第574回・清洲橋

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前回紹介した永代橋の上流にある清洲橋は、力強い印象を与える永代橋とは対照的な、優美なデザインの吊り橋である。永代橋が「帝都東京の門」と称されたのに対し、清洲橋は「震災復興の華」と称された。昭和3年(1928)の竣工。国指定重要文化財。

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江戸時代からの歴史がある永代橋とは異なり、清洲橋は震災復興事業で初めて架けられた橋である。
名称は公募により、両岸の地名(深川区清住町・日本橋区中洲町)から一字づつ取って付けられた。

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東京市復興局が施工主体となり鈴木精一設計、また永代橋と同様にデザイン面で建築家の山口文象が設計に関与している。

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隅田川の震災復興橋梁の多くはドイツの橋梁を手本にしたと言われており、清洲橋については当時ドイツのケルンにあった(第二次大戦で破壊され今はない)ヒンデンブルク橋がモデルであると言われている。

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優美な橋と言われる清洲橋も、近くで見ると武骨で迫力がある。

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特徴的な照明塔。架橋当初の古写真を見ると現在のものとは異なるので、時期は不明だが架橋後の改造によるものと思われる。

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現在の照明は、歩道側と車道側で位置を上下にずらしているが、架橋当初は並行に並べられていたようである。

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堂々とした門のようなアーチ。

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現在では見られない、古い土木構造物ならではの夥しい数のリベット。

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清洲橋は永代橋と同じく、土木学会から平成12年に「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定、また東京都からの東京都選定歴史的建造物選定を経て、平成19年に国から重要文化財に指定されている。
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第573回・永代橋

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東京の隅田川には、関東大震災後の復興事業の一環として大正末から昭和初期に架けられた橋が、現在もその大半が現役である。そのうち3つの橋が国指定重要文化財となっており、中でも最も古いのは大正15年(1926)に竣工した永代橋である。

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永代橋は元禄11年(1698)に、徳川幕府五代将軍・徳川綱吉が五十歳を迎えたことを祝って架けられたとされる。忠臣蔵で知られる赤穂浪士一行が、吉良上野介の首級を挙げて渡った橋である。

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明治に入ると両国橋や新大橋など他の橋と同様に鋼鉄製の橋が架けられるが、この時の橋は床面は木材を張っていたため、大正12年の関東大震災に伴う大火では、橋が炎上して多くの市民が犠牲になった。

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震災の翌年に復興工事に着手、昭和改元直前の大正15年12月20日、震災復興事業による橋梁の第一号として竣工する。

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設計は帝都復興院で復興事業の指揮を執っていた田中豊(1888~1964)が原案を作成している。田中は近代日本の橋梁史上最も著名な橋梁技術者とされる人物。現在も土木学会では、優れた特色を備えた橋梁を顕彰する「田中賞」にその名を残している。

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なお、橋梁のデザインに際して田中豊は、当時逓信省に在籍していた山田守と山口文象など、建築家も加えている。
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随所に見られる特徴的な照明は、建築家の手によるデザインなのかも知れない。

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永代橋は、土木学会からは平成12年に「第一回土木学会選奨土木遺産」に選定されている。

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東京都からは東京都選定歴史的建造物、そして平成19年に国から重要文化財に指定されている。(国重要文化財指定に伴い、東京都選定歴史的建造物の選定は解除された)

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次回は、同じく国指定重要文化財で、永代橋の上流に架かる清洲橋を紹介させて頂く予定。

第572回・聖パウロカトリック教会

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軽井沢町の聖パウロカトリック教会は、昭和10年(1935)に英国人のワード神父によって設立された。現在も現役の教会であるが、観光スポットとしても軽井沢でも指折りの存在になっている。

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旧軽井沢銀座から少し横道に入った場所にある。
設計は、以前紹介した日光・中禅寺湖畔の旧イタリア大使館別荘も設計した、アントニン・レーモンド(1888~1976)。

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レーモンドの出身地は東欧のチェコであるが、その隣国であるスロバキアの山岳地帯の教会堂建築が本教会のデザインの基になっているという。

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そこに加え、一階の深く張り出した庇など、日本の気候風土に合わせたレーモンド独自の工夫が見られる。

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藤森照信氏が自著で「オデンのような」と評した塔。(「信州の西洋館」平成7年 信濃毎日新聞社)

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確かに塔のてっぺんは、串に刺さったおでん。

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軽井沢の地を好んだ堀辰雄や川端康成の小説にも、この教会は登場しているという。

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木造の内部空間がすばらしい。

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パイプオルガンが備えられている入口側を望む。

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結婚式の場としても人気が高い。歌手の吉田拓郎をはじめ有名人の挙式も多い。

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窓のすりガラスの意匠。

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天井の木組み。

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天井から下がる灯具。

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挙式、礼拝が行われていない時は自由に見学できる。

第571回・旧英国総領事館(横浜開港資料館旧館)

