第726回・旧宇都宮商工会議所玄関

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宇都宮市の栃木県立中央公園内に、昭和3年(1928)に建てられた旧宇都宮商工会議所の玄関ポーチ及び外壁の一部が保存されている。

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前回まで栃木県宇都宮市の大谷石を用いた建物を取り上げてきたが、今回はその一部分だけが残されている事例である。

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旧宇都宮商工会議所の建物は、宇都宮の中心市街地、現在の宇都宮中央郵便局付近に建っていたという。
元々は鉄筋コンクリート三階建で、現在保存されているのは玄関ポーチと外壁の一部である。

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ポーチの正面には、宇都宮商工会議所の文字が現代的な書体でロゴマークと組み合わされて張りつけられているが、はっきり言って建物には全然合っていない。

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前回の旧大谷公会堂と同様、大谷石の部分には旧帝国ホテルの影響を受けたと思える装飾が施されている。もしそのままの規模で残っていたら、宇都宮市内でもカトリック松が峰教会と並ぶ、大谷石で飾られた近代建築となっていたと思われる。

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宇都宮商工会議所のホームページにある昔の画像を見る限り、そのまま移築復元したのは玄関ポーチだけで、両脇の外壁は建物の外壁の各部分を切り取って新たに再構成したような感じである。

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設計は、栃木県立宇都宮工業学校(現・栃木県立宇都宮工業高等学校)の初代校長である安美賀(やす・みよし)氏の手になる。

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設計に際しては、建物に大谷石を使用するよう地元からの陳情を受け、外装材として使用することになったという。

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旧宇都宮商工会議所は昭和54年に解体されたが、保存運動を受けこのような形で一部が現在地に移築されることになった。かつての建物の極く一部分でしかないのだが、濃密な装飾を持つポーチと壁はそれなりの存在感がある。

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公園の中に東屋のような形で置かれており、保存の手法としては明治村にある旧東京盲学校のポーチと同じような印象を受ける。
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第725回・旧大谷公会堂

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前回に引き続き、宇都宮市大谷町(旧城山村)にある大谷石を用いた石造建築物。屏風岩石材や大久保石材とは目と鼻の位置に建っている。昭和天皇即位の御大典を記念して、昭和4年(1929)に在郷軍人会によって旧城山村公会堂として建てられた。現在は宇都宮市が所有管理し、「旧大谷公会堂」として国の登録有形文化財となっている。

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設計者は栃木県内でも最初期に設計事務所を開いた更田時蔵。先日紹介した旧大内村役場(現大内資料館)の設計者でもある。

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旧大谷公会堂については、更田時蔵氏が開いた設計事務所である(株)フケタ設計及び氏の子孫が営まれている設計事務所(更田邦彦建築研究所)のホームページで建物の来歴や設計図面を見ることができる。本記事もこちらの両ホームページを参考に作成させて頂いている。

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旧大谷公会堂の大谷石は外装材ではなく、構造材として大谷石を積み上げて建てられた組積造の建築である。なお外装材として大谷石を用いた建物で有名なのは、同じ宇都宮市にあり、以前紹介したカトリック松が峰教会などがある。

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一般的には、大正12年の関東大震災を機に、煉瓦や石による組積造の建物は建てられなくなったとされているが、震災を機に全く建てられなくなった訳ではないことが分かる。とはいえ関東大震災後の組積造の建築は非常に珍しいと思われる。

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先日の屏風岩石材石蔵の記事でも触れたが、大谷石は関東大震災と同年に新築開業したF・L・ライト設計の、旧帝国ホテルの内外装に多用されている事でよく知られている。またその他のライト作品(兵庫県の旧山邑邸など)でも使われている。

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震災に耐えたことで旧帝国ホテルは建築界の注目を集め、内外装に用いられた独特の装飾デザインと外装材のスクラッチ煉瓦(タイル)は、その後全国的に流行する。

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旧大谷公会堂でも、玄関まわりや正面に建つ4本の石柱の頂部には、帝国ホテルを思わせる幾何学的な装飾が施されている。

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正面に建つ4本の石柱は、それぞれ玄関から頂部まで一本ものの石材が用いられているという。

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現在は倉庫として使われているが、この地域を代表する大谷石を用いた建造物として、先述の更田邦彦氏など多くの方々が再生活用の用途を探って居られる。取組の成功を願って止まない。

第724回・大久保石材店

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前回紹介した屏風岩石材とは目と鼻の先に建っていたのが、写真の大谷石の巨岩をくり抜いて造られた建物。当ブログでは度々参考にさせて頂いている、藤森照信・増田彰久両氏による書籍「歴史遺産 日本の洋館」の「第四巻・大正編Ⅱ」にて「大久保検治邸」として紹介されている建物である。大正13年(1924)竣工。

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県道から見える大久保石材店全景。
左手、道路沿いに石蔵が建ち、その脇に離れとして建てられた、巨岩をくり抜いて造られた建物。街路からは屋根の一部しか見えないが、その奥には幕末期の建造と伝わる母屋が建っている。

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離れの脇に通路があり、敷地への出入り口になっている。ここは元々岩山であったが、占い師から巽の方角を切り開くよう進言があり、山を切り通して道を造ったが、そのついでにこの離れを彫り出したそうである。

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このたび、平成25年度の宇都宮市まちなみ景観賞を受賞することになった石の離れ。
(参考)宇都宮市ホームページ
 
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巨岩部分と四角い離れ本体は、ひとつの岩として一体であることが分かる。

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岩をくり抜いて建造物を造った同時期の例として、埼玉県吉見町の遺跡・吉見百穴の近くで、地元の農夫が自宅裏の崖を明治末から大正にかけ約20年掘り続けて窖の建造物を造り出し人々から「巌窟ホテル」と称されたものがある。

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当時絵葉書の題材にもなったという「巌窟ホテル」だが、現在こちらは荒廃が進み、残念ながら立ち入りはできないとの事である。(参考)吉見町ホームページ

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離れの岩山に隣接して建つ石蔵は昭和12年(1937)の竣工で、大久保邸の建物の中では最も新しい。

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窓の配置や大きさなど、屏風岩石材の西蔵を意識したような大久保石材の石蔵。

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ところで、今回記事の作成に当たり「歴史遺産 日本の洋館」第四巻・大正編Ⅱに収録された建物の目次を見ると、2件を除き、全て当ブログで紹介している事が分かった。こうなれば全件制覇と行きたい所だが、別府の和田豊治別邸は取り壊され、岐阜県大垣市の矢橋亮吉邸は企業施設で外観を見るのも難しいと思われるので、残念ながら全件制覇は不可能である。

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下記が「日本の洋館」第四巻収録の建物一覧。建物名をクリックすると過去の当ブログ記事にリンクするので、ついでにこれらの記事も御覧頂ければ幸いである。

野口喜一郎邸 谷口房蔵別邸 松風嘉定邸 三輪善兵衛邸 和田豊治別邸(現存せず) 矢橋亮吉邸(非公開) 土岐章邸 大久保検治邸(今回の建物) 小出収邸 鳩山一郎邸 朝吹常吉邸 佐藤瀧次郎邸

第723回・屏風岩石材石蔵

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栃木県宇都宮市西郊の大谷(おおや)町は、旧帝国ホテルに使用されたことで建築界では有名になった大谷石の産地である。その大谷町には大谷石を用いた建物が多く存在するが、当地でも老舗の石材加工業者である、屏風岩石材の石蔵は代表格と言える。栃木県指定有形文化財。

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栃木県道70号線(大谷街道)から分岐する県道188号線に面して建つ屏風岩石材石蔵。中央に構えた冠木門の両側に、二棟の石蔵を配する構成となっている。高い石垣の上に建ち、商品である石材の宣伝を兼ねて建てられたと思われる。

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写真手前が明治41年(1908)竣工の西蔵で、内部は畳敷きの居室で構成される座敷蔵である。
奥が東蔵で、竣工は西蔵よりも少し遅く、明治45年(1912)に上棟されたことが判明している。東蔵は穀物蔵として建てられた。

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2つの蔵の間に設けられた堂々たる冠木門。

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石蔵は2棟共、店主の渡辺陳平が自ら設計。建設に際して渡辺は棟梁と石工を連れて、東京や横浜の洋風建築を見て歩いたという。石蔵の意匠には随所に洋風建築の要素が見られる。

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渡辺陳平はそれまで農業の片手間で行われていた大谷石の切り出し・加工を一代地場産業として発展させたほか、県会議員、衆議院議員を務め政治家としても活躍、また著名な栃木県の私立学校として知られる現在の作新学院の創設にも関与した人物である。

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東蔵は柱や窓周り、切妻部分の付柱の柱頭飾りなどの造形に洋風建築の要素が見られる。

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切妻部分の付柱の柱頭飾り。イオニア式柱頭飾りにも似ているが、洋風とも和風ともつかない独特の形状。

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大谷石を用いた建造物の中には、構造は木造や鉄筋コンクリートで、外壁に大谷石を積み上げ(貼り付け)た建物も存在するが、屏風岩石材の2棟の石蔵はいずれも、石を積み上げて外壁を築き上げた純然たる石造建築である。

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西蔵の屋根は、東蔵の切妻屋根に対して寄棟屋根とする。屋根の形状も相まって西蔵の方が西洋館らしい外観となっている。現在は普通の桟瓦葺となっているが、かつては二棟とも屋根まで瓦型の大谷石で葺かれていたという。

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東蔵は角を西洋館の付柱風に仕上げているのに対し、西倉はこれも西洋館式に、隅石を見せる仕上げとしている。

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アーチ窓を3つ、2段に並べて配している。
なお私有地なので立ち入ることはできないが、反対側にある蔵の入口は唐破風を設けている。

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先述のとおり西蔵の内部は畳敷きの座敷になっており、しかも床の間と違い棚を備えた本格的な座敷となっている。
商品である石材を全面に用いた外観からしても、商売上の来客を接待するために建てたのかも知れない。

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屏風岩石材だけではなく、この周辺には大谷石を用いた近代の建造物が多く見られる。それらの一部を次回以降に紹介させて頂く予定である。

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大谷町を代表する石造建築として、屏風岩石材石蔵は平成18年に栃木県指定有形文化財となっている。
(参考)とちぎの文化財

第722回・フジハラビル

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大阪市北区天神橋にあるフジハラビルは、大正12年(1923)に乾物問屋の社屋として建てられたビル。
施工は大林組、設計は不詳。

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大阪天満宮の近く、天神橋筋商店街から東側に入った街路に面して建つフジハラビル。

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鉄筋コンクリート造、地下1階地上4階建の建物は、外壁の正面と側面の一部には茶褐色のスクラッチタイルを貼っている。スクラッチタイルが流行するのは、同じ大正12年の帝国ホテルの竣工以降なので最初期の建物と言える。

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背後にあるのは、別棟として建てられた倉庫と思われる。

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現所有者は、自らビルの維持修復を行いつつ、建物を演劇や音楽など、芸術活動の場としても積極的に活用を図っている。

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正面外壁の大きなアーチが外観のアクセントになっている。

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屋上にはオーナー自らが建てた温室が見える。

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玄関。

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玄関床のモザイクタイル。

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大正12年竣工とされるフジハラビルは、大林組の手掛けたスクラッチタイルを用いた建物としては旧大林組本店(大正15年、現・ルポンドシエルビル)などに先行する最初期の建物と思われる。

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先日紹介した同じ大阪市内の伏見ビルと同様、所有者の建物に対する強い愛情が感じられるビルである。

第721回・旧三井八郎右衛門邸

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東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築、公開されている旧三井八郎右衛門邸は、三井家総領家である三井北家当主で、旧三井財閥の総帥でもあった11代三井八郎右衛門高公(1895~1992)が、戦災で焼失した旧本邸に代わる新本邸として敗戦後、旧本邸の焼け残りに京都、大磯など各地の別邸の部材を集めて再建したもの。

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三井家の旧本邸は昭和20年5月の空襲で焼失するまで麻布今井町(現港区六本木)にあった。10代三井八郎右衛門高棟(1857~1948)によって明治39年(1906)に建てられた旧本邸(今井町邸)は敷地面積約1万3千坪の大邸宅で、大正11年の英国皇太子来訪に際しては政府の要請により、晩餐会など接待の場として用いられた。

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敗戦後GHQによって三井財閥は解体され、三井家旧本邸の跡地は接収される。講和条約発効により日本が主権を回復した昭和27年(1952)、三井高公は近隣の麻布笄町(現港区西麻布三丁目)に場所を移して本邸を再建した。なお旧麻布今井町の旧邸跡は現在、米国大使館の宿舎となっている。

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本邸の再建に際しては、主に京都の油小路邸の奥座敷や大磯別邸(城山荘)の部材を用い、旧今井町邸からは焼け残った土蔵や正門、庭石等が、また世田谷区用賀にあった三井家関連施設からも部材が集められた。しかしこの邸宅は、世代が変わる毎に個人財産は分散させられるように仕向けられている現行税制の下、三井高公氏一代限りで終わる。

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平成4年に三井高公氏が死去すると、都心の超一等地にある大邸宅(旧今井町邸に比べたら小規模なものだが)は莫大な相続税が課せられたのは想像に難くない。敷地は売却、邸宅は規模を縮小して主要部のみ庭石や正門等と共に江戸東京たてもの園に移築された。なお移築前の母屋は、写真の土蔵が写っているあたりまでの規模があった。

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土蔵はかつて三井の本拠地である日本橋駿河町(現在の室町、三越本店三井本館がある辺り)に建っていたもので、三井家では「絹蔵」と呼ばれ、由緒ある蔵として大切に扱われてきた。駿河町→麻布今井町→麻布笄町を経て、最後は江戸東京たてもの園に落ち着いたものである。

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現在保存されているのは、旧油小路邸や旧大磯別邸の部材で構成された部分が主になっているが、昭和27年の新築部分も台所や階段室などごく一部が残されている。構造はコンクリートブロック積で、庭園側とは全く異なる表情を見せる。

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旧油小路邸の部材が使われている玄関。旧油小路邸は明治23年(1890)に、二条城に近い現在の京都市中京区油小路に建てられ、先代当主の10代高棟も設計に関わったとされる。

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内側からみた玄関。ガラス戸がモダンな印象。今日の一般住宅と比べても少々広い位の規模。財閥解体後に建てられたとはいえ、日本最大の財閥当主の本邸玄関として見ればむしろ小さすぎるとも取れる。もっとも住む分にはこの程度が丁度良かったのかも知れないが。

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玄関に2つある照明は、旧朝香宮邸の装飾でも知られるフランス人ガラス工芸作家、ルネ・ラリックの制作。

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玄関脇にある和室は、旧大磯別邸で「望海床」と名付けられていた座敷を接続したもので、趣味人であった10代高棟の画室として使われていた部屋。大磯時代は床にオンドル式の暖房設備があったという。

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望海床から庭を望む。床の間や建具などに趣向を凝らした座敷である。

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サンルーム的な使い方をしていたと思われる、広く取られた縁側。突き当たりにある櫛型の窓は、桂離宮をデザインモチーフにしたと思われる。

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縁側及び、客間と食堂から構成される書院部分は柱から建具、天井まで旧油小路邸の部材で構成され、玄関まわりに見られた昭和戦後のモダンさはなく、明治の重厚さが溢れる空間になっている。

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やや中国風の意匠を持つ洋式椅子と卓子を書院座敷に配した客間。

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客間と食堂の間の欄間は卍崩しの意匠。

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草花の画が描かれた格天井。

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客間とは襖で仕切られた食堂。客間や食堂の襖や障子、戸袋に描かれた絵の多くは、森寛斎など四條円山派の画家の手になる。なお森寛斎は、以前当ブログで別邸を紹介した山本春挙の師に当たる。

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一転してモダンな雰囲気に変わるのが、昭和27年新築部分である台所。

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二階仏間前廊下のガラス製シャンデリアは、駿河町にあった三井組ハウス(明治7年竣工、同30年取り壊し)で使われていたもの。日本に持ち込まれたものとしては現存最古級のシャンデリアである。

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二階には仏間の他座敷二間が保存されているが、これは旧油小路邸の座敷を移築したものである。旧油小路邸の奥書院では田の字型に座敷が配されていたが移築に際して分離、それぞれ階上と階下に分けて一階は客間及び食堂に、二階は高公夫妻の居室や寝室として使われた。

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三井高公氏が晩年まで使っていたというベッド。

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時代に翻弄されて、再三にわたり流転を重ねその都度規模を縮小し、野外博物館の一展示物として辛うじて生き永らえている現在の旧三井邸。その姿には三井財閥の往年の威勢よりも、筆者には何かしら惨めさ、痛ましさが先に感じられてならない。

第720回・日光物産商会

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現存最古のホテル建築で現在も営業を続けている、日光金谷ホテルの門前に建つ日光物産商会は、当初は日光金谷ホテルの土産品を取り扱う店舗として明治時代後半に建てられた。現在は観光客向けの飲食店と土産物店が入っている。国登録有形文化財。

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日光物産商会は日光金谷ホテルの門前に建っている。写真はホテル側から見下ろした建物背面。

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元々は日光金谷ホテルの土産物店であったためか、屋根瓦には笹をあしらったホテルのマークが見られる。

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当初は伝統工芸の日光彫や木工品、漆器の製造販売、輸出を手掛けていたという。

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二階側面にある寺院風の花頭窓や、軒下及び二階欄干まわりに施された彫刻など、少々過剰に日本情緒を演出した外観は欧米人観光客を意識したものである。

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昭和3年に日光金谷ホテルから独立、(株)日光物産商会となり現在に至る。

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一階の土産物コーナー。
現在は飲食店や日光金谷ホテルのパンを販売する金谷ホテルベーカリーなどが建物の大半を占めている。

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唐獅子の彫刻が載る階段踊り場の親柱。

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二階のカフェレストラン。

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内部も昔の姿をよく残している。

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日光金谷ホテルや以前紹介した石造の洋館である旧ホーン邸などと共に、明治から昭和戦前まで欧米人のリゾート地としても繁栄していた日光の歴史を伝える建物のひとつである。

第719回・旧大内村役場(大内資料館)

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栃木県真岡市飯貝にある大内資料館の建物は、昭和4年(1929)に大内村(芳賀郡大内村)の村役場庁舎として建てられたものである。現在は市内から出土した土器・埴輪等の埋蔵文化財を保存する施設として活用されており、真岡市の登録文化財となっている。

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田園の中に佇む旧大内村役場。
前を通る車道からは奥まったところに建っているため、ほとんど見えない。

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正面全景。
鉄筋コンクリート構造の採用は、村役場庁舎としては全国的に見てもかなり早い部類に属すると思われる。またアーチを多用したデザインも斬新で、当時としては極めてハイカラな村役場として評判になったものと思われる。

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2種類のタイルを貼った門柱も庁舎同様にモダンなデザイン。

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大内村は明治22年の町村制度施行と同時に発足した村である。
昭和3年に新庁舎の建設が決定、当時の金額で14,200円の工事費をかけて翌4年に竣工した。

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昭和29年に真岡町(同年、市に昇格)に吸収・合併され大内村は消滅、以後庁舎は真岡市公民館大内分館として使われた。昭和63年に大内資料館となり、現在に至っている。

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正面と両側面はアーチ窓が連なるモダンな外観であるが、背面は無機質な姿。

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敷地裏手にある石造りの蔵。役場の文書庫だろうか。

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真岡市のホームページでは埋蔵文化財を展示しているとあるが、収蔵・保管のために使われているような雰囲気で、公開している感じではなかった。

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塔屋は角に半円形の窓を折れ曲がった形で配し、特に印象的なデザインが施されている。

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3連アーチの玄関ポーチ。

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少々荒廃した印象があり、珍しい外観の近代建築だけに些か勿体ない印象を受ける。

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模様を型押しした玄関ポーチの床タイルも、他であまり見かけないものである。

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目立たない場所にあるためかあまり知られていないが、栃木県下の近代建築としてもっと注目されてもよいのではと思わせる建物である。

(26.1.30 追記)
設計者は栃木県内でも早くから設計事務所を開いていた更田時蔵。氏が開いた設計事務所である(株)フケタ設計のホームページでは、建物の紹介及び設計図面を見ることができる。

第718回・伏見ビル(旧澤野ビルヂング)

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大阪市中央区伏見町にある伏見ビル(旧澤野ビルヂング)は、大正12年(1923)竣工と伝わる鉄筋コンクリート造3階建の小さなビル。隣接する、当ブログでも既に紹介済の青山ビル(旧野田家住宅)と共に国登録有形文化財。

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アールデコ風の外観が特徴。昭和に入ってからの建築でアールデコ風の建物は多く見られるが、大正12年竣工の建物としてはかなり斬新なものである。

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フィルムカメラで撮っていた時代に撮った伏見ビルの写真を発見したので、スキャナーで取り込んでみた。正確な撮影時期は覚えていないが、15~18年程前ではないかと思う。当時は1階を白色、2・3階はピンク色に塗られていたが汚れが目立ち、少々おどろおどろしい感じがしたものだ。

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これは10年ほど前の撮影と思うが、外壁は現在の色に塗り変えられている。1階まわりが現在に比べるとまだ雑然としている。なお、左奥に写るツタの絡む建物は青山ビル。

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現在の姿。(撮影は昨年)
近年、1階まわりを中心に改修が行われた。

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トンカツ屋が入居していた所は美容院に変わり、外観も建物の雰囲気に調和したものになっている。

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また空調の室外機なども目立たないよう、新設された庇で覆い隠されている。

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設計は辰野片岡事務所出身の長田岩次郎と伝わるが、詳細な経歴は不詳。当初は事務所ビルとして建てられたとも、もしくはホテルとして建てられたとも伝わる。

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なお、創建当初からかどうかは分からないが、実際にホテルとして使われていたことはあるらしい。
その後現在に至るまでテナントビルとして、これまで喫茶店、理髪店、飲食店などが入居してきた。

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1階正面玄関脇の、アーチ型の出入り口と窓が穿たれている場所は戦前は理髪店で、今も室内にはモダンな装飾が施された鏡や戸棚など、当時の内装が残されている。現在この部屋はギャラリーとして使われている。

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内部の柱や壁は太く厚く造られており、堅牢な造りながらも角を丸くした柔らかい雰囲気の空間が特徴。外観と同様装飾は殆ど無いが、ビルの外観をあしらったすりガラスが1階ホールに嵌め込まれている。写真はかつての電話交換室とされる部屋の小窓。

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現在の所有者はこの建物を非常に大切にされており、少しずつ改修を重ねモダンな大正建築の姿を甦らせようとされていることが窺える。

(参考)文化遺産オンライン
    大阪府登録文化財所有者の会
    船場近代建築ネットワーク

第717回・名古屋市役所本庁舎

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以前当ブログでは、全ての都道府県庁所在地で、戦前建築の市役所庁舎が残されている静岡、名古屋京都、鹿児島の4市のうち、静岡京都の市庁舎を紹介済であるが、今回は名古屋市庁舎の紹介。昭和8年(1933)竣工で、隣接する愛知県庁舎と共に、国の登録有形文化財となっている。

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名古屋市役所は明治22年の市制施行後、現在の栄交差点付近に木造の庁舎を構えていたが、明治40年に火災で焼失する。跡地はいとう呉服店(現在の松坂屋)に売却され、名古屋建築界の大御所・鈴木禎次の設計による名古屋初の欧米式デパートメントストアーが明治43年に開店、円形ドームを戴く洋風建築は名古屋市民の間で評判となった。

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火災後、現在の中区役所のあたりに移転するが、昭和天皇即位御大典の記念事業として名古屋城三の丸への移転新築が計画され、昭和8年に現庁舎が竣工、再度移転し現在に至る。なお同時に計画された愛知県庁舎の移転新築は県会の反対などから事業は遅れ、市庁舎より5年後の昭和13年に竣工した。

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設計は建築設計競技で選ばれた平林金吾の案を基に名古屋市建築課が行い、施工は大倉土木(現大成建設)が当たった。平林金吾は大正15年に竣工した大阪府庁舎の設計競技でも応募、一等当選を果たしている。

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隣接の愛知県庁舎や神奈川県庁舎京都市美術館などと共に、帝冠様式の代表的建築である。平成元年に名古屋市の都市景観重要建築物、平成10年には国の登録有形文化財となり、近年耐震改修工事が行われている。

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本庁舎の背面に建てられた東庁舎は分庁舎の中でも新しく建てられたものだが、本庁舎との調和を重視した外観となっている。

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愛知県庁舎との2ショット。帝冠様式の建築が二棟並ぶのは全国でもここだけ。
なお、愛知県庁の奥にある財務局庁舎の敷地には、県庁舎に引き続き税務監督局の庁舎新築が予定されていたが戦争のため実現しなかった。税務監督局が帝冠様式で実現していたら、一層迫力のある景観になっていたと思われる。

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名古屋城天守閣を意識して塔屋の頂上には、四方睨みの鯱が載せられている。
大時計は平林金吾の設計原案には無く、名古屋市建築課の実施設計の段階で付け加えられた。

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塔屋の屋根の下には、テラコッタでできた魔除けの鬼面が24面配されている。遠目にしか見えないが、近くで見れば前回の旧大阪ビル東京分館と同様、結構迫力がある(もしくは不気味)のではないだろうか。

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正面5階内部には和風の格天井を持つ正庁があり、現在も各種式典のための部屋として使われている。近年は11月3日の文化の日前後に、正庁を含めた内部公開のイベントが行われているようである。

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正面玄関ポーチ。テラコッタ製の瓦で縁取られている。名古屋市庁舎では玄関ポーチや塔屋を中心にテラコッタが多用されている。

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側面玄関。

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内部も先述の正庁のほか貴賓室、階段室など見どころが多いので、機会があれば内部の写真も追加したい。

第716回・旧大阪ビルディング東京分館の装飾

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前回取り上げた日比谷公会堂・市政会館より、内幸町の交差点を挟んだ場所にはかつて、大阪ビルディング東京分館があった。建物自体は昭和の末に姿を消したが、旧ビルの装飾は今も新ビルの随所に見ることが出来る。冒頭から不気味な画像で恐縮だが、これらは昭和2年(1927)に竣工した旧大阪ビル東京分館一号館を飾っていた鬼面・獣面像である。先日のダイビル本館(旧大阪ビルディング)の記事のおまけ程度に読んで頂ければ幸いである。

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旧大阪ビルディング東京分館は昭和2年竣工の一号館、同6年竣工の二号館の二棟で構成されていたが、現在両者の跡地は日比谷ダイビルと公開空地になっている。旧ビルの装飾は、日比谷ダイビルの内外装と公開空地の噴泉まわりに飾られている。

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旧大阪ビルディング東京分館は一、二号館共に大阪の本社(大阪ビルディング本館)と同じく渡辺節の設計による。ロマネスク風の一号館とゴシック風の二号館が渡廊下で繋がれ、特に上階に鬼面・獣面が連なる一号館は「お面のビル」として親しまれていたという。旧ビルの画像は渡辺節の設計事務所のホームページで見ることが出来る。

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現在残されているのは、主に旧一号館のテラコッタ製外部装飾である。特徴的な鬼面・獣面は解体時に殆どが取り外され、その一部が新ビルに再利用されている他、愛知県常滑市のINAXライブミュージアム内にあるテラコッタパークにも展示されている。また昨年竣工したダイビル本館のサロンにも、鬼面のひとつが飾られている。

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日比谷ダイビル自体の詳細については、近代の建物紹介を主目的とする当ブログとしては、旧ビルの装飾が随所に組み入れられている点以外に特段注目するものはないので、省略させて頂く。

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旧二号館のあった場所が現在公開空地となっており、噴泉が設けられている。そこにも旧一号館及び旧二号館の装飾が残されている。

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水吐口として使われているトラの彫像。かつてはビル最上階の外壁に並んでいた。

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反対側には口を閉じたトラと、ブタの頭部が並ぶ。

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ブタをはじめとするこれら彫像は、大阪ビルディング本館と同様渡辺節の下で製図主任を務めた村野藤吾がデザインを手掛けたという。

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旧一号館の通用口にあった小アーチはそのまま移設保存されている。アーチを取り巻くように様々な動物が配されている。なお当ブログで以前紹介した、同じくロマネスク風の外観を持つ神田の丸石ビルディングにも似たような装飾を見ることが出来る。

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旧二号館の装飾もわずかながら残されている。一階外壁にあった石のレリーフ。
ブドウの下にいるキツネや鳥などがあしらわれている。

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旧大阪ビルディング東京分館には、大阪商船東京支店を始め住友銀行など大阪の企業が多く入居した他、大正12年創業の文藝春秋社が新築後すぐ入居、敗戦後ビルを接収されるまでの約20年間入居していた。また外国領事館が多く入居した大阪の本社ビルと同様、東京分館にもソ連通商部などが一時入居した。

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旧ビルの7階から8階の外壁を飾っっていた鬼面・獣面像。

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こうやって見るとちょっと晒し首のような・・・

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旧一号館の正面玄関は大阪の本社と同様、ロマネスク風の大アーチで飾られていたが、現在の建物ではアーチを支えていた動物像だけが玄関に飾られている。なおアーチ部分も別に保存されており、内部にある特別室専用の中庭を飾っているという。(参考「ダイビル75年史」)

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旧ビルの正面2階外壁にあった男女のブロンズ像。大阪本社の玄関を飾っている鷲と少女の像と同じく、大国貞蔵の制作。現在はエントランスホール内部に飾られている。

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個性的な装飾が一通り残されているのはせめてもの慰めであるが、置かれた場所はいずれも周囲と浮いた印象は否めない。仕上材も旧ビルに近い煉瓦タイルなどを使っていたら大きく印象も違ったと思うのだが、いかにも現代建築風の建材で周囲を固められた姿は、どうにも残念である。

第715回・日比谷公会堂・市政会館

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日比谷公会堂・市政会館は、早稲田大学大隈講堂などの設計で知られる建築家・佐藤功一の設計で昭和4年(1929)に竣工した。近代ゴシック様式建築の傑作である。東京都選定歴史的建造物。

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内幸町交差点から望む日比谷公会堂・市政会館。日比谷公会堂の北西隅に建ち、公園に面した側は公会堂、写真の街路側が市政会館になっている。

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市政会館の設置は大正年間に当時の東京市長・後藤新平の構想に基づく。中立的な立場の市政のための調査機関の必要性を訴える後藤に、安田財閥の祖・安田善次郎(1838~1921)が共鳴、東京市民のための公会堂を併設した会館の建設費として、当時の金額で350万円という巨額の寄付を行った。

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当ブログで以前紹介した東京大学大講堂の回でも触れたが、陰徳を信念とする安田善次郎は全て匿名を条件にして各方面に多額の寄付を行っていたが、それが災いして当時のマスコミを始め世間からは吝嗇家の汚名を着せられ、遂にはそれを理由に大正10年に安田善次郎は暴漢に襲われ、殺害されてしまう。

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その後、建設費は子息の二代目安田善次郎から東京市に寄付され建設に着工、昭和4年に竣工する。設計は指名設計競技の結果佐藤功一の案が採用され、施工は清水組(現・清水建設)が行った。

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竣工した建物は日比谷公会堂が入る北半分を東京市が、市政会館が入る南半分を東京市政調査会(後藤新平の構想に基づき大正11年に設立。現・後藤・安田記念東京都市研究所)が管理することになった。

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市政会館には昭和17年より同盟通信社(現在の共同通信社・時事通信社の前身)の本社が入居、その後身のひとつである時事通信社は戦後も平成13年まで入居していた。

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日比谷公会堂・市政会館の設計者、佐藤功一(1878~1941)は早稲田大学に建築科を創設したことでも知られる建築家である。

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早稲田大学大隈講堂が同氏の設計作品として著名であるが、当ブログでは以前に他の設計作品として、旧群馬旧栃木滋賀の3県庁舎を取り上げている。

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市政会館玄関の照明。

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市政会館玄関扉。

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佐藤功一は陶磁器の愛好家としても知られ、自身の設計作品でもタイルやテラコッタなど陶磁器の建材を多用している。日比谷公会堂・市政会館でも外壁にはタイルとテラコッタ、また内装にもタイルを多用している。

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市政会館が入る南側の外観。

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日比谷公会堂が入る北側外観。日比谷公会堂は東京でも最も由緒あるコンサートホールであると同時に、政治演説会などの開場としても戦前から今日に至るまで盛んに利用されている。

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昭和35年には、演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が刺殺される事件の現場になった場所としても知られている。

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周囲の建物が悉く建て替えられた中にあって、今も昭和初期から変わらない姿を残している。

第714回・三菱一号館美術館

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今回は失われた近代洋風建築の再建例。東京・丸の内の三菱一号館美術館は、明治25年(1892)に建てられ、昭和43年(1968)に解体された旧三菱一号館を平成21年(2009)、ほぼ同位置に煉瓦造で可能な限り忠実に再建したものである。近代洋風建築の再建自体が珍しいのだが、構造まで旧建物と同一で再現したものは極めて珍しいと思われる。

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三菱一号館美術館は、行政からは文化財建造物の復元としては認められていない。従って建築法規上は全くの新築物件である。煉瓦造建築物の新築に伴う法規上の問題については、免震装置の設置等でクリアしたようである。

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解体当時は、建物を部分的に明治村等へ移築することも検討されていたため、一部の部材が保管されていたが、その部材も結局大半が廃棄されてしまったという。

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今回の再建に際しては、廃棄を免れたごくわずかな部材の中から再利用可能な一部分(窓枠の石材、階段の欄干、暖炉)が組み込まれているが、それ以外は全て新調したものである。

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旧三菱一号館は、三菱煉瓦街の第一号建築として、また本邦初の本格的な西洋式の事務所建築として英国人建築家J・コンドルの設計により竣工した。

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三菱一号館は当初は約半分が三菱合資会社の本社屋に充てられ、残りは貸事務所に充てられていた。

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貸事務所部分は今日の事務所ビルと異なり、各テナントが縦割り式に入居する形態を取る縦割長屋のような構成の間取りで、各戸毎に玄関や水回りが設えられていたという。

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一号館に続き、二号館、三号館・・・と建設が進められ、明治末年まで赤煉瓦の外観を持つ建物が建設され「一丁倫敦」と称される三菱煉瓦街が形作られた。大正に入り構造が鉄筋コンクリート造に変わった後も、当初は煉瓦タイルを貼った三菱21号館などの赤煉瓦調の外観を持つ建物が建てられ続けた。

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大正中期以降は大規模なアメリカ式オフィスビルが丸の内の事務所ビルの主流となり、一丁倫敦に隣接した東京駅前周辺には丸の内ビルディングや郵船ビルディングなどのアメリカ式オフィスビルで構成される「一丁紐育(ニューヨーク)」と呼ばれる街区が出現することになる。

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その後三菱煉瓦街、一丁倫敦の建物群は、旧明治生命館として使われていた二号館が昭和5年に現明治生命館建設のため解体されたのを除き、昭和30年代まで概ねそのまま残されていた。

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高度成長期に入ると、築造から50年から60年を迎えていた三菱煉瓦街は再開発が進められ、急速に消滅していった。その中でも旧一号館だけが最後まで残っていたが、昭和43年に解体されてしまった。

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その後跡地には三菱商事本社ビルが建てられるが、平成に入り今度は三菱商事ビルを周辺ビルと共に取り壊して再開発計画が浮上、その中で三菱一号館の復元が計画される。

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平成21年に復元された三菱一号館は「三菱一号館美術館」として利用されると同時に、丸の内オフィス街の歴史を伝える歴史資料室やカフェが館内に併設されている。

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内部も古写真や図面、解体時の実測図などの資料をもとに復元されている。写真の部屋は三菱合資会社の銀行部(のちの三菱銀行)営業室があった部分で吹き抜けになっており、旧三菱一号館内でも最も重厚な空間であった。

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旧営業室を再現した部屋は現在、カフェスペースに充てられている。
コンドルの弟子である辰野金吾が設計した日本銀行京都支店の営業室でも、似たような木材を多用した重厚な内装を見ることが出来る。外観も赤煉瓦を用いた点は共通するが、日銀京都支店の方が派手な気がする。

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有楽町側から望む三菱一号館美術館。周囲が高層ビルに埋め尽くされている。

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反対側の東京駅側から見た眺め。やはり背後に空が見える方がいい。

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とはいえ、いずれは周囲は四方全てが超高層ビルになってしまうのだろう。

第713回・大阪大学待兼山修学館(旧大阪帝国大学医学部附属病院石橋分院)

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前回の大阪大学会館と共に、大阪大学の豊中キャンパスにあるもうひとつの戦前建築がこの待兼山修学館である。昭和7年(1932)に大阪帝国大学医学部附属病院石橋分院として建てられた。現在は大阪大学総合学術博物館の展示棟として活用されている。国登録有形文化財。

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全景。縦線を強調した外観の大阪大学会館(旧浪速高等学校本館)と異なり、水平線を強調した外観を持つ。

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設計は大阪大学会館と共に大阪府営繕課による。大阪大学構内では大阪大学会館に次いで古い建物である。

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外観・内部共に、基本的には無装飾のモダンデザインの建物であるが、階段周りなどには僅かに戦前建築ならではの装飾も見られる。

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正面階段前の床には、アールデコ風の円形紋様が色付きの人造石を用いて研ぎ出されている。

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コンクリートの手摺りや柱、天井の梁は、以前紹介した同時期の鉄筋コンクリート造の公共建築である旧神戸移民収容所旧生糸検査所などと同様、角を丸くした仕上げになっている。

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階段室を彩る幾何学模様のステンドグラス。

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ステンドグラスは1~3階の階段踊り場にそれぞれ同じ模様のものが嵌め込まれている。なお、旧状を残しているのは玄関ホールから階段室のみで、その他は博物館として大幅な改装が施されている。

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展示内容としては、江戸時代に設立された二つの私塾、適塾・懐徳堂に遡る大阪大学(旧大阪帝国大学)の歴史についての展示や、大阪大学が所蔵する各種標本、最新の研究成果の公開などがあり、幅広い内容の大学博物館である。

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ミュージアムショップと共に設けられた屋外カフェテラスには、タイルとテラコッタで飾られた噴泉がある。

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元々この建物にあったものだが、改装に伴い他所から移設されたものである。

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大阪大学はかつては創設の地である大阪・中之島を本拠とし、現在は吹田、豊中、箕面の3カ所にキャンパスが置かれているが、現在も残る旧帝国大学時代、或いは旧浪速高校などの前身施設として建てられた戦前建築は、豊中キャンパスの大阪大学会館とこの待兼山修学館の2棟のみである。

第712回・大阪大学会館(旧浪速高等学校本館)

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大阪府豊中市の大阪大学豊中キャンパス内にある大阪大学会館は、昭和3年(1928)、旧制浪速高等学校の校舎として建てられた。大阪大学が所轄する建物としては最も古い建物である。国登録有形文化財。

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池越しに望む旧浪速高等学校本館。
浪速高等学校は大正15年に設立された大阪府立の旧制高等学校。

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戦後の学制改革により大阪大学に移行した後は校舎として使われていたが、平成23年に阪大創立80年記念事業で整備改修、会議や講演会等も開催できる多目的施設「大阪大学会館」として再生された。

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縦線を強調し、尖塔アーチを意識したと思われる三角形の窓を連ねたモダンゴシック風の建物。

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モダンゴシックを基調に、照明器具や玄関ポーチ上部の装飾などは当時流行のアールデコを意識したものと思われる。

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玄関ホール内部。

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玄関欄間のステンドグラス。

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階段室の階段親柱や欄干の飾り格子、玄関欄間のステンドグラスなど、外観の三角形の窓に合わせたものになっており、デザインのモチーフは内外装共に統一されている。

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太い梁や木製ペンキ塗りの腰壁など、戦前の鉄筋コンクリート造の学校建築の雰囲気がよく残る。

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旧校長室にあった御真影奉安庫の扉部分。現在は取り外され展示されている。奉安庫とは御真影(天皇皇后両陛下の肖像写真)と教育勅語を納めるための場所。独立して建てられる場合は奉安殿と称する。以前茨城県の旧真壁小学校奉安殿を紹介しているので、こちらの記事も併せて御覧頂きたい。

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取り外される前の奉安庫の写真。校舎内部に造り付けられた奉安庫で現存するものは珍しい。ただ残念ながら、旧校長室は隣室と一体化して別用途へ改装するため、このように取り外した形での保存となっている。

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大阪大学が保存・活用している戦前の施設は同じ豊中キャンパス内にもう一棟あり、次回紹介させて頂く予定。

第711回・堂島ビルヂング

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大阪市役所や高等裁判所にも近い、大阪の中心街に建つ堂島ビルヂングは、2度の大改装で創建当初の面影を探すのは難しいが大正12年(1923)竣工の近代建築である。事務所以外にホテルや百貨店、社交クラブも入居する大阪では最初の複合的な機能を持つ大型高層建築で、同年に竣工した東京の丸ビル(丸の内ビルディング)に対し、「堂ビル」の名で親しまれてきた。

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御堂筋に架かる大江橋の北詰に建ち、中之島の日銀大阪支店とは大江橋を隔てて斜め向かいに建つ堂ビル。3件東隣は大阪高等裁判所である。手前が大江橋で昭和10年に架けられ、国の重要文化財に指定されている。その上を阪神高速1号環状線の高架が横切る。なお、以前取り上げた大江ビルディングは裏手すぐ近くに建っている。

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堂ビルは昭和35年に大規模な改修が行われ、創建当初の姿から大きく変わっている。平成11年に2回目の大改修を受け、以前よりは少しクラシカルな外観になった。平成期の改修を手掛けた野村建設工業のホームページで、昭和期改修時の画像を見ることが出来る。なお2度の大改造を受けているが、階高や面積など規模は創建当初のままである。

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大正12年創建当初の姿。設計施工は竹中工務店(担当は鷲尾九郎藤井彌太郎。同社ホームページで設計者と共に紹介されている)。外壁は白タイル貼り、正面屋上中央にドームを頂く塔屋を設けていた。塔屋部分を除いても9階建という階高は大阪市内でも最も高いもので、当時は大阪名所として絵葉書の題材にもなった。

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堂ビルを管理運営している(株)堂島ビルヂングは、長崎県出身の実業家で政治家でもあった橋本喜造(1872~1947)によって設立された。当ブログでも以前紹介した長崎県島原市の雲仙観光ホテルの経営も行っている。雲仙観光ホテルの創業には、かつてこのビル内にあった堂ビルホテルの存在が欠かせない関係にある。

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橋本は神戸での船会社(橋本汽船)経営を経て、大正9年に(株)堂島ビルヂングを設立、同12年のビル竣工と同時に堂ビルホテルを開業させる。オフィスビルの中に入るホテルというのは当時としては初の試みであり、有名人の利用も多かったようである。(内田百閒は「阿房列車」にて、堂ビルホテルには以前何度か泊まったと書いている)

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橋本喜造はこのホテル経営の経験を買われ、国策ホテルであった雲仙観光ホテルの建設及び経営を国(長﨑県)から委託される。なお堂ビルホテル自体は短命で、昭和13年に閉鎖している。雲仙観光ホテルのロビーでは現在、堂ビルホテルの食器等が展示されている。

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堂ビルに入居していた特色あるテナントとしては、最上階9階に社交クラブ「清交社」が、竣工から平成11年までの76年間入居していた。清交社大阪倶楽部などと並ぶ、大阪の財界人を中心に組織された歴史ある社交クラブである。堂ビルホテル閉鎖前は、清交社の食堂でもホテルの料理が供されており、各界有力者の会合・接待の場となっていたようである。

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この当時の阪神間の近代文化にも多大な影響を与えたとされる、女性向け文芸誌を扱う出版社「プラトン社」は、大正14年から翌年にかけて堂ビルに入居しており、編集に携わっていた作家の直木三十五、川口松太郎や、イラストレーターの山名文夫など、文化人・芸術家も出入りしていた。

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街路に面した一階には、三井銀行など銀行や郵便局が入居していたほか、当時売り出し始めのココアやチョコレート、コーヒーを提供する森永キャンディーストアーがあった。銀行はかつて3行が入居していたが現在は池田泉州銀行1行のみとなっている。郵便局は堂島ビル内郵便局として今も存在する。

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背面は窓の割り付けだけが創建時のまま残されているが、窓の形や壁面の仕上げは変えらえている。大きな煙突は戦前のビルにはつきもので、当初はボイラー用に使われていたものと思われる。現在の堂ビルは内部設備も現代の仕様に合わせて大幅に改変されており、内部も左程古さは感じない。

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私事で恐縮だが、ブログ管理人は十数年前1年半ほど出入りしていたことがあり、堂ビルには個人的な思い入れがある。長い歴史があり、しかも非常に華麗な経歴を有する建物で自分の人生の一刻を過ごせたことは幸運だったと思っている。

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内部も改装されており大正建築の面影を探すのは難しいが、3箇所ある階段のひとつを見ると、簡素な楕円形のメダリオンを付けた円形のコンクリート製親柱や鋳鉄製の手摺りなど、この建物は間違いなく戦前のものであることが分かる。

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管理人が出入りしていたテナント内部にも、太い円柱や天井に何本も渡された太い梁には簡素ながらも繰形(モールディング)が施され、現代の建物とは明らかに異なる造りが残されていたのを覚えている。

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前回までの旧大阪ビルや旧大同生命ビルと異なり、堂島ビルヂングはその時代に応じて外形は大きく変えながらも、建物自体は変わることなく90年以上の歴史を刻み続けている。こういう建物もあっていいと思う。これからもその歴史を1年でも長く刻み続けて欲しい。

第710回・大同生命ビル

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当ブログでは基本的に現代建築は扱わないが、前回のダイビル本館や過去取り上げた歌舞伎座、神戸の海岸ビルなどのように、旧建物を新建物の一部として復元あるいは保存したものは例外的に取り上げてきた。今回取り上げる大同生命ビルは、旧ビルのデザインイメージを新ビルに取り入れたものなので、旧ビルがそのまま復元或いは保存されている訳ではない。それでも随所に旧ビルの面影を残している現在の姿にも、見るべきものがある。

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大阪市西区、土佐堀川に面した土佐堀通と四つ橋筋の交差点に建つ大同生命ビル。平成5年(1993)の竣工。今は埋め立てられ阪神高速が走る西横堀川跡を挟んで、以前紹介した住友本館が、また斜め向かいの肥後橋の袂には山内ビルが建っている。写真は土佐堀川を隔てた中之島に昨年まで建っていた、現在改築中の朝日ビルディング(旧大阪朝日新聞本社)の前から撮影。

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旧大同生命ビルディング。大阪ビルディングと同じく大正14年(1925)の竣工、平成2年(1990)解体。後に日本に帰化した米国人建築家、W・M・ヴォーリズの設計。住宅や教会、学校施設などの設計が多いヴォーリズ作品の中でも現存する大丸心斎橋店東華菜館などと並び、数少ない大規模な都市建築であった。

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旧大同生命ビルディングの正面8階外壁の一部は解体の際切り取られ、モニュメントとして新ビルの脇に飾られている。外壁全面に貼りめぐらされていたテラコッタは、米国アトランティック社製の輸入品。なお正面外壁を保存して改築された、大阪道頓堀の松竹座(大正12年)の外壁テラコッタも同社の製品であるという。

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テラコッタ(装飾用大型陶器)は、19世紀から20世紀初頭の米国でシカゴやニューヨークの超高層建築を飾る外装材として量産、普及し、我が国では米国式の高層オフィスビルが建ち始めた大正中期から輸入され、大同生命ビルや神戸の商船三井ビル(大正11)、東京丸の内の郵船ビル(大正12)などの外装に用いられた。

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ヴォーリズと大同生命との関係は深く、本社の他に横浜、金沢の支社屋や、創業家である廣岡家の本邸や別邸の設計も手掛けている。ヴォーリズは大正8年にそれまで親交のあった一柳子爵家の令嬢である満喜子夫人と結婚するが、その兄が廣岡恵三であった。廣岡家は江戸時代より「加島屋」の屋号で両替商を営む、大坂屈指の豪商であった。明治期に一柳家より養子入りした恵三は経営の才を現し、現在の大同生命の基礎を築くことになる。

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旧大同生命ビルディングは平成2年に解体されたが、平成5年に竣工した新しい大同生命ビルは、意匠設計をヴォーリズが設立した設計事務所の後身である(株)一粒社ヴォーリズ設計事務所が担当し、外観全体が旧ビルのイメージを引き継ぐものとなっている。とりわけ、最上階まわりはかなり旧ビルの意匠を忠実に引き継いでいる。

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前回のダイビル本館のように、低層部に旧ビルを復元或いは保存、高層棟は現代建築そのものの外観、という手法と異なり、建物全体にデザイン的な統一性が見られる。なお旧ビルを残しつつ高層化しながらも、高層棟も旧ビルのイメージを取り入れた外観を持つ東京の第一生命館のような事例もある。

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旧ビルの形状をそのまま復元せず、イメージだけ踏襲するといった手法を採った建物の殆どは、正直なところデザインも建材も安っぽいだけの代物で、似て非なるどころか旧建物に対する冒瀆とさえ感じさせるものも存在するが、大同生命ビルはデザインも外装に用いられた建材タイルも、旧ビルのイメージを損なわない非常に行き届いたものである。

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旧ビルと同じくゴシック調を基調にした、現代建築としては異色の歴史様式に則った建物であるが、低層部には旧ビルには無かった、歴史様式による新しい造形を見ることが出来る。

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歴史様式の意匠を現代建築で、戦前までの近代建築にも劣らない形で新たに作り出すことができた、数少ない事例ではないかと思える。

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現在の大同生命ビル内部は、1・2階が吹き抜けのホールになっており、ステンドグラスを全面に用いた天井は、同じく2層吹き抜けになっていた旧ビル営業室の天井を再現したものである。

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旧ビルの営業室は、ステンドグラスのある吹き抜け部分を、ドーム状の天井を持つ回廊のような空間が取り巻く構成であったが、そのドーム状天井のあった部分を一部屋に凝縮したような空間が、また別に設けられている。

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メモリアルルームとして同社の歴史資料の展示等に使われている写真の部屋は、旧営業室の天井や壁面の意匠を、一部は旧部材を用いて忠実に再現している。この部屋は常時公開はしていないが、催事等の折に一般公開されることがある。この写真は昨年の夏公開されていた時に撮ったもの。

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壁や天井は旧ビルにあった意匠を忠実に復元している。

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昭和初期のアールデコに近いデザインの照明器具。

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ステンドグラスは建て替え時には残っていなかったが、かつて旧ビルにあったものを復元したものだったと思う。

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国産大理石を用いた、移設された旧ビル営業室の床の一部。

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植物文様を象った柱頭部分や、一部青色に着色を施した入口上部のテラコッタは、旧ビルの部材を再利用したもの。

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大同生命ビルはダイビル本館とはまた異なる形で、近代大阪を飾る大建築の歴史を伝えている。

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次回は、旧大阪ビルディング、旧大同生命ビルディングと共に大正末期の大阪では屈指の大規模建築として評判になり、現在も大きく姿を変えながらも当初の建物で90年以上の歴史を刻み続けている堂島ビルヂング(大正12年竣工)を紹介予定。

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(お断り)
旧大同生命ビルの画像は大同生命メモリアルホールパンフレットに掲載のものです。
また、メモリアルホール内部の写真は了解を頂いて撮影したものですが、公開に問題がある場合は削除致します。

第709回・ダイビル本館(旧大阪ビルディング)

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年末の予告でも取り上げた大阪・中之島のダイビル本館。綿業會舘や旧京都駅の設計で知られる建築家・渡辺節の設計で大正14年(1925)に竣工した旧ダイビル本館(旧大阪ビルディング)は残念ながら平成21年(2009)に解体され、昨年新しい超高層ビルが竣工したが、新ビルの低層部には旧ビルの外壁及び内装の主要部が、旧部材を多く用いて驚くべき精巧さで復元されている。

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全景。当初は左手に写る中之島ダイビルのような、低層部の装飾の再現コピーを貼り付ける程度のものを計画していたようであるが、日本建築学会等からの保存の要望を考慮して計画を変更したらしい。このような形で旧建物の外観を引き継ぐ手法を一概に否定はしないが、新旧の組合せ方にも上手・下手があるように思う。ダイビル本館の低層部と高層部の組み合わせは、その色や形状から木に竹を継いだ感は否めない。

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大阪ビルディング(現ダイビル)は大正12年、大阪商船(現商船三井)の本社屋を兼ねた大規模賃貸ビル建設のため、大阪商船他2社の出資で設立された。大正14年の本社屋竣工後、昭和12年には本館とは対照的なモダンデザインの新館が東隣(写真左側)に増築されている。(本館と共に平成21年解体)写真は当時の大阪商船パンフレットより。なお、神戸支店と門司支店は現在も当時の建物が現存。

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旧ダイビル本館の跡地の一部は公園となったため、新ビルは旧本館及び新館跡に跨る形で建つ。なお復元部分は規模が縮小されている(旧ビルに比べ正面は大凡8割、側面は6割程度)。正面だけでも元のスケールそのままに再現されなかったのが残念ではあるが、それでも堂島川に浮かぶ客船のようだったとされる往年の偉容は偲ぶことが出来る。

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一箇の建物として全体を見たときの違和感は否めないが、低層部の旧建物の復元の精度は特筆に値する。旧建物の解体に際しては石材や外壁のスクラッチ煉瓦(タイルではない)等の大部分を取り外し、新ビルの外装材として再利用している。また後年の改造等による欠損部分や、再利用が困難だった部分も高い精度で再現されている。

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建て替え前の旧ダイビル本館は、昭和36年の第二室戸耐風による堂島川の氾濫で1階と地階が水没して大きな被害を受けたため、周辺道路の嵩上げが行われた。この際一階ショーウインドウや写真のコーナー部分の出入り口が塞がれるなど大幅な改造が行われていた。新ビルではこれらの改造部分も竣工当初の形に再現が図られている。

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北西角のコーナー部分は船の舳先を思わせる曲線を描く。同じ渡辺節設計で大正11年に竣工した神戸支店ビル(現・商船三井ビル)でも同様の造形が見られる。

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軒のテラコッタは旧ビルの再利用ではなく新調したものだが、非常に精巧に再現されている。神戸支店ビルでは外装のテラコッタは米国製を用いたが、コスト削減のためにできる限り材料の国産化を図った設計者の意向により、本社ビルでは大阪陶業による国産品が用いられた。

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竜山石に凝った彫刻を施した一階の石柱も旧ビルから移設、再利用されている。なお周辺道路の嵩上げにより切り縮められた部分の装飾は、創建当初の形に極めて近い形で再現が図られている。また戦時下の迷彩塗装の名残で、建て替え前は黒ずんだ色だったが塗装を落としたため、建て替え前の姿を知る人は異なる印象を受けると思う。

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大阪ビルディングには竣工後、多くの外資系企業や英、独(新館増築後は米国も)総領事館が入居した他、大阪商船は南米航路が主力航路の一つであったことからか、アルゼンチンなど南米諸国の総領事館も入居するなど、戦前の大阪ビルのテナントは国際色豊かなものだった。(但し大東亜戦争突入後、これらのテナントは独など同盟国を除き退去させられた)

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正面玄関の大アーチを始め、一階ショウウインドウ廻りの石柱など随所に施された、人面、狐、鳥、蛇、羊、牛(?)、その他得体の知れぬ怪物や天使像などのロマネスク調装飾。一部は建て替えに際しての再現品であるが、大部分は大正14年当時からのものである。冒頭に掲げた正面玄関上部にある「少女と鷲」の像は、帝展審査員も務めた彫刻家・大国貞蔵の作。設計者・渡辺節の下でこの建物の図面を引いた村野藤吾は、このビルが取り壊されることがあってもこの彫刻だけは残してほしいと生前語っていたという。

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正面玄関。建て替え時には失われていた玄関脇の装飾柱の下部や、内側の装飾が再現されている。
大阪ビルディングに入居した邦人テナントでは大阪商船本社のほか、設計者・渡辺節の設計事務所も入居していた。また弊ブログで以前紹介した福澤桃介の大同電力の大阪支社や、水俣病でも知られるチッソ(日本窒素肥料(株))の本社など数多くの大企業が入居していた。

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正面玄関をくぐると、往年の大阪ビルディングそのままかと一瞬思わせる華麗な玄関ホールが現れる。
無論文化財ではないので、寸法や開口部など現代の仕様に沿って改変されているのだが、旧ビルの部材も多く再利用されている。

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かつての大阪の隆盛期を偲ばせる大正の大建築が、曲がりなりにも新しい建物に伝えられたことは喜ばしい。

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旧ビルでは玄関ホールの両脇、ビルを東西に横断する形でビル内商店街が設けられていた。玄関ホールと同じタイルが床に敷き詰められ、天井には梁などに漆喰装飾が施されていたかつての面影は新ビルでは跡形もないが、玄関ホールへの出入り口上部の彫像だけが旧ビルから移設され、来館者を迎えている。

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玄関大アーチの「少女と鷲」像と同じく大国貞蔵の制作による、鳩を抱く少女の像。

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玄関ホールは、旧ビルではエレベーターホールを兼ねていたが、新ビルではエレベーターは他所に設けられているので、かつて3台ずつ向かい合っていたエレベーターの開口部は1つにまとめられ、新ビルの吹き抜け部分との出入り口になっている。その奥には真鍮の私設郵便箱が、位置をやや変えながらも、変わらない姿で佇んでいる。

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建て替え前に比べると色が若干くすんだ感があるが、使い込まれることで往年の輝きを取り戻して欲しい。
単なる歴史的記念物ではなく、現役の郵便ポストとして復活したのは嬉しい。

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旧ダイビル本館の内部装飾の中でもとりわけ、玄関ホール天井の精緻な漆喰彫刻は圧巻であったが、新ビルでは型を取って再現されている。また照明器具は創建当初の形に近いものが新設されている。

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90年近い歳月を刻んだ旧ビルが持っていた風格は再現できないが、少なくとも形状は往年のものが忠実に再現されたようだ。あとは新たな歳月を待つほかない。

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内部も概ねすばらしい出来栄えなのだが、例外が二階部分。手摺り周囲のガラスの柵は現行法規に則ったものと思われ、致し方ないとは思うが、旧エレベータ部分は一階と異なり無駄に開口部を広げ、壁を殆ど取り払ってしまっている。新旧の空間を融合させようとしたつもりかどうか知らないが、そのセンスは頂けない。

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手摺は旧ビルのものを再利用している。華麗な装飾を施した金物の手摺は渡辺節の得意とするところで、現存する建物でも先述の綿業會舘(昭和6年)や、神戸の旧乾新兵衛邸(昭和11年)でも見る事ができる。

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複雑な色ムラのある床タイルも、旧ビルのものをはがして再利用している。

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1階の一角にある「ダイビルサロン1923」。旧ビルの8階には大正15年から昭和19年まで、入居者のための社交場「大ビル倶楽部」があり、重厚華麗な装飾と調度で彩られた談話室、読書室、食堂、理髪室、撞球場などの施設が設けられていた。大東亜戦争末期に倶楽部は廃止、室内装飾は撤去され、空襲で罹災した企業の事務所などに改変された。

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その後倶楽部が復活することは無かったが、今回の建て替えに際し、ダイビルの歴史記念室的な役割も兼ねて、扉や棚など部分的に残存していた内装材も用いて一部が再現されたものである。ごく小規模な部屋ではあるが、往年の雰囲気を偲ぶことができる。

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次回は大阪ビルディングと同じ大正14年に竣工し、建て替わった後も大阪ビルとは異なる形でその歴史を伝えている大同生命ビルを紹介予定。

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(参考資料)
「ダイビル75年史」ダイビル株式会社 平成10年

また大阪商船パンフレットの画像は、先日の靖國神社遊就館と同じく「みに・ミーの部屋」様より「満洲写真館」から借用致しました。同ホームページ管理人様には厚く御礼申し上げます。

ブログアクセス10万突破の御礼

いつも弊ブログを御訪問頂き、ありがとうございます。
おかげさまで本日ブログアクセスが10万を突破致しました。
厚く御礼申し上げますと共に、今後共弊ブログを宜しくお願い申し上げます。

第708回・交野市立教育文化会館(旧交野無尽金融(株)社屋)

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大阪府交野市倉治にある交野市立教育文化会館の建物は、旧交野無尽金融(株)の本社屋として昭和4年(1929)に建てられた。国登録有形文化財。

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背面からみた交野市立教育文化会館。
昭和17年から45年までは交野町役場として使われていた。塔屋屋上のメガホンは町役場時代の名残だろうか。

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正面。
屋上と塔屋廻りには西洋の城郭風の狭間を廻し、窓の形状は尖頭アーチとするなどゴシック風の外観が特徴。壁面の大部分は当時流行したスクラッチタイルで仕上げる。設計は橋倉覚平、施工は大林組。

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建物前に設置されている解説版。
現存しないが、当初は解説版の図のとおり正面向かって右側に平屋建ての付属棟が続いていた。

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建物と同時に造られた石造の門柱と石塀も残る。かつては敷地内に庭園も設けられていた。

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無尽とは、頼母子(たのもし)などとも呼ばれる、古くから庶民の間で存在した相互扶助的な金融方式である。明治から第二次大戦後間もない頃までは会社組織で経営するもの(営業無尽)も多く存在した。現在かつての営業無尽の殆どは、相互銀行を経て第二地方銀行となっている。

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交野無尽金融(株)は、交野無尽金融合資会社として大正3年設立、昭和17年に他4社との合併で近畿無尽株式会社となった。戦後は相互銀行への転換(近畿相互銀行)、第二地方銀行への転換(近畿銀行)を経て、現在の近畿大阪銀行に続いている。(参考:銀行変遷史データベース

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昭和17年の近畿無尽株式会社発足に伴い、交野町(当時。大阪府北河内郡交野町)に寄贈され、以後市制施行の前年に当たる昭和45年まで町役場として利用される。

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現在は館内に歴史民俗資料展示室が設けられ、一般に無料で公開されている。

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大阪府下でも近代洋風建築が元々多く存在しない北河内地域では珍しい、昭和初期の洋風建築である。

第707回・宮内庁庁舎(旧宮内省庁舎)

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昨日は知人と皇居の新年一般参賀に行ってきたので、その際見ることができた皇居内の近代建築を紹介。
宮殿脇に建っている、昭和10年(1935)竣工の宮内庁庁舎。もとの宮内省庁舎である。

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宮内省内匠寮の設計で、施工は清水組と大林組。

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先代の宮内省庁舎は、丸の内の三菱一号館や霞が関の海軍省庁舎、湯島の旧岩崎久彌邸洋館などの設計で知られる英国人建築家J・コンドルの設計による洋風建築であったが関東大震災で被災大破、これを取り壊し建て替えたのが現在の庁舎である。

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旧庁舎が純然たる西洋建築であったのに対し、張り出した軒や正面の切妻破風など、和風の要素を多分に取り入れた外観を持つ。

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同時期に建てられた中央官庁庁舎である文部省庁舎(昭和8)などと同様装飾は控え目だが、宮内省庁舎は玄関には立派な車寄せを張り出し外壁は全面石張りにするなど、格調高く仕上げている。

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前回記事で紹介した靖國神社にも被害を与えた昭和20年5月の空襲では、皇居も被災し明治宮殿が焼失してしまった。そのため、昭和27年には宮内庁庁舎の3階が改装され、しばらくの間仮宮殿として使用されていた。


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昭和43年に現在の宮殿が完成、仮宮殿の役割を終えた。

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その後は現在に至るまで宮内庁庁舎として使われている。

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皇居内には、正月の一般参賀のほか、天皇誕生日の一般参賀、通常の皇居内見学でも立ち入ることができる。

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皇居内の近代建築では旧宮内省庁舎のほか、昨年皇宮警察本部として修復再生された旧枢密院庁舎(大正11年)等がある。旧枢密院庁舎は今回は近寄る機会を逃がしたが、また機会があれば紹介させて頂きたいと思う。

第706回・靖國神社遊就館

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明けましておめでとうございます。
本年も引き続き弊ブログを御愛顧の程、宜しくお願い申し上げます。

                                平成二十六年元旦  管理人拝

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さて新年最初の建物として、昨年末の御挨拶に際し予告させて頂いた建物のひとつである、靖國神社遊就館を紹介させて頂く。安倍総理の年末の参拝で靖國神社はすっかりタイムリーな話題にされてしまったが、写真は昨年の正月に筆者が参拝の折に撮影したものである。

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参道から望む靖國神社。
明治20年(1887)建立の第二鳥居(青銅大鳥居)、その奥に見えるのが昭和9年(1934)伊東忠太設計により建立された神門。そしてその奥が明治34年(1901)竣工の拝殿、明治5年(1872)竣工の本殿と続く。

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第二鳥居は大阪砲兵工廠で鋳造されたもの。大阪砲兵工廠については、過去弊ブログにて現存する遺構の紹介をしているので、併せてこちらの記事も御覧頂きたい。

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戦前の絵葉書に写された遊就館全景。左奥の建物は昭和9年に竣工した国防館(現靖國会館)。
遊就館は、幕末維新期の動乱から大東亜戦争に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している軍事博物館である。設置・開館は明治15年(1882)。

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戦前の内部の模様を伝える当時の絵葉書。なお現在は内部撮影禁止となっている。
(上記外観写真の絵葉書と共に、ホームページ「みに・ミーの部屋」様の「歴史資料館」より画像を借用させて頂きました。管理人様には厚く御礼申し上げます。)

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現在の遊就館全景。
遊就館ホームページ(「遊就館の歴史」)で見ることができるが、当初の建物は、明治政府のお雇い外国人の一人であったイタリア人建築家・カペレッティの設計による西洋の城郭を思わせる洋風建築だったが、関東大震災で大破、撤去された。

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震災後はしばらく仮設建物での運営が続くが、昭和6年(1931)に伊東忠太を顧問として設計された和風の外観をもつ現在の建物が竣工、翌7年より開館し震災復旧が完了した。

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遊就館に隣接する靖國会館(旧国防館)。国民への軍事知識普及を目的として昭和9年(1934)に開館。戦後遊就館が一時閉鎖されていたときは「靖國神社宝物遺品館」として所蔵品の公開に使われたこともある。現在は参拝者休憩所及び神社の付属図書館と言える「靖國偕行文庫」として使われている。

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城門のような外観の旧国防館。
反りのある屋根や方形屋根の両翼を拡げ、優美さも備えた外観の遊就館に比べると旧国防館は武骨一辺倒な印象を受ける。

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昭和20年5月の空襲では大きな被害を受け、敗戦後は遊就館令の廃止により国の補助が絶えるなど運営基盤が失われる。閉鎖された遊就館の建物は昭和22年、本社屋を米軍に接収された富国生命(昭和20年に富国徴兵保険より改称)に貸し出され、同社の社屋として昭和55年まで使われることとなった。

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なお余談ながら徴兵保険とは、子供(当然男子のみ)を加入させておき徴兵検査に合格すれば保険金が下りるという今日の学資保険に近い性格のもので、戦前は富国徴兵保険を始めいくつかの徴兵保険会社が存在していた。

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富国生命が立ち退いた後、改修を経て昭和60年に遊就館が再開される。
なおこの年、昭和60年は朝日新聞が首相の靖國神社参拝を政治問題化(外交問題化)させた年である。この年以後、従前は恒常的に行われていた首相の参拝は行われなくなり、今日に至るまで旧には復していない。

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かつては首相の参拝で近隣の某国やマスコミが大騒ぎするようなことはなかった筈である。
現在の靖國神社関係のマスコミ報道を見ると、無用に騒ぎを大きくしているだけであり、そもそもこんな過剰に騒ぐべき事なのかと思う。

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(・・・話が逸れましたので、元に戻して)平成14年には創立130年記念事業として再改修及び新館の増設工事が行われ、現在に至る。このとき館内のステンドグラスが復元されており、詳細を下記ホームページで見ることが出来る。
ステンドグラスの画像 復元の工程

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伊東忠太が設計に関与しているだけあって、玄関には独特の鬼面が来館者を出迎える。

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新年早々政治的な内容の記事となりましたことはどうか御容赦願います。

改めて、本年も弊ブログを宜しくお願い申し上げます。
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