第442回・川口アパート

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先日取り上げた、大阪・旧川口居留地跡の川口基督教会の向かいにある建物。不詳な点が多いが、昭和3年(1928)頃に建ったもののようである。

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右手に写るのが川口基督教会。

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そもそも最初からアパートとして建てられたのか、事務所として建てられたのか、経歴は分からない点が多い。

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ネットや書籍の情報では、新大阪新聞社の社屋として建てられたとの説もある。

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しかし新大阪新聞社というのは如何なる新聞社だったのかは、分からなかった。

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縦長の楕円形装飾等、大正期に流行したドイツ風装飾がみられる。

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均等に玄関が設けられているところを見ると長屋形式の貸事務所か、当初からアパートとして建てられたものかとも思える。

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この建物は二棟から構成されており、写真奥の棟は現在事務所として使われているようであるが、非常に保存状態がよい。手前の棟は名前の通り住宅として使われているようだ。一部は改築されるなど、こちらは改造が激しい。

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裏を流れる木津川から望む。
対岸は江之子島の旧大阪府庁址で、先日取り上げた木村家住宅は川を隔てて背中合わせになっている。

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謎が多いが、魅力的な建物である。

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今後も健在であってほしい。
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第441回・船場ビルディング

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大阪市中央区淡路町にあるテナントビル。一見何の変哲もない古ビルだが、内部には非常に魅力的な中庭を持つ空間が広がっている建物である。国登録有形文化財。

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船場ビルディング外観。大正14年(1925)竣工。
この建物が建つ淡路町は、大阪の商業の中心地であり、綿業會舘愛珠幼稚園芝川ビル旧岸本家住宅等、これまで度々取り上げてきた近代建築物が残る船場地区の一部である。

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船場ビルディングのホームページに載っている創建時の写真を見ると、現在は地味な外観であるが、一階外壁が改修された他、上部外壁や屋上の装飾が失われたためであって、本来はもっと華やかな外観だったようである。

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内側から見た、当初はアーチ型だった正面入口。
奥の中庭へ荷馬車やトラックを入れられるよう、床には段差を設けずスロープになっている。

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外観からは予想もできない、奥に広がる中庭。

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道路に面した側は貸事務所に充てられ、奥の中庭に面した部屋の多くは住居として造られた、当時としては珍しいオフィスと住居兼用のビル。

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中庭は壁面のタイル、木製の扉や窓枠など、創建時の面影を色濃く残している。
床には木煉瓦が敷き詰められている。

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シンプルながら階段の親柱など、要所に装飾が施されている。

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二階からみた中庭。

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木製の手摺も昔からのもの。

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船場ビルディングを建設したのは、大阪に本拠を置く老舗化粧品メーカー・㈱桃谷順天館の創業者・桃谷政次郎である。現在も系列企業である桃井商事㈱が、建物の管理を行っている。

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なお、このユニークな建物を設計したのは村上徹一という人物であるが、詳細な経歴等は不明のようである。

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大正期の(とりわけユーゲントシュティールなどドイツ風意匠の)建築によく見られる、ワラビのような形状の装飾。

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ステンドグラスもある。

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最上階の廊下。

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ステンドグラスを拡大。

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十数年前に建物の特性を活かした改修を行って以来注目を集め、現在はテナントビルとして、非常に人気があるそうである。

第440回・旧新町演舞場(大阪屋本社)

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大阪市西区新町は、江戸時代には江戸の吉原、京の島原と並ぶ遊郭があった場所である。明治以降遊郭は近隣に新しく出来た松島に移転したが、新町はその後も御茶屋街として栄えていた。当時の名残を今も残すのが、この旧新町演舞場の建物である。

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新町界隈は昭和20年の空襲で焼き払われ、現在は戦前からの建物はほとんど残っていない。

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旧新町演舞場は大正11年(1922)の竣工で、設計は片岡建築事務所。
旧大阪市庁舎などの設計を行った建築家であると同時に、大阪商工会議所会頭まで務めた実業家でもあった片岡安の率いる建築事務所である。施工は竹中工務店。

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演舞場は芸妓の踊りを披露する場で、大阪にも京都の祇園のような場所がかつて存在した。

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赤い煉瓦調のタイルは後年の改装によるもので、かつては白い外壁であったようである。

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窓台に施されたモザイクタイルの装飾は、創建当初からのものと思われる。

