第1000回・旧稲畑二郎邸(岡本の洋館)

s_P6250025.jpg

旧稲畑二郎邸(岡本の洋館)は、神戸市東灘区に現存する木子七郎設計、大正11年(1922)竣工の木造洋館。かつては広大な敷地に日本家屋や茶室もある大邸宅であったが、現在は洋館だけが残る。部分的ながらも、明治末から昭和戦前にかけて阪神間に多く建てられた豪邸の姿を残すと同時に、重要文化財の萬翠荘などを手掛けた建築家の設計による貴重な建物である。

s_P6250006.jpg

旧稲畑邸はJR東海道本線や阪急電車の線路沿いからも遠望できる。かつての広大な敷地は昭和40年頃に分譲地化され、現在は洋館部分の敷地だけが辛うじて残されている。神戸大学電子図書館で閲覧できる「大阪朝日新聞」の紙面に、竣工当時の旧稲畑邸及びその周辺の情景を伝える記事がある。少し長いが紹介しよう。

s_P62500012.jpg

「・・・阪急電車で御影、蘆屋、夙川間を過ぎると山麓の急斜地に新旧大小の洋館が美しく見える古くからある本山村の広岡恵之助氏の邸宅は是も素人建築家米人ボーリス氏の設計に係るもので石造の白く光る大邸宅に技術者臭くない或余分の趣のある気持がする其西の方同村中野に最近竣工した栗板羽目で壁を被うたシンメトリーの洋館が目に附く、稲畑二郎氏の邸宅で清水工務所が設計し二階が日本間で家具も造り附けになり凝った面白い建方だと聞いている、・・・」(大正12年1月6日付「過渡期にある阪神間の理想住宅(下)」より) ※太字は引用者による

s_P62500022.jpg

周りを住宅で囲まれた現在も、外壁をシングルで覆った「シンメトリーの洋館」は健在である。なお、「清水工務所」は清水組(現・清水建設)の誤りで、設計者ではなく施工者である。また、本記事からはヴォーリズ設計による廣岡家(江戸時代から続く大阪の豪商で、大同生命創業家)の本邸も近くにあったことが分かる。

s_P6250010.jpg

邸宅を建てた稲畑二郎(1888~1966)は、大阪商工会議所会頭や貴族院議員も務めた実業家・稲畑勝太郎(1862~1949)の女婿で、岳父の勝太郎が経営する稲畑商店(現・稲畑産業)の重役を務めると共に、現在の稲畑香料を興すなど実業家として活躍した人物。設計者の木子七郎は、大正7年に稲畑商店の本社屋を完成させており、洋館の設計もこの縁ではないかと思われる。

s_P6250123.jpg

昭和12年(1937)に稲畑二郎は芦屋に移り住んだため、邸宅は宮地汽船を営む宮地家の所有となり、宮地汽船の迎賓館として使われる。このときには洋館の裏手に茶室を設けるなど、邸宅の最盛期であったようである。

s_P6250110.jpg

昭和13年の阪神大水害や第二次大戦の戦災は免れたものの、宮地家の手を離れた後、広大な宅地は細分化されてしまった。このときに現所有者の先代が洋館を自邸として購入したことで、往年の大邸宅の面影が今日まで辛うじて残されてきた。

s_P6250026.jpg

洋館は現所有者の長年にわたる努力によって維持管理されてきたが、それも限界に近づいてきたことから、この洋館と場所をより良いかたちで継承できる人を探すための見学会が、この洋館の保存に取り組んできた(一社)住宅遺産トラスト関西によって開催された。(終了済)本記事の写真は全て内覧会のときのものであるが、内部写真は非公開とさせて頂く。

s_P62500232.jpg

木子七郎設計の住宅は旧稲畑邸のほか、愛媛の萬翠荘、和歌山の旧新田長次郎邸(温山荘)、西宮の旧新田利國邸、東京の旧山口萬吉邸、旧内藤多仲邸、大阪の旧自邸兼事務所が現存するが、洋風建築は全てRC造で、木造は和風建築の旧新田長次郎邸のみである。その点、洋風木造建築の旧稲畑邸は珍しい存在である。

s_P6250020.jpg

外壁は1階を基壇部分はドイツ壁、その上部をクリーム色の平坦なモルタル塗りとして、2階は赤く塗ったシングル葺きで仕上げる。洋館の外壁をシングルで仕上げる例は他に滋賀県の旧伊庭貞剛邸や鎌倉の古我邸などがあるが、日本の木造洋館の外装材としては下見板張りなどに比べると少数派である。

