第953回・齋藤實記念館(齋藤實水沢別邸)

P90635102_convert_20151013004851.jpg

前回に引き続き、二・二六事件に関連する建物を取り上げたい。事件で暗殺された齋藤實(1858~1936 子爵、内大臣、海軍大将、元朝鮮総督、元首相)が、昭和7年(1932)に郷里の岩手県水沢町(現・奥州市)の生家跡に建てた別邸が現存する。別邸は齋藤實が郷里に贈った私設図書館でもあり、木造平屋建の母屋に隣接して赤煉瓦張りの書庫が建っている。

P9063508_convert_20151013004434.jpg

現在は奥州市が運営・管理する齋藤實記念館の一部として公開されている。齋藤實記念館は昭和47年(1972)、水沢市(当時)により旧別邸内に設けられた。齋藤實と春子夫人(1873~1971 水沢市名誉市民)を顕彰し、その遺品等を展示・公開している。別邸は建物のほか、池のある庭園も残されている。

P9063509_convert_20151013004258.jpg

旧別邸の母屋。水沢の地に別邸を設けた経緯は、昭和6年(1931)に齋藤實が通算10年に亘り在任した朝鮮総督を退任する際、総督府職員をはじめ朝鮮半島の官民有志が餞別金を贈ったことに始まる。当時千葉の一宮に持っていた別邸が余りに質素で小規模なものであったことから、餞別金は別邸の改築費用にと贈られたものだった。

P9063511_convert_20151013004459.jpg

しかし齋藤はこれを受け、郷里・水沢に別邸を兼ねた文庫を建てて、自らの蔵書を公開することを考えた。齋藤の水沢に対する愛着は非常に強いものであり、雅号としていた「皋水(こうすい)」も「水沢」を逆さにしたものであった(「皋」は「沢(澤)」の古字とされる)。寄贈者の了解を取り付け速やかに別邸の建設に着手、海軍技師の設計、大林組の請負により翌昭和7年(1932)に竣工した。

P9063515_convert_20151013004946.jpg

齋藤實は昭和7年10月に水沢に帰省、新築成った別邸にも立ち寄るが、それは図らずも内閣総理大臣としての帰省となった。同年5月15日、海軍の一部急進派将校を中心とするテロ事件である五・一五事件が発生、時の首相・犬養毅(1855~1932)は暗殺され、齋藤はその後任として組閣の大命を受けることとなった。

P9063521_convert_20151013005327.jpg

写真の別邸北側は齋藤夫妻の私的空間に充てられ、書斎・寝室として使われた洋間二室の他、洗面所、浴室が配されていた。南側には玄関脇にサンルーム風に造られた土間を設け、その奥には三間続きの座敷を配する。土間と座敷は文庫の閲覧室としても使えるようになっていた。

P9063520_convert_20151013005049.jpg

齋藤實は昭和9年に首相を退任、翌10年12月に病気と長期在任を理由に退任した牧野伸顕に代わり、内大臣に就任する。そして翌昭和11年(1936)2月26日の早暁に二・二六事件に遭難、東京・四谷の本邸で壮絶な最期を遂げる。その間、水沢の別邸には夫人同伴で数回訪れ滞在するが、昭和10年8月に約20日間滞在したのが最後となった。

P9063517_convert_20151013005453.jpg

主を失った水沢の別邸はその後、大東亜戦争末期には春子未亡人を始めとする齋藤家の人々の疎開先となるが、四谷の本邸は空襲で焼失する。春子未亡人は以後水沢に定住、昭和46年(1971)に98歳で逝去するまで、地元の人々と親密な交流を深めながら夫の追憶と追慕に日々を過ごした。

P90635192_convert_20151013005256.jpg

庭園の一角に建てられた、朝倉文夫の作になる齋藤夫妻の銅像。
春子未亡人は最晩年に至るまで、反乱将校の銃口から夫を庇って自らも重傷を負った事件当時のことを鮮明に覚えていたが、家族の前では噫にも出すことなく、恰も夫が現在も健在であるかの如く振る舞っていたという。

P9063512_convert_20151013004531.jpg

別邸の中心施設というべき書庫は鉄筋コンクリート造2階建、外装は昭和7年当時では古風というべき赤煉瓦で仕上げられている。海軍関連の施設は赤煉瓦の建物が多い(霞が関の海軍省庁舎江田島の海軍兵学校)が、施主の齋藤實もしくは設計者である海軍技師がそれを意識したのかどうか、今となってはそれを読み解くことは困難である。

