

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洋館に隣接して茶席が設けられている。洋館と茶席の間に造られた露地(茶席の庭)というのは珍しいと思う。

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露地を通り抜けると日本館が見える。一部二階建てで、規模は洋館より小さい。

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洋館に入る。写真は玄関ホールにある階段。
内装も外観に負けず、特徴豊かなもの。

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洋館1階には、玄関ホール兼階段室、書斎、続き間になった客間及び食堂、サンルーム兼ベランダ、他食堂附属の配膳室等の小部屋がある。写真は客間。壁布は西陣織で、建設当初から残っているものである。

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客間に続く食堂。現在この邸宅は田尻町が所有し、指定管理者制度で選定された民間企業が管理運営を行っている。
一階は食事もできるカフェになっている。

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食堂と客間の間は、壁に収納可能な四枚引きの引き戸になっている。欄間にはブドウ柄のステンドグラス。
ところでこの建物は暖炉がない。暖炉は洋館の意匠上のポイントであり、この規模の洋館では珍しい。しかし暖炉がなくとも決して物足らなさはなく、設計者のデザイン力の高さが窺える。

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客間と食堂を鍵の手状に取り巻く、サンルーム兼ベランダ。
明るく気持ちの良い空間。ここでも食事と喫茶ができる。

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全ての窓の欄間にはステンドグラスを嵌め込む。

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館内には創建当初からのものと思われる家具もいくつか残る。
書斎の書棚や食堂の配膳棚のほか、写真のような肘掛椅子もある。椅子類は以前はなかったので、土蔵あたりから発見されたのだろうか。

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洋館の二階は賓客の宿泊用と思われる客室で構成されている。写真のとおり日本座敷もひとつ造られている。
日本館を別に設けているにも関わらず、洋館内にも賓客用の日本座敷を別に設ける例は、北九州の旧松本家住宅などがある。

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非常に短い渡り廊下を通って、隣接の日本館へ入る。
小規模だが材料は贅を尽くしたもので、一階廊下の天井は屋久杉の一枚板を用いた船底天井である。

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一階に設けられた仏間。

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仏間の天井は見事な折り上げ格天井である。

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日本館の二階には、次の間付きの座敷が一間ある。
日当たりのよい、落ち着いた数寄屋風の座敷である。

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洋館の随所に施された、特徴的な装飾。
(上)正面切妻頂部のレリーフ。
(下左)玄関ホール梁持ち送りの石膏装飾。(下右)階段親柱

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洋館の照明器具も変わったものが多い。
(上左)食堂。ステンドグラスを嵌め込む。(上右)客間
(下)二階客室。創建当初からのものかどうか、或いは当初あったものを復元したものかどうかは不明だが、もし大正期のデザインであれば、驚くべきモダンなものと言うべきであろう。

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旧谷口房蔵別邸洋館を特徴づける最大の要素は何と言っても、ステンドグラスと思われる。
写真は階段室の大ステンドグラス。綿の実が紡がれて糸に化してゆく様を表していると言われる。
上に白い綿の実、下には糸巻きが描かれている。

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書斎ベイウインドウのステンドグラス。窓という窓にステンドグラスが嵌め込まれている。

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(上、中)一階客間の窓の欄間(下)二階客室洋室の窓の欄間
いずれも花の意匠。

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(上)二階浴室(下)二階洗面所

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二階客室洋室に付属する小部屋、正面玄関ポーチ上のバルコニーへの出入り口。
これらの他にも、この館には他にもまだ多くのステンドグラスがある。

田尻歴史館公式ホームページ http://www.tajirirekishikan.com/
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第387回・志賀直哉旧居

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作家の志賀直哉(1883~1971)が奈良の高畑に自ら設計で昭和4年(1929)に建てた家。
現在は学校法人奈良学園が所有、「志賀直哉旧居」として公開している。国登録有形文化財。

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志賀直哉旧居が建つ奈良市高畑は、奈良公園から近い閑静な住宅地である。右側が志賀直哉旧居の土塀。

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門。この屋敷を手掛けた京都の数寄屋大工・下島松之助は、鎌倉の里見邸の書斎も、志賀直哉の紹介により手掛けている。

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玄関。

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二階、船底天井を持つ廊下。

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同じく二階、書斎として使われていた六畳間に隣接する座敷。客間として使われていたという。
志賀直哉在住当時は、床の間に谷崎潤一郎から贈られた仏像が飾られていた。

