第556回・旧鏡岩水源池ポンプ室・エンジン室

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昭和9年(1934)に竣工した岐阜市の水道施設の一部で、現在は水の資料館として活用されている。旧ポンプ室と旧エンジン室の二棟が国登録有形文化財となっている。

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岐阜市は清流で知られる長良川沿いにおいて発展してきた街で、良質の地下水も豊富で飲料水には困らなかったが、大正期には工場排水や家庭排水による井戸水の質の悪化が問題になった。そこで昭和3年には長良川左岸に浅井戸を造り、伏流水を水源とした水道によって岐阜市内へ給水が開始された。

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現在保存されている旧ポンプ室と旧エンジン室は昭和47年頃まで使用されていたという。
隣接して、現在の鏡岩水源地の施設が稼働している。

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鏡岩水源地は、長良川と金華山に挟まれた場所にある。山の麓という立地条件であるせいか、旧ポンプ室と旧エンジン室の外観は西欧の山小屋風に仕上げられている。

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旧ポンプ室と旧エンジン室は規模、意匠共に酷似するが、よく見ると細部は異なる。
こちらは旧ポンプ室正面。

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旧エンジン室正面。

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旧ポンプ室側面。

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旧エンジン室側面。

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2つの建物はいずれも鉄骨転勤コンクリート造の構造体に木製の屋根を架ける。

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外壁は長良川の玉石張りで仕上げる。

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旧ポンプ室全景。

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水道設備の機械を納めるだけの建物に、このようなデザインを施すのは戦前建築ならではと言える。

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旧ポンプ室内部。旧ポンプ室と共に、岐阜市の水道事業の紹介・展示施設として活用されている。

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鉄骨は創建当初からのものが残されている。

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旧エンジン室全景。

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旧ポンプ室とは窓の形状が異なる他、壁面を支える鉄骨が外部に出ている点で異なる。

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旧エンジン室内部。

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内側から見た窓。

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様々な意匠が施されているものが存在する戦前の水道施設の中でも、山小屋風の佇まいが特徴的な異色の存在である。
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第555回・東京都復興記念館

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前回取り上げた東京都慰霊堂のある東京都墨田区の横網町公園には、昭和6年(1931)に建てられた東京都復興記念館の建物がある。東京都慰霊堂と同じく東京都選定歴史的建造物。

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慰霊堂の前から望む復興記念館。両者の建物からは東京スカイツリーが見える。
復興記念館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝えると同時に、昭和5年に完成をみた帝都復興事業を永久に記念するため、震災記念堂の付帯施設として建てられた。

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内部には、多数の震災被害資料が陳列されているほか、復興事業関連の模型や図面などが陳列されている。また慰霊堂の記事でも記したが、震災記念堂は戦後東京都慰霊堂となり、東京大空襲の犠牲者も祀られることになったため、2階には戦災関係資料も展示されている。

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設計は慰霊堂と同じく伊東忠太。軒周りに和風意匠が見られる。

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野外展示の震災被害資料もある。写真に写っているのは震災で破損した水道管、大火で溶解した印刷所の輪転機などである。なお、これらの展示物はすべて防錆処理は施されていると思われる。

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京橋で現在も営業している明治屋が、当時使用していたトラックの残骸。明治屋は当時キリンビールの販売元であったが、明治42年にスコットランド製トラックのシャシーにビール瓶の形をしたボディを架装、宣伝カーとして震災当日まで使用していた。なお、被災前の姿は明治屋ストアー及び こちらのサイトにて見られる。

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関東大震災は大火による死者が圧倒的に多いが、建物の倒壊で多数の圧死者を出した例もある。
丸の内のお濠端、現在の郵船ビルの隣で当時建築中であった内外ビルは8割方完成していたが震災で倒壊、工事に従事していた作業員多数が圧死する惨事となった。ここに保存されているのはその瓦礫の一部で、玄関の柱の一部と言われている。

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倒壊した内外ビル。東京市内でも指折りの大惨事の現場として、被服廠跡等と共に当時盛んに報道されたようである。写真は過去弊ブログの三越本店の記事でも引用した、大日本雄弁会講談社(現講談社)刊行の「大正大震災大火災」より。

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復興記念館でも慰霊堂と同様に、伊東忠太らしい怪獣装飾を見ることができる。
正面付け柱の上に4体の怪獣像がある。

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目が飛び出した獅子とも何ともつかない得体の知れない姿。
ただいずれの像も風化が激しく、写真のものが欠損が一番少ない。

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館内は無料で見学可能。展示物の中でも強い印象を受けたのは、被服廠跡の犠牲者が身に着けていた、眼鏡、万年筆、ベルト、懐中時計などの所持品の数々であった。時計はいずれも3~4時頃で止まっており、吉村昭の著作「関東大震災」などで推測されている被服廠跡の火災発生から鎮火までの時刻と一致する。

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懐中時計は2階の東京大空襲犠牲者の遺品にもあった。遺体は黒焦げになっても時計だけは原型を止めていたのであろう、こちらはいずれも未明を示す時刻で針が止まっていた。
3月10日午前0時過ぎから約2時間半続いた空襲による大火は、完全に鎮火したのは同日の夜であったという。たった一晩で約10万人という、広島・長崎の原爆や沖縄戦に匹敵する人命が奪われた事実は、もっとよく認識されるべきである。