P9063514_convert_20151013004829.jpg

書庫内部は旧宅と共に写真撮影禁止であるため紹介できないが、主が海軍軍人であることを物語る造りが随所にみられる。2階へ上る階段は軍艦のハッチ(甲板への昇降口)を模して造られており、軍艦と同様、波や海水を防ぐための可動式の覆蓋もついている。それを見ると外装の赤煉瓦も、何かしらの意味があるものと思われる。

P9063513_convert_20151013004801.jpg

斎藤實が「この本を読めば、内のことも外のこともわかるだろう」と、東京の本邸にあった自分の蔵書を郷里の子弟に閲覧させる目的で設計された書庫には約38,000冊が収められており、今日では朝鮮半島関係の資料はとりわけ貴重なものとされているという。

P9063522_convert_20151013004920.jpg

旧別邸の隣には、昭和16年(1941)に斎藤子爵記念事業会の手によって建てられた「皋水記念図書館」の建物が現存する。同図書館はのちに水沢市立図書館(現・奥州市立図書館)の母胎となった。

P9063524_convert_20151013005415.jpg

これまで当ブログで紹介している二・二六事件に関連する建物としては他に、旧高橋是清邸旧軍人会館(九段会館)旧宮内省庁舎(宮内庁庁舎)がある。
スポンサーサイト

第952回・光風荘と湯河原温泉旅館群

PB1436182_convert_20160220180725.jpg

神奈川県足柄下郡湯河原町にある「光風荘」は、昭和11年(1936)2月26日に発生した「二・二六事件」の舞台となった場所として知られる。現在は事件関係者の遺品や写真、新聞等の資料が展示・公開されている。また周辺には、事件当時を偲ばせる老舗旅館の建物が現在も多く残されている。今回は光風荘と周辺の温泉旅館群を紹介したい。

PB143622_convert_20160220181231.jpg

光風荘は、現在も営業を続けている伊藤屋旅館の別館として建てられ、事件当時は前内大臣(天皇の側近としての役割を担うため戦前まで存在していた官職)の牧野伸顕伯爵(1861~1949)が、静養のため家族や使用人と共に滞在していた。なお、実際の現場となった建物は事件に際し焼失、現在の建物は事件後まもなく再建されたものである。

PB143621_convert_20160220180955.jpg

国家改造(昭和維新)を目指す急進的な陸軍青年将校達から憎悪され、度々暗殺対象となった牧野伯爵であるが、二・二六事件では銃撃と放火に晒され窮地に陥るも、護衛の警官や地元消防団員らの活躍により、家族共々奇跡的に救出された。しかし警官が事件のため殉職したほか、伯爵付添の看護婦など数名が負傷した。

PB143619_convert_20160220180814.jpg

光風荘の前から伊藤屋本館を望む。本館は事件当時の建物が今も現役で使われている。
本館と光風荘との間には川が流れ、橋が架けられているが、当時は現在とは異なる場所にあったという。

PB143620_convert_20160220180931.jpg

牧野伯襲撃を担当した河野寿大尉(事件後に自決)は、協力者の渋川善助(事件後に逮捕、死刑) 夫妻と、決行前に偵察のため伊藤屋本館に宿泊していた。

PB143618_convert_20160220180840.jpg

戦後は企業の保養所として使われ、現在は二・二六事件の資料館として公開されている。
ところで光風荘の前には、元首相で現財務相である麻生太郎氏の揮毫による石碑が建てられている。これは麻生氏の母は牧野伯の孫娘に当たり、祖父のもとを偶々訪れていたために事件に巻き込まれてしまったという縁による。