s_P62501112.jpg

外観からは想像できないが、上記「大阪朝日新聞」の記事にもあるとおり、2階の一部は日本間になっている。床の間・床脇を備えた書院座敷で、次の間は網代天井を張った数寄屋風の造りになっている。

s_P6250112.jpg

洋館の南面には中央部を広く取ったテラスを設け、2階からは神戸市街が一望できる。なお、テラスの2階部分の欄干と屋根は、後年改造されているが、それ以外は外観・内部ともに創建当初の造作を極めて良く残している。

s_P62501092.jpg

洋館の北西の角に当たる部分は鉄筋コンクリートの蔵となっており、小さな窓には防火用の鉄扉が設けられている。戦時中は地元の役場にある重要書類の疎開先になっていたという。

s_P6250105.jpg

平成7年の阪神大震災では、堅牢な構造であったため大きな影響は無かったようだが、天井の漆喰が一部落ちるなどの被害はあった。震災以後は無住となり、現在に至る。

s_P6250022.jpg

この洋館が今後どうなるか、前途はまだ分からない。
よい継承者が見つかり、新たな用途を得て甦る日が来ることを祈る。
スポンサーサイト

第1000回目に際して

いつも弊ブログを御訪問頂き、ありがとうございます。
今月を以て、平成21年(2009)8月の開設からちょうど7年経ちましたが、弊ブログはこの度1000回目を迎えました。
御訪問頂いている皆様には心より御礼申し上げます。

7年の歳月を経て、ここで紹介してきた多くの建物もその後、それぞれ様々な運命を迎えつつあります。
文化財に指定されたり、修復され一般公開されるようになった建物もあれば、取り壊され姿を消した建物、
辛うじて外壁など部分的に残った建物などがありますが、可能な限り、それぞれの建物の「その後」も
いずれは取り上げて行きたいと考えております。

今回、第1000回目として紹介する建物も今後の行く末が案じられる建物ですが、よりよい形で後世に
引き継がれる事を願っております。

今後とも引き続き、弊ブログを宜しくお願い申し上げます。


第1回記事で取り上げた旧兵庫県庁舎(現・兵庫県公館)

s_P5022283.jpg

第999回・旧西陣織物館(京都市考古資料館)

s_P81705162.jpg

京都市上京区今出川通にある旧西陣織物館は、日本におけるモダニズム建築の先駆者の一人とされる本野精吾(1882~1944)の作品で、大正3年(1914)に竣工した。当時としては極めてシンプルなデザインが特徴である。現在は考古資料専門の博物館として利用されている。京都市登録有形文化財。

s_P8170521.jpg

大正天皇即位の記念事業として、西陣織物同業組合が西陣織の製品陳列を目的に建設した。竣工当時はその姿から、「マッチ箱を立てたかのような姿」と評されたという。

s_P81705262.jpg

本野精吾は京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)教授として、明治末から昭和戦前にかけて活動を行った建築家である。旧西陣織物館はドイツ留学から帰朝後最初の設計作品であり、モダニズム建築の最初期の例とされる。

s_P81705192.jpg

玄関ポーチ。
柱頭飾りや上部バルコニーの欄干、照明などに幾何学的意匠を施している。

s_P8170514.jpg

玄関ポーチを支える柱の柱頭飾り。抽象化された樹木の図柄が見える。

s_P81705132.jpg

玄関ポーチ上のバルコニーの照明。
戦時中の金属供出で一時失われたが、戦後復元された。

s_P8170522.jpg

構造は煉瓦造と鉄筋コンクリートの混構造で、外壁は煉瓦壁の上に当時よく用いられた白色タイルを貼り、3階部分のみ部分的に焦茶色のタイルを用いている。

s_P8170511.jpg

内部は現在の用途へ転用する際に改造されているが、階段と3階にある旧貴賓室は旧状を残している。

s_P8170509.jpg

旧貴賓室も外観と同様に幾何学的な意匠を施した内装が特徴的であるが、非公開である。

s_P8170528.jpg

脇の通用門は後年の改造と思われる。

s_P8170518.jpg

昭和54年(1979)より、京都市内で発掘された埋蔵文化財を中心に展示する考古資料専門の博物館として公開されている。

第998回・旧松平家高松別邸(披雲閣)

