第540回・旧本庄商業銀行倉庫

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埼玉県本庄市は、江戸時代まで中山道の宿場町として栄え、明治以降は繭や生糸の取引市場として繁栄した。
旧本庄商業銀行倉庫は、明治以降繭の町として栄えた本庄の歴史を伝える赤煉瓦の建物である。
国登録有形文化財。

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中山道に面して建つ旧本庄商業銀行倉庫の全景。明治27年(1894)頃の建設とされている。

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銀行の倉庫としてこのような大規模な煉瓦倉庫が建設されたのは、資金貸付に際して担保となった繭や生糸を保管しておくためである。

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腰壁には焦茶色の煉瓦を積む。

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寄棟造の屋根は瓦葺。

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近年までローヤル洋菓子の本社兼工場として使用されていた。
窓の上部に設けられた半円形の日覆いは洋菓子店として使われていた頃の名残。

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背後には白壁の土蔵もある。

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赤煉瓦の倉庫と白壁の土蔵は鮮やかな対比を見せる。

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細い路地に面した煉瓦壁も趣がある。

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換気孔の金物飾り。

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街路に面していない路地側の腰壁の煉瓦は、焦茶色のものではなく通常の赤煉瓦を積んでいる。

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平成23年に本庄市が取得し、現在は新たな活用方法を模索中のようである。
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第539回・旧大倉精神文化研究所(大倉山記念館)

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新幹線の新横浜駅に近い、横浜市港北区大倉山にある大倉山記念館。昭和7年(1932)に、実業家の大倉邦彦(1882~1971)が設立した大倉精神文化研究所の本館として建てられた建物である。

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東急東横線・大倉山駅から、徒歩5分程度の高台の上に建っている大倉山記念館。
昭和56年より土地・建物が横浜市の所有となり、一般に開放され建物は各種催事等に利用されている。

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実業家であると共に東洋大学学長も務める知識人でもあった大倉邦彦は、当時の日本の現状を憂い、「東西両洋における精神文化の学術的研究を行い、知性並びに道義の高揚を図り、公民生活の向上充実に資し、もって世界文化の進展に貢献する」ことを目的に昭和7年、大倉精神文化研究所を設立した。

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戦時中から戦後にかけて研究所は、所長の大倉邦彦自身も連合軍にA級戦犯容疑者として逮捕・拘禁(のち不起訴釈放)されるなど存亡の危機を何度も迎えるが、大倉は私財を投げ打って昭和46年、89歳で没するまで研究所の維持発展に尽力した。

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大倉没後は研究所の運営は一層厳しくなり、研究所の建物も荒廃が進むが、昭和56年に財政基盤を立て直すため敷地を横浜市に売却、同時に建物を寄贈した。その後大倉精神文化研究所は、横浜市所有の建物に入居する形で引き続き建物の一角で活動を続けて現在に至る。

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研究所本館を設計したのは長野宇平治(1867~1937)。日本銀行の本支店を始め本格的な西洋古典様式に則った銀行建築を多く手掛けた建築家である。

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大倉の研究所設立構想に賛同した長野は、西洋古典様式の源流であるギリシャ文明よりさらに遡るプレ・ヘレニズム様式を本館の建築様式として採り入れた。

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細部装飾には東洋的な意匠も取り入れられている。
破風の彫刻は鳳凰と鏡。正倉院御物の鏡から模写したものであるという。

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下へ行くほど細くなる柱などが、プレ・ヘレニズム様式の特徴である。

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玄関周りの装飾は、古代中国の銅器などに施された模様をも連想させる。

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内部からみた玄関扉。

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玄関を入ると目の前に現れる大階段。
突き当たりの扉の先には、信仰心を養い、宇宙全体の中の自己を自覚する場とされた「殿堂」と称された部屋がある。(現在はホール)

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現在も広く一般の利用に供されている、大倉精神文化研究所の附属図書館。

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大倉精神文化研究所は現在、公益財団法人大倉精神文化研究所となっているが、ホームページには研究所の来歴、建物の詳細等詳しく説明されたページがある。記事本文もこちらを参考とさせて頂いた。
http://www.okuraken.or.jp/depo/chiikijyouhou/annai/

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中央ホールは三層吹き抜けになっている。

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三層目の窓には黄色い色硝子を嵌め込んでおり、黄金色の光が降り注ぐ。

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吹き抜け部分を見上げる。付け柱の下には獅子と鷲と思われる動物の彫像がある。

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これらの彫像は一見、石にも見えるがテラコッタ、即ち陶器であるという。

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全て形も向きも違っており、下から見上げると必ずどれかと目が合うようになっているとのこと。

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研究所本館は平成3年に、横浜市指定有形文化財となっている。

第538回・旧村林ビル(佐賀町スタジオ)

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東京都江東区佐賀にある旧村林ビルは、昭和3年(1928)に竣工した建物。
現在は佐賀町スタジオとして写真撮影の場などに使用されている。

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江東区佐賀は東京大空襲の被害が甚だしかった深川界隈の一角であるためか、古い街並みはあまり見られない。近年まで、すぐ近所に食糧ビルという同時期に建てられ、中庭の存在がが特徴的な近代建築があったが取り壊された。

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旧村林ビルは、現在佐賀町界隈で現存する唯一の近代建築といってよい。

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設計は関根要太郎(1889~1959)、施工は大林組。

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関根要太郎の建築作品は、弊ブログで以前取り上げた函館の旧亀井邸旧海産商同業組合事務所など、ドイツのユーゲントシュティールを採り入れたモダンなデザインのものが多い。

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この旧村林ビルでは軒や3階窓に施した半円アーチなど、ロマネスク風の外観が特徴である。

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背面。

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外壁は茶褐色のタイル、入口や窓、軒周りにはテラコッタを使用している。

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正面玄関上部のテラコッタ装飾は、この建物一番の見どころといってよい。