PB143623_convert_20160220181039.jpg

光風荘周辺には、事件当時のまま、或いは当時を偲ばせる老舗旅館の建物が多く残る。
先述の伊藤屋旅館の本館は現在、国の登録有形文化財となっている。 

PB1436242_convert_20160220181807.jpg

伊藤屋に隣接する藤田屋。 

PB143629_convert_20160220181255.jpg

光風荘に近い位置にある上野屋。 
藤田屋と上野屋の建物は、伊藤屋と同じく国の登録有形文化財となっている。 

PB143625_convert_20160220181106.jpg

廃業してしまった旧富士屋旅館。建物の行く末が案じられる。

PB143630_convert_20160220181200.jpg

昭和情緒溢れる佇まいの伊豆屋旅館。

PB143626_convert_20160220181130.jpg

伊豆屋旅館の近くにある、謎の洋館付き邸宅。

PB1436272_convert_20160220181330.jpg

タイル張りの外壁にステンドグラスの入った窓、尖塔を備えた立派な洋館だが、詳細は全く不明。

第951回・徳川黎明会

P2174393_convert_20160221165507.jpg

東京都豊島区目白にある徳川黎明会は、尾張徳川家第十九代当主・徳川義親(1886~1976)侯爵が、同家所蔵の美術品などの管理、一般公開などを目的に昭和6年(1931)に設立した財団法人。今も現役で使われている事務局の建物は設立の翌年、徳川侯爵邸の一角に建てられた。

IMG_7234_convert_20160221173829.jpg

JR目白駅から程近い住宅街の中に現れる、鬱蒼とした木立を囲い込む重厚な石塀と門。
以前、当ブログで紹介した旧徳川義親邸洋館は元々はこの地にあった。

IMG_7235_convert_20160221165349.jpg

旧侯爵邸時代の佇まいを唯一残している徳川黎明会事務局の建物。尾張徳川家は現在もかつての旧侯爵邸の一角に住まわれているが、敷地の大部分は徳川家が経営する外国人向け高級賃貸住宅(徳川ビレッジ)となっている。

IMG_72432_convert_20160221165248.jpg

葵の紋が金色に輝く門扉。

IMG_72362_convert_20160221165326.jpg

現在も公益財団法人徳川黎明会の事務局として現役で使われており、休日は門扉が閉ざされている。

P21743912_convert_20160221171330.jpg

徳川黎明会の運営日は門扉が開かれており、重厚な事務局の建物の全容を見ることができる。

P2174403_convert_20160221165546.jpg

なお、事務局自体は一般に公開された施設ではないので、敷地内への部外者の立ち入りは厳禁。

P2174400_convert_20160221170019.jpg

徳川義親侯爵は、昭和7年から9年(1932~34)にかけて、本邸を麻布富士見町(現在は仏大使館の敷地となっている)から目白の現在地に移した。

P2174395_convert_20160221170113.jpg

移転に際しては麻布から移築した旧邸に加え、徳川黎明会が昭和7年に、本邸洋館が同9年に新築された。

P21743882_convert_20160221165846.jpg

設計は徳川義親侯爵とは同級で、本邸洋館の設計も行った渡邊仁(1887~1973)による。現在は背後に新館が増築されているが、増築部も外壁をスクラッチタイル張りとして意匠を統一しており、違和感のない仕上がりとなっている。

P21743942_convert_20160221172823.jpg

外装は茶褐色のスクラッチタイルとテラコッタ(装飾用陶器)で飾る。
玄関の尖頭アーチの上方に配された2つの円形パネルには、それぞれ「黎」「明」の文字をあしらっている。

P21743992_convert_20160221172253.jpg

内部は非公開だが、カトリック美術家の長谷川路可(1897~1967)の手による天井画が現存するという。

P21744022_convert_20160221170622.jpg

長谷川路可は旧本邸洋館の天井画やステンドグラスも手掛けているが、こちらは建物の移築に際しいずれも建物とは切り離されてしまった。(当ブログ過去記事「旧徳川義親邸」参照)

P21743972_convert_20160221173128.jpg

2階屋上(現在は3階が増設されている)の鉄柵は緑色に塗られ、門扉と同様に葵の紋を飾る。
同様の意匠は名古屋の徳川美術館の旧正門でも見ることができる。

P2174397_convert_20160221170231.jpg

冬場は木立ちの葉が落ちるので、建物を見るにはよい季節である。

第950回・旧安田岩次郎邸(フィリピン大使館公邸)

P20643075_convert_20160220225139.jpg

東京都千代田区富士見にあるフィリピン大使館公邸は、安田財閥一族のひとり、安田岩次郎の邸宅として昭和10年(1935)に建てられた。同じく安田一族の出身であるオノ・ヨーコとも縁が深い邸宅である。

P2064309_convert_20160220224723.jpg

正門には「フィリピン大使館」の額が掛っているが、大使館自体は六本木にあり、大使公邸として使われている。公邸が建っている区域は戦災を免れたため、周辺には以前紹介した旧山口萬吉邸など歴史的な建物が点在する。

