年末の御挨拶

本年も残すところあと2日ですが、年末の御挨拶とさせて頂きます。
今年は多くの方々に御訪問を頂き、コメント・トラックバックやリンクを張って頂いたほか、拙い写真にも関わらず転載や利用の御申出を沢山頂いたことに対し、心より御礼申し上げます。
どうぞ来年も弊ブログを宜しくお願い申し上げます。


以下、来年1月以降取り上げる予定の建物です。
またこの正月休みに帰省先で訪問した建物があれば、随時記事にするつもりです。


靖國神社遊就館 昭和7年

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ダイビル本館・大同生命ビル・堂島ビルヂング

大正末期のほぼ同時期に大阪市内に建てられ、当時としては屈指の高層建築物であった3棟が現在それぞれ異なる形でその歴史を伝えている。

ダイビル本館(旧大阪ビルディング)大正14年(現在の建物は平成25年)

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大同生命ビル(旧大同生命ビルディング)大正14年(現在の建物は平成5年)

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堂島ビルヂング 大正12年(内外共に大改装されているが建物自体は90年前のもの)

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その他、復元や部分移築で、以下のような建物も取り上げる予定です。


三菱一号館美術館(旧三菱一号館)明治27年(現在の建物は平成21年復元)

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旧三井八郎右衛門邸 昭和27年

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それでは、また来年。
皆様よいお年をお迎え下さい。
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第705回・旧春田鉄次郎邸

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名古屋市東区主税町三丁目に残る、武田五一設計による大正時代創建の和洋折衷住宅。以前紹介した旧豊田佐助邸に隣接して建っている。現在は一階部分をフランス料理店として使われている。

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街路からの全景。所有者は敷地の前半分、かつての庭園跡に新しい住宅を建てて、旧邸はテナントに貸し出し歴史的建造物の維持を図っている。このような形での保存の実現までには、個人邸宅にはつきものである忌々しい相続税制など種々の困難があったようだ。

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門構え。右に少し写るコンクリート塀は旧豊田佐助邸。旧豊田邸や同地区に建つ橦木館(旧井元邸)は建物や庭園はすばらしいのだが、街路に面した門や塀は味気ない。その点旧春田邸は、瓦葺きの黒い板塀と門構えが落ち着いた風情を見せている。

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春田鉄次郎氏は橦木館の井元為三郎氏と同様、陶磁器貿易商として成功した人物である。その春田氏が武田五一に設計を依頼して大正13年(1924)頃に建てられたという。

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武田五一は京都帝国大学建築学科の主任教授として京都を中心に活動していた建築家であるが、大正7年から9年まで名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の校長を務め、名古屋ともつながりがあった。

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全体的に和風を基調としているが、玄関やその脇の応接間などは洋風の造り。内部も一階は基本的に板張りの洋間になっている。それに対し二階は和室が中心となっている。

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テラス風に造られた玄関の脇には、供待ち用の腰掛けが設けられている。

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茶室にも造詣の深い建築家であった武田五一の作風がよく現れている。

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玄関内部。

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一階応接間。床は板張りの床で壁には暖炉を切った洋間であるが、隣室との仕切りは和風の引き戸になった和洋折衷の部屋である。

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暖炉。と言っても薪や石炭を燃やすものではなく、実質はストーブを置くためのスペースである。

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応接間の天井換気口は、武田五一が好んだ幾何学的意匠。

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かつては庭園に続いていた応接間の硝子戸。

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仏間から中庭に通じる硝子戸を望む。
かつて硝子戸の先には、中庭を挟んで離れ座敷と土蔵があったが現存しない。

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応接間の隣室は仏間になっている。板張りの床に漆喰塗りの天井という仏間としては珍しい洋風の造り。

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創建当初の照明器具が随所に残されている。また旧豊田佐助邸や○木館と同様、ガス燈の設備も残されている。(左下手前)

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背面の敷地売却により土蔵などが除却され、邸宅の一部が損なわれているのが残念であるが、洋風を加味したユニークな数寄屋風邸宅である旧春田邸は、この界隈でもとりわけ貴重な近代和風建築である。

第704回・眺尾橋

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眺尾橋(ながおばし)は、千葉県南房総市白浜町にある石造の3連アーチ橋。明治21年(1888)の架橋。石造のアーチ橋は九州など西日本に多く、東日本では珍しい存在であるが、3連アーチの眺尾橋は全国的にも珍しいとされる。長尾橋、めがね橋とも称される。千葉県指定有形文化財。

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かつては、木製の橋は架けてもすぐ流されるため橋が無く、長尾川を渡るには川の浅瀬を歩いて渡ったと言われている。石橋の架橋に際しては、施工は地元の石工と大工が行い、建設資金は村民が出し合ったという。

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西日本では、九州地方を中心に江戸時代より石造によるアーチ橋の伝統があったが、東日本では明治以降薩摩出身の県令・三島通庸の影響を強く受けた山形県など一部を除き、石造アーチ橋は少なく、珍しい。

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施工を行った石工と大工は、架橋に際しアーチ橋の実物を見学に行ったとされる。どこの橋を見に行ったかは不明とされるが、隣の東京では明治10年(1877)に架けられた常磐橋などがあるので、これを参考にした可能性もある。

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橋本体は地元で採れた石が使われているが、親柱には伊豆石を用いる。

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親柱には皇紀と年号でそれぞれ架橋年を記している。
大正年間の長尾川の大洪水や関東大震災にも耐え、戦時中には軍の戦車の往来にも耐えたという。

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平成5年に県によって行われた修復工事の際、橋名を刻んだ親柱の最初の文字の部分は一部を残して親柱自体が欠損していたため、推定で「眺」と復元されたものである。

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以上のような経緯で「眺尾橋」という表記には根拠が無いためか、千葉県の指定文化財としての名称は通称の「めがね橋」となっている。

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上流側のアーチの間には、下流側にはない控え柱状のようなものがある。水流でかかる力を分散させるための工夫と思われる。

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水面に映った姿を見れば、通称の由来が分かる。

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土木学会の選奨遺産にも認定されている。
(認定上の名称は「めがね橋」となっており、先述の事情と同じと思われる)

第703回・旧川崎銀行佐倉支店(佐倉市立美術館)

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千葉県佐倉市の行政の中心街に当たる京成佐倉駅周辺には、武家屋敷など旧佐倉藩の城下町の名残を残す街並みが残されている。また先日紹介した佐倉高等学校記念館などの近代の洋風建築も残されている。現在佐倉市立美術館の一部となっている旧川崎銀行もそのひとつ。千葉県指定有形文化財。

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背後の建物が佐倉市立美術館。旧川崎銀行の建物が同美術館のエントランスとして、来館者を迎え入れるようになっている。

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大正7年(1918)に川崎銀行佐倉支店として、川崎財閥系の銀行建築の設計を多数手がけた建築家・矢部又吉(1888~1941)の設計で建てられた。

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矢部又吉の設計による現存する川崎銀行の店舗は旧佐倉支店のほか、旧横浜支店(但し壁面を残して改築)、旧千葉支店(旧建物を鞘堂形式で新建物の中に組み入れる形で保存)が現存する。また設計者は異なるが、川崎財閥発祥の地である茨城県水戸市には明治建築の旧水戸支店が現存するほか、千葉県内にも旧佐原支店が現存する。

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川崎銀行の系列銀行である川崎貯蓄銀行の店舗も、同じく矢部又吉の設計によるものが大阪市内に2件(大阪支店、福島出張所)現存している。

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軒下部分は補修中で、シートで覆われていた。
矢部又吉の設計による銀行建築は石造風のものが多いが、佐倉支店の建物は同時期の銀行建築に多く見られるチョコレート色のタイル貼りの外観が特徴である。

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内部は二層吹き抜けになっている。
この建物が銀行として使われた期間は短く、昭和12年から佐倉町役場として使われ、同29年には市制施行により初代の佐倉市庁舎となった。

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昭和46年に市庁舎としての役目を終えた後は、公民館、図書館、資料館と用途を転々とするが、平成4年に現在の形になった。

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美術館のエントランスとして補修再生されるに際し、長年にわたり塞がれていた吹き抜け部分が復元されている。

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この時代の銀行建築としては外観・内装共に比較的簡素なものである。
千葉県下に現存する戦前の銀行建築である先述の旧千葉支店、旧佐原支店のほか、野田市の旧野田商誘銀行などと比較するとデザインや外装の仕上材にそれぞれ違いがあり興味深い。

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(参考)佐倉市立美術館ホームページ(エントランスホールの紹介)

第702回・又一ビルディング(旧大谷仏教会館)

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前回の旧大阪農工銀行と同じく、濃密な装飾を施したテラコッタで飾られていた近代建築の外壁の一部が保存された事例。所在地は大阪市中央区久太郎町3丁目、御堂筋に面して建っている。

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もとの建物は昭和8年(1933)に竣工したとされる大谷仏教会館。設計者は竹内緑とされるが、経歴等詳細は不詳。

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旧大谷仏教会館の御堂筋側の外壁の主要部分と、南側の正面玄関部分を新ビルに組み込んだ現在の又一ビルディングは昭和60年(1985)に竣工した。

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腰壁を御影石貼りとするほかは窓台を除き、壁、柱、窓枠など、全面を装飾を施したテラコッタで覆う。

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壁面テラコッタの詳細。

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窓台は装飾を施した金属パネルを貼ったものと思われる。装飾はトロフィーの上で向かい合う鳥の図柄。

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アーチの装飾と六角形の飾り窓、濃密な装飾が施された軒飾り。

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ねじり柱。

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玄関部分。現存しない周辺外壁も御堂筋側と同様、装飾を施したテラコッタで覆われていた。

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鳥が飛び交う玄関上部のアーチ装飾。

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アーチの縁取り。

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残されたのは壁面の一部分とはいえ、強烈な存在感を放っている。

第701回・旧大阪農工銀行

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大阪市中央区今橋にある旧大阪農工銀行は、近年まで八木通商ビルの名前で知られていた建物であったが、外壁の主要部分を保存する形で高層マンションに建て替えられ、今年竣工した。イスラム風意匠のテラコッタを多用した外観が特徴ある建物である。

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全景。この手の改築にありがちな高層部分をガラス張りにするなど、いかにも現代建築風な外観にはせず、高層部分には旧建物の保存部分と近い質感のタイルを貼って、外観全体を落ち着いた雰囲気にまとめている。

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保存部分は、一旦解体して旧部材を再構築する方法ではなく、壁体をそのまま残しその背後に新建物を新築する方法が採られている。

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なお保存壁面は位置をずらす必要があったため、曳家による移設工事が行われた。なお移設に際し保存壁面は、東側正面部分(写真の左側部分)約5分の1程度、及び北側側面(写真右側)が約3分の1程度切り縮められている。

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北側側面。旧建物では右端にもう一間分窓があった。

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正面左側にある、旧建物では通用口があった場所は現在マンション駐車場の入口となっており、旧建物通用口の意匠を取り入れたものになっている。

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保存部分と新築部分が、割と違和感なくまとまった感じに仕上がっていると思う。

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農工銀行は、戦前に北海道を除く全府県に存在した特殊銀行のひとつで、農工業の改良のための長期融資を目的として明治時代に設立された日本勧業銀行(のちの第一勧業銀行、現みずほ銀行)の、事実上の子会社的な存在であった。

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その後、大正時代に法律により勧銀との合併が促進されるようになり、第二次大戦前には全ての農工銀行が日本勧業銀行に吸収合併された。

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旧農工銀行の店舗の遺構は大阪の他、兵庫、大分、宮崎など、各府県にいくつかが今も現存している。

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今回外壁の一部が残された旧大阪農工銀行の店舗は、大正8年(1919)に辰野金吾と片岡安(辰野片岡設計事務所)の設計で建てられた赤煉瓦の建物を、昭和4年(1929)に國枝博の設計で内外装の大改造を行ったものである。

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國枝博は朝鮮総督府庁舎(現存せず)の設計に従事した後、大阪で設計事務所を開いていた建築家で、戦前最後の本格的な官庁建築である滋賀県庁舎(昭和14年)の設計も佐藤功一と共同で手掛けている。また大分の農工銀行の設計も手掛けており、こちらは現在もみずほ銀行大分支店として健在である。

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改築前は、背面に辰野金吾設計の赤煉瓦の壁面がごく一部だが残されていた。
今は当然ながら、何も残されていなかった。

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濃厚なイスラム風意匠がすばらしい。

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部分的ながらも濃密な質の高い装飾を有する近代建築が、新しい建物に比較的違和感のない形で取り込まれ、引き継がれたことは喜ばしい事である。

第700回・歌舞伎座

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今年竣工、開場した五代目歌舞伎座は、昭和25年(1950)に竣工した四代目歌舞伎座の外観及び内装が再現されているが、その四代目は大正13年(1924)に竣工、昭和20年に戦災で焼失した三代目歌舞伎座の残骸を修復、再利用して建てられた建物だった。即ち現在の歌舞伎座は、大正時代の近代和風建築を間接的ながらも現在に伝えていることになる。

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まずは先代建物との比較。閉場前に撮影した四代目歌舞伎座。
戦災により、正面及び側面を残して内部はほぼ完全に焼け落ちた三代目歌舞伎座の残存部分を修復、焼失部分は新築する形で、吉田五十八の設計により建てられた。

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五代目歌舞伎座を同じアングルから見る。外観がほぼ忠実に再現されているのが分かる。
五代目の設計は隈研吾+三菱地所。

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正面から見た四代目歌舞伎座。四代目の原型となった三代目歌舞伎座の設計者は岡田信一郎。
四代目の設計者・吉田五十八は東京美術学校(現東京藝術大学)在学中、岡田に建築を学んでいた。なお岡田信一郎は、これまで紹介した明治生命館黒田記念館などの設計者でもある。

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外観における三代目と四代目の大きな相違点としては、正面中央の大破風の有無が挙げられる。三代目歌舞伎座は大小3つの破風と玄関の唐破風が外観を大きく印象付けていた。三代目の写真は、歌舞伎座ホームページ「歌舞伎座の変遷」で見ることができる。

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唐破風部分。写真は四代目。
唐破風を含む正面部分は三代目の壁面がそのまま修復、再利用されていた。三代目はコンクリートの外郭が完成し内装工事にかかる段階で関東大震災に遭遇しており、関東大震災と東京大空襲を身を以て体験した建物であった。

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五代目の唐破風。

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細部装飾などは四代目の解体時に型取りを行い、忠実に再現された。

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五代目歌舞伎座は、背後に建つ超高層の賃貸ビル(歌舞伎座タワー)と正面の劇場棟が一体化している。劇場棟部分は内装に至るまで四代目歌舞伎座の再現を図りつつ、機能性・利便性の向上を図ったものとなっている。

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唐破風上部に設けられた櫓。京都の南座でも見られる。

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なお今回の建て替えに際しては、劇場棟の外観は3つの破風が連なる三代目の姿を再現することも検討されたらしいが、最終的には内外装共に四代目の意匠が再現されることになった。

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四代目歌舞伎座の外観がほぼ完璧に再現されているようであるが、建築構造は全く異なる。

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三代目・四代目は鉄筋コンクリート造であったが五代目は鉄骨造であるため、壁や梁、柱はコンクリートではなく、アルミを成形したものに塗装を施したものなのだそうだ。

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そのためか、外壁を近くで見るとどこか軽い印象を受けてしまう。モルタルと塗装を施した金属では、質感がどうしても異なるのかも知れない。

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昭和9年に竣工した滋賀県大津市の旧琵琶湖ホテルは、鉄筋コンクリート造の和風意匠を持つ建築として歌舞伎座とは濃厚な類似性が見られる。

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琵琶湖ホテルは当初、岡田信一郎が設計を依頼されたが間もなく病没したため、弟で同じく建築家である岡田捷五郎の設計で建てられている。設計に際しては兄の設計した歌舞伎座を多分に意識したものと思われる。

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外壁の飾り金物や玄関まわりの石材などに、四代目の部材が一部再利用されているという。

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当初の報道などから、抽象的に和風のイメージを現した程度の中途半端なものになると思っていただけに、意外に見事な出来栄えだった。今度は内部にも入ってみたいと思う。

第699回・千葉県立佐倉高等学校記念館

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千葉県佐倉市にある県立佐倉高等学校記念館は、明治43年(1910)に当時の千葉縣立佐倉中學校の本館として、旧佐倉藩主・堀田正倫伯爵の寄付により建てられた木造二階建の洋風建築。国登録有形文化財。

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佐倉高等学校の創立は、寛政4年(1792)に佐倉藩の藩校として創設された佐倉藩学問所まで遡る、千葉県下でも最も伝統ある高等学校である。

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著名な卒業生には野球の長嶋茂雄や、弊ブログでも築地本願寺など、度々設計作品を紹介している建築家の伊東忠太などがいる。

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設計者には久野節、後藤政次郎らの名前が残されている。久野節(1882~1962)は東京帝大を卒業後千葉県庁、鉄道省、逓信省に在籍、鉄道省建築課の初代課長も務め、退官後は設計事務所を開いた建築家である。

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久野は鉄道省に在籍した関係で、伊勢の宇治山田駅舎や、南海ビル(高島屋)、東武ビル(浅草松屋)のようなターミナルデパートなど鉄道関係の建築を多く手掛けた建築家である。また鉄道省が開業に関与した蒲郡ホテル(現・蒲郡クラシックホテル)の設計も行っている。

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明治43年竣工の佐倉中学校本館は久野節の初期作品に当たる。久野は明治44年に鉄道省へ移るまでに千葉県庁舎(明治44年竣工、現存せず)の設計にも従事している。千葉県庁は中央に円形の大ドームを持つ堂々たる大建築だが、佐倉中学校本館では小ぶりな2つのドームを正面に配している。

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両翼の切妻部分や窓台の下には、細かい装飾を施されている。

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反りのある和風色のある庇が特徴的な、両翼に設けられた通用口。

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正面は車寄せ部分に細かい装飾を施す。校名に因んでか、桜の透かし模様が施されている。

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正面全景。

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前にある東郷池の水面に写る本館。
東郷池は校舎竣工と同年に帝国海軍の日本海海戦勝利を記念して、教員・生徒有志が休みを利用して掘ったものであるという。名前の由来は連合艦隊司令長官・東郷平八郎に因む。

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昭和49年に新校舎が完成するまでは教室として使用されていた。現在も管理棟として現役の校舎であり、校長室や進路指導室などはこの建物の中にある。

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現役の校舎であるため内部見学はできないが、土・日曜は校内へ立ち入っての外観見学は自由である。
(参考)佐倉市ホームページ

第698回・清水猛商店

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大阪市中央区淡路町にある清水猛商店は、大正13年(1924)に建てられた木造3階建の商店建築。
洋風の店舗棟の奥には、中庭を挟んで和風の居住棟が連なる、伝統的な町家の構成を取っている。

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この界隈は大阪の伝統的な商業地・船場の一角である。
以前紹介した大阪瓦斯ビル日本生命本店のある御堂筋から、少し東側へ入ったところに建っている。

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清水猛商店は家具・室内装飾を取り扱っている老舗。
現在も(株)清水猛商店としてこの建物で営業されている。

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近年隣の建物が解体され、現在は駐車場になっているため側面が見られる。洋風の店舗棟の奥に和風の居住棟を配しているのが分かる。現存しないが居住棟の奥にはかつて土蔵があり、構成は伝統的な町家そのものである。

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設計は当時住友工作部(現在の日建設計のルーツである)に在籍していた小川安一郎。以前紹介した旧池長美術館(現神戸市文書館)、旧池長孟邸(紅塵荘)の設計者である。

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当時の御当主が住友銀行に出入りされていた関係で、店舗の新築設計を小川安一郎が引き受けることになったという。当時建設中であった住友本館の工事の傍ら、色々新しいデザインを試してみるという意図があったようである。

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店舗棟は一階が店舗、二階が商品陳列室と応接室、三階は建設当時は住み込み従業員の部屋として使われていたという。

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以前紹介した同じ船場の老舗の商店である小川香料生駒時計店でも、上階を従業員の部屋に充てる使い方をしていた。

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小規模ながらも貴重な船場の歴史的建造物である。これからも健在であって欲しい。

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(参考)「大阪府の近代和風建築 大阪府近代和風建築総合調查報告書」大阪府教育委員会 平成12年刊

第697回・旧伊藤次郎左衛門祐民別邸「揚輝荘」(修復後の聴松閣②)

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前回に続き、揚輝荘聴松閣の続き。
館内展示物のほか、同時に訪れた北庭園も紅葉が見事だったので併せて紹介。写真は北庭園内の煎茶席「三賞亭」である。

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以前の揚輝荘園内の建物についての記事は、以下をそれぞれご参照頂きたい。
第378回(伴華楼)第379回(三賞亭、白雲橋、豊彦稲荷)第380回(聴松閣、揚輝荘座敷)
なお、今回記事と多少重複するところがあるが何卒ご容赦頂きたい。

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地階の舞踏室は現在、集会室として貸し出されている。

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旧食堂は前回記したとおり喫茶室として使われているが、飲食物はかつての配膳用カウンターから出し入れされている。(暖炉の右)

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復元された玄関脇の飾り格子。

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居間暖炉の上部に穿たれたニッチに置かれている、伊藤次郎左衛門祐民氏の肖像。

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暖炉に埋め込まれた古瓦。今だったらこういうことは出来ない。

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地階ホールの壁画。アジャンターの石窟画像を模して、当時伊藤家に寄宿していたインド人留学生が画いたものである。

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舞踏室脇小部屋の女神像。

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玄関ポーチ天井の間接照明。

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地階舞踏室、暖炉上部の照明。

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二階支那室の建具。但し暖炉と同様に今回修復に際しての復元。
この部屋では、寄木細工で雷紋模様が施された床は修復工事前から残されていたため、平成16年に移築復元された旧川上貞奴邸の支那室復元の参考になったという。

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二階洗面所の建具。外に見えるのは揚輝荘座敷のサンルーム部分。

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聴松閣と揚輝荘座敷を結んでいた渡り廊下は、土蔵のそばにあった付属棟と共に解体保存中である。
現在名古屋市は揚輝荘座敷の修復に向け、調査に着手している。

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土蔵の脇に米軍接収中に建てられたパン工場は撤去されていた。
先述のとおり揚輝荘座敷は修復待ちの状態であるが、付属建物である二棟の土蔵は南園の入口脇に当たる位置に建つせいか、外壁のみきれいに塗り直されていた。

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聴松閣の旧サンルームに展示されていた揚輝荘最盛期(昭和14年頃)のジオラマの中から、揚輝荘座敷と聴松閣を写してみた。右下の大小二つの建物が上記の土蔵。揚輝荘座敷のうち手前に張り出した平屋部分は現在解体保存中。

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庭園側から撮影。丁度この写真に写った部分が、現在も残る南庭園部分に相当する。
手前の土塀沿いにある建物は享保年間のものと伝わる茶室「不老庵」だが、米軍接収中に壊されてしまった。座敷左手にある茶室「暮雪庵」は現在、岐阜県土岐市の織部の里公園にある。

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聴松閣はかつて両翼に和風建築を配する構成であった。揚輝荘座敷の反対側には尾張徳川家から譲り受けた大石内蔵助ゆかりの建物と伝わる「端の寮」が、凝った太鼓橋風の渡廊下で聴松閣と接続されていたが、米軍の空襲で焼失。現在跡地は庭園部分も含めマンションが建っている。

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揚輝荘最盛期のジオラマ全景。
現在も残されているのは、手前左側の南庭園と、奥の左側に写る北庭園のみである。
大東亜戦争末期の空襲に際しては、東側(右側)の被害が大きかったようである。ただし主要な建物の殆どは焼け残り、それらは敗戦後米軍に接収されることになる。

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今も残る北庭園部分。ただし左上部分はマンションになっている。
左下から先述の過去記事で紹介した野外ステージ、白雲橋、三賞亭が並び、右下に伴華楼と豊彦稲荷がある。

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三賞亭のそばにかつて存在した有芳軒。尾張徳川家の屋敷の一部を大正11年に移築、移築に際しテニスコートと月見台、地階にはバーカウンター付の洋風食堂を増設、聴松閣とは地下トンネルで結ばれていたという面白い建物。戦災も免れ、昭和44年まで現存していたというから、実に惜しい限りである。

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奥が現存する伴華楼。有芳軒と同じく尾張徳川家の屋敷を移築改造、茶室や撞球室を備えた建物。
手前の藁葺きの二棟は、大きい方が築500年と言われる「栗廼家」、小さい方がインド・サンタール地方の民家を再現した「サンタール」。いずれも戦後取り壊され現存しない。なお、左側の土蔵は現存。

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現在の伴華楼。洋館前のモミジが見事に色づいていた。
上記ジオラマの模型と比較すると、手前の付属棟が二階家に建て替えられているのが分かる。現在の付属棟は昭和42年のもの。

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最後に、北庭園の見事な紅葉を。
伴華楼洋館前のモミジは、室内から見たらさぞ綺麗にちがいない。

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豊彦稲荷前から伴華楼洋館を望む。

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豊彦稲荷。

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白雲橋と三賞亭。
建物と違って撮り慣れないせいもあるが、紅葉を上手く撮るのは難しい。

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三賞亭内部からの眺め。

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池越しに望む三賞亭。


何年先になるかは分からないが、今度は揚輝荘座敷の修復なった姿を弊ブログでまた御紹介したいものである。

修復後の聴松閣 おわり

第696回・旧伊藤次郎左衛門祐民別邸「揚輝荘」(修復後の聴松閣①)

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以前、第380回記事で取り上げた、名古屋の揚輝荘(松坂屋創業者・伊藤次郎左衛門祐民の別邸)内にある「聴松閣」は修復工事が完了し、今年8月より一般公開が始まった。外観はクリーム色から創建当初の色であるベンガラ色に変わり、荒廃著しかった内部も見違えるようにきれいになっていた。

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玄関。両脇小窓には創建当初あった飾り格子が復元されている。

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一階ホール

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聴松閣の室内では最もモダンなデザインの居間。前回見学時は室内いっぱいに展示物が雑然と置かれていたが、現在は、揚輝荘と伊藤次郎左衛門祐民について解説する映像を放映する場になっている。

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居間に続くサンルームでは、後年の改修で撤去されていた、八角形に張り出したベイウインドウが造り付けのソファと共に復元されている。この部屋は現在、揚輝荘の最盛期である昭和14年頃の模様を再現したジオラマの展示室になっている。

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サンルームと続き間になっている旧食堂。改修後は喫茶室として使われている。
手斧仕上げの太い木材が梁や壁に用いられた最も重厚な部屋。重厚でいながらも華美ではなく、山荘にふさわしい素朴な雰囲気を出している。

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米軍による接収やその後の松坂屋独身寮として使うために改変が多かった聴松閣において、食堂は旧状を比較的よく残していたため、壁や床、暖炉など昭和12年竣工当時の仕上げがよく残されている。ただし写真の飾り棚の「いとう」の透かし彫りを施した欄間は、今回の修復に際しての復元。

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塞がれて窓になっていた食堂から屋外テラスへの出入口も、創建当初の形に戻された。同じ名古屋市が所有・公開している東区の橦木館のように、庭園に面した屋外テラスも喫茶室の一部として利用できるとよいのだが、残念ながら現在南庭園は立ち入りが出来ない状態になっている。

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窓からテラスと南庭を望む。擬木の手すりが見える。
南庭園の整備は、隣接する揚輝荘座敷と共にこれからなので、整備後は食堂と一体的に開放されるとよいのだが。

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テラスの床にはガラスブロックを敷き詰めた明り取り窓がある。外光が地階にある舞踏室の飾り窓に入り、エッチングガラスで表わされたヒマラヤの山並みを映し出すように造られている。昭和9年に伊藤祐民がアジア各地の仏蹟巡拝を行った折に見た、カンチェンジュンガの眺望を再現しようとしたようだ。

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飾り窓の内側にもモザイクタイルで模様を描いている。夏場に窓を開けたとき、コンクリート剥き出しで窓の外が殺風景になるのを避けようとした工夫かも?

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梁や柱にインド風装飾が施された舞踏室。上記飾り窓のエッチングガラスやインド風模様が施されている舞台の緞帳(写真では緞帳は上げられており見えない)は今回の修復工事で復元されたが、概ね創建当初からの造作が修復前より良く残されていた部屋である。

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舞踏室では、舞台の対面には暖炉を備え、側面はバーカウンターと造り付けソファがある。
改修前はおどろおどろしい雰囲気であったが、明るく綺麗になっていた。

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舞踏室の一角にある洗面所ともいわれる小部屋。

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壁画が描かれた地階ホール。修復前は天井を配管のパイプが縦横に走り無残な姿だったがこれも綺麗に撤去、壁画も補修されていた。また壁の照明器具が復元されている。

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今回より初めて公開されるようになった地下トンネルへの通路(但し見るだけで入れない)も、インド風装飾を施している。トンネルはマンション開発に伴い大部分は撤去されたため、通路は途中で閉鎖されている筈。かつては中庭園にあった迎賓施設である有芳軒(現存せず)に通じていた。

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階上への階段。

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二階ホールから階段室を望む。

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二階、玄関ポーチの真上に位置する書斎。床に貼られているのは、当時は珍しかったプラスチック製タイルであるという。また今回初めて知ったが、窓の上部には網代を貼るなど和風の仕上げも施されている。

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南側、庭園に面した寝室。簡素な造りの部屋で現在は展示室になっている。

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寝室に隣接する更衣室は和室。造り付けの洋服箪笥がある。

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更衣室の向かいには浴室・便所・洗面所がある。写真は便所跡。
便器は撤去されているが、床や腰壁のタイルや大理石は昭和12年当時のものが残されている。

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数寄屋風の洗面所。

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聴松閣内部には、5つの暖炉がありそれぞれ異なるデザインになっている。
一番モダンなのが、1階居間の暖炉。左手の扉は薪入れ。

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1階食堂の暖炉は焚き口のまわりに古瓦を埋め込む。ここでは火掻き棒などの備品も残されている。

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上部レリーフはカンボジアのアンコールワットのレリーフを模している、地階舞踏室の暖炉。

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地階・1階の3箇所の暖炉は創建当初のものがそのまま残されていたが、2階に2箇所設けられていた暖炉は焚き口を残して暖炉飾りは撤去されていたので、今回の修復に際して復元されたものである。

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同じく復元された二階支那間の暖炉。焚き口内部の耐火煉瓦には煤がこびりついており、この部分は復元ではない事が分かる。

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次回、引き続き聴松閣内部の細部や展示物に加え、紅葉が丁度見頃であった庭園(北庭園)の模様を併せて紹介させて頂く予定。

つづく

第695回・蘆花浅水荘(山本春挙旧邸)

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日本画家の山本春挙(1872~1933)が、自らの生地に近い滋賀県の膳所(現在の大津市中庄)に営んだ別荘。
大正4年~12年(1915~23)にかけて現在残る建物と庭園が造営された。現在は円融山記恩寺として拝観も可能である。国指定重要文化財。

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山本春挙は明治から昭和初年にかけて竹内栖鳳と共に京都画壇の雄と称された日本画家である。大正6年には帝室技芸員に任命、昭和3年の昭和天皇即位御大典に際しては饗宴場を飾る屏風の制作を川合玉堂と共に拝命、大作「主基地方風俗歌御屏風」を完成させている。

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山本春挙は自宅を京都御苑の近くに置いていたが、大正3年、別荘を建てるため生地に近い膳所の土地を購入、翌年より8年がかりで写真の主屋及び持仏堂が建てられた。また写真には写っていないが、最晩年の昭和8年には庭園内に茶室を一棟建てている。

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大正4年の造営当初に建てられた書院座敷。

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床や書院の造りに特徴がある。

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書院縁側は畳廊下、船底天井となっている。

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書院縁側からの庭園の眺め。

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庭園が琵琶湖につながっていたかつての庭園の眺め(昭和40年頃)。見学に際し拝見させて頂いた古い写真である。現在は、琵琶湖と蘆花浅水荘の間は道路で分断されている。

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茶席への寄付にも使われていた四畳半の小座敷。

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上記小座敷から望む路地庭。奥に茶席を兼ねた持仏堂「記恩堂」の茅葺屋根が見える。

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「記恩堂」全景。主屋とは吹き放しの渡廊下で結ばれている。山本春挙は自らが師事した画家・森寛斎と両親の霊を祀るためこの堂を造った。

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書院座敷に連なる「莎香亭」。

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「莎香亭」内部。円形窓の内側は神棚。

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「莎香亭」に連なる小室「無尽蔵」。山本春挙が書斎として画想を練ったという一畳半ほどの小部屋。
極めて小さな部屋であるが作り付けの書院や床の間、地袋まである。

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「無尽蔵」の窓からの眺め。

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「無尽蔵」と向かい合って配された座敷「竹の間」の窓。

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同上、室内から。

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「竹の間」から「無尽蔵」を望む。

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「竹の間」の床の間。その名の通り床柱から落掛、書院窓など竹尽くしの部屋。

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照明器具の外枠も竹。

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作り付けの書棚の取っ手も竹、襖絵は山本春挙自らの手になる竹藪、引手は竹藪に因んだ雀の形。

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中庭。四方竹を植えている。
竹の間から上記、竹藪の襖絵越しに眺められるように造られている。

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二階は洋風を基調とする。写真は応接間で暖炉も備えた本格的な洋室。

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応接間天井。家紋をあしらったシャンデリアも大正時代のものが残されている。

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暖炉。飾りではなく煙突があり、実際に燃料を焚くことができる。火掻き棒などの付属品も残されている。

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家具も一式残されている。半円形の椅子は同時期に建てられた洋館である兵庫県川西市の旧平賀義美邸にあるものと似ている。

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応接間の窓からは紅葉に色付いた庭木が見える。

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和洋折衷の画室。

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岩絵具を収納する作り付けの戸棚。手前のコードは呼び鈴のボタンが付いている。

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同じ大津市にある旧伊庭貞剛邸と並び、滋賀県下に現存する近代邸宅建築の白眉である。
拝観は円融山記恩寺へ。(有料・要予約)

http://www001.upp.so-net.ne.jp/rokasensuisou/top.htm

第694回・三木楽器

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楽器の販売と音楽関連事業を営み、文政8年(1825)創業と楽器販売業としては最古の存在である三木楽器(株)の本社屋。創業百周年記念事業として大正14年(1925)に建てられた。国登録有形文化財。

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三木楽器の本社屋は大阪市中央区(旧東区)北久宝寺町3丁目、心斎橋筋に面して建っている。
建物脇に設置されている解説版にある、当時絵葉書に用いられた創建当初の写真。

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現在の正面。心斎橋筋を覆うアーケードのため、建物正面の全景を見ることは出来ない。

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正面玄関。ガラスの扉は後補で、奥のシャッターの内部には木製の重厚な扉とステンドグラスの嵌った欄間が創建当初のまま保存されている。(→大阪府登録文化財所有者の会のホームページで、シャッターを上げた状態の写真が見られる)

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全景を見る事ができるのは北側だけである。

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ドイツにあったピアノ製造会社・スタインウェイ社の当時の本社屋を模したとされている。なお三木楽器は大正10年にはスタインウェイ社の日本総代理店となっている。

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明るい色調のタイルを芋目地(枡目状になった目地)に貼った外観は、同じ大阪府下に建てられた大正期の洋館である旧谷口房蔵別邸などと共通する特徴がみられ、この建物も旧谷口別邸と同様、ドイツのユーゲントシュティールを取り入れてデザインされたものと思われる。

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窓台や付け柱の上部にはテラコッタの装飾を取り付ける。

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設計者の増田清は大阪と広島で設計を多く手掛けており、原爆で罹災した旧広島市庁舎(現存しない)や、爆心近くに今も現存する旧大正屋呉服店(現・広島市平和記念公園レストハウス)の設計者としても知られる。

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側面玄関に掲げられた石造りの看板。表記は当時の社名が「大阪開成館三木佐助商店」であったことによる。
文政8年に書籍販売業として創業、楽器の販売は明治21年より始めている。

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内部も、階段や天井梁の装飾などに創建当初の造りをよく残しているという。

第693回・旧大津市公会堂

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滋賀県大津市浜大津にある旧大津市公会堂は昭和9年(1934)の建築。
茶褐色のスクラッチタイルを貼った風格ある外観が特徴。国登録有形文化財。

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京阪電車の石山坂本線浜大津駅のそばに建っている。先日紹介した石田歯科医院にも近い。
なお、この路線の終点、石山寺駅の近くに以前紹介した旧伊庭貞剛邸が建っている。

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創建当初は大津商工会議所と大津市立図書館とを併設していたという。

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かつては公会堂の真向いに、時計塔のある旧大津市庁舎が建っていた。

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第二次大戦後に大津商工会議所が移転した後は、公民館、大津市の診療所、社会教育会館と用途を転々とする。

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昭和初期の建物ではよく見られる円形窓。
同時期の建造物では神戸の御影公会堂(昭和8年)、旧新港相互館(昭和9年)などが、同系色のタイル貼り仕上げ、かつ円形窓で外観を飾っている。

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正面上部のパネル飾り。

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正面玄関から内部を望む。

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平成21年から翌年にかけて耐震補強を伴う改修工事が行われ、現在はレストラン等商業施設が入居するほか、集会施設としても活用されている。

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この照明器具は、創建当初から残されているもの。

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大津市内に現存する近代建築物の中でも当初の姿をよく残しており、地元でもとりわけ親しまれている建物のひとつのようだ。

第692回・観心寺恩賜講堂

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昭和3年(1928)に京都御苑内で行われた昭和天皇即位の御大典のため、建てられた饗宴場の一部が現在、大阪府河内長野市にある高野山真言宗の寺院・観心寺に恩賜講堂の名で保存されている。国登録有形文化財。

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観心寺は奈良時代に役小角が修行の道場として開き、雲心寺と称したことに始まるという歴史を有する寺院。平安時代初頭に弘法大師(空海)によって現在の寺号に改められた。

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国宝に指定されている本堂。室町時代初期の創建と伝わる。
観心寺は南朝及び楠木正成ゆかりの寺院としても知られる。後醍醐天皇は建武新政後、金堂造営の詔を出され、楠木正成が奉行として金堂の造営に当たったと言われる。

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楠木正成の発願によって三重塔が造営されるはずだったのが、湊川の戦いで楠木正成が討死したため未完に終わり、一層目だけが現在に伝わる建掛塔。正成の首塚も同寺境内にある。

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境内の北西奥にひっそりと建つ恩賜講堂。通常は非公開であるが、河内長野市の催事で特別公開があることを知り今回訪れたものである。

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今回の公開に際し展示されていた、観心寺移築当初の古写真。
筆者の手とカメラが写り込んでしまっているのはどうか御容赦頂きたい。

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宮内省から下賜された饗宴場の移築工事は、昭和4年11月から翌5年5月にかけて行われ、京都から河内長野駅まで鉄道で運ばれた解体部材は、駅からは牛車と人力で観心寺境内まで運ばれたという。

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饗宴場の建物は観心寺のほか、大阪北郊の関西大学と奈良の橿原神宮にも下賜、それぞれ移築・再利用されていたが、橿原神宮に移築されたものは平成10年の台風で屋根が吹き飛び大破、取り壊され現存しない。

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関西大学のものは戦後昭和28年に再移築、千里寺本堂となって現存する。恩賜講堂と同じく国登録文化財となっている。(参考)文化遺産オンライン 千里寺本堂

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当初は鮮やかな丹塗りであったと思われるが、現在はすっかり剥げ落ち、色褪せてしまっている。

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設計は宮内省内匠寮。
現在地への移築設計は、大阪府技師から転じて建築事務所を開業、岸和田城天守の再建など戦前から戦後にかけて大阪府下を中心に設計活動を行った池田谷久吉による。

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近代以前の社寺仏閣とは異なる雰囲気を感じさせる、外壁に取り付けられた洋風の照明器具。

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仮設の建物とはいえ、堂々たるものであるが、内部に入ると更にその思いを強くする。

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かつて皇居にあり、戦災で失われた明治宮殿を思わせるような内装が広がっている。

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二条城御殿など、限られた建物でしか見る事のできない二重折り上げ格天井。

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現在は老朽が進み、通常は使用・公開はしていないとのことだが修復が望まれる。

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先述の外観写真と同じく、展示されていた移築当初の古写真で、内部を写したもの。

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戦前、戦後を通じて講演会や演奏会、武道の競技会場などに使われてきた。戦時中は疎開学童の受け入れにも使われていたという。

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壁に取り付けた照明器具やカーテンボックスにも装飾が施されている。壁布なども饗宴会場で使われていたものをそのまま再利用したのが現存していると思われる。

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長押の飾り金物には正成に因む菊水の紋。移築に際しての創作か、当初からのものかは不明。

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美しい彩色が施された折り上げ格天井と共に、華麗さを演出しているシャンデリア。

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真珠のようだ。

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壮麗の一語に尽きる。

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今回の特別公開の情報は、以前弊ブログの記事にコメントを頂戴したquatrefoil-window様のブログ「光の射すほうへ」から得たものである。貴重な情報を御自身のブログで発信されて居られるquatrefoil-window様に、心より御礼申し上げます。

第691回・浪花教会

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戦前の近代建築が点在する大阪・船場の北部に残るキリスト教教会の建築。
昭和5年(1930)に竣工した日本基督教会浪花教会である。

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銀行・証券関係の事務所が多い金融街である高麗橋の2丁目、三休橋筋に面して建っている。

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三休橋筋では以前紹介した備後町の綿業會舘など、近代建築もいくつか見る事ができる。

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設計施工は竹中工務店であるが、ヴォーリズが設計指導を行っている。

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浪花教会は日本基督教団に属する教会で創立は明治10年(1877)。

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入口脇の定礎石には定礎年が「昭和五年五月」「紀元千九百三十年」と、和暦と西暦で記載されている。なお、同時期の建築である東京中央郵便局(昭和6年)の定礎石には皇紀で記載されていた。(→過去記事参照

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ゴシック調の重厚な塔屋を見あげる。

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外からの写真では分かりにくいが、上階の礼拝堂の窓にはステンドグラスが嵌め込まれている。

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壁が所々黒ずんでいるのは空襲の痕跡かも知れない。

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隣接して辰野金吾設計の赤煉瓦建築である、旧大中証券(明治45年竣工)が建っている。
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