第459回・神戸市垂水区塩屋の洋館

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神戸市の西郊・垂水区塩屋には、この地を訪れる度にいつも気になる建物がある。
尖塔を備えた洋館だが、建設年代等全く不詳である。

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手前に写るのは以前取り上げた旧グッゲンハイム邸

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大阪湾から淡路島、瀬戸内海を一望できる高台の坂の斜面に建っている。

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この建物の存在に気付いた頃は傷みが激しかったが、少しずつ修復工事が進められている。

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初めて洋館の存在に気づいたときの写真。平成19年撮影。
このころから塔屋の屋根等、改修に着手されていたようである。

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平成21年撮影。
母屋にも改修の手が入り始めた。

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以上、平成22年撮影。
見違えるようにきれいになりつつある。

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平成23年撮影。
白かった柱や壁にそれぞれ塗装が施されていた。

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平成24年撮影。外観はほぼ完成したように見える。

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高台の斜面の中腹に建っているので、海岸からも見える尖塔。
同じ塩屋の旧ジェームス邸と同様、展望台として造られたのだろうか。

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塩屋の街は海と山に挟まれ、細い路地が入り組んだ中に、旧グッゲンハイム邸のような異人館や旧後藤邸のような洋館付き日本家屋が点在する魅力に富んだ街並みである。


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石垣と生垣に囲われた門構え。門扉は白い鋳鉄製。

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坂の上から尖塔を見下ろす。

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大阪湾を一望。

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煙突にも簡素な装飾が施されている。
屋根越しに見えるのは、やはり以前取り上げた旧ジョネス邸

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この建物についてご存知の方おられましたら、ご教示頂けると幸いです。
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第458回・青山ビル(旧野田家住宅)

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これまでも度々紹介してきた、大阪の船場界隈に残る近代建築のひとつ。
大正後期に住居として大阪市東区(現中央区)伏見町に建てられた、スペイン風外観を有する洋館。現在はテナントビルとなっており、国登録有形文化財でもある。

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建物の竣工年は大正10年(1921)と同14年(1925)の2説あるようである。設計施工は大林組。
この洋館は野田源次郎氏の住居として建てられ、周囲には野田家の親族の住居も点在していたという。すぐ東側には堺筋が通り、三越や三井銀行大阪支店のある高麗橋はすぐ近所であった。

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野田源次郎氏は、大正時代に大阪天満橋で当時高級食料品店として知られた「野田屋」やレストランを営んでいたが、第一次大戦後のパリ講和会議で首席全権として渡欧した西園寺公望に随行したことを機に西洋建築に興味を示し、帰朝後建てた邸宅がこの洋館と言われる。

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第二次大戦後間もない昭和22年頃に、青山氏の所有となる。
占領軍による接収を免れる代わりに、将校相手の会員制クラブに使用されていたがサンフランシスコ講和条約発効と共に役目を終え、貸事務所として名称を現在の「青山ビル」にして営業を始め、現在に至る。

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外壁に絡まる蔦は甲子園球場のものを株分けしてもらったものだという。

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冬枯れ時の玄関まわり。

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現在は喫茶店、中華料理店、建築設計事務所など幅広い業種のテナントが入居している。

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戦前に住友本社に勤務した経歴を持つ俳人の山口誓子(1901~1992)が、この建物の一室を長年借りていた他、大村崑が事務所を構えたりして文化人・芸能人との関わりも深い。

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玄関上部の窓には、テラコッタ製の装飾が施されている。

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一部分だけにステンドグラスをあしらった窓。もと個人邸宅だけに随所にステンドグラスが嵌め込まれている。

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大正末期から流行したスペイン風洋館は、広い敷地に建つ邸宅に多く取り入れられたが、このような市中の住宅のデザインに取り入れられる例もある。同様な例として大阪市内では、他に西区の旧児玉家住宅(昭和10)が現存する。
こちらも現在はテナントビルとして使用されている。

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玄関ホールから階段室を覗かせて頂く。

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玄関上部にあるものと同じような窓台飾りがある。

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テナントのひとつ、丸福珈琲店北浜店。
天井梁の装飾や暖炉、造りつけの飾り棚など創建当初の内装が随所に残されている。

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暖炉のある広い部屋の天井梁には、漆喰彫刻で作られたブドウの装飾が施されている。

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上記写真とは続き間になった、やや小さな部屋の梁。こちらの装飾は少しシンプル。

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この部屋には造りつけの飾り棚がある。アーチの下には出し入れ口のようなものがあるので、この部屋はもと食堂かも知れない。食堂であれば隣は配膳室ということになる。

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アーチに施された彫刻はブドウやパイナップルのようにも見える。

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街路から見えるステンドグラスを拡大。

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今回記事の本文は、「別冊太陽 古民家生活術」(平成14年 平凡社)の青山ビル紹介記事を参考とさせて頂いた。

第457回・旧住友銀行神戸支店

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今回は旧住友銀行の店舗。昭和9年(1934)竣工の神戸支店。
設計は、住友財閥の営繕部門であった住友工作部が分離して設立された長谷部竹腰建築事務所による。

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旧住友銀行は神戸の金融街、栄町通の東端に建っている。栄町通は阪神大震災までは戦前の銀行建築が多く残っていたが震災で悉く失われてしまった。現在残されているのは旧住友銀行と以前取り上げた旧三菱銀行だけである。