s_P62603792.jpg

高松市の高松城跡(玉藻公園)三の丸にある披雲閣は、旧高松藩主である松平伯爵家の高松別邸として大正6年(1917)に建てられた。旧藩主の別邸であると同時に、香川県を訪れた賓客を迎える迎賓館としての役割も担っていた。現在は高松市が所有しており、市民のための施設として利用に供されている。国指定重要文化財。

s_P6260401.jpg

高松駅と高松港からすぐの位置にある高松城跡。写真は高松城跡の現存建造物で、左から北之丸月見櫓・北之丸水手御門・北之丸渡櫓。現在は埋め立てられたが、かつてはの高松城は瀬戸内海に面して造られた海城であり、北之丸水手御門は藩主が乗る御座船の乗り場でもあった。現在、一帯は玉藻公園として開放されている。

s_P6260406.jpg

北之丸渡櫓の前から披雲閣を望む。「披雲閣」は、もともとは城内に存在した藩主の政務と居住の場として建てられた御殿の名称であったが、明治維新後、老朽化を理由に御殿(旧披雲閣)は取り壊された。その後大正3年(1914)に、旧藩主である高松松平家の12代当主・松平賴寿伯爵が披雲閣の再建に着手、3年後に完成する。

s_P6260382.jpg

東京の清水組(現・清水建設)の設計施工になる新披雲閣は、三の丸の南面にあった旧高松城遺構の桜御門(昭和20年高松空襲で焼失、現在復元が予定されている)を正門として、敷地の中央に本館を、海に面した北側に庭園を配する構成となっている。

s_P6260381.jpg

玄関車寄せ。玄関の扁額は旧披雲閣からのもので、5代高松藩主・松平頼恭の筆とされる。
現在披雲閣は、貸館として市民の利用に供されており、建物内部の一般公開は通常行っていない。庭園からの外観の見学は自由である。(但し玉藻公園への入園料が必要)

s_P62603802.jpgs_P6260412222.jpg

玄関の照明器具。

s_P6260415.jpg

玄関は車寄せのある表玄関と写真の脇玄関がある。

s_P6260388.jpg

表玄関の脇にある洋式応接間「蘇鉄の間」。
披雲閣の各室の名称は、庭の植木に因むものが大半である。

s_P62603962.jpg

外から「蘇鉄の間」の内部を望む。
意匠は純和風であるが、椅子・テーブル式の洋間である。

s_P6260387.jpg

「蘇鉄の間」の棟の奥に、反りのある大書院の屋根が見える。

s_P6260399.jpg

手前が大書院。
奥の二階建は、伯爵及び賓客の居住・滞在用に建てられた棟。

s_P6260408.jpg

大書院全景。

s_P6260410.jpg

大書院脇に配された、巨大な御影石のつくばい。

s_P6260373.jpg

二階建の居住・滞在用棟。
玄関からは最も奥まった位置にあり、庭園に面して建っている。

s_P6260404.jpg

香川県の迎賓館として、大正11年(1922)に摂政宮(のちの昭和天皇)と英国のエドワード皇太子、昭和28年(1953)には昭和天皇・皇后をお迎えするなど多くの賓客を迎え入れてきた。

s_P6260385.jpg

披雲閣は平成24年(2012)に建物が国指定重要文化財に、庭園が翌平成25年(2013)に国指定名勝となっている。

第997回・旧兵庫県農工銀行豊岡支店

s_P81501522.jpg

前回記事で紹介した、旧豊岡町役場庁舎の向かいに建つ旧兵庫県農工銀行豊岡支店の建物も、北但馬地震からの復興に際して建てられた復興建築物群の一つである。昭和9年(1934)の竣工で、設計は綿業会館などで知られる様式建築の名手・渡辺節による。現在はレストラン・カフェ・ホテルを兼ねた複合施設として活用されている。国登録有形文化財。

s_P81501272.jpg

正面遠景。豊岡市は日本海側気候で豪雪地帯であるが、赤瓦葺の屋根に、クリーム色の外壁を持つこの建物は南欧風の趣を見せている。

s_P81501542.jpg

農工銀行は、戦前に北海道を除く全府県に存在した特殊銀行のひとつで、農工業の改良のための長期融資を目的として明治時代に設立された、日本勧業銀行(のちの第一勧業銀行、現みずほ銀行)の事実上の子会社的な存在であった。その後勧銀との合併が促進されるようになり、第二次大戦前には全ての農工銀行が日本勧業銀行に吸収合併された。