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昭和6年(1931)に建てられ、同47年まで在横浜英国総領事館として使われていた建物。
現在は横浜開港資料館旧館となっている。横浜市指定有形文化財。

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「キングの塔」で知られる神奈川県庁本庁舎の向かいに、控え目な感じで建っている旧英国総領事館。

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設計は英国工務省。建設資材も英国から取り寄せたものが使われているという。
細かく区切られた、白塗りの窓サッシが美しい。

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設計は英国人であるが、施工は日本人が手掛けているという。

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海岸通に面した正面。現在は前に新館が建っているので、中庭に面したような形になっているが、本来はこちらが正面であった。

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全体的に英国らしい、質実簡素な印象の建物だが、正面玄関まわりは凝った造りになっている。

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この地は、かつて嘉永7年(1854)に日米和親条約が締結された場所である。その後英国総領事館の敷地となったが関東大震災で倒壊。再建されたのが現在残る建物である。

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現在は神奈川県庁に面した側が正面に見えるが、こちらは通用口。

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内部も床や壁のタイル等旧状をよく残している。

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現在この建物に入っている横浜開港資料館では、開港後の横浜の歴史資料を収集・公開している。

第570回・片倉館

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長野県諏訪市の諏訪湖東岸にある温泉施設「片倉館」は、昭和3年(1928)に当諏訪湖周辺を本拠に製糸事業を営み、片倉財閥を築いた二代目片倉兼太郎(1863~1934)が片倉製糸の創立50周年記念事業に、従業員及び地域住民のための福利厚生施設として、私財を投じて建てたものである。国指定重要文化財。

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館内に展示されている、創建間もない昭和初期の古写真。右の塔のある建物が浴場、左手の建物が畳敷きの大広間などを備えた会館。両者は渡廊下で連結されている。

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諏訪湖上からみた片倉館。上の写真と同じく、片倉館の中に展示されている昭和初期の古写真。

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諏訪湖畔から望む現在の片倉館。
設計は、台湾総督府営繕課で台中州庁専売局庁舎など台湾の主な公共建築を設計した森山松之助(1869~1949)。

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片倉館に隣接して建っていた片倉家別邸の洋館及び日本座敷は、現在諏訪湖ホテルの一部(迎賓館)として保存再利用されている。片倉館と同じく森山松之助の設計により、昭和3年に竣工。

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同じく片倉館に隣接して建っている旧懐古館。片倉館の付属施設として、片倉製糸によって昭和18年(1943)に建てられ、蚕糸業の歴史に関わる展示などを行っていた。現在は諏訪市美術館となっている。
旧片倉家別邸・旧懐古館は共に国登録有形文化財となっている。

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会館棟正面。

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外観とは裏腹に内部は殆どが畳敷きの和室になっている。構造も木造。

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車寄せ。

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会館正面のレリーフ。鳩がいる。

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会館の内部には和洋2タイプの個室、及び大広間がある。
利用者の娯楽や休憩、文化事業の場として、創建当初から現在に至るまで使われている。

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浴場棟。こちらは鉄筋コンクリート造。

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浴場棟正面のレリーフ装飾。

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階段室の窓。

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尖塔と大きな切妻屋根が特徴。湖畔に映る姿を強く意識してデザインされたようである。

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内部。
格調高い造りに似合わず(?)、湯上がり客の為の飲料ケースや衣料の吊るし売りがあったりして、気取らない雰囲気の入浴施設となっている。

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階段室。

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内側からみた階段室の窓。

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浴場棟二階の休憩室は食事処になっており、食事だけの利用もできる。

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休憩室の柱の装飾。

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製糸業が廃れた現在、会社従業員の福利厚生施設としての役目は終えたが、片倉館は現在も地元住民に親しまれているほか、日帰り入浴専用の温泉施設として諏訪湖周辺の観光名所のひとつになっている。

第569回・東華菜館(旧矢尾政レストラン)

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京都・四條大橋の袂に、先日紹介した南座と鴨川を挟んで向かい合って建つクリーム色の洋館がある。
現在は中華料理店「東華菜館」の本店として使われているが、元々は「矢尾政」という名のビアレストランである。大正15年(1926)の竣工。

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当初この建物に入っていたレストラン「矢尾政」は、明治時代に京都市内で創業した料理店で、明治末からは西洋料理を扱っていた。

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二代目店主の浅井安次郎氏は、明治末期より各地でビアホールが人気を博していたことから新しいビアレストランの建設を計画し、大正15年に現在の建物が完成、店は評判になりビアホールは繁盛したという。

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昭和16年に日本が大東亜戦争に突入し、食糧事情の悪化が深刻になった戦争末期には各地のデパートやビアホールが雑炊食堂に変わり、高級料理店などは全て休業を命じられるようになる。そのような状況下、矢尾政レストランも店舗の存続が困難になり、店は閉鎖された。

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終戦後間もない昭和20年の暮れに、浅井氏の友人で建物を託されていた中国人料理人・于永善氏により、現在の中華料理店「東華菜館」が創業、現在に至る。

