旧川喜田久太夫(半泥子)邸 復元計画の現状

以前弊ブログ記事で、復元が計画されていることについて紹介した三重県津市の旧川喜田久太夫(半泥子)邸ですが、下記の日本経済新聞報道によると計画は現在、暗礁に乗り上げているようです。

旧川喜田邸について取り上げた弊ブログ記事(第258回・千歳文庫)
http://kenchiku228.blog85.fc2.com/blog-entry-263.html

旧川喜田久太夫(半泥子)邸洋館(石水博物館の展示パネルより)

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写真の二階建洋館と、平屋建日本家屋が現在、解体材の状態で保管されており、津市によって復元が検討されていた。
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日本経済新聞 平成26年4月23日付記事
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG22057_T20C14A4CR0000/

(以下、記事引用)

「半泥子の山荘、復元計画が頓挫 専門家「重文級の価値」

「東の魯山人、西の半泥子」と称された陶芸家、川喜田半泥子(本名・久太夫、1878~1963年)が暮らした津市の山荘が2度の移築を経て解体された後、部材が奈良県内の倉庫に30年近く眠っている。津市は一時、復元に前向きな姿勢を見せたが、数億円の費用がかかることもあって計画は頓挫。専門家は「重要文化財級の価値があり、市が部材を引き取るべきだ」と訴えている。

 半泥子は伊勢商人の末裔(まつえい)として生まれ、百五銀行(津市)の頭取や、津市議、三重県議も務めた資産家。

 山荘は1915年、津市を一望する千歳山に建てられた。「イングリッシュコテージ式」と銘打たれ、木造2階建ての洋館と木造平屋の和館を併設。千歳山の土が陶芸に適しており、半泥子は窯を開いて作陶を始めた。

 津市を訪れる皇族や文化人の迎賓館の役割も担ったが、43年に三重県鈴鹿市の海軍工廠(こうしょう)に寄付されて以降、所有者を変えて2度移築され、85年に奈良県内の民間団体が解体し、復元目的で部材を引き取った。しかし、復元のめどは立たず、団体の倉庫に放置されたままになっていた。

 2008年、川喜田家が千歳山の土地を津市に寄贈。市や、有識者でつくる「津市千歳山を考える会」は、山荘を復元し公園として整備する計画を練り、11年には部材の調査を決定。山荘を公園の新しいシンボルにすべく動き始めた。

 しかし昨年11月に市議会に提出された千歳山の整備案に復元は盛り込まれなかった。津市政策課の倉田浩伸課長は「復元しても費用に見合う集客力や利用法があるか疑問。今の財政状況で、市民の理解を得るのは難しい」と漏らす。

 三重大大学院の菅原洋一教授(日本建築史)は「復元すれば重文指定も目指せる。部材の倉庫は保管に適しているとは言えず、団体が部材を保管し続ける保証もない」と指摘している。〔共同〕」

(以上、記事引用)

上記記事では言及されていませんので「重要文化財級の価値がある」点につき、ブログ管理人より私見の補足を。
旧川喜田久太夫邸には、大正期を代表する2人の建築家が設計に関わっています。そして両者の設計作品には、国指定重要文化財が既に何件か存在しています。

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当初設計者の大江新太郎(1876~1935)は、明治神宮造営や伊勢神宮式年遷宮、日光東照宮修理などに携わり、寺社建築に造詣が深い建築家。大正10年竣工の明治神宮宝物殿は国指定重要文化財。

大江新太郎設計の明治神宮宝物殿

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大正8年に行われた、洋館部分の玄関・ホールまわりの改装を手掛けた田辺淳吉(1879~1926)は、工芸性の高い作品を多く残した建築家で現在3件(誠之堂晩香廬青淵文庫)が国指定重要文化財。

田辺淳吉設計の晩香廬

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施主の川喜田半泥子(1878~1963)は、百五銀行頭取を長年務めた実業家であると同時に、陶芸家としても知られるが建築にも関心が強く、自ら大工道具を振るって建てた茶席(山里茶席)が現存、公開されている。なお上記記事中、「東の魯山人、西の半泥子」と紹介されている北大路魯山人(1883~1959)の旧邸は現在、旧所在地の鎌倉から茨城県笠間市に移築、「春風萬里荘」の名で保存・公開されている。

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川喜田家は平成20年(2008)、津市の郊外にあり、川喜田邸敷地及び周辺の広大な自然林から構成される千歳山の土地を、敷地内の建物を含めて津市に寄贈しました。津市では千歳山の整備に当たり、現在は解体材の状態で奈良県内に保管されている旧川喜田邸の復元も検討に入れ、整備に着手していたところです。

個人的な話で恐縮ですが、ブログ管理人は10年程前に下記「大宝天社絵馬」様のホームページ(※)で初めて旧川喜田邸の存在を知り、特に洋館の美しい外観に魅せられました。また施主の川喜田半泥子についても、偶々見た作品展を通じその人物像に魅せられました。この度の津市の動きには多大なる期待を寄せておりましただけに、計画が頓挫しているという現状は残念でなりません。

※ホームページ「大宝天社絵馬」様の「今は昔の物語」にある「鈴鹿荘」の記事
(鈴鹿市に移築され「鈴鹿荘」と称されていた頃の旧川喜田邸について、こちらのホームページで詳細に紹介されておられます)

(参考:三重県内で既に修復・公開されている近代の邸宅)

桑名市が「六華苑」として整備・公開している旧諸戸清六(二代目)邸

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上記「六華苑」に隣接、諸戸家関係の財団が公開している旧諸戸清六(初代)邸

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三重県に現存する近代の大規模な邸宅では上記二つの諸戸邸の他、擬洋風建築の洋館がある土井本家(尾鷲市・非公開)などがありますが、旧川喜田邸は三重県における近代の貴重な歴史遺産として、これらに匹敵する価値があると思います。桑名の旧諸戸邸は観光名所としても定着しつつあり、同様に旧川喜田邸を巨額の費用に見合うだけの集客力を有する文化施設にする事も決して不可能ではないと思います。

津市におかれましては、財政面から難しい点は容易に想像できる所ではありますが、津市民のみならず三重県民、日本国民の財産として旧川喜田邸が後世に引き継がれるよう、復元実現に向けて千歳山の整備を進めて頂くことを願うものであります。
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第769回・JR門司港駅(旧門司駅)他

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前回紹介した旧門司三井倶楽部と共に観光名所となっている、JR門司港駅など門司港レトロ地区の近代建築群。
本来ならば個別に記事を作成したい魅力的な建物群であるが、ブログ作成を始める前の訪問でお見せできるような写真が少ない。今回はいつかは更新する前提で、簡単な紹介記事とさせて頂く。

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門司港レトロ地区のシンボルにしてかつての九州の玄関、JR門司港駅。
大正3年(1914)に門司駅舎として建てられ、昭和17年の関門トンネル開通により現在の門司港駅に改称されるまで、九州の鉄道の起点駅であった。また関門連絡船との連絡中継駅としての機能も有していた。

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当時の博多駅舎を模したとも言われる外観。昭和63年に駅舎としては初の国指定重要文化財となる。

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駅本屋だけでなくホームも歴史を感じさせる。

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平成24年から大規模な解体修理工事に入っており、工事完了まであと4年かかる予定である。(写真は平成19年撮影)

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旧門司税関。明治45年(1912)竣工。長らく倉庫として使用され、荒廃が進んでいたが門司港レトロ地区の主要建築物として北九州市により修復、活用されている。

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旧大阪商船門司支店。大正6年(1917)竣工。設計は神戸の村山龍平邸洋館(明治42年、国指定重要文化財)の設計者でもある河合幾次。現在は北九州市が所有・公開。

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大阪商船とは対照的にシンプルな外観の旧日本郵船門司支店。昭和2年(1927)竣工。

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外観は簡素であるが、内部は古い造りをよく残している。玄関の風除室壁面には美しい緑色のタイルが貼られている。

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モザイクタイル貼りの床を持つ玄関ホール。このほか古風なエレベーターなども見どころである。

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現在は一階の外壁が改修され、旧状に近い形に変えられているようである。

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旧門司三井倶楽部の向かいにある旧三井物産門司支店ビルは、昭和12年竣工の装飾を省いたモダンな外観を有する事務所ビルであるが、正面玄関上部には写真のような黒大理石のレリーフが飾られている。

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山口銀行門司支店の建物は、昭和9年(1934)竣工の旧横浜正金銀行門司支店。

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設計は同行の神戸支店も手掛けた桜井小太郎。

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今回はその場しのぎの記事となり申し訳ありません。門司は対岸の下関と共に近代建築の宝庫です。これらの建物はいつか必ず再訪して詳細記事にしたいと思います。

第768回・旧門司三井倶楽部

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旧門司三井倶楽部は、大正10年(1921)に三井物産門司支店の社交クラブとして現在の北九州市門司区に建てられた洋風建築である。戦後は財閥解体により国鉄の所有となるが、現在は北九州市が所有・公開している。国指定重要文化財。

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本来は現在のような市街地の真ん中ではなく、緑豊かな山麓の一角に建てられていた。元々は山手の谷町にあった三井物産の社宅群の中にあったが保存に至る経緯上、門司港に近い現在地に移築されている。

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門司港は明治以降、石炭の積み出し港として発展したが、門司三井倶楽部が建てられた大正中期は欧州航路を始め、台湾や大連、上海行航路の船舶の寄港地となり、港町として繁栄の絶頂期を迎えている頃であった。

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敗戦後は財閥解体により三井物産は門司から撤退する。旧三井倶楽部は戦後新たに発足したばかりの国鉄に売却され、「門鉄会館」の名で国鉄の宿泊施設となった。その後国鉄の分割民営化に伴い、門鉄会館は処分対象資産となり存続の危機に立つ。

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門司港界隈の歴史的建築群を、観光資源として整備する「門司港レトロ」事業を進めていた北九州市が、移築を前提に国鉄清算事業団より無償譲渡、国の重要文化財に指定の上で現在地への移築復元を実現させた。現在は建物自体を一般公開するほか、飲食店なども入居している。