s_P8150141.jpg

兵庫県農工銀行の豊岡支店として建てられた後、日本勧業銀行、扶桑相互銀行、山陰合同銀行の店舗として使われ、その後は近年まで豊岡市役所南庁舎別館として使用されていた。

s_P8150140.jpg

豊岡市庁舎の改築整備に伴い、豊岡市に現存する近代建築として、また復興建築物としての価値を活かした利活用を行うため改修工事が行われ、オーベルジュ(宿泊ができるレストラン)を備えた「豊岡1925」として生まれ変わった。

s_P81501552.jpg

渡辺節は大阪を拠点に設計活動を行っていた建築家であるが、農工銀行の事実上の親会社に当たる日本勧業銀行の店舗も、東京の本店や大阪、京都の各支店の設計を手掛けている。(いずれも現存しない)

s_P8150144.jpg

今日現存(部分的な保存も含む)する渡辺設計の建物で、兵庫県農工銀行豊岡支店と外観の共通点が見られるのは、大阪の岸和田にある旧和泉銀行本店、神戸の神戸朝日ビル(旧神戸証券取引所の外観を残す高層ビル)が挙げられる。いずれも明るい色調のタイルと石材を組み合わせた外壁や意匠等に共通する点がある。

s_P8150157.jpg

s_P81501352.jpg

s_P8150146.jpg

様式建築の名手であった渡辺節の設計作品として、細部の随所に繊細な造形が見られる。

s_P8150123.jpg

内部も旧営業室は銀行時代の吹き抜けを復元し、レストランとカフェに使われている。

s_P8150151.jpg

すばらしい保存活用が為されているのだが、惜しむらくは建物の前面を横切るアーケードの存在である。
この建物の前だけでもアーケードは外せないものかと思うのだが・・・・。

第996回・旧豊岡町役場庁舎

s_P81501212.jpg

兵庫県豊岡市中央町にある豊岡市役所は平成25年(2013)に改築されたが、昭和2年(1927)竣工の旧庁舎は敷地内で曳家移動し、市議会議場などに再利用されている。豊岡に大きな被害をもたらした北但馬地震からの復興に際して建てられた復興建築物群の一つである。国登録有形文化財。

s_P8150117.jpg

昭和2年の竣工当時は豊岡町役場庁舎であった。昭和25年(1950)の豊岡市発足以降は豊岡市庁舎として使われた。現在は市議会議場及び豊岡市立交流センター「豊岡稽古堂」として再利用されている。

s_P81501502.jpg

背後の建物が現在の豊岡市庁舎。旧庁舎を現在地に曳家移動後、その跡地に建てられた。かつては周囲に同じ復興建築群として建てられた警察署や郵便局の建物もあったが、これらは現存しない。

s_P8150159.jpg

大正14年(1925)に発生した北但馬地震は、兵庫県の但馬地方北部、特に豊岡と城崎に甚大な被害をもたらした。地震と火災によって壊滅状態になった豊岡では震災後、復興事業が進められ、耐震耐火を重視した復興建築群が建てられた。

s_P81501312.jpg

昭和2年竣工当初の豊岡町役場庁舎。(館内に展示されている古写真)鉄筋コンクリート造2階建で、設計は原科準平。同一設計者による建物として、神戸市中央区の神戸教会(昭和7年)がある。

s_P81501372.jpg

昭和27年(1952)に3階部分が増築され、屋根も陸屋根から赤瓦葺、寄棟と切妻を組み合わせた形の屋根に改められた。改修に際しては増築後の姿で保全が図られている。

s_P81501182.jpg

現在は2階に市議会議場が入り、1・3階が「豊岡稽古堂」としてギャラリーや貸室等に利用されている。

s_P8150128.jpg

「稽古堂」の名称は、豊岡藩の藩校名に由来する。

s_P8150119.jpg

昭和2年当時、町役場の庁舎を鉄筋コンクリートで建てる例は極めて珍しいものであったと思われる。

s_P8150130.jpg

1階玄関ロビー。

s_P8150120.jpg

豊岡の復興建築群のシンボルとして保存・活用されている。

第995回・藤田家住宅

s_P8170457.jpg

京都市上京区堀川通今出川上る西入山名町にある藤田家住宅は、明治期に建てられた東棟と、昭和初期に建てられた西棟から構成される京町家である。元々は帯製造業者の居宅兼店舗として使われ、織物の街として知られる西陣の一角に建つ。洋間や茶室を備えるなどの趣向を凝らした西棟など、かつての西陣の繁栄を伝えている。国登録有形文化財。

