第882回・平楽寺書店

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京都市中京区東洞院通三条通上ルにある平楽寺書店は、老舗の仏教書出版社である。現在の社屋は昭和2年(1927)に建てられた洋風建築で国の登録有形文化財である。

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旧日本銀行京都支店旧家邊徳時計店など、近代建築が多く現存する三条通に近い位置にある。先日紹介した旧京都中央電話局(新風館)がすぐ近くに建っている。

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背面に木造和風の居宅部を配し、正面に鉄筋コンクリート洋風3階建の店舗棟を配する商店建築である。

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平楽寺書店の創業は、江戸時代初期に当たる慶長年間までさかのぼる。

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店舗棟2・3階の中央部にはバルコニーが設けられている。

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設計・施工は京都にあったからきや工務店(唐木屋工務店)による。

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背面の木造和風の居住棟は戦時中の建物疎開で取り壊しを余儀なくされたため、戦後に再建されたものである。

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店舗棟が平成10年(1998)に国登録有形文化財となっている。
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第881回・宮光園

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山梨県甲州市にある宮光園(みやこうえん)は、日本におけるワイン醸造の先覚者のひとりである、宮崎光太郎(1863~1947)が創業した宮崎葡萄酒醸造所と観光葡萄園の総称である。現在、甲州市によって宮崎光太郎の旧居宅兼醸造所の建物が保存・整備の上、一般公開されている。

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明治10年(1877年)に祝村下岩崎(現甲州市勝沼町下岩崎)に設立された、わが国初のワイン醸造会社である大日本山梨葡萄酒会社が明治19年(1886年)に解散した後、宮崎光太郎が醸造器具等一切を引き継ぎ、フランスでワイン造りを習得した土屋龍憲とともに「宮光園」の名で操業を開始した。

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門に掲げられた扁額には「宮内省御用達 大黒天印 甲斐産葡萄酒 醸造元宮崎」の文字が読める。なお「宮光園」の名は「宮崎光太郎のブドウ園」に由来する。宮光園は本邦初の観光ブドウ園として戦前から昭和30年代まで運営されていた。また現在の「メルシャン」のルーツのひとつでもある。

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宮光園は戦前より勝沼の名所として知られ、皇族や政財界人などの来訪も多かった。当時の記念写真の多くは主屋内に展示されている。

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主屋の建物は、明治時代に建てられた2階に養蚕用の部屋を備える伝統的な造りの家屋であったが、昭和3年(1928)に2階部分を洋風に改装している。

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平成23年(2011)から一般公開が始まった宮光園だが、敷地内の建物の修復は現在も続けられている。写真でも主屋の背後に、シートで覆われた修復中の建物の一部が見える。

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主屋一階内部。

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一階の奥座敷。かつてはこの座敷に皇族等賓客を迎えたときの記念写真が数多く掲げられていたという。

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主屋の二階には、勝沼のワイン産業や宮光園の歴史などについての資料が数多く展示されている。

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かつてここで使われていたと思われる、昭和初期の洋式家具も置かれている。

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主屋二階背面の硝子障子。

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主屋の手前に建つ白蔵。白ワインを醸造していたから白蔵と呼ばれていたという。ただし、赤ワインの醸造も行っていたが、そのための建物を赤蔵と呼んだりはしなかったようである。なお手前には宮光園のトレードマークであった大黒天の石像があるが、米俵ではなくワイン樽に乗っかっているのが特徴。

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白蔵の地下はワイン貯蔵庫になっている。

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道路を隔てた位置に主屋と向かい合って建つ土蔵風の建物は、シャトー•メルシャンワイン資料館として開館している。

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明治37年(1904)に建てられた、現存する日本最古の木造ワイン醸造所とされ山梨県の指定文化財にもなっている「旧宮崎第二醸造所」を改修、ワイン醸造の資料館として公開している。

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以前当ブログで紹介した祝橋旧田中銀行と共に、勝沼に残る近代化産業遺産として利活用が図られている。