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床脇の半円窓。
プロレタリア作家の小林多喜二は志賀を訪問してこの座敷に一泊したと言われている。

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一階北向きに配された書斎。志賀直哉は最初は薄暗いところを好んで北側に書斎を造ったものの、寒いのが嫌になって後年は夏場のみ使用、それ以外は二階の六畳間を書斎として執筆に励んだという。

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夫人の居室として使われた座敷。

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子供部屋。

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茶室。

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茶室から中庭を望む。

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裏口の通り庭。
昭和13年に志賀直哉は東京へ移住、奈良の旧居は翌14年に売却される。敗戦後は米軍に接収、接収解除後は厚生省の厚生年金宿泊所として、昭和53年まで使用される。

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浴室。
宿泊施設の改築が検討されると保存運動が起こり、現所有者の奈良学園が買収、セミナーハウスとして活用することになった。その後平成12年には国登録有形文化財になっている。

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台所。
その後老朽が進んだことから平成20年から1年がかりで改修工事が施され、その際に後年の改造部分が志賀直哉在住当時の形態に復元された。とりわけ台所や浴室周りの生活空間の多くは、このときの工事で復元されている。

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全体は数寄屋風の和風住宅であるが、写真の食堂及び隣接のサンルームに洋風要素が見られる。

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食堂の一画には造りつけの革張りソファーがある。

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志賀直哉旧居で最も特徴的なのがこのサンルーム。

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屋根は硝子天井になっており、日光が降り注ぐようになっている。

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全体にわたって志賀直哉の創意が行き渡っている住宅だが、このサンルームはその最たる場所のひとつと思われる。

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サンルームの一角に設けられた御影石の手水鉢。

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南側の芝庭からサンルーム部分を望む。

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中庭から望む。手前は茶室。

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本文記事は下記文献を参考とさせて頂いた。

「志賀直哉旧居の復元」学校法人奈良学園刊行 平成21年

第386回・旧柴島浄水場旧第一配水ポンプ場(水道記念館)

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大正3年(1914)竣工の、大阪市水道局柴島浄水場旧第一配水ポンプ場。
役目を終えた後改修を加え、平成7年から水道記念館として公開されていたが、平成24年4月1日より一時休館となっており現在は入れない。

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館内に展示されていた、竣工当初の古写真。屋根の尖塔は今はない。
設計は宗兵蔵(1864~1944)の手になる。明治から昭和初期にかけて、関西を中心に活動していた建築家である。現存する建物の数は少ないが、この建物以外では大阪の難波橋(大正4、意匠面の設計を担当)、神戸の旧制灘中学校本館(現灘高校本館)などが現存する。

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奈良の旧帝国奈良博物館(現奈良国立博物館、明治27年竣工、基本設計は片山東熊)の実施設計・工事監理も行っている。

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入口上部には御影石に当初の名称である「送水喞筒場」の文字が彫り込まれている。
「喞筒」(そくとう)とは、ポンプのこと。

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一時休館の理由は大阪市水道局のホームページでは詳細は触れられていないが、橋下大阪市長が今年1月に掲げた柴島浄水場廃止と密接に関係しているものと思われる。

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「一時」とは言うものの再開される可能性は低いのではと思える。
旧淀橋浄水場を廃止して高層ビル群を開発した東京の新宿のように、新大阪駅に近いこの地域でも同じようなことを目論んでいるのであろうか。

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登録有形文化財でもあるこの建物を、開発に伴い破壊するという愚行はまずないと思うが・・・・・。
筆者は以前、大阪府庁舎の旧正庁改修では橋下氏を評価したが、この人物の言行を見ていると些か不安を覚えずにはいられない。

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今後の成り行きは注意深く見守りたい建物である。

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大阪市内では現存する極めて数少ない、かつ屈指の美しさを誇る赤煉瓦の建築である。

第385回・旧三井物産神戸支店(海岸ビル)

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神戸市の海岸通に面して建つ近代建造物群のひとつ。
この通りには、「海岸ビル」と呼ばれる建物は2棟あり、1棟は明治44年竣工の海岸ビルヂング(旧兼松商店本社屋「日豪館」)、もう1棟が今回取り上げる海岸ビル(旧三井物産神戸支店)である。