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建物の設計は、関西を中心に活躍していた米国人建築家のW・M・ヴォーリズ(1880~1964)。

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住宅や教会、教育施設の設計が多いヴォーリズの建築の中では、商業建築は珍しい。同じくヴォーリズ設計の商業建築である大阪の大丸心斎橋店と同様、内外装には濃厚な装飾が施されている。

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スペイン風を基調に、過剰気味な装飾が施されたスパニッシュバロック様式。
スパニッシュ様式の建築はこの時期の邸宅などに多く見られるが、スパニッシュバロックは珍しい。

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高瀬川側に面した背面。

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エレベーターの機械室を利用して設けられている塔屋。基壇部分にエレベーターの機械を納めているという。

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モザイクタイルで彩った小ドームを戴く。モザイクタイルで飾ったドームは、静岡市庁舎など他のスペイン風建築でも見られる。

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正面玄関まわりはテラコッタで賑やかに飾っている。

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レストランであるためか、山羊の頭に魚やホタテ貝などの動物の装飾が組み入れられている。また玄関内部の風除室上部には、一対のタコがレリーフとなっている。

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東華菜館で有名なのが、現役で人を乗せて稼働するものとしては日本最古とされているエレベーター。大正13年(1924)米国OTIS社製で、運転手が操作して昇降させる手動式。

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4階客席。もとは宴会場として作られた大広間。

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照明器具が中華風に変わっている点を除けば、天井や壁の装飾は創建時と殆ど変わらない。

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窓からは南座の大屋根が見える。

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(参考)
東華菜館ホームページ「東華菜館の歴史」

第568回・旧日本勧業銀行松本支店

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長野県松本市の旧日本勧業銀行松本支店は、昭和12年(1937)竣工。
長野県内に現存する戦前の銀行建築の代表格と言える存在。国登録有形文化財。

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竣工当初の姿。上部は現在よりも装飾的であったことが分かる。
設計は日本勧業銀行営繕課。

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現存する旧日本勧業銀行の店舗は弊ブログで以前取り上げた旧本店(現在は千葉市稲毛区に移築)、及び徳島支店、そして台湾の旧台北支店ぐらいで、その数は多くない。

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銀行店舗としては、その後第一勧業銀行松本支店、みずほ銀行松本支店と名称を変えつつ平成15年まで使用されていた。

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店舗統合により土地建物は売却されることとなり、建物は存続の危機を迎えるが保存を求める市民も多かったという。

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最終的には建物はレストラン兼結婚式場の一部として、補強改修の上保存活用されることとなった。平成19年には国登録有形文化財となっている。

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建物を最も特徴づけている、放物線を描いた窓。

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国宝・松本城へ至る道沿いに建つ。

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目立つ建物ではないが、品格が漂う建物である。

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近年の金融機関再編等による店舗統廃合の中で、前回の旧十六銀行徹明支店と同様に取り壊しを免れ、新たな用途を得て再利用された、実に幸運な建物と言える。

第567回・旧十六銀行徹明支店(旧岐阜貯蓄銀行本店)

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岐阜市の中心街に残る数少ない近代建築のひとつがこの旧十六銀行徹明支店。
昭和12年(1937)の竣工。

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設計は大正から昭和初年にかけて第一銀行建築課長として第一銀行本支店の設計を行った西村好時(1886~1961)とされる。第一銀行退職後自らの設計事務所(西村建築事務所)を開いていた時期の作品。施工は竹中工務店。

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建物の前を横切るアーケードについて景観面だけから言えば、以前弊ブログで紹介した浜松市の静岡銀行浜松営業部のように、撤去したほうがよいと思う。(そもそも、このような歩道のアーケードは無いとそんなに不便を生じるのかという疑問はある)

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独立後の西村好時設計による同時期の銀行建築では、台湾の台湾銀行本店などが現存する。
(弊ブログ第533回「台湾の日本統治時代建築(台北編)」で紹介)

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当初この建物を建てた岐阜貯蓄銀行は、以前別記事で参照させて頂いた「銀行変遷史データベース」によれば、明治28年に設立、戦時下の昭和18年に十六銀行に吸収合併されたとある。

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明治10年創立の十六銀行は、岐阜県下最大の地方銀行で、創業以来同一屋号で営業を続ける銀行としては新潟県の第四銀行に次いで古い歴史を有する銀行である。

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以前取り上げた旧久保田外科医院と同様、岐阜市都市景観重要建築物に指定されている。

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銀行店舗としての役目は終えており、平成19年から「じゅうろくてつめいギャラリー」として再利用・解放されている。

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比較的簡素な外観に対し、内部は精緻な装飾のある吹き抜けの天井など、華やかな空間が広がっている。

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銀行店舗の統廃合により、全国各地で銀行店舗の近代建築が解体される事例が多く見られる中で、銀行所有のまま別用途での保全・再利用を図る例は極めて珍しい。高く評価されてよいのではないだろうか。

第566回・旧渡邉千秋邸

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長野県茅野市の蓼科高原山中、蓼科湖を望む場所に建つ明治の洋館。
明治・大正期の官僚・政治家で、宮内大臣などを務めた渡邉千秋(1843~1921)伯爵の邸宅として明治38年(1905)に東京・高輪に建てられた。昭和37年に洋館部分のみ現在地に移築されている。

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旧渡邉千秋邸洋館は、ホテルや企業の保養施設が点在する蓼科高原でも外れと言ってよい奥地にひっそりと建っている。舗装もされていない山中の細い道をしばらく行くと、華麗な洋館が突然現れる。

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高輪にあった当時、洋館は広大な日本館に隣接して建っており、日常生活は全て日本館で営まれていた。洋館は外国人の賓客を招いてのパーティーなど接客専用の建物で、年に数回使う程度であったという。

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戦後、旧渡邉邸の敷地を取得したトヨタ自動車によって洋館のみ現在地に移築、現在までトヨタ記念館として保存している。

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創建当初、左手には壁・天井が総ガラス張りの温室があったが、移築時には既に現存していなかったようである。
温室が描かれた立面図が現存しており、東京都立図書館のホームページで紹介されている。

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渡邉千秋伯爵の生誕地は、蓼科高原から程近い諏訪藩(現長野県岡谷市)である。
但し蓼科高原に旧渡邉邸洋館が移築されたのは、トヨタが蓼科高原の開発に深く関わっていたためで、単なる偶然であったようである。

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洋館の設計は木子幸三郎(1874~1941)。
木子家は代々宮中出入りの棟梁を務めており、父は宮内省内匠寮技師で明治宮殿などを手掛けた木子清敬、また弟は旧久松定謨伯爵邸(萬翠荘)や、愛媛県庁などを設計した木子七郎。

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木子幸三郎は住友財閥の建築部門である住友臨時建築部を経たのち、明治から大正にかけての間宮内省に奉職、高輪プリンスホテルとして今も現存する旧竹田宮邸洋館など、皇室関係の建物を多く手掛けている。

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階段室のステンドグラス。ステンドグラスは階段室を始め各所に用いられており、最初期の日本人制作によるステンドグラスとして知られている。

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現存するハーフチンバースタイルの洋館では、外観・内装ともに最も濃密な意匠が施されており、価値が高い貴重な建築物である。

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なお残念ながら一般公開はしていないので、敷地外から眺めるだけである。

第565回・旧川崎銀行千葉支店

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千葉市の中心街に残る数少ない近代建造物である旧川崎銀行千葉支店は、中央区役所と千葉市美術館が入居している建物に覆われるような形で保存されている。岩手県の中尊寺金色堂と同じく「鞘堂」方式で近代建造物の保存を図った珍しい事例と言える。

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中央区役所・千葉市美術館の全景。平成7年(1995)の竣工。
一見すると、全くの現代建築である。

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下層部の列柱の間を見ると、古典様式の銀行建築が内包されていることが分かる。

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昭和2年(1927)に竣工した旧川崎銀行千葉支店である。
先代の建物が関東大震災で焼失したため再建されたもので、設計は横浜の旧川崎銀行横浜支店や、大阪の旧川崎貯蓄銀行福島出張所など、川崎財閥の建築を多く手掛けた矢部又吉と推測されている。

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千葉市の中心街に残る極めて数少ない近代建築であり、千葉市指定有形文化財となっている。

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正面玄関上部に残る旧川崎銀行のマーク。温泉マークではない。

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獅子の取っ手が付いた正面玄関の鉄扉。

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昭和18年に川崎銀行が三菱銀行に吸収された後は、三菱銀行千葉支店として昭和46年まで使用されていた。
その後千葉市が取得、平成2年まで中央地区市民センターとして使われていた。

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中央区役所と千葉市美術館を新築するに際し検討が重ねられた結果、全国的にも珍しい鞘堂方式での保存が為されることになった。

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この方法では外観はほとんど見えなくなるが、内部空間はそのままの形で、復元や再現ではない、本物を残すことができる。

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2層吹き抜けの旧営業室は細部まで装飾が施されており、格調高く仕上げられている。

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ブロンズでできたギャラリーの柵や円柱の柱頭飾りは、戦時中の金属回収で失われていたので、保存工事に際して復元されたもの。

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彫刻を施した持ち送り。

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床のモザイクタイル。

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扉や窓枠など建具類も古いものがよく残されている。

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現在、この旧営業室は「さや堂ホール」として各種催事に利用されている。

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外壁だけの保存や移築保存、一旦解体した上での復元保存などと同様、このような形の保存も諸々意見のあるところとは思うが、建物自体は本来の場所で、完全な形で保存されていることは喜ばしいことである。

第564回・旧三笠ホテル

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前回取り上げた旧徳川慶久・徳川圀順両公爵の別邸の近くにある旧三笠ホテルは、明治39年(1906)から昭和45年(1970)まで営業していた三笠ホテルの建物の一部を軽井沢町が保存・公開している施設である。日本人の設計施工による純洋式ホテルとして、国の重要文化財に指定されている。

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三笠ホテルは東京帝大農学部卒で、日本郵船や明治製菓の重役を務めていた山本直良(1870~1945)によって創業されたホテルである。軽井沢に25万坪の土地を求めた山本は当初牧場経営を計画するが、土地が適さないことからこれを断念、代わってホテル経営を計画する。

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万平ホテル主人の佐藤万平(初代)を監督に迎え、同じく万平ホテルの建物(現在の建物の先代)を明治35年に完成させたばかりの棟梁・小林代造の施工で明治37年に着工、翌年に竣工する。

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設計は岡田時太郎(1859~1926)。辰野金吾の下で日本銀行本店建設工事に従事した経歴を持ち、後年は満州で事業家として活躍した建築家である。なお茨城県牛久の牛久シャトーの設計者でもある。

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徳川公爵家、細川侯爵家など貴顕の別荘群にも近い三笠ホテルは近衛文麿、大隈重信、澁澤榮一などが利用、「軽井沢の鹿鳴館」と称されるが経営は赤字続きであったという。

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大正14年には山本直良は経営から手を引き、明治屋社長の磯野長蔵(1874~1967)が後を引き継ぐ。その後も赤字経営は変わらなかったが、磯野は三笠ホテルを所有すること自体に深く満足していたという。

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昭和16年から始まった大東亜戦争の戦局が日本に不利となり、米軍の空襲が迫ると、万平ホテルがソ連、トルコ、ドイツ大使館などの疎開先となるなど、軽井沢は各国大使館・公使館の疎開先となった。三笠ホテル内には外務省軽井沢出張所が置かれ、ホテルは昭和19年から20年まで休業する。そして敗戦後は全国各地のホテルと同様、米軍に接収される。

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昭和27年に接収解除後、万平ホテルに勤務する山名傳兵衛が支配人となり「三笠ハウス」と改称して再開。昭和45年に廃業・閉鎖されるまで使われた。廃業後建物は日本長期信用銀行(現新生銀行)の所有を経て軽井沢町に寄贈される。なお、その間に建物の曳家及び修復工事が行われている。

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昭和55年に国指定重要文化財となる。同58年より一般公開が始まった。
現在では軽井沢でも代表的な観光名所のひとつとなっている。

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中央に設けられた玄関を入ると目の前に階段があり、ホテルの玄関としては狭い感じがするが、実際竣工後間もなく、玄関を移している。

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旧ロビー。廃業後の修復工事までは、奥の窓の部分が玄関になっていた。

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フロントのカウンターが残されている。

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旧ロビーのシャンデリアは創建時からのもの。

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旧ロビーの暖炉。

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カーテンボックスに施された三笠ホテルのマーク。
山本直良の義弟で画家の有島生馬(1882~1974)がデザインしたもの。

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現在残されている建物は、全体の半分程度であるが、現存する部分の中では旧ロビーが最も重厚な造りの部屋である。

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古写真を見ると、玄関がロビーから直接出入りできるように改造されていたことが分かる。
なお、ホテルの前には、万平ホテルのステンドグラスに描かれている車と同じような流線型の自動車が並んでいることから、写真は昭和10年代の撮影と思われる。

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展示されている創建当初の形を再現した模型。玄関ポーチの形が異なる。
本館の背面には渡り廊下で繋がれた浴室棟、正面向かって右手には平屋建の食堂及び酒場、その後ろには厨房があった。

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現在は本館以外は残念ながら残されていない。

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ロビー以外の部屋や廊下の天井には皮付きの丸太が用いられており、このホテルの内装の大きな特徴である。

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階段室を見上げる。

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階段室前から望む二階廊下。

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客室。電燈や水洗便所を導入し、英国製カーペットなど、当時最新鋭・最高級の設備と備品が用意されていた。

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客室の暖炉。同時期のホテル建築である奈良ホテルと同様、すべての客室に暖炉がある。

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日本に現存する洋式ホテルの遺構としては、旧三笠ホテルは札幌の豊平館に次ぐ古いものである。

第563回・旧徳川慶久別邸

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明治半ばより欧米人によって避暑地として発展した軽井沢であるが、当初この地に建てられた別荘建築の大半は民家を改装した簡素なものであった。大正時代に入ると、日本初の住宅建築専門会社「あめりか屋」による和洋折衷の日本人貴顕富豪向け別荘が多く建てられた。今回紹介する旧徳川慶久別邸は、その中でも初期のものである。

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夏季は観光客で賑わう旧軽井沢界隈でも奥に広がる三笠通り周辺は大正期に旧大名家など華族や政財界人の別荘が立ち並んだ。写真の道路は旧細川侯爵家の別荘があったことから「細川レーン」と称されている。

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細川レーンに面して今も建物が昔のまま残る別荘として、旧徳川慶久別邸と旧徳川圀順別荘がある。いずれも非公開で、丘の上に建つ旧徳川圀順別荘は外観すら見ることはできないが、旧徳川慶久別邸は道路から外観を見ることはできる。

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旧徳川慶久別邸は、最後の江戸幕府将軍として知られる徳川慶喜が、明治維新後徳川宗家から別家として改めて公爵を授けられたことによって始まる徳川慶喜公爵家の2代目当主・徳川慶久(1884~1922)によって大正5年(1916)に建てられた。

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多才多趣味な徳川慶久公爵は、軽井沢の別荘ではゴルフを楽しんだが、別荘建築から6年後の大正11年に37歳の若さで急逝する。第二次大戦後は相場師として名を馳せた実業家・山﨑種二(1893~1983)の所有となり、現在は山﨑種二が設立した会社の所有となっているようである。

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冬季明けでまだ閉鎖中なのか、一階の窓や扉は全て板で塞がれている。

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設計を手掛けたあめりか屋については、以前弊ブログにて、同じ軽井沢に現存する旧市村家別荘の設計者として取り上げているので、こちらの記事もご参照頂きたい。
第169回・旧市村家別荘(旧近衛文麿別荘)

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旧市村家別荘は外壁を全面下見板張りとするが、旧徳川慶久別邸は一階は下見板張り、二階は粗いモルタル塗りと仕上げを分けた外観が特徴である。また急勾配の屋根や張り出したベランダで変化に富んだ外観は、アメリカンヴィクトリアン様式を取り入れたものである。

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こちらは旧徳川慶久別邸と異なり、門しか見えない旧徳川圀順別荘。戦後田中角栄の別荘となったことで有名である。平成19年に国登録有形文化財となり、門には「田中角栄記念館軽井沢分室」の表札が掛かるが一般公開はされていない。一時期、一般公開も検討されたようだが、今のところ公開される様子はない。

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冬枯れの時期なので木立の間から遠景でも見えないかと思って行ってみたが、無駄だった。
なお、「監視カメラあり」などという物々しい警告看板もあるので、ご注意。

※門だけ見せて記事を終わらせるのは申し訳ないので、建物の外観を見たい方は下記をどうぞ。
外観の写真があります。
①広報かるいざわ 平成21年11月号表紙
②公益財団法人八十二文化財団 信州の文化財「旧田中角栄家別荘」
③「軽井沢新聞社編集部の記者ブログ 豪華別荘を取材」平成20年10月10日付記事

第562回・軽井沢万平ホテル

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軽井沢万平ホテルは明治27年(1894)創業の我が国有数の老舗ホテルである。建物も昭和11年(1936)竣工の本館(アルプス館)が今も現役で使われており、昭和初期のリゾートホテルの姿を今に伝えている。

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万平ホテルの起源は、江戸時代後期の明和元年(1764)頃、中山道の宿場町であった軽井沢で佐藤万右衛門によって開かれた旅籠「亀屋」に遡る。明治以降、軽井沢は宿場町としては衰退するが、間もなくその冷涼な気候から、欧米人によって日光などと共に、恰好の避暑地として注目されることになる。

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亀屋の当時の主人・佐藤万平(1850~1918)により欧米人相手のホテルとして「亀屋ホテル」が明治27年に開業する。間もなく欧米人には「亀屋」は発音しにくいとして屋号を「萬平ホテル」に改め、さらに現在の「万平ホテル」に改める。同35年には現在地に新築移転する。

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昭和11年には二代目佐藤万平(1868~1958、初代万平の娘婿・佐藤国三郎)によって、現在の建物に建て替えられ、その後増改築を繰り返し現在に至る。

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設計はドイツへ留学し建築を学び、日光の金谷ホテル別館も設計した久米権九郎(1895~1965)による。
信州佐久地方の養蚕農家をベースに、欧州の山荘の趣を加えたような外観が特徴である。

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田中角栄、ジョン・レノン、池波正太郎など各界の著名人に利用されてきた、現在アルプス館と称されている本館の建物は、平成19年には経済産業省の近代化産業遺産に認定されている。

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ロビー。内装も和風をベースとした比較的シンプルなもの。

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玄関を入ってすぐ奥にあるのが、折り上げ格天井と軽井沢の今昔を描いた大ステンドグラスが特徴のダイニングルーム。ステンドグラスの一部が見える。

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ロビーの暖炉まわり。

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暖炉周りも和風意匠で統一されている。

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ジョン・レノンも家族と共に利用していたカフェテラス。

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階段室のステンドグラスは、ホテルの原点である「亀屋」の亀。

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建物と共に作られたと思われる衝立のステンドグラス。

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カフェテラス入口脇のステンドグラスは、宿場町時代の軽井沢と浅間山。

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軽井沢の今昔を描く、ダイニングルームと廊下の間に嵌め込まれた大ステンドグラス。

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煙を噴き上げる浅間山。

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その浅間山を背景に、大名行列が街道を進む軽井沢旧景。

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現代の軽井沢。といっても、昭和11年当時における「現代」。

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当時大流行した流線型の自動車が描かれている。

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(参考)万平ホテルホームページ
http://mampei.co.jp/earlydays.html

第561回・旧真壁小学校奉安殿

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奉安殿とは、御真影(天皇皇后両陛下の肖像写真)と教育勅語を納めた建物を指す。戦前までは全国の学校に設置されていたが、敗戦による占領政策で多くは解体撤去された。茨城県桜川市に残る旧真壁小学校奉安殿は、現在まで残されている数少ない貴重なものである。

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奉安殿から筑波山を望む。
茨城県桜川市(旧真壁町)の真壁地区は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、弊ブログでも以前、地区内唯一の洋風建築である旧真壁郵便局を取り上げている。

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この奉安殿は、かつては真壁町立真壁小学校の正門脇に建っていたものである。
昭和初年の創建と考えられる。

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木造で伝統的な社寺建築の意匠が多かった奉安殿の建築としては珍しく、コンクリート造りで洋風意匠を施した外観を持っている。

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紀元節・天長節・明治節(現在の建国記念の日・天皇誕生日・文化の日)と新年の4つの祝日には、奉安殿の前に教職員と生徒全員が参列して御真影に最敬礼するとともに、教育勅語の奉読が行われていた。

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敗戦後は全国で多くの奉安殿が撤去される中、壊すに忍びないと考えた個人によって、二週間かけて現在地までソリで運ばれたという。

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その後、現在の所有者によって現在まで、毎年伊勢神宮及び皇太神宮のお札を祀りながら保存されてきたという。

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細部に洋風建築の装飾を見ることができる。

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奈良の旧奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)内にも、洋風意匠を施した旧奉安殿が現存している。

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現在も個人の篤志により大切に保存されている。

第560回・南高橋(旧両国橋)

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南高橋(みなみたかばし)は、東京都中央区の亀島川に架かる橋である。
関東大震災により架け替えられることになった明治37年(1904)架橋の両国橋の一部を再利用して、昭和7年(1932)に架けられた。

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東京都内に残る鋼鉄トラス橋としては二番目に古く、自動車の通れる河上の橋としては都内最古である。

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当初両国橋として架けられたときは3連トラス橋で、現在、南高橋として現存するのはそのうちの1つを移設・再利用したものである。

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また、現在明治村に一部が移設保存されている旧新大橋と同様、装飾的な欄干や照明灯もあったがこれらは移設されていない。現在の欄干はごくシンプルなものである。

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両国橋時代の写真は、Wikipediaで見ることができる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Ryogoku_bashi_old.jpg

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関東大震災に際しては火災で一部損傷したものの、橋本体には大きな損傷はなかったようであるが、一連の隅田川の橋梁復興工事で、現在の橋に架け替えられることになり、一部が南高橋として再利用されることになった。

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橋の両脇に立つ装飾塔。
先日紹介した東京都復興記念館には、旧両国橋の橋名板と装飾塔2基が保存されている。
即ち現在の装飾塔は少なくとも2基は新たに作られたものと思われる。

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東京都復興記念館に保存されている旧両国橋の装飾塔。

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現在の南高橋の装飾塔。
比較すると微妙に異なっているような気がする。現在のものは4基とも南高橋として架橋する際に新製されたものかも知れない。

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何はともあれ、現役で今も使われている、貴重な明治の鉄橋であることに変わりはない。

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南高橋は、中央区の有形文化財に指定されている。

第559回・旧久保田外科医院

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岐阜市内に残る昭和初期建築の旧医院。現在は住居として使われている。

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岐阜市の中心街から少し離れた長良川の近く、古い町家や寺院が点在する旧高富街道沿いに建っている。
昭和9年(1934)頃に建てられたとされている。

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岐阜市より都市景観重要建築物の指定を受けている。

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スパニッシュ風を加味した、ロマネスク教会風の正面外観が特徴である。

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正面と側面にある円窓。

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玄関は深くくぼんだアーチやねじり柱など、スパニッシュ風。

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全体的にシンプルな建物であるが、玄関まわりはタイルやステンドグラスで飾る。

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洋風に造られているのは前面だけで、奥は和風の居住空間になっているようだ。

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小さいがとても美しい洋館である。

第558回・南座

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東京では今日、五代目歌舞伎座の開場が話題となっていた。
高層ビルと劇場を一体化させた五代目歌舞伎座は、劇場部分の外観は昭和26年に竣工した四代目歌舞伎座を忠実に再現することで建物の歴史を引き継ごうとしている。それに対して京都の南座は、設備等の更新を行いつつも、建物自体は古いものをそのまま残している。今回はその南座の建物を紹介したいと思う。

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京都の四條河原は、慶長8年(1603)に出雲の阿国によるかぶき踊りが行われた、歌舞伎発祥の地である。
元和年間に、京都所司代板倉勝重により設置が許された7つの芝居小屋が四條河原に設けられた。そのうち今日まで続いているのは南座のみである。

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現在の南座の建物は昭和4年(1929)の竣工である。設計施工は地元京都の白波瀬工務店。
昭和3年12月末に前の建物を解体、翌昭和4年1月22日地鎮祭、11月20日竣工と施工期間は303日という驚異的な突貫工事であった。これは顔見世興行の合間を縫って新劇場を開場させるためであったという。

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南座の改築工事が行われた昭和3~4年当時は、全国的に不況が深刻な時代であったが、京都では昭和天皇即位の御大典が開催されるなど、活気があった時期である。
なお、写真右手の部分は後年の増築である。

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鉄骨鉄筋コンクリート造五階建の劇場建築は、当時としては例のない大規模なものであった。なお、大正13年に竣工した歌舞伎座(今度完成した歌舞伎座の先々代の建物)は和風意匠を持つ鉄筋コンクリート造の劇場として、南座の改築に大きな影響を及ぼしたと考えられている。

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伝統的な和風意匠を外観に取り入れつつも、設備は当時最新のものが設置され、歌舞伎劇のみならず映画や新劇にも対応できる近代的な劇場建築であった。昭和10年には冷房設備が導入され、京都では最初の試みであったという。平成3年に大規模な改修工事が施されたが建物はそのまま残された。

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松竹が所有する歴史的建造物の劇場は3件(東京歌舞伎座・京都南座・大阪松竹座)あったが、歌舞伎座は改築の上新劇場で外観復元、松竹座は正面外壁のみを残して改築されており、現在もそのまま残るのは南座のみ。
平成8年には、国による登録有形文化財制度の京都府下における認定第1号に選ばれた。

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エントランスホールの梁や柱には、伝統的な社寺建築の装飾をコンクリートで再現した典型的な近代和風建築の特徴を見ることができる。壁の大理石は改修時のものだが、天井や梁の装飾、照明器具は昔の形を残している。

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なお、不覚にもカメラのバッテリーが切れたため、本記事の写真の大半は携帯による撮影。
そのため内部写真はイマイチなものが多いが、機会があれば後日差し替えさせて頂きたいところである。

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劇場内部。敷地が広くないことから高層化された結果、和風意匠を纏いつつも、空間構成は欧米式のオペラ劇場の様な底の深いものになっている。

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南座では登録有形文化財である建物の公開も定期的に行っており、舞台に立つこともできる。

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天井は吹き寄せ折り上げ格天井(二本の竿を交差させた折り上げ格天井)になっている。
舞台上部に唐破風を載せるのは、江戸時代の芝居小屋の形式を踏襲したもの。

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設備の更新や座席数の減少などの改修が加えられているが、天井や欄干の意匠は昭和4年当初からのものが、ほぼ変わらず残されている。

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人造石研ぎ出し仕上げの階段手摺は、昭和初期のモダン建築といった趣。

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階段手摺に穿たれた円の中に嵌め込まれた装飾。

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照明器具にも昭和初期の形を見ることができる。
玄関ロビー。

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2階ロビー。

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再び、玄関ロビー。

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劇場内部の釣り燈籠風照明。

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以前弊ブログにて大阪松竹座を取り上げたときに、歌舞伎座は中途半端なイメージ再現に終わりそうだと悪口を書いたが、この度出来上がったものを見る限り、前言は取り消すべきと思っている。三代目及び四代目歌舞伎座の意匠が忠実に踏襲されたと言える五代目歌舞伎座については、弊ブログで改めて取り上げる予定である。

(本記事の参考資料)
・南座パンフレット
・近代和風建築[上巻] 伝統を超えた世界 平成10年 建築知識刊

第557回・清洲寮

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東京の深川、以前紹介した清澄庭園(旧岩崎家深川別邸)の近くに、今は無い同潤会アパートを思わせる古い鉄筋コンクリート造の集合住宅が建っている。

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この建物は清洲寮という個人所有のアパートで、現在も大切に使われている。

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欧米の集合住宅を範に個人が建設したアパートとのことで、同潤会とは無関係のようである。

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昭和8年(1933)竣工で、設計施工は大林組。

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細部の造りを見れば、戦後に建てられた集合住宅とは異なることが分かる。

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腰壁に貼られたスクラッチタイル。

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床にはモザイクタイル。

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何と内部の建具は現在も木製。

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壁はきれいに塗り替えられているが、歴史を感じさせる右書きの「二階」表示などは塗りつぶさないようにしており、所有者や住人のこだわり、愛着が窺える。

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長屋のような格子戸の出入口を持つ部屋もある。

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一階には店舗やガレージがある。

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驚くべきはガレージの壁。
戦前のものと思われる注意書きがそのまま残されている。

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真っ黒に煤けているのは東京大空襲の痕跡だろうか。
なお空襲に際して建物自体は、隣接する小学校のプールの水を使った消火活動によって難を免れたという。

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今となっては極めて珍しい、現存する上にかつ現役の、戦前建築の集合住宅である。

(注)二階など街路から見えない部分も一部撮らせて頂きましたが、今も多くの住人が住まわれている集合住宅なので訪問される場合は適宜ご配慮願います。
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