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一部人災の側面はあるにせよ、天災である関東大震災の犠牲者を追悼し、復興を記念するために建てられた施設に、米国による大虐殺である東京大空襲の犠牲者が、今もなお組み入れられていることには違和感を禁じ得ない。その米国が勝者の論理で作った「憲法」を今もなお押し戴き、米国に安全保障を委ねて自らは経済発展に専念してきた、我が国の戦後体制のいびつな姿がここにはあると思う。例え現在は重要な同盟国・友好国であっても、その残虐行為の犠牲者は然るべき形で追悼されなければならない。

第554回・東京都慰霊堂(旧震災記念堂)

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東京都慰霊堂は東京都墨田区の横網町公園内にある慰霊施設で、昭和5年(1930)年に竣工した。
大正12年9月1日の関東大震災と、昭和20年3月10日の東京大空襲の犠牲者が祀られている。東京都選定歴史的建造物。

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この建物が建つ場所は大正12年当時、陸軍被服廠跡の広大な空き地が存在していた。9月1日の大震災とそれに伴って発生した大火に際しては、格好の避難所として多くの市民が避難するが、周囲の火災が激しくなると避難者が持ち込んだ夥しい家財道具に引火、約3万8千人が焼死するという関東大震災最大の惨事となった。

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鎮火後、被服廠跡は死体収容所として周辺の犠牲者の遺体も集められた結果、約5万8千体の遺体がこの地に集められたが、火災と暑熱による腐敗で身元の判別も付けられない遺体は直ちに火葬処理された。

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そのような惨事の現場となったこの地に、遺骨を納め犠牲者を慰霊し、この惨事を後世に伝えるための慰霊施設が建てられることとなり、東京震災記念事業協会によって広く官民から浄財を集め、伊東忠太の設計により「震災記念堂」として昭和5年に完成した。

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震災から22年後の昭和20年3月10日、米軍による無差別爆撃である東京大空襲で周囲は再び火の海となり、一晩で約10万人の東京都民が殺戮された。夥しい数の遺体は仮埋葬を経て、最終的に震災慰霊堂に合祀されることとなった。

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天災である震災の犠牲者慰霊施設に戦災犠牲者を一緒にすることについては異論も強くあったが、昭和26年に現在の名称である「東京都慰霊堂」に改称された。

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祭壇を備えた講堂。
毎年3月10日に春季大法要、9月1日に秋季大法要が営まれている。

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講堂の回廊には、関東大震災の惨状を描いた絵画と東京大空襲の記録写真が掲げられている。

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講堂入口上部の、珠を咥えた怪獣に見立てた照明飾り。伊東忠太ならではの特異な動物や怪獣装飾が、この建物でも随所に見られる。

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三重塔頂部。中国風ともインド風ともつかない伊東忠太特有のデザイン。

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屋根の鳥を象った装飾。

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講堂の背後にある三重塔は、基壇部分が納骨堂となっており、約16万3千体の遺骨が安置されている。

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震災と戦災でそれぞれ悲惨な最期を遂げられた、全ての犠牲者に対し哀悼の意を捧げたい。
合掌。

第553回・進々堂

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京都大学北門に向かい合って建っている進々堂は、ベーカリーを併設した喫茶店。
戦前からの店がいくつか残る京都の喫茶店でも草分け的な存在である。

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京大側から望む正面。正面向かって右側が喫茶部、切妻を正面に向けた左手がパン部。
パン部が昭和5年(1930)に竣工、翌昭和6年に喫茶部が竣工している。

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設計は、日本で最初に本格的なフランスパンの製造販売を始めた人物である、店主の続木斉(つづき ひとし 1881~1934)の自家設計。

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パリで修業時代に見た学生街(カルチェラタン)のカフェを京都で再現すべく開いた店である。

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なお、現在京都市内にあるパンの製造販売を行っている「進々堂」は、同じ続木斉の創業になる店であるが現在はそれぞれ別個の店であり、関係はないようだ。

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店の内外を飾る煉瓦や硝子はフランスから帰朝する際に持ち帰ってきたものであるという。

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二階の窓にはステンドグラスを嵌め込んでいる。

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これもフランス土産と思われるモザイクタイル。

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木工家で漆芸家の黒田辰秋(1904~1982)設計による椅子とテーブルが、現在も使われていることでも知られている。

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奥には小さな裏庭がある。なお、店舗内部は写真撮影禁止。

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現在も京大生のみならず地元住民、観光客などに広く親しまれている。

第552回・名和昆虫博物館・昆虫記念館

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岐阜公園には前回紹介した伊藤忠太設計の三重塔の他、著名建築家の手になる近代の建造物として、名和昆虫博物館・昆虫記念館がある。二件とも京都帝国大学教授であった武田五一の設計になる煉瓦造の西洋館である。

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明治40年(1907)竣工の昆虫記念館。岐阜市重要文化財。

