第787回・島村家住宅

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和歌山市堀止東に建つ島村家住宅は、大正15年(1926)に建てられた洋風住宅。大正から昭和戦前にかけて、和洋折衷のモダンな住宅を各地に建てた「あめりか屋」の設計施工による。国登録有形文化財。

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戦災で市街地の殆どが焼失した和歌山市において数少ない焼け残り区域となった掘止地区には、以前本ブログで取り上げた旧松井伊助邸など、戦前に建てられた邸宅が現在も点在している。島村家住宅もそのひとつである。

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玄関ポーチを張り出した主屋正面。写真では分かりにくいが、玄関のアーチ形欄間にステンドグラスが用いられている。ステンドグラスは玄関の他にも随所に嵌め込まれている。

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主屋の壁に穿たれた菱形の小窓。外観は洋風として内部には和室も備えた和洋折衷の造りは、あめりか屋住宅の特徴である。

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現存するあめりか屋住宅としては、軽井沢の旧近衛文麿別荘、名古屋の旧川上貞奴邸、奈良県天理市の天理大学創設者記念館などがある。

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ベイウインドウの半円アーチの欄間にも、ステンドグラスが嵌め込まれている。

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庭園側の隣接地との仕切りは煉瓦塀になっている。

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正面には茶褐色のタイルを貼ったコンクリート塀を巡らせる。

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門のそばには重厚な白壁の土蔵がある。

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ハイカラな洋風の主屋や塀とは対照的。

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主屋と門、塀(おそらく正面側のみ)が国の登録有形文化財となっている。
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第786回・旧ディスレフセン邸

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神戸の異人館街の一画、山本通三丁目に建つ旧ディスレフセン邸は明治28年(1895)の創建。これまで当ブログで紹介した旧トーマス邸旧シャーブ邸などと共に神戸の代表的な異人館のひとつである。

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山本通に面した北東側からの全景。左手前は使用人部屋や厨房が入っていた付属棟。

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北西側からの全景。設計は旧ハッサム邸旧グッゲンハイム邸など、神戸の異人館を多く手掛けたことでも知られる英国人建築家のハンセル。

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以前、やはり当ブログで紹介している、旧ハンセル自邸(現シュエケ邸)に隣接して建っている。

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現在は門兆鴻氏の邸宅となっており、現役の住居である。

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隣接の旧ハンセル自邸と異なり、山本通に面した北側にも、硝子戸を立てこんだベランダを設けている。

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神戸の異人館は先述の旧シャーブ邸や旧ハッサム邸など、日本瓦葺の寄棟屋根が多いが、旧ディスレフセン邸は日本瓦葺ながらもスティックワーク(外壁に柱や梁を装飾的にあしらったもの)を施した切妻を連ねた屋根が特徴。

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主屋と付属棟を結ぶ渡り廊下。戦前から神戸の異人館を描き続けていた洋画家の小松益喜(1904~2002)が、「渡り廊下のある異人館」と題してこの館を描いている。

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南側からの眺め。神戸の異人館の大半で見られるベイウインドウとベランダが見える。

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現役の住居につき内部は非公開だが、変化に富んだ素敵な外観の建物である。

第785回・旧徳川義親邸(八ヶ岳高原ヒュッテ)

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長野県の南部、山梨県との県境に近い南佐久郡南牧村にある八ヶ岳高原ヒュッテの建物は、元々は尾張徳川家第十九代当主・徳川義親(1886~1976)侯爵の本邸として、昭和9年(1934)に東京の目白に建てられた。中世の英国で生まれたチューダー様式の館で、日本における同様式の洋館では最も質の高いものの一つである。

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八ヶ岳高原ヒュッテは昭和43年(1968)に移築された当初、宿泊施設として使われていたが、現在はティールーム、レストラン、ギャラリー等が入り、ゴールデンウィークと夏季のみの季節限定営業となっている。

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旧徳川邸洋館の設計は、銀座和光東京国立博物館本館の設計者としても知られる建築家・渡辺仁(1887~1973)による。徳川義親侯とは学習院で同級生として交友関係があったという。

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正面、二階階段室の窓上部の梁には葵の紋が見られる。

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尾張徳川家の本邸は、元々は麻布富士見町の現フランス大使館の敷地にあったが、義親侯は昭和7年に本邸を目白に移転、建物は麻布から移築した日本館に加え、昭和9年には今日現存する洋館が竣工、邸宅の全容が整った。

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目白の邸宅には日本館・洋館のほか、広い庭園に観音堂や茶席を配し、家令と呼ばれる執事など使用人の住居に加え、徳川黎明会や徳川生物学研究所など義親侯が設立した財団法人や研究施設の建物も置かれていた。

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尾張徳川家も敗戦後は大半の華族の例に漏れず、敗戦後の財産税などで財産の殆どを失ったが、使用人宅に住居を移転するなど生活規模を縮小し再出発を図った。この洋館が尾張徳川家の住居として使われた期間は、約10年程度に過ぎない。

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その後昭和40年代に入り、旧敷地の大部分は徳川家の手で外国人向け高級賃貸住宅(徳川ビレッジ)として開発(洋館はこのとき八ヶ岳高原に移築)されるも、尾張徳川家は現在も目白の一角に邸宅を構えられているようである。

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徳川ビレッジのホームページでは、尾張徳川家時代の洋館の写真を多数見ることができる。現在の姿と比較すると、屋根にはかつては屋根窓や暖炉用の大きな煙突があり、現在とは若干異なっているのが分かる。

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なお徳川黎明会は、現在も昭和7年創設当初の建物が目白の地で現役で使われている。外壁に茶褐色のスクラッチタイルを貼ったチューダーゴシック様式の洋館で、設計はやはり渡辺仁による。

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徳川義親侯は昭和6年の三月事件や11年の二・二六事件に関与するなど、戦前戦後を通じ数々の政治的活動に関わったことから、この館も様々な歴史の舞台になったようである。

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敗戦直後の日本社会党結党に際しては、義親侯が資金提供を行ったことから、徳川邸には片山哲(のち首相)や加藤勘十など、社会党の主要メンバーが出入りしていたという。

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なお尾張徳川家当主として、以前当ブログで建物を紹介した名古屋の徳川美術館の創設など、先祖伝来の歴史的遺産の保存に終生尽力したことでも知られる。

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建物の中へ入る。
玄関を入るとすぐ、階段室を兼ねた吹き抜けの玄関ホールになっている。

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現在はティールームとして使われている、かつての応接間か居間と思われる部屋。先述の徳川ビレッジホームページで見られる古写真を見ると、カウンターの向こうにある出窓には造り付けのソファがあった事が分かる。

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また玄関ホールとの境には大きな暖炉があったようだが、現在はそれらしいものは見当たらなかったので移築時に撤去されたようである。但し天井の太い梁や、手斧仕上げが見事な隣の食堂との仕切り扉は昔のままで健在。

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徳川邸洋館は、床や梁、階段など、日本のチューダー様式の館の中でも本場英国のものに近い、野趣に富んだ荒々しい仕上げが施されているのが特徴である。

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徳川邸洋館のインテリアを特に特徴づけているアイテムが、階段親柱などに据え付けられた数々のクマ。

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今日、代表的な北海道土産のひとつとして知られるクマの木彫だが、八雲町にあった徳川農場で働く農民が冬場でも収入が得られるよう、義親侯がスイスで購入したクマの木彫を見本として提供、製作を勧めたことが起源とされている。

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館内のクマ達。変わったものでは前足を挙げたクマや、リュックを背負いピッケルを手にした登山スタイルのクマが居る。

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二階から望む階段室。目白にあった当時は、日本画家、カトリック美術家として知られる長谷川路可(1897~1967)の手による天井画やステンドグラスで飾られていた。(現在は他所で保存されているようである。なお、徳川ビレッジホームページにも当時の写真がある)

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階段室の天井梁の付け根には、クマの頭部と魔除けと思しき面が、それぞれ4体ずつ取り付けられている。徳川義親侯はマレーなど東南アジアにも何度も訪問しているので、魔除け面などは現地で入手したものかも知れない。

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採光用の小さな中庭もある。日本離れした風景。

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中庭に面した三角形のベイウインドウ。

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当ブログでは以前、近代における徳川家一門の邸宅の遺構として今回の旧徳川義親邸のほか、旧南葵文庫旧徳川慶久別邸戸定邸も紹介しているので、併せて御覧頂きたい。

第784回・旧北大路魯山人邸(春風万里荘)

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茨城県笠間市の郊外、画家の住居、アトリエなどが点在する区域にある春風萬里荘は、陶芸、篆刻等の藝術家として、また美食家としても知られる北大路魯山人(1883~1959)の旧居である。昭和初期に江戸時代中期の古民家を移築、魯山人自らの趣向で改装・付加された浴室、洋間等を備えた建物である。

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旧北大路魯山人邸は昭和40年(1965)に、洋画家・朝井閑右衛門、小説家・田村泰次郎、日動画廊社長・長谷川仁によって開かれた「芸術の村」の中心施設として旧所在地の北鎌倉から現在地に移築された。

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現在は日動画廊の系列美術館である笠間日動美術館の分館として公開されている。

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元々は江戸中期の建物とされ、現在の神奈川県厚木市近郊に住んでいた豪族で大庄屋でもあった伊東家の母屋であったものを、昭和の初めに北大路魯山人が入手、北鎌倉・山崎の地に移築改装し自らの住居としていたものである。

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北鎌倉・山崎の住まいは魯山人の作陶の拠点でもあり、星岡窯(せいこうよう)と称した。星岡窯の敷地内には現在の春風万里荘のほか、迎賓用に移築したもう一棟の古民家「慶雲閣」があった。

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後年には魯山人の終の棲家ともなった「慶雲閣」は、母屋が笠間に移築された後も近年まで個人の別荘として北鎌倉にあったが、平成10年に不慮の事故によって滅失、現存しない。

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現在は春風万里荘として保存・公開されている母屋は、笠間日動美術館の所蔵品が展示されているほか、魯山人の暮らしぶりが偲ばれるように主要な部屋はそのまま保存されている。

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内部撮影は禁止なので外部のみの紹介となるが、母屋の裏手へ回ると洋室の暖炉の煙突が見える。手前の窓は浴室の窓である。洋室と浴室は魯山人の創意が特によく現れた場所のひとつで、写真で紹介できないのが残念である。

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石積みの煙突の脇には教会にありそうなステンドグラスの入った建具を嵌め込んでいる。現在は裏手の一枚しか現存しないが、かつては洋間の窓は全てステンドグラスであったという。

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煙突の上部は煉瓦積で、積み方にも趣向を凝らす。なお暖炉のある洋間はかつての馬屋を改装したものである。石積みの暖炉や床の木煉瓦など、西洋の田舎家といった趣のある部屋である。

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洋間の反対側、母屋の書院座敷に隣接して茶室「夢境庵」がある。北鎌倉にあったときは母屋から離れて建っていたが、現在は母屋に接続されている。写真は露地庭へ続く庭門。

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庭門越しに見る「夢境庵」。
裏千家の茶室「又隠」を手本として魯山人が設計した。

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母屋の裏に設えられた石庭。

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広い庭園内には旧北大路魯山人邸のほか、江戸時代の豪農の長屋門も移築されている。

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春風万里荘は陶芸の街として知られる笠間市の中でも観光名所のひとつとなっている。

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著名な芸術家である北大路魯山人の旧居としては無論、昭和初期に散見される古民家の移築改修の例として御殿場の旧井上準之助別荘(後の秩父宮御別邸)、軽井沢の三五荘などと比較するのも興味深い。

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ところで、現在旧邸の再建計画が暗礁に乗り上げている三重県津市の旧川喜田邸の主・川喜田久太夫は「半泥子」の雅号でも知られ、「東の魯山人、西の半泥子」と称する人もあったという一流の藝術家である。邸宅も同様に甦り、春風万里荘のように多くの人が訪れる名所にはなれぬものか・・・

第783回・旧高岡共立銀行本店(富山銀行本店)

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富山県高岡市にある富山銀行本店の建物は、大正3年(1914)に高岡共立銀行本店として建てられた。現在も現役の銀行店舗であり、赤煉瓦の外観で親しまれている。

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旧高岡共立銀行本店が建っている高岡市守山町を含む山町筋一帯は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

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高岡共立銀行は明治28年(1895)に設立された銀行で、現在の北陸銀行の前身銀行のひとつである。

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大正9年(1920)に高岡銀行への合併を経て、昭和18年(1943)に戦時下の国策により富山県下の地方銀行3行と合併、現在の北陸銀行が設立され、現在に至る。

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現在、旧高岡共立銀行本店を本店として使っている富山銀行は、昭和29年(1954)に富山産業銀行として設立された、戦後生まれの地方銀行である。

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赤煉瓦の外観から、東京駅など赤煉瓦の洋風建築を多く手掛けた辰野金吾の設計と誤解されることが多いが、設計は、施工者でもある清水組(現清水建設)の技師長・田辺淳吉による。

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辰野金吾も監修という形で設計には関与しているとも言われるが、実際にどれほど設計に関与しているのかいないのかは不明のようである。

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田辺淳吉(1879~1926)は大正時代を代表する建築家の一人で、当ブログで以前紹介した誠之堂晩香廬青淵文庫の設計や、三重県津市の旧川喜田邸洋館改修の設計を手掛けている。

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内部は、かつて二層吹き抜けであった営業室に床が張られ二階建てに改装されるなど、改造が多いようだが会議室には創建当初からの噴水の図柄のステンドグラスが残されているようだ。
(参考)INAX REPORT 特集1「生き続ける建築4 田辺淳吉」

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正面両脇を固める尖塔は、同時期の赤煉瓦建築である横浜市開港記念会館(大正6年)の時計塔を連想させる。

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現役で現在も引き続き使われている銀行店舗としては、埼玉県川越市の埼玉りそな銀行川越支店(旧八十五銀行本店、大正7年)等と並び、最古級と思われる。

第782回・六甲ケーブル線六甲山上駅

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神戸市灘区にある、六甲山観光六甲ケーブル線六甲山上駅は、開業当初の駅舎が現在も現役で使われている。アールデコ調のデザインが特徴。先日紹介した六甲山ホテル旧館などと共に、経済産業省近代化遺産に認定されている。

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昭和7年(1932)、六甲越有馬鉄道六甲山駅として開業。

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六甲山は神戸市街と有馬温泉に挟まれた位置にあり、明治以降はリゾート地として繁栄した。昭和初期に建てられた六甲山上駅はそんな時代の遺構でもある。

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一見シンプルなボックス状の鉄筋コンクリート建築であるが、随所にテラコッタ製の装飾が施されている。

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非対称の形が特徴的な玄関ポーチ。

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山の下にある六甲ケーブル下駅(開業当初は土橋駅)も、開業当初は六甲山上駅と同じような鉄筋コンクリート造の駅舎であったが、昭和13年(1938)の阪神大水害による土石流で倒潰、木造で建て直されている。

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駅舎内部。

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屋上の展望台にも出られる階段。

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六甲山上駅のホーム。

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木造の六甲ケーブル下駅ホーム。鉄骨造の六甲山上駅とは対照的な趣。

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阪神大水害後に建てられた、山小屋風の外観が特徴の六甲ケーブル下駅。木造で再建された理由としては、当時は既に戦時下に入っており、鉄骨を使った建物は建てにくくなっていた時代背景もあるのかも知れない。

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昭和戦前に建てられた2つの対照的な外観の駅舎が、山の麓と山上にセットで残されている。

第781回・湯田中駅旧駅舎

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長野県下高井郡山ノ内町にある長野電鉄長野線湯田中駅の旧駅舎。昭和2年(1927)の開業当初に建てられた。現在は町営の日帰り入浴施設の付属施設「楓の館」として公開されている。国登録有形文化財。

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開業当初の姿。スティックスタイル風の外観を持つ洋風駅舎である。
展示されている、建物解説パネルの古写真より。

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現在の姿。
上記古写真とは反対のアングル。奥の建物は町営の日帰り入浴施設「楓の湯」。

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湯田中駅は湯田中温泉を始め、同じ山ノ内町にある渋温泉や、戦前からスキーリゾート地として開発が行われていた志賀高原への玄関口となった。

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昭和31年に国鉄(当時)の上野・長野間の急行列車が湯田中駅に乗り入れることになり、駅舎の機能はホーム反対側に建てられた現駅舎に移る。

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平成15年の日帰り入浴施設「楓の湯」開業に合わせ、創建当初の形に近づける改修が行われた。

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旧待合室。

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かつての切符売り場と思われる小窓。
上部にはアールヌーボー風のアーチが架かる。

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旧待合室から現在の湯田中駅ホームを見る。

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平成16年に国登録有形文化財となった。

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湯田中駅から近い志賀高原や渋温泉には、以前紹介した旧志賀高原温泉ホテル旧澁澤信雄邸金具屋旅館がある。

第780回・浜病院(旧楽長ホテル)

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前回に引き続き、敗戦後間もない頃に建てられた洋風建築。和歌山市吹上にある浜病院は、昭和26年(1951)に占領軍の将校や兵士を相手とするホテルとして建てられた。ホテル廃業後は病院になり、現在に至る。

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昭和20年(1945)の敗戦により、日本は約6年半に亘り、米国を中心とした占領軍の施政下に置かれる。進駐軍と呼ばれた占領軍は日本全国に展開、占領統治を行った。

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和歌山城をはじめ市街地の大半が焼かれた和歌山市にも占領軍はやってきた。和歌山城に近い堀止にあり、戦災を免れた大邸宅・旧松井邸(現・六三園)などは接収され、占領軍の施設として使われる。

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そのような世相の中、当時代議士でもあった今村長太郎氏が主に占領軍を相手とするホテル「楽長ホテル」として建てたのがこの洋館である。工事を請け負った岸谷棟梁は東京に出向き、洋風建築についての勉強をしたと言われる。

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正面の中央部分は近年改修されたのか、以前付柱の上部にあったライオンの顔を象ったメダリオンは撤去されたようである。かつては正面中央に一対で存在していた。

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角の付柱上部にある「H」(ホテルのHだろうか?)の文字をあしらったメダリオンは健在。下にはスペイン瓦葺きの出窓が張り出している。

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軒の濃密なモルタル装飾や大理石の柱など、玄関ポーチ周りにもっとも凝った造りがみられる。

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玄関ポーチの正面には、看板が掛かっていたと思われる跡が二ヶ所ある。上の細長い方には英語で表記されていたのかも知れない。なお内部も、天井や壁面に施された装飾が残されているようである。

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建物竣工の翌年、昭和27年(1952)4月28日に講和条約が発効、日本は主権を回復したことにより、漸く占領状態を脱する。占領軍は去り、楽長ホテルもその後間もなく閉じたようである。

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敗戦後の歴史の一齣をみることができる、興味深い建物である。

第779回・富山第一銀行本店

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富山市の中心街、総曲輪2丁目に建つ銀行建築。戦前まで主流であった古典的な外観の銀行建築が、戦後も少数ながらも建てられていた実例のひとつ。昭和26年(1951)の竣工。

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今は無い東京・丸の内の第一銀行本店(昭和5年竣工、西村好時設計)を模して、地元の建設業者である佐藤工業の設計・施工で建てられた。

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富山第一銀行は、営業無尽→相互銀行を経て普通銀行に転換した第二地方銀行である。(営業無尽については当ブログ第708回記事も参照頂きたい)

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現在の建物は、富山合同無尽から富山相互銀行と商号変更を行った昭和26年に竣工した。モデルになった東京の旧第一銀行本店については、新たにリンクを張らせて頂いた素頓亭さまブログ記事に画像があるので、是非比較して頂きたい。

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良質の御影石を積み上げた重厚な外観は、竣工時期が敗戦からまだ間もない時代であるということを感じさせない、非常に立派なものである。

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無装飾のモダニズム建築が主流となった戦後は、古典的な様式建築が新築されることは殆ど無くなるが、銀行や保険会社では例外的にごく少数ながらも建てられている。

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戦後の様式建築の例としては、京都の四條烏丸にあった三和銀行京都支店(昭和27年竣工、現存せず)や、現存するものでは大阪府池田市の池田銀行本店(昭和27年)、戦前から建設が進められていた日本生命本店(昭和37年)がある。

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富山第一銀行は、北陸新幹線開業に伴う再開発で現在建設中のビルに本店の移転が予定されている。本店移転後のこの建物の処遇が気になるところである。

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富山市は大東亜戦争末期の米軍による空襲で市街地の大半が焼かれたため、県庁所在地ながらも近代建築物は富山県庁舎(昭和10年)など、ごく僅かしか残されていない。

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富山第一銀行は戦後建築ながらも、戦前建築の名残を色濃く残す貴重な建物である。これから末永くこの地に建っていて欲しい。

第778回・六甲山ホテル旧館

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兵庫県神戸市灘区にある六甲山ホテルは、昭和4年(1929)開業の歴史あるホテル。創業当初の建物は改装を経ながらも旧館として現在も現役で使われており、経済産業省より近代化産業遺産に認定されている。

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設計は大正から昭和戦前にかけて、阪神間を拠点に邸宅やホテル、公共建築などを多数手がけた古塚正治(1892~1976)。宝塚市の宝塚ホテルや、以前当ブログで紹介した正司家住宅などが現存する。

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両翼部分は度重なる改装で、創建当初の面影はあまり残されていない。かつては両翼部分の外壁も中央部分と同様ハーフチンバー風のデザインになっており、窓には日除けテントと欄干が張り出していた。

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正面玄関まわりは創建当初の形をよく残している。
なお現在、ホテルの正面玄関は隣接する新館に移っており、この扉から出入りすることはできない。

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旧ロビー。蛍光灯の照明はいかにも後から付けた感じで、雰囲気を損ねているのは残念である。

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旧ロビーの奥にある暖炉。

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宝塚ホテルの分館として開業、その後独立しているが、現在は両者共に阪急阪神第一ホテルグループの系列ホテルとなっている。

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創業者の小林一三は戦前戦後を通じ、夏季は六甲山ホテルに避暑のため滞在していたと言われる。

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館内で創建当初から左程変わっていないと思わせるのが、二階にある、現在「ライブラリー」と称される部屋。この部屋には小林一三が滞在していた当時の家具も置かれている。

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ステンドグラスを嵌め込んだ硝子天井。丸い突起は扇風機が取り付けられていた跡と思われる。

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外観、内装共に改装が目立つが、先述の照明をはじめ建物本来の良さが活かされていない感がある。近代化産業遺産にも認定されているのだから、今後改装の機会があればぜひ長﨑の雲仙観光ホテルを見習って頂きたいものである。

第777回・旧藤屋旅館

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以前紹介した旧信濃中牛馬合資会社社屋など、近代の洋風、和風建築が点在する長野市の善光寺門前、大門町に建つ洋風の外観を持つ大正時代の建物は、かつては江戸時代から続く老舗旅館であった。現在は結婚式場及びレストラン等に使われている。国登録有形文化財。

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旧藤屋旅館は江戸時代、北国街道善光寺宿の本陣として、大名の宿所に使われていた歴史を有する宿であった。大正13年(1924)に善光寺門前の参道の拡幅に合わせ、洋風の外観を持つ現在の建物に建て替えられた。

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旅館としての歴史には終止符を打ったが、建物は新たな用途を得て現在も善光寺詣りに訪れる旅行者を迎え入れている。

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木造ながらも外壁はコンクリート造りタイル貼りという構造を採っている。

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外壁は凝石と黄土色のタイルで仕上げたセセッション風のデザイン。内部は一部洋風ながらも基本的には和風の造り。現在も旅館時代の客室は一部そのまま残されているようである。

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旅館業を廃した現在も、「御本陳藤屋旅館」の看板はそのまま残されている。

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イオニア式の石柱が立つ玄関。

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旅館時代の改装で窓は現代的な一枚ガラスのサッシに入れ替えられている。また屋上のステンドグラスは現在の用途に改装された際の後補と思われる。

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付柱の上部に注目。
フジの花があしらわれている。

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窓の手摺りは旅館時代に改造されていたが、現在は創建当初の形状に復元されている。

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善光寺門前のランドマークとなっている洋風建築である。

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(参考)長野市文化財データベース(旅館時代末期の画像あり)

第776回・琵琶湖疏水水路閣

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京都市東山区の南禅寺境内にある琵琶湖疎水の施設のひとつ、煉瓦造の水道橋として知られる水路閣。
明治21年(1888)竣工。

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琵琶湖疏水は日本最初の電車となった京都電気鉄道(のちの京都市電)の電力源にもなるなど、京都における近代化遺産の代表格とも言える。

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設計は一連の琵琶湖疏水施設と共に、田辺朔郎(1861~1944)による。

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同時期の大規模な煉瓦構造物である、群馬県碓氷峠の碓氷第三橋梁(明治26年)と比較すると、壁面のアーチなど装飾的な造りになっていることが分かる。

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このような装飾的な造りになったのは周囲の景観を意識してのものと思われる。

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現在も現役の土木構造物である。

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上部の水路を望む。

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平成8年に、水路閣を含めた琵琶湖疏水の一部区間が国指定史跡となっている。

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京都を舞台とした映画やドラマのロケ地としても、水路閣はお馴染みの場所である。

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アーチが連なるこのアングルで写真を撮られる方は多いと思うが、実際見ているとつい撮りたくなる。

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煉瓦の表面が白っぽいのは、上部の水路を水が常時流れているため目地のモルタルが溶け出すのだろうか?

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琵琶湖疎水関連の土木構造物は水路閣が有名であるが、このほかポンプ場やトンネル、日本初の鉄筋コンクリート橋である日ノ岡第11号橋(明治36年架橋)など、貴重な近代土木遺産が数多く現存、現役で使用されている。

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水路閣以外の構造物についてもいずれ稿を改めて紹介したい。

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竣工した当初は、古刹の境内を横切る煉瓦造の構造物は景観を破壊すると非難を浴びたというが、現在では京洛の一風景として定着している。

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第775回・旧東京帝国大学図書館(東京大学総合図書館)

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昭和3年(1928)に竣工した東京大学総合図書館(旧東京帝国大学図書館)の建物は、東大本郷キャンパスの中でも最も規模の大きな建物である。以前紹介した安田講堂旧医学部本館等と並ぶ歴史的建造物であり、現在建物を保存する形での新図書館建設が進められている。

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大正12年の関東大震災では東京帝国大学は施設の大部分が焼失、図書館も例外ではなく、建物はおろか蔵書の大部分(約76万冊中70万冊)が失われてしまった。

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蔵書の大部分を失った東京帝国大学に対し、震災直後より内外から多数の書籍が寄贈され、図書館の復興が進められた。寄贈された蔵書の中では、私設図書館として蔵書を公開していた紀州徳川家の「南葵文庫」などが特に著名である。

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蔵書と共に建物の復興も進められ、米国の大富豪・ロックフェラー2世から図書館の再興を目的に寄せられた400万円という当時としては莫大な寄付金をもとに、新図書館の建設が行われることになった。

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設計は震災後の東大本郷キャンパスを造り上げた内田祥三による。震災の教訓を活かすべく徹底した耐震耐火構造が採用された。

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新図書館は震災から5年後の昭和3年に竣工、12月1日に竣工式が行われた。

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正面は、書棚に並ぶ書籍の背表紙をイメージさせる形になっている。

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正面玄関を始めとする出入口のポーチは半円アーチが連なり、本郷キャンパスの一連の施設と共通する意匠である。

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現在進められている新図書館の建設は、池のある前庭の地下に3層構造の新図書館を建設し、現在の建物は外観をそのまま残しつつ、内部は利便性を向上させるための改装を施すというものである。

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前庭の池には五重塔の相輪を象った噴水塔が設けられている。現在、新図書館建設工事のため前庭広場は閉鎖されているようだが、完成後は池と共に元通りに戻されるものと思われる。

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また改装される内部についても、アーチが連なる大階段や、重厚な板張りの内装を持つ旧記念室などは改修後も保全されるものと思われる。

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(参考)
東京大学ホームページ 新図書館計画公式ウェブサイト

第774回・牧田組本社(旧南島商行本店)

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富山県射水市(旧新湊市)の伏木港に建つ牧田組本社は、大正初期に建てられた木骨煉瓦造の事務所ビル。元々は海運業者の本社屋であった。国登録有形文化財。

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周囲には工場や倉庫が建ち並び、そのような中で焦茶色の煉瓦を積み上げた外観は異彩を放つ。

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大正4~6年(1915~17)頃に北前船の流れを汲む廻船問屋であった南島商行の本店として建てられたとされる。

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設計者は不詳。建った当時はその外観から「新湊のロンドン」と呼ばれていたという。

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大正11年に牧田組が取得、以後同社の社屋として現在に至るまで使用されている。平成14年には国登録有形文化財となっている。

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一見煉瓦造に見えるが、構造は木造の躯体に壁面を煉瓦積みとした木骨煉瓦造の二階建。

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正面腰壁及び玄関周りには花崗岩を積み上げている。

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玄関扉や木製サッシュの上げ下げ窓など建具を始め、建物外観は創建以来大きく姿を変えることなく、今日に至っているものと思われる。

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外壁は焦茶色の煉瓦と花崗岩で重厚に仕上げられているが、窓下に施された白タイルによる市松模様がデザイン上のアクセントになっている。

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富山県内に現存する代表的な近代洋風建築のひとつと言える。

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(参考)
(株)牧田組ホームページ(本社屋の紹介)

第773回・旧西本組本社ビル

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和歌山市小野町にある旧西本組本社ビルは、戦災で市街地の大半を焼失した和歌山市内において、現存する数少ない近代建築物である。大正末~昭和初年の建設と考えられる。国登録有形文化財。

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和歌山市はかつては紀州徳川家の城下町として栄え、今では見る影もないが戦前までは江戸時代の名残を止める街並みが随所に残されていたといわれる。旧西本組本社ビルも、かつてはそのような街並みの一角に建っていたと思われる。

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旧西本組本社ビルも戦災に遭ったものの、鉄筋コンクリート造の耐火構造であったため外郭だけが焼け残ったものと思われる。現在周囲には、歴史を感じさせる建物や家並みは全く残されていない。

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一階部分を石積み、二・三階の外壁は創建当初からのものかどうかは不明であるが、黄色の化粧煉瓦で覆われた端正なルネサンス様式の外観は、京都の旧村井吉兵衛別邸(長楽館)を彷彿とさせる。

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片方の側面と背面の一部はモルタル塗り仕上げとなっているが、戦災による改修によるものか、創建当初からのものかは不明である。

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一階の石貼り部分も腰の基壇部分とその上部で仕上げを変えるなど、芸が細かい。

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西本組は創業が慶應年間に遡るとされる歴史ある土木建設業者であり、現在の三井住友建設の前身のひとつである。

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このビルは創業者の西本健次郎によってその本社として建てられた。設計は早稲田大学出身で西本組に勤務していた岩井信一とされる。

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建物は後年に西本組の後身である三井建設が所有することとなったが、その後西本家の子孫が保存を目的に買い戻し、現在に至る。

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脇には通用門が穿たれた袖壁状の塀が建っている。

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塀は正面のみモルタル仕上げによる石造風とし、側面及び内側は赤煉瓦がむき出しになっている。

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現在は多目的アートギャラリーなども入居するテナントビルとして活用されているようである。

第772回・旧奈良県物産陳列所

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奈良公園の一角に建つ旧奈良県物産陳列所は明治35年(1902)に建てられ、旧奈良県庁舎、旧奈良県立図書館など、周囲の風致との調和を重視して明治中~後期に和風意匠で建てられた奈良公園界隈の公共施設のひとつである。その中でも当初の場所に現在も建っている数少ない建物。国指定重要文化財。

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設計は、日本並びに東洋建築の史家としても著名な関野貞(1868~1935)による。関野は当時奈良県技師として古社寺の調査や修復指導に当たっており、物産陳列所の設計はその合間に行われたという。

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旧奈良県物産陳列所以外の設計作品では大阪の旧日本生命本店本館現在の建物の先代に当たる建物、現存しない)などがある。主な活躍の場が建築史であったためか、建築家としての実作は少ない。

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物産陳列所とは、その土地の物産展示及び即売場として大正期まで全国各地に設置されていた施設。明治期の初めに政府の殖産興業政策に基づき東京に設立された勧工場がその始まりである。名称は勧工場、物産陳列所のほか、商品陳列所、商工奨励館等、設置時期や所在地によって異なるようである。

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奈良の他には、香川県の高松(栗林公園内の商工奨励館)、愛知県岡崎市の旧額田郡物産陳列所が現存する。なお戦前の物産陳列所の建物で、最も知られているのは、大正4年に広島市に建てられた広島県物産陳列館であろう。のちに広島県産業奨励館と改称、昭和20年に上空で原爆が炸裂し現在は残骸が残されている建物、即ち原爆ドームである。

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外観は和風意匠であるが、内部は洋風の造りになっている。建物の目的上間取りは広い展示室がいくつか設けられた構造になっており、平屋部分には明り取りの天窓が設けられている。また二層部分はいずれも吹き抜けになっている。

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開館後、奈良県商品陳列所、奈良県商工館と名称を変え昭和26年には国に移管、奈良国立文化財研究所として使われる。現在は奈良国立博物館仏教美術資料研究センターとして使われている。

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建物周囲は植栽と柵で囲われており、建物の外観も柵越しに見る形になる。同センターでは仏教美術に関連する資料の収集・保管等を行っており、毎週水・金曜日に一般に公開しているが、建物の見学を目的に入れるかどうかは分からない。

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奈良では、明治27年に奈良公園内に竣工した洋風建築の帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)が周囲の風致に調和しないと不評であったこともあり、その後県庁舎、公会堂、図書館、ホテルなど、奈良公園とその周囲の公共建築は和風意匠で建設された。

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その中で現在も竣工当初の位置に現存するのは、旧物産陳列所と奈良ホテル(明治42年竣工)のみである。(旧図書館は大和郡山市に移築され現存するが、旧県庁舎と旧公会堂は現存しない)

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旧奈良県物産陳列所の外観は、宇治の平等院鳳凰堂を意識したと思われる全体構成に、細部には飛鳥時代から鎌倉時代にかけての伝統的な建築様式を取り入れる一方、二階中央部分や両翼の上部の窓にはイスラム風意匠が見られる。

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昭和58年に、明治中期を代表する近代和風建築としての価値が評価され、国指定重要文化財となった。

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背面からみた旧奈良県物産陳列所。手前の建物は奈良国立博物館(明治建築の旧館とは別に戦後建てられた新館)。

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同じ奈良公園界隈の近代建築である奈良ホテルや奈良国立博物館と異なり、旧奈良県物産陳列所は周囲を植栽や立入禁止区域に囲まれており、残念ながら間近で見られない上に正面・背面共に建物を一望できる場所もない。

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今一つ目立たない感のある現状を見ると、奈良を代表する近代和風建築のひとつとして建物がもっとよく周辺から見られるように柵の撤去など考えて頂けないだろうかと思ってしまう。

第771回・旧長野県庁舎(長野県自治研修所飯綱庁舎)

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長野市の郊外、飯綱高原の林の中に建つ白亜の洋館は、大正2年(1913)に竣工した旧長野県庁舎の正面部分を移築、再利用したものである。現在は長野県自治研修所飯綱庁舎となっており、県職員の研修施設となっている。

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現存する戦前の道府県庁舎のうち、木造の庁舎は現在明治村に移築されている旧三重県庁舎(明治12年竣工)と、この旧長野県庁舎の2棟のみである。

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長野県庁舎は現在の信州大学教育学部の敷地に建っていた旧庁舎が明治41年に火災で焼失したことを受け、現庁舎所在地に移転する。明治42年(1909)に着工、4年の工期をかけて建設された。

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設計は県土木課長の野田六次らが当たったとされる。材料には木曽の御料林の檜が使われ、同時期の他県庁舎と比較しても木造庁舎としてはかなり高額の工費をかけた豪華な県庁舎である。

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竣工から51年間使われ、昭和39年に現庁舎建設のため解体された。その際、旧庁舎は隣接する旧県会議事堂(大正4年竣工)と共に県内各地に移築・再利用されることになった。

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移築に際しては庁舎は3分割され、ロの字型平面の正面部分が飯綱高原に移築された。県内でそれぞれ別の場所に移築された側面及び背面部分、旧県会議事堂はその後老朽が進み取り壊され、今日まで現存するのは飯綱高原の1棟のみである。

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現役時代の姿を写した絵葉書。木造ながらも外壁はモルタル塗で石造風に仕上げられている。現在の姿と比較すると、移築に際して外壁の細部装飾が大幅に省略されているが、正面部分の規模は現在と変わらないことが分かる。

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旧長野県庁舎が解体・移築された当時の知事は西澤権一郎氏であるが、同氏の出身地である小川村には現在、大正9年竣工の旧知事公舎の一部が移築、公開されており、(旧知事公舎については弊ブログ第21回記事参照)館内には旧長野県庁舎の模型が展示されている。

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両翼部分の上部には、旧山形県庁舎(大正5年)でも見られる櫛型の破風飾りを置く。壁面は上記絵葉書の写真でも見られるとおり、かつては付柱やレリーフなどで飾られていた。

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移築前と比べると、壁面が全体的にのっぺりしたものになっていることが分かる。屋根窓は移築前と変わらない。

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背面は大幅に増改築が施されており、県庁舎当時の面影はあまり残されていない。写真は中央の階段室部分。ステンドグラスを嵌めた二階中央の窓は、後補で創建当時のものではないと思われる。

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飯綱高原の現在地には昭和40年(1965)に移築、当初は「ホテル明鳥閣」という名の宿泊施設として使用されたが、昭和48年から長野県自治研修所となった。

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小さな塔屋は窓が開けられ、望楼としても使われていたのかも知れない。
屋根は現在鉄板葺となっているが、かつては天然スレートと銅版で葺かれていたようである。

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前に大きく張り出した、堂々とした車寄せ。
車寄せを支える石柱は移築前と変わらないが、上部のバルコニーは改装が甚だしい。

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車寄せの内側から周辺の林を見る。

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移築前の華麗な姿を偲ばせる、細かい装飾が施された正面玄関の扉。

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取っ手の金物は当初からのものかどうかは不明だが、モダンな幾何学的デザインが施されている。

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玄関内部。
石畳の先には受付の窓と階段室への入口が見える。

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内部は外観と異なり、階段室や旧知事室、旧正庁など、木材による重厚な装飾が施された部屋が移築前と変わらない姿で残されているようである。

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現在は研修施設としては夏季のみの使用とされているようだが、荒廃が目立ち、そもそも使われているのかどうかが気になった。

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現在地に移築されて50年近く経ち、県庁舎として使われていた期間ももうすぐ超えようとしている。

第770回・旧信濃中牛馬合資会社社屋

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長野の善光寺門前、大門町中央通りに建つ煉瓦造2階建の建物。明治45年(1912)に運送会社の社屋として建てられた。現在は長野市が所有、カフェレストラン「楽茶れんが館」として使われている。国登録有形文化財。

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信濃中牛馬合資会社は、江戸時代の「中馬」(幕府が定めた宿駅制度に基づく運送業者である「問屋」とは別に、農民の副業として行われていた運送業を指す)の流れを汲む運送業者である。

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焦茶色の焼き過ぎ煉瓦を積み上げた、落ち着いた色調の外観。

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二階建だが屋根裏部屋があり、馬方の休憩所として使われていたようだ。

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現在はカフェレストランになっているが、戦後は昭和34年から62年まで善光寺郵便局として使われていた。

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裏に抜ける路地の入口。

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参道を挟んで向かい側には現在の善光寺郵便局がある。

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善光寺門前の参道沿いには戦前の洋風建築がいくつか建っているが、明治建築の旧信濃中牛馬合資会社はその中でも特に古い。

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煉瓦積みの目地は東京駅舎でも見られる、半円型の断面を持つ覆輪目地である。

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(参考)藤森照信著「信州の西洋館」平成7年 信濃毎日新聞社刊
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