第880回・岡部記念館「金鈴荘」

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栃木県真岡市荒町にある岡部記念館「金鈴荘」は、地元で呉服店を営む岡部家の迎賓用の別荘として明治中期に建てられた。なまこ壁で覆われた土蔵造の外観と、銘木をふんだんに用いた内装が見どころの和風建築である。栃木県指定有形文化財。

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岡部呉服店は、幕末に宇都宮の鈴木屋呉服店から暖簾分けをして創業、真岡市の中心街である荒町で呉服店を営んでいた(現在は廃業)。現在残る別荘は明治中期に2代目・岡部久四郎氏によって建てられた。

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昭和63年(1988)より真岡市が文化施設として利用、平成13年(2001)に岡部呉服店から真岡市に寄贈され、現在は隣接する真岡木綿会館と共に一般公開されている。

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建築に際しては材料を長年に亘って集め、出入りの大工等職人は東京で2年間修行させ、十数年の歳月をかけて建てたといわれる。

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昭和27年(1952)までは岡部家の別荘として来客の接待や呉服の展示会場などに使用、その後真岡市に貸し出されるまで、割烹料理店「金鈴荘」として使われていた。

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2階まで全面をなまこ壁としており、斜め格子で覆われた外壁が印象的。

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外壁と同様、屋根も重厚そのもの。

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木造二階建であるが、徹底した防火土蔵造になっている。

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内部は1・2階共、材に贅を尽くした書院造の座敷が連なっている。

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東日本大震災で被災、破損したことから大規模な半解体修理が施されている。写真の木製格子壁は耐震補強のため修理に際し新設されたもの。

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殺風景な背面廊下。

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ほぼ全ての座敷に床の間が設けられている。

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床の間部分には、高級材である紫檀、黒檀、鉄刀木といった唐木が用いられている。

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明治時代の手吹き硝子も多く残されている縁側の硝子戸。

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周囲には回遊式の日本庭園や、建物と同時期に築かれ、真岡市の登録文化財になっている石塀も残されている。

第879回・旧京都中央電話局(新風館)

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京都市中京区にある商業施設「新風館」は、東京中央郵便局などの設計者として知られる建築家・吉田鉄郎の設計で大正15年(1926)・昭和6年(1931)の二期に分けて建てられた旧京都中央電話局舎を増改築した建物。旧館部分は京都市の登録有形文化財になっている。

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烏丸通に面した外観。褐色のタイル貼りの壁面や3階部分に連なるアーチ窓が特徴となっている。当初はロの字型平面の建物であったが、昭和末期に街路に面していない側は除却され、現存するのは竣工当初のおよそ半分で、主に大正15年竣工の第1期工事部分である。

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設計者の吉田鉄郎(1894~1956)は当時逓信省営繕課技師で、東京・大阪の両中央郵便局舎や旧京都中央電話局上分局などの逓信建築で知られる。

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逓信建築とは大正から昭和戦前にかけて、逓信省(現・総務省)の所轄になる郵便局や電話局、電信局の施設として同省営繕課の設計により建てられた、従前の様式建築とは異なるモダニズムスタイルの建築群を指す。当ブログでは旧千住郵便局電話事務室旧逓信省簡易保険局庁舎なども取り上げているのでご参照頂きたい。

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吉田鉄郎は逓信建築のほか、現在保存再生工事が進められている旧別府市公会堂のような公共建築や、昨年国の重要文化財に指定された最高裁判所長官公邸(旧馬場家牛込邸)のような近代和風建築も手掛けている。

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烏丸通と姉小路通の交差点から望む外観全景。約半分とはいえ除却されたのは中庭側なので、街路に面した部分は大部分が現存している。

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姉小路通に面した玄関側外観。中庭に通じるトンネル状の通路や、2階から3階にかけて張り出した壁面が特徴。

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中庭に通じる通路の天井は交差ヴォールトになっている。

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通路内壁のタイルの貼り方も変化をつけた凝ったものになっている。小窓はかつての受付と思われる。

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中庭側は大胆なデザインの現代建築となっている。ただしこれは暫定的な利用に基づく改装のため、今後予定されている改築によって大幅に姿を改めるものと思われる。

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現在の「新風館」は10年間の期限を設けた暫定的な商業利用であり、期限を過ぎたことから今後は、旧館の大半を残した形でホテルと商業施設を複合させた7階建ビルに改築されるという。

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旧館部分は大半は残されるとのことだが、どのような形の改築になるか些か不安である。

第878回・新宿御苑旧新宿門・門衛所

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東京都新宿区と渋谷区に跨っている新宿御苑は明治39年(1906)開園の歴史ある庭園である。第二次大戦の戦災では主要な施設が焼失したが、現在でもいくつかの歴史的建造物が点在している。門衛所を備えた旧新宿門はそのひとつであり、昭和初期の建造とされている。

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新宿御苑の敷地は、元々は信濃高遠藩内藤家の下屋敷のあった場所であり、苑内の日本庭園は「玉川園」と称され、安永元年(1772)に完成した内藤家の庭園の遺構であるという。

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明治12年(1879)に皇室の御料地となり、新宿植物御苑が開設されて宮内省が管理、明治39年(1906)には現在の名称である新宿御苑となった。現在は環境省管轄の国民公園として有料で一般に開放されている。

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天然スレート葺き、モルタル塗り仕上げの小住宅のような趣のある門衛所である。

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新宿御苑の門はいくつか存在するが、戦前に建てられた門衛所が現存するのは旧新宿門と旧大木戸門の2ヶ所である。

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内側からみた門衛所。現在は使われておらず、空家になっている。

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門衛の詰所であると同時に、休憩・宿直用の施設であったと思われる。

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玄関周り。

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妻壁に張り出したブロンズ製装飾。

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特段の用途もなく、老朽が進んでいるのが惜しまれる。
利用者のための施設として有効な再利用はできないものだろうか。

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新宿御苑内に現存する歴史的建造物の中では、国指定重要文化財の旧洋館御休所や東京都選定歴史的建造物に指定されている旧御涼亭(台湾閣)に比べると目立たない存在であるが、両者に負けず劣らず魅力的な佇まいの洋館である。

第877回・慶應義塾大学北里記念医学図書館

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東京都新宿区信濃町の慶應義塾大学信濃町キャンパス内にある北里記念医学図書館は、昭和12年(1937)竣工の近代建築物である。3連アーチの玄関ポーチが外観の大きな特徴になっている。

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JR中央線、信濃町駅の北側にある北里記念医学図書館。
なお中央線を挟んで信濃町駅の南側には、以前紹介した聖徳記念絵画館が建つ明治神宮外苑が広がっている。

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慶應義塾の創立者である福澤諭吉とは深い親交があり、医学部初代医学部長を務めた北里柴三郎(1853-1931)を記念する図書館として昭和11年(1936)6月に起工、翌年10月に竣工した。

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北里柴三郎にゆかりのある近代建築物では他に、当ブログでも紹介している旧北里研究所本館・医学館(大正4年、現在は愛知県犬山市の明治村に移築)がある。

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設計者の和田順顕は、やはり当ブログでは既に紹介済みである横浜の旧日本郵船横浜支店(現日本郵船歴史博物館)旧濱口吉右衛門邸(現タイ王国大使公邸)の設計者である。

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施工は清水組(現清水建設)による。

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北里記念医学図書館は、現在は慶應義塾大学信濃町メディアセンターに所属、 国内有数の医学及び関連分野の専門図書館とされている。

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玄関内部。

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玄関の上部は吹き抜けになっている。

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信濃町キャンパスの施設は現在大規模な改築工事が進められており、図書館周辺でも工事中の建物が多い。

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北里記念医学図書館の将来の処遇はわからないが、改修整備の上これからも使い続けて欲しいものである。

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(参考)慶應義塾大学信濃町メディアセンター北里記念医学図書館ホームページ 
     図書館建物・沿革の紹介ページ

第876回・尊攘堂

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尊攘堂は、京都大学吉田キャンパス構内にある明治の煉瓦造建築。長州出身の政治家・品川弥二郎(1843~1900)が、幕末の尊王攘夷の志士の肖像・遺墨などを保存・展示することを目的として建立した施設に由来する。現在は京都大学文化財総合研究センターの資料室として利用されている。国登録有形文化財。

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幕末の志士として知られる吉田松陰(1830~1859)は、京都の地に勤王の志士を祀る堂を建立することを志していたが果たせず、門人の一人である品川弥二郎がこれを実現すべく、明治20年(1887)に京都市内の高倉通錦小路に尊攘堂を建立した。

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品川の死後、尊攘堂は京都帝国大学に寄贈され、現在の建物は明治36年(1903)に竣工した。
京都帝国大学に寄贈されたのは品川が尊攘堂を私有とすることを潔しとしなかったことと、吉田松陰が京都の地に大学を興そうという素志を持っていたからであるとされる。

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玄関ポーチの脇にある、「尊攘堂」の文字とその由来が刻まれた石碑は、昭和15年(1940)に皇紀2600年を記念して建立されたものである。大東亜戦争敗戦後間もない昭和20年10月に撤去され、その後長らく所在不明になっていたが構内で偶然発見されたことを機に平成26年(2014)12月、約70年ぶりにもとの位置に戻された。

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尊攘堂は、構造は煉瓦造であるが外壁はクリーム色のスタッコ仕上げとする。京大構内でも煉瓦造建築は何棟か現存するがスタッコ仕上げはこの建物のみである。

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設計者は不詳。
平成10年(1998)に国登録有形文化財となっている。

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玄関ポーチのまわりには、手摺や柱頭などに華麗な装飾が施されている。

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現在、尊攘堂は京都大学文化財総合研究センターの資料室として、京大構内における埋蔵文化財調査成果の保存・展示を目的に使用されている。事前予約制で内部所蔵品の見学が可能である。

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なお、品川弥二郎の寄贈による志士の遺墨・遺品など、尊攘堂の本来の所蔵品は維新特別資料として現在は京都大学附属図書館に収蔵・保管されている。

(参考)京都大学文化財総合研究センターホームページ 「尊攘堂」紹介

第875回・旧京都大学石油化学教室本館

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京都大学吉田キャンパスの構内でも最も古い建物が、今回紹介する旧石油化学教室本館である。明治31年(1898)から3度の増築を経て大正11年(1922)に現在の規模になった。

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京大のシンボルである時計台の正面向かって左側に建っている、旧石油化学教室本館。一階玄関ポーチより右側が明治31年(1898)、左側は明治42年(1909)、二階部分が大正3年(1914)に竣工している。その後大正11年(1922)に北側翼部の増築が行われている。

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旧石油化学教室本館の裏側には、京都大学の前身のひとつである旧第三高等学校物理学実験場(明治22年(1889)竣工)も現存する。なお、理学部物理学教室として使われていた時期には、3人のノーベル賞受賞者(湯川秀樹、朝永振一郎、福井謙一)が学んでいたことでも知られる。

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京都大学構内に現存する赤煉瓦建築は以前当ブログで紹介した工学部土木工学教室本館(大正6年(1917)竣工)をはじめ何棟かが現存するが、旧石油化学教室本館はその中でもとりわけ古い時期の建物である。

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設計は明治期建設の部分が文部省技官の山本治兵衛、大正期は同じく文部省技官であった永瀬狂三による。山本治兵衛は国の重要文化財に指定されている旧奈良女子高等師範学校の設計も行っている。また永瀬狂三は、先述の土木工学教室本館や福井県敦賀市の旧大和田銀行本店の設計者でもある。

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増築を繰り返して現在の規模になった建物であるが、建設年代に開きがあるため同じ煉瓦造でも、用いられている煉瓦の材質や積み方、細部意匠も部分部分で異なる。

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玄関ポーチなど明治期建設の部分は素朴な印象を受ける。

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以前紹介した建築学教室本館や土木工学教室本館と同様、今後も保存活用すべきとされる京都大学の歴史的建造物のひとつとして位置付けられている。

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同じ旧京都帝国大学の赤煉瓦の校舎でも、ごく一部が新校舎に組み入れられる形で保存されている例。工学部電気工学教室本館の玄関部分には旧校舎の玄関ポーチ及びその周辺外壁だけが保存されている。

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旧石油化学教室本館と同様の建設経過を辿っており、明治33年(1900)、明治35年(1902)、大正10年(1921)の3期に亘って建てられた。設計も明治期が山本治兵衛、大正期が永瀬狂三による。

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同じ赤煉瓦建築でも玄関ポーチのデザインなど、旧石油化学教室本館とは異なる趣を見せている。

第874回・藤田美術館・大阪市公館

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戦前、大阪市内でも屈指の大豪邸であった藤田財閥の本邸は昭和20年の大阪大空襲により、前回記事で取り上げた旧東邸の他は、土蔵や庭園の一部を除きその大半は烏有に帰した。現在それらの焼け残った建物や跡地は藤田美術館などになり、往年の大邸宅の面影を僅かながらも残している。今回取り上げる大阪市長公館は藤田本邸の跡地の一角に、昭和34年(1959)に建てられた。

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旧東邸(現太閤園淀川邸)とは道路を挟んで向かい合う、旧藤田傳三郎本邸の土蔵群。京都帝大教授である日比忠彦(1873~1921)の設計で、明治44年(1911)に建てられたとされる。我が国の鉄筋コンクリート造建築でも最初期のものとして価値が高い。

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現在は昭和29年(1954)に開館した藤田美術館の展示室及び収蔵庫として使われている。

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平屋建ての蔵は洋風意匠である。他、旧藤田本邸時代の遺構として、庭園には高野山の光台院からに大正5年(1916)に移築された多宝塔が現存する。その他の茶室などは美術館開館に際し復興されたもので、旧藤田本邸のものではない。

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藤田傳三郎(死去後は長男・平太郎が相続)が住む本邸、次男・徳次郎の東邸、三男・彦三郎の西邸で構成されていた藤田本邸の一群は戦後、東邸は太閤園に、本邸の主要部は藤田美術館に、また残された庭園は平成15年(2003)に整備の上「旧藤田邸庭園」として大阪市の名勝に指定、翌年桜ノ宮公園の一部として開放された。

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西邸もしくは本邸の遺構と思われる門。
残る西邸については、戦時中の昭和18年(1943)に大阪市が取得、邸宅が戦災で焼失後は、跡地は市庁舎別館などが建てられ、その後昭和34年(1959)に今回紹介する大阪市公館が建てられた。

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旧藤田邸庭園に隣接する大阪市長公館。昭和34年に第5回日米市長及び商工会議所会頭会議が大阪で開催されるのを機に、大阪市の迎賓館として建てられた。

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設計を行った双星社竹腰建築事務所(現・(株)双星設計)は、かつて住友本社ビルの設計に携わった竹腰健造(1888~1981)が設立した建築設計事務所である。施工は大阪を発祥の地とする大林組による。

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戦後建築ではあるが、テラコッタ製のパネル飾りやアールデコ調の照明器具など、戦前までの邸宅建築の名残を残す造りが随所に見られる。

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正面玄関。平成26年(2014)より民間と賃貸契約を結んで一般に開放されることとなり、結婚式場として使われることになった。

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玄関ポーチを支える柱に施されたテラコッタ製の透かし彫りパネル。

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内部はホール、会議室のほか、大小の和室が設けられているという。

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(参考)
大阪市ホームページ(旧大阪市公館について)(旧藤田邸庭園

第873回・旧藤田網島東邸(太閤園淀川邸)

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大阪市都島区網島町にある宴会場・結婚式場「太閤園」の敷地は、かつては藤田財閥を率いた藤田傳三郎の本邸の一部で東邸と称されていた。大阪市内でも屈指の豪邸であった藤田本邸は昭和20年の大阪大空襲でその大半は烏有に帰するが、東邸の建物はその中でも辛うじて生き残った貴重な建造物群である。

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藤田傳三郎(1841~1912)は幕末の長州に生まれ、明治期を通じて関西財界を基盤に鉱山、建設、金融、紡績など幅広く活躍した実業家である。当ブログでも以前紹介した秋田県の小坂鉱山は藤田傳三郎(藤田組)の経営であり、その小坂鉱山や茨城県の日立鉱山で辣腕を振るった久原房之助は藤田の甥に当たる。

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藤田傳三郎は明治の半ばより、近松門左衛門の「心中天網島」の舞台にもなった網島の地に居を構え、晩年の明治40年代には子息二人の邸宅も含めた新たな本邸の建設に着手する。今日現存するのは東邸と称された部分で、藤田の次男・徳次郎の住まいとして建てられた。

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戦後の昭和34年(1959)、藤田財閥系企業のひとつである藤田観光によって宴会場・結婚式場「太閤園」が開かれ、旧藤田網島東邸は「淀川邸」と改称され施設の一部として使われることになり、今日に至る。なお「太閤園」開業に際しては居住棟の部分が撤去されている。

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唐破風を備えた玄関車寄せ。唐破風のある玄関は近代の和風大邸宅ではよく見られ、現存するものでは群馬県太田市の旧中島知久平邸などが存在する。

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唐破風のある車寄せの目と鼻の先には、別館の玄関として使われている入母屋造りの破風を持つ車寄せがある。別館自体は新しい建物であるが、車寄せ部分だけは撤去された旧居住棟の一部かも知れない。

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現存する邸宅の建物群は、藤田傳三郎の逝去(明治45年)前後に当たる明治43年(1910)から大正3年(1914)頃に造営されたとされている。施工に携わった棟梁の今井平七は藤田家とは縁が深く、また皇居の明治宮殿の造営にも携わった人物である。

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正面玄関。

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正面玄関の脇に配された内玄関。

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玄関脇の透かし彫り装飾。

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庭園側から望む旧藤田網島東邸。庭園は建物の竣工後、大正5年(1916)頃までに造営されたという。

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豪壮な御殿風の屋根を持つ棟。内部には書院造の大広間(羽衣の間)がある。

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大広間棟の手前に建つ、石畳のテラスを備えた建物には和風意匠の洋間(紹鴎の間)がある。

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テラスと建物の中間に当たる縁側は半屋外のベランダ状になっており、テラスと一体化してガーデンパーティーなどもできる造りになっている。伝統的な和風意匠を取りつつも、明治の上流階級ならではの機能を備えた邸宅と言える。

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洋間のある棟の隣は一転して、数寄屋風の建物が連なる。

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豪壮な書院造の棟と、繊細な数寄屋風の棟を仕切るような位置に建っている萱葺屋根の茶席「萩の間」。

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藤田傳三郎は「香雪」の号を持つ茶人としても知られ、そのコレクションは今日藤田美術館の収蔵品として公開されている。
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また東邸の主である傳三郎の次男・藤田徳次郎も「耕雪」と号する茶人であった。

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建物内部は利用客でなければ立ち入ることはできないが、庭園は解放されているので自由に散策できる。

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池に臨んで建つ茶席「大炉の間」。茶室棟は先述の「萩の間」と「大炉の間」ともうひとつの茶席、水屋で構成されている。

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藤田財閥ゆかりの邸宅の遺構は太閤園のほか、東京の「椿山荘」(山縣有朋の別邸を藤田傳三郎の長男・平太郎が引き継いだ)など各地に現存する。また東京白金にある傳三郎の甥・久原房之助の旧邸は太閤園と同様に宴会場・結婚式場「八芳園」として利用されている。
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