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大正15年竣工の本店(住友本館)より後に建てられた住友銀行の支店店舗は、先日取り上げた三井や安田のように、当時の銀行建築の主流であった列柱を全面に押し出さないデザインが特徴である。

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また住友銀行の各支店には、列柱を並べない代わりに、大きなアーチ窓が外観を印象づける建物が多いことも特徴である。旧神戸支店は昭和戦前期の住友銀行支店建築の特徴を一通り備えている。
なお神戸以外で現存するものとしては、熊本支店が現在も三井住友銀行の支店として健在のようである。

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同様の特徴を持つ店舗は神戸・熊本の他、横浜、名古屋、広島の各支店があった。
(余談ながら広島支店は、原爆投下の際、玄関石段に人影が焼きついていたことで知られる。現在はこの石段部分のみ保存され、広島市の原爆資料館で展示されている)

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旧居留地側の外観正面。外壁の色彩も、本店と同じく黄色味がかっている。
ところで東隣の旧居留地内には、同じ長谷部竹腰建築事務所の設計で、住友銀行の翌年に竣工した旧神戸海上火災ビルがある。

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旧神戸海上火災ビルとは大きなアーチ窓が目立つ点では共通するが、旧神戸海上は装飾がほとんどないのに対し、住友銀行はアーチ廻りなど細部に濃厚な装飾を施しているのが特徴である。

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付け柱の装飾。

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アーチ廻りを拡大。

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玄関。内部には大理石張りの風除室が残されている。

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金融機関の統廃合により銀行店舗としての役目は近年終えたものの、旧居留地に隣接する地の利を活かして現在は、服飾店が入居するテナントビルとして使われている。

第456回・旧第一銀行函館支店

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今回は戦前の五大銀行のひとつ、第一銀行(のちの第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)の函館支店を取り上げる。
大正10年(1921)竣工。

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第一銀行の店舗は明治期までは辰野金吾が手掛けていたが、大正から昭和初期にかけては第一銀行の建築課長であった西村好時(1886~1961)が、東京大手町の本店を始め各地の主な支店を手掛けている。
施工は清水組(現・清水建設)。

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西村好時が第一銀行在籍中に設計した店舗は、焦茶色の煉瓦タイルを貼りめぐらせた前半期(大正中後期)と、全面石張りで玄関まわりには堂々たる列柱を並べた後半期(昭和初期)で作風が大きく異なる。もっともこれは第一銀行に限らず当時の銀行建築のデザインの潮流に沿った変化と言える。

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前者のデザインで建てられた店舗では、今回記事の函館のほか、旧熊本支店が現存する。
後者のデザインでは旧横浜支店が現存する。(以前取り上げたので参照頂きたい)

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玄関ポーチは当初は道路に張り出していたが、昭和に入ってから行われた道路拡幅で改造され、現在の形になったという。

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一階と二階の窓の間に設けられたメダリオン。

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二階窓上部のレリーフ装飾。

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同時期建設の熊本支店が半円アーチを多用しているの対し、函館支店は直線を多用している。

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なお広島支店も同時期の建設で、熊本や函館と似た外観の建物であった。原爆で大破しながらも修復され戦後しばらく使用されていたが、今はない。

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側面。奥の3階建てになっている部分は金庫室か文書庫と思われる。

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現在は函館市文学館として使用されている。

第455回・旧三井銀行横浜支店

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前回に引き続き横浜・本町界隈の銀行建築。現存する昭和初期の三井銀行店舗のひとつがこの横浜支店。先日取り上げた名古屋、大阪の両支店と酷似するが設計者は異なる。

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昭和6年(1931)竣工の横浜支店の設計は、2年前の昭和4年に竣工した三井銀行本店(三井本館)の設計を手掛けた米国トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所による。

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横浜支店と同時期に、名古屋の上前津、大阪の川口、船場の各支店店舗も同事務所の設計で竣工しているが、現在は名古屋の上前津支店だけが現存する。

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その後、店舗建築設計は曽禰中條建築事務所に委ねられ、先日紹介した名古屋(昭和10)、大阪(昭和11)の両店舗が戦前の三井銀行店舗の最後を飾ることになるが、デザインの基本はそっくり引き継がれている。

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三井銀行は特定の建築家に任せ続けず、その都度いろいろな建築家に依頼している。本格的洋風建築が建ち始めた明治後期から昭和戦前までの三井銀行の主要都市の店舗設計を通観してみると、以下のようになる。
(以前取り上げた店舗は、都市名から当該記事へリンク可能)

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横河民輔(本店)→デ・ラランデ(大阪)→鈴木禎次(名古屋、京都)→長野宇平治(神戸、下関、広島)→トローブリッジ・アンド・リヴィングストン事務所(本店、横浜他)→曽禰中條事務所(小樽名古屋大阪

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他の四大銀行で、これだけ多くの建築家に設計をさせているところはない。

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ところで現存する昭和初期の店舗のうち、規模・デザインが同じで設計者が米国人の横浜支店と、日本人設計の名古屋・大阪両支店を見比べてみるのも興味深い。

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なお、3つの店舗の外観はいずれも酷似するが、内装は吹き抜けの高い天井を有する点を除けば天井や柱のデザインなど結構違うようである。

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いろいろ取りとめのない駄文を連ねたが、どの建物もそれぞれの地域の歴史を刻んだかけがえのない文化遺産であることは言うまでもない。似ている建物が余所にあったところで、その建物の価値が減ずるようなことは絶対に無い。

第454回・旧安田銀行横浜支店

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前回取り上げた東大安田講堂に因んで、今回は旧安田財閥関係の建物。
安田財閥の基幹企業であった安田銀行の店舗で現存するものは少ないが、旧安田銀行横浜支店は今も現存する貴重な存在。

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昭和4年(1929)竣工。設計は安田銀行営繕課、施工は大倉土木(現在の大成建設)。

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安田銀行営繕課による旧安田銀行の店舗で現存するのは、北海道の函館、小樽、そしてここ横浜のみ。
小樽支店は以前取り上げているのでこちらもご参照頂きたい。

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質・保存状態でも横浜支店がもっとも優れていると思う。

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現存しないが、神戸支店も両脇の外壁を粗い石積みとした外観を持ち、横浜支店と酷似していた建物であった。

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右手前は戦後(昭和20年代)、富士銀行(戦後安田銀行から改称)時代の増築。
戦後の増築は大概、旧建物の雰囲気を損なうものが多いが、これはむしろ重厚さを増す効果を上げている。

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増築部分は外壁の全面を粗い仕上げの石積みとする。
芦屋の旧逸見銀行(芦屋市立図書館打出分室)を連想させる。

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安田銀行から富士銀行を経て、みずほ銀行への合併を機に銀行店舗としての役目を終える。
その後横浜市が取得、現在は東京芸術大学に貸与され、大学院映像研究科の校舎として使用されている。

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安田銀行の店舗を飾る列柱は、函館、小樽、横浜のいずれもズングリムックリしているのが特徴。

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横浜市歴史的建造物に認定されている。

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この建物が建つ横浜市中区本町界隈は馬車道の通称で知られ、横浜の金融街であり今も戦前の銀行建築が点在する。
同じ昭和4年竣工で、以前取り上げた旧第一銀行横浜支店もすぐ近くに建っている。

第453回・東京大学大講堂(安田講堂)

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日本一有名な学校建築と言えるかも知れないのが、東大のシンボル・安田講堂。
正式名称は東京大学大講堂。

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正門からまっすぐ伸びる銀杏並木の先に安田講堂は建っている。

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東京帝国大学大講堂、現在の東京大学大講堂は、安田財閥の祖・安田善次郎(1838~1921)の寄付をもとに建設された。大正10年(11年説あり)に起工、関東大震災を挟んで大正14年(1925)に竣工した。

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安田善次郎は帝国大学講堂建設費のほか、日比谷公会堂の建設費用など各方面に多額の寄付を行っていたが、全て匿名を条件としていた。そのため世間からは吝嗇家の汚名を着せられ、遂には暴漢の兇刃によって非業の死を遂げる。

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死後事実が明らかにされたことで、その遺徳を偲び安田講堂の通称が定着した。

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後年東京帝国大学総長も務め、現在の東大キャンパスの原型を作り上げた建築家の内田祥三(1885~1972)と、内田の弟子の岸田日出刀(1899~1966)が設計、施工は清水組(現・清水建設)。

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安田講堂は上から見ると半円形になっており、背面の外壁は円弧を描いている。

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背面の出入り口。

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屋根に並ぶ半円窓。大講堂の硝子天井の明り取り用と思われる。

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外壁は大正建築に多く見られる、タイルを芋目地に貼った仕上げ。

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玄関ポーチの壁面に痛みが目立つのは、外壁の石材が風化し易い軟らかい石であるためと考えられるが、昭和43年の東大紛争の傷跡でもあると思われる。

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玄関ポーチ内部。
東大紛争では安田講堂に学生が籠城し、機動隊との攻防が繰り広げられたのはあまりにも有名。

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玄関ポーチの照明。
東大紛争によって安田講堂は荒廃を極め、その後昭和の末まで長い間閉鎖されていた。

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玄関。
安田講堂が復活するのは平成に入ってからである。旧安田財閥系企業の寄付もあって大がかりな修復工事がようやく行われ、東大紛争から約四半世紀を経て、卒業式等の行事も開催できるようになった。

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「大學」の文字をあしらった玄関欄間のステンドグラス。

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平成8年に導入された国文化財登録制度に基づき、東京都では安田講堂が最初の登録対象となった。

第452回・旧岩崎彦彌太別邸(殿ヶ谷戸庭園)

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東京都国分寺市にある殿ヶ谷戸庭園は、かつては三菱財閥第二代当主・岩崎久彌の長男・岩崎彦彌太(1895~1967)の別邸であった。現在も邸宅や庭園の主要部はよく保存されており、平成23年には国指定名勝となっている。

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当初、満鉄副総裁も務めた実業家の江口定條(1865~1946)の別邸として、大正2年(1913)から2年かかって造られた庭園を岩崎彦彌太が昭和4年(1929)に購入した。

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岩崎彦彌太は購入後建物を改築し、庭園にも一部手を加える。
昭和9年(1934)竣工の簡素な平屋建ての洋館は、本来の半分程度だけが現存している。設計は津田鑿(さく)。

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現存する部分がどのような位置づけの部屋であったかは定かでないが、岩崎家の別荘としては内外共に簡素なものである。

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暖炉。暖炉棚の上に飾られた写真の人物が岩崎彦彌太。昭和20年の暮に没した三菱財閥第四代当主・岩崎小彌太の跡を継ぎ、第五代当主となるはずであったが、財閥解体によって実現しなかった。

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敷地の一角には収蔵庫のような建物が残っていた。
なお岩崎彦彌太の本邸は、湯島にある父・久彌の本邸に隣接して建っていたが現存しない。跡地には現在、三菱史料館が建っている。

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庭園は武蔵野台地の地形を生かした、変化に富んだ地形が特徴。

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庭園を見下ろす高地に設けられた茶室「紅葉亭」

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建物の半分ぐらいを、吹き放しの四阿(あづまや)が占めている。

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座敷部分は貸室となっているので非公開のようである。

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四阿部分は解放されており、庭園散策の恰好の休憩場所となっている。

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網代張りの天井。

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うっそうとした緑に包まれた紅葉亭の佇まいは、同じ岩崎家の別邸でも、大きな池に臨んで建ち開放的な佇まいの旧深川別邸(清澄庭園)にある涼亭とは好対照を為している。

第451回・旧横浜競馬場(根岸競馬場)一等馬見所

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横浜市中区根岸台にある旧横浜競馬場(根岸競馬場)の遺構。
横浜競馬場は開港間もない慶應2年(1866)に、横浜居留地の娯楽施設として建設、第二次大戦中まで存在した。
現在は観客スタンド(馬見台)の一部が残されている。

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現存する観客スタンドは昭和4年(1929)の竣工。
現在、旧横浜競馬場跡の一部は根岸森林公園となっており、旧スタンドは公園の一角に建つ形になっている。

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解説板の古写真。
設計は横浜を中心に活躍した米国人建築家のJ・H・モーガン(1868~1937)による。

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競馬場内側からみた、スタンド全景の古写真。
左手が現存する一等馬見台、右手は二等馬見台で、こちらは現存しない。

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現在は上部の鉄骨製の屋根などは撤去されている。

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第二次大戦中は海軍に接収、そして敗戦後は米軍に長い間接収され、返還されたのは40年近く経った昭和56年のことであった。その後老朽の激しい二等馬見台が撤去されている。

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旧横浜競馬場の他にモーガン設計で現在も残る建物としては、神戸の旧チャータード銀行神戸支店、横浜市内では旧ベリック邸などがある。

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一等馬見台も保存されているとは言っても、現状は老朽の激しい部分を撤去してただそのままに置かれているだけというのが現状である。なお、内部は立ち入り禁止とされている。

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実質廃墟といってよい状態であり、それがゆえに人気を集めている面もある。

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丸窓や付柱など、装飾は塔屋部分に多く施されている。

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丸窓まわりの装飾。

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YMO主演の映画「プロパガンダ」(1984)のロケ地のひとつでもある。

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経済産業省より近代化産業遺産の認定は受けているが、現在修復等の予定はないようである。

第450回・旧中央気象台筑波山測候所山頂観測所

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筑波山の男体山頂にある気象観測施設。
昭和3年(1928)に、中央気象台(現・気象庁)筑波山測候所山頂観測所の庁舎として竣工した。

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筑波山における気象観測は、明治26年(1893)に初めて中央気象台によって実施されたが、通年観測が行われるのは、山階宮菊麿王(1873~1908)が自己資金で建設された山階宮筑波山測候所による観測が始まる明治35年(1902)まで待たなければならなかった。

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明治42年(1909)に山階宮家より国に寄贈、中央気象台の施設となり昭和に入って間もなく改築され、現在の建物が竣工する。設計は文部省建築課技手の福満繁記によるという。

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筑波山にはこの建物が竣工する3年前の大正14年、現在もあるケーブルカーが開通しているが、男体山頂まではさらに険しい道を登らなければならない。建設工事は資材の運搬だけでも相当困難なものであったと思われる。
写真は登山道の木々の間から見える測候所庁舎。

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一見白い箱のような外観だが、近づくと石張りの門柱やアーチ型の玄関など、戦前建築ならではの造りが見られる。

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門前から望む全景。
筑波山神社の男体山本殿に隣接する。

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中央気象台が気象庁となった後も、筑波山地域気象観測所として平成13年(2001)まで観測が続けられていたが、アメダス(地域気象観測システム)の統廃合により廃止、一旦観測は途切れるが、筑波大学がによって平成18年より「筑波山気象観測ステーション」として観測が再開され、現在に至る。

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玄関前はテラス風に造られている。
玄関上部の半円アーチは現在シャッターで覆われているが、その下には放射状の飾り格子と、霞ヶ浦から望む筑波山と帆引き船をあしらったステンドグラスが嵌め込まれ、今も現存する。

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「筑波大学環境報告書2008年」内の筑波山気象観測ステーションについての記事中に、ステンドグラスの写真がある。(29頁)
http://www.tsukuba.ac.jp/public/pdf/tsukubaER0926.pdf


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玄関前に僅かに残る創建当初の外壁タイル。当初は全面がこのタイルで覆われていたという。
昭和初期の建築では定番の、茶褐色のスクラッチタイル。

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自然石を張りつけた門柱。ロマネスク風装飾も施されている。

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外囲いの塀と飾り金物。

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塀越しにみる玄関。

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筑波山に近い石岡市柿岡の地磁気観測所と共に、今後も残って欲しい近代の気象観測施設である。

第449回・旧筑波山郵便局

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霊峰・筑波山の頂にある、筑波山神社への参道沿いに建つ旧郵便局舎。

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旧筑波山郵便局の建物は、「つくば道」と称される江戸時代以来の参道に面して建っている。つくば道は筑波山神社から、以前弊ブログで紹介した旧矢中龍次郎邸があり今年5月の竜巻で大被害を受けたつくば市北条地区まで延びている。

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自動車道路が整備された現在は、つくば道は地元住民や登山客が利用するだけのひっそりとした道である。

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昔の街道の名残を残す古い家並みが残るつくば道沿いでは、珍しい洋風建築である。

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昭和14年(1939)竣工。下見板張りペンキ塗りの外壁仕上げや上げ下げ窓などは、明治から昭和戦前までに建てられた日本中の洋風建築で多く見られるが、昭和10年代になるとあまり例がないと思われる。

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上げ下げ窓の下部には〒マーク。玄関の硝子戸にも〒マークがある。

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特徴的な反りのある屋根と、面白い形の方杖を持つ玄関ポーチ。

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ポーチの瓦にも〒マーク。

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側面から見ると普通の民家。

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昭和50年に郵便局が移転後、長らく空家になっていたが、近年になり筑波大学と地元住民によって修復・再利用が進められている。

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(参考ホームページ)
旧筑波山郵便局プロジェクト
http://info-d.geijutsu.tsukuba.ac.jp/~adp/project/08/1_2.html

第448回・旧小坂鉱山事務所

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前回取り上げた康楽館に隣接した場所にある旧小坂鉱山事務所。
大規模な木造三階建ての洋館は、当時日本一の産出量を誇った鉱山の事務所にふさわしい風格を備える。康楽館と共に平成13年、国の指定重要文化財に指定。

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康楽館と異なり、この建物は本来別の場所に建っていた。
現在地からやや北にある、小坂鉱山選鉱所の構内に明治38年(1905)に建てられた。以後施設の増改築で事務所が移転する平成9年まで90年以上にわたり使用された。門柱も旧所在地から移築されている。六角形の守衛所は復元。

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正面全景。
この建物が建っている場所は、かつての小坂鉱山病院跡である。鉱山事務所や康楽館と同様華麗な明治の洋風建築であったそうだが、第二次大戦後、失火で一部を残して焼失してしまった。

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焼失を免れ、今も健在である旧小坂鉱山病院の遺構。別棟になった霊安室のみが残る。

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現在小坂鉱山では、鉱石の採掘こそ行っていないが、長年培った製錬技術を活かして家電製品や携帯電話に含まれる貴金属回収等の事業を行っている。そのため施設の増改築の必要が生じた。このとき増築に伴い撤去された煉瓦造の壁面の一部は、旧鉱山事務所と共に保存されている。

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平成9年に小坂町へ譲渡され、平成13年に移築復原工事が竣工した。
現在は小坂鉱山の歴史を伝える文化施設・観光施設として公開されている。

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正面から見ると3階建てだが、旧所在地では山の斜面に建っていたので、背面及び側面の一部は2階建になっている。
現在地でも、敷地を造成して旧所在地の地形を再現している。

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旧所在地では、事務所の正面に広くもない道を隔てて、煉瓦造の精錬工場があったため、事務所の建物は正面全景を見渡すことはできなかった。写真のアングルは現在地に移築されて初めて得られたものである。

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明治末期で、東京や大阪でも一企業がこれだけ規模の大きな事務所を構えることは稀であったと思われる。
それだけに小坂鉱山の当時の繁栄が偲ばれる。

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同じ大きさ、形状の窓が三層にわたって均等に並ぶ。

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装飾的要素は玄関まわりに設けられたベランダに凝縮されている。

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ベランダ周りのみ、切紙細工のような装飾などアメリカの木造建築によく見られるスタイルが用いられている。

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正面玄関。

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玄関を入るとすぐ大きな円形の螺旋階段が現れる。

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螺旋階段は3層を貫いている。

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3階から見た螺旋階段。内部ではここが最大の見どころ。

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内側からみるベランダも美しい。藤田組の「藤田」をフジの花と、「田」の文字を表す透かし彫り装飾で表現している。

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少し離れた先に、康楽館の銅版葺屋根が見える。

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螺旋階段親柱の照明燈。

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旧鉱山事務所と康楽館は創建当初、杉の厚い板で屋根を葺いていた。
現在は旧鉱山事務所のベランダ部分の屋根のみ、当時の屋根材で復原されている。

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内部は螺旋階段を除けば、実用重視の簡素な造りになっている。

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ロの字型平面で、中庭を有する。

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中庭に面した部分は硝子戸を全面に建てこんでおり、外壁とは異なり開放的な造り。

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中庭窓下の装飾のためにくり抜かれた部分は、室内表示板として再利用されていた。

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3階にある、幹部等限られた社員しか入ることのできなかった旧所長室。とはいえ広いだけで、他の部屋と造りに差はなく簡素なことに変わりはない。

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非常に珍しい、明治時代の大規模事務所ビルである。

第447回・康楽館

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秋田県鹿角郡小坂町にある康楽館は、旧小坂鉱山の従業員のための慰安施設として、明治43年(1910)に建てられた劇場(芝居小屋)である。国指定重要文化財。

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この地にはかつて、大阪に本拠を持つ藤田組(のちの同和鉱業㈱、現・DOWAホールディングス㈱)が経営する小坂鉱山があり、この建物が建てられた明治末期には日本有数の鉱山として空前の繁栄を見せていた。

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最盛期には、秋田県下で秋田市に次ぐ人口を誇ったとも言われるこの町に、鉱山労働者とその家族へ娯楽を提供するための施設として建ったのが康楽館である。

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正面は洋風劇場の外観を有するが、内部は伝統的な芝居小屋の間取りである。
昭和に入ると映画館としても使用され、昭和45年に閉鎖されるまで使用される。その後昭和60年に小坂町が取得、修復後再開館、現在は歌舞伎や大衆演劇が演じられ、観光名所として人気がある。

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側面。ペンキ塗りの洋館の外観は正面だけであることが分かる。
屋根は現在銅版葺きだが、かつては杉板で葺かれていた。

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正面の華やかな外観とは全く異なる趣の側面。

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屋根の上に載る換気塔。

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正面中央には切符売り場、その両脇に入口を配する。

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内部。天井がペンキ塗りの洋風格天井である点を除けば、江戸時代以来続く伝統的な芝居小屋の造りである。
なお開館当初からこの劇場は自家発電により電気を灯していた。明治末期の東北の山間部において、電気が通っていた場所は小坂町ぐらいであったと思われる。

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舞台から花道を望む。

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舞台の下にある回り舞台の装置。上演期間でなければ、このような設備も含めて見学が可能である。

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看板の下の細長い窓は、日中に上演するときの明り取り用の窓であった。

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旧小坂鉱山の歴史的建造物として知られるのは、康楽館と共に旧鉱山事務所が知られている。
次回紹介させて頂きたい。

第446回・旧大阪砲兵工廠

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前回と同様、今回取り上げる旧大阪砲兵工廠の遺構も先行きが危ぶまれる存在である。大阪砲兵工廠は大阪城跡の一角にあり、写真の建物は現存する遺構の中では最も規模が大きい旧化学分析所で、現在荒廃が進んでいる。

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正門跡。現在は石垣の上の煉瓦塀とアーチ型の通用門が残る。大阪砲兵工廠は大村益次郎の建言にもとづき、明治3年に設置された大阪造兵司に始まる。戦前までは東洋一の軍需工場であると同時に、水道管などの民需品の生産も行っており、明治以降の大阪の工業化に果たした役割は大きい。なお、靖国神社の青銅製鳥居も大阪砲兵工廠で製造されたものである。

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昭和15年には大阪陸軍造兵廠と改称。そして昭和20年8月14日、終戦前日の米軍による大空襲で壊滅的被害を受けるが、時計塔を備えた「本館」と称される明治6年竣工の建物などは残り、戦後も民間に払い下げられて使われていた。この「本館」は造幣寮二代目大阪府庁舎と並び、大阪では最初期の洋風建築であった。

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この「本館」は、昭和56年に土地を取得した大阪市によって破壊され姿を消す。文化庁による調査指示を無視し保存運動の先手を打って撤去するという愚劣極まりないものであった。現在、跡地には大阪城ホールが建っている。
なお、現在残る明治初期の遺構は上記煉瓦塀のほか、写真の荷揚用水門、後で紹介する守衛所跡ぐらいである。

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「本館」については余談ながら筆者が昔、保存運動に従事された方から直接聞いた話だが、保存の主張に対し「戦争を賛美するのか」という批判をする者がいたという。的外れも甚だしく余りにも馬鹿げた話で、絶句するほかない。

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正門跡の先にある旧守衛所とも言われる煉瓦造の建物。荒廃が甚だしく、ひどい状態になっている。
ホームレス対策か、工事用柵で囲われており、史跡公園の一角とは思えない殺伐とした雰囲気が漂う。

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上記建物の向かいにあるのが、現存する遺構では最も大規模な旧化学分析所。
砲兵工廠における化学関係の調査・試験を行うための庁舎として大正8年(1919)に建てられた。
設計は当時陸軍技師であった置塩章(1881~1968)による。

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置塩は化学分析所の竣工後間もなく兵庫県庁に移籍、兵庫県会議事堂(現存せず)や旧国立移民収容所(現存)などを設計する。退職後は建築事務所を営み、宮崎、茨城の両県庁舎等の設計をしている。

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旧正門跡や旧科学分析所がある場所は大阪城の北西部に当たり、大手前の大阪府庁にも近い。

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敗戦後は大阪大学工学部の校舎を経て、平成10年までは陸上自衛隊大阪地方連絡部庁舎として使用されていたが、自衛隊移転後は空家となって放置され現在に至る。窓は全て不法侵入防止のため塞がれている。

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裏手の角にある金属製の飾り。照明の跡だろうか。

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自衛隊移転後、造幣局内にある造幣博物館をこの建物に移転させて活用を図る計画が一時立ったものの頓挫、荒廃が進む一方である。大阪市の怠慢という他ない。

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荒廃が進めば進むほど、技術的にも金銭的にも保存活用は難しくなる。
早く何とかしなければならない。

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旧砲兵工廠が歴史遺産として不当な扱いを受けたのは、軍事施設であったことも要因ではないかと思う。
明治から昭和戦前の日本の営みを否定し、軍事を絶対悪とする風潮は政治的立場(保守・革新)を問わずあったし、現在もそれは尾を引いている。

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旧化学分析所の隣には、ゴミ捨て場に等しい光景が広がっていた。これが不当な扱いと言わずして何と言えようか。
ただし最近、大阪城の観光拠点としての再整備という面から、旧化学分析所を天守閣前の旧第四師団司令部庁舎と共に活用する動きがあるのは注目される。

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以下、平成24年5月25日大阪日日新聞記事
「大阪城の国際的な観光拠点化を考えるフォーラムが23日、大阪市中央区のTWIN21MIDタワーで開かれた。大阪城公園内での事業展開に意欲的な企業家らが、旧大阪市立博物館(陸軍第4師団司令部庁舎)や旧大阪砲兵工廠(こうしょう)の活用策をプレゼンテーションし、参加者の注目を集めた。」

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「同地区の魅力向上をめぐっては、大阪商工会議所が昨年度から3カ年の中期事業ビジョンで大阪城を核にした観光振興を提唱。現在、府市の都市魅力戦略会議で民間の力を活用した観光拠点化の検討を進めている。」

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「 フォーラムでは、オリックスエグゼクティブアドバイザーのマリヨン・ロバートソンさんが、旧大阪市立博物館は結婚式が挙げられる迎賓館、旧大阪砲兵工廠は地ビールが楽しめるビアガーデンとするプランを提案。JTBコミュニケーションズの清水洋一郎常務は地下を発掘調査した上で有料公開する「大阪城カタコンベ」などの案を披露した。」

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「コメンテーターとして出席した都市魅力戦略会議の橋爪紳也座長は「大阪城の構想は市民が利用する素晴らしい公園という考えの下で語られてきたが、私は世界の人たちが憧れる観光の対象に高めたい。前例にとらわれず、従来できなかったことに挑戦してほしい」と話していた。」(引用終わり)

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もしこの建物が修復の上活用されれば、大阪城の石垣と濠の水と赤煉瓦の組み合わせは風情に富んだ眺めとなるにちがいない。しかし建物の歴史的価値を蔑ろにするような活用は避けなければならないが。

第445回・旧名古屋銀行本店

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先日取り上げた名古屋・広小路通の旧三井銀行名古屋支店のすぐ近くに、もうひとつ戦前の銀行建築が残っている。
名古屋の街に近代的な建築物を普及させた鈴木禎次(1870~1941)設計による旧名古屋銀行本店である。

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名古屋銀行は、明治15年に設立された名古屋で二番目に設立された私立銀行である。その後東海銀行を経て現在の三菱東京UFJ銀行に至る。現在存在する名古屋銀行とは関係はない。

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建築関係の書籍等では、旧名古屋銀行本店の竣工は大正15年ではなく昭和元年(1926)と記載されている。
何を以て建物の竣工とするか筆者は知らないが、この年12月25日に大正天皇が崩御、摂政裕仁親王(昭和天皇)践祚により同日付で昭和に改元されている。すなわち昭和元年は7日間だけなので、ある意味非常に珍しい来歴を持つ建物である。

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余談だがつい近年まで、写真の右隣りには昭和14年竣工の旧日本徴兵保険(のちの大和生命ビル)があった。今は駐車場と化しその一角に旧ビルの装飾の破片が飾られている。このような行為はときおり見られるが、腹立たしいだけである。

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大正から昭和初期、広小路通には銀行や保険会社のビルが建ち並び、名古屋の金融街でもあったが現在も残る当時の金融関係の建物は旧三井銀行と旧名古屋銀行だけである。
なお、こちらのサイトに戦前の広小路通、今はない建物や旧名古屋銀行の戦前の写真がある。

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設計者の鈴木禎次は名古屋市内に銀行や百貨店など、数多くの建築を手掛けているが、現在も名古屋中心部に残る建物は極めて少ない。なお他に現存する銀行建築では、以前取り上げた旧岡崎銀行本店等がある。

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なお、鈴木は設計に際し、曽禰中條建築事務所の曽禰達蔵(1853~1937)を顧問に迎えている。曽禰は当時建築界の長老・大御所であったが、共同経営者の中條精一郎(1868~1936)は鈴木と同世代でかつ親交があったので、その縁によるのかも知れない。

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側面。窓の建具はゆがんだガラスの嵌ったスチールサッシの上げ下げ窓。当初からのものかも知れない。

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側面玄関も重厚な造り。

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正面一階の窓上部のキーストーン(要石)には「T」の文字。鈴木禎次が自らのイニシャルを入れたのではないかとも考えられている。
(参考)http://www.inaxreport.info/data/IR180/IR180_p04-16.pdf

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建物のディティール。

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近年まで三菱東京UFJ銀行貨幣資料館として使われていたが、移転したため現在は空家になっている。
将来が非常に案じられる建物である。間違っても隣の建物と同じ運命を辿らないことを願うばかり。

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いずれは隣の旧大和生命ビルの跡には高層ビルでも建てるのだろうが、横浜の旧露亜銀行や東京の明治屋京橋ビルのように古いビルを保存活用する形の再開発が為されれば、せめてもの救いなのだが。

第444回・旧朝香宮鳩彦邸(東京都庭園美術館)

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「アール・デコの館」として知られる旧朝香宮邸。
現在は東京都庭園美術館として保存・活用されているが、現在は改修工事のため平成26年まで休館中。

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昭和8年(1933)、朝香宮鳩彦王(1887~1981)の住まいとして建てられ、敗戦後の占領政策により朝香宮家が臣籍降下する昭和22年まで宮邸として使われた。

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その後首相官邸、迎賓館、そして現在の美術館と変遷を重ねる。
建物の詳細は東京都庭園美術館のホームページに充実した解説があるので、こちらを参照頂きたい。

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外観は装飾を殆ど持たないモダンでシンプルなもの。基本設計は宮内省内匠寮工務課。

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フランスのガラス工芸作家、ルネ・ラリック制作による玄関扉のガラスレリーフ。
フランス人芸術家によって室内を彩るのは朝香宮夫妻の意向であった。

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玄関脇の応接室。家具は数少ない朝香宮家時代から残るもの。

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大広間。昭和49年に現在の赤坂迎賓館ができるまで、この建物は迎賓館として国賓を迎えてきた。

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大広間に飾られた、フランス人彫刻家イヴォン=レオン・ブランショ制作のレリーフ。

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大客室次の間。中央に置かれた香水塔で知られる。

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香水塔はフランス海軍から贈られたものだという。

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半円形に張り出した大食堂には、ルネ・ラリック制作のシャンデリアが輝く。

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大食堂の扉。大食堂をはじめ主要室のインテリアデザインはフランス人のアンリ・ラパンによる。

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大食堂暖炉のラジエーター・グリル。魚の図柄。

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大客間のラジエーター・カバー。

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池のある中庭。池のふちにはペリカンの水吐き。

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大階段の窓。

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吉田茂も愛用した書斎。旧朝香宮邸は昭和22年から29年まで外相公邸・首相官邸として使用された。
永田町の首相官邸(現首相公邸)は陰気だと嫌った吉田だが、この屋敷は非常に気に入っていたようである。

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3階のウィンター・ガーデン。

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照明器具のいろいろ。

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モザイクタイルのいろいろ。

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ルネ・ラリックのガラス工芸。
玄関扉の女性像と、大食堂シャンデリアのフルーツ。

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宮内省内匠寮によるアールデコの造形。

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今も当初の規模のまま残る広大な庭園に建つ茶室「光華」
昭和戦前戦後を通じ、数寄屋大工として名作を多く手掛けた平田雅哉の施工による。

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何度行っても飽きない館。再開が待ち遠しい。

第443回・旧本多忠次邸

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愛知県岡崎市に東京都世田谷区より移築され、平成24年7月より一般公開が始まった旧本多忠次邸
岡崎藩主であった本多家の末裔である本多忠次(1896~1999)が、昭和7年(1932)に建てた住居である。
 
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岡崎市立東公園の一角に移築された旧本多忠次邸。

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この邸宅が岡崎の地に来るきっかけは、平成11年に本多忠次氏が103歳で死去した後、遺族から岡崎市に寄贈の申し出があったことに始まる。それから13年を経て移築・復原が実現したものである。

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東京にあった旧藩主ゆかりの邸宅が移築保存されるという例は、他にも群馬県沼田市(旧沼田藩)の旧土岐子爵邸がある。

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岡崎市街を見下ろす小高い場所に移築されている。

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切妻壁の石膏装飾。

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スクラッチタイルで縁取られたベランダの3連アーチ。

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邸宅と併せて移築された、噴泉を備えたプール。
但し敷地の関係上、写真手前の部分は切り縮められている。

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手前のシャチの口と、奥の人形の持つ筒からそれぞれ水が噴き出すようになっていた。
現在は水は出ないようである。

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正面玄関ポーチ。

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玄関ホールの奥にある階段室。

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団欒室。
旧本多邸の家具や照明器具は、当初のものがよく残されている。

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食堂の食器棚。
真ん中の扉から隣接の配膳室につながっている。

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夫人室。その奥は日光室。サンルームである。

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一階湯殿。モザイクタイルや浴槽も当初からのものが残されている。

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一階湯殿のステンドグラス。葡萄の図柄。

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二階書斎。半円形の張り出し部分に設けられている。真下には先述の日光室がある。

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書斎に隣接する、アールデコ調で統一された「茶室」
流しのある水屋が設けられており、主人自らが来客にお茶を入れるためなのかどうかは不明だが、他ではあまり見かけない珍しい部屋である。家具も当初からのもの。

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茶室の特徴的な照明器具。

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書斎の奥には夫妻寝室があり、その奥には主人夫妻専用の洗面所と湯殿がある。

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主人夫妻専用の湯殿。写真には写っていないが便所も附属している。

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ステンドグラスの泳ぐ魚たち。

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二階には3間続きの本格的な日本座敷がある。
武家の末裔にふさわしい書院造の座敷と次の間、数寄屋風座敷及び縁側がある。

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竹を床柱に用いた数寄屋風座敷。

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照明器具のいろいろ。
昭和初期の照明器具がこれだけよく残されているのは貴重である。

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ステンドグラスの数々。

旧本多邸が岡崎市の新たな名所として定着することを祈りたい。
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