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旧新町演舞場は第二次大戦中に、戦時下に全国の出版流通を独占するため設立された国策企業・日本出版配給の大阪支店の事務所兼倉庫となる。敗戦後、日本出版配給は占領軍により閉鎖させられるが、同社の一部を母体として設立された㈱大阪屋の本社屋となり現在に至る。

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その間、なにわ筋に面した東側側面に増築が施され、さらに西側の大ホール部分は建て替えられる。(写真手前の部分)現在旧状を残すのは南東の角に設けられた玄関部分及び北側のみである。

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北側外壁。こちらは白いモルタル塗り仕上げであるが、これが本来の外壁かもしれない。

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㈱大阪屋のホームページでは、沿革紹介のページにてには戦災後の写真が載っているが、増築前の東側外観を見ることができる。大きな半円形の窓が特徴的な建物であったことが分かる。

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ホール部分はもはや現存しないが、なにわ筋に面した部分についてもし増築部分を取り除けば、大正の名建築が往年そのままの威容が蘇るのではないかと勝手な夢想をしたりしてしまう。

第439回・木村家住宅

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現在大阪城のそばにある大阪府庁は、大正15年まで西区江之子島にあった。
当時の庁舎は今は残っていないが、その門前に大阪府の官舎として建てられた洋館が1棟だけ現在も残されている。
国登録有形文化財。

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西区江之子島は木津川を挟んで川口居留地に隣接している。明治7年(1874)、この地に2代目となる大阪府庁舎が建設され、大正15年(1926)に東区(現中央区)大手前の現庁舎に移転するまで52年間使用された。そして庁舎移転後は大阪府工業奨励館として使われる。

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戦前に既に明治初期の洋風建築を保存、再利用していた実例である。しかし昭和20年に戦災で焼失する。旧川口居留地と共に特徴的な街並を形成していただけに、惜しみても余りある。写真は現庁舎の玄関ホールに置かれた模型。
(この模型や跡地についても触れているので、現庁舎の記事も参照頂きたい)

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旧庁舎とは道路を隔てて斜め向かいに建つこの小さな木造官舎は焼け残った。

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大正初期の建築と考えられ、庁舎に正面を向け背後は木津川に面している。
現在はこの建物1棟のみだが、かつては川沿いに同様の造りの官舎が並んでいたようである。

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外観は洋館の造りであるが、内部は和室が中心で床の間付きの座敷もあるようである。
洋室は一間だけで、上げ下げ窓になった玄関脇の部屋がそれであろうと思われる。

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玄関。住宅というより、昔の医院のような雰囲気。

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一つを除いて、窓は全て和式の引き戸。

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規模や造りから、ある程度上級の役職にある官吏用の官舎であったと思われる。
戦前の知事の官舎は長野県ほか各県にいくつか残るが、中堅以上の官吏用で洋風の官舎というのは珍しいのではないだろうか。

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木津川側から見た背面。雨戸があるところから背面は完全な和風と思われる。

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旧大阪府庁址は現在、大規模な再開発が進むが、かつての官舎は今も住居としてひっそりと建っている。

(参考)
「旧大阪府庁舎略史」
文化遺産オンライン

第438回・釣瓶鮨屋 弥助

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奈良県は吉野の下市にある鮎料理の老舗。
昭和初期に建てられた趣のある座敷で、名物の鮎鮨をはじめとする鮎料理を堪能することができる。

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「弥助」は、現在の御当主で四十九代目、約800年を数える老舗中の老舗である。
歌舞伎狂言「義経千本桜」の三段目・すしやの段の舞台としても有名。

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建物は昭和12年に起こった大火でそれまでの建物が焼失してしまったため、火災後間もなく再建されたものであるという。

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紅殻仕上げは名古屋をはじめ東海地方では、別荘や料亭、旅館等でなぜかよく好まれるが、他の地域では珍しい。

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現在は専業の料理店であるが、かつては旅館も営んでいた。

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鮎鮨を作る際に用いる、釣瓶型の手桶と鮎をあしらった客室入口の欄間。

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続き間になった3階の客室。

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縁側からは、建物の背後の崖に造られた庭園を一望できる。

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この座敷で、鮎鮨などの料理を頂ける。

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客室の飾り窓。

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床の間。

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昔、鮨を漬けるため用いていた道具と釣瓶桶が、床脇に飾られている。
この道具と桶を用いて造られていた鮨は、鮒鮨のようななれずしで、現在は造られていないそうである。