s_P8170506.jpg

全景。手前が明治期に建てられたとされる東棟、奥が昭和10年(1935)に建てられた西棟。
藤田家住宅のある一帯は、室町時代の応仁の乱に際し、西軍を率いた山名宗全の屋敷址で、戦乱の後は西陣織の産地として栄えた。現在も地名にその名残を残している。

s_P8170504.jpg

藤田家ではかつて帯地の製造を行っていたが、現在は東棟の店舗棟内部を改装してギャラリーを営んでいる。

s_P8170505.jpg

東棟のつし(中二階)に穿たれた、木瓜形の虫籠窓。

s_P8170500.jpg

昭和10年に当時の当主が贅を凝らして建てた西棟。外見は地味であるが、内側にはすばらしい空間が広がっている。通常内部は非公開であるが、前回記事の「和中庵」と同様、「京の夏の旅」キャンペーンにより、西棟の特別公開が行われている。(平成28年9月30日まで)

s_P8170508.jpg

西棟の前には坪庭を挟んで高塀が立てられており、来客専用と思われる門が設けられている。

s_P8170462.jpg

門をくぐるとすぐに、西棟へ直接出入りできる玄関が設けられており、応接間である洋間につながっている。
(実際の見学順路は東棟から入るようになっており、西棟の門及び洋間への立ち入りはできない)

s_P81704972.jpg

出窓から坪庭の緑が見える。
椅子とテーブルのセットなど、家具も昭和初期の特注品が今も残されている。

s_P8170458.jpg

渋い色合いのタイルを貼った暖炉。
暖炉棚の上には、国登録有形文化財であることを示すプレートが飾られている。

s_P8170469.jpg

天井の網代張りや丸太を使った柱など、数寄屋風の造りを基調に、照明器具や家具など、昭和初期のアールデコ調デザインを融合させた洋間。

s_P8170464.jpg

洋間の奥は3層吹き抜けの板の間になっており、屋根の天窓から外光を取り込めるようになっている。他の京町家ではあまり例をみない造りであるが、買い付けに来た来客に対し、商品である帯地を可能な限り明るい部屋で見せるための工夫とも言われる。

s_P8170466.jpg

板の間には水屋が設けられており、板の間の奥にある仏間で茶事ができるようになっている。

s_P8170493.jpg

板の間から仏間、奥座敷、前裁(裏庭)、茶室を望む。

s_P8170467.jpg

洋間と同様に柱に丸太を用いるなど、数寄屋風の造りとなっている仏間。畳の下には炉が切られており、茶室として使うこともできるという。

s_P8170473.jpg

奥座敷から仏間、吹き抜けのある板の間、洋間を望む。いずれの部屋も葦戸を立てたり簾を吊るすなど、夏の設えとなっている。

s_P81704902.jpg

奥座敷。
数寄屋風の洋間、仏間と異なり、床の間などにヒノキの角柱を用いた書院造の座敷。

s_P8170491.jpg

同じく奥座敷。天袋には銀箔が貼られており、歳月を経て落ち着いた青黒い色に変色している。

s_P8170477.jpg

前裁(裏庭)の奥には表千家の命名になるという茶室が設けられている。

s_P8170481.jpg

奥座敷の縁側から前裁を眺める。

s_P8170478.jpg

茶室の隣には土蔵が建っている。

s_P81704842.jpg

土蔵の戸前。

s_P8170442.jpg

一階接客用の空間であるのに対し、二階は居住及び作業部屋として使われていた。

s_P8170452.jpg

二階から吹き抜けを見下ろす。
板の間の水屋と横の戸棚が見える。板の間の右側が仏間で、左側が洋間である。

s_P8170441.jpg

壁が板張りになった珍しい造りの二階居室。

s_P8170440.jpg

二階居室の床の間。

s_P81705032.jpg

伝統的な京町家の佇まいに、昭和初期の洗練された和洋折衷の意匠を有する空間が併存するすぐれた建物である。洋間を備えた京町家としては、大正時代に建てられた新町通の「紫織庵」で比較するのも興味深い。

