第624回・旧小出収邸

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現在は東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築、公開されている旧小出邸は、実業家小出収(1865~1945)夫妻の住居として、大正14年(1925)に現在の東京都文京区西片に建てられた。建築家の堀口捨巳(1895~1984)の最初期作品としても知られる。

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ピラミッド状の瓦屋根が特徴。門や柵、西片町にあった頃の写真と比べると、植え込みまで移築前の佇まいを再現しているようである。

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玄関ポーチ。

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玄関の壁板は手斧仕上げ。

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書斎。
数寄屋建築とモダンデザインの融合を得意とした堀口捨巳の作風がよく現れたこの部屋は一番の見どころ。

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書斎入口脇に設けられた釣り棚。

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通常の洋間であれば暖炉を置くところをタイルで畳んだストーブ置き場を設ける。
建築探偵の藤森照信氏に言わせれば「枕屏風」のイメージ。

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シンプルながらも板壁や色調に重厚さがみられるデザインの食堂。

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藤森照信氏曰く、「和室の造りはすごく下手クソ」

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確かに素人目に見ても、名古屋の老舗料亭である八勝館の「御幸の間」(昭和25年)など、多くの和風建築の名作を生み出した建築家の手掛けた座敷とは思えない。

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二階、屋根の勾配部分を利用した納戸。

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(参考資料)
「歴史遺産日本の洋館 第四巻 大正編Ⅱ」藤森照信・増田彰久 平成15年 講談社刊
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第623回・旧秩父宮御殿場御別邸(秩父宮記念公園)

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静岡県御殿場市にある秩父宮記念公園は、かつての秩父宮御殿場御別邸を整備・公開しているものである。
邸内には江戸時代の庄屋の館を昭和の初めに移築改装した母屋などが残されている。

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主屋の建物は、元々御殿場市深沢の庄屋小宮山家の住宅として享保8年(1723)に建てられたものであるが、昭和2年(1927)に日銀総裁や蔵相を務めた政治家の井上準之助(1869~1932)が購入、現在地に移築改装し洋室などを備え別邸として使っていたが、昭和7年の血盟団事件で井上は暗殺される。

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その後昭和16年、肺結核を患い闘病生活を送られていた秩父宮雍仁親王(1902~1953)の転地先として井上家別邸が選ばれ、療養室の別棟などが増築され秩父宮家別邸として使われる。雍仁親王は昭和27年1月に藤沢市の鵠沼に移られるまで勢津子妃(1909~1995)と共に御殿場で約10年に亘り過ごされている。

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雍仁親王は昭和20年8月15日の玉音放送を、弟である高松宮宣仁親王と共にこの別邸で聴かれた。
戦後は皇室と国民との懸け橋となるべく、積極的な言論活動に取り組まれると共に、地元の成人式や高校の卒業式で祝辞を述べられるなど地元との関わりも深められた。

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昭和19年に東京赤坂の秩父宮家本邸から移設された、朝倉文夫制作による雍仁親王の登山姿の銅像。
登山のほかスキーなどスポーツを好まれたことから、「スポーツの宮様」として親しまれた雍仁親王は、病状が快癒されないまま昭和28年、50歳で薨去。御殿場の別邸はその後、勢津子妃が夏季を中心に利用されていた。

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勢津子妃が平成7年に薨去されると、遺言により別邸は御殿場市に寄贈、公園として開放されることになり現在に至る。邸内にある写真の四阿(あづまや)は、勢津子妃によって来客をバーベキューでもてなす際に使われていたという。

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母屋は、玄関を入った土間の部分は煉瓦造りの暖炉を備え、窓にはステンドグラスを嵌めた重厚な洋室に改装されているが、座敷や囲炉裏のある部分は移築前の姿を残していると思われる。大正から昭和初年には富裕層の間で古民家を移築改装した別荘を建てることがしばしば行われたが(軽井沢の三五荘など)、この建物もそのような事例の一つと言える。

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母屋の洋室は井上準之助の別邸として移築されたときに造られたものと考えられるが、家具調度類は雍仁親王の愛用品が机上の小物に至るまでよく残されている。

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なお内部は撮影禁止の為、残念ながら写真は無いがこちらのサイトで見ることができる。煉瓦造の暖炉を備えた洋間が素敵。
しずおか近代和風建築さんぽ 秩父宮記念公園母屋
http://kindaiwafu.eshizuoka.jp/e1020555.html

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平成12年に「旧秩父宮御殿場御別邸」として御殿場市指定文化財に指定されている。

(参考資料)
JTBキャンブックス「皇室の邸宅」平成18年 鈴木博之監修
秩父宮記念公園ホームページ
http://chichibunomiya.jp/history/index.html

第622回・カトリック松が峰教会

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宇都宮市役所の近くに建っているカトリック松が峰教会は、大谷石の外観が特徴の教会。
現在の聖堂は昭和7年(1932)竣工。国登録有形文化財。

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松が峰教会は、明治21年(1888)にパリ外国宣教会のカジャック神父によって宇都宮市川向町に「宇都宮天主公教会」として創立された。

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明治28年に現在地に移転し、昭和7年に現在の聖堂が竣工した。

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設計はスイス人建築家のマックス・ヒンデルによるもので、日本における代表作のひとつである。

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内外壁に用いられている大谷石は古くから栃木県内で採掘されてきた石で、旧帝国ホテルの建材として用いられたことで知られる。松が峰教会は、現存する大谷石を用いた建造物としては最も大規模なもののひとつである。

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昭和20年7月の宇都宮空襲では外壁を残して内部を焼失するが、昭和22年には復旧工事が完了している。

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その後も設備の更新や改修を重ねながらも、創建時の姿を残しつつ現在に至る。

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平成10年には国の登録有形文化財に選定されている。

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創建年次を示す「1932」の文字が見える。

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戦災で古い街並みを失った宇都宮市では、松が峰教会は旧栃木県庁舎などと並び、市内に現存する数少ない近代建築である。

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(参考)カトリック松が峰教会ホームページ「松が峰教会の紹介」
http://www2.ucatv.ne.jp/~matumine.sea/intro.html

第621回・坂田医院旧診療所

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坂田医院旧診療所は、埼玉県熊谷市妻沼(めぬま)にある昭和初期の病院建築。
現在は熊谷市が所有・保存している。国登録有形文化財。

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産科医院として昭和6年(1931)に建てられた。

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鉄筋コンクリート造平屋建で、外壁には当時の建築物に多く見られる茶褐色のスクラッチタイルを貼る。

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現在は診療棟しか残されていないが、右手に病棟、背面に居住用の主屋等があり、それぞれ渡廊下で結合されていたという。

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かつて主屋に面していたと思われる背面はコンクリートむき出しの外壁。

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昭和50年代前半まで医院として使用されていた。

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玄関。床のタイルも昭和6年当時のままと思われる。

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受付の小窓。

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高い天井の玄関広間。
館内は、受付・調剤室、応接室、待合室、診察室、分娩室、手術室、給湯室、レントゲン室、暗室、便所から成る。

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畳敷きの待合室。円筒形の物体は陶器のストーブ。小窓は診察室に繋がっている。

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待合室天井の照明台座。

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診察室。

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壁が黒く煤けているのは、暖房用のストーブや揮発した消毒液の影響によるものではないか、との事。

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ここで使われていた医療器具などがそのまま残されている。

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手術室。
床には玄関と同じようなタイルが敷き詰められている。

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応接室にはアールデコ風のモダンな照明器具が残る。

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レントゲン室の照明器具。

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現在この建物は、ドラマや映画のロケによく使われている。

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通常は非公開であるが、8月4日までの土・日曜に内部が公開されている。
熊谷市ホームページ
http://www.city.kumagaya.lg.jp/kanko/eventinfo/sakatakoukai.html

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こちらの建物は、坂田医院旧診療所のすぐ裏手にある井田記念館。
旧妻沼町名誉町民で、ポマードの製造で成功し衆議院議員も務めた井田友平(1889~1965)の旧邸。
内部は公開されていないようである。

第620回・旧秋元別邸

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前回紹介した旧上毛モスリン事務所の斜め向かいにある旧秋元別邸。
旧館林藩主秋元家の別邸として明治時代に建てられたもの。

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旧館林城八幡郭の位置にある旧秋元別邸。

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秋元家は幕末に近い弘化2年(1845)、館林藩最後の藩主として山形藩から入封。二代目藩主の秋元礼朝の代で明治維新を迎えた。

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現在残る別邸の建物は、明治時代に上毛モスリンによって建てられたと現地の解説版にはある。

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初代藩主の秋元志朝は民政に力を注ぎ藩政改革に成功を収めたというから、地元の有力企業が旧藩主のために建てたと思われるこの別邸は、かつての殿様と領民との関係が明治以降も良好なものであった証なのかも知れない。

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屋根が曲線を描いて盛り上がる起り(むくり)屋根が特徴。

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建物内部は通常公開されていないが、敷地は館林花菖蒲園の一郭として入れるので窓硝子越しに内部を覗く。

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座敷床の間。

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現地解説版によると、昭和初期には秋元氏によって東京神田駿河台の本邸から庭石と秋元社が移設、洋館が増築されたという。写真奥に写っているのが秋元社と思われる。屋敷神であろうか。

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昭和初年に増築されたという洋館。

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洋館といっても正面外壁を洋風の下見板張りにしただけで、内部は和室と思われる。

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洋館の裏にある土蔵。

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館林花菖蒲園から望む旧秋元別邸。

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菖蒲の時期に来たらよかった。

第619回・旧上毛モスリン事務所

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群馬県館林市の旧館林城二の丸跡に、明治41~43年にかけて上毛モスリン(株)の新工場が建設された際事務所として建てられた洋館。群馬県指定重要文化財。

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伝統的な尺貫法で設計された入母屋造りで和風の要素も強いが、外壁や上げ下げ窓の建具などは純然たる洋風建築である。

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館内に展示されている旧工場の古写真。
中央に旧事務所の建物が写っている。煉瓦造の工場建物は、工場が移転・閉鎖された後平成5年に全て解体されている。

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工場の取り壊しに際し僅かに残された遺構。
旧受電室の破風と窓枠の一部。

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上毛モスリン(株)は、館林の伝統的産業である機織業を活かして、明治29年に毛布織合資会社として設立された。明治35年に上毛モスリンと改称後、明治末年には旧館林城跡に近代的な大工場を設置し大正中期には最盛期を迎える。

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しかし大正末年に上毛モスリンは倒産、工場はその後様々な会社に使われるが、平成4年に神戸生絲(株)の工場移転に伴い80有余年の歴史に幕を下ろした。

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旧事務所は昭和53年に館林市が取得、建物は約600メートル曳家移転して現在地に保存された。
和風と洋風が混在したユニークな建物であるが、背面にも珍しい造りが見られる。

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木造の建物に煉瓦造の建物が一部飛び出したような造り。この煉瓦造の部分には、金庫室と文書庫が入っている。

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別棟で煉瓦造の金庫や文書庫を設ける例は多いが、木造の建物と一体化しているのは珍しい。

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背面側から見た旧事務所の側面。

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玄関ポーチの切妻部分は曲線を多用し、アールヌーボー風。

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玄関内部には受付用の小窓がある。

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装飾を施した角柱が並ぶ一階事務所。

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煉瓦造の張り出し部分は事務所内部から見るとこのような感じになっている。
右が金庫、左が文書庫。

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階段親柱や手摺も立派な洋風建築の造りである。

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二階の応接用と思われる部屋。

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二階は上記の部屋と写真の大広間がある。

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大広間の照明台座。

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現在旧上毛モスリン事務所の建物は、館林市第二資料館の施設のひとつとして公開されている。

第618回・埼玉県立深谷商業高校記念館

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以前、第535回記事(旧大谷藤豊邸)でも少し触れた埼玉県深谷市の県立深谷商業高校記念館(大正11年(1922)竣工、国登録有形文化財)の改修工事が終わったので見に行ってきた。

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工事中の写真と完成予想図(第535回記事の写真を再掲)

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完成後の姿。

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「二層楼」の別名もある。
改修直前は赤とピンク色に塗られていた外壁は、改修に伴う調査で判明した創建当初の色調に戻された。

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深谷商業高校の創立は、大正10年に町立深谷商業学校として設立(2年後に県立に移行)された事に遡る。

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校舎は創立の翌年大正11年に、同校の設立に深く関わった地元の名望家当主・大谷藤豊(のち深谷町長、埼玉県議)が自ら所有する土地に私財を投じて建設したものである。

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新校舎の完成後は記念館として保存され、平成12年には国登録有形文化財となったが、近年は老朽化が進んでいたため平成23年から改修工事が進められていた。

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玄関ポーチや両翼の半円形の破風飾りなどに、大正期特有のデザインが施されている。

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改修前は中央の破風飾り内に放射線状の飾りがあった(上記写真の完成予想図にも描かれている)が、無くなっている。後年の改造だったのか?

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埼玉県下には同時期の学校建築として旧松山中学校校舎(現松山高校記念館)があるが、こちらは中央部分のみの保存となっているのに対し、旧深谷商業学校は建物全体が残されている。

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現存する大正期の学校建築として、全国的にみても優れたもののひとつだと思う。

第617回・旧古河鉱業会社足尾銅山掛水重役役宅

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栃木県の旧足尾銅山には、古河鉱業会社(現・古河機械金属)足尾鉱業所の幹部社員用に明治末年に整備された社宅群が現存している。平成22年に旧所長役宅など6棟が栃木県指定有形文化財に指定、現在そのうち3棟が公開されている。

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わたらせ渓谷鉄道(旧足尾鐵道)の足尾駅前、掛水地区と呼ばれている一郭に旧役宅群はある。
その隣には以前紹介した掛水倶楽部がある。(掛水倶楽部については弊ブログ第16回記事を参照頂きたい)

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掛水倶楽部の正面右手に旧役宅群が現れる。

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現地に設置されている解説版の古写真。左手の洋館は明治44年に建てられた辰野金吾設計による足尾鉱業所事務所である。この建物は現存しないが、写真に写る建物のうち矢印を付けた二つの建物、左手の煉瓦造の事務所倉庫、右手の所長役宅が現存する。

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旧足尾鉱業所事務所倉庫。
事務所は明治40年の足尾暴動まで本山地区にあったが、暴動で焼き討ちに遭ったため、明治44年に掛水地区に新築移転したものである。

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なお事務所の建物は大正10年に足利市庁舎として売却・移築され、その後昭和40年代に取り壊された。
事務所跡地はその後役宅用のテニスコートや運動場となり、現在も広場のままで残されている。

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旧事務所跡の一郭に残る塀は、鉱滓(銅の精錬に際して生じた滓)を固めて造ったブロックを積んだものと思われる。

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写真左側が幹部職員用の役宅、右側は一般社員用の社宅と思われる。
木の電柱や砂利道、板塀など昭和中期で時間が止まった様な佇まいの家並みが広がる。

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旧所長役宅。接客用の洋室を備える。
上記古写真に写っている建物と思われる。

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旧所長役宅に隣接する旧副所長役宅も洋室を備えている。但し所長役宅よりは小規模である。
旧副所長役宅から先の3棟は非公開であるが、今後整備されていくものと思われる。

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旧所長役宅の正面。明治40年(1907)12月に竣工した。接客用空間と居住空間を並置した構成で敷地・建物規模共に最も大きい。

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門を入って正面の洋室に近い玄関は接客用玄関。

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門から右手へ入った先にあるのが日常使用するための内玄関。

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三角破風や鎧戸を備え本格的な洋風意匠を施した洋室部分の外観。

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内部は写真撮影禁止につき御紹介できないが、接客棟は洋室・和室共に充実した造りである。

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洋室を備えるのは所長・副所長役宅のみで、他の4棟は純和風で課長役宅として建てられた。少し遅れて建てられた1棟を除き所長・副所長役宅と同じ明治40年の竣工。

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一見何の変哲もない和風の住宅であるが、大正期から都市を中心に普及するようになった中廊下式の間取りが特徴。当時としては都心でもなかなか見られない最新式の住宅建築だった訳である。

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もう1棟公開されている課長役宅。現在は鉱石資料館となっており各種の鉱石が展示されている。

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戦時中は経営者である古河男爵家の疎開先に使われていたという。

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そのため、防空壕が特別に造られている。この防空壕は公開されており立ち入りも可能。

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防空壕は出入り口が二か所あり、空気を通すためと思われる細い土管も上部に設けられている。(写真左手に写っている)

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防空壕の内部。

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旧足尾銅山の産業遺産の一部として保存・整備が進められている。

(参考)
とちぎの文化財
http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/
旧古河鉱業会社足尾銅山掛水重役役宅の解説
http://www.tochigi-edu.ed.jp/center/bunkazai/2318069.htm

第616回・旧大名ホテル(日光市役所日光総合支所)

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日光東照宮に近い場所に建つこの建物は、大正年間にホテルとして建設されたものの、未完成のまま結局開業に至らなかった幻のホテルである。現在は日光市役所日光総合支所として使われている。国登録有形文化財。

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日光が皇族を始め貴顕富豪や外国人のリゾート地として賑わっていた明治末期、地元の名士であった小林庄一郎氏が外国人向けホテルとして建設を計画、大正年間に建物外部までが完成したという。

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ホテルは「大名ホテル」と名付けられたが資金等の事情で計画は頓挫、建物内部の工事も進まず、実際にホテルとして営業されることはなかったそうである。

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大東亜戦争中の昭和18年に古河電工(株)日光精銅所が買収、工員宿舎として利用されるが敗戦後は占領軍に接収され社交場として使われる。

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接収解除後の昭和24年に古河電工から日光町(当時)に寄付され、改修の上昭和27年から日光町役場として使用される。

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昭和29年にの市制施行後は日光市庁舎として長らく使われた。平成18年に今市市他周辺市町村と合併後は、本庁を旧今市市庁舎に移したため、現在は日光総合支所として使われている。

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合併、本庁移転と同じ平成18年に、建物は国登録有形文化財となっている。

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正面の外壁はモルタル塗仕上げだが、側面及び背面は下見板張りになっている。
竣工当初は正面も下見板張りであった可能性もある。

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玄関周りは和風建築に見られる、柱を露出する真壁になっており、奈良ホテルを連想させる造りになっている。

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幻のホテルは、今も行政庁舎として現役で使われている。

旧西尾家住宅「真珠亭」修復

以前取り上げた神戸市須磨区の旧西尾家住宅(西尾類蔵邸)内の離れ「真珠亭」(大正9年頃竣工)の修復が行われたとの報道がありましたので紹介します。

旧西尾家住宅の建物(主屋・真珠亭・松風閣・石炭庫・車庫)は弊ブログで紹介後間もなく兵庫県指定有形文化財となりましたが、真珠亭は以下の写真のとおり、敷地内の建物の中でも最も荒廃が進んでいた建物だけに、非常に喜ばしいニュースです。

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(旧西尾家住宅 過去の紹介記事)
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-32.html
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-31.html

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(平成25年7月10日「神戸新聞」)
http://www.kobe-np.co.jp/news/kobe/alacarte/201307/0006148003.shtml

「「真珠亭」を改修 結婚式の撮影などに利用 神戸

 神戸市須磨区の神戸迎賓館(旧西尾家住宅)内にある県指定重要有形文化財の茶室「真珠亭」が改修・復元され、10日、報道陣に公開された。所有者の意向を受け、運営するコンサルティング会社が昨年6月に着工。天井部分に天然のヨシを編み込み、伝統建築が再現された。結婚式の記念撮影場所などとして利用される。
 神戸迎賓館は、神戸の貿易商が大正8年(1919年)に邸宅として建築した。日本庭園にある真珠亭は同じく大正年間の建築とされ、約70年前まで茶室などとして使われてきたが、近年は老朽化が進んでいた。
 所有者の西尾一三さん(83)=須磨区=の「後世に残したい」という意向を受け、神戸迎賓館を運営するバリューマネジメント(大阪市北区)が改修・復元を手掛けた。
 完成した真珠亭は木造平屋約13平方メートルで、赤茶色の土壁が特徴的。西尾さんは「私が中学生のころまでは、町内の寄り合いや茶会に使われていた」と懐かしむ。「宮大工がくぎを使わずにヨシを手編みし、設計通りにやってくれた」と満足そうに語った。
 一般公開は予定されておらず、今後、神戸迎賓館での結婚式利用者向けに活用される。(上田勇紀)」

(以上、記事引用終了)

機会があれば再訪し修復後の写真をアップしたいと思いますが、見違えるようになった修復後の姿はリンク先の神戸新聞記事か、修復工事を請け負った(有)播磨社寺工務店のホームページ(施工実績)に載っているので、こちらをどうぞ。播磨社寺工務店のホームページでは室内や工事中の写真も見られます。

http://www.harimashaji.jp/db.html
(№148 県指定文化財 西尾家住宅真珠亭・車庫保存修理工事)

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神戸新聞の記事には一般公開はしないとありますが、結婚式利用者以外でも「神戸迎賓館」併設のレストランを利用すれば庭園の散策はできると思うので、外観は見られるのではないでしょうか。(記事写真も食事利用した時の撮影です)

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もうひとつの離れ「松風閣」は真珠亭ほど傷んでいないので、こちらも近い将来使われるようになるのでは?

第615回・宇都宮市今市浄水場

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栃木県日光市(旧今市市)の宇都宮市今市浄水場は、我国31番目の近代水道施設として大正5年(1916)に竣工したものである。現在も特徴的な外観の旧管理事務所など、多くの施設が竣工当初のまま残されている。

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日光東照宮へ続く旧日光街道の杉並木沿いにある今市浄水場。写真左側の緑が旧街道の杉並木。

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旧管理事務所は白ペンキ塗りの外壁に赤く塗られた鉄板葺き屋根で、最も目立つ外観。

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御影石とスクラッチタイルで仕上げた正門と、旧管理棟。

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門扉も創建当初からのものと思われる。門扉に施されたワラビ状の装飾は、大正期の建築ではステンドグラスの紋様や細部装飾などによく見られる。

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大正期らしい、ロマンチックな外観の管理事務所。

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屋根窓。

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玄関。

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側面外壁。建物全体の形は変化に富み凝っているが、細部装飾は殆ど無くごく簡素なもの。

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浄水場内部に面した側には円筒形の張り出し部分があり、浄水場を一望できる。監視用の場所という機能をお洒落な外観に結びつけたところがすばらしい。

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旧管理事務所は水道資料館として平日のみ公開されている。機会があれば、建物内部や円筒形の監視部屋がある側の外観も見たい。

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水道資料館については、宇都宮市上下水道局のホームページに案内がある。
宇都宮市上下水道局のホームページ

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管理事務所以外の施設も大正期のものが残されている。

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現在、旧管理事務所は国の登録有形文化財になっており、また浄水場施設自体も土木学会選奨土木遺産に認定されている。

土木学会関東支部ホームページにおける紹介記事

第614回・旧杉村楚人冠邸(我孫子市杉村楚人冠記念館)

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千葉県我孫子市の手賀沼周辺はかつて、以前取り上げた旧村川別荘など別荘が多く建てられていた。その中で現在一般公開されている建物には、旧村川別荘の他、昨年より新たに公開されるようになった旧杉村楚人冠邸がある。我孫子市指定有形文化財。

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明治から昭和戦前の新聞人・文筆家であった杉村楚人冠(本名・杉村広太郎 1872~1945)は、我孫子には明治45年に土地を購入、小さな小屋を建て週末を過ごしていたが、関東大震災後の大正13年(1924)に現在残る母屋を建てて昭和20年に死去するまで本宅として住んでいた。

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母屋の設計は、旧香港上海銀行長崎支店や神戸の旧トーアホテルの設計者である下田菊太郎。
これまで国内に現存する設計作品は旧香港上海銀行長崎支店のみとされてきたが、二例目が発見されたことになる。下田が耐震構造に精通していた建築家であったことから設計を依頼したものと考えられている。

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しかし竣工後間もなく至る所で雨漏りなどの不備が生じ、施主の杉村楚人冠にとって建物の出来栄えは到底満足できるものではなかったようである。結局自らその後何度も手を加えている。

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なお現在の母屋の姿は、杉村楚人冠が大幅に増改築を施した昭和4年頃の姿に復元を図ったとのことである。

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母屋竣工の翌年・大正14年に母屋に隣接して増築した新館。楚人冠の書斎やベッドルームが置かれていた。
楚人冠は母屋竣工後に下田菊太郎と手を切ったため、この新館の設計に下田は関与していない。

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昭和15年に敷地内に新築した蔵。屋根はセメント瓦が用いられている。

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母屋に戻り、洋館部分の南側を見る。
創建当初は吹き放しのベランダであったというが、昭和3年に行われた改築により、サンルームに改められた。

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暖炉の煙突。暖炉も当初は存在せず、大正15年に増設されている。

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和室部分の外観。一番奥の棟はかつては濡れ縁になっていたが、この部分は楚人冠没後に施された改築をそのまま残している。

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和室縁側及び洋館サンルームから見下ろす位置にある離れの茶室「清接庵」。昭和12年の増築。

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離れの茶室は、楚人冠の寝室としても度々使っていたようである。
なお現存しないが、風呂場も母屋から切り離された離れの形を取っていた。この配置から考えると楚人冠は風呂や寝室を母屋からわざと離して、庭伝いに行くことを好んだものと思われる。

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現存する敷地内の建物では最も古い「澤の家」。まだ別荘として使っていた大正11年にそれまでの小屋「枯淡庵」に代わって建てられた。母屋完成後は楚人冠の母親の居室として使われていた。

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「澤の家」は現在も修復整備が進められている。

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「澤の家」から母屋を望む。
広大な敷地内には、楚人冠が植えた椿を始めとする様々な植物が残る。

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洋館の内部はサロンと称される暖炉付きの洋室一間と、サンルームから構成される。

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サンルーム内部。

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家具調度や蔵書などもよく残されている。

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東京から呼び寄せた家具屋の見積額の高さに呆れて、出入りの大工に作らせた特製の書棚。
この書棚を始め、家屋内部の大型家具の配置はいずれも地震対策が入念に施されている。関東大震災で子息二人を失ったため地震対策には特に気を使ったようである。

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大正15年の改造で追加された暖炉。これも楚人冠によって設けられたもので下田菊太郎とは無関係。
この暖炉は楚人冠のお気に入りで、客人を通すにも家族団欒にも自らの寛ぎの場にも使っていたという。

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薪入れの箱に火箸や灰掻き棒、火の粉除けの金網など、附属品が一式揃う暖炉は珍しい。

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洋室から覗いた和室縁側。展示室も兼ねた和室は撮影禁止だった。

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書斎の楚人冠。

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現在の書斎。


現在、我孫子市杉村楚人冠記念館として母屋は有料公開、楚人冠の足跡を紹介している。
また庭園は無料で開放されている。

(参考資料)
「杉村楚人冠記念館解説書 楚人冠の生涯と白馬城」(館内販売資料)

南海電鉄浜寺公園駅・諏訪ノ森駅 駅前広場等デザインコンペ実施

以前取り上げた大阪府堺市の南海電鉄浜寺公園駅舎、諏訪ノ森駅舎(現西駅舎)は、南海本線の高架化事業により新駅舎に隣接する形で保存されることになっていますが、事業実施に向けた計画が進んでいるようです。

浜寺公園駅舎
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(過去の紹介記事)
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-90.html

諏訪ノ森西駅舎
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(過去の紹介記事)
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-120.html

下記讀賣新聞記事及び堺市ホームページによると、堺市では浜寺公園・諏訪ノ森の両駅について、新駅舎の外観・コンコース等の内装及び駅前広場について計画案を募集するとのことです。

(平成25年7月4日 讀賣新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/osaka/news/20130704-OYT8T00090.htm

「浜寺公園、諏訪ノ森 駅舎生かした駅前広場 コンペ実施へ

堺市は3日、南海本線の高架化事業に伴い、現在の浜寺公園駅と諏訪ノ森駅西駅舎(いずれも国登録有形文化財)を生かした新駅舎の駅前広場などの景観デザインを提案してもらうコンペを実施すると発表した。竹山修身市長は同日の定例記者会見で、「駅舎を中心に文化的なまちづくりを進めたい」と語った。
 市の登録業者の1級建築士と建設コンサルタント(道路部門)を対象とし、駅ごとの応募も可能。4~31日に参加を受け付け、専門家らによる審査を経て年内に決定する。
 同本線では2014年1月から、石津川駅(堺市西区)―高石市境(全長2・7キロ)で高架化に向けた仮線路の敷設工事が始まる。高架化の完了は17年度を目標としているが、遅れる見通しとなっている。
工事区間にある両駅舎はいずれも、貴重な木造の洋風建築として知られる。浜寺公園駅は東京駅などの建設に携わった建築家・辰野金吾が設計し、1907年(明治40年)に完成。諏訪ノ森駅西駅舎は19年(大正8年)の建設で、当時の白砂青松の様子がステンドグラスで表現されている。
 市は2008年、浜寺公園駅はそのまま新駅の玄関部分に活用し、諏訪ノ森駅については駅前広場に移築する構想をまとめていた。」

堺市ホームページ
「浜寺公園駅・諏訪ノ森駅 駅舎及び駅前交通広場等計画提案競技を実施します」
http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/rittaisuishin/compe.html

個人的に注目しているのは、駅舎に付随する施設や部材についても再利用を検討している点です。
歴史を伝えるこれらの施設・部材を上手く活用して頂きたいものです。

上記ホームページ内
(資料9)再利用部材に関する検討資料
http://www.city.sakai.lg.jp/shisei/toshi/rittaisuishin/compe.files/9sairiyoubuzai.pdf

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浜寺公園駅 ホーム

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浜寺公園駅 臨時改札

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諏訪ノ森駅 ホーム

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浜寺公園駅舎については創建当初の姿への復元も検討されているとのことです。
復元が実現すれば、屋根はスレート葺きとなり、中央上部の小塔や煉瓦積煙突が復活することになります。

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両駅とも現駅舎の趣を損なわずに、魅力的な新駅舎と駅前広場が整備されることを期待したいと思います。

第613回・下之郷公民館分館

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長野県上田市の別所温泉の近くにある、木造ペンキ塗りの洋館。

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現在、下之郷公民館分館として使われている様子。

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道路側の外観。

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公民館に面した正面側外観。

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こちらが下之郷公民館。

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堂々たる和風建築である。分館と共に手入れが行き届いている。

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元々の来歴は少々調べてみたものの、分からなかった。

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ペンキ塗り仕上げの下見板張りの外壁をもつ洋館は、明治から昭和戦前に至るまで日本中に普及した。

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持ち送りの造作も凝っている。

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文化財になっている訳でもない建物だが、地元に溶け込み大切にされている様子。

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こういう無名の建物の存在も忘れてはならないと思う。

第612回・積善館

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群馬県四万温泉の老舗旅館である積善館。ロマネスク風の洋風浴場「元禄の湯」でも知られる。

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積善館の創業は元禄年間に遡る。写真は館内に展示されていた昭和戦後の写真。川側に建つのが本館棟で、現在も元禄期の建物が一部残されている玄関周りなど今も現存する。山側は昭和11年に上級の客用に建てられた山荘でこれも現存。

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平成15年に初めて泊まった時の写真。その後も何度か利用させて頂いているがいつ行っても変わらない佇まい。
以前使っていた古いデジタルカメラで撮ったが、御覧の通り画質は悪いので今回記事の冒頭写真は、同行した友人が撮ったものを借用。

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ロマネスク風の洋風浴場「元禄の湯」を持つこの建物「前新」棟は、昭和5年に建てられた。
かつては上部の木造部分も客室であったと思われるが、現在は使われていないようである。

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川を隔てた別館と「前新」棟をつなぐ渡廊下。
「前新」棟とこの渡廊下、先述の「山荘」棟は国登録有形文化財となっている。

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元禄期の建築に一部明治期の増築部分が残る本館は、群馬県の指定文化財となっている。

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本館の帳場には古い電話室も残る。

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江戸時代には本館の一階は家族用として使われ、二階は湯治客の客室として使われていたという。

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名主にのみ許された上段の間や式台等を備えている。

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この古風な座敷のほか資料館も併設されており、積善館を代々営んできた関家に伝わる歴史資料が展示公開されている。

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元禄の湯の入口。

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元禄の湯内部。

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側面の真ん中にある小さなアーチは蒸し風呂の出入り口。

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今回紹介した本館・前新棟の他、近代和風建築の粋を凝らした山荘棟も見どころに富む。

※念のため申し添えますが、浴場内部は他の利用客がいないことを確認した上で撮影しています。

第611回・旧帝国生命保険神戸出張所(フットテクノビル)

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一見古い建物には見えないが、実は大正10年(1921)創建で築92年の歴史あるビル。
帝国生命保険(現・朝日生命保険)神戸出張所として建てられた。設計・施工は清水組(現・清水建設)

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神戸の金融街・栄町通に建つ。
先日紹介した旧第一銀行と、同じく既に紹介した旧三菱銀行の中間に位置する。

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大正14年から昭和24年まで、現在のNHK神戸放送局がこのビルの中に置かれていた。

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神戸市中心部に戦前から残る建物の多くと同様、戦災を受けたと思われ、昭和24年には改装工事が行われている。

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靴用資材販売会社の(株)フットテクノが昭和62年より本社ビルとして使用している。

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平成7年の阪神大震災にも耐えた堅牢な造り。

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平成16年に同社によって行われた改装工事によって、創建当初に近い形に戻されたという。

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一階腰壁の石積みは創建当初の姿を残している。

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改修後間もなく、国の登録有形文化財となっている。

何有荘(旧稲畑勝太郎邸)洋館 移築

以前取り上げた京都市左京区の旧稲畑勝太郎邸(何有荘)の洋館部分が、設計者である武田五一とは縁の深い京都工芸繊維大学に寄贈され、同大学キャンパス内に移築されることになったとのことです。

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(過去ブログ記事 第182回 平成22年10月3日付)
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-188.html


(以下、新聞報道より)

(平成25年7月4日 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/kyoto/news/20130703-OYT8T01492.htm

武田五一作洋館移築へ 所有者、工繊大に寄贈

京都工芸繊維大(左京区)は3日、明治時代に造られた名庭園がある「何有荘(かいうそう)」(同区)に建つ、建築家・武田五一(1872~1938)作の洋館を、同大学松ヶ崎キャンパスに移築すると発表した。
 同大学などによると、洋館は木造2階建て瓦葺きで、広さ約150平方メートル。武田が、同大学の前身・京都高等工芸学校の図案科で教べんをとった縁で、何有荘を所有する個人が同大学への寄贈を申し出たという。
 この日、同大学は洋館の解体に着手、来年度中をめどに、同キャンパスで再建を始める計画だ。完成後は、国際交流の拠点となる「国際センター(仮称)」として活用するという。
 武田は府立図書館などの設計にも携わり「関西建築界の父」とも称される。同大学建築造形学部門の矢ヶ崎善太郎准教授は「歴史的に非常に貴重な建築物で、寄贈の申し出はありがたかった。改築の手も加えられているので、移築をきっかけに、創建当初の姿に戻したい」と話している。


(平成25年7月3日 京都新聞)
http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20130703000147

「何有荘」洋館 京都工繊大へ 移築後、交流拠点に

近代日本を代表する建築家の武田五一(1872~1938年)が設計した「何有荘(かいうそう)」(京都市左京区)の洋館が、京都工芸繊維大(同区)に移築されることが決まった。過去の様式から脱却する大正時代の特質を伝える貴重な建物で、完成時の姿に復元、国際交流拠点として活用する。
 現在の所有者から大学が寄付を受けた。これまでに増改築されており、いったん解体して移築、2014年度内にも復元する。
 洋館は、京都出身の実業家、稲畑勝太郎氏の邸宅で、後に工繊大となる京都高等工芸学校の教授だった武田が設計、1916(大正5)年に完成した。
 木造2階建てで周囲の和館や日本庭園との調和を図り、瓦屋根や寺院に見られる彫刻を施すなど和の意匠を盛り込む。かつては海外の要人や文化人が集うサロンとして利用されており、研究者や留学生の交流の場とする。
 矢ケ崎善太郎准教授(日本建築史)は「京都の文化を支えた建物の一つ。文化的価値を継承し、有効活用したい」と話す。


(平成25年7月4日 産經新聞)
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130704/kyt13070402320001-n1.htm

貴重な建築物 次世代に残そう 京都工芸繊維大 何有荘洋館を移築保存へ
■「関西近代建築の父」武田五一が設計

 京都工芸繊維大(京都市左京区)は3日、明治期の回遊式庭園として知られる「何有(かいう)荘」(同)にある洋館を、保存のために同大のキャンパス内に移築すると発表した。同日、解体工事を始めた。洋館は明治後期から昭和初期の建築家、武田五一が設計した。
 同大によると、洋館は木造2階建て延べ約150平方メートルで、大正5年に完成。所有していた民間の個人から保存について同大関係者に相談があり、寄贈を受けることが決まった。
 移築後は、同大の国際交流の拠点として活用する。
 武田五一は「関西近代建築の父」と呼ばれ、同大の前身である京都高等工芸学校の創始者の1人。京都大時計台や京都市役所などの設計にも携わった。
 京都工芸繊維大院の矢ケ崎善太郎准教授(建築史)は「大正建築の特徴を伝える遺構として貴重な建物だ」と話している。(前田武)


(以上、新聞報道引用終わり)

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このような話は、邸宅自体の存続が難しくなって洋館だけ他所へ移築、などという場合が多いのですが、本件の場合は庭園と洋館以外の建物(日本家屋、茶室等)は庭園と共に引き続き保全されるものと思われます。

新聞記事にはその辺が全く触れられていませんので全くの推測ですが、この界隈は京都でも風致規制の厳しい区域であり、かつ現在の所有者へ引き継がれた経緯を見る限り、他所でありがちな開発に伴う移築などでは決してないでしょう。

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なぜ洋館だけ他所に移築されることになったのかは不明ですが、その土地の歴史から切り離されてしまうのは些か残念な話ではあります。
ただ移築先としては申し分なく、工事も文化財としての価値を損なわない努力が払われるものと思われます。
また施設の性格上、一般公開も考えられるので今後に期待したいと思います。

第610回・大浦天主堂(日本二十六聖殉教者堂)

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我が国における初期洋風建築として最も有名な長崎の大浦天主堂(正式名称は日本二十六聖殉教者堂)は、国宝に指定されている。平成21年に迎賓館赤坂離宮が国宝指定されるまで、国宝指定を受けた洋風建築としては全国唯一の存在であった。

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フランス人司祭フューレの設計で、グラバー邸も手掛けた棟梁・小山秀の施工で完成する。幕末の元治2年(1865)に竣工(但し、大浦天主堂のホームページでは元治元年の12月に竣工したとある)、その後規模を拡張するため明治12年(1879)に増築されて現在の姿となった。

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当時は江戸幕府によってキリスト教は禁教とされていたが、居留地のフランス人教会として建てられた大浦天主堂は日本人の参観も自由であったため多くの日本人が「フランス寺」と称して物珍しさに見物にやってきたという。
日本人の参観を自由とした本当の目的は、隠れキリシタンの発見に期待していたと言われる。

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期待はすぐに的中し、竣工間もない元治2年2月12日(新暦では3月17日)、数名の日本人がプティジャン神父に先祖代々からの密かなキリスト教信仰を告白した。時のローマ教皇はこれを「東洋の奇蹟」と感激したという。カトリック教会ではこの日は現在、記念すべき祝日とされている。

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隠れキリシタンの存在を知った江戸幕府は信徒に対し過酷な弾圧を加え、明治新政府も当初はこれを引き継ぐが、欧米諸国の激しい非難を受けた。キリスト教禁教は近代国家建設の障害となることを悟った明治政府は明治6年に禁教令を解く。

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キリスト教信仰が自由になったことで日本人信徒が増加、教会堂が手狭になったため明治12年に拡張工事が行われる。木造で建てられた既存の教会堂の周りに煉瓦造の外壁を新設する形で、現在の姿が出来上がった。

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創建から68年後の昭和8年、旧国宝(現在の重要文化財に相当)の指定を受ける。昭和20年の原爆投下では爆風による屋根や内部ステンドグラスなどの破損はあったが戦後に修復されている。昭和28年には現行制度による国宝として再指定を受ける。

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大浦天主堂の敷地内には関連施設として旧羅典神学校、旧大司教館、司祭館があり、いずれも明治初期から大正期の建物である。天主堂の全面脇に建つ赤煉瓦の建物は旧大司教館。大浦天主堂創建50年の記念事業として建てられ、歴代司教の住居、カトリック長﨑大司教区長崎地区の本部として使われた。

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設計は長崎県内で多くの教会施設を手掛けたフランス人司祭のマルク・マリー・ド・ロ(神父)が行っている。
なおド・ロ神父は、この建物の施工中の事故がもとで大正3年に74歳で死去している。(建物の竣工はその翌年の大正4年)

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長崎県を中心に明治末から昭和中期にかけて多くの教会堂建築を手掛けた大工棟梁で建築家の鉄川与助は、ド・ロ神父に教会堂建築の教えを受けている。

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大浦天主堂の脇に建つ旧羅典神学校は明治8年の建築で、日本人司祭育成を目的として設立された長崎公教神学校の校舎兼宿舎として建てられた。国指定重要文化財。

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なおこの建物は、ド・ロ神父が来日後初めて手掛けた本格的な建物でもある。
つまり、最初に建てた建物と最後に建てた建物とが隣接していることになる。

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旧羅典神学校は現在、キリシタン資料室として公開されている。

第609回・旧伊藤鈴三郎邸(インドネシア共和国大使公邸)

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東京都品川区東五反田にあるインドネシア共和国大使公邸は、昭和11年(1936)に伊藤鈴三郎邸として建てられた。施工は竹中工務店。

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インドネシア共和国大使公邸のあるこの界隈は、各国大使館や大使公邸が点在する。
先日紹介したタイ王国大使公邸(旧濱口邸)からも近い位置にある。なおインドネシア大使館は大使公邸から見ると裏側に位置して建っている。

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大使公邸周辺は戦前からの邸宅街の名残が残る閑静な住宅街である。なおすぐ近くには、愚劣な相続税制度(参考:過去記事「旧乾新兵衛邸」)で破壊された皇后陛下の御生家・旧正田邸の跡(現在は品川区により公園「ねむの木の庭」となっている)がある。

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この建物については、特に建て主についてネット上でも詳しい情報がなかなか見つからないが、「東京山の手ハイカラ散歩」(大竹昭子著・平凡社刊 平成11年)という書籍に記載があった。

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それによると、松坂屋百貨店を創った十五代伊藤次郎左衛門の子息・鈴三郎が英国留学から帰朝後建てた邸宅であるという。

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またこの界隈は、「池田山」の名で昭和初期に高級住宅街として開発・分譲が行われた土地で「池田山」の由来は、岡山藩主池田家の下屋敷跡であることに因むそうである。

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なお伊藤鈴三郎氏は戦後松坂屋社長となり、会長の座にあった兄(十六代伊藤次郎左衛門)と共に長らく松坂屋の経営に携わった。

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伊藤鈴三郎氏の父・十五代伊藤次郎左衛門は名古屋の別邸・揚輝荘の造営など普請道楽で知られる。伊藤家・松坂屋関係の建物を一手に引き受けていた竹中工務店社長の竹中藤右衛門は、十五代次郎左衛門没後に私家本「揚輝荘主人遺構」(昭和17年刊行)を編纂し、十五代次郎左衛門が生涯に建てた建築を全て紹介している。

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弊ブログでは以前揚輝荘について、3回に分けて現存する建物や庭園を取り上げたが、その際「揚輝荘主人遺構」も主要参考資料として名古屋市の鶴舞中央図書館で閲覧した。同書では子息のために建てた邸宅も収録されていたが、今考えるとそのうちの1軒がこの伊藤鈴三郎邸であったと思われる。

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この夏には揚輝荘の建物のひとつ「聴松閣」が修復工事を終え公開が再開される予定なので、そのときは見学ついでに鶴舞図書館に寄って「揚輝荘主人遺構」の収録建物を再度確認しようと思う。

旧ジョネス邸 解体延期

7月に解体が予定されていた神戸市垂水区塩屋にある大正時代の洋館・旧ジョネス邸が、保存を求める方々の御尽力により、現所有者である穴吹興産(株)は、9月末まで解体工事の延期を決定されたとのことです。

「旧ジョネス邸を次代に引き継ぐ会」ホームページ
http://jones-shioya.tumblr.com/

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解体までの猶予期間が3ヶ月延びた訳ですが、何とかその間に保存への道筋がつくとよいのですが。
保存活動を勝手に応援させて頂いている弊ブログでは、一人でも多くの方に関心を持って頂くため、今後も引き続き、お知らせやこの建物についての私見を逐次掲載していく所存です。

御関心を持たれた方は、上記「引き継ぐ会」のホームページを是非、御覧下さい。

(参考 弊ブログ過去の関連記事)

内覧会報告 その1
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-613.html

内覧会報告 その2
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-614.html

旧ジョネス邸 存続の危機
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-520.html

旧ジョネス邸
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-128.html
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