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昭和初期の料亭・旅館建築にふさわしい、凝った意匠の床の間。この部屋は上記広間とは別の個室。

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窓の建具にもさりげなく意匠を凝らす。内側にゆるく円弧を描いている。

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裏の岩盤を利用して造られた庭。現在の建物と同時に造られたものとか。
客室から渡廊下が設けられており、散策もできる。

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庭から見下ろす、冒頭に掲げた母屋の屋根。

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食事用の客室は隣接する別棟。木造三階建て。

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表から見た別棟。街路に面していないせいか、こちらの外壁は紅殻仕上げではない。

第437回・旧三井銀行大阪支店

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前回紹介した旧三井銀行名古屋支店に続き、今回はその翌年に竣工した大阪支店。
大阪の金融街で今も多くの銀行店舗が並ぶ高麗橋筋と、大阪のメインストリートのひとつである堺筋が交差する場所に建つ。昭和11年(1936)竣工。現在は三井住友銀行大阪中央支店となっている。

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先代の建物は名古屋と同様、まだ築20年程度であったが現在の建物に建て替えられることになる。
なお、大正3年竣工の旧店舗の写真は、施工を行った清水建設のホームページで見ることができる。
http://www.shimz.co.jp/200th/sakuhin/200-sakuhin-n18811914.html

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名古屋と同じく設計は曽禰中條建築事務所、施工は竹中工務店。
曽禰達蔵・中條精一郎の二人が率いる曽禰中條建築事務所は、この建物が竣工した昭和11年に中條が死去、翌年には曽禰も死去したため同年解散した。この建物が最後の設計作品とされている。

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堺筋を隔てた真向いには、以前紹介した高麗橋野村ビルディングが建っている。
阪神大震災までは、高麗橋筋を隔てて大正6年竣工の三越大阪店もあったが、こちらは今はもはや跡形もない。

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名古屋と比較すると、大阪は一層分高い反面、幅は狭いので正面の列柱は4本である。(名古屋は6本)
名古屋の方が外観はスマートな印象があるが、重厚さでは大阪が勝る気がする。

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正面に円柱、側面は平たい付柱とするところは名古屋・大阪共に同じ。

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玄関。名古屋と同じようでいて微妙に異なる。前回記事の写真と比較して頂きたい。

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正面円柱の頂部にはイオニア式柱頭を据える点は同じだが、上層には二匹の蛇が絡む杖をあしらったメダリオンがある。

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内装は非常に華麗なものである。
空調設備等を手掛けた会社のホームページで竣工当時の内部写真が見られるが、現在もほぼ変わっていない。
http://www.sanki.co.jp/product/histry/enkaku/010.html

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旧三井銀行大阪支店は、旧名古屋支店、また同時期竣工の旧横浜正金銀行神戸支店等と並び、日本人建築家による西洋古典様式建築の集大成と言える建物である。

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そして高麗橋筋にかつては多く建っていた戦前の銀行建築の中で、旧三井銀行だけが今も健在である。

第436回・旧三井銀行名古屋支店

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名古屋の広小路通に威容を誇る。
昭和10年(1935)に三井銀行名古屋支店として竣工。現在も三井住友銀行名古屋支店として現役の銀行店舗である。

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三井銀行が現在地に支店を移したのは大正2年(1913)のことである。
当時、名古屋の主要建築の設計をほぼ一手に引き受けていた鈴木禎次の手による重厚な店舗は、名古屋でも指折りの近代建築であった。

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ただしこの鈴木設計の建物はなぜか短命であった。わずか20年程度の使用で取り壊され、跡地には曽禰中條建築事務所の設計による新店舗が建てられた。現在残る建物である。

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外観・内装ともに明治や大正期の近代建築に見られるような派手さはないが、堅実な古典様式の意匠でまとめられている。

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曽禰中條建築事務所は三井銀行では北海道の小樽支店と大阪支店を設計しており、共に現存する。

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三井銀行は、昭和4年に本店(三井本館)を竣工させた後に新築した店舗は、いずれも本店の外観に準じたものとなっており、名古屋支店もその一つと言える。

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正面玄関。

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イオニア式の柱頭。

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窓上部に施されたギリシャ雷文。

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名古屋に現存する古典様式の近代建築では、最も完成度が高いと言える。

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次回、同じ曽禰中條建築事務所設計で、名古屋の1年後に竣工した大阪支店を取り上げたい。
旧小樽支店及び三井本館は弊ブログで既に取り上げているのでこちらも御覧頂きたい)