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木製の扉は創建当初からのものと思われる。

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表面に凹凸を施し、釉薬で仕上げた茶褐色のタイル。同時期の建物で多く見られる、ひっかき傷のついたスクラッチタイルに比べるとあまり見かけない。なお、一部補修によるものか、異なるタイルが見られるがこのタイルも相当古いものと思われる。

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テラコッタの目地などが所々黒ずんでいるのは戦災の痕跡であろうか。

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今後とも永くこの地に健在であることを望む。

第537回・亀屋商事(旧飯島家住宅)

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茨城県と埼玉県との県境に近い、茨城県古河市にある昭和10年(1935)に建てられた洋館。
当地で製糸業を営んでいた飯島製糸の事務所兼住宅として建てられた。国登録有形文化財。

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古河は昭和30年代まで製糸業が盛んであったという。古河の製糸業の最盛期に建てられた。

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この洋館を建てた飯島製糸の二代目・飯島雷輔氏は古河町長も務めた人物である。

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戦後、化学繊維の普及により飯島製糸は昭和33年に廃業した。現在は不動産業に転業して写真の洋館(本館)はその事務所として使われている。

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本館は木造二階建望楼付き、外壁はタイル貼り。

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外壁タイルを拡大。

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この洋館の外観を最も特徴付ける望楼。

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本館玄関には大理石の円柱を立てる。

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本館に繋がって建てられている旧食堂・浴室棟には、ステンドグラスが随所に使われている。
製糸工場の迎賓用の施設として建てられたものと思われる。

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道路を挟んで建つ明治期に建てられた生糸保存用の赤煉瓦倉庫。
この煉瓦倉庫と本館、土蔵、旧食堂・浴室棟の4棟が登録有形文化財になっている。

第536回・旧時報鐘楼

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大正4年(1915)に建てられた、群馬県下最古の鉄筋コンクリート構造物である旧時報鐘楼。

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かつての城下町の名残を地名に残す、伊勢崎市曲輪町に建っている。

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伊勢崎出身で、横浜で貿易商として成功を収めた小林桂助氏が建造し寄贈したという。

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市内にある中台寺の鐘を塔屋に吊り下げ、第二次大戦前まで時報の鐘を鳴らし続けた。

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戦争に入ると金属回収で釣鐘は失われ、空襲で塔屋は焼失する。

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戦後長い間、木造の塔屋が載っていたが、平成2年に修復が行われもとの形に戻された。

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伊勢崎市の重要文化財に指定されている。

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今は鐘はない。

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鐘を鳴らすことはなくなったが、伊勢崎の名所となり市民に親しまれている。

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ちょっと類例の見られない、珍しい建物である。

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あと2年経てば、建造から一世紀。

第535回・旧大谷藤豊邸

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埼玉県の深谷といえば現在はネギの産地として知られるが、江戸時代は中山道の宿場町として栄えていた歴史のある町である。そんな深谷の地における有力者であった大谷家の当主で、深谷町長も務めた大谷藤豊(1887~1949)が昭和6年(1931)に建てた邸宅。国登録有形文化財。

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かつての中山道と思われる道路に面した正面全景。現在も大谷家の住居として大切に使われている。

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大谷藤豊は当時の地方有力者の常として深谷町長、埼玉県会議員まで務めるが、父親をはじめ周囲の念願であった国政進出は拒み、地元深谷への貢献を常に優先させる人物であったという。

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昭和初年の大不況に際しては、地元近隣から多くの棟梁・職人を集めて自邸の改築工事を行い、仕事を与えた。
いわゆる「お助け普請」で、まさに不況対策として行われる公共工事を、個人レベルでやったものである。

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多くの職人に働き口を与えるための工事であったから、邸宅は非常に手の込んだものになった。

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大きな日本家屋に洋館を付属させた和洋並置式の構成を採るが、洋館も小規模ながら窓にはすべてステンドグラスを入れるなど、非常に凝っていることが外観から見ても分かる。

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洋館のデザインは、窓の上の渦巻き状の装飾や屋根の形状など、大正期に流行したドイツのユーゲントシュティールの影響が強い。

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日本家屋の玄関の屋根には凝った彫刻を施した懸魚がある。

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塀にも、梅や笹の透かし彫り彫刻が。

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竣工まで、連日百人以上の職人が働いたという。

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裏門も堂々とした造り。塀が改修中だった。

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裏門の向かいにある蔵。大谷藤豊は地元の子供達のために、蔵に児童書を揃えて子供文庫として開放したり、自ら読書会を開いたりしていた。

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「ゆとりのある者は人に尽くせ」が口癖であったという。

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大谷藤豊の遺産は大谷家の建物以外にもある。
大谷邸から程近い場所にある埼玉県立深谷商業高校は、大谷藤豊が私財を投じて大正11年(1922)に設立した深谷商業学校が前身である。当初の校舎は記念館として保存され、現在大がかりな修復工事が進められている。

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修復工事はもうすぐ終わるようなので、完成したら訪れてここに紹介したいと思う。

第534回・台湾の日本統治時代建築(台中その他編)

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前回に続き、台湾に残る日本統治時代の建物紹介。
今回は台北以外の地で撮影した建物を紹介させて頂くが、前回に比べて数が少ないのはご容赦頂きたい。
実際には、ブログ管理人が訪れた地以外にも多くの建物が残されている。それらは是非台湾を訪れて直接訪ねて頂きたい。前回記事も含めここに紹介する建物は、ごく一部に過ぎないのである。

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大正2年(1913)に竣工した新竹駅舎。台湾から台中へ南下する列車の車中から撮ったもの。
台湾には弊ブログで過去紹介した台中駅舎やこの新竹駅舎など、美しい洋風建築の駅舎も多く残されている。
設計は台北の旧西門市場の設計にも携わった松ヶ崎萬長。省定古蹟。