P2064308_convert_20160220224553.jpg

この邸宅を建てた安田岩次郎は、安田財閥を興した安田善次郎の婿養子・安田善三郎(1870~1930)の次男。オノ・ヨーコは善三郎の娘の子で、安田岩次郎にとっては姪に当たる。

P20643073_convert_20160220224830.jpg

画家である安田岩次郎は、アトリエも備えた邸宅を昭和10年に建てた。設計は三越本店などで知られる横河民輔率いる横河工務所、担当したのは横河民輔の長男、横河時介(1896~1974)による。

P2064310_convert_20160220224747.jpg

横河時介は父親が興した横河グループを引き継ぎ、発展させた事業家として知られるが、戦前は銀座の交詢社ビル(外壁の一部と内装の主要部が新ビルに引き継がれたが、建物自体は現存しない)など、建築設計もいくつか手掛けている。

P2064305_convert_20160220224501.jpg

昭和19年(1944)3月、当時フィリピン大統領であったホセ・ラウレル(1891~1959)が安田家から購入する。以後邸宅はフィリピン大使とその家族の公邸として使用され、今日に至っている。フィリピン大使館のホームページでは、公邸についての案内ページを設けており、内部や庭園側からの外観写真が掲載されている。(但し解説文は英語のみ)

P20643074_convert_20160220224850.jpg

上記案内ページによると、内装や庭園まで安田邸であった当時の佇まいがよく残されてるようだ。なお、東京都心にある富豪の邸宅で戦中戦後にかけて各国大使館や大使公邸になった例は他に、当ブログで以前取り上げたタイ大使公邸(旧濱口邸)インドネシア大使公邸(旧伊藤邸)スリランカ大使公邸(旧渡辺邸)などがある。

P2064306_convert_20160220224949.jpg

平成21年(2009)にフィリピン政府は公邸の売却を計画、一時は旧安田邸は取り壊され跡地には高層ビルが建つ予定であったが、多くの在日フィリピン人から強い反対があり、オノ・ヨーコ氏からも保存を願う希望が寄せられた。その結果か、その後売却計画は見送られた。

P20643092_convert_20160220224918.jpg

現在、正門脇には、公邸は2013年(平成25年)3月11日付でフィリピン共和国の国家的歴史建造物に指定された旨の銘版が掲げられているので、正式に保存されることになったようだ。

第949回・旧東北帝国大学附属図書館本館(東北大学史料館)

P31719303_convert_20160202235131.jpg

東北大学片平キャンパスにある東北大学史料館の建物は、大正13年(1924)に東北帝国大学附属図書館本館として建てられた。約半世紀にわたり図書館として使われた後、現在は大学の歴史を紹介する公開施設として活用されている。

P31719252_convert_20160202234911.jpg

現地案内板の古写真。竣工当初は、正面向かって左隣に5階建の書庫、右隣に法文学部1号館(写真右端に一部写っている建物)がそれぞれ建っていたが、いずれも現存しない。

P31720122_convert_20160202234958.jpg

旧図書館本館の裏側と向かいには、いずれも以前当ブログで紹介した旧法文学部2号館(現・法政実務研修棟)旧理学部化学教室(現・本部棟)が建っている。

P3171923_convert_20160202235239.jpg

旧図書館本館正面玄関。現在は東北大学史料館の入口となっている。

P31719272_convert_20160202235950.jpg

旧法文学部2号館と同様、開口部周りを石の装飾レリーフで飾る。

P3171939_convert_20160208231455.jpg

設計は当時文部省技師で、のちに東北大学工学部建築学科教授を務めた小倉強(1884~1980)による。東北地方の古民家研究や戦災で焼失した仙台市の瑞鳳殿(伊達政宗を祀る霊廟)再建を手掛けたことでも知られる。

P31720113_convert_20160202235756.jpg

赤い瓦屋根の上に載る小さな塔屋。

P31719703_convert_20160202235037.jpg

塔屋部分のアップ。

P31719492_convert_20160208231647.jpg

2階の方が窓が大きく高く造られている。
図書館として使われていた頃は、2階に天井の高い閲覧室が設けられていた。(現在は展示室として公開されている)

P3171940_convert_20160208231542.jpg

外壁の煉瓦は、旧法文学部2号館の窓周りなどを飾るものと同じではないかと思われる。

P31719682_convert_20160203000227.jpg

昭和48年(1973)に東北大学図書館が移転した後はしばらく空家となっていたが、昭和61年(1986)に東北大学記念資料室新館(当時)として改修、再生された。その後東北大学史料館となり、現在に至っている。

第948回・中島病院旧本館(城西浪漫館)

P11040402_convert_20160130160529.jpg

大正6年(1917)に建てられた岡山県津山市田町の中島病院旧本館は、津山高校本館等と並ぶ津山の代表的な洋風建築である。当時の院長であった中島琢之を津山に引き留めるために、地元の名士達が建てた館。現在は津山市が所有、「城西浪漫館」として公開されている。国登録有形文化財。

P1104073_convert_20160130161310.jpg

「城西浪漫館」の名称は、中島医院旧本館が建つ津山市田町は城下町の西側(城西地区)にあることに由来する。中島医院は現在も田町で診療を行っており、旧本館は敷地の一角に建っている。なお、以前当ブログで紹介した旧土居銀行本店・翁橋もすぐ近くにある。

P11040672_convert_20160130160853.jpg

館内に展示されている、昭和期撮影の古写真。かつては旧本館の別棟として、平屋建のレントゲン室棟が本館と同じ意匠で建っていた。また裏手には和室の病棟が続いていたという。

P1104078_convert_20160214113236.jpg

現在は旧レントゲン室棟・旧病棟は撤去・改築され、本館との接続部分に当たる開口部は塞がれている。
写真は旧本館側面。

P11040472_convert_20160130163303.jpg

中島医院の院長であった中島琢之(1885~1956)は、東京帝国大学医科大学を卒業後、日本医学専門学校(現・日本医科大学)教授等を務めていたが、地元からの懇望を受け、大正3年(1914)に津山市元魚町に中島医院を開業した。医院は繁盛するものの中島琢之は東京へ戻って再び研究に従事することを望んでいた。

P11040742_convert_20160130164115.jpg

妹尾順平(妹尾銀行(現・中国銀行)頭取)を中心とする津山の名士達は、中島を津山に留めるため、レントゲンなど当時の最新機器を備えた病院を、当時津山でも一番の繁華街に近かった現在地に新築して贈った。中島はその熱意に応え、以後東京には戻らず津山を拠点に活躍、岡山県医師会会長などを務めた。なお、医院の建設費用は後日全て返済したという。

P11040752_convert_20160130160602.jpg

また中島琢之は政治家としても活動を行い、市会議長、衆議院議員を経て、津山市長を戦前から戦後にかけて3期務めている。(市長在任時の庁舎は津山郷土博物館として現存)
旧本館の前には現在、中島琢之氏の胸像が建っている。

P11040722_convert_20160130161833.jpg

旧本館の設計施工は、津山市川崎にある妹尾銀行の林田(はいだ)支店(旧津山洋学資料館)も手掛けた池田豊太郎による。池田棟梁は何かと現場にやって来ては注文を付ける施主の妹尾順平氏と議論を重ねながら工事を進めたという。

P11040712_convert_20160130162001.jpg

P11040492_convert_20160214171113.jpg P11040502_convert_20160214171138.jpg

妹尾順平氏は所謂普請道楽、建築に凝る人物であったと見え、旧中島医院、旧妹尾銀行林田支店のほか、旧妹尾銀行林野支店(現・美作歴史資料館)など、氏が施主となった建物はどれも内外装共に凝った造りとなっている。

P1104052_convert_20160130162927.jpg

旧本館は役割を終えた後も、長らく中島医院により保存されてきたが、老朽が進み一時解体も検討された。しかし多くの市民の要望を受け保存されることになり、平成20年(2008)に建物は中島医院から津山市に寄贈された。

P1104079_convert_20160130161623.jpg

津山市では官民協働による地域の情報発信施設として活用を図るため、老朽化した建物の修復整備を行い、展示室・カフェ・多目的資室を備える「城西浪漫館」として甦った。平成22年(2010)には国の登録有形文化財となっている。なお、管理運営は市が指定した民間事業者が行っている。

P1104053_convert_20160130161341.jpg

1階玄関ホールと旧受付。病院時代は待合室、診察室、治療室などが配されていた。現在は中島琢之氏及び中島医院、旧本館建物について紹介する展示室と喫茶軽食を提供する喫茶室がある。

P11040632_convert_20160130164724.jpg

2階の階段室。病院時代には2階は院長室や特別な患者用の貴賓室が置かれており、当地出身の元首相・平沼騏一郎(1867~1952)が入院していたこともあるという。現在2階は多目的用の貸室と、蘭学者で津山藩医の宇田川榕菴(1798~1846)についての展示室などがある。