第994回・旧藤井彦四郎邸「和中庵」

s_P8170351.jpg

京都市左京区鹿ケ谷桜谷町のノートルダム女学院中学高等学校の敷地内に、スキー毛糸で知られる近江出身の実業家・藤井彦四郎(1876~1956)の本邸である「和中庵」がある。通常は非公開であるが、京都市観光協会・京都市の主催による「京の夏の旅」キャンペーンにより、平成28年8月23日まで特別公開が行われている。

s_P8170435.jpg

和中庵は傾斜地に建っており、洋館と日本家屋から構成される和洋併置式の邸宅である。現在はスペイン風外観の洋館と、日本家屋のうち客殿部分と茶室、土蔵が現存する。なお、日本家屋には日常生活の場であった二階建の主屋があったが、老朽が甚だしく解体され、現存しない。

s_P8170380.jpg

主屋跡の一角に建つ土蔵。
昭和24年(1949)に修道女会が藤井家から譲り受けたのち、ノートルダム女学院に移管、昨年(平成27年)に改修工事が行われ、現在は同学院の施設として活用が図られている。

s_P8170358.jpg

主屋跡から望む洋館。
一階の手前側、窓の無い箇所はかつては主屋に接していた部分。二階にもかつての渡り廊下への入口跡が、そのまま開口部として残されている。

s_P8170353.jpg

近江商人の家に生まれた藤井彦四郎は、明治末年より人工絹糸(人造絹糸、レーヨン)の輸入販売を行い、日本の化学繊維市場の礎を築いた1人とされる。その後は現在も存在する「スキー毛糸」の製造販売で成功を収めた。

s_P8170357.jpg

洋館の側面には半円形に張り出した赤瓦葺の庇があり、ポーチかテラスにでもなっているのか、Yの字型のコンクリート柱が支えている。大正14年(1925)に竣工した京都帝國大學楽友會舘の影響を受けているのではないかと思われる。

s_P8170355.jpg

今は無い主屋と洋館と、茶室とを結ぶ渡り廊下。傾斜地なので階段になっている。
なお、茶室は今回非公開。

s_P81703592.jpg

洋館は元々主屋と一体であったため、独自の玄関は存在しない。
現在はかつての渡り廊下の入口を洋館の玄関としている。

s_P81703612.jpgs_P817036022.jpg

和洋を区切るアーチの両側に、一対の狛犬が置かれている。

s_P8170362.jpg

洋館1階の一室。

s_P8170364.jpg

洋館1階、暖炉や造り付けの腰掛が設けられた、応接間か書斎と思われる造りの一室。

s_P8170370.jpg

腰壁に大理石を貼った階段室。

s_P8170382.jpg

2階から階段室を見下ろす。

s_P8170373.jpg

階段室入口の持ち送りに施された天使像。

s_P81704212.jpg

洋館の2階は、2室から成る広間で構成されている。修道院時代は聖堂として使われていた。

s_P8170375.jpg

白大理石に薔薇の花をあしらった主室の暖炉。

s_P81704222.jpg

円形に折りあがった珍しい意匠を有する次室の天井。

s_P8170415.jpg

主室から次室を望む。

s_P8170383.jpg

洋館の2階から、吹きさらしの渡り廊下を介して日本家屋の客殿部分につながっている。

s_P8170387.jpg

洋から和へ転換。

s_P8170409.jpg

渡り廊下から洋館を望む。
ベイウインドウのように張り出した部分は階段室。階段室の壁面には大谷石を貼っている。

s_P8170386.jpg

渡り廊下から客殿を望む。
客殿は平屋建てであるが、傾斜地の上方に建っているため、洋館の2階から入るようになっている。

s_P81704072.jpg

客殿からみた洋館。窓の形や外壁の仕上げなど、変化に富んだ外観となっている。
左下に写っている窓は地階で、撞球室が設けられているという。

s_P8170408.jpg

客殿の一室。板張りの床は後年の改装と思われる。

s_P8170394.jpg

巨大な沓脱石が配された縁側。

s_P8170393.jpg

幅の広い縁側。

s_P8170406.jpg

客殿の中心となっている空間は、3間続きの本格的な書院造の座敷である。

s_P8170400.jpg

客殿は皇族など貴賓の宿所に充てられていた。

s_P8170350.jpg

なお、藤井彦四郎の邸宅は本邸のほか、故郷の滋賀県東近江市宮庄町にも現存する。
昭和8年(1933)に建てられた和洋併置式の迎賓館や、質素な造りの主屋、土蔵等で構成される邸宅は現在、「五個荘近江商人屋敷 藤井彦四郎邸」として公開されている。

第993回・旧七美郡役所(旧美方郡役所)

s_P8150074.jpg

兵庫県美方郡香美町村岡区村岡にある「村岡民俗資料館まほろば」の建物は、明治27年(1894)に近接地に建てられた旧七美郡役所(その後美方郡役所となる)庁舎を、昭和62年(1987)に移築復元したものである。明治期に兵庫県内に建てられた同種の郡役所庁舎のうち、旧但馬國で現存するものは旧出石郡役所とこの旧七美郡役所の2棟である。

s_P8150083.jpg

香美町村岡区は兵庫県北部の但馬地方に位置し、高級和牛の但馬牛の産地としても知られる。旧七美郡役所庁舎は、江戸時代は山名氏が治める城下町であった村岡地区の中心街に建っている。

s_P8150073.jpg

創建当初は、明治12年(1879)に発足した七美(しつみ)郡の庁舎であったが、明治29年(1896)の群制施行に共に旧七美郡・旧二方郡の区域をもって美方郡が発足したことにより、美方郡役所庁舎となった。

s_P81500932.jpg

郡役所として使われた後は農林事務所、林業事務所として使われたがその後解体され、昭和62年(1987)に現在地に移築復元された。

s_P8150086.jpg

明治中期の兵庫県内では、酷似した意匠の郡役所庁舎が県内各地に建てられた。そのうち、今回取り上げた旧七美郡のほか、旧三原郡、旧出石郡、旧神崎郡の3庁舎が現存する。(ほか、旧佐用郡役所庁舎も解体材の状態で保管されているという。また、旧出石郡役所は当ブログで以前紹介済である。)

s_P8150088.jpg

現存する他の郡役所庁舎は、背面に平屋建ての棟が続いているが、旧七美郡役所は本館部分のみが残されている。

s_P8150089.jpg

壁面の下見板や、角の隅石積を模した部分については、旧建築の部材ではなく新建材による再現と思われる。

s_P8150072.jpg

それに対し、玄関ポーチ周りや基壇部分の石材、窓周りは旧建築の部材が再利用されている。

s_P8150091.jpg

格天井になっている玄関ポーチ。

s_P8150090.jpg

玄関扉。

s_P8150075.jpg

奇妙な意匠のイオニア風柱頭。

s_P8150092.jpg

この時期の擬洋風建築の特色をよく伝えている。

s_P8150084.jpg

但馬地方に残る希少な明治期の洋風建築のひとつである。

第992回・琴平町公会堂

s_P62602142.jpg

香川県仲多度郡琴平町川西の琴平公会堂は、昭和9年(1934)竣工の木造和風建築で、現在も各種催事や集会などに使用されている。国登録有形文化財。

s_P6260213.jpg

琴平公会堂は、金刀比羅宮参道の入口に程近いところに建っている。場所柄を意識して社寺建築風の意匠が採用されている。

s_P6260212.jpg

玄関棟、ホール棟、和室棟から構成される。
曲線を描く屋根や、唐破風のある玄関で構成される優雅な外観が特徴。

s_P6260211.jpg

側面から見たホール棟の大屋根。
屋根の曲線の美しさがこの建物の外観の特徴と言える。

s_P6260210.jpg

背面から望むホール棟全景。内部は折り上げ格天井に和風シャンデリアが吊り下がる豪華な造りとなっている。また、廊下の天井は斬新な幾何学紋様が施されており、質の高い近代和風建築である。

s_P6260218.jpg

ホール棟の奥に小さな屋根がくっつくような形で建っている和室棟。内部には小会議室がある。

s_P6260217.jpg

玄関棟。一般利用者用の東玄関と、貴賓用の北玄関が設けられており、北玄関の脇には洋風の応接室を備える。写真の唐破風を備えた部分が東玄関で、右側の奥に北玄関の一部が見える。

s_P6260219.jpg

北玄関のポーチ。手前の高欄を備えた窓は応接室。

s_P6260220.jpg

東玄関・北玄関ともに、扉が取り換えられているほかは旧状をよく残している。

s_P6260215.jpg

現在も地域に密着した施設として住民に利用されているようだ。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。なお、リンクを張らせて頂いている他の方のページは一部を除き相互リンクとなっております。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード