第842回・本郷中央教会

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東京都文京区本郷にある本郷中央教会はかつて日本メソジスト教会に所属、現在は日本基督教団に所属する教会である。現在の礼拝堂は関東大震災による旧礼拝堂焼失を受けて昭和4年(1929)に再建された。国登録有形文化財。

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前回のさかえビルとは目と鼻の位置にある。

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本郷中央教会は、明治23年(1890)にカナダ・メソジスト教会の宣教師チャールズ・イビーによって「中央会堂」の名で設立される。

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学生への伝道を目的に、東京帝国大学(現東京大学)、第一高等学校(現東京大学教養学部)、女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)などの官立大学に近い本郷の地が選ばれたとされる。

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日本では最初にパイプオルガンが設置され、山田耕作などの一流音楽家が出入りしていた。夏目漱石の小説「三四郎」にも登場、また野口英世、内村鑑三も訪れていたという。

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大正12年(1923)の関東大震災による大火で本郷一帯は東京帝国大学が施設の殆どを失うなど大きな被害を受けるが、木造の旧中央会堂もこの大火によって焼失した。

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震災6年後の昭和4年に震災の教訓から耐震耐火を重視して鉄筋コンクリート造を採用した新たな中央会堂が竣工、復興を果たす。

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宣教師ボーゲルの案に基づき、カリフォルニア大学出身の建築家である川崎忍や、構造設計の大家である内藤多仲(東京タワーの設計者)などの協力により設計が行われた。

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昭和20年(1945)の東京大空襲では周囲一帯が焼失するが、近隣住民の避難所となった中央会堂は消火活動の甲斐もあって焼失を免れた。空襲後は罹災者の収容に充てられたほか、すぐ近所にあり空襲で焼失した本富士警察署が一時避難先としていたという。

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平成10年(1998)に国の登録有形文化財となっている。
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第841回・さかえビル

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東京都文京区本郷、東京大学の近くに建つさかえビルは、昭和9年(1934)に建てられた鉄筋コンクリート造4階建のビル。国登録有形文化財。

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当初は住居として建てられたが、後に薬学研究所を兼ねた事務所ビルとして使われた。

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現在は一階にコンビニエンスストアが入っている。

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「さかえビル」の名称は建設当初からのもの。

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薬学博士であった施主はドイツのベルリンに滞在した経験も持ち、帰朝後このビルを建てた。

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関東大震災の教訓から耐震耐火を重視し、鉄筋コンクリート造としたという。そのため建設から11年後の東京大空襲でも焼失を免れた。

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外壁は現在ペパーミントグリーンの彩色が施されているが、もともとはスクラッチタイル貼りであったという。

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かつての住居部分の玄関と思われる扉。装飾を施した縁取りがある。

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正面4階の軒から往来を見下ろす鷲の彫像。

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鷲の彫像は、小さなものが3階の屋上の両端2か所にも置かれている。

第840回・旧太田中学校講堂(茨城県立太田第一高等学校)

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茨城県常陸太田市にある、県立太田第一高等学校の敷地内に建つ旧太田中学校講堂は、同校の前身に当たる旧制太田中学校の講堂として明治37年(1904)に竣工した。茨城県技師として県下に数多くの洋風建築を残した建築家・駒杵勤治の設計で、現存する3つの建物のひとつである。国指定重要文化財。

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現在は太田第一高等学校の記念館として保存されている旧太田中学校講堂。毎年秋に数日間のみ内部を一般公開されており、旧太田中学校や太田第一高等学校の歴史資料と共に公開されている。

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東日本大震災で破損したため修復工事が行われ、今年(平成26年)は被災後初めての一般公開となった。(但し事前申込による見学も随時受け付けているようである)

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旧制太田中学校は明治33年(1900)に茨城県立水戸中学校(現・水戸第一高等学校)太田分校として開設、同35年(1902)に太田中学校として独立した。その後、第二次大戦後の学制改革で太田第一高等学校となり、現在に至る。

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旧講堂内に展示されている旧制太田中学校の校舎模型。校舎の背後(写真中央上部)に講堂が建っている。

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同じく旧講堂内に展示されている、在りし日の旧太田中学校本館の写真。講堂とは対照的に、校舎本館は簡素な建物であったようである。

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豪華な造りの本館校舎を持つ旧水戸商業学校旧土浦中学校とは対照的であるが、校舎が簡素であった分、華麗な講堂は校内ではひときわ目立つ存在であったと思われる。

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設計者の駒杵勤治(1877~1919)は東京帝国大学を卒業後、明治35年(1902)に茨城県庁に県技師として赴任、2年3か月の在職期間、水戸市の県立図書館本館(昭和20年戦災で焼失)や警察署2棟(麻生・下館両警察署)など数多くの公共建築の設計を行った。

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また学校建築も先述の県立学校(旧水戸商業学校・旧土浦中学校)の本館2棟のほか、県立学校の講堂4棟(旧太田中学校、旧竜ケ崎中学校、旧水海道中学校、旧水戸高等女学校)の設計を行っている。

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講堂は4棟とも同一意匠であったという。今はない3棟のうち、比較的後年まで現存していた旧竜ケ崎中学校講堂(昭和55年(1980)取り壊し)については、同校の後身である竜ケ崎第一高等学校のホームページで詳細に紹介されているが、瓜二つと言ってよいほど酷似している。

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講堂正面、玄関ポーチの上部は創建当初、バルコニーになっており屋根に手摺りを廻していたが、この部分は後年の改修で撤去されたのか、今はない。

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玄関ホール内部。玄関ポーチと大ホールを結ぶ小さな空間であるが、開口部周りや天井など、濃密な装飾が施されている。

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大ホールの内部。入口から正面の演壇まで、3段階にわたって床を低く造っている。

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大ホールから玄関ホール側を望む。

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大ホールの正面には、御真影(天皇皇后両陛下の肖像)奉置所を備えた演壇を設ける。

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建物で最も精緻な装飾が施されている、演壇の御真影奉置所。一見漆喰彫刻のように見えるが実は木製白ペンキ塗り仕上げ。現存しない旧竜ケ崎中、旧水海道中、旧水戸高女の3講堂の内部も同様の造りであったという。

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大ホールの演壇側前半分は長椅子を並べて往年の講堂のたたずまいを再現、後半分は記事冒頭で紹介した模型や古い写真を含む諸資料の展示に充てられている。

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折り上げ格天井の格縁や板張り、漆喰彫刻が施された照明台座など、天井も凝った意匠となっている。かつては照明台座の下にはシャンデリアが吊り下がっていた。

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演壇の御真影奉置所の装飾の一部は、一見彫刻に見えるが、実は平面に模様を描いただけだったりするだまし絵になっている。アーチ上部に横に走る黒い花模様がそれ。

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講堂ではかつては学内の各種式典や、弁論大会などの諸行事が行われていた。

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県立太田第一高等学校の敷地内において、旧太田中学校時代の施設で今も現存する建物は、旧講堂のみとなっている。

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駒杵勤治は茨城県を離任した後、内務省や海軍省の技師を歴任するが、大正8年に43歳で死去している。駒杵が設計した建築物のうち、今日も現存するのは茨城県内の学校建築3棟のみである。

第839回・旧共楽館(日立武道館)

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茨城県日立市白銀町にある旧共楽館は、大正6年(1917)に日立鉱山の従業員及び地域住民の厚生・慰安施設として建てられた。現在は日立市の所有となり、武道館として使われている。国登録有形文化財、及び日立市指定文化財。

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日立鉱山はおもに銅と硫化鉄鉱を産出、明治半ばまでは赤沢鉱山と呼ばれる小規模な鉱山であったが、大阪の藤田組が経営する秋田県の小坂鉱山を優良鉱山に変えるなど、当時手腕を発揮していた実業家の久原房之助(1869~1965)によって明治38年(1905)に買収、日立鉱山と改称される。

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久原房之助の経営によって大きく発展を遂げた日立鉱山は、日本有数の鉱山として昭和56年(1981)に閉山されるまで採掘が行われた。なお、このとき日立鉱山で使用する機械の修理から始まったのが、現在の日立製作所である。

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また、日立鉱山を基盤として久原房之助が築いた久原財閥は、後年に久原が政治家へ転身した後は義兄である鮎川義介(1880~1967)によって日産コンツェルン(自動車部門として創設されたのが現在の日産自動車)に発展、戦前の新興財閥の一翼を担うなど、日立鉱山は近代日本の産業史に大きな足跡を残している。

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旧共楽館は日立の商業地として栄えた地区の中心位置に建っている。日立鉱山の技師の設計によるとされる建物は、東京の歌舞伎座(明治44年竣工の二代目歌舞伎座、大正10年に失火で焼失)を模した外観が特徴の木造二階建、鉄板葺の堂々たる劇場建築であった。

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なお、久原房之助が実業家として独立し、日立鉱山を買収する前に藤田組で経営を担当していた小坂鉱山にも、鉱山従業員のための慰安施設として建てられた劇場「康楽館」が現存する。正面を洋風で仕上げた立派な建物は現在、国指定重要文化財として保存、公開されている。(当ブログ第447回記事参照)

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歌舞伎のほか映画上映会など各種の催事に会場として使われたが、テレビが普及するなど娯楽形態が変貌しつつあった昭和30年代後半以降は使われることも少なくなっていった。昭和42年(1967)に日立市に寄贈され、改装工事を施し武道場として使われるようになり、現在に至っている。

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平成11年(1999)に国登録有形文化財、平成21年(2009)に日立市の文化財に指定された。建物は老朽が進んでいたが、近年修復工事が施されている。

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伝統的な和風建築の外観であるが、西洋式の技法で造られた劇場内部の大空間など、随所に洋式技術を取り入れた典型的な近代和風建築である。

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正面の両脇に配された唐破風が特徴である。

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玄関。

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玄関脇に配された二階席への階段。

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現在、二階は使用禁止になっている。

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玄関と客席の間の廊下。

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かつての劇場内部。奥にかつては舞台があった。
現在は武道場として使われているほか、演奏会などの会場としても使われている。

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武道館としての改装に際し、回り舞台や花道、椅子席・畳敷き席双方を備えた客席は撤去されている。

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中央部分を折り上げ格天井としている天井は、かつての姿をそのまま残している。

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劇場跡脇に配された廊下。

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明治以降、各地の炭鉱や鉱山でも従業員の慰安施設として劇場(芝居小屋)が建てられたが、現存するものは先述の康楽館と旧共楽館のみとされている。

第838回・近三ビルディング(旧森五ビル)

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東京都中央区日本橋室町四丁目にある近三ビルディング(旧森五ビル)は、呉服問屋・森五商店の社屋として昭和6年(1931)に建てられた。昭和を代表する建築家である村野藤吾(1891~1984)の独立後最初の設計作品。東京都選定歴史的建造物。

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80年以上前に建てられたとは思えない外観の建物であるが、昭和30年(1955)に8階が増築された他は、創建当初から変わらないたたずまいである。

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村野藤吾は大正7年(1918)に師である渡辺節の設計事務所に入所、渡辺の下で神戸の商船三井ビルや大阪の大阪ビルディング同ビル東京分館などの設計に携わる。

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旧森五ビルは昭和4年(1929)に独立した後最初に手掛けた作品とされる。なお、同ビルが竣工した昭和6年には、村野が渡辺事務所で最後に製図を担当した大阪の綿業会館が竣工している。

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村野藤吾の作風は、渡辺事務所で多く手掛けてきた綿業会館のような従来の様式建築を否定しモダニズムを基調としながらも、戦前戦後を通じ装飾を一切廃した機能主義には与せず、内外装の仕上材や細部意匠には独特の趣向を凝らすものだった。

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旧森五ビルでも、立面全体に対する窓の割り付けなどに渡辺の下で叩き込まれた様式建築の手法が活かされている。外壁に貼られた小豆色のタイルは、戦前の大作である山口県宇部の渡辺翁記念会館(昭和12年、国指定重要文化財)や、兵庫県尼崎市の旧大庄村役場でも、似たような色調のものが用いられている。

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建物の基壇に当たる1階部分を石張りにするところも、様式建築の構成に由来する。右下に写っているのは、建物の来歴等が記された東京都選定歴史的建造物の解説版。

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日本橋界隈も近年再開発が激しいが、旧森五ビルは大切に保存されており、写真撮影の際も耐震補強工事が行われているところだった。

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玄関。

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玄関ホールは壁面を大理石張りとし、ドイツ製ガラスモザイクを使った曲面を描く天井が特徴である。ガラスモザイクによる天井は、今は無い大阪心斎橋のそごう百貨店(昭和10年)の玄関風除室にもあった。

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旧森五ビルは大阪御堂筋の大阪ガスビル(昭和8年)と並ぶ、昭和初期の日本を代表するオフィスビルのひとつとされている。

第837回・横利根閘門

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茨城県稲敷市と千葉県香取市の県境付近に位置する横利根川にある横利根閘門は、明治33年(1900)から始まった利根川改修工事の一環として、大正10年(1921)に竣工した煉瓦造の閘門。国指定の重要文化財であるが、現在も現役で使われている。

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閘門(こうもん)とは、水位の異なる河川や運河、水路の間で船を上下させるための装置である。横利根閘門は、利根川が増水した時でも船舶の航行を可能とするため、また利根川に近接する霞ヶ浦へ洪水が逆流することを避けるために設けられた。

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横利根閘門は、日本人技術者のみによって建設された日本最大級の規模を有する煉瓦造複閘式閘門で、大正3年(1914)に着工、7年の歳月をかけて完成した。

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平成6年(1994)に自動化工事が行われ、同時に土木遺産としての価値を後世に伝えるため、老朽の進んでいた門扉等が当初の設計図に基づき復元された。その後平成12年(2000)に、国指定重要文化財となった。

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煉瓦を拡大。

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現在、閘門の周辺は、香取・稲敷両市の管理による横利根閘門ふれあい公園として整備されている。

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横利根閘門は、香取市にある国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている佐原の町並みにも近い。佐原には以前当ブログで紹介した建物もいくつか建っている。(第466回第477回第524回記事参照)

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同時期の煉瓦造の閘門としては、大阪市の旧毛馬第一閘門(明治40年竣工)が現存、横利根閘門と同じく国指定重要文化財として保存されている。

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旧毛馬第一閘門は淀川旧分流施設として周辺施設と共に保存されており、当ブログでも紹介しているので併せて御覧頂けると幸いである。(第303回記事

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なお、旧毛馬第一閘門は既に閘門としての役目を終えているのに対し、横利根閘門は現在も現役の閘門として機能を果たしている。

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現役の閘門であると同時に桜の名所でもあり、また釣り場としても利用されているようだ。

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明治の利根川改修事業で建設された施設としては、横利根閘門は現存する唯一のものである。

第836回・阪神甲子園球場(旧甲子園大運動場)

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プロ野球の阪神タイガースの本拠地であり、春と夏の高校野球の開催地としても知られている兵庫県西宮市の甲子園球場は、大正13年(1924)に建てられた。近年行われた大改修により、内外装共に歴史を感じさせる雰囲気は薄れたが、建物本体はまがいなく90年前のものである。今回は建築物としての甲子園球場について取り上げたい。

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大正4年(1915)に第1回大会が開催、その後毎年開催されていた全国中等学校優勝野球大会(高校野球の前身)は、当初は大阪府豊能郡豊中村(現・大阪府豊中市)にあった豊中球場、その後兵庫県武庫郡鳴尾村(現・兵庫県西宮市)の鳴尾球場で開催されていたが、人気の高まりにつれ、急激な観客の増加に対応できなくなっていた。

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この事態に対し、鳴尾球場の所有者で、当時野球場も含む大規模な沿線開発を計画していた阪神電鉄と、野球大会の主催者で、本格的な野球場の建設を望む大阪朝日新聞(現・朝日新聞)との間で、新たな大規模球場の建設について思惑が一致した。新しい球場は大林組の設計施工で大正13年3月に着工、同年の大会に間に合わせるためか工期5か月という突貫工事で8月に竣工した。なお、当初は陸上競技や野球以外の球技の大会開催も念頭に置いて設計されていたため、「甲子園大運動場」と名付けられていた。

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球場の建設地となった一帯は、武庫川の河川改修によって生じた土地を阪神電鉄が購入、開発を行ったものである。甲子園球場が完成した大正13年は甲子(きのえ・ね)年に当たり、十干十二支の最初の組み合わせで縁起の良い年とされたことから、周辺一帯は「甲子園」と命名された。なおこのとき、当ブログでも以前紹介している旧甲子園ホテルなど、リゾート施設と住宅地も造られた。

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甲子園球場は米国ニューヨーク州に当時存在した野球及びフットボールスタジアムである、ポロ・グラウンズをモデルにしたとされる。外壁は今次改修に際し、黄土色の化粧煉瓦で覆われたが、もともとは工期短縮のためかコンクリートの打ち放し仕上げであった。甲子園のイメージを形成するツタは、竣工後まもなく見栄えをよくするために植えられたものである。現在は改修からまだ年月を経ていないので煉瓦が目立つが、いずれは改修前と同様、壁面は全てツタで覆われる予定。

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平成22年(2010)に大林組の設計施工で完成した大改修工事では、構造体は大正13年当時のものを残しながらも、上述のとおり外壁は化粧煉瓦貼り仕上げとなるなど、外観・内装・設備についてはいずれも大規模な更新と改変が行われた。このとき、創建以来の造りを残していたと思われる旧貴賓室が改装により失われたのは残念なことである。

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なお、旧貴賓室の暖炉やシャンデリアなどの装飾部材や家具は、新たに設けられた甲子園歴史館で展示されているという。その他、戦時中の機銃掃射の跡と思われる弾痕が残る鉄扉など、建物の歴史を伝える品も展示されているようだ。

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一階に連なる半円アーチだけが、今も改修前と変わらない唯一の部分かも知れない。


(参考書籍)
「近代建築再見 下巻」 文・山口廣+日大山口研究室 写真・宮本和義 平成9年 建築知識刊

同書で旧貴賓室など改修前の甲子園球場の写真を見ることができる。

第835回・旧逓信省貯金局庁舎

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前回の旧逓信省簡易保険局庁舎の記事本文にて触れた貯金局庁舎は現在、麻布郵便局庁舎として現存する。旧逓信省及び旧郵政省の本庁舎としても一時期使われたことのある由緒ある建物であるが、現在は再開発計画が浮上しており、まさに風前の灯の観がある。

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旧逓信省貯金局庁舎は麻布区飯倉町(現・港区麻布台)に、昭和5年(1930)に建てられた。敷地はかつて紀州徳川家の邸宅跡であり、同家の私設図書館で以前当ブログで取り上げた、現在静岡県熱海市に移築されている南葵文庫は元々この地に建っていた。

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設計は旧簡易保険局庁舎が逓信省営繕局であったのに対し、旧貯金局は大蔵省営繕局が手掛けている。施工は錢高組による。

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逓信省は大正12年(1923)の関東大震災で本庁舎が焼失後、長く木造の仮設庁舎住まいが続いていたが、昭和18年(1943)に貯金局庁舎が本庁舎に充てられた。(貯金局は三田の簡易保険局庁舎に移転)