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阿里山の森の中に建つ貴賓館。大正9年(1920)竣工。
隣接する玉山(日本統治時代は新高山)と共に、日本統治時代は国立公園に指定されていた阿里山を訪れた皇族や政府高官の休憩・宿泊用に建てられた洋館。戦後は蒋介石が3回宿泊している。現在は歴史遺産として一般公開している。(訪問時は補修工事中だったためか、開いていなかった)

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台中に本店を持つ、台湾を代表する大手銀行・彰化銀行(日本での名称は彰化商業銀行)の本店ビルは、昭和13年(1938)竣工。彰化銀行は明治38年(1905)創立の歴史ある金融機関である。

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明治44年(1911)竣工の旧台中市庁舎。戦後は1986年まで国民党の施設として使われていた。現在は修復工事を経て、市政資料館として使用されている。

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小規模な建物だが、角地に面してドーム屋根を戴く古典様式の堂々たる玄関を構える。

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2002年に「歴史建築」に登録されているとのことだが、「歴史建築」というのは、日本の登録文化財制度のようなものだろうか。

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構造は煉瓦、木造、鉄筋コンクリート、鉄骨の混合構造。

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旧台中市役所と道路を隔てて向かい合うのが、旧台中州庁舎。
大正2年(1913)に台中庁庁舎として竣工、大正9年に台中庁を廃し台中州が設置されたことにより以後台中州庁舎として使われる。現在も台中市政府として使われている現役の庁舎である。

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設計は台湾の官公庁舎を数多く手掛けた森山松之助。旧台中市役所と同様、角地に玄関を配する構成。このような構成は内地の官公庁舎ではあまり見られない。

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大正後期と昭和初期に増築工事が行われている。歴史建築登録を経て現在は市定古蹟。

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台湾では新しい建築もどんどん建てる一方で、既存の歴史的建築は積極的に保存・活用を図っている。それも日本で多い、開発と保存の折衷的な一部保存などは殆ど見られず、原型をそのまま残している事例が多いように思えた。この違いは何に起因するのかは何とも言えないが、日本が見習うべきものが台湾にはあるのは確かである。

台湾の日本統治時代建築 おわり

(参考文献)
「図説 台湾都市物語」後藤治監修、王惠君・二村悟著 河出書房新社 平成22年
「台湾 日本統治時代の歴史遺産を歩く」片倉佳史著 戎光祥出版 平成16年

第533回・台湾の日本統治時代建築(台北編)

台湾は気候風土に恵まれた魅力ある国である。
弊ブログでは以前、台湾に残る日本統治時代の建物として、旧台湾総督府庁舎旧台湾総督府博物館などを紹介しているが、まだ紹介していない建物について、ごく一部に過ぎないが、自ら写真に撮った限りのものをここに紹介したい。

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日本人がかつてこの地に残した建築物を、台湾の人々は歴史遺産として評価し、積極的に保存・活用している。東日本大震災の折には、巨額の義捐金を集めて贈ってくれた屈指の親日国でもある台湾の魅力の一端を、建築を通じて少しでも伝えられたらと思う次第である。
なお、本記事の写真は全て平成17年11月に台湾を訪問したときの写真である。現状とは異なる建物もあるかも知れないので、この点予めお断りさせて頂く。

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まずは日本統治時代の建物ではないが、台北府城北門。
日本統治前、清朝時代の1882年(明治15年)創建。台北府城で唯一残る清朝時代創建の門。

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日清戦争下の明治28年(1895)、北白川宮殿下が近衛師団を率いてこの門から入城された。
同年、下関条約により台湾は日本領土となり、50年に亘る日本統治時代が始まる。

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現在は「台北賓館」として国賓などを迎えるための迎賓館となっているのが旧台湾総督官邸。
明治34年(1901)に建てられた木造の官邸が、白蟻による被害が甚だしいため大正2年(1913)に、煉瓦・石、一部鉄筋コンクリートの混構造で改築されたものである。

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国定古蹟の指定を受けており、近年大規模な修復工事が行われた。
総統府(旧台湾総督府)に近い位置に建っており、総統府と同様内部公開も定期的に行っている。

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旧総督府の正面向かって左側に建つ、旧台北地方法院庁舎。昭和9年(1934)竣工で設計は台湾総督府官房営繕課。旧総督府周辺には、日本統治時代からの官庁建築が多く残されている。

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当初鉄筋コンクリート造3階建であったが、戦後国民党政権時代に4階部分が増築されている。
現在は役目を終え、博物館などへの転用が検討されているらしいが、現状は不詳である。

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建物の見栄えから言えば、改修に際しては、できれば増築部分は撤去してもらえるとありがたいのだが。
4階部分を取り払えば、塔屋が見違えるほど引き立つ筈である。

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緑色のタイルを貼った壁面は同時期の日本内地の官公庁舎では見られない独特のものであるが、創建当初からのものか、それとも国民党政府時代の改修かは分からない。

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明治41年(1908)竣工の旧西門市場。三級古蹟の指定を受けている。設計は台湾総督府に在籍した近藤十郎と松ヶ崎萬長。松ヶ崎は栃木県那須の旧青木家別邸(国指定重要文化財)の設計者としても知られる。

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大正5年(1916)竣工の旧台北医院(のち台北帝国大学附属病院)は市定古蹟。煉瓦造の本館の背後に後から増改築された病棟が連なる構成になっている。総督府は統治に際して現地の衛生面の改善に力を入れ、台北医院は台湾最大の医療施設であった。現在も台湾大学付属医院として現役である。

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台北府城北門近くに建つ、旧台湾総督府鉄道部庁舎。大正8年(1919)竣工で三級古蹟。
1980年代まで台湾省鉄路管理局として使用されていた。

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煉瓦と木造の混構造でハーフチンバー風の外観が特徴。

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撮影当時は老朽化が激しく、特に二階から上部の痛みがひどかったが、現在は大規模な修復工事が進められているようだ。

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鉄道部庁舎と斜め向かいに位置するのが、昭和5年(1930)竣工の旧台北郵便局。鉄道部庁舎と同じく三級古蹟指定。現在も郵便局として現役である。