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貿易商社の社交クラブにふさわしく、玄関の欄間には船のステンドグラスが嵌め込まれている。

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館内は、かつての財閥系商社の社交クラブであり迎賓館でもあった面影が、部屋毎に異なる暖炉や重厚な天井装飾などによく残されている。

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設計は門司に設計事務所を開いていた松田昌平(1876~1989)による。

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竣工後間もない大正11年には、来日したアインシュタイン博士の宿所にも充てられた。

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2階にある宿泊用の居室は当時の家具が一式復元、展示されている。

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部屋毎に異なる天井の造り。

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財閥解体、国鉄民営化など、時代の動きにその都度翻弄されてきたものの、現在は門司港レトロ地区の中でも門司港駅舎などと共にシンボル的な存在として、多くの観光客を迎え入れている。

第767回・旧山口県会議事堂

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旧山形県庁舎再訪による記事更新、県会議事堂の記事作成と合わせ、同じ大正5年竣工の旧山口県庁舎についても同様に記事を更新してみた。更新前の記事では、県会議事堂は外観写真を1枚だけだったので、今回は独立した記事で改めて紹介させて頂く次第である。(もっともこちらは再訪した訳ではないので、画質の悪い古い写真で恐縮ですが・・・)

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旧県庁舎と同じく大正5年(1916)竣工。設計も武田五一・大熊喜邦のコンビ。昭和49年(1974)に新しい県議会棟に役目を譲るまで約60年使われていた。昭和59年に旧県庁舎と共に国重要文化財に指定される。

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平成10年から16年にかけて、旧県会議事堂は大掛かりな補強、修復工事が行われ、併せて後年の改造部分を創建当初の形に復する復元工事が行われている。なお旧県庁舎は、同様の修復・復元工事はまだ施されていない。

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正面中央に小さな塔を設けている。

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山形と異なり、県庁舎と県会議事堂の意匠・外壁仕上げは統一されている。玄関ポーチなどのデザインは県庁舎の縮小版といった感じである。

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玄関ホール。玄関扉の幾何学的意匠が当時としては非常に斬新なものである。

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議場内部。照明器具なども資料に基づき創建当初の形に復元されている。

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議員席から正面演壇及び県会議長席を望む。

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天井は県庁舎正庁と同じくドーム状になっているが、木部は重厚な焦茶色に塗られ、パステルカラーの華やかな色調の正庁とは対照的な仕上げとなっている。

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傍聴席から演壇を望む。

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極めて平面的な装飾に武田五一の作風がよく現れている。

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戦前の道府県庁舎のうち、議事堂が別棟になっており現在も両者が揃って現存するのは山形・山口のほか、山梨県庁舎・県会議事堂(昭和3~5年)がある。

第766回・旧山形県会議事堂

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以前紹介した旧山形県庁舎に隣接して建つ旧山形県会議事堂。県庁舎と同じく、山形大火で焼失した旧議事堂に代わって大正5年(1916)に竣工。設計も同じく中條精一郎が顧問で、田原新之助の設計。国指定重要文化財。

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県庁舎の正面向かって左手に建つ県会議事堂。県庁舎とは別に、専用の門が設けられている。

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県庁舎が構造は煉瓦造、中庭を除き外壁は全面花崗岩貼りとしているのに対し、県会議事堂は赤煉瓦の壁面に付柱等一部を花崗岩貼りとしている。庁舎と合わせたかったものの工費の制約上、止むを得ないものであったようである。

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中庭の外壁が構造体の赤煉瓦がむき出しになっている点を除けば、県庁舎は内外装ともに全面的に重厚華麗に仕上げられているのに対し、県会議事堂の外観は正面だけを立派に仕上げるのが精一杯であったような感がある。しかしその内部は、県庁舎に劣らないすばらしい空間である。

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県庁舎とは渡り廊下で結ばれている。
なおこの建物は公会堂兼用であったため、県会が開かれていないときは山形市民のための公会堂として使われていた。

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側面から見た外観。正面のみ2階建として1階に議員控室、2階に来賓室及び正副議長室を配している。奥は平屋建ての議場ホールとなっている。

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議場ホールの上部には換気塔と思われる小塔を設けている。

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背面からみた旧県会議事堂。

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裏手、県庁舎と県会議事堂の間には何か別の建物が建っていたのか、立派な石畳と石段があり、石段の両脇には装飾を施した石柱が一対建っている。

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現存する旧県会議事堂(2代目)は議事堂としては短命で、竣工から僅か14年後の昭和5年(1930)には3代目議事堂が竣工、移転している。3代目議事堂の跡かとも考えられたが、古い絵葉書などを見ると2代目議事堂の前面に新築されたようなので、議事堂跡ではないと思われる。

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石柱の頂部には凝った装飾が施されている。

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昭和5年に議事堂兼公会堂の役割を終えた後は、県庁舎別館として旧議場ホールなど内部を改装、昭和59年に庁舎としての役割を終えるまで執務室の一部として使われていた。

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昭和61年から始まった修復工事により内装が全面的に復原され、約半世紀ぶりにカマボコ型のヴォールト天井を備えた旧議場ホールなどが復活した。

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正面玄関。
なお、先述の3代目県会議事堂は2代目議事堂の正面鼻先に建っていたようであるが、現存しない。

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玄関内部。欄間にシンプルな意匠のステンドグラスを嵌め込んでいる。

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県会議事堂の階段親柱や手摺りは、重厚な県庁舎と異なりセセッション風のモダンな意匠となっている。

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旧議場ホール内部。写真は文翔館パンフレットからの転載。今回2度目の訪問であったが、催事準備のためまたもや立入禁止であった。盛んに利用されているのは建物にとって大変喜ばしいことなのだが・・・

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また山形訪問の機会を得たときは、今度こそ旧議場ホールを直接見たいものである。

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なお旧県庁舎については、本記事作成に合わせ写真の大幅な差替・追加等、記事内容の全面的な更新を行ったので、併せて御覧頂けると幸いである。

第765回・旧大庄村役場(尼崎市立大庄公民館)

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兵庫県尼崎市にある大庄公民館は、昭和12年(1937)に大庄村役場として建てられた。昭和戦前から戦後にかけて活躍したモダニズムの建築家・村野藤吾(1891~1984)の比較的初期の設計作品。国登録有形文化財。

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正面。
鉄筋コンクリート造地上3階建て、地階、塔屋付の庁舎は、昭和12年の竣工当時「日本一の村役場」と称されたという。

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村野藤吾は大正7年に渡辺節の事務所に入所、渡辺の下で神戸の商船三井ビルや、大阪の綿業会館などの設計に携わる。昭和4年に独立した後は、今は無い大阪心斎橋のそごう百貨店(現在存続が不安視されている大丸百貨店の隣にあった)などを手掛ける。

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背面。立方体を不規則に積み重ねたような大胆な造形が特徴である。

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外壁に貼られた小豆色のタイル。同様の色調をもつタイルが、戦前の大作である東京日本橋の森五商店(昭和6年、現近三ビル 東京都選定歴史的建造物)、山口県宇部の渡辺翁記念会館(昭和12年、国指定重要文化財)でも用いられている。

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村野の作風は従来の様式建築を否定しモダニズムを基調としながらも、装飾を一切廃した機能主義には与せず、内外装の仕上材や細部意匠には独特の趣向を凝らすものだった。

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村野の創意に加え、渡辺節の下で叩き込まれた様式建築の手法が活かされており、細部意匠を豊かなものにしていると言える。晩年には様式建築の意匠を自在に使いこなせる建築家として赤坂離宮迎賓館(旧東宮御所)の改修設計も引き受けている。

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村野藤吾の設計作品は現在、先述の渡辺翁記念会館の他、戦後の建築では初指定となった広島市の世界平和記念聖堂(昭和29年)、高島屋東京店増築(昭和29~40年、高橋貞太郎設計の当初部分と併せて指定)の3棟が国指定重要文化財となっている。

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また、国登録有形文化財となっているものでは旧大庄村役場の他、大阪府吹田市の関西大学簡文館(昭和30年)がある。

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長く伸びた玄関ポーチや玄関まわりは、直接の関係は全くないが、師である渡辺節設計の旧乾新兵衛邸(昭和11年)を連想させられる佇まいであった。

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一階の玄関脇の壁面に飾られたグリフォンのレリーフ。

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これらの動物装飾を見ると、渡辺節の下で旧大阪ビルディング本館同ビル東京分館の装飾を手掛けた経験が活かされているのかと思えてくる。

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塔屋に施されたオリーブのレリーフ。

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昭和17年(1937)に大庄村は尼崎市に編入、庁舎は尼崎市役所大庄出張所となる。その後大庄支所となり昭和44年に現在の用途である公民館となる。昭和61年には改修工事が施され、平成15年に国登録有形文化財となり現在に至る。

大丸百貨店心斎橋店が建て替え?

4月9日付記事で気になるコメントを頂戴したので調べると、大阪・心斎橋にある大丸百貨店心斎橋店(参照:過去の紹介記事)が建て替えられる、と朝日新聞(デジタル版)が報じています。

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記事を見ると・・・(以下引用、但し本文のみ)

4月11日付朝日新聞デジタル版

「完成から81年たつ大丸心斎橋店本館(大阪市中央区)が、建て替えられる見通しになった。近代の大阪を代表する歴史的建造物のひとつだが、老朽化に加え、周辺の百貨店が次々と増床・改装しており、対抗が必要になった。

 1933年に完成した本館は、米国出身の建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの代表作のひとつ。アールデコやネオ・ゴシック様式を織り交ぜた「大正モダン建築」で知られる。大理石を多用し、玄関ホールの天井にはイスラム様式の幾何学模様アラベスクもみられる。45年の大阪大空襲で上層階を焼失したが、その後、雰囲気を保ったまま修復・増築された。
 ただ、最近は古さが目立っていた。そこで大丸松坂屋百貨店を傘下に持つJフロントリテイリングは、10日発表の中期経営計画に「心斎橋地区再開発計画の具体化」を盛り込んだ。

 大丸松坂屋の好本達也社長は「本館建て替えを含め、前向きに検討している」と話す。南館、2009年にそごうから買いとった北館の改装とともに、16年度までに一体的な活性化策を固める。(内藤尚志)」

本記事で言及の心斎橋地区再開発計画については以下、「建設通信新聞」より。

4月11日付建設通信新聞記事

「J・フロントリテイリング(JFR)は、東京・銀座六丁目10地区再開発計画、松坂屋上野店南館建て替え事業に続き、大阪心斎橋地区の再開発計画に着手する。「大型商業施設のオーバーストア化で競合が激化する大阪地区の競争力を抜本的に強化する」(同社)ため、大丸心斎橋店(本館、北館、南館)を中心に周辺の不動産、商業施設活用を含めた心斎橋地区再開発計画の具体化を推し進めるという。10日、同社が発表した今期を初年度とする3カ年の中期経営計画(-2017年2月)の中で明らかにした。3年間で1300億円以上の営業キャッシュフローを創出し、うち1100億円を主に大型設備投資と成長投資に投入する。
 中計は、16年11月に銀座六丁目10地区再開発計画の開業を予定しているほか、17年秋に松坂屋上野店南館建て替えのオープンを予定している。
 17年以降の飛躍を見据え、新百貨店モデルの確立に向けた取り組みをさらに推し進めるとともに、パルコやスタイリングライフ・ホールディングス(SLH)、フォーレストを加えたマルチリテイラーとして取り組みを強化することで顧客の幅広いニーズに応え、グループの競争力、収益力を抜本的に強化するという。
 パルコは16年春の開業を目標に仙台地区2店舗目となる仙台新館(仮称)の開発を進めるほか、名古屋(14年秋)や札幌(16年春)など7物件以上の開発を目指すとともに、売り場面積の約15%規模を毎年リニューアルする。
 海外は、上海新世界大丸百貨店(中国)、JFRプラザ(台湾)を通じ、今後の事業展開や他のアジア諸国出店につなげる。」

(以上、記事引用終わり)

「大丸心斎橋店本館の建て替えも選択肢に入れた再開発計画が具体化に向け動き出した」とは言えますが、朝日の「建て替えられる見通しになった」はちょっと飛躍し過ぎと思いますが?

朝日新聞は昭和6年竣工の近代建築として知られた旧朝日ビルディングを取壊し、高層ビルに建て替える再開発事業を現在やってる最中ですから、大丸も同じような事をやるぞ、とでも言いたいのでしょうかね?
・・などと下衆な勘繰りもしたくなる記事です。

それはさておき、歴史的建築が簡単に姿を消すことが珍しくない大阪の土地柄を考えると、本館の建て替えが有力な選択肢に挙がっているのは事実と思います。

隣りの南館や北館(旧そごう百貨店本店)の増改築で本館は修復改修、という選択肢もあって然るべきでしょう。
大丸は再開発するなら三越や高島屋を見習ってやって頂きたいものです。

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日本橋三越本店(大正3年竣工、昭和2・10年改装 東京都選定歴史的建造物))→過去の紹介記事
旧館に隣接して高層の新館を増築。旧館は耐震改修を施し、吹付塗装で塗り込められていた白タイル貼りの外壁も近年の改修で復元されている。

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高島屋東京店(昭和8年竣工、同29、40年増築 国指定重要文化財)→過去の紹介記事
戦後の増築部分も含まれる重要文化財の本館は保存しつつ、隣接の別館を高層化する再開発計画が進行中。

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高島屋本店(南海ビルディング)(昭和7年 国登録有形文化財))→過去の紹介記事
戦後の増築部分のみ建て替えて、売り場面積の増床に対応。本館は改修後、国の登録文化財に認定されている。

第764回・山形六日町教会

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山形市旅篭町にある日本基督教団山形六日町教会は、明治20年(1887)に伝道活動を始めたという山形市内でも最も古いキリスト教会のひとつである。

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現在の会堂は大正3年(1914)の竣工。

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国指定重要文化財である旧山形県庁舎のすぐ裏手に建つ山形六日町教会。

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木造下見板張りの簡素な造り。

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もとは別の場所に会堂があったが、明治44年の山形大火で焼失、現在地に移転した。

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尖頭アーチを持つゴシック様式の窓。

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近年改修されたようであるが、創建当初の形態は概ね変えられてはいないようである。

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煉瓦積みの煙突はかつては屋根より上に伸びていたものと思われるが、現在は壁面部分のみ残されている。

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きれいに外壁のペンキを塗り替えた外観は、一見古さをあまり感じさせないが、煙突跡の古びた煉瓦積は建てられてから100年に亘る歴史を感じさせる。

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重厚な石造風の旧県庁舎とは対照的な外観を見せている。

第763回・旧開明尋常小学校舎(尼崎市役所開明庁舎)

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今回は市役所の分庁舎として再利用されている戦前の小学校校舎。現在尼崎市役所の開明庁舎おして使われている建物は昭和12年(1937)に開明尋常小学校の校舎として建てられた。国登録有形文化財。

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前回の旧山形市立第一小学校と比較すると、現在の小学校校舎でも見られるような外観で、一見すると戦前の建物には見えない。

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しかし時計塔まわりに目をやると、戦前建築ならではの造形が見られる。

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太い円柱がそそり立つ時計塔や半円形に張り出した階段室、四半円平面の玄関ホールなど、戦後の小学校校舎では滅多に見られない凝ったデザインが施されている。

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京阪神地方ほか関西に甚大な被害をもたらした、昭和9年の室戸台風の災害復興事業として、既存の木造校舎を建て替える形で建てられた。

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平成16年(2003)、開明小学校は他校との統合により校舎は移転、60年以上に亘る校舎としての役割を終えた。

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内部の旧校長室には、以前大阪の旧浪速高等学校本館の記事でも触れた、旧奉安庫の跡がそのまま残されているという。

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小学校としての役割を終え、尼崎市役所開明庁舎として再利用されているが、整備に際しては後年の増築により当初の姿が失われていた玄関まわりがもとの形に復元されている。

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大東亜戦争末期の米軍機による、機銃掃射の痕跡が残る塀も保存されている。

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かつての校庭は現在、公園となっている。

第762回・旧山形市立第一小学校校舎

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昭和2年(1927)竣工の旧山形市立第一小学校校舎は、現存する中でもかなり古い部類に属する鉄筋コンクリート造の小学校校舎である。現在は小学校校舎としての役割は終え、山形市の文化施設として公開・活用されている。

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山形市の中心街、本町1丁目にある旧第一小学校校舎。これまでに紹介した吉池医院や旧西村写真館、旧丁子屋商店などと共に山形市中心街に残る戦前建築である。

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国登録有形文化財であると同時に、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されている。

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左右対称で両端の外壁を少し前に張り出し、やや権威性が強い、官公庁舎を思わせる構成の外観。

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全体的に装飾を配した簡素な外観であるが、中央と両端に配されたアーチ窓などに様式建築的な造形が見られる。

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現在は山形市の施設「観光文化交流センター 山形まなび館」として観光案内所やカフェ、イベントスペースなどに使われている。

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正面玄関を入るとすぐ階段が現れる構成も、戦前の官公庁舎によく見られる。
人造石研ぎ出しの階段親柱には、幾何学的で簡素な意匠の装飾が施されている。

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鉄筋コンクリート造の小学校校舎は、大正後期から建てられ始める。大正12年の関東大震災を機にその数は増え、東京など大都市を中心に普及し始める。

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しかし地方都市で、関東大震災から4年しか経たない昭和2年の竣工というのは極めて早く、東北では山形市立第一小学校が鉄筋コンクリート造の最初の小学校となった。

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裏面から見た旧校舎。
現在も第一小学校は同一敷地内にて存続しており、旧校舎の背後に建てられた新校舎に移転している。

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戦前の鉄筋コンクリート造の小学校校舎を新たな用途で再利用している例は増えており、京都の旧明倫小学校や、滋賀県の旧豊郷小学校などが、旧第一小学校と同様に国の登録有形文化財として保存・再利用されている。

第761回・三菱製紙魚町倶楽部

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兵庫県高砂市にある三菱製紙高砂工場の福利厚生施設として使われている明治時代の洋館。もとは明治34年操業開始の同工場の外国人技師長の社宅として、明治37年(1904)に建てられた建物である。

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三菱製紙は明治31年に三菱財閥三代社長・岩崎久彌(東京湯島の旧岩崎邸の主)が、神戸にある外国人経営の製紙会社を譲り受け、合資会社神戸製紙所を設立したことに始まる。(のち三菱製紙所→三菱製紙に改称)同34年には工場を神戸の三宮から高砂に移転、現在も創業当初の赤煉瓦の施設の一部は現役で稼働している。

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高砂工場から南西に歩いてすぐの住宅街の一角に、立派な赤煉瓦の煙突を備えた木造ペンキ塗りの洋館が現れる。

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明治37年竣工の魚町倶楽部の洋館は、当時同工場の技師長であった米国人M・J・シェイ氏の宿舎として建てられ、当初は現在地よりも工場に近い場所にあったが、同氏の退職後は現在の魚町に移築、以後社員のための倶楽部として使われた。

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石造の門の奥に前庭があり、その先に洋館と、社員倶楽部として現在地に移築される際に増築されたと思われる和風建築が建っている。なお門柱の黄色い石材は、高砂市など播磨地方で産出され、大阪の住友ビルディング旧大阪ビルディングの外装にも用いられている竜山石と思われる。

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洋館は煉瓦積みの基礎に、玄関には小さなポーチを張り出す。

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日本瓦葺きで外壁はペンキ塗りの下見板張り、サンルーム兼用のベランダを備えた外観は、神戸の異人館と共通する造りである。

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吹き放しのベランダがある平屋の別棟が手前に付属している。

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別棟の意匠はハーフチンバー(半木造)で異人館風の主屋とは異なる意匠である。別棟は洋館奥の和風建築と共に、移築に際しての増築かも知れない。

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地域のイベントに合わせて公開されることもあるが、通常は現在も現役の企業施設のため非公開である。

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なお、この館は米国人M・J・シェイ氏の宿舎として建てられたと先に記したが、神戸には「北野物語館」という異人館が保存・公開されている。この異人館は明治40年に米国人M・J・シェー氏の住居として建てられたと、文化庁などでは公式に説明されている。両者は同一人物で、三菱製紙退職後神戸の北野に移り住んだということだろうか?

第760回・山形七日町二郵便局(旧丁子屋商店)

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旧丁子屋商店は、大正14年(1925)に洋品店として建てられた、山形市内でも最初期の鉄筋コンクリート造建築。現在は郵便局として使われている。

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山形市の中心街である七日町に建つ。

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鉄筋コンクリート造の建築は大正時代後半ごろより地方都市でも多く建てられ始め、民間の小規模な商店などにも鉄筋コンクリート造のものが現れる。

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大正14年竣工の旧丁子屋は、地方都市の鉄筋コンクリート建築として青森県三戸市の佐瀧本店(大正14年)などと共に、かなり初期のものと言える。

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玄関脇には建物の来歴を記したプレートが貼られており、そこには創建当初の写真がある。
当初は中央にショーウインドウを配し、その両脇に出入口があった。

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現在は中央が出入口、両脇がショーウインドウになって配置が逆転している。

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外壁はモルタルの洗い出し壁と、芋目地に貼ったタイルの付柱の組み合わせになっている。

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アーチ窓を配した塔屋。
創建当時は取り扱う商品だけではなく、店舗自体もモダンでハイカラな洋品店と評判になったものと思われる。

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戦後は二階にダンスホールとビリヤード場が置かれていたこともあるという。

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郵便局となった現在、傍には新旧2つの形のポストが置かれ、共に現役で使われている。

第759回・旧阪神電鉄尼崎火力発電所

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兵庫県尼崎市の阪神電鉄尼崎工場の一角にある赤煉瓦建築は、阪神電車の電力供給用の火力発電所として、明治37年(1904)に建てられたものである。現在は資材倉庫として使われている。

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阪神尼崎駅の南東すぐの場所にある尼崎工場。明治38年に阪神本線(神戸三宮~大阪出入橋)を開業させた阪神電鉄は、当初は本社を尼崎工場内に置いていた。(現在は大阪市に本社がある)

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発電所は尼崎と御影(現在の神戸市東灘区)の2箇所にあり、電車の走行用の他、沿線で一般向けに配電していたこともあるという。

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発電所として使われていた期間は短く、大正4年には発電所としての役目を終え、以後現在まで資材倉庫として使われている。

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近年は「尼崎レンガ倉庫」の名で注目を集めており、尼崎市から歴史的建造物として顕彰されたりしている。また平成25年には催事会場として初めて内部が一般に開放されている。(参考:阪神電鉄の広報記事

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現存するのは、当初建てられたうちの西側半分程度で、東側半分は一階部分の外壁のみ残して改築されている。

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建て替えられた部分の壁面は煉瓦調タイル仕上げとして、調和を図っている。

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新しい部分の屋根も、古い部分と連動するような形状の切妻屋根になっており、色調・形態共に全体的によく調和が取れたものになっている。

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風格ある煉瓦壁。

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阪神電鉄発祥の地に開業当初から建つ赤煉瓦の建物は、創業以来の歴史を一貫して見てきたことになる。これからも引き続き末永く・・・

第758回・空挺館(旧陸軍騎兵実施学校御馬見所)

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千葉県船橋市の陸上自衛隊習志野駐屯地内にある明治時代の洋館・空挺館。同駐屯地に本部を置く第1空挺団、及び旧陸軍落下傘部隊、騎兵連隊関係の資料の展示館として公開されている。

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元々は明治44年(1911)に当時東京・目黒にあった陸軍騎兵実施学校に、明治天皇が陸軍騎兵実施学校へ行幸される際の専用の御馬見所として建てられた。

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大正5年(1916)に、陸軍騎兵実施学校の移転(移転後、陸軍騎兵学校と改称)に伴い、御馬見所も同時に現在地に移築・改修され現在の姿になった。

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空挺館内にて展示されている、目黒時代の写真。正面に張り出した部分の外観が現在と大きく異なる。

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大正5年移築後の写真。移築に伴い現在の形に改造されたことが分かる。

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常時公開はしていないが、定期的に一般公開日を設けているほか、駐屯地創立記念日や夏祭りなどのイベント時には併せて公開されている。

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近年改修が施され、外観、内部共に非常に良好な状態で保存されている。

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明治天皇が観覧される際の御馬見所として建てられたが、習志野に移築後は皇族などのための迎賓館、宿舎として使われていたという。

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内部はその性質上、宮廷建築のような華麗な内装となっている。

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中に入ると正面に現れる階段。既に老齢に近かった明治天皇に配慮して、階段の傾斜は当時のこの種の建物としては緩やかなものになっている。

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室内は隅々まで、簡素な外観に比して意外なほど濃密な装飾が施されている。

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扉の換気用欄間の窓のうち、いくつかは現在も創建当初に入れられたと思われる、絵入り砂摺硝子を見る事ができる。この硝子は、当ブログでも明治期の建物を中心に、既にいくつか紹介しているものである。

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一階の一室の天井。格天井の格間板にも装飾を施している。

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階段を側面から見上げる。

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階段踊り場の親柱。

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御馬見所として使われたバルコニーに続く二階ホール。

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バルコニー前の廊下。主要な部屋や廊下の天井は全て格式高い格天井となっている。

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開口部廻りに施された装飾は、各室毎に異なるデザインで仕上げられている。

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御馬見所。外から見ると二階正面の張り出した部分である。

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御馬見所の天井格間は紫色で仕上げる。紫は古来より貴人の色とされてきた色である。

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建具には菊の御紋。

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当ブログでは建物の紹介のみとするが、見学の機会があればぜひ、自衛隊による東日本大震災等災害時の活動の紹介や、旧陸軍関係について紹介している内部の展示もじっくり見て頂きたい。

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直近の公開日は、平成26年4月6日の駐屯地創立記念日に開催の「桜まつり」。

陸上自衛隊第1空挺団ホームページ(イベント案内)
http://www.mod.go.jp/gsdf/1abnb/event/

第757回・旧茨城県農学校本館

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先日の旧水海道小学校本館と同じく、茨城県水戸市緑町の茨城県立歴史館に保存されている旧茨城県農学校本館。明治33年(1900)竣工の木造平屋建てで、簡素ながらも正面玄関車寄の反りのある屋根が印象的な建物である。

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現在茨城県立歴史館の敷地となっている場所はかつての旧茨城県農学校跡である。同校の移転後に歴史館が整備され、旧水海道小学校も移築された。

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旧本館は一旦解体後、一部を除却縮小の上で敷地内で昭和50年に移築再建したものである。

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旧茨城県農学校の歴史は明治28年に設置された茨城県中央農事講習所に遡る。翌明治29年、学校組織に改められ茨城県簡易農学校となった。

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明治32年には実業学校令及び農業学校規程に基づき、茨城県農学校が開校、翌年に現在の茨城県立歴史館の敷地に移転、現在残る旧本館の建物も竣工した。

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その後、茨城県立農学校→水戸農学校→水戸農業高等学校と改称、昭和45年に那珂町に移転するまで70年に亘る歴史を刻んだ。

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比較的洋風を取り入れた華やかな建物が多い明治期の学校建築の中では、非常に簡素なものである。

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内部は公開されていない。

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各地に設立された旧農学校の遺構としては茨城県以外に、明治36年に建てられた旧富山県立農学校本館(国指定重要文化財)などが現存する。

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かつてこの地に農学校が存在していた歴史を伝えている建物である。

第756回・千歳館

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山形市を代表する明治初年創業の老舗料亭・千歳館。洋風の外観が特徴的な現在の建物は大正4年(1915)の創建で、国の登録有形文化財となっている。

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かつては山形市内でも花街として栄えた花小路に面して建つ千歳館。周囲は今も昭和情緒に富む飲食店街が広がっている。

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千歳館の創業は明治9年(1876)に遡る。
江戸時代以来、山形で代々魚問屋を営んでいた初代澤渡吉兵衛が、既存の料理旅館を引き継ぐ形で開業したという。

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その後移転、拡張し二千坪以上の敷地を有する料亭として盛業するも、山形市の中心街の大半を焼き尽くした明治44年(1911)の大火で焼失、再建に際し現在地の山形市七日町に移転した。

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大火から4年後の大正4年に現在の建物が完成する。当時は中心街からやや外れていた場所であったため周囲の土地も購入し、植物園やカフェ、映画館、芸妓置屋など料亭以外にも様々な業種を営んでいた。

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再建を果たした二代目澤渡吉兵衛はハイカラな人物で、再建した店舗の一角を洋風のカフェレストランにした。現在は使われていない角の出入り口はかつてのカフェの玄関であったという。

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正面外壁は青色のモルタルで仕上げ、人造石の柱を連ねる。また中央に配された正面玄関は、前回紹介した旧師範学校本館を連想させる木造の瀟洒な玄関ポーチと、凝った造作の建具で飾る。特に欄間部分の凝りようは見どころ。

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政党政治が盛り上がりを見せた大正から昭和初期にかけて、千歳館は当時政友会と並ぶ二大政党であった民政党の拠点として使われ、会合や宴会の場となったという。

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大東亜戦争中は一時休業、陸軍に接収されるなど波瀾の歴史を刻みながらも、今日まで歴史と趣のある建物で営業を続けている。

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今の世の中は、このような老舗の高級料亭を取り巻く環境は極めて厳しいと思うが、建物と共に永く続いて欲しいと思う。

(参考)千歳館ホームページ
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