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その後逓信省が郵政省となった後も、昭和44年(1969)に霞ヶ関に移転するまで郵政本省庁舎として使われた。またその間、昭和20年には戦災で罹災した麻布郵便局が仮住まいを経て正式に入居し、現在に続いている。

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特徴的な卵型の繰り型装飾が施された、玄関ポーチの円柱。

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旧簡易保険局庁舎や旧東京中央郵便局と同様、正面中央には時計台を配している。時計は針が撤去され、長らく使われていない様子である。

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昭和62年(1987)に完成した改修工事により、外壁のタイル等は張り替えられているが、建物の原型は創建当初の形を止めている。但し照明器具など細部までもとの形をよく残す三田の旧簡易保険局庁舎に比べると、改変が著しいようである。

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近年再開発の著しい麻布・六本木界隈にあり、この建物も例外ではないようである。所有者の日本郵政は再開発計画を進めているとされており、この建物が旧東京中央郵便局旧文部省庁舎のように部分的でも残されるのか、完全に姿を消すのかは不明である。

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いずれにせよ、現在の姿を見ることができる期間はそう長くないようである。なお、この建物の斜め向かいにはロシア大使館があるなど、外国公館の多い地域につき警察の警備が厳しい。写真撮影に際しては注意を要する。

第834回・旧逓信省簡易保険局庁舎

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東京都港区三田に建っている旧逓信省簡易保険局庁舎は、前回に続き東京都内に現存する旧逓信省関係の建造物、所謂「逓信建築」のひとつである。郵政民営化に伴い現在は、かんぽ生命東京サービスセンター本館となっている。

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旧逓信省簡易保険局庁舎は以前当ブログで紹介した、綱町三井倶楽部の正面真向かいに建っている。街路からは正面しか見えないが、ほぼ正方形の日の字型平面を有する、非常に規模の大きな建物である。

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簡易保険は大正6年(1917)に逓信省によって創設され、平成19年(2007)に郵政民営化によって民間生命保険に移行するまで存在した国営の生命保険事業である。簡易保険局は大正9年(1920)、貯金局と共に逓信省内に設置された。

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当時、逓信省の本庁舎は京橋区木挽町(現・中央区銀座)にあり、明治42年竣工の華麗な洋風建築であったが関東大震災で焼失、その後長らく木造の仮庁舎であったが、簡易保険局と貯金局は昭和に入ると間もなく独自の庁舎が建てられた。

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簡易保険局庁舎の設計は逓信省営繕課、施工は大林組で、竣工は昭和4年(1929)とされている。(但し大林組のホームページでは昭和5年1月竣工とされている)なお、同時期に麻布区飯倉町(現・港区麻布台)に建てられた貯金局庁舎も麻布郵便局として現存する。

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同時期の逓信建築である東京中央郵便局(昭和6年竣工、現在はJPタワーの低層部として部分保存されている。当ブログ過去記事参照。)と同様、正面上部に時計台を配している。

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内部にはステンドグラス張りのヴォールト天井(カマボコ形天井)を備えた階段室がある。外観・内装共に、初期の近代主義建築家であるオーストリアの建築家、オットー・ワーグナー(1841~1918)の影響が強く表れているとされる。

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正面玄関車寄。
現在もかんぽ生命東京サービスセンターとして現役で使われている事務所ビルである。

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玄関門燈。
創建当初のデザインを残していると思われる。

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ステンドグラスを嵌め込んだ玄関ポーチの天井照明。

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これも創建当初の形を残していると思われる、真鍮製の重厚な玄関扉。

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庁舎の脇にある職員用官舎と思われる建物。これも同時期に建てられたものではないかとも思えるが、詳細は不明。

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都心の一等地に広大な敷地を構えていることから旧東京中央郵便局と同様、再開発の対象とされることも考えられ、将来が案じられる建物のひとつである。

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(参考書籍)
松葉一清「帝都復興せり! 『建築の東京』を歩く 1986~1997」 平成9年 朝日文庫
(記事本文で触れた内部階段室の写真が表紙になっている)

第833回・旧千住郵便局電話事務室

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東京都足立区千住中居町にある旧千住郵便局電話事務室は、逓信省出身で日本武道館や京都タワーの設計者としても知られる建築家・山田守の設計により、昭和4年(1929)に建てられた。

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JR北千住駅から徒歩15分程度、旧日光街道(国道4号線)から少し西側に入った街路に面して建っている。

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現在はNTT東日本千住ビルとなっているが、使われている様子はみられない。

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大正から昭和戦前にかけて、逓信省(現・総務省)の所轄になる郵便局や電話局、電信局の施設には、同省営繕課の設計により、従前の様式建築とは異なる合理主義の建築が数多く建てられた。

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これらの建物は「逓信建築」と称されており、著名な逓信建築の建築家としては東京・大阪の両中央郵便局などを手掛けた吉田鉄郎や、今回取り上げる山田守がいる。

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山田守(1894~1966)は、東京帝国大学建築学科在学中の大正9年(1920)に日本初の近代建築(モダニズム建築)運動とされる分離派建築会に参画、卒業後は逓信省に入省、昭和20年まで在籍した。戦後は独立し京都タワーなどの代表作を残している。

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逓信省営繕課では東京・大阪の両中央電信局(共に現存しない)など、主に電話局や電信局舎の設計に従事していた。また同時期には東京・御茶ノ水の聖橋や隅田川の永代橋、新潟の萬代橋など、土木構造物(橋梁)のデザインも手掛けている。

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山田守設計の逓信建築は曲線を多用したものが多いが、旧千住郵便局電話事務室でも玄関のある正面角の部分をはじめ、その他窓や開口部まわりでも角を丸く仕上げており、スクラッチタイル張りの外壁と共に建物の大きな特徴となっている。

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裏庭に通じるトンネル状の通路の天井も、壁面と同じくスクラッチタイルで仕上げられている。

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正面角の玄関。
上部に張り出した庇をはじめ、どこをみても角が丸く仕上げられている。

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側面の通用口。

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3階部分だけ周囲から浮いた印象を受けるが、これは後年の増築である。

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現在は使われていない様子なのが気になる建物である。

第832回・電通銀座ビル

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東京・銀座にある電通銀座ビルは、大手広告代理店・電通の旧本社ビル。昭和8年(1933)に横河工務所設計、大林組の施工で建てられた。今ではすっかり数が少なくなった、銀座界隈における戦前建築のひとつである。

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銀座7丁目の外堀通りと交詢社通りが交差する位置に面して建っている電通銀座ビル。写真は外堀通りからの眺めで、電通銀座ビルの角を曲がった先が交詢社通り。その先には、以前当ブログで紹介したライオンビヤホールが建っている。

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設計を行った横河工務所は、建築家でかつ事業家・発明家でもあった横河民輔(1864~1945)率いる設計事務所で、三越本店旧帝国劇場、旧東京株式取引所などの設計で知られる。

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シンプルでモダンな外観は昭和8年創建当初からのデザインである。横河工務所が同時期に手掛けたモダンなデザインのオフィスビルとして電通銀座ビルのほか、アールデコ様式の日本徴兵保険名古屋支部ビル(昭和14年竣工、現存しない)などが存在した。

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背面からみた電通銀座ビル。

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電通は創業者である光永星郎(1866~1945)が、明治34年(1901)に興した広告代理店「日本広告」を前身とし、同じく光永が興した通信社「日本電報通信社」と明治40年(1907)と合併した。

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その後、昭和11年(1936)に国策により、ニュース通信部門を同盟通信社(現在の共同通信・時事通信の前身)に譲渡、広告代理店専業となった。電通銀座ビルはニュース通信も扱っていた時期の建物である。

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玄関上部の星型マークは創業者・光永星郎の名に因む。

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正面玄関の上部を飾る一対の石造彫刻は、彫刻家・畑正吉(1882~1966)の製作による。正面向かって右手が仏神の広目天。千里眼を持つとされることから広告業・通信業に関わりの深い仏神として飾られたようである。左手は商売繁盛の神様とされる吉祥天