P1104059_convert_20160130161440.jpg

旧院長室。先述のとおりレントゲン装置などの最新機器を備え、院長が帝大卒という中島医院は戦前は津山のみならず、美作地域でも名声の聞こえた医院であったと思われ、大量殺人事件として名高い津山事件の犯人・都井睦雄も診察を受けに来たことがあるという。

P11040572_convert_20160130161030.jpg

旧院長室の暖炉。暖炉は館内に4基あり、それぞれ異なる種類の大理石を用いてデザインも細部が異なる仕上げが施されている。(その他3基の暖炉や館内の写真はこちらのページでも見られる)

P1104060_convert_20160130161411.jpg

1階の現在カフェとなっている部屋と、2階の旧院長室の天井はそれぞれ折り上げ格天井となっているが、院長室の方がより高価な材を用いているようだ。

P11040622_convert_20160214212033.jpg

天井に漆喰仕上げが施された2階の一室。

P11040612_convert_20160130162240.jpg

2階、正面車寄せの上部にあるバルコニー窓から津山市街を望む。
津山城址の石垣が小さく写っている。

P11040462_convert_20160130162426.jpg

中島医院旧本館は、城西浪漫館として津山の新たな観光名所となりつつある。

第947回・旧関西日仏学館

P1124203.jpg

京都市左京区吉田泉殿町にある旧関西日仏学館(現・アンスティチュ・フランセ関西)は、前回も取り上げた木子七郎の設計作品のひとつ。オーギュスト・ペレに師事した建築家レイモン・メストラレの原案をもとに、木子七郎が実施設計を行い、昭和11年(1936)に竣工した。国登録有形文化財。

PC311567_convert_20160208191733.jpg

東大路通に面して建つ旧関西日仏学館。昭和2年(1927)に関西日仏学館が設立された当初は九条山にあったが、昭和11年に現在地に移転した。周囲には京都大学吉田キャンパスがあり、時計台のある本部本館楽友会館などの諸建築が建ち並ぶ。

PC311566_convert_20160208191635.jpg

関西日仏学館は、当時の駐日フランス大使(在任期間:大正10年~昭和2年)で詩人・劇作家でもあるポール・クローデル(1868~1955)が提唱、フランスとは縁の深い大阪の財界人・稲畑勝太郎(1862~1949)の強い協力を得て設立された。

P1124209_convert_20160208191501.jpg

現在は「アンスティチュ・フランセ関西」と改称、フランス語教育と日仏文化交流に努めるフランス政府公式文化機関として活動を続けている。また、京都フランス総領事館も旧関西日仏学館に入居している。

PC311570_convert_20160208191703.jpg

設計者の木子七郎は大阪を拠点に活動していた建築家であったが、フランスとの関係も深かった。昭和12年にはフランス政府よりレジオン・ドヌール勲章を贈られている。

P1124207_convert_20160208191420.jpg

木子七郎は、日本では珍しいフランス色の濃い洋館をいくつか手掛けている。先述の稲畑勝太郎が営む稲畑商店(現・稲畑産業)の本社屋(現存せず。同社のホームページで外観写真を見ることができる)現存するものでは、フランス留学の経歴を持つ久松定謨伯爵の邸宅として建てられた愛媛県松山市の萬翠荘(大正11年)がある。

P1124204_convert_20160208191224.jpg

館内には、戦前パリを拠点に活躍していた洋画家・藤田嗣治(1886~1968)による「ノルマンディーの四季」が飾られている。藤田嗣治と木子七郎は交友があり、その縁から竣工に際し贈られたものであるという。

P112420623_convert_20160208192820.jpg

レイモン・メストラレによる設計原案は木造であったが、木子七郎による実施設計に際しては、構造を鉄筋コンクリートに改めると同時に京都の気候風土に合わせて変更を加えている。

PC3115662_convert_20160208220938.jpg

平成10年(1998)に国の登録有形文化財となる。平成16年(2004)には前年から行われていた改修工事が完了、設備等の更新が行われた。

PC311560_convert_20160208192307.jpg

改修以前は、赤瓦を載せた白いコンクリート塀が敷地を囲んでいたが、改修に際し東大路通に面した部分は正門と共に現代的なデザインに一新された。現在は創建時の塀は側面にのみ残されている。(竣工当初の全景はこちらを参照)