第435回・川口基督教会

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大阪市西区川口にある日本聖公会の教会堂。
現在残る赤煉瓦の教会堂は大正9年(1920)竣工。国登録有形文化財。

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この建物が建つ一帯は旧川口居留地で、教会の設置は居留地時代の明治14年(1881)にさかのぼる。

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川口居留地は、大阪における西洋文化の窓口のひとつであったが、貿易港としては良い条件を備えていなかったため商業地として発展することは無かった。

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異国情緒漂う街並みも昭和戦前までは残されていたが、第二次大戦の空襲で全て焼き払われ、この教会堂だけが居留地時代の名残を残す唯一の建物である。

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現在の川口界隈は倉庫とマンションだけが目立つが、その中で異彩を放つ。

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設計は米国人の宣教師建築家ウィリアム・ウィルソン。
定礎石にも名前が刻まれている。

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ゴシック様式の美しい教会堂である。

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大阪市内に残る煉瓦造建築の中でも指折りの存在である。

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平成7年の阪神大震災では大きな被害を受け、建物は一時存続の危機に立たされたこともある。

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尖塔は上半分が崩落、会堂も亀裂が走り倒壊のおそれがある状態であったという。

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尖塔の上半分は新しい煉瓦で忠実にもとの形に戻された。
煉瓦の色や質感が、よく見ると下半分と異なるのが分かる。

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教会関係者と信徒、学識者の並々ならぬ熱意が実を結び、美しい姿を残すことが出来た幸運な建物である。

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背面の壁面を始め外壁の随所に黒く焼けた跡が見られる。
空襲の痕跡だろうか。

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戦災と震災を乗り越え、これからも建ち続ける。

第434回・旧黒滝村役場(黒滝村歴史民俗資料館)

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奈良の吉野の山深い地に建つ明治の洋館。
明治43年(1910)に吉野材木黒滝郷組合事務所として建てられた。竣工3年後の大正2年から昭和53年までは黒滝村役場として使われていた。奈良県指定文化財。

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現在は黒滝村内にある「黒滝・森物語村」内に移築、黒滝村歴史民俗資料館として使用されている。

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洋風の本館と日本家屋の付属棟から構成される。
移築前の敷地の形状から、本館部分が不規則な平面となっているのが特徴である。

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簡素だが、細部まで丁寧に造られた洋館である。

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総工費は明治43年当時の金で8,000円かかったという。

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洋館と日本家屋で構成される建物の場合、洋館だけ保存されて日本家屋は除却される例が多いが、ここでは付属棟の日本家屋までキチンと保存されているのがすばらしい。

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付属棟の内部は座敷2室と縁側で、うち1室は床の間も備えているという。

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裏側及び通用口。

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窓はすべて洋風の上げ下げ窓。

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三角破風を備えた玄関。

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休館日なのか入れなかったので、窓から撮影した内部の写真。
一階は村役場となった際に、現在のような一室の大広間に改造されたという。

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一階の天井。装飾を打ち出した金属板を組み合わせ、ペンキを塗ったもの。
洋館の天井仕上げのひとつとして、このような天井は旧西郷従道邸など、他の洋館でも時折見られる。

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当時はさぞ辺鄙な地であったと思われる吉野の山村で、この洋館が建ったときの人々の驚きは如何ばかりであったかと思われる。

第433回・小川香料大阪支店社屋

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大阪が発祥の地である大手香料メーカー・小川香料㈱の大阪支店ビル。
昭和5年(1930)竣工で前回の旧加藤商会ビルと同時期の建物だが、デザインは当時最先端のアールデコ。
国登録有形文化財。

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小川香料大阪支社は、大阪における古くからの商業地域である船場の一角、中央区平野町にある。
この界隈は今まで取り上げた綿業会館等、戦前の建築が今も点在する。

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設計は本間乙彦(1892~1937)。
いずれも以前取り上げた、小川香料と同じく船場界隈に建つ芝川ビル、神戸郊外の旧大西家住宅の設計者。

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壁面や軒周りにテラコッタを貼っている。

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建てられた当初は、この界隈の一般的な商家と同様住み込みの従業員が多くいたため、上階は畳敷きであったという。

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向かって正面左手が店舗入口、右手が二階にも続く玄関と思われる。

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八角形の玄関燈。

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玄関欄間のステンドグラス。青い乳濁硝子が色鮮やか。

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両脇の柱はテラコッタ貼り、ステンドグラスを嵌めた窓周りは柱と同色の人造石仕上げと思われる。

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当時は伝統的な造りの商家と土蔵が大半であったこの界隈において、モダンな意匠を纏った鉄筋コンクリートの商家としてさぞ目立ったものと思われる。

第432回・旧加藤商会ビル

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名古屋市中区にある納屋橋は、名古屋港に続く運河である堀川に架かる橋である。また名古屋のメインストリートのひとつである広小路通の一部でもある。その納屋橋のたもとに建つ旧加藤商会ビルは、もとは外米を扱う貿易商社・加藤商会の本社事務所であった。国登録有形文化財。

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現在残る建物は昭和6年(1931)頃の建設とされる。
大正5年頃に建てた煉瓦造の社屋を取り壊し、鉄筋コンクリートで建て直したと言われるが、この改築に際してデザインは旧ビルのものをほぼそのまま踏襲しているとのことである。

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地上3階建。但し堀川に面した側から見ると、地階を含めて4階建に見える。
地階には商品の搬出用か出入口が設けられている。当時は陸上輸送よりも水上輸送が中心であったため、名古屋港に通じる運河である堀川に面した界隈は、非常に利便性に優れた場所であった。

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納屋橋から望む旧加藤商会ビル。
現在の納屋橋は昭和56年に架けられたものだが、装飾豊かな鋳鉄製の欄干や照明、御影石の親柱、アーチ型の側面板は大正2年に架けられた旧橋のものを再利用している。

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タイルの色や細部に施された幾何学意匠は大正期の建築を思わせ、昭和初期の建物にしては些か古臭い感じがするが、上記の建設事情を知れば納得がいく。築後わずか十数年で改築したのは、関東大震災の影響と思われる。

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商品である米の輸入元であったことから、加藤商会はタイとの繋がりが深く、加藤商会の建物も昭和10年から20年までタイ国名古屋領事館として使われていた。

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戦後は加藤商会の手を離れ、名古屋市が取得修復する直前には広告塔として使われており、外壁の全面が看板で覆われてしまっていた。

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名古屋市が平成12年に前所有者より寄贈を受ける形で取得、国の登録有形文化財認定を受けると同時に、修復・活用に向けての取り組みが進められた。

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現在は建物の来歴にちなんで地上部にはタイ料理店が入居している。
また地階は、市民向けのギャラリーとして貸し出されている。

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東区白壁界隈の旧川上貞奴邸旧井元為三郎邸、千種区の揚輝荘などと並ぶ、名古屋市による近代建築活用事例のひとつである。

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また旧加藤商会ビルは、戦前は名古屋の金融・商業の中心であった広小路通に残る数少ない近代建築物でもある。

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(以下参考)
http://www.nagoya-rekimachinet.jp/contents02/
http://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunitouroku/1072.html

第431回・旧岩崎久彌邸・その2(日本館・撞球室他)

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前回に続き旧岩崎久彌邸。
今回は、敷地内に残る洋館以外の建物を紹介。写真は洋館と同じ明治29年(1896)竣工の撞球室。

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宅地を囲む煉瓦塀。
現在は赤煉瓦がむきだしになっているが、もとは上から黒漆喰を塗り瓦を載せた和風の塀になっていた。

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現在の旧岩崎邸の敷地は、かつての3分の1程度に縮小されている。
正門(現存しない)から邸宅につづくこの砂利道も、途中から半分ぐらいが残る形になっている。
現在は宅地全体が重要文化財に指定されているので、上記煉瓦塀や道の石垣も文化財として扱われている。

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洋館玄関前の広場と庭園を仕切る、石造の袖塀。

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洋館と日本館。
日本館はかつては岩崎家の居住空間や台所、蔵を持つ広大な建物であったが、現在は洋館に隣接する大広間と洋館との渡り廊下を残して全て取り壊されてしまった。

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写真に写る建物の裏手及び左手に、今はないその他の部分があった。
今は跡地に立てられた旧司法研修所の庁舎が立ちふさがっている。

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現存する大広間は日常は使わない部分で、一族の婚礼等特別なときにだけ使う部分であった。
なお洋館も主人の久彌が書斎を普段使っていたことを除けば、岩崎家の人々が日常使う場所ではなかった。

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日本館は、江戸時代の大名屋敷の流れを汲む。
硝子戸を入れず障子と雨戸だけなので、一見すると江戸時代そのままという感じもする。

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洋館とつながっている渡り廊下内部。船底天井になっている。
前回記事でも触れたが、現在は内部の写真撮影禁止なので、禁止前の撮影である点お断りしておく。

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日本館は当時貴顕富豪の邸宅を数多く手がけ、名棟梁と評判の高かった大河内喜十郎の設計施工による。

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大広間の脇、縁側の片隅に設けられた二畳程度の小部屋。

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お供の人の控えの間と言われるが、密談の場にも使えそうな小部屋である。

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縁側より洋館を望む。

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洋館の前から撞球室を望む。

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撞球室。洋館と同じくコンドル設計。
スイスの山小屋風外観が特徴。

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洋館の離れのように造られているが、両者は地下道で結ばれている。
手前のガラス張りの部分は明り取りの小窓で、真下に地下道がある。

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明治から昭和戦前の邸宅に撞球室を設ける例は珍しくも何ともないが、独立した離れとして造るのは珍しい。
他に現存するものでは三重県の旧諸戸邸(西諸戸邸、現在解体修理中)など極僅か。

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スイスの山小屋風というのも日本の洋館では極めて珍しい。
他にも例はあるが著名な建築家の手によるものとしては、この建物ぐらいと思われる。

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入口の扉と欄間にはステンドグラスがはめ込まれている。

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内部。
撞球室は窓から覗き込むだけで内部公開はしていない。

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天井の木組み。

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撞球室は洋館・日本館に比べるとやや整備が遅れている感があるが、ゆくゆくは整備の上地下道と併せて公開して欲しいものである。

第430回・旧岩崎久彌邸・その1(洋館)

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現存する明治期の邸宅建築の中では、最高峰に位置づけられるとも言える旧岩崎久彌邸。
英国人建築家ジョサイア・コンドルの設計で、明治29年(1896)に竣工した。
敷地内の洋館・日本家屋・撞球室、及び宅地が国指定重要文化財となっている。今回はそのうち洋館を紹介したい。

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洋館全景。
旧岩崎邸は上野公園や不忍池にも近い、東京都台東区と文京区の境目にある。

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この館の主・岩崎久彌(1865~1955)は三菱財閥の祖・岩崎彌太郎の子で、三菱財閥第三代社長である。
邸宅は岩崎久彌が社長就任(明治26年)後、間もなく建てられたものである。

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岩崎久彌は、大正5年に財閥総帥の座を従弟(彌太郎の弟・彌之助の子)の小彌太(1879~1945)に譲り、財閥経営からは離れ、かねてから関心のあった小岩井農場などの運営に没頭する。その後敗戦による米軍接収や財閥解体のためこの屋敷を去るまで、約半世紀にわたって住んでいた。

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なお、岩崎久彌は本邸を去った後、千葉県下の農場内にある別邸に移り、そこで九十年の生涯を終えている。
三菱財閥の総帥としては、その興亡を見届けた唯一の人物である。

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米軍接収後は国の所有となり、最高裁判所の研修所が敷地内に建てられることとなり、日本家屋の大部分が取り壊されたほか、敷地も三分の二が民間に売却され、大幅に縮小されている。平成に入り研修所の移転後は都立公園として整備・公開されることとなり、平成13年から「旧岩崎邸庭園」として公開、現在に至る。

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その間、昭和36年に洋館と撞球室、同44年に日本家屋の残存部(大広間)と洋館袖垣、平成11年に宅地が国の重要文化財に指定されている。

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名称は「庭園」だが、建物も撞球室を除き内部へ入ることができる。

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岩崎邸洋館には地下室がある。厨房等サービス空間として使われていたが、米軍接収中はこの地下室がCIAのキャノン機関による鹿地事件(鹿地亘事件)の舞台となったと言われる。写真は洋館から日本家屋へ至る通路からの眺め。

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庭園側から見た洋館。木造二階建。
コンドルは岩崎家を始めとする富豪の邸宅を数多く手掛けているが、そのうち木造で現存するものは、三重県桑名の旧諸戸清六邸とこの旧岩崎久彌邸の二件だけである。あとは旧古河虎之助邸のような石・煉瓦造である。

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サンルーム。ここはコンドルの設計ではなく、大正に入り増築された部分。

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コンドル設計の洋館には必ずあるのがベランダ。
二階の繊細な装飾を施した鋳鉄製の手摺は、戦時中の金属回収で失われていたので、平成の修復の際復元されたものである。

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一階ベランダの列柱。

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一階ベランダの上がり口の石段。

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二階ベランダ。

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正面玄関ポーチ。
洋館にはこの玄関とは別に内玄関があり、正面玄関は賓客を招いてのパーティーなど限られたときしか使用していなかったようである。

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現在はこの玄関から入る。
ところで残念ながら、旧岩崎邸では現在、内部の写真撮影は禁じられている。

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一昨年であったか、NHKの大河ドラマにてこの屋敷が岩崎彌太郎邸として、ロケ地に使われた際見学者が激増したためそれまで自由であった写真撮影が禁じられ、ドラマ終了後も撮影禁止の規則だけは残ってしまった。
写真は玄関ホール。以下、本記事における内部写真は全て禁止される前のもの。

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一階の旧食堂。現在は紹介ビデオの放映を行う場所となっている。

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二階、上記旧食堂の真上に位置する旧客室。

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内部には各室ごとに異なるデザインを施した暖炉が設けられ、見ごたえがある。
写真は一階婦人客室。イスラム風。

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(上段左)玄関ホール(上段右)一階食堂
(中段左)一階客室(中段右)一階書斎
(下段)いずれも二階客室

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天井も部屋毎に異なる。写真はいずれも二階の部屋で、一階の主要室はもっと凝った造りである。
まさか撮影を禁じられるとは思っていなかったため、残念ながらそれらの部屋についてお見せできる写真がない。

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内玄関のステンドグラス。なお内玄関は非常にこじんまりしたもので、規模だけ見れば今日の一般住宅とさほど変わらない。

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階段室、地階へ至る部分の小窓に嵌められたステンドグラス。


次回は撞球室、日本家屋等洋館以外の建物について紹介したい。
旧岩崎久彌邸 つづく

第429回・旧華頂博信邸

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以前取り上げた前田侯爵家鎌倉別邸荘清次郎鎌倉別邸と並び、鎌倉三大洋館とも称される旧華頂博信邸。
皇族から臣籍降下し華族に列せられた華頂博信侯爵(1905~1970)の自邸として、昭和4年(1929)に建てられた。

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華頂侯爵家の住居として使われた期間は短く、所有者を転々として現在は鎌倉市が所有・公開している。
鎌倉市景観重要建築物であり、国登録有形文化財でもある。

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施主が元皇族であるためか、設計は宮内省の手によるという。

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玄関。内部公開は年に2回程度行われるようだが、通常は外観及び庭園だけ公開されている。

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玄関わきのステンドグラス。

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玄関の照明。

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昭和初期に流行した、英国風のハーフチンバースタイルの外観が特徴の洋館である。

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一階外壁に貼られたスクラッチタイルも昭和初期の洋館には多く見られる。

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玄関側の全景。

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平屋建ての付属棟。執事等使用人の執務兼居住スペースと思われる。

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庭園側から望む外観。

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煙突にも切妻屋根が載る。

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サンルーム。床は大理石と思われる二色の石材を市松紋様に敷き詰めている。

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庭園に面したテラスの石段。

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この建物の特徴のひとつは、半円形に大きく張り出したテラス。噴泉も備えている。

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テラス側外壁に取り付けられた照明。

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芝生をタイルで縁取りした洋式庭園も創建当初からのものである。

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今後の建物の活用が期待される洋館である。

第428回・旧日本赤十字社中央病院病棟

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明治23年(1890)に、現在の東京都渋谷区広尾に建てられた日本赤十字社中央病院の病棟の一部。昭和49年に愛知県犬山市の明治村へ移築保存されている。

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設計は赤坂離宮(現・迎賓館)や奈良国立博物館、鳥取の仁風閣等の設計で知られる片山東熊による。ドイツのハイデルベルク大学病院を模して建てられたという。

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痛風を重視したのか高床式になっている。
明治村に保存されているのは複数連なっていた病棟のうちの一棟で、便所が別棟として附属する。

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建設当初は煉瓦造の本館を中央正面に据え、背後に中庭を囲んで木造平屋建ての病棟が連なっていた。大正12年の関東大震災で本館は大破し取り壊されたが、木造の病棟部分は昭和後期まで使用されていた。

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明治期の日赤関係の建築で他に現存するのは、旧埼玉県支部社屋(明治38、埼玉県指定文化財)がある。旧埼玉県支部社屋と同様、瀟洒な木造洋館である。