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モダンな外観に対し内部はガラスモザイクで飾られたエレベーターホールや、アールデコの装飾が施された部屋が存在するなど、華麗な造りとなっている。

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一階は御影石仕上げで、二階より上部の外壁は青緑色のモザイクタイル貼り仕上げとする。一階窓のガラスブロックも創建当初のものと思われる。

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手塚治虫の晩年の代表作のひとつ「アドルフに告ぐ」には、ゾルゲ事件で検挙されたソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲが電通銀座ビルの中へ入っていくシーンがある。

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戦前の電通銀座ビルにはフランスのアヴァス通信社など外国通信社も入居しており、同じくゾルゲ事件で検挙されたブランコ・ド・ヴーケリッチも同社の特派員として、このビルで勤務していた。

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築81年を迎える電通銀座ビルであるが、再開発の相次ぐ東京で、あと何年健在でいられるのかはわからない。

第831回・旧学習院初等科正堂

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千葉県印旛郡栄町から成田市にまたがる位置にある体験型博物館「千葉県立房総のむら」内に移築・保存されている明治の洋風建築。明治32年(1899)に学習院初等科正堂として建てられた。国指定重要文化財。

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創建当初の所在地は、東京府東京市四谷区尾張町(現・東京都新宿区若葉一丁目)で、正堂とは講堂のことである。正面から側面にかけてベランダを廻した、学校建築らしくない、邸宅のような建物である。

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設計者の新家孝正(にいのみ たかまさ 1857~1922)は明治大正期に活躍した建築家で、農商務省(現在の経済産業省と農林水産省に相当)庁舎などを手掛けたが、現存する建物は少ない。

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現存する新家孝正設計の建物は、旧学習院初等科正堂のほか京都の山形有朋別邸(無鄰菴)洋館、当ブログで以前紹介した茨城県水戸市の旧川崎銀行水戸支店も新家の設計とされる。

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昭和11年(1936)、皇太子殿下(現在の天皇陛下)のご入学に備えて学習院初等科では校舎を全面的に改築することになった。なおこのときの改築で昭和15年(1940)に竣工した学習院初等科の新校舎は、現在も使用されている。

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旧校舎は解体されたが、旧正堂は宮内省下総御料牧場(当ブログ第825回記事参照)があり、皇室とゆかりの深い千葉県印旛郡遠山村(現・成田市)へ下賜されることになった。

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昭和13年(1938)に遠山村への移築工事が竣工、遠山尋常高等小学校(現・成田市立遠山中学校)の講堂として使われることになった。

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戦後の学制改革で、遠山尋常高等小学校は遠山中学校となる。成田空港建設反対運動の決起大会などにも使われた遠山中学校講堂は、昭和48年(1973)にその役目を終えた。

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講堂としての役目を終えた旧講堂は明治の洋風建築として移築保存されることになり、重要文化財指定後直ちに移築のための解体工事に着手、昭和50年に現在地へ移築工事が竣工した。

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移築に際して建物は成田市から千葉県に寄贈され、県内の古民家などが数棟移築保存されている「千葉県立房総風土記の丘」(昭和51年開園)敷地内に移築された。

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房総風土記の丘はその後、隣接地に昭和61年(1986)に新設された「千葉県立房総のむら」に、平成16年(2004)に統合され、現在に至る。今年(平成26年)、改修工事を終えて一般公開が再開された。

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天然スレート葺きの屋根と棟飾り。

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外壁は真っ白に塗られていた時期もあるが、今回の改修工事で創建当初の色彩が再現された。

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換気口の金物飾り。

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講堂内部。無料で見学可能である。

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講堂正面を望む。
天井の照明はどうにかならなかったのだろうか。

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講堂正面出入口を内側から見る。

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正面の演壇。

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出入口周辺と講堂を仕切る円形の列柱。

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千葉県内でも屈指の明治期の建築物である。
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