P1124210_convert_20160208191317.jpg

旧関西日仏学館は京大の諸施設や喫茶店の進々堂とともに、学園街を形成している。

第946回・旧山口萬吉邸

P20643192_convert_20160207151743.jpg

東京・九段の靖國神社そばにあるスパニッシュスタイルの邸宅。昭和2年(1927)に新潟の長岡に本拠を置く事業家・山口萬吉氏の邸宅として建てられた。木子七郎(1884~1955)・内藤多仲(1886~1970)・今井謙次(1895~1987)の3人の建築家による共作と言える建物である。

P2064311_convert_20160207152058.jpg

鬱蒼とした樹木に覆われた邸宅。

P20643122_convert_20160207153542.jpg

樹木越しに玄関ポーチのある主屋正面が見える。

P20643152_convert_20160207153106.jpg

設計に際しては、木子七郎と今井謙次がデザインを、内藤多仲が構造設計をそれぞれ担当したと思われる。同じ3人の組み合わせによる作品としては、ほぼ同時期に建てられた内藤多仲自邸(大正15年)が現存する。

P20643332_convert_20160207153355.jpg

木子七郎は当ブログでもこれまで度々取り上げてきた建築家で、愛媛県庁舎旧久松定謨伯爵邸(萬翠荘)旧新田利國邸琴ノ浦温山荘の設計者である。

P2064329_convert_20160207152120.jpg

内藤多仲は「塔博士」の異名でも知られる建築構造技術者で、当時早稲田大学教授であった。東京タワーや名古屋テレビ塔、二代目大阪通天閣の設計者としても知られている。木子七郎とは親友の間柄であったという。

P2064330_convert_20160207151657.jpg

今井謙次は内藤多仲と同じく早稲田大学に籍を置き、当時助教授であった。同大学の図書館や演劇博物館が設計作品として現存するほか、戦後の作品では皇居内の桃華楽堂、長崎市の日本二十六聖人記念館などが著名である。

P20643172_convert_20160207151919.jpg

玄関ポーチの脇にはガレージ(写真手前の平屋建)を置く。なお、現在駐車場となっている場所には、かつては木造二階建の洋館があった。山口家の貸家か使用人の住居だったのかもしれない。

P2064328_convert_20160207152217.jpg

正門から主屋を望む。

P20643262_convert_20160207152525.jpg

東京都心に現存するスパニッシュスタイルの邸宅として、旧朝吹常吉邸(大正14年)、旧小笠原長幹邸(昭和2年)などと並ぶ貴重な存在である。

P2064336_convert_20160207152749.jpg

(参考)
TOTO通信 藤森照信の「現代住宅併走」 第29回 旧山口萬吉邸

第945回・旧岡山県津山中学校本館(岡山県立津山高等学校本館)

P11040192_convert_20160127194745.jpg

岡山県立津山高等学校本館は、明治33年(1900)に当時の岡山県津山中学校の新校舎として建てられた。現在も事務室などとして使われており、同校のシンボルとなっている。国指定重要文化財。

P11040182_convert_20160127194419.jpg

津山高等学校は津山市椿高下にあり、津山城址から北西に少し外れた位置にある。なお、同校の裏側からすぐの位置に、谷崎潤一郎が戦時中一時疎開していた旧藩主松平家の別邸である「宕々庵」(隣接の松平家墓所を除き現存しない)の址がある。

P11040212_convert_20160127195011.jpg

津山中学校は明治28年(1895)、津山城址に近い山下(旧津山基督教図書館の辺り)に岡山県津山尋常中学校として創立、同32年に岡山県津山中学校と改称、その翌年、椿高下に現在の本館が竣工した。

P11040342_convert_20160127194443.jpg

戦後の学制改革に伴い、昭和24年(1949)に津山高等女学校(明治35年創立)と統合する形で津山成美高等学校となる。その後昭和28年(1953)に津山高等学校と改称され、今日に至っている。

P11040262_convert_20160127195438.jpg

なお、津山中学校と同時に設立され、校舎も同じ明治33年に新築された岡山県高梁中学校(現・岡山県立高梁高等学校)の旧本館は津山中学校本館と瓜二つといってよいほど似た建物であったが、こちらは昭和後期に取り壊され、現存しない。