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建物前面を残して高層ビルに改築された東京中央郵便局と竣工年は1年しか違わないが、東京中央郵便局が装飾を持たないモダニズム建築であるのに対し、台北郵便局は装飾豊かな様式建築として建てられた。

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この建物も写真では老朽化した印象は否めないが、こちらも現在改修工事中のようだ。

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重厚華麗でかつ古典的な様式建築ばかりではなく、昭和戦前のモダニズム建築もある。
昭和12年(1937)竣工の旧台北電信局。市定古蹟。
戦後4階が増築されるなどの改装を受けている。

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旧台北公園(現・二二八和平紀念公園)内にある放送亭。
公園利用者がラジオ放送を聴けるように昭和9年(1934)に設置された。
背後のドームを持つ建物は、以前取り上げた旧台湾総督府博物館。

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昭和13年(1938)竣工の台湾銀行本店。市定古蹟。
国策に基づいて明治32年に設立された紙幣発行権も有する特殊銀行・台湾銀行の本店ビル。現在残る建物は当初の木造洋館を建て替えた二代目。

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設計は大正から昭和にかけて第一銀行本支店を多く手掛けた西村好時。

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現在は同じ名称で、中華民国政府全額出資の国営銀行となっている。

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旧帝国生命台北支店。昭和5~15年(1930年代)頃の建物と推測されている。
上記の台湾銀行が現在使用している。市定古蹟。

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昭和2年(1927)頃の建築と考えられている旧台北信用金庫。現在は合作金庫銀行。市定古蹟。
アーケードを設けているのは暑い気候を考慮した台湾ならではの特色。

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撮影当時は外壁補修中であったが、旧台北市公会堂。昭和11年(1936)竣工で二級古蹟。
昭和天皇即位御大典の記念事業として建てられた。

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設計は台湾総督府官房営繕課、台北市土木課並びに営繕課。

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外壁のタイルは台北郊外の北投(台湾でも指折りの温泉地としても知られる)の窯で焼かれたものが用いられている。

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昭和20年、敗戦により日本は台湾の施政権を中華民国に移譲することになる。10月25日にこの建物で台湾地区降伏式が執り行われ、ここに半世紀に亘る日本の台湾統治は実質的に終了した。

台湾の日本統治時代建築(台北編)おわり

次回も、台中など台北以外の地に残る日本統治時代の建物を紹介させて頂く予定。

第532回・日本郵船横浜支店(横浜郵船ビル)

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昭和初期に建てられた横浜郵船ビルは、戦前から世界有数の船会社として知られた日本郵船の横浜支店として今も現役の事務所ビル。また現在は、1階の旧営業室に日本郵船歴史博物館が入っており、横浜の観光スポットのひとつにもなっている。

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横浜港とは目と鼻の先、海岸通3丁目に建っている。なお同じ海岸通に面して、以前紹介した昭和9年竣工の横浜税関が建っている。

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明治21年(1888)竣工の赤煉瓦の旧支店ビルは関東大震災で崩壊したため、同じ場所に昭和11年(1936)に建てられたのが現在の建物である。

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設計は和田順顕(1889~1977)。東京美術学校(現東京藝術大学)を首席卒業し建築事務所を開いた建築家。
旧日本医師会館などを手掛けているが、設計した建物の大半は失われており今も現存する建物は極めて少ないようである。

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かつては屋上の軒には石飾りを連ね、正面中央には大きなメダリオンを配していた。
それらの装飾が全て取り払われたことで屋上のスカイラインが単調になり、本来持っていた古典的な重厚さが損なわれているのが惜しまれる。

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正面外壁を飾る16本のコリント式オーダー。

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側面。

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全体としてはシンプルな建物であるが、柱頭部分は精緻な彫刻を施している。

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柱頭部分を拡大。

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戦前に建てられた日本郵船の支店ビルは、明治39年竣工の小樽、大正7年竣工の神戸、昭和11年竣工の横浜と、明治・大正・昭和戦前の建物がそれぞれ現存している。

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小樽神戸の両支店ビルは共に、既に弊ブログにて紹介済なので御覧頂きたい。(但し神戸支店は戦災で大破、改修されており当初の姿をそのまま残してはいない)

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船の総舵輪を思わせる装飾が施された玄関扉。

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風除室。現在は日本郵船歴史博物館となっている旧営業室内部も大理石貼りの柱や漆喰彫刻の施された天井など見どころが多い。博物館も戦前の豪華客船の歴史など、興味深い展示が盛り沢山である。

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見学されるときは、やはり弊ブログにて既に紹介させて頂いた氷川丸とセットで御覧になることを是非お勧めしたい。同じ日本郵船の運営なので、共通券で見学できる。

第531回・新井旅館

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伊豆・修善寺温泉にある明治5年(1872)創業の老舗旅館。
明治から昭和初期に建てられた、合計15棟の建物が国の登録有形文化財となっている。

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明治5年に初代館主・相原平右衛門によって「養気館新井」の名で開業。

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明治から昭和初期にかけて館主であった三代目・相原沐芳は、文人墨客との交友が深かった。

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そのため多くの文人墨客が滞在している。とりわけこの館と縁が深かったのが日本画家の安田靫彦で、大浴場の設計も手掛けている。この浴場は「天平風呂」の名で現存し、今もこの旅館の名物のひとつである。

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他館主と親交があり長期滞在した文化人では、画家では横山大観、作家では岡本綺堂、芥川龍之介などが居る。岡本綺堂は当地にて材を得た戯曲「修善寺物語」をこの館で執筆、執筆部屋も現存する。

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新井旅館の建物は決して豪華絢爛ではないが、簡素で上品な造りの建物が池と中庭を囲むように建っている。

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僅かに太鼓橋状に反りのある渡り廊下。

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水に臨むように配された客室が多いのも特徴である。

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平成16年には台風による増水で大被害を受けたが、その後無事復旧した。

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客室の一室。数寄屋風に全ての部材が細く、繊細な印象を受ける床の間。

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花。

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文化財としての特性を活かして、地域の文化振興に寄与することを目的とした各種文化事業も行っている。

新井旅館ホームページ
http://arairyokan.net/

第530回・旧神谷傳兵衛稲毛別荘

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実業家で国産ワイン製造の先駆者としても知られ、以前弊ブログにて取り上げた茨城県牛久の牛久シャトーと、東京浅草の神谷バーを建てた初代神谷傳兵衛(1856~1922)が、千葉・稲毛海岸の別荘内に建てた迎賓用の洋館。大正7年(1918)の竣工。国登録有形文化財。

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現在の千葉市稲毛区、旧稲毛海岸周辺はかつて海浜別荘地として栄えていた。現在もかつての海浜別荘地の面影を残す松林や別荘建築が点在している。写真は案内版に付された創建当時の古写真。

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現在の姿。洋館の佇まいは古写真と全く変わっていないことが分かる。
昭和36年から開始された埋め立てで稲毛海岸の環境は一変し、現在は首都圏の住宅地として集合住宅や商業施設が立ち並んでいる。なお先日紹介した、旧日本勧業銀行本店(千葉トヨペット)は目と鼻の先にある。

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現在は千葉市の所有となり、「千葉市民ギャラリー・いなげ」(写真左手の建物)に付属する形で保存・公開されている。ギャラリーの建物がある場所にはかつて神谷傳兵衛が日常生活に使っていた日本家屋が存在していた。
現在も庭木や庭石、石灯籠が洋館と共に別荘時代の名残を残している。

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構造は当時としては最新技術で非常に珍しかった鉄筋コンクリート造。千葉県下では現存最古の鉄筋コンクリート建築である。

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鉄筋コンクリートの壁体の上に、大正初期の洋館建築で多く用いられた白色タイルを貼る。
写真では後年の補修で貼りかえられた部分と色合いが異なるのがお分かり頂けると思う。

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同じ神谷傳兵衛が建てた牛久シャトーや神谷バーと異なり、稲毛別荘の洋館は設計・施工共に不詳であるという。当時流行のセセッション風を採り入れた外観はあか抜けたモダンなデザインなので、相当腕のある建築家が手掛けていると思われるのだが。

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洋館ベランダの前にある松の老木も、別荘時代からのものと思われる。

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庭園に面した一階正面にはベランダを配している。

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洋館二階の半円形に張り出したアルコーブ。

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背面から見た洋館。屋根は片方を切妻、もう片方を寄棟造りとして左右非対称とする。
この屋根形式は、現在明治村に保存されている旧芝川又右衛門別邸(武田五一設計、明治44年)でも同じものが見られる。

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白いタイル貼りの洋館は、青空によく映える。
逆に言えば、好天時以外は写真を撮るのが難しい。煉瓦やその他の色のタイルを貼った建物に比べて、白タイルは今一つ映えないといつも感じているので、今回撮影途中で晴れたのは非常に有難かった。

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洋館へのエントランスを兼ねたベランダの石段。

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市松模様の床タイルが美しいベランダ内部。

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床タイル詳細。

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玄関内部。シャンデリアは当初のものではない。

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一階洋室。天井は後年に改装で装飾が取り払われたのか、のっぺりしている。
家具や床の寄木細工、壁の暖炉は当初からのものが残されている。

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一階洋室の暖炉。焚口の両脇には明治末期から大量に輸入され、同時期の建物でも散見されるアールヌーボーの模様付きタイルが貼られている。暖炉の意匠はモダンな外観に比べて、当時としてもやや古風なもの。

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一階は上記の洋間一室と、玄関及び階段ホール、洗面所で構成される。
ワイン貯蔵用と思われる地下室もあるが非公開。

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階段は曲線を持つ廻り階段。

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階段を上がると一変して、日本座敷が現れる。
二階は日本座敷二間と洋室の小部屋、及び納戸で構成されている。

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主座敷には、野生と思われるブドウの巨木を据えた、座敷の広さには些か不釣り合いな堂々たる床の間を備えている。

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主座敷横の、茶の間風の小座敷。

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主座敷縁側。障子を建てて和と洋を仕切るが、突き当たりのアルコーブは和風にできなかった。

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外観からは想像できない二階内部。

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木瓜窓は横に渡した二本の桟を除き、巨大な一枚板をくり抜いて造った贅沢なもの。
他、館内には生涯をワイン製造に費やした神谷傳兵衛の別邸にふさわしい、ブドウの装飾がある。

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茨城の牛久シャトーではブドウ柄のステンドグラスがあったが、稲毛の別邸にもブドウの装飾が存在する。
(左)一階玄関天井、照明台座の漆喰飾り(右)主座敷、付け書院欄間の彫刻

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ブドウ棚に見立てたと思われる、煤竹を格子状に組んだ主座敷の天井。

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神谷傳兵衛の事績と、稲毛海岸の別荘地としての歴史を今に伝えている。

第529回・旧真壁郵便局(旧五十銀行真壁支店)

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旧真壁郵便局は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている茨城県桜川市真壁地区のシンボル的建物。昭和2年(1927)、五十銀行(現・常陽銀行)真壁支店として建設、昭和31年から30年間特定郵便局として使用されていた。

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茨城県桜川市真壁地区は、「戦国期の真壁城(国指定史跡)に付属した集落を起源として、笠間藩の陣屋が置かれた在郷町として発展したもので、江戸時代以来の町割が残っています。重厚な蔵造の町屋を中心に近代の町屋や洋風建築も残り、薬医門や袖蔵を建てて塀を巡らすなど、北関東らしい多様な町並み景観に特徴」がある地区である。
(茨城県教育委員会解説より)

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平成23年3月11日の東日本大震災ではこの界隈も大きな被害を受け、多くの建物が破損、現在も修復工事が進められているものもあるが、一方で未だ屋根瓦が落ちたままの建物もある。

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旧真壁郵便局も修復が進められていた建物のひとつであるが、このほど修復工事が完了、一般公開を再開した。
現在は街並み散策の案内所として活用されている。

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修復に際しては、後年の改修でアルミサッシに交換されていた窓が、木製の上げ下げ窓に復元された。
白いペンキ塗りの木製サッシが人造石の壁に映える。

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外壁を人造石仕上げにした木造二階建と、平屋の付属棟を備える。
また玄関周りは二階にかけて薄茶色のタイルで縁取りを施している。

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郵便局時代のカウンターが残る内部。

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床や腰壁は人造石研ぎ出し仕上げ。

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カウンターの一角に造りつけられた棚。
町役場や銀行など、大口利用者の郵便物を入れておくためのものだったようである。

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二階への階段親柱には、簡素な装飾が施されている。

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この地域で毎年開催されている、「真壁のひなまつり」は3月3日まで開催中。
(桜川市ホームページ)
http://www.city.sakuragawa.lg.jp/index.php?code=1588

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二階。
壁や窓枠もきれいに塗り直されていた。

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周囲の多くの建物と共に、旧真壁郵便局も国の登録有形文化財になっている。

第528回・旧日本勧業銀行本店(千葉トヨペット)

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前回紹介した旧横浜正金銀行本店の設計者である妻木頼黄が、同時期に設計した和風デザインの銀行建築が現存する。明治32年(1899)、東京・内幸町に建てられた旧日本勧業銀行本店。
ただし度重なる移築で、現在は屋根と玄関車寄に面影を残すだけである。

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現在は千葉市稲毛区、稲毛海岸の埋め立て地に建っている旧勧銀本店。
千葉トヨペット(株)本社屋として使用されている。

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日本勧業銀行は、農工業の改良のための長期融資を目的として、明治30年に日本勧業銀行法に基づき設立された。重化学工業などの基幹産業のために長期融資を行う日本興業銀行と共に、戦前の我が国の産業を金融面から支えた特殊銀行である。

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戦後は普通銀行に転換、昭和46年に第一銀行との合併により第一勧業銀行となり、そして平成12年には日本興業銀行、富士銀行と合併し現在のみずほ銀行となる。

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設計者は先述のとおり妻木頼黄と、和風建築に造詣の深い武田五一も加わっている。創建当初の姿は、国立国会図書館の下記サイトで閲覧できる。(写真の中の明治・大正 -国立国会図書館所蔵写真帳から-)
(写真)http://www.ndl.go.jp/scenery/data/216/index.html
(透視図)http://www.ndl.go.jp/scenery/data/217/index.html

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この建物は現在地に落ち着くまで、3回の移築を重ねている。
大正15年に本店改築により不要になったため、京成電気軌道(現京成電鉄)が勧銀から譲渡され、習志野にあった遊園地「谷津遊園」内に移築される。俳優の坂東妻三郎のプロダクションが置かれ、撮影所に使われたこともあるという。

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昭和15年に2度目の移築が行われ、千葉市庁舎として使用される。
下記サイトに千葉市庁舎時代の旧勧銀本店の画像が掲載されている。
(千葉市教育センター)
http://www.cabinet-cbc.ed.jp/db/hurusato/html/0601081.htm

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3度目の移築は昭和40年で、現在地で千葉トヨペット(株)本社事務所となる。
(千葉トヨペット(株) 本社屋の紹介)
http://www.chibatoyopet.co.jp/corp_profile/index.html

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千葉トヨペットのホームページによると、このときに建物躯体は鉄筋コンクリートに置き換えられているが、屋根は木造とのことなので、創建当初からのものが残されているようである。

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壁面は窓の割り付け、大きさなど全く異なり、当初の面影は残されていない。
それに対し屋根は屋根窓が無くなった点を除けば、かつての面影をよく残している。

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鬼瓦には「勝」の文字。
何度目の移築のときに取り付けられたのか、謎である。

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旧勧銀本店は改変が激しいものの、和風意匠による銀行建築として近代和風建築史上重要な建物とされている。

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平成9年には国登録有形文化財となっている。

第527回・旧横浜正金銀行本店(神奈川県立歴史博物館)

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横浜の近代洋風建築の代表格である明治37年(1904)竣工の旧横浜正金銀行本店。
現在は神奈川県立歴史博物館として使用されている。国指定重要文化財・国指定史跡。

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横浜正金銀行は明治13年に設立された、貿易金融・外国為替に特化した特殊銀行。
戦前は世界三大為替銀行のひとつと称された時期もあったが、第二次大戦敗戦後の占領政策により、新たに設立された普通銀行である東京銀行に跡を引き継ぐ形で解散させられた。現在の三菱東京UFJ銀行の前身のひとつである。

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横浜正金銀行の店舗建物は横浜本店のほか、神戸支店(現神戸市立博物館、弊ブログにて紹介済)が国内では現存する。他海外店舗も旧大連支店など、主に中国大陸を中心にいくつか現存する。

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設計は妻木頼黄(1859~1916)と遠藤於莵(1866~1943)
妻木は辰野金吾などと並び、西洋建築設計技術を身につけた最初の日本人建築家として知られる。
東京有楽町にあった東京府庁舎や、日比谷の東京商工会議所(共に現存しない)など重厚なドイツ風建築を得意とし横浜正金銀行もそのひとつである。

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妻木の下で設計に従事した遠藤は、正金銀行本店以外にも横浜には多くの建物を残している。
以前取り上げた三井物産横浜支店が残るほか、復元ではあるが旧生糸検査所も現在見ることができる。

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大正12年の関東大震災では地階を除いて全焼、復旧工事では開港記念会館と同様、ドーム屋根は再建されなかった。ドームの無い横浜正金銀行本店はその後、第二次大戦の空襲を免れ敗戦を迎える。

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横浜正金銀行解散後は、東京銀行横浜支店として引き続き使われるが、昭和39年に神奈川県が県立博物館として再利用するため東京銀行から買収、60年に亘る銀行としての役目を終えた。
県立博物館としての再出発に際してはドームが再建(昭和42年完成)され、現在に至る。

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昭和44年に重要文化財指定、平成7年に史跡指定。
近代洋風建築で国の重文と史跡の両方の指定を受けているのは、この建物だけである。

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なお史跡指定を受けた平成7年、現在の名称である神奈川県立歴史博物館に改められている。

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我が国の貿易金融・外国為替を取り扱う中心の銀行として政府の保護監督を受けていただけに、本店建築は日本銀行本店に匹敵する重厚堅固で、かつ華麗な大建築として造られた。

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正面玄関。

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正面玄関アーチの上部には横浜正金銀行の紋章が見られる。

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彫りの深い柱頭飾り。

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関東大震災では痛ましい惨事の舞台になった歴史もある。
横浜市街では殆どの建物が倒壊し大火に襲われたが、震災に耐え火災にも強いと思われた正金銀行には周辺の人々が殺到したため、銀行では玄関や窓の防火扉を閉じた。しかし内部にも火は入り、地階を除いて全て焼き尽くされた。

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勤務していた行員・使用人と逃げ込んだ周辺住民数百名は地階へ避難し、辛うじて死を免れたが、後から銀行に詰めかけた人々は扉を閉じられたため入ることができず、鎮火後建物の周囲は、黒焦げの焼死体が死屍累々という惨状であったという。

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関東大震災で失われたドームは約40年後に復活する。
神奈川県立歴史博物館のホームページでは工事の模様など、復元工事の詳細が紹介されている。
ところで同ホームページの古写真と比べると、当初のドームは現在よりも細長い感じがする。
http://ch.kanagawa-museum.jp/tate/dome.html

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ドームの下部に張り付いているのはドルフィン(イルカ)。

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正面玄関のアーチの奥には階段が伸びている。

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玄関ホールの天井ステンドグラス。
創建当初の内装は震災で殆ど失われ、鉄製の階段の一部、及び多くの人命を救った地階のみ残る。

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震災復旧時の内装も博物館改装に際し失われたのか、玄関や廊下などに昔の面影が見られるぐらいで、外観に比して内部の見どころは多くない。この点横浜開港記念会館とは異なる。

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このステンドグラスは見どころである。

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先述の神奈川県立歴史博物館のホームページでは建物の来歴についても詳しく紹介しており、震災前の内部写真なども見ることができる。
http://ch.kanagawa-museum.jp/tate/tate.html

(おまけ)
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旧横浜正金銀行の前にある、牛馬専用の水飲み場。
現在地に元からあったのか、他所から移設したものなのかは不明。

第526回・旧前田侯爵邸日本館

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前回紹介した旧前田侯爵邸には、洋館に隣接して日本館が建っている。洋館竣工の翌年、昭和5年(1930)の竣工。現在は東京都立駒場公園の無料休憩所及び貸室として使われている。

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洋館から日本館には渡り廊下を通って行くようになっている。
現在は両者の管理形態が異なるためか、通常非公開になっていて立ち入りは出来ない。

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渡り廊下の外観は移動するに従って、洋から和へ変わっているのが、この写真を御覧になれば分かって頂けるのではないかと思う。右側は壁から屋根まで洋館と同じ造り、中央は屋根だけ日本瓦葺で和風、そして左側は完全に和風。

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展示されていた渡り廊下の内部古写真。
奥の階段になっている部分が、上の写真の中央部分と思われる。

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渡り廊下側から望む日本館。
旧前田侯爵邸は、この時期の和洋並置式住宅としては異例で、日常生活の場は洋館の中にあり日本館は接客専用の迎賓施設として建てられた。外国人の接待を意図したとも言われている。

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門。
洋館と同じく、日本館も東京都指定有形文化財である。

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玄関。
迎賓専用の付属建物であるためか、日本館の規模は洋館の半分程度である。

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一階の畳廊下。
なお、二階は通常非公開。

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一階主座敷。
大大名の本邸にふさわしい、厳格でかつ華やかな書院造の座敷。

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座敷から望む庭園。

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主座敷欄間。

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縁側。
旧前田侯爵邸は近代の大邸宅の中でも、極めて質の高い洋館と日本館が揃って完存する貴重な事例である。

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現在は東京都立駒場公園の正門となっている、旧前田侯爵邸正門。
門衛所の建物には洋館の塔屋を思わせる尖塔が載っている。

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正門の脇にある、前田育徳会尊経閣文庫の正門。
前田利為が前田家伝来の古書籍、古美術品、刀剣などの文化遺産を保存管理するために、大正15年に設立した財団法人である。事務所及び収蔵庫は本邸洋館と同じく高橋貞太郎設計で昭和4年竣工。国登録有形文化財。

加賀百万石・前田家の栄光は、旧邸宅と共に今も健在である。

第525回・旧前田侯爵邸洋館

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旧加賀藩主・前田侯爵家の第十六代目当主である前田利為(1885~1942)が、東京・駒場に本邸として昭和4年(1929)に建てた邸宅。洋館と日本館から構成されている。陸軍銀人であった前田利為侯爵は、駐英大使館附武官を務めるなど英国生活が長かったためか、洋館は英国のカントリーハウス風にまとめられている。

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洋館正面。
前田侯爵家は、駒場に移転するまでは本郷の旧加賀藩邸跡の一角に邸宅を構えていた。
旧加賀藩邸の敷地の大半は明治維新後、新政府の所有となり、のちに東京帝国大学のキャンパスが置かれることとなったが、一部の敷地は前田家が引き続き所有していた。

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庭園側から望む洋館。
大正12年の関東大震災では、隣接する帝大が壊滅的な被害を受け、復興に際しては敷地の拡大が必要であったことから、前田家は帝大所有の駒場の土地と交換し、本郷の邸宅は帝大に譲渡した。なお明治末に建てられた本郷の旧本邸は、その後東京帝大の迎賓施設として保存されていたが、昭和20年の東京大空襲で失われてしまった。

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側面から望む。内玄関と使用人用玄関がある。
洋館の設計は、帝大建築学科教授の塚本靖(1869~1937)の指導の下で、東京・神田の學士會舘や伊豆の川奈ホテルの設計で知られる高橋貞太郎(1892~1970)が担当している。施工は竹中工務店。

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この邸宅が前田侯爵家の本邸として使われた期間はわずか10年と少しであった。
前田利為侯爵は、大東亜戦争下の昭和17年にボルネオ守備軍司令官に任じられるが、同年ボルネオ島沖で搭乗する軍用機が消息を絶ち、のちに死亡が確認される。(事故死か戦死かは今も不明)

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前田侯爵家は相続税支払に加え、敗戦による華族制度廃止、財産税課税で他の大名家と同様経済的苦境に陥る。
邸宅は連合軍に接収され、空軍司令官官舎として使用される。なお、昭和26年に解任されたマッカーサーの跡を受けて二代目GHQ総司令官となったリッジウェイ将軍も、この邸宅で暮らしている。

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昭和32年に接収が解除された後は東京都が所有し、長らく東京都近代文学博物館として使用されたが平成14年に同館は閉館、現在は旧前田侯爵邸洋館として土・日・祝日のみ一般公開している。
その間、平成3年に東京都の有形文化財に指定されている。

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博物館に使用されていた頃は、展示ケースなどで建物のインテリアが隠されていたところも多かったが、現在は建物自体を文化遺産として公開・見学対象にしている。

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来客を迎えての晩餐会などに使用された大食堂。日常使用するための小規模な家族用食堂が別にある。

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階段。

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階段の下にあるイングルヌック。(大広間など広間の一角に設えられた暖炉付の小スペース)
イングルヌックを備えた邸宅は少なく、既に弊ブログで取り上げた建物では、福井県にある右近権左衛門邸にもイングルヌックがあるので、比較して頂くのもよいかと思う。

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二階、前田利為侯爵の書斎として造られた部屋。

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夫人用居間。前田家の団欒の場はこの部屋であったという。
なお前田侯爵家の生活は、夜ベッドに入る時以外は常時靴を履くという、完全な洋式の生活であったという。

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侯爵夫妻の寝室。

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同、暖炉。

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前田侯爵邸の各部屋には様々な意匠の暖炉が置かれている。
最も大きく立派なのは、やはり大食堂の暖炉。

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一階サロンの暖炉。

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中でも変わっているのが、二階にあるこの暖炉。
巨大な陶器の置物にも見える。

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一個の美術品として、これだけで十分鑑賞できる。

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これも二階の一室にある暖炉。こちらも全面陶器で覆われているのが特徴。

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渋い色合いがすばらしい。

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館内を彩るステンドグラス。いずれも淡い色合いが特徴。
(上左)二階婦人用居間(上右)一階階段室イングルヌック脇
(下)階段室

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採光用の中庭があり、外壁と同様茶色のスクラッチタイルを貼る。

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旧前田侯爵邸は洋館のほか、渡り廊下で繋がれた日本館がある。
稿を改め、次回紹介させて頂く。

旧前田侯爵邸 つづく

第524回・千葉県佐原の洋館

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国の重要伝統的建造物群保存地区となっている、千葉県香取市佐原にある洋館。
竣工時期などは不明だが、重厚な蔵造りの商家が並ぶ中で軽快な趣のある姿が目に止まる。

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遠景。
手前の小野川を挟んで対岸には、国の史跡にも指定されている伊能忠敬旧宅がある。

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すぐ前に架かる橋は樋橋。
かつて橋のすぐ下流に、佐原村用水を小野川の東岸から対岸の水田に送るための大樋が通り、水が常時溢れ落ちていたため「じゃあじゃあ橋」の名で呼ばれる。

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木造二階建で外壁はグレーのモルタル塗り、屋根は赤瓦葺き。

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二階には小さなベランダを置く。

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背後には平屋建ての棟が続いている。

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壁のグレーと屋根の赤に、白く塗った木製サッシが映える。

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埼玉・川越の山﨑家別邸や大阪・富田林の南葛原家別邸のように、佐原の裕福な商家が接客等を目的に、主屋とは別に建てた別邸かもしれない。

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玄関脇のシュロや正面の小さな花壇も相まって、重厚な蔵造りの商家群とは対照的な風情を見せている。

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小野川の水面に映る洋館。

第523回・吉城園

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吉城園(よしきえん)は奈良公園の一角、登大路町にある大正時代の日本庭園と邸宅。
元々は興福寺の子院があった地で明治以降実業家の邸宅となり、大正8年(1919)に現在の建物と庭園が完成した。現在は奈良県の所有となり、一般公開されている。

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吉城園の周辺は、広大な邸宅の土塀が続く閑静な路地が広がっている。目と鼻の先にある奈良公園中心部の雑踏が嘘のような静けさである。大正11年竣工の近代和風建築である奈良県知事公舎もこの界隈にある。

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吉城園がある場所は、かつて興福寺の子院である摩尼珠院(まにしゅいん)があったところとされる。

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明治以降、奈良晒で財を成した実業家の邸宅となり、大正8年に現在の邸宅と庭園が完成。

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第二次大戦後は米軍に接収、その後企業の迎賓館として使用されていたが昭和59年に奈良県が取得、平成4年より庭園を一般公開して現在に至る。

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写真は新緑の時期の撮影だが、紅葉の時期も美しいと思う。

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母屋の釣り燈籠。

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なお、建物内部は一般公開されていない。

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起伏に富んだ地形の庭園。

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見晴らしの良い高地に建てられた亭。

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茅葺屋根をもつ田舎家風の茶室。

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茶室の縁側。

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茶室の前に広がる苔庭。
知名度はあまり高くないようだが、奈良の隠れた名園である。

吉城園ホームページ
http://www.nara-manabi.com/yoshiki.html
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