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海岸ビルは海岸ビルヂングより7年新しく、大正7年(1918)の竣工。
設計者は両者共共通で、明治から大正にかけて神戸を本拠に活躍した河合浩蔵(1856~1934)による。
弊ブログで既に取り上げた同一設計者の建物としては、神戸の旧小寺家厩舎、大阪の新井ビルがある。

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平成7年の阪神淡路大震災で地盤が沈下、全壊の判定を受け改築を余儀なくされるが、神戸市と所有者との間で景観保全のための調整が図られた結果、改築後も外観はもとの姿を残している。

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この改築で15階建の高層ビルとなり、旧ビルの外壁はビル低層部の囲いのような形で残されている。なお、外壁の石材は、大半はもとの部材を用いている。

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隣接して、海岸通及び旧居留地のシンボル・商船三井ビルが建つ。大正11年竣工の商船三井ビルと竣工年は4年しか違わないが、比較すると海岸ビルは天井が異様に高いのが分かる。ただし商船三井ビルも今日のビルと比べると天井は全然高い。オフィスビルも高層化が進むことで天井高が低くなっていく過程がよく分かる。

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明石町通に面した正面。右手前の地下駐車場入り口は改築に際し改変されたものである。
なお旧居留地内の地名は一部を除き、東から西へ江戸町→京町→浪花町→播磨町→明石町と江戸時代の都市名・国名が地名に使われている。無論開港に伴う居留地設置に際して付けられたものである。

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正面中央。
窓の配置からして、改築前は中央に階段室があったものと思われる。

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現在の内部。
旧ビルの外観を残す部分は全面的にこのような吹き抜けになっている。
冒頭で、高層ビルの囲いと表現したのはこのためである。

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僅かに改築前の内部を偲ばせる、エレベーターホール前に並ぶ石柱。

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旧ビルのドアもごく一部だが残る。

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旧ビルの内部は現在、公開空地的な扱いになっているせいか、一階には開口部が多く設けられているが、もとは東側正面及び南側の開口部はそれぞれ一箇所だけだった。
精緻な細工が施された木製扉が残る部分が、本来の開口部。

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西側からの眺め。海岸通側一間を除いて装飾の無い素気ない仕上げ。
ただしこれは改築前も同様であった。竣工当時、西隣には香港上海銀行の煉瓦造洋館(戦災で焼失)が壁を接していたため。

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なお、北側は改築前は南側同様装飾的な外壁があったが、現在は隣接のビルに覆われて街路からは目につかないため、北側は旧状に復元されていない。

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海岸通側の一階外壁には穴をセメントで塞いだような跡がいくつも見られる。
大東亜戦争末期の、米軍のグラマン機による機銃掃射の痕跡と言われている。

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三井物産のような貿易商社は、戦時中は商社としての機能は麻痺していたものと思われる。
海岸ビル、即ち三井物産神戸支店の建物は、戦時中は海軍が使用していたため機銃掃射の標的にされたのであろうか。
郵船ビル(旧日本郵船神戸支店)など周囲の建物でも、同様の痕跡は見つけられる。

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海岸通に残る近代建築物のうち、郵船ビル、海岸ビル、商船三井ビルの3棟にはある共通する点がある。
第一次世界大戦で日本は大戦景気に沸いたが、その景気の影響を最も受けたのが神戸である。大戦中から直後にかけて神戸では貿易商社や船会社の社屋や、その経営者・重役連の邸宅が続々と建てられ、今もこのようにいくつかが現存する。

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高層ビルへの改築工事が竣工した翌年の平成10年に、海岸ビルは旧ビルの外壁を残す部分が国登録有形文化財に認定されている。余談だが以前、皇后陛下の御実家である東京五反田の旧正田家住宅が、相続税による物納→取り壊しというお決まりの愚劣な行為で消えたとき、文化庁は改造が多く登録文化財の価値は無いとか言っていたように記憶する。

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それではこのような完全な改築(新築)物件は如何なる基準で登録文化財に認定されるのかと、この制度の認定基準には些か疑問を覚える。
しかし、曲がりなりにもこの姿が残ったこと自体は喜ぶべきことであるには変わりない。神戸市と所有者の判断は評価すべきである。

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海岸通の近代建造物群は、本文中で言及した建物のほか、昭和期建設の神港ビルチャータードビルがあり、それぞれ弊ブログにて紹介済みである。したがって今回の海岸ビルが、海岸通の近代建築紹介としては最後である。
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