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ギフチョウの再発見者であり、名付け親としても知られる昆虫学者・名和靖(1857~1926)は、昆虫の形態・生態を研究し、害虫防除・益虫の保護の方法を研究して、昆虫学の発展ならびに農作物の増殖をはかり国家経済に寄与することを目的として明治29年、岐阜市内に独力で名和昆虫研究所を設立する。

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明治37年には岐阜市の要請により岐阜公園内に移転する。当時の岐阜公園は整備が本格化する前で、現在よりも自然環境が多く残された場所であったようである。

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昆虫記念館の建物は、当初研究所の特別標本室として建てられた。
名和靖の志に理解を示した大阪朝日新聞(現・朝日新聞)の土屋大夢の計らいで、紙上で建設寄付金を募った結果集まった寄付金を基に建てられた。

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設計者の武田五一は当時、欧州留学から帰朝して間もない新進建築家であったが、少年時代の一時期を岐阜で過ごしており、名和靖が教鞭を執っていた学校に通っていたという。

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武田五一設計による初期の建築作品としては、外壁の正面部分のみ保存されている京都府立図書館(明治42)、犬山市の明治村に移築保存されている旧芝川又右衛門別邸(明治44)があるが、昆虫記念館は建設当初の場所で、原型を損なわれることなく残されている点で貴重な存在と言える。

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特別標本室として建てられたが、現在の昆虫博物館の建物ができるまでは展示室としても使われていた。
なお標本の収蔵施設という性格上、床を高く造っている。

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煉瓦造の壁体に木造の屋根を掛ける。

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切妻部分のてっぺんにはチョウがいる。

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公園内に佇むクリーム色の壁に赤い屋根の洋館は、長年岐阜市民に親しまれてきたと思われる。

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親しまれ過ぎたのか、壁の煉瓦には落書きが。

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「昭和十六年四月廿七日」
落書きのひとつは、大東亜戦争に突入した年のものだった。今から72年前である。

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昆蟲碑。名和靖の還暦を記念して大正6年に建てられた。
害虫として駆除してきた虫の供養塔である。

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昆蟲碑も武田五一設計。背面には「意匠 正五位勲四等工學博士 武田五一」

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大正8年(1919)に同じく武田設計で、現在も使われている、煉瓦造の白タイル貼り二階建の名和昆虫博物館の建物が完成している。なお、名和昆虫研究所は現在もこの建物のすぐ傍にあり、研究を続けている。

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平成8年の国による登録有形文化財制度の導入に際しては、岐阜県下の登録第一号となった。

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装飾を控えたシンプルな外観の建物は、当時としては非常に斬新なものに写ったにちがいない。

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玄関周りは石を多用し、少し重厚に仕上げている。

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外壁を白いタイルで覆うのは、大正初~中期の洋館に多く見られる。弊ブログで紹介済のものでは、千葉の神谷傳兵衛別荘、埼玉の旧八十五銀行本店(共に大正7)神戸の旧西尾類蔵邸(大正8)、秋田の池田氏庭園洋館(大正11)、などがある。

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内部にはシロアリ被害を受けた唐招提寺の古材が柱として使われている。解体修理の際に取り換えられたものを入手して用いたものである。

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金華山を背に向かい合う昆虫記念館と昆虫博物館。

(参考)名和昆虫博物館ホームページ

第551回・岐阜公園三重塔

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岐阜市の金華山山麓にある岐阜公園は、明治15年に開園した歴史ある都市公園である。
その中で、公園の整備が本格的に行われ始めた大正初期に建てられた朱塗りの三重塔が、金華山の緑に包まれ美しい姿を見せている。

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大正天皇即位の御大典事業として、また五穀豊穣と岐阜市の繁栄を祈念する塔として、岐阜市により大正5年(1916)に建てられた。

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公園のどこからでも見える三重塔。平成17年には国登録有形文化財になっている。

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公園内にある織田信長居館跡から望む三重塔。

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設計は伊藤忠太。弊ブログでも以前紹介した一橋大学兼松講堂や京都の西本願寺伝道院のような洋風建築の他に、平安神宮や明治神宮など、各地の社寺も多く設計している。

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建設費用は当時の金額で5,500円。建築部材として、明治24年の濃尾地震で被災倒壊した旧長良橋の材木が使用されているという。

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三重塔の建立場所は、日本画家の川合玉堂(1873~1957)が風水によりこの地を選定したという。
なお川合玉堂は岐阜に近い愛知県一宮市の出身で、少年時代は岐阜市に住んでいたそうである。

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内部には弘法大師像などが祀られているという。

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山麓に建つ鮮やかな朱塗りの塔は、新緑や紅葉の時期は見ものと思われる。

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岐阜市民のために建てられた三重塔は、現在も市民に親しまれている。

第550回・旧報徳銀行水海道支店

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茨城県常総市に残る大正時代の銀行建築。
大正7~12年(1918~23)頃に建てられたものと推測されている。現在は常総市が所有・管理している。

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常時利用するには耐震補強が必要とされているとのことで、この建物は現在、内部は非公開である。
また東日本大震災でも損傷があったようである。

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報徳銀行の店舗として建てられた建物はこの旧水海道支店のほか、大正11年竣工の旧大阪支店の建物が現存する。現在は「新井ビル」として現存しており、弊ブログでも既に紹介しているのでご参照頂きたい。
旧報徳銀行大阪支店(新井ビル)(弊ブログ第124回)

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タイルの色調は大阪支店と似ているが、旧水海道支店の設計者等詳細は不詳のようである。

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報徳銀行については来歴等よくわからない点が多い。大正13年には合併により東明銀行と名を変えているが、その後間もない昭和初期の金融恐慌の影響か、昭和4年には倒産したようである。
(参考)銀行変遷史データベース

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水海道支店の設置は大正元年と伝えられているが、現在残る建物の正確な建築年は不明である。

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様々な名前の銀行の看板を掛けてきたが、最後は関東つくば銀行水海道支店となり、平成18年まで使用されていた。

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平成18年、関東つくば銀行から常総市に譲渡、同年市指定文化財となっている。

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茨城県下でも数少ない大正期の銀行建築。

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補強改修と再活用が待たれる建物である。

第549回・京都大学工学部土木工学教室本館

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前回に引き続き、京都大学構内の近代建築。
文学部陳列館とほぼ同時期である大正6年(1917)竣工の工学部土木工学教室本館は、赤煉瓦の美しい外観が特徴。

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正面全景。かつて京大では本部本館(現在の時計台)を始めとする主要な建物は、このような赤煉瓦の建物であったが、現在も残るものは多くない。

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設計は文学部陳列館と同じく、山本治兵衛・永瀬狂三。

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現在も現役で使用されている貴重な煉瓦造の学校建築である。

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この建物も近年改修工事が行われたらしく、外壁がきれいになっている。

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窓の建具ももとの姿を損なわないよう、同じ色・形状のアルミサッシが入れられている。

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正面見上げ。

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玄関。

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玄関の天井は、装飾を打ち出して白く塗装された金属板を全面に貼っている。

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京大構内に現在残る赤煉瓦建築の中では、規模・美しさ共に随一と言える建物。

第548回・京都大学文学部陳列館

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明治から昭和10年代にかけて、東京・京都・東北・北海道・九州・京城・台北・大阪・名古屋の9ヶ所に設立された旧帝国大学のキャンパス内には、今もすぐれた近代建築が多く残されている所が多い。京都大学も戦前に建てられた施設の多くが現存する。今回紹介する文学部陳列館もそのひとつ。国登録有形文化財。

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京大のシンボルである時計台が建っている、京大吉田キャンパスの本部構内の一角、教育学部本館の背後に文学部陳列館はひっそりと建っている。

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大正3年(1914)に当時京都帝国大学建築部に在職していた山本治兵衛(1854~1919)と永瀬狂三(1877~1955)の設計で建てられた。山本治兵衛は弊ブログで以前取り上げた旧奈良女子高等師範学校、永瀬狂三は福井県敦賀市の旧大和田銀行本店の設計者でもある。

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文学部が収集した各種資料を保存・陳列するための施設であったことから、学校建築としては異例の記念性の強い華やかなデザインが施されている。

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煉瓦造の外壁にモルタルを塗り石造風に仕上げている。屋根は和風の桟瓦葺。

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なお文学部陳列館は、昭和末年に総合博物館が建設される際に背面側が半分程度撤去されている。残された部分は文化財に登録後、改修工事が施され現在はきれいに整備されている。窓のアルミサッシも、古いサッシの形や色調が引き継がれており、建物の雰囲気を壊さないようにしている。

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繊細な鋳鉄製の装飾が施された玄関ポーチ。

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装飾部分を拡大。

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玄関ポーチ天井の照明台座は、金属板をプレスして装飾を打ち出したものと思われる。

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玄関の左手には国登録有形文化財のプレートが掲げられている。

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文学部陳列館は、京都大学構内の近代建築の中でも目立たないが非常に美しい建物だと思う。

第547回・旧岐阜県庁舎(旧岐阜総合庁舎)

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大正13年(1924)に竣工した旧岐阜県庁舎は、昭和41年の庁舎移転以来、岐阜総合庁舎として使われていたが、老朽化等により平成25年(2013)3月31日で閉庁、建物の側面及び背面の大半は取り壊された。ただし建物の正面部分は今後も保存・再利用される予定である。

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当初の完成予想図。正面中央には高塔を戴せている。設計は矢橋賢吉・佐野利器を顧問、実施設計及び監督は県主任技師の清水正喜とされている。施工は大阪の銭高組。旧岐阜県庁舎は旧石川県庁舎と並び、最初期の鉄筋コンクリート造の県庁舎である。(竣工は石川が大正13年6月、岐阜が同年10月)なお顧問の矢橋賢吉は、旧石川県庁舎の設計にも関与している。

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実際に完成した建物は図と異なり、塔がない。着工から間もない大正12年9月1日に、関東大震災が発生したことから耐震を強く意識した設計変更が為されたものと思われ、その結果、高塔の建設が取りやめられたものと思われる。

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庁舎はE字形平面で、中央背部に県会議事堂を配する構成。戦後、背面及び隣接地に新議事堂及び庁舎増築が行われるが、岐阜市藪田南に現在の庁舎が竣工した事に伴い、岐阜県庁の本庁舎としての役目は終わったが、その後は岐阜総合庁舎として外郭団体や出先機関が入居、引き続き行政機関の庁舎として使用されてきた。

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平成25年3月末を以て約90年近い行政庁舎としての役目に終止符を打ち、その後、写真の側面右側3分の1程度を残して側面・背面の大部分は取り壊された。残る正面側の全面と側面の一部については、新たな用途は未定だが、旧石川県庁舎と同様に保存される予定である。

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閉庁後、岐阜県では旧県庁舎の文化財的価値について調査を行い、報告書が岐阜県庁のホームページに掲載・公開されている。当ブログ記事も同報告書に基づき、記事の加筆修正を行った。
「旧岐阜県庁舎建築文化財調査報告書」

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同時期の府県庁舎で現存するものとしては、旧石川県庁舎の他、中央部分のみ県政資料館として保存されている旧鹿児島県庁舎(大正14年)、現在もなお現役最古の庁舎である大阪府庁舎(大正15年)がある。石川・大阪の両府県庁舎は既に弊ブログでは紹介済なので、外観や内部意匠等を比較して頂きたい。

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簡素ながらも重厚な外観が特徴の旧岐阜県庁舎であるが、映画やドラマの撮影ロケ地としても多く利用されてきたこの建物の一般公開が平成25年3月16~17日に行われた。写真は全てそのときのものである。

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一般公開には地元の人や県庁OBの人など、多くの人が訪れていた。

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玄関を入ると目の前に現れる大理石貼りの重厚な階段。階段を始め庁舎内部には岐阜県産の大理石がふんだんに用いられている。これらの大理石は、岐阜県大垣市にある日本有数の大理石加工業者・矢橋大理石商店(現・矢橋大理石(株))が工事を手掛けている。

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階段を上がって振り返ると目に入る、飛騨アルプスの山並みと高山植物をあしらった六面の美しいステンドグラス。大阪でステンドグラス製作を行っていた木内真太郎(1880~1968)の作品。重要文化財となった松山の萬翠荘や、大阪中之島公会堂のステンドグラスの制作者としても知られる。

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旧岐阜県庁舎の大きな見どころは、ステンドグラスや大理石をふんだんに用いた内部意匠にある。特に二層吹き抜けの豪壮な階段広間は映画のロケでも多く使用されている見事なもので、これほどの空間が現存する類例としては大阪府庁舎ぐらいであると思われる。なお、今は無いが大理石貼りの角柱の柱頭には、金属製の装飾が取り付けられていた。

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今回の催しで無料配布されていたポストカードの写真。この空間の魅力を見事に捉えているので転載させて頂く。ところで、この階段の手摺子の間には、かつては金属製の飾り格子が嵌め込まれており(溝が入っているところに注目頂きたい)、先述の柱頭飾りと共に、戦時下の金属供出で取り外されたものと思われる。

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天井はトップライトの天窓になっているので、非常に明るい。以前紹介した旧山梨県庁舎の階段室もトップライトになっているが、旧岐阜県庁舎は大理石貼りの回廊を周囲に巡らせる点で異なる。また、かつてはステンドグラスも嵌め込まれていた。(岐阜県の調査報告書には創建当時の階段ホールの写真が載っている)

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階段ホールのステンドグラスは天窓のほか、左右二箇所の窓にも嵌め込まれていた。(写真左上の窓がその一つである)養老の滝と長良川の鵜飼が描かれた二面のステンドグラスは現在、現岐阜県庁舎の議会棟に移設されている。なお、天窓のものは現存しない。

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階段踊り場の上部に据え付けられた、創建当初からのものと思われる電気時計。

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階段室付近の床は、六角形と正方形の美しいモザイクタイル貼り。

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天井周りに施された幾何学文様の漆喰装飾。

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三階、階段広間の前にある正廰(庁)。戦前の各府県庁舎には必ずある部屋である。
これまで紹介してきた各府県庁舎と同様、最も格式高い内装が施されている。

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正面中央には、天皇皇后両陛下の御真影を掲げるための場が設けられていた。正廰は重要な式典を行うための場であり、岐阜県庁の場合は戦前、この部屋が使用されるのは元旦、紀元節(建国記念の日)、天長節(天皇誕生日)の3日間のみであったという。

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装飾が施された重厚な造りの正廰の扉。

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幾何学文様が描かれた正廰のステンドグラス。今はない階段ホール天窓のステンドグラスも同様の意匠、色調であったものと推測されている。

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公開時には入居していた各種団体・機関の事務所も、閉庁を前に殆ど移転を終えていた。硝子戸になった両開き扉など、建具も昔からのものと思われ、いい雰囲気である。これらの建具もできれば再利用されるとよいのだが。(内部写真を掲載している部分は保存が予定されている部分である。取り壊し予定の部分は非公開だった。)

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庁舎正面両端に設けられた階段室。階段ホールと同様、天窓にはステンドグラスが嵌め込まれていたという。壁面の明り取り用小窓の両側には、簡素な装飾を持つレリーフがある。

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旧岐阜県庁舎には、矢橋大理石商店の寄贈による大理石製暖炉飾りが6基、知事を始めとする幹部職員の部屋に設けられている。今回公開されていたのはそのうち2基で、写真は3階旧高等官食堂の暖炉。

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旧知事室の暖炉。庁舎内の大理石は暖炉を始め、岐阜県産の大理石が用いられているが、知事室のみイタリア産と岐阜県産の組み合わせになっている。黒い菱形の部分が岐阜県産。

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旧知事室の天井にも精緻な漆喰装飾が施されている。
なお、本記事の冒頭で紹介した完成予想図と模型は、この部屋に展示されていたものである。

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旧知事室天井装飾を拡大。

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大正時代の官公庁舎としても、岐阜の近代建築としても貴重な存在というべき旧岐阜県庁舎であるが、今後、有意義な保存活用の途が見いだされることを願うばかりである。特に内部階段ホールは、移設された二面のステンドグラスをもとの位置に戻し、失われた天窓ステンドグラスや金属装飾も復活させれば、現状の豪壮さに華麗さが加わり雰囲気が一変する筈である。

(平成25年3月27日追記)頂いたコメントをもとに記事本文を一部加筆修正しました。
(平成26年11月9日追記)「旧岐阜県庁舎建築文化財調査報告書」に基づき、記事本文を加筆修正しました。

第546回・黒羽根内科医院旧館(旧今村医院・いせさき明治館)

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群馬県伊勢崎市に残る希少な明治の洋館。
現在は伊勢崎市が所有・管理している「いせさき明治館」は群馬県下でも最古級の木造洋風医院建築である。

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遺された棟札から、今村信四郎を建主として明治45年7月に上棟したことが判明している。今村家はかつて伊勢崎藩の藩医も務めた家である。

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昭和4年に今村医師が東京へ転出後、建物はしばらく医院として使用されることはなかったようであるが、昭和22年頃に黒羽根内科医院となり、同医院の診療棟として使われていた。

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昭和59年に新館が建った後は診療棟としての役割を終えるが、平成14年に黒羽根家から伊勢崎市に建物が寄贈されたことを機に曳家による移転、修復工事が行われた。

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伊勢崎市重要文化財に指定されている。

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玄関ポーチ上部の持ち送りには細かい彫刻飾り。

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石積みの基壇に設けられた換気口に嵌め込まれた鉄製の飾り格子。

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正面及び側面外観の一部は洋風だが、玄関から内部は基本的に和風。

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土間の受付小窓。

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内部では唯一の洋室である旧診察室。

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二階は縁側のある和室で構成されている。

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床の間を備えた二階客室。

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書院や欄間に嵌め込まれた建具の細工がすごい。

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書院の障子。

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欄間。

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現在は「いせさき明治館」と名付けられ無料で一般公開されている。

第545回・旧水海道町役場(二水会館)

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茨城県常総市にある二水会館は、大正2年(1913)に水海道町役場の庁舎として建てられた。

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現在は常総市立図書館の敷地内に移築保存されている二水会館。昭和59年に現在地に移築された。
「二水会館」の名は、近くを流れる二つの川、鬼怒川と小貝川に因む。

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一見二階建に見えるが、内部は二層吹き抜けになった平屋建。また、かつては背面に和室が続いていた。

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この建物の竣工と同じ大正2年に、常総鉄道(現関東鉄道常総線)が開通、それまでの鬼怒川の水運で栄えていた水海道は鉄道によって発展を遂げる。

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水運から鉄道への転換期に完成した役場は、新しい時代の到来を示すものであったと思われる。

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正面二階には切妻屋根を見せ、細部にも装飾を施す。

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バルコニーには、金属製と思われる繊細なデザインの欄干を取り付ける。

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地元の大工棟梁が、洋風のデザインを勉強して造り上げたものと思われる。

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現在は映画の撮影などに貸し出されることもあるようである。

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平成9年に国登録有形文化財となっている。

第544回・清風亭

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前回紹介した誠之堂に隣接するこの建物は、大正15年(1926)に第一銀行第二代頭取を務めた佐々木勇之助の古希を記念して建てられた。平成11年に誠之堂と共に埼玉県深谷市に移築、保存されている。

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建設当初の古写真。東京世田谷にあった第一銀行の厚生施設「清和園」内に誠之堂に隣接して建っていた。(写真には写っていないが、左手の植え込みの先に誠之堂は建っていた)

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埼玉県深谷市に移築された現在の姿。

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誠之堂と清風亭は、清和園にあった頃と同じ配置で移築・保存されている。

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佐々木勇之助(1854~1943)は初代頭取であった澁澤榮一を長年に亘って支え、大正5年の澁澤退任後は第二代頭取に就任、昭和6年まで第一銀行頭取を務めた人物。

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大正12年に佐々木が古希を迎えたことを受けて、第一銀行の厚生施設「清和園」内に誠之堂と同様、行員が資金を拠出して記念施設の建設が計画されるが、関東大震災で延期、大正15年(1926)に竣工した。当初は佐々木の雅号に因んで「茗香記念館」と称される事もあったが、その後「清風亭」の名称が定着した。

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設計は第一銀行建築課長を務め、大正から昭和初年にかけて第一銀行の本支店設計を手掛けた西村好時。
設計を手掛けた旧第一銀行の店舗では現在、函館や横浜の支店が現存している。

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大正末から昭和初年に流行した、スペイン風外観が特徴の小亭。
鉄筋コンクリート造(一部煉瓦造)の平屋建。施工は誠之堂と同じく清水組。

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屋根には、青や緑がかった色調のスペイン瓦を葺く。

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現在地への移築に際しては、両側面のベイウインドウ、及びアーチのあるベランダ部分を大きなブロック状に切り分けて運び、現地て組み立てる工法が採られた。(それ以外の部分は構造体を移築先で新しい材料で再現している)

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建具は一部にステンドグラスを嵌め込んだスチールサッシ。

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雨樋にはセミがいる。

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窓、及びアーチ周りには当時流行した焦茶色のスクラッチタイルで縁取りを施している。

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東洋趣味の濃厚な誠之堂とは異なり、明るい南欧風のベランダ。

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控え目な玄関。

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裏口。

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内部は広間一室とクローク、給湯室、便所を配している。家具や照明器具は誠之堂同様、移築に際しての復元であるが、一部はオリジナルの家具が残されているらしい。なお、清風亭も誠之堂と同様、催事等の会場として貸し出されている。

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国指定重文の誠之堂に比べると利用に際しての制約が緩いため、利用頻度は清風亭の方が高いようである。もっとも、モラルの低い利用者によって床などに損傷が生じるなど管理上の悩みも多いようだ。

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暖炉。暖炉棚に置かれているのは第一銀行時代の古写真。当時は暖炉の上に佐々木勇之助の肖像画が掲げられていた。

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窓の外には、深谷市が管理するグラウンドが広がる。
清風亭と誠之堂は、運動施設や緑地を備えていた清和園時代に近い、大変良い場所に移築されていると言える。

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ベイウインドウの下部には造りつけのベンチがある。

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ベンチの細部にも装飾が施されている。

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ステンドグラスで縁取りを施したベイウインドウの3連アーチ窓。

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ステンドグラス部分を拡大。

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平成16年、埼玉県指定有形文化財に指定される。

第543回・誠之堂

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現在埼玉県深谷市で保存されている「誠之堂」は、第一銀行(後の第一勧業銀行、現・みずほ銀行)の保養施設である「清和園」内に建てられた小建築。第一銀行初代頭取で、近代日本の資本主義体制を築いた人物でもある澁澤榮一の喜寿を記念して、大正5年(1916)に建てられた。国指定重要文化財。

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清水組(現・清水建設)の設計施工になり、設計を担当したのは同社技師長であった田辺淳吉である。なお澁澤榮一の喜寿を記念して建てられた建物としては、東京飛鳥山の澁澤邸内に、誠之堂と同じく田辺淳吉・清水組の設計施工で建てられた「晩香廬」(大正6、国指定重文)がある。

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創建当初の古写真。元々は東京都世田谷区瀬田にあった。大正5年当時この界隈は東京の郊外で、田園風景が広がる場所であったという。

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平成9年、第一勧業銀行によって取り壊される直前に、澁澤榮一の生誕地として顕彰事業を進めていた深谷市が澁澤榮一ゆかりの建物として、建物の保存・引取を申し出たことにより、平成11年に現在地に移築された。

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平成15年に国の重要文化財に指定された。現在は深谷市によって保存・公開されていると同時に、催事等の会場として市民へ貸し出されている。

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正面大屋根の中央に配された屋根窓。特定の機能はなく、デザインを引き締めるためのもの。

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誠之堂の建築様式は、当時の「建築雑誌」(大正6年3月)には「英国農舎に国風を加味し支那朝鮮の手法を按配せり」とある。

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天然スレート葺の入母屋大屋根を見せる正面に、日本の寺院建築の屋根を意識しているのだろうかと思われる。

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正面に「国風」が見られるとすれば、背面は英国農舎の趣か。

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連想するのは、童話「3匹のこぶた」に出てくる煉瓦の家。

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東西南北の漢字と風見鶏という東西混合。
なお、これは便所の臭気筒。

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格子戸風の開き戸。

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テラスからは埼玉の田園風景が望める。
腰掛などは東洋風。

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様々な色調の煉瓦を組み合わせて味わい深い壁面を作り出す。移築に際しては壁面を大きくブロック状に切り分けて運び、移築先で組み立てることでオリジナルの風合いが移築によって損なわれないよう配慮した工法が採用された。

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煙突部分の壁面に煉瓦で描いた「喜寿」の文字。このあたりも東洋風。

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正面玄関。深く張り出した屋根庇や緩やかなアーチなど、同時期に建てられた英国風洋館である兵庫県川西市の旧平賀義美邸に少し似ていると思う。

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玄関土間。外観同様、壁面は煉瓦壁。

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船底天井になった玄関土間の天井。

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玄関を上がって右側に見えるのが、ステンドグラスを嵌めた両開き戸のある洗面所。

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龍と鳥。

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洗面所の横にある小部屋。広間に続く次の間である。
天井は和風の網代天井。飾られた額の写真の人物が、設計者である田辺淳吉。

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広間。漆喰塗の円筒形天井が美しい。
家具や照明器具は、深谷市への移築に際して資料をもとに復元された。

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朝鮮の陶磁器の紋様を取り入れたと言われる天井の細部装飾。

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暖炉。上部にある澁澤榮一の肖像を象ったレリーフは竣工後間もなく交換されている。竣工当初のレリーフは横顔であったというが、御本人がお気に召さなかったのかも知れない。

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暖炉の両側三面に配されたステンドグラスは、古代支那の画像石にある意匠に材を取る。
貴人をもてなす図。

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音楽を奏で、芸を披露。

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酒と料理を作る。

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第一銀行社員のためのクラブハウスとして建てられ使われてきた誠之堂であったが、昭和50年代から平成までは、第一勧銀から土地建物を借りていた私立学校の外国人教師の住宅として使われていたという。

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敷地内には、同じく旧第一銀行の施設として大正末期に建てられ誠之堂と同時に移築保存された「清風亭」がある。こちらについては次回紹介。

第542回・愛新覚羅溥傑仮寓(千葉市ゆかりの家・いなげ)

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愛新覚羅溥傑(1907~1994 満州国皇帝・愛新覚羅溥儀の実弟)が、夫人の嵯峨浩(1914~1987)と昭和12年から半年程新婚生活を送った家。平成9年に千葉市の所有となり、「千葉市ゆかりの家・いなげ」として公開されている。

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先日紹介した旧神谷傳兵衛稲毛別荘と同じく、千葉市稲毛区の旧稲毛海岸沿いに建っている。

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この家も本来は海浜別荘として建てられたものと考えられる。

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建築時期は不詳。

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控え目な外観の洋間が一室設けられている。

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玄関。

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床の間を配した主座敷は格天井になっている。

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主座敷の照明。衣桁の形を取り入れたもので、古い日本座敷の照明ではよく見られる。

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主座敷とは反対側に配置されたこちらの座敷は、居間か書斎として造られたものと思われる。
天井は竿縁天井で、床の間もない。

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洋間。溥傑夫妻の写真が飾られていた。

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溥傑夫妻。
雑誌の取材に応じて、この家の玄関先で撮られた写真。

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政略結婚ではあったが、夫婦仲は昭和62年に浩夫人が先立つ最後まで睦まじかったという。

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主座敷前の縁側の柱にあったベル。いつの住人が取り付けたか分からないが、呼び鈴の代わりに使ったのだろうか。

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廊下の照明。

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庭には離れ座敷がある。

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凝った造りの離れ床の間。床の間に飾られているポスターは溥傑・浩夫妻の半生をドラマ化したときのもの。
溥傑は竹野内豊、浩夫人は常盤貴子。

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建具が美しい家。
玄関の格子。

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結霜硝子を使った欄間。

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縁側の欄間。

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手洗い。

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主座敷欄間。

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愛新覚羅溥傑氏は最晩年の来日時に際し、この家を再訪している。

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ここに一時住んだ人の波瀾の人生とは対照的な、静かな佇まいを今も残している。

第541回・旧本庄警察署(本庄市立歴史民俗資料館)

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前回に引き続き、埼玉県本庄市の建物。
旧本庄商業銀行倉庫から程近い場所に建つ旧本庄警察署は、明治16年(1883)に建てられた、この地では最初の洋風意匠をまとった公共建築である。現在は本庄市立歴史民俗資料館として使用されており、埼玉県指定文化財。

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現存する警察署庁舎では最古と思われる。
煉瓦の門柱と木製の柵は後年の復元で、当初からあったものではない。

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館内には建物の古写真等資料も多く展示されている。ここに掲げたのは展示されている古写真のひとつで、昭和9年の撮影という。そのころ新庁舎が他所に新築され、役割を終えたということなので、警察署としてはおよそ半世紀使用されていたことになる。

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警察署としての役割を終えた後は、消防団本部、簡易裁判所、検察庁、公民館、図書館など用途を転々とする。写真は昭和46年以前の撮影とされるもので、窓や二階ベランダの手すりなど、かなり改造が施されていることが分かる。

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昭和55年に大規模な修復及び復元を行い、明治期の外観に復した。
同時に現在の用途である歴史民俗資料館となり、現在に至る。

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敷地内には警察署本館の他、人民控所と称された小屋が残る。ただし位置はもとあった場所から反対側に移設されている。留置人に面会に来たときなどは、ここで一旦待たされたようである。

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中央に三角破風を設け車寄せ上部にベランダを設けるなど、明治初期から中期にかけて全国各地で建てられた初期洋風建築の特徴を備えている。

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白い漆喰壁と隅石の組み合わせも、擬洋風建築と称される初期の洋風建築で多く見られる。

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玄関上部にはベランダが設けられている。

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ベランダにはコリント式の列柱を配する。初期洋風建築らしく柱に対して柱頭部分が大きすぎ、アンバランスなのが特徴。

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鋳鉄製の手摺は修復に際して復元されたもの。

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アーチ型の玄関入口。

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一階内部。

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二階内部。内部が非常に簡素なのも初期の洋風建築の特徴。

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それでも見どころはあって、天井の照明台座にはそれぞれ異なる装飾が施されている。

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かつては、ここにランプを吊り下げていたものと思われる。

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ブドウだろうか。

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ベランダの天井には鶴。

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ベランダ出入り口のアーチ。

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歴史民俗資料館としての展示内容も結構充実しており、見応えのある施設である。
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