P1104024_convert_20160127202832.jpg

旧津山中学校本館は岡山県の文化財指定を経て平成7年(1995)、国指定重要文化財となった。

P1104020_convert_20160127194225.jpg

正面中央の屋根上には時計台を据えている。

P11040232_convert_20160127194522.jpg

両脇にひとつずつ設けられた屋根窓。

P11040252_convert_20160127202620.jpg

旧津山中学校本館では、二階の窓の上部には中央のみ三角形のペディメント(破風)を置き、両脇はすべて曲線を描く櫛形ペディメントを置く。これに対し、今はない旧高梁中学校本館ではペディメントは全て三角形とするなど、細部では異なるデザインが施されていた。

P11040362_convert_20160127195048.jpg

側面及び背面。T字型平面となっており、背面の張り出し部分は昭和10年(1935)の増築。
明治期創建部分の意匠を忠実に踏襲した造作となっている。

P11040272_convert_20160127202548.jpg

茨城県の旧土浦中学校本館などと並び、現存する貴重な明治期創建の旧制中学校の校舎である。

第944回・旧東北帝国大学法文学部2号館

P3171958_convert_20160202231016.jpg

仙台市の東北大学片平キャンパスに残る旧東北帝国大学の施設のひとつ。
大正14年(1925)に旧東北帝国大学法文学部2号館として建てられた。

P3171963_convert_20160202231545.jpg

正面全景。
東北帝国大学に法文学部が設置されたのは、大正11年(1922)。

P31719692_convert_20160202231901.jpg

側面。
東北帝国大学法文学部創設当初の唯一の遺構と思われる建物。

P3171946_convert_20160202231633.jpg

背面。

P3171961_convert_20160202232057.jpg

保存改修工事を施され、現在は東北大学法政実務研修棟として使われている。

P3171959_convert_20160202231427.jpg

腰壁や窓枠周りには褐色の煉瓦を積んでいる。

P31719572_convert_20160202231255.jpg

正面中央部の装飾的な煉瓦積意匠。

P3171955_convert_20160202231947.jpg

正面玄関。開口部周りには大谷石の装飾レリーフを飾る。

P3171965_convert_20160202231452.jpg

改修の際には正面玄関に、片平キャンパスに現存する近代建築の保存を推進する市民団体「片平キャンパストラストファンド」から、復元した玄関照明が寄贈された。

P31719642_convert_20160202232428.jpg

目立つ建物ではないが、煉瓦積などが魅力的な建物である。

第943回・任天堂旧本社

P11241802_convert_20160126222922.jpg

世界的コンピューターゲーム機メーカー・任天堂の旧本社屋が京都市下京区正面通木屋町東入にある。昭和8年(1933)に合名会社山内任天堂本社として建てられた。現在は任天堂正面営業所となっている。

P11241822_convert_20160126223050.jpg

任天堂は明治22年(1889)、創業者である山内房治郎(1859~1940)によって創業、花札・トランプの製造・販売を行っていた。

P1124181_convert_20160126223127.jpg

昭和8年(1933)、二代目店主の山内積良(1883~1949)によって、それまでの個人商店から合名会社山内任天堂に改組される。同年、現在地に新築移転。

P1124174_convert_20160126223946.jpg

第二次大戦後、任天堂は山内積良の孫で三代目に当たる山内溥(1927~2013)によって、世界的ゲーム機メーカーとして発展を遂げ今日に至る。

P1124173_convert_20160126223257.jpg

正面通に面した建物が旧本店で、その背面に山内家の旧本宅と倉庫を置く。
旧本店を始めとする一連の建物群は現在、任天堂正面営業所として大切に保存されている。

P11241772_convert_20160126224112.jpg

旧本宅は外観はタイル張りの洋風建築であるが、内部は式台のある玄関など、日本家屋の造りを取り込んだ構造となっているという。

P1124175_convert_20160126223348.jpg

倉庫棟からの眺め。手前から倉庫棟、旧本宅、旧本店と続く。

P1124178_convert_20160126224647.jpg

倉庫棟のみ旧本宅・旧本店に先行して昭和5年(1930)に建てられたとされる。

P11241782_convert_20160126224335.jpg

倉庫棟3階には右書きで「任天堂」の文字が見える。

P11241792_convert_20160126230209.jpg

鴨川が近いため、屋根にはアオサギが止まっていた。

P1124182_convert_20160126223151.jpg

旧本店の内部には、質の高いアールデコ調意匠が展開しているという。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。なお、リンクを張らせて頂いている他の方のページは一部を除き相互リンクとなっております。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード