第1027回・旧大和田銀行本店(敦賀市立博物館) 〔再訪〕

s_P819323322.jpg

平成24年(2012)12月4日付弊ブログ記事で紹介した、福井県敦賀市相生町の敦賀市立博物館(旧大和田銀行本店)は、その後修復事業が完了し平成27年(2015)7月より再開、銀行として、また公会堂や迎賓施設としても使われていた時代の重厚華麗な室内が甦った。

s_P8193199.jpg

建物は敦賀市指定文化財を経て福井県指定文化財となっていたが、平成28年(2016)10月21日、国の重要文化財に指定するよう文化審議会から文部科学大臣に対し答申が為された。今回は重要文化財指定予定となった旧大和田銀行本店について、修復後の姿をお見せしたい。

s_P81932642.jpg

大和田銀行は、敦賀の大商人・二代大和田荘七(1857~1947)によって明治25年(1892)に設立され、昭和20年(1945)に三和銀行(現・三菱東京UFJ銀行)に吸収合併されるまで存在した銀行である。本店の建物は昭和2年(1927)竣工の二代目で、鉄骨煉瓦造3階建地階付・石造風の外観を持つ建物は、当時の敦賀では際立った大建築であり、新聞に「摩天閣」と書き立てられた。

s_P8193203.jpg

江戸時代は北前船の寄港地として栄えていた敦賀は、明治以降は国際港として発展、ロシア・ウラジオストックとの定期航路が開設されるなど大陸への玄関口となっていた。敦賀の発展に力を注いだ二代大和田荘七は新本店建設に際し、国際港として恥ずかしくないものをとの思いから、迎賓・社交施設に加え、市民のための集会施設やレストランも備えた本店ビルを完成させた。

s_P8193201.jpg

修復前と変わらない敦賀市立博物館の正面玄関。外観は元々旧状がよく残されていたため、修復後もあまり変わっていない。なお、創業から新本店竣工まで使われていた初代大和田銀行本店も裏に現存、みなとつるが山車会館別館として利用されている。旧本店及び新本店のその他の外観写真は、以前の紹介記事もご参照頂きたい。

s_P8193233.jpg

正面玄関を入ると、往年の姿が甦った旧営業室が一望できる。修復前は旧銀行時代の内装の殆どが、展示ケースやパネルで覆い隠されていたが、修復に際しそれらは全て撤去され、建物本来の内装が見える形に改められた。

s_P8193209.jpg

天井の石膏飾りや照明器具、客溜の床タイルや二ヶ所ある玄関の風除室、大理石のカウンターなど、旧営業室の内装の大半は昭和2年竣工当時のオリジナルが残されている。一部、後年の改装等で失われた部分や老朽が甚だしい部分については、新材で復元もしくは交換されている。

s_P8193236.jpg

客溜の先には、2階に設けられた迎賓・社交用の部屋に続く階段が設けられている。大理石でできた豪華な階段には赤い絨毯が敷かれている。

s_P81932352.jpg

銀行や郵便局などの金融機関の営業室には、かつてはカウンターの上にスクリーンが必ず設けられていた。旧大和田銀行は、銀行店舗としては最後の所有者となった福井銀行が敦賀市に寄贈する昭和52年(1977)まで使われていたが、その時点でスクリーンは既に撤去されていたため、修復に際しては竣工当時の写真をもとに復元された。

s_P8193206.jpg

旧大和田銀行本店の構造は先述のとおり鉄骨煉瓦造(一部鉄筋コンクリート造)であるが、着工は関東大震災後の大正14年(1925)である。大震災を機に煉瓦造は影を潜めていった中で、旧大和田銀行本店や旧札幌控訴院庁舎(大正15年)のように、鉄骨や鉄筋コンクリートとの混構造による煉瓦造・石造建築は震災後もいくつか建てられている。

s_P81932082.jpg

旧営業室の天井。照明器具は創建当初のものが取り外された状態で地階の倉庫に多く保管されており、再利用できるものは修復に際し改めて取りつけられた。

s_P81932072.jpg

金庫室。

s_P8193211.jpg

博物館の展示ケースも、旧営業室の雰囲気を損なわないような色調、規模のものになっている。

s_P81932042.jpg

2階の迎賓・社交用の部屋に続く階段は、客溜だけではなく、営業室の内側からも出入りできるようになっている。

s_P81932192.jpg

2階の貴賓室。寄木張りの床や板張りの腰壁で重厚に仕上げられている。敦賀を訪れた賓客を迎えるために用意された部屋である。また、会議室としても使えるようになっている。修復前は展示室として使われており、ここも往年の面影は無かったが、修復に際し見事に甦った。

s_P8193218.jpg

壁布と窓のカーテンは復元品であるが、壁や床の造作、カーペット、椅子、テーブル、ソファは当初からのもの。

s_P81932202.jpg

ステンドグラスを嵌め込んだキャビネットも、竣工当初からのものである。

s_P81932232.jpg

竣工当初の古写真。
天井に電気扇がある点を除けば、修復後の姿と寸分変わりないのが分かる。

s_P8193221.jpg

2階には貴賓室に加え、社交場としてビリヤード台を備えた撞球室が置かれ、残りのスペースは重役室など銀行の執務室に充てられていた。写真は旧撞球室部分を含む区画で、現在は2室を1室にして展示室として使われている。(床に引かれた黒い線でかつての仕切り壁の位置が分かるようになっている。)

s_P8193230.jpg

3階は演壇を備えた1室の大広間になっており、公会堂として市民に開放されていた。

s_P8193228.jpg

創建当初は床は畳敷きであった。
今日と違って当時は椅子式の生活は一般的ではなく、畳の上での生活が主流であったことから、幅広い階層の一般市民の利用を想定し、床は畳敷きにしたものと思われる。
 
s_P8193231.jpg

3階に展示されている旧エレベーターの機械と箱。これも重要文化財指定に際し、建物に併せて指定されるとの事。当時、北陸でエレベーターを備えた建物は、極めて珍しかったとされる。

s_P81932262.jpg

正面に配された演壇。
両脇に円柱を配し、アーチで飾る。

s_P81932272.jpg

演壇周りの装飾。
アーチ上部中央の時計は現在は動かなくなっているが、創建当時からのものである。

s_P8193240.jpg

市民に開放されていたのは3階の公会堂の他、地階には京都・都ホテル直営のレストランも設けられていた。銀行営業室への入口の脇、ガラス製の屋根がある部分が入口となっていた。なお、その奥がエレベーターも備えた2・3階への出入口となっており、ここが公会堂への入口であったと思われる。

s_P8193241.jpg

修復前は地階への入口は埋められており、その上に二代大和田荘七の石像が置かれていた。修復に際し発掘され、ガラス張りの屋根も古写真に基づき復元された。(石像はすぐ横に移設された)なお、復元はされたが閉鎖されており、現在はここから地階に入ることはできない。

s_P8193214.jpg

旧レストラン跡。床は旧営業室と似た煉瓦色のタイルを敷き詰め、腰壁には白タイルと一部大理石を貼っている。

s_P8193213.jpg

本格的な西洋料理を食べられる敦賀でも数少ない店として、多くの市民が利用したという。

s_P8193212.jpg

地階のトイレは創建時の姿をよく残していたことから、現在はトイレとしては使用せず、保存されている。

s_P8193202.jpg

昭和戦前期の銀行建築としては、旧大和田銀行本店は三井本館(旧三井銀行本店・昭和4年竣工)に次いで、2例目の国指定重要文化財と思われる。

なお、裏にある初代本店の建物(みなとつるが山車会館別館)は明治の和風建築であり、内部には銀行時代の金庫室や座敷が残されているという。将来は新旧二代の建物が一体的に保存・公開されることを願っている。
スポンサーサイト

第1026回・旧駒井家住宅

s_PC0512882.jpg

京都市左京区北白川伊織町にある旧駒井家住宅は、我が国遺伝学の権威であった動物学者で京都大学名誉教授・駒井卓博士の私邸として、昭和2年(1927)にヴォーリズ建築事務所の設計により建てられた。現在は駒井家から公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、修復を進めながら一般公開されている。京都市指定有形文化財。

s_PC0512622.jpg

白川疏水沿いに建つ旧駒井家住宅。周囲は大正末期から昭和初期に形成された住宅街で、京都帝国大学にも近く、「学者村」と言われた地域。以前紹介した京都大学人文科学研究所も近くに建っている。

s_PC051264.jpg

駒井卓(1886~1972)博士は動物遺伝学、進化論等を研究していた動物学者で、京都、東京両帝国大学の教授を務めたほか、第二次大戦後設立された国立遺伝学研究所の部長も務めた人物。

s_PC051280.jpg

駒井博士は大正12年(1923)から2年間、静江夫人を同伴して米国コロンビア大学へ留学、帰朝後は京都帝国大学教授に就任する。その後、昭和2年(1927)に当時宅地開発中であった北白川の地に新居を建てた。

s_PC051278.jpg

ヴォーリズ建築事務所に設計を依頼したのは静江夫人の縁によるものと推測されている。夫人は神戸女学院で英文学を学び、ピアノを弾き、洋食を得意料理とする当時としては極めてハイカラな女性であったようだ。

s_PC051279.jpg

敗戦後しばらく米軍将校の宿舎として接収されていた時期を除き、駒井夫妻はこの家で暮らし、昭和47年(1972)に駒井博士が死去、そして翌年に静江夫人も世を去った。

s_PC051282.jpg

駒井夫妻亡き後の家は、企業の研修所兼保養所として平成9年(1997)まで使用されていた。その後、平成14年(2002)に駒井家から公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈され、現在は駒井夫妻の記念館として公開されている。

s_PC0512652.jpg

平成10年(1998)には昭和期の洋館としては初めて、京都市の有形文化財に指定された。

s_PC051277.jpg

玄関。旧駒井家住宅はヴォーリズが得意とし、昭和初期の洋風住宅に流行したスパニッシュスタイルの住宅である。

s_PC051273.jpg

玄関から廊下及び階段を望む。

s_PC051309.jpg

1階には居間、食堂、サンルーム、和室、台所等が配されている。
規模としては中規模程度だが、コンパクトにまとまった造り。

s_PC051289.jpg

サンルーム。
窓には全て内側に網戸が取り付けられている。

s_PC0513102.jpg

居間の造りつけソファ。

s_PC051290.jpg

食堂。テーブルもヴォーリズの設計。家具や照明器具も創建当時からのものがいくつか残されており、また駒井家の協力により、持ち出された家具も徐々に戻されてきている。

s_PC051272.jpg

和室。真ん中の正方形の畳は掘りごたつになっている。

s_PC051268.jpg

淡い黄色の色硝子が嵌め込まれた階段室の窓。

s_PC051302.jpg

階段はヴォーリズ建築に共通する、使いやすさを重視した緩やかなものになっている。

s_PC051300.jpg

2階から望む階段。2階には駒井博士の書斎や夫妻の寝室が配されている。

s_PC051296.jpg

造りつけの箪笥がある2階の1室。
ヴォーリズの住宅建築の特色である合理性重視の姿勢が随所に見られる。

s_PC051271.jpg

駒井博士の書斎。蔵書もそのまま残されている。
蔵書の保護のためか、窓には色付きのブラインドが下ろされている。

s_PC051295.jpg

2階にもサンルームを設けている。
創建当初は2階は吹きさらしのベランダであったが、その後硝子戸を入れてサンルームに改造されている。

s_PC051314.jpg

主屋の脇にある二階建ての離れ。内部は畳敷きの和室になっている。元々は書生部屋として建てられたが、米軍接収中は駒井夫妻の住居となっていた。他、敷地内には洗濯室や、ダーウィンの邸宅を模した温室も現存する。

s_PC0513182.jpg

塀に穿たれたアーチ型の通用口。半円形にくり抜かれた扉がお洒落。

s_PC051325.jpg

公開日は毎週金・土曜。

第1025回・松籟閣(旧平澤家住宅)

s_P613128722.jpg

新潟県長岡市朝日にある松籟閣(しょうらいかく)は、「朝日山」「久保田」などの銘柄で知られる酒蔵、朝日酒造㈱の初代社長である平澤與之助が昭和初期に建てた自邸。平成16年(2004)の中越地震では大きな被害を受けたが、その後修復された。現在は同社の迎賓館として使用するとともに、一般公開も行われている。国登録有形文化財。

s_P6131192.jpg

朝日酒造の工場及び製品倉庫に隣接して建っている松籟閣。平成13年(2001)まで平澤家の住居として使われていたが、製品倉庫新築のため、隣接する現在地に曳家で移動すると同時に改修を行い、迎賓館に生まれ変わった。平成15年(2003)には国の登録有形文化財に認定される。

s_P61311942.jpg

平成16年10月23日に発生した中越地震によって、松籟閣及び朝日酒造の施設は大きな被害を受ける。大正9年(1920)の株式会社設立に際し建てられた洋館建ての事務棟は取り壊されたが、松籟閣は室内の壁が崩落するなど大きな被害を受けたものの、翌年より修復に着手、ほぼ旧状どおりに復された。

s_P61312792.jpg

創業家である平澤家は、天保元年(1830)には現在地で酒造業を始め、「久保田屋」の屋号を名乗っていた。大正9年(1920)には朝日酒造㈱を設立する。会社は順調に発展し昭和初期には現在の基盤が形成された。社長の平澤與之助は社業の傍ら、県会議員を務めるなど政治家としても活動した。

s_P6131281.jpg

昭和初期には旧宅の改築にとりかかり、昭和9年(1934)に洋館や大広間棟を備えた新しい邸宅、現在の松籟閣が完成する。なお、かつて洋館の奥にあった大広間棟は、戦後の昭和22年に売却、移築され現存しない。

s_P613128322.jpg

玄関脇に設けられた洋館は、既に完成していた日本家屋に増築する形で、昭和9年に清水組の設計施工により建てられた。設計の主担当を務めたのは、同じく清水組が手掛けた熱海の旧根津嘉一郎別邸洋館や、新潟市の旧新津常吉邸、また今は無い東京五反田の旧正田邸の設計者として知られる大友弘。

s_P61312882.jpg

3種類の入母屋造の屋根が重なる正面玄関が印象的な日本家屋は、小千谷市でも現在も営業している㈱安達工務店の設計施工で、昭和9年の洋館増築時点ではすでに完成していたという。間取りなどに当地の伝統的な民家の特徴を備えている。

s_P6131199.jpg

式台を備えた正面玄関。

s_P6131272.jpg

脇に設けられた内玄関。見学の際はここから館内に入る。

s_P61312122.jpg

日本家屋は銘木、巨木がふんだんに使用された贅沢な造りである。写真の内玄関廊下の床板には、ケヤキの巨木の一枚板が使われている。

s_P6131210.jpg

内玄関と正玄関の間に設けられた小座敷。

s_P6131221.jpg

正玄関の脇に設けられた火頭窓(花頭窓)には、ケヤキを極限まで細く削って組み立てられた繊細な建具が嵌め込まれている。

s_P6131239.jpg

正玄関から廊下を進むと、洋館の内部につながっている。洋館の内部は応接間1室のみである。

s_P6131227.jpg

応接間は正面に暖炉を備え、その両脇にステンドグラスを嵌め込む。

s_P61312292.jpg

ステンドグラス。

s_P61312282.jpg

天井の照明と台座の装飾。

s_P61312322.jpg

天井の縁周りの装飾と換気口部分を拡大。

s_P6131224.jpg

洋館前の廊下突き当りに配された円形窓。

s_P613126622.jpg

正玄関を進むと現れる茶の間。
天井は折上格天井、床柱はヤシの木を用いている。

s_P6131219.jpg

茶の間から中庭を望む。
書院窓や欄間に、繊細で凝った造作の建具が見られる。

s_P6131216.jpg

茶の間に隣接する仏間。仏壇の上には神棚を設ける。
なお、茶の間と仏間の裏には食事室として造られた和洋2室がある。

s_P6131201.jpg

内玄関棟にある旧子供部屋。

s_P61312022.jpg

旧子供部屋の欄間には千鳥の装飾が施されている。

s_P6131258.jpg

茶の間に面した中庭を望む。突き当たりに写っているのが洋館で、中庭に面した廊下は和風の造りとなっている。かつては写真左側の位置に大広間棟の渡り廊下が続いており、中庭は四方を囲まれる構成になっていた。

s_P6131270.jpg

洋館の前から中庭を望む。寄棟屋根の平屋建ては寝室棟で、寝室と書斎の2室で構成されている。左側は茶の間のある主屋棟。

s_P6131247.jpg

寝室棟の書斎。
最も私的な空間であるため、床の間や天井、建具に意匠を凝らした数寄屋風の造りとなっている。

s_P61312492.jpg

書斎から中庭を望む。
縁側の硝子戸は下半分を摺り硝子とし、上部には菊花状の透かし彫り装飾が施されている。

s_P6131250.jpg

書斎に隣接した寝室は一転して洋風の造りとなっている。昭和9年の洋館増築時に清水組の手で洋室に改装されたものである。重厚華麗な応接間と異なり、モダンなアールデコ調の洋室となっている。

s_P61312442.jpg

アールデコ調のステンドグラスが嵌め込まれた寝室の円形窓。

s_P6131282.jpg

建物見学が可能なのは、催し等を除き基本的に平日のみである。(無料)
朝日酒造の酒蔵見学や併設の売店、飲食店利用と併せて見学するのもよい。

記事更新のお知らせとお見舞い

いつも弊ブログを御訪問頂き、ありがとうございます。
初期の記事のうち、鳥取県鳥取市の仁風閣(平成21年10月26日投稿分)についての写真及び本文を全面的に更新しました。ブログ開始当初の記事は、写真・本文共に御世辞にもよいとは言えないものが多いので、今後も適宜更新していくつもりです。

さて、この度の鳥取震災で被災された全ての方に対し、心よりお見舞い申し上げます。
一日も早い災害の収束と、早期の復旧・復興が実現されることををお祈り申し上げます。

白壁の土蔵群が残る倉吉市で被害がでている他、老舗の温泉宿が並ぶ三朝温泉でも客足が遠のくなどの報道を聞きます。いずれの町もいつかは弊ブログで紹介したい建物や街並みがあるだけに、心が痛みます。
熊本も鳥取も、いつかはこれらの地の建物を紹介する記事を投稿できればと思います。

第15回・仁風閣(池田侯爵家別邸)

201610232222c.jpg

第1024回・高松市水道資料館(旧御殿浄水場事務室・ポンプ室)

s_P6270512.jpg

s_P62705492.jpg

高松市鶴市町鶴市町御殿にある高松市水道資料館は、大正6~7年(1917~18)に建てられた御殿浄水場の旧事務室及びポンプ室を改修して昭和62年(1987)に開館した施設。戦災で中心市街地の大半が焼失した高松市にあって、希少な戦前の木造洋風建築である。旧事務室・ポンプ室のいずれも国の登録有形文化財である。

s_P6270523.jpg

高松市の郊外、香東川沿いにある御殿浄水場は、高松における最初の近代上水道として建設され、大正10年(1921)から給水を開始した。現在資料館として公開されている2棟は、写真左側の旧事務室が大正6年(1917)、右側の旧ポンプ室が大正7年(1918)に完成、共に昭和61年(1986)まで使われていた。

s_P6270548.jpg

現在、浄水場の機能は敷地内に新築された新しい建物に移っている。旧事務室とポンプ室は、高松における近世以来の上水道の歴史についての紹介や、現在の水道事業についての展示を行う施設として、無料で公開されている。

s_P62705472.jpg

旧ポンプ室。現在は歴史館として高松の上水道の歴史を紹介すると共に、65年間にわたって稼働していたポンプ等の設備をそのままの状態で保存・展示している。

s_P6270525.jpg

外壁は基壇から腰壁にかけて赤煉瓦積みとし、その上部は横羽目板張りとする。

s_P6270522.jpg

水滴を逆さにしたような独特の意匠の妻飾り。内側には旭日のような飾りを施す。
その下には半円形の明り取り窓を設けている。

s_P6270516.jpg

大正時代の建物らしく、変化に富んだ華やかで美しい洋館である。戦前の水道施設で資料館などとして公開されているものは全国各地に存在するが、煉瓦造もしくは鉄筋コンクリート造が多く、高松のように木造の建物は珍しい。

s_P6270532.jpg

旧ポンプ室入口。煉瓦造の控壁が設けられている。

s_P6270534.jpg

旧ポンプ室内部。他の水道資料館では内部が改装され、古い設備は撤去されているところが多いが、高松市水道資料館では内部の設備も含めよく保存されている。

s_P62705382.jpg

内部は一部が煉瓦造の地階となっており、地階部分には香東川から取水するためのポンプ(低揚ポンプ)を設置、1階部分には浄水場で浄化された水道水を配水池に送り込むためのポンプ(高揚ポンプ)がそれぞれ設置されている。

s_P6270539.jpg

地階から1階は吹き抜けになっている。

s_P6270541.jpg

御影石の階段や鉄パイプ製の手摺なども創建当時からのものと思われ、内外装共に大正期の造りが非常に良く残されている。

s_P6270544.jpg

軽快で明るい木造部分と重厚な煉瓦壁が一体化した、魅力的な内部空間。

s_P6270527.jpg

旧ポンプ室から旧事務室を望む。
両者をつなぐ通路に敷き詰められた煉瓦は、かつて浄水場で使用されていたもの。

s_P6270529.jpg

現在はPR館として使われている旧事務室。
事務室や職員の宿直室として使われていた。旧ポンプ室に比べるとやや単調な外観だが、角に設けられた玄関周りには賑やかな意匠が施されている。

s_P6270514.jpg

旧事務室は基壇を煉瓦積、腰壁は旧ポンプ室とは異なり、縦羽目板張りとする。
窓も旧ポンプ室とは異なる形状となっている。

s_P6270513.jpg

玄関は旧ポンプ室よりも旧事務室のほうが派手に造られている。
入口の両脇には円柱を立て、アーチ型の欄間を設ける。また、上部には半円アーチの破風を設けている。

s_P6270505.jpg

旧事務室の玄関内部。

s_P6270507.jpg

内部は高松市の水道事業についてPRする内容の展示が為されている。

s_P6270511.jpg

旧ポンプ室・旧事務室は共に高松に残る希少な戦前の公共建築物であるが、建物自体も非常に美しい大正期の木造洋館である。水道資料館として公開されていると同時に、周囲の芝生広場と共に写真撮影や各種の催しに利用されている。

s_P62705462.jpg

敷地内には他に、同時期に建設された旧倉庫(現資料保管庫)、門柱、擁壁、集水埋渠東方人孔(伏流水を取り込むための施設)が現存しており、いずれも国の登録有形文化財として追加登録されている。

(参考)高松市ホームページ 高松市水道資料館(旧御殿水源地建造物群)紹介

第1023回・スミス記念堂(旧須美壽記念禮拝堂)

s_PA011280.jpg

滋賀県彦根市本町三丁目、彦根城の堀端に建つスミス記念堂は、昭和6年(1931)に日本聖公会彦根聖愛教会の牧師で彦根高等商業学校の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏の祈願により、彦根城の旧・中濠端(現・外濠)に建設された和風礼拝堂。平成19年(2007)に現在地に移築された。国登録有形文化財。

s_PA011266.jpg

以前紹介した旧彦根高等商業学校講堂陵水会館がある滋賀大学彦根キャンパスの近くに建っている。和風の礼拝堂は、国の重要文化財に指定された奈良の日本聖公会奈良基督教会(昭和5年)があるが、スミス記念堂はほぼ同時期の建物である。

s_PA0112632.jpg

パーシー・アルメリン・スミス氏(1876~1945)は米国イリノイ州ディクソンに生まれ、明治37年(1904)に来日、広島高等師範学校へ英語教授として赴任した。大正14年(1925)に彦根高等商業学校に赴任、健康を害し米国へ帰国する昭和14年(1939)まで彦根に定住、キリスト教の布教活動や文化活動に従事していた。

s_PA011275.jpg

昭和6年(1931)、スミス氏は両親の慰霊のため、そして日米両国の人々の基督教を通じた交流を願って礼拝堂の建築を祈願する。スミス氏自ら醵出した多額の資金に日米双方からの醵金を加え、彦根の宮大工である宮川庄助氏の協力を得て、「須美壽記念禮拝堂」が完成する。

s_PA011282.jpg

キリスト教の普遍的精神と、彦根の風土と日本の精神を調和を目指したという礼拝堂は、花頭窓・唐破風・屋根などは、借景となっている彦根城をモチーフにしたものであるという。正面の扉や梁、屋根瓦、釘隠しなどには十字架や葡萄など、キリスト教に関連するモチーフが随所に織り込まれている。

s_PA011283.jpg

平成8年(1996)、都市計画道路の拡幅工事により礼拝堂は取り壊しの危機に瀕するが、移築活用を願う「スミス記念礼拝堂を彦根に保存する会」により解体保存される。保存運動はその後、彦根の各界各層有志によって平成15年(2003)に設立された「特定非営利活動(NPO)法人スミス会議」に引き継がれる。

s_PA011295.jpg

彦根市の協力により、旧所在地と同じく彦根城を望む堀端の現在地が再建用地として用意され、平成19年(2007)に再建が実現する。再建に際しては、彦根の各界各層有志による多額の醵金が寄せられた。

s_PA011284.jpg

現在はNPO法人スミス会議が建物を管理、一般公開を行うと共に催事等の会場としても貸し出しを行っている。

s_PA011270.jpg

正面の観音開きの扉は、上には葡萄と十字架、下には松竹梅の浮き彫りが施された和洋折衷の意匠。

s_PA011273.jpg

周囲に欄干を巡らせる。

s_PA011274.jpg

彦根城天守閣にもある花頭窓に、斜め格子の建具を嵌め込んでいる。

s_PA011286.jpg

窓は最も洋風の色合いが濃い。

s_PA011291.jpg

側面に設けられた非常に幅の狭いドア。
創建当初からのものと思われる硝子製のドアノブが取りつけられている。

s_PA0112722.jpg

正面の唐破風の下の懸魚(げぎょ)には十字架が彫り込まれており、その下の蛙股(かえるまた)の中にも十字架が彫り込まれている。梁には葡萄と鳩の浮き彫りが見える。

s_PA0112712.jpgs_PA0112692.jpg
s_PA0112782.jpgs_PA0112762.jpg

屋根瓦など、至る所に十字架と葡萄をあしらっている。

s_PA011267.jpg

なお、一般公開は土日のみ実施している。訪問は土曜日であったが、このときは臨時休館日であった。残念!
内部はまた再訪の機会があれば紹介したい。

第1022回・碌山美術館碌山館

s_P91107542.jpg

長野県安曇野市穂高にある碌山美術館は、当地出身の彫刻家・荻原碌山(守衛)の作品と資料の蒐集、保存および公開を目的として昭和33年(1958)に開館した個人美術館である。開館当初からの施設である碌山館は戦後建築であるが、手作り感のある煉瓦造風の建物は、戦後の主流となった合理的・機能的なモダニズム建築とは一線を画している。国登録有形文化財。

s_P9110761.jpg

キリスト教教会堂を思わせる外観の碌山館は開館の前年、昭和32年(1957)に建築家で早稲田大学教授の今井兼次(1895~1987)の設計、清水建設の施工で竣工した。鉄筋コンクリート造であるが外装に煉瓦が用いられている。

s_P9110726.jpg

荻原碌山(荻原守衛、1879~1910)は、近代日本を代表する彫刻家の一人で「東洋のロダン」とも称された。代表作に東京国立近代美術館所蔵の「女」などがある。

s_P9110729.jpg

設計者の今井兼次は、合理的・機能的なモダニズム建築からは距離を置き、建築に職人の手の技を残す作品を造った建築家である。設計作品として碌山館のほか、早稲田大学図書館(大正14年)、皇居内の桃華楽堂(昭和41年)などがある。碌山館は今井の作風がよく現れた作品である。

s_P91107592.jpg

荻原碌山はカトリックの洗礼を受けたキリスト教信者であり、碌山館の外観がキリスト教教会堂を思わせるのはそのためと思われる。なお、今井兼次もキリスト教信者で、長崎の日本二十六聖人記念聖堂(昭和37年)や教会の設計も多く行っている。

s_P9110731.jpg

外壁に積み上げられた煉瓦は色調、形状ともに不揃いなものをあえて用いており、陰影に富んだ壁面を作り出している。

s_P9110760.jpg

横に配された十字型のオブジェも建設当時のものかも知れない。

s_P9110733.jpg

背面。円形窓にはステンドグラスを入れる予定であったが建設費が不足していたことから、今井が透明ガラスに油絵具で色付けを施した窓が嵌め込まれている。

s_P9110736.jpg

建設に当たっての一番の問題は、資金難であった。
創業者である相馬愛蔵・黒光夫妻が荻原碌山の後援者であったことから、新宿中村屋が多額の費用を出したがそれでも不足していた。これを受け関係者による募金運動が行われ、国内外の約30万人から募金が寄せられたという。

s_P9110738.jpg

また、建設工事に際しては、地元の中学生が煉瓦や屋根瓦の運搬を手伝うなどの協力があったという。

s_P9110724.jpg

現在、多くの美術館がある安曇野でも屈指の観光名所となっている。

s_P9110748.jpg

玄関扉に取り付けられた、キツツキを象ったノッカー。

s_P91107492.jpg

玄関扉の取手は天使像の形。
これらのノッカーや取手は美術館建設に尽力した彫刻家・笹村草家人(1908~1975)の製作。

s_P9110742.jpg

入口をくぐると展示室の前に小さな前室がある。この奥に2層吹き抜けの展示室がある。

s_P9110744.jpg

煉瓦積みの素朴な造りの暖炉が設けられている。
煤の付き具合からみて、冬場は実際に火を焚いているようである。

s_P9110758.jpg

施工を行った清水建設のホームページにて碌山館の建設経緯が紹介されている。
しみずアーカイブズ

s_P9110764.jpg

夕暮時の碌山館。

第1021回・旧三井家下鴨別邸

s_PA0314832.jpg

京都市左京区下鴨宮河町にある旧三井家下鴨別邸は、三井財閥の三井家が、祖先を祀る祖霊社参拝に際しての休憩所及び例祭の場として使うため、一族11家で共有していた別邸。敗戦後の財閥解体に伴い国の所有となり、近年まで京都家庭裁判所所長官舎として使用されていた。平成23年に国の重要文化財に指定されたのを機に修復・整備が行われ、平成28年10月より一般公開されている。

s_PA031517.jpg

旧三井家下鴨別邸は、下鴨神社の「糺の森」の南側にあり、建物だけではなく、庭園及び門や塀まで往時の姿をよく残している。この地は明治31年(1898)に三井家の所有となり、同42年に三井家の祖霊社「顕名神社」が遷座された。その後、大正14年(1925)に三井財閥総帥で三井北家(総領家)当主である三井八郎衛門高棟によって下鴨別邸が整備された。

s_PA0314472.jpg

下鴨別邸の建物は、写真の玄関棟と、主屋、茶室の3棟で構成されている。 主屋と茶室は他所からの移築で、玄関棟は別邸整備に伴い大正14年に新築された。なお、背後に写っているのは主屋の望楼で、玄関棟は木造平屋建。

s_PA031445.jpg

玄関棟の背後に建っているのが木造3階建、望楼を備えた主屋。明治13年(1880)に鴨川東岸に建てられた旧木屋町別邸を下鴨に移築したもの。写真中央は内玄関で、元々の旧木屋町別邸の玄関と思われる。

s_PA031502.jpg

玄関棟の内部。玄関脇の広間は書院造を基調としながらも天井が高く、洋室として使えるように造られている。実際、別邸時代は洋家具が置かれていたという。下鴨別邸は敗戦による財閥解体まで、約20年にわたり三井家の例祭の場として使われた。

s_PA031499.jpg

財閥解体により、顕名神社は二条の油小路邸に移され(その後再度移転、現在は東京向島の三囲神社内にある)、別邸は昭和24年(1949)に国有化、隣接する京都家庭裁判所の所長官舎となった。なお、油小路邸の建物は空襲で壊滅した東京の本邸再建のため、昭和27年に移築されている。(現在は江戸東京たてもの園で保存。当ブログ過去記事参照)

s_PA031506.jpg

玄関棟の洗面台は洋風の造り。壁面には当時は新建材として珍しかったベニヤ板が使われている。

s_PA031456.jpg

旧木屋町別邸の造りをそのまま残している主屋の一階座敷。欄間は元々はあったものと思われるが、現在は失われている。

s_PA031455.jpg

主屋の中庭。

s_PA031468.jpg

旧木屋町別邸の玄関と思われる内玄関。

s_PA031461.jpg

主屋の洗面室は玄関棟と同様洋風の造りが見られ、移築に際し改造されているものと思われる。
建具には、中華風の意匠も見られる。

s_PA031509.jpg

主屋の浴室。

s_PA031464.jpg

主屋から茶室へ続く渡り廊下。
茶室は建築年代は不詳だが、明治初期頃の建物と考えられている。

s_PA0314522.jpg

主屋一階座敷の床の間。簡素な造りである。
なお、主屋の二階及び中三階、望楼は特別公開の時期を除き、通常は非公開となっている。

s_PA031460.jpg

主屋一階座敷から庭園を望む。
障子の硝子部分が極めて大きく造られている。

s_PA031457.jpg

主屋一階の縁側。奥に見えるのは茶室。

s_PA031474.jpg

建物内部を見学した後、縁側から庭園に出ることができる。
庭園から望む主屋全景。

s_PA031470.jpg

庭園から玄関棟を望む。

s_PA031479.jpg

同じく、茶室を望む。

s_PA031477.jpg

庭園の池越しに見る主屋。
かつては鴨川の水面にその姿を映していたものと思われる。

s_PA031478.jpg

庭園側から見た望楼。主屋は木屋町別邸の形状を変えることなく、そのまま下鴨に移築したことが判明しており、望楼も元々は鴨川や東山の眺望を楽しむために造られたものと思われる。

s_PA0314442.jpg

望楼を反対側から望む。
下の屋根に明り取り用の硝子製の瓦が見える。

s_PA0314812.jpg

現存する三井家の旧邸宅の遺構としては旧下鴨別邸、先述の旧油小路邸のほか、旧札幌別邸(現北海道知事公館)、旧綱町別邸(現三井倶楽部)、旧拝島別邸(現啓明学園)がある。また京都市内に残る三井家関係の遺構として、四條烏丸の京都三井ビルには旧三井銀行京都支店の外壁の一部と、三井家当主上洛の際に使われていた貴賓室が保存されている。

*************************************

s_PA0314342.jpg

旧三井家下鴨別邸から北に徒歩数分ほどの場所にあり、「糺の森」の東側に建っている谷崎潤一郎の旧邸「潺湲(せんかん)亭」。元々は商家の隠居所として明治44年(1911)に建てられ、谷崎は昭和24年(1949)から7年間この家に住んでいた。

s_PA0314392.jpg

「潺湲亭」は、谷崎晩年の作品「夢の浮橋」の中では主人公の住まいとして登場し、写真の門を始め母屋や茶室、離れ(実際は谷崎の書斎)が詳細に描写されている。異なるのは北東角の土蔵が存在しないのと、門の脇に簡素な造りの洋館(元の所有者により昭和11年に増築されたもの)が建っている点だけと思われる。

s_PA031436.jpg

現在は日新電機㈱の迎賓館「石村亭(せきそんてい)」として大切に保存されている。公開はされていないが、機会があれば是非見学したい邸宅である。

第1020回・聖母女学院本館(旧陸軍第十六師団司令部庁舎)

s_PA031431.jpg

京都市伏見区深草田谷町にある学校法人聖母女学院の本館は、かつての旧陸軍第十六師団司令部庁舎であり、明治41年(1908)に建てられた。現存する旧師団司令部庁舎の中でも数少ない煉瓦造の本格的な洋風建築である。第二次大戦後の昭和24年(1949)に聖母女学院の所有となり、今日に至る。国登録有形文化財。

s_PA0314282.jpg

正面全景。明治38年(1905)に第十六師団が設置され、駐屯地として京都府紀伊郡深草村(当時)が選ばれた。これを受け、煉瓦造2階建ての司令部庁舎が僅か8カ月という短い工期で建設された。

s_PA0313992.jpg

陸軍第十六師団は、日露戦争に際し既存の師団を総動員したことにより、本土駐留の師団が皆無となった事態を受けて新たに増設された4個師団(第十三~十六師団)のひとつである。

s_PA031422.jpg

司令部庁舎の周辺には各種の軍事施設が設けられ、1万人以上の軍人が移住してきた。これにより農村地帯であった深草村は急速に発展、現在もこのときに整備された「師団街道」「第一軍道」など、当時の名残が随所に残されている。

s_PA031408.jpg

敗戦後、陸軍の解体と共に第十六師団も廃止され、司令部庁舎はしばらくそのまま残されていたが、昭和24年(1949)に聖母女学院が国から払い下げを受け、聖母学院の校舎として使われることになった。

s_PA0313982.jpg

聖母女学院は、大正12年(1923)にフランスから来日した修道女のメール・マリー・クロチルド・リュチニエによって大阪で開かれたキリスト教カトリック系の学院である。昭和7年(1932)に大阪府寝屋川市に建てられた聖母女学院高等女学校の校舎は、現在聖母女学院香里キャンパスとして使われており、こちらも国の登録有形文化財となっている。

s_PA031416.jpg

背面からの眺め。敷地内には本館のほかにも、旧偕行社を始め、旧十六師団の施設がいくつか現存している。旧偕行社は非公開であるが、木造平屋建てで、以前当ブログで紹介した旧善通寺偕行社と似た雰囲気の建物である。

s_PA031402.jpg

改めて正面全景を望む。正面中央部のマンサード屋根の上部にあった棟飾りが失われていることを除けば創建当初と殆ど変らない佇まいである。なお、三角破風の中央、現在は学院の紋章が嵌め込まれているところには、師団司令部であった頃は菊の御紋が嵌め込まれていた。

s_PA031417.jpg

銅版葺きの屋根には円形の屋根窓と暖炉用の煙突が並ぶ。煙突は焦茶色の焼過煉瓦が用いられている。

PA031411_convert_20161016102946.jpg

現在は校舎としての役目は周囲の新しい建物に譲り、聖母女学院の法人事務局の事務所や会議室などに使われている。なお、旧師団長室が現在は理事長室になっている。

s_PA031421.jpg

正面の両端に設けられた大きな半円窓が、付柱やアーチ型玄関で飾られた中央部分と共に、建物の外観に変化をつけている。白い御影石をアーチの周囲に放射状に配した姿は大阪の柴島浄水場ポンプ室を連想させる。

s_PA031396.jpg

正面のアーチ型入口。
アルミサッシのガラス戸は風の吹き込みを避けるため聖母女学院所有となってから取り付けられた。

s_PA031389.jpg

アーチをくぐった先に見える正面玄関。かつてはここまで吹き曝しであった。

s_PA031390.jpg

受付の窓の位置が異様に高いのは、正面玄関から出入りする軍人は馬に乗って登庁していたためだとか。

s_PA0313922.jpg

正面玄関天井、照明台座の漆喰飾り。

s_PA031378.jpg

玄関ホール及び階段室。

s_PA0313742.jpg

正面階段。

s_PA031379.jpg

階段下に設けられた戸棚。書類入れとも言われるが、正確には何に使われていたのかは不明とのこと。

s_PA031360.jpg

聖母女学院本館の見学は、事前申込制で平日のみ可。予め断っておけば展示物のある部屋など一部を除き、写真撮影もできる。

s_PA031359.jpg

廊下。

s_PA031355.jpg

両端に設けられている側面階段。
天井が漆喰塗ではなく板張りなのは、短期間の工期で建てられたためであろうか。

s_PA0313572.jpg

側面階段の親柱。
あまり他では見かけない形をしている。

s_PA031387.jpg

大半の部屋には大理石で飾られた暖炉が設けられている。
1階は黒大理石、2階は白大理石が用いられている。

s_PA031353.jpg

s_PA031386.jpg

工期が短かったためか、暖炉の意匠も明治の洋館としては比較的簡素なものが多い。

s_PA031364.jpg

現在は理事長室となっている旧師団長室(非公開)や会議室の暖炉は装飾豊かなものとなっている。ただし全体として見ると装飾は控えめで簡素な造りの建物である。

s_PA031404.jpg

旧陸軍の師団司令部庁舎は各地にいくつか現存するが、煉瓦造は旧第十六師団のほか、東京の旧近衛師団第一司令部庁舎(明治43年(1910)竣工、国指定重要文化財)のみである。現在は東京国立近代美術館工芸館として使われており、聖母女学院と負けず劣らずの美しい建物である。

s_PA0314002.jpg

また、鉄筋コンクリート造では大阪の旧第四師団司令部庁舎(昭和6年(1931)竣工)がある。大阪城天守閣に隣接して建つロマネスク調の洋風建築で、近年まで大阪市立博物館として使われていた。博物館移転後は長らく空家となっていたが、漸く改修、再利用されるようである。

第1019回・宮津カトリック教会聖ヨハネ天主堂

s_P81603102.jpg

京都府の北部、丹後地方の玄関口に当たる宮津市の中心街に、現在もミサを行う現役の聖堂としては日本で最も古い聖堂がある。明治29年(1896)に建てられたカトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂は、国内に現存するキリスト教会の施設としても、最も古いもののひとつである。

s_P8160313.jpg

カトリック宮津教会は宮津市字宮本にあり、市役所に隣接した位置にある。現在も毎週日曜日にはミサが行われている現役の教会であり、ミサの時間帯を除けば、内部の拝観も可能である。

s_P8160314.jpg

明治21年(1888)、パリ外国宣教会のフランス人宣教師、ルイ・ルラーブ神父が丹後・但馬・若狭でのキリスト教布教のため、宮津に赴任した。当初は借家に教会を置いたが、その後、家主の田井五郎衛門は洗礼を受け、家屋と敷地を教会へ寄進した。

s_P8160308.jpg

これを受けて教会堂を新築することとなり、明治29年、現在の天主堂が完成した。内部は畳敷きとなっている和洋折衷の聖堂は、設計はルラーブ神父、施工は日本人の大工・大井正司の手による。

s_P8160309.jpg

京都府下では明治23年(1890)に、京都市三條河原町のカトリック河原町教会聖ザビエル天主堂(旧聖堂は明治村に移築)が既に建っており、宮津の聖堂を建てる際の参考になった可能性も考えられる。

s_P8160327.jpg

内部は現在に至るまで当初の造りをほぼそのまま残しているが、外観は昭和2年(1927)の丹後大震災で被害を受けたため、正面をモルタル塗り、他の3面を下見板張りとする現在の姿に改装されている。

s_P8160329.jpg

石造風に仕上げられた正面とは印象の異なる、下見板張りの側面。

s_P8160305.jpg

創建時、窓の色ガラスはフランスからの輸入品が嵌め込まれたという。

s_P8160302.jpg

全く別の建物のような背面。

s_P81603032.jpg

ルラーブ神父は明治18年(1885)の来日以来、56年間日本で宣教活動を続けたが、昭和16年(1941)、83歳で死去。

s_P8160321.jpg

今年(平成28年・2016年)で、創建から120年を迎える。

s_P8160315.jpg

明治29年創建当初の造りを残す聖堂の内部は、通常写真撮影は禁止とのことにつき、本記事の写真も入口の手前側までとさせて頂く。

s_P8160316.jpg

「奉献 洗者聖約(?)翰 耶蘇降生一千八百九十六年 明治丙申二十九年五月六日」

献堂年の表示が和暦・西暦併記で、和暦には干支も記されている。
「ヨハネ」は漢字で「約翰」だが、ここでは異なる漢字を用いているのかも知れない。

s_P8160318.jpg

花びらのような、または旭日のようなステンドグラス。

s_P8160317.jpg

聖堂内部については、こちらのページで見ることができる。データが10年以上前で少々古いが、当時の神父による建物保存と登録文化財制度についての意見も興味深い。

s_P81603222.jpg

明治以降、京都には京都市内を中心に数多くのキリスト教会が設けられ、先述の聖ザビエル天主堂など質の高い施設が多く建てられた。カトリック宮津教会聖ヨハネ天主堂もそのひとつと言える。
プロフィール

syoukou

Author:syoukou
(ブログについて)
現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
写真は特記しない限り管理人の撮影です。また絵葉書等の古写真は管理人の所蔵品、もしくは訪問先の展示品を撮影したものです。利用・転載等希望される場合は管理人まで御連絡頂けると幸いです。

(リンクについて)
リンクはフリーです。なお、リンクを張らせて頂いている他の方のページは一部を除き相互リンクとなっております。

(コメントについて)
記事と関係の無いコメントは削除させて頂く場合もあります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード