第726回・旧宇都宮商工会議所玄関

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宇都宮市の栃木県立中央公園内に、昭和3年(1928)に建てられた旧宇都宮商工会議所の玄関ポーチ及び外壁の一部が保存されている。

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前回まで栃木県宇都宮市の大谷石を用いた建物を取り上げてきたが、今回はその一部分だけが残されている事例である。

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旧宇都宮商工会議所の建物は、宇都宮の中心市街地、現在の宇都宮中央郵便局付近に建っていたという。
元々は鉄筋コンクリート三階建で、現在保存されているのは玄関ポーチと外壁の一部である。

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ポーチの正面には、宇都宮商工会議所の文字が現代的な書体でロゴマークと組み合わされて張りつけられているが、はっきり言って建物には全然合っていない。

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前回の旧大谷公会堂と同様、大谷石の部分には旧帝国ホテルの影響を受けたと思える装飾が施されている。もしそのままの規模で残っていたら、宇都宮市内でもカトリック松が峰教会と並ぶ、大谷石で飾られた近代建築となっていたと思われる。

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宇都宮商工会議所のホームページにある昔の画像を見る限り、そのまま移築復元したのは玄関ポーチだけで、両脇の外壁は建物の外壁の各部分を切り取って新たに再構成したような感じである。

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設計は、栃木県立宇都宮工業学校(現・栃木県立宇都宮工業高等学校)の初代校長である安美賀(やす・みよし)氏の手になる。

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設計に際しては、建物に大谷石を使用するよう地元からの陳情を受け、外装材として使用することになったという。

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旧宇都宮商工会議所は昭和54年に解体されたが、保存運動を受けこのような形で一部が現在地に移築されることになった。かつての建物の極く一部分でしかないのだが、濃密な装飾を持つポーチと壁はそれなりの存在感がある。

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公園の中に東屋のような形で置かれており、保存の手法としては明治村にある旧東京盲学校のポーチと同じような印象を受ける。
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第725回・旧大谷公会堂

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前回に引き続き、宇都宮市大谷町(旧城山村)にある大谷石を用いた石造建築物。屏風岩石材や大久保石材とは目と鼻の位置に建っている。昭和天皇即位の御大典を記念して、昭和4年(1929)に在郷軍人会によって旧城山村公会堂として建てられた。現在は宇都宮市が所有管理し、「旧大谷公会堂」として国の登録有形文化財となっている。

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設計者は栃木県内でも最初期に設計事務所を開いた更田時蔵。先日紹介した旧大内村役場(現大内資料館)の設計者でもある。

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旧大谷公会堂については、更田時蔵氏が開いた設計事務所である(株)フケタ設計及び氏の子孫が営まれている設計事務所(更田邦彦建築研究所)のホームページで建物の来歴や設計図面を見ることができる。本記事もこちらの両ホームページを参考に作成させて頂いている。

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旧大谷公会堂の大谷石は外装材ではなく、構造材として大谷石を積み上げて建てられた組積造の建築である。なお外装材として大谷石を用いた建物で有名なのは、同じ宇都宮市にあり、以前紹介したカトリック松が峰教会などがある。

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一般的には、大正12年の関東大震災を機に、煉瓦や石による組積造の建物は建てられなくなったとされているが、震災を機に全く建てられなくなった訳ではないことが分かる。とはいえ関東大震災後の組積造の建築は非常に珍しいと思われる。

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先日の屏風岩石材石蔵の記事でも触れたが、大谷石は関東大震災と同年に新築開業したF・L・ライト設計の、旧帝国ホテルの内外装に多用されている事でよく知られている。またその他のライト作品(兵庫県の旧山邑邸など)でも使われている。

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震災に耐えたことで旧帝国ホテルは建築界の注目を集め、内外装に用いられた独特の装飾デザインと外装材のスクラッチ煉瓦(タイル)は、その後全国的に流行する。

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旧大谷公会堂でも、玄関まわりや正面に建つ4本の石柱の頂部には、帝国ホテルを思わせる幾何学的な装飾が施されている。

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正面に建つ4本の石柱は、それぞれ玄関から頂部まで一本ものの石材が用いられているという。

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現在は倉庫として使われているが、この地域を代表する大谷石を用いた建造物として、先述の更田邦彦氏など多くの方々が再生活用の用途を探って居られる。取組の成功を願って止まない。

第724回・大久保石材店

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前回紹介した屏風岩石材とは目と鼻の先に建っていたのが、写真の大谷石の巨岩をくり抜いて造られた建物。当ブログでは度々参考にさせて頂いている、藤森照信・増田彰久両氏による書籍「歴史遺産 日本の洋館」の「第四巻・大正編Ⅱ」にて「大久保検治邸」として紹介されている建物である。大正13年(1924)竣工。

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県道から見える大久保石材店全景。
左手、道路沿いに石蔵が建ち、その脇に離れとして建てられた、巨岩をくり抜いて造られた建物。街路からは屋根の一部しか見えないが、その奥には幕末期の建造と伝わる母屋が建っている。

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離れの脇に通路があり、敷地への出入り口になっている。ここは元々岩山であったが、占い師から巽の方角を切り開くよう進言があり、山を切り通して道を造ったが、そのついでにこの離れを彫り出したそうである。

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このたび、平成25年度の宇都宮市まちなみ景観賞を受賞することになった石の離れ。
(参考)宇都宮市ホームページ
 
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巨岩部分と四角い離れ本体は、ひとつの岩として一体であることが分かる。

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岩をくり抜いて建造物を造った同時期の例として、埼玉県吉見町の遺跡・吉見百穴の近くで、地元の農夫が自宅裏の崖を明治末から大正にかけ約20年掘り続けて窖の建造物を造り出し人々から「巌窟ホテル」と称されたものがある。

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当時絵葉書の題材にもなったという「巌窟ホテル」だが、現在こちらは荒廃が進み、残念ながら立ち入りはできないとの事である。(参考)吉見町ホームページ

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離れの岩山に隣接して建つ石蔵は昭和12年(1937)の竣工で、大久保邸の建物の中では最も新しい。

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窓の配置や大きさなど、屏風岩石材の西蔵を意識したような大久保石材の石蔵。

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ところで、今回記事の作成に当たり「歴史遺産 日本の洋館」第四巻・大正編Ⅱに収録された建物の目次を見ると、2件を除き、全て当ブログで紹介している事が分かった。こうなれば全件制覇と行きたい所だが、別府の和田豊治別邸は取り壊され、岐阜県大垣市の矢橋亮吉邸は企業施設で外観を見るのも難しいと思われるので、残念ながら全件制覇は不可能である。

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下記が「日本の洋館」第四巻収録の建物一覧。建物名をクリックすると過去の当ブログ記事にリンクするので、ついでにこれらの記事も御覧頂ければ幸いである。

野口喜一郎邸 谷口房蔵別邸 松風嘉定邸 三輪善兵衛邸 和田豊治別邸(現存せず) 矢橋亮吉邸(非公開) 土岐章邸 大久保検治邸(今回の建物) 小出収邸 鳩山一郎邸 朝吹常吉邸 佐藤瀧次郎邸

第723回・屏風岩石材石蔵

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栃木県宇都宮市西郊の大谷(おおや)町は、旧帝国ホテルに使用されたことで建築界では有名になった大谷石の産地である。その大谷町には大谷石を用いた建物が多く存在するが、当地でも老舗の石材加工業者である、屏風岩石材の石蔵は代表格と言える。栃木県指定有形文化財。

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栃木県道70号線(大谷街道)から分岐する県道188号線に面して建つ屏風岩石材石蔵。中央に構えた冠木門の両側に、二棟の石蔵を配する構成となっている。高い石垣の上に建ち、商品である石材の宣伝を兼ねて建てられたと思われる。

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写真手前が明治41年(1908)竣工の西蔵で、内部は畳敷きの居室で構成される座敷蔵である。
奥が東蔵で、竣工は西蔵よりも少し遅く、明治45年(1912)に上棟されたことが判明している。東蔵は穀物蔵として建てられた。

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2つの蔵の間に設けられた堂々たる冠木門。

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石蔵は2棟共、店主の渡辺陳平が自ら設計。建設に際して渡辺は棟梁と石工を連れて、東京や横浜の洋風建築を見て歩いたという。石蔵の意匠には随所に洋風建築の要素が見られる。

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渡辺陳平はそれまで農業の片手間で行われていた大谷石の切り出し・加工を一代地場産業として発展させたほか、県会議員、衆議院議員を務め政治家としても活躍、また著名な栃木県の私立学校として知られる現在の作新学院の創設にも関与した人物である。

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東蔵は柱や窓周り、切妻部分の付柱の柱頭飾りなどの造形に洋風建築の要素が見られる。

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切妻部分の付柱の柱頭飾り。イオニア式柱頭飾りにも似ているが、洋風とも和風ともつかない独特の形状。

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大谷石を用いた建造物の中には、構造は木造や鉄筋コンクリートで、外壁に大谷石を積み上げ(貼り付け)た建物も存在するが、屏風岩石材の2棟の石蔵はいずれも、石を積み上げて外壁を築き上げた純然たる石造建築である。

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西蔵の屋根は、東蔵の切妻屋根に対して寄棟屋根とする。屋根の形状も相まって西蔵の方が西洋館らしい外観となっている。現在は普通の桟瓦葺となっているが、かつては二棟とも屋根まで瓦型の大谷石で葺かれていたという。

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東蔵は角を西洋館の付柱風に仕上げているのに対し、西倉はこれも西洋館式に、隅石を見せる仕上げとしている。

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アーチ窓を3つ、2段に並べて配している。
なお私有地なので立ち入ることはできないが、反対側にある蔵の入口は唐破風を設けている。

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先述のとおり西蔵の内部は畳敷きの座敷になっており、しかも床の間と違い棚を備えた本格的な座敷となっている。
商品である石材を全面に用いた外観からしても、商売上の来客を接待するために建てたのかも知れない。

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屏風岩石材だけではなく、この周辺には大谷石を用いた近代の建造物が多く見られる。それらの一部を次回以降に紹介させて頂く予定である。

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大谷町を代表する石造建築として、屏風岩石材石蔵は平成18年に栃木県指定有形文化財となっている。
(参考)とちぎの文化財

第722回・フジハラビル

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大阪市北区天神橋にあるフジハラビルは、大正12年(1923)に乾物問屋の社屋として建てられたビル。
施工は大林組、設計は不詳。

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大阪天満宮の近く、天神橋筋商店街から東側に入った街路に面して建つフジハラビル。

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鉄筋コンクリート造、地下1階地上4階建の建物は、外壁の正面と側面の一部には茶褐色のスクラッチタイルを貼っている。スクラッチタイルが流行するのは、同じ大正12年の帝国ホテルの竣工以降なので最初期の建物と言える。

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背後にあるのは、別棟として建てられた倉庫と思われる。

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現所有者は、自らビルの維持修復を行いつつ、建物を演劇や音楽など、芸術活動の場としても積極的に活用を図っている。

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正面外壁の大きなアーチが外観のアクセントになっている。

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屋上にはオーナー自らが建てた温室が見える。

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玄関。

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玄関床のモザイクタイル。

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大正12年竣工とされるフジハラビルは、大林組の手掛けたスクラッチタイルを用いた建物としては旧大林組本店(大正15年、現・ルポンドシエルビル)などに先行する最初期の建物と思われる。

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先日紹介した同じ大阪市内の伏見ビルと同様、所有者の建物に対する強い愛情が感じられるビルである。

第721回・旧三井八郎右衛門邸

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東京都小金井市の江戸東京たてもの園に移築、公開されている旧三井八郎右衛門邸は、三井家総領家である三井北家当主で、旧三井財閥の総帥でもあった11代三井八郎右衛門高公(1895~1992)が、戦災で焼失した旧本邸に代わる新本邸として敗戦後、旧本邸の焼け残りに京都、大磯など各地の別邸の部材を集めて再建したもの。

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三井家の旧本邸は昭和20年5月の空襲で焼失するまで麻布今井町(現港区六本木)にあった。10代三井八郎右衛門高棟(1857~1948)によって明治39年(1906)に建てられた旧本邸(今井町邸)は敷地面積約1万3千坪の大邸宅で、大正11年の英国皇太子来訪に際しては政府の要請により、晩餐会など接待の場として用いられた。

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敗戦後GHQによって三井財閥は解体され、三井家旧本邸の跡地は接収される。講和条約発効により日本が主権を回復した昭和27年(1952)、三井高公は近隣の麻布笄町(現港区西麻布三丁目)に場所を移して本邸を再建した。なお旧麻布今井町の旧邸跡は現在、米国大使館の宿舎となっている。

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本邸の再建に際しては、主に京都の油小路邸の奥座敷や大磯別邸(城山荘)の部材を用い、旧今井町邸からは焼け残った土蔵や正門、庭石等が、また世田谷区用賀にあった三井家関連施設からも部材が集められた。しかしこの邸宅は、世代が変わる毎に個人財産は分散させられるように仕向けられている現行税制の下、三井高公氏一代限りで終わる。

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平成4年に三井高公氏が死去すると、都心の超一等地にある大邸宅(旧今井町邸に比べたら小規模なものだが)は莫大な相続税が課せられたのは想像に難くない。敷地は売却、邸宅は規模を縮小して主要部のみ庭石や正門等と共に江戸東京たてもの園に移築された。なお移築前の母屋は、写真の土蔵が写っているあたりまでの規模があった。

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土蔵はかつて三井の本拠地である日本橋駿河町(現在の室町、三越本店三井本館がある辺り)に建っていたもので、三井家では「絹蔵」と呼ばれ、由緒ある蔵として大切に扱われてきた。駿河町→麻布今井町→麻布笄町を経て、最後は江戸東京たてもの園に落ち着いたものである。

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現在保存されているのは、旧油小路邸や旧大磯別邸の部材で構成された部分が主になっているが、昭和27年の新築部分も台所や階段室などごく一部が残されている。構造はコンクリートブロック積で、庭園側とは全く異なる表情を見せる。

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旧油小路邸の部材が使われている玄関。旧油小路邸は明治23年(1890)に、二条城に近い現在の京都市中京区油小路に建てられ、先代当主の10代高棟も設計に関わったとされる。

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内側からみた玄関。ガラス戸がモダンな印象。今日の一般住宅と比べても少々広い位の規模。財閥解体後に建てられたとはいえ、日本最大の財閥当主の本邸玄関として見ればむしろ小さすぎるとも取れる。もっとも住む分にはこの程度が丁度良かったのかも知れないが。

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玄関に2つある照明は、旧朝香宮邸の装飾でも知られるフランス人ガラス工芸作家、ルネ・ラリックの制作。

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玄関脇にある和室は、旧大磯別邸で「望海床」と名付けられていた座敷を接続したもので、趣味人であった10代高棟の画室として使われていた部屋。大磯時代は床にオンドル式の暖房設備があったという。

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望海床から庭を望む。床の間や建具などに趣向を凝らした座敷である。

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サンルーム的な使い方をしていたと思われる、広く取られた縁側。突き当たりにある櫛型の窓は、桂離宮をデザインモチーフにしたと思われる。

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縁側及び、客間と食堂から構成される書院部分は柱から建具、天井まで旧油小路邸の部材で構成され、玄関まわりに見られた昭和戦後のモダンさはなく、明治の重厚さが溢れる空間になっている。

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やや中国風の意匠を持つ洋式椅子と卓子を書院座敷に配した客間。

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客間と食堂の間の欄間は卍崩しの意匠。

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草花の画が描かれた格天井。

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客間とは襖で仕切られた食堂。客間や食堂の襖や障子、戸袋に描かれた絵の多くは、森寛斎など四條円山派の画家の手になる。なお森寛斎は、以前当ブログで別邸を紹介した山本春挙の師に当たる。

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一転してモダンな雰囲気に変わるのが、昭和27年新築部分である台所。

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二階仏間前廊下のガラス製シャンデリアは、駿河町にあった三井組ハウス(明治7年竣工、同30年取り壊し)で使われていたもの。日本に持ち込まれたものとしては現存最古級のシャンデリアである。

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二階には仏間の他座敷二間が保存されているが、これは旧油小路邸の座敷を移築したものである。旧油小路邸の奥書院では田の字型に座敷が配されていたが移築に際して分離、それぞれ階上と階下に分けて一階は客間及び食堂に、二階は高公夫妻の居室や寝室として使われた。

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三井高公氏が晩年まで使っていたというベッド。

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時代に翻弄されて、再三にわたり流転を重ねその都度規模を縮小し、野外博物館の一展示物として辛うじて生き永らえている現在の旧三井邸。その姿には三井財閥の往年の威勢よりも、筆者には何かしら惨めさ、痛ましさが先に感じられてならない。

第720回・日光物産商会

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現存最古のホテル建築で現在も営業を続けている、日光金谷ホテルの門前に建つ日光物産商会は、当初は日光金谷ホテルの土産品を取り扱う店舗として明治時代後半に建てられた。現在は観光客向けの飲食店と土産物店が入っている。国登録有形文化財。

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日光物産商会は日光金谷ホテルの門前に建っている。写真はホテル側から見下ろした建物背面。

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元々は日光金谷ホテルの土産物店であったためか、屋根瓦には笹をあしらったホテルのマークが見られる。

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当初は伝統工芸の日光彫や木工品、漆器の製造販売、輸出を手掛けていたという。

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二階側面にある寺院風の花頭窓や、軒下及び二階欄干まわりに施された彫刻など、少々過剰に日本情緒を演出した外観は欧米人観光客を意識したものである。

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昭和3年に日光金谷ホテルから独立、(株)日光物産商会となり現在に至る。

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一階の土産物コーナー。
現在は飲食店や日光金谷ホテルのパンを販売する金谷ホテルベーカリーなどが建物の大半を占めている。

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唐獅子の彫刻が載る階段踊り場の親柱。

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二階のカフェレストラン。

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内部も昔の姿をよく残している。

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日光金谷ホテルや以前紹介した石造の洋館である旧ホーン邸などと共に、明治から昭和戦前まで欧米人のリゾート地としても繁栄していた日光の歴史を伝える建物のひとつである。

第719回・旧大内村役場(大内資料館)

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栃木県真岡市飯貝にある大内資料館の建物は、昭和4年(1929)に大内村(芳賀郡大内村)の村役場庁舎として建てられたものである。現在は市内から出土した土器・埴輪等の埋蔵文化財を保存する施設として活用されており、真岡市の登録文化財となっている。

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田園の中に佇む旧大内村役場。
前を通る車道からは奥まったところに建っているため、ほとんど見えない。

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正面全景。
鉄筋コンクリート構造の採用は、村役場庁舎としては全国的に見てもかなり早い部類に属すると思われる。またアーチを多用したデザインも斬新で、当時としては極めてハイカラな村役場として評判になったものと思われる。

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2種類のタイルを貼った門柱も庁舎同様にモダンなデザイン。

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大内村は明治22年の町村制度施行と同時に発足した村である。
昭和3年に新庁舎の建設が決定、当時の金額で14,200円の工事費をかけて翌4年に竣工した。

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昭和29年に真岡町(同年、市に昇格)に吸収・合併され大内村は消滅、以後庁舎は真岡市公民館大内分館として使われた。昭和63年に大内資料館となり、現在に至っている。

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正面と両側面はアーチ窓が連なるモダンな外観であるが、背面は無機質な姿。

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敷地裏手にある石造りの蔵。役場の文書庫だろうか。

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真岡市のホームページでは埋蔵文化財を展示しているとあるが、収蔵・保管のために使われているような雰囲気で、公開している感じではなかった。

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塔屋は角に半円形の窓を折れ曲がった形で配し、特に印象的なデザインが施されている。

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3連アーチの玄関ポーチ。

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少々荒廃した印象があり、珍しい外観の近代建築だけに些か勿体ない印象を受ける。

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模様を型押しした玄関ポーチの床タイルも、他であまり見かけないものである。

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目立たない場所にあるためかあまり知られていないが、栃木県下の近代建築としてもっと注目されてもよいのではと思わせる建物である。

(26.1.30 追記)
設計者は栃木県内でも早くから設計事務所を開いていた更田時蔵。氏が開いた設計事務所である(株)フケタ設計のホームページでは、建物の紹介及び設計図面を見ることができる。

第718回・伏見ビル(旧澤野ビルヂング)

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大阪市中央区伏見町にある伏見ビル(旧澤野ビルヂング)は、大正12年(1923)竣工と伝わる鉄筋コンクリート造3階建の小さなビル。隣接する、当ブログでも既に紹介済の青山ビル(旧野田家住宅)と共に国登録有形文化財。

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アールデコ風の外観が特徴。昭和に入ってからの建築でアールデコ風の建物は多く見られるが、大正12年竣工の建物としてはかなり斬新なものである。

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フィルムカメラで撮っていた時代に撮った伏見ビルの写真を発見したので、スキャナーで取り込んでみた。正確な撮影時期は覚えていないが、15~18年程前ではないかと思う。当時は1階を白色、2・3階はピンク色に塗られていたが汚れが目立ち、少々おどろおどろしい感じがしたものだ。

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これは10年ほど前の撮影と思うが、外壁は現在の色に塗り変えられている。1階まわりが現在に比べるとまだ雑然としている。なお、左奥に写るツタの絡む建物は青山ビル。

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現在の姿。(撮影は昨年)
近年、1階まわりを中心に改修が行われた。

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トンカツ屋が入居していた所は美容院に変わり、外観も建物の雰囲気に調和したものになっている。

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また空調の室外機なども目立たないよう、新設された庇で覆い隠されている。

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設計は辰野片岡事務所出身の長田岩次郎と伝わるが、詳細な経歴は不詳。当初は事務所ビルとして建てられたとも、もしくはホテルとして建てられたとも伝わる。

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なお、創建当初からかどうかは分からないが、実際にホテルとして使われていたことはあるらしい。
その後現在に至るまでテナントビルとして、これまで喫茶店、理髪店、飲食店などが入居してきた。

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1階正面玄関脇の、アーチ型の出入り口と窓が穿たれている場所は戦前は理髪店で、今も室内にはモダンな装飾が施された鏡や戸棚など、当時の内装が残されている。現在この部屋はギャラリーとして使われている。

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内部の柱や壁は太く厚く造られており、堅牢な造りながらも角を丸くした柔らかい雰囲気の空間が特徴。外観と同様装飾は殆ど無いが、ビルの外観をあしらったすりガラスが1階ホールに嵌め込まれている。写真はかつての電話交換室とされる部屋の小窓。

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現在の所有者はこの建物を非常に大切にされており、少しずつ改修を重ねモダンな大正建築の姿を甦らせようとされていることが窺える。

(参考)文化遺産オンライン
    大阪府登録文化財所有者の会
    船場近代建築ネットワーク

第717回・名古屋市役所本庁舎

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以前当ブログでは、全ての都道府県庁所在地で、戦前建築の市役所庁舎が残されている静岡、名古屋京都、鹿児島の4市のうち、静岡京都の市庁舎を紹介済であるが、今回は名古屋市庁舎の紹介。昭和8年(1933)竣工で、隣接する愛知県庁舎と共に、国の登録有形文化財となっている。

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名古屋市役所は明治22年の市制施行後、現在の栄交差点付近に木造の庁舎を構えていたが、明治40年に火災で焼失する。跡地はいとう呉服店(現在の松坂屋)に売却され、名古屋建築界の大御所・鈴木禎次の設計による名古屋初の欧米式デパートメントストアーが明治43年に開店、円形ドームを戴く洋風建築は名古屋市民の間で評判となった。

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火災後、現在の中区役所のあたりに移転するが、昭和天皇即位御大典の記念事業として名古屋城三の丸への移転新築が計画され、昭和8年に現庁舎が竣工、再度移転し現在に至る。なお同時に計画された愛知県庁舎の移転新築は県会の反対などから事業は遅れ、市庁舎より5年後の昭和13年に竣工した。

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設計は建築設計競技で選ばれた平林金吾の案を基に名古屋市建築課が行い、施工は大倉土木(現大成建設)が当たった。平林金吾は大正15年に竣工した大阪府庁舎の設計競技でも応募、一等当選を果たしている。

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隣接の愛知県庁舎や神奈川県庁舎京都市美術館などと共に、帝冠様式の代表的建築である。平成元年に名古屋市の都市景観重要建築物、平成10年には国の登録有形文化財となり、近年耐震改修工事が行われている。

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本庁舎の背面に建てられた東庁舎は分庁舎の中でも新しく建てられたものだが、本庁舎との調和を重視した外観となっている。

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愛知県庁舎との2ショット。帝冠様式の建築が二棟並ぶのは全国でもここだけ。
なお、愛知県庁の奥にある財務局庁舎の敷地には、県庁舎に引き続き税務監督局の庁舎新築が予定されていたが戦争のため実現しなかった。税務監督局が帝冠様式で実現していたら、一層迫力のある景観になっていたと思われる。

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名古屋城天守閣を意識して塔屋の頂上には、四方睨みの鯱が載せられている。
大時計は平林金吾の設計原案には無く、名古屋市建築課の実施設計の段階で付け加えられた。

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塔屋の屋根の下には、テラコッタでできた魔除けの鬼面が24面配されている。遠目にしか見えないが、近くで見れば前回の旧大阪ビル東京分館と同様、結構迫力がある(もしくは不気味)のではないだろうか。

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正面5階内部には和風の格天井を持つ正庁があり、現在も各種式典のための部屋として使われている。近年は11月3日の文化の日前後に、正庁を含めた内部公開のイベントが行われているようである。

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正面玄関ポーチ。テラコッタ製の瓦で縁取られている。名古屋市庁舎では玄関ポーチや塔屋を中心にテラコッタが多用されている。

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側面玄関。

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内部も先述の正庁のほか貴賓室、階段室など見どころが多いので、機会があれば内部の写真も追加したい。
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