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屋根には換気塔が並んでいる。

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内部は明治期の病室の模様を再現している。

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北側に硝子戸を立てこんだ廊下があり、通常日当たりの悪い北側からも十分採光ができるように造られている。

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現在は敷地の関係で、建物の向きは旧所在地時代とは異なるものになっている。

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平成16年に、明治村内の他の主な建造物と共に国登録有形文化財となっている。

第427回・琴ノ浦温山荘(旧新田長次郎別邸)

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和歌山県海南市にある琴ノ浦温山荘は、製革業で財を成した大阪の実業家・新田長次郎(1857~1936)が営んだ海浜別荘。黒江湾に面した広大な庭園は新田家所有時代より一般に公開されており、現在も公益財団法人琴ノ浦温山荘園によって管理・公開されている。

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正門。洋風のコンクリート製門柱・門扉を備える。
琴ノ浦温山荘の庭園は平成22年に国指定名勝、建物は登録有形文化財を経て、庭園の名勝指定と同じ年に国指定重要文化財となっている。

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琴ノ浦温山荘は、大正初年より昭和初年にかけて、新田長次郎の構想をもとに造営されたものと考えられている。建物については新田皮革製造所(現・㈱ニッタ)建築顧問で、大正元年には新田長次郎の娘婿となっていた建築家の木子七郎(1884~1954)が設計を行ったと推測されている。

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主屋正面全景。木子七郎の手掛けた住宅建築では、フランス城館風の外観を持つ愛媛県松山の萬翠荘(旧久松定謨別邸)、スペイン風外観を持つ兵庫県甲子園の旧新田利國(長次郎の孫)邸があるが、琴ノ浦温山荘は和風建築であり、木子七郎の幅広い力量が窺える。平成23年には萬翠荘も国指定重要文化財となっている。

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主屋は大正4年(1915)の竣工であるが、写真の正面玄関及びその周辺は、大正後期の増築と考えられている。

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正面右手にある内玄関棟が、当初は正面玄関であった。

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正面玄関脇にある伴待部屋。人力車夫のための控え場所兼休憩所である。

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裏側から見た伴待部屋。

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伴待部屋の内部。ここで車夫は煙草を喫ったり、お茶を飲んだりして主人を待っていたものと思われる。

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庭園への入口である北冠木門と石燈籠。

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庭園。海水を引き入れる汐入式池泉庭園。

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茶室「鏡花庵」。
大正9年(1920)頃に建てられたと考えられている。

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作庭の指導を行った木津宗泉の設計によるものとされるが、右手の塀はコンクリートによる擬木製。
園内には随所に、新田長次郎の趣向により造られたコンクリート製の擬木や擬石などの工作物がある。
大正時代にはコンクリートはまだ普及が始まったばかりの新材料であった。

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茶室の茅葺屋根を見上げる。

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現在も茶席として貸し出されている。

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庭園より主屋の方向を望む。

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池越しに見る茶室。

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園内では最初に建てられた建物がこの浜座敷。その名の通り海に面した崖の中腹に建てられた。
大正2年(1913)の建築。

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本瓦葺きの重厚な寺院風の外観を持つ。崖の裏に玄関があり、石段を登って行く。
昭和21年の南海地震による津波で座敷内まで浸水したため、以後使われていないという。
今も壁には津波の痕跡が残っているそうである。

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かつては海を一望できた浜座敷だが、現在は対岸が埋め立てられている。

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上記浜座敷が建つ岩山を貫く手掘りのトンネル。
夏場涼しくなるよう、主屋に浜風がよく通るようにするために掘られたという。

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トンネルを抜けると、岩肌で仕切られた小さな浜辺があった。

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海水を引き入れた庭園であるため、潮の満ち引きにより飛び石は水没する時間帯もある。

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再び主屋。庭園側からの眺め。
鉄筋コンクリート造の地階の上に木造の建物が載る。

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庭園・建物共に、一見伝統的な形を取りつつ鉄筋コンクリートやベニヤ板等、当時最新の技術や材料を随所に用いている。

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主屋地階部分には、かつて台所や使用人部屋のほか、撞球室もあったという。明り取り窓があったと思われる痕跡もあった。

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庭園は通常入園料さえ払えば拝観できるが、建物については残念ながら公開していない。

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園内の一画には新田長次郎の銅像が建つ。
琴ノ浦温山荘は紀州屈指の大庭園であると同時に、和歌山県を代表する近代和風建築である。

琴ノ浦温山荘園
http://www.onzanso.or.jp/index.html
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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