第1039回・旧ファーナム住宅(白滝山荘)

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広島県尾道市(旧因島市)因島重井町にある旧ファーナム住宅は、宣教師住宅(ミッションハウス)としてウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計により、昭和初期に建てられた洋館。日立造船のゲストハウスとして使用された後、現在は宿泊施設「いんのしまペンション白滝山荘」 として使用されている。国登録有形文化財。

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昭和6年(1931)頃、キリスト教バプテスト派の宣教師である米国人、マーレン・ファーナム氏のためにヴォーリズが設計した。

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第二次大戦後は因島に工場がある日立造船のゲストハウスとして使用されていたが、その後の造船不況により使用されなくなっていた。

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一時は荒れ放題となっていたが、昭和62年(1987)に現在のオーナーが買い取りペンションとして開業、現在に至る。

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白滝山荘で販売されていたポストカードの古写真。
昭和23年(1948)頃の全景。

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因島の北部、白滝山登山口の斜面に建っている旧ファーナム住宅。

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2階の屋根窓と煙突。

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簡略化されたチューダーゴシックスタイルの洋館であるが、柱を赤く塗っているのは珍しい。同じように赤く塗られた建物としては旧三井家札幌別邸(北海道知事公館)などがある。

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背面の中二階パラペット(屋上の手摺壁)には、西欧城郭風のバトルメントの意匠が見られる。

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鉄筋コンクリート造の地階の上に木造2階建が載っている。

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ヴォーリズ設計の建物で宿泊できるのは、東京の山の上ホテルと白滝山荘だけではないだろうか。

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玄関の開口部はゴシック風の尖頭アーチになっている。

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玄関ホール。

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1階食堂。
硝子戸の仕切りの奥には続き間になった居間がある。

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階段室。
2階には和風の円形窓がある。

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2階の階段室に面して、ヴォーリズの住宅建築の特色である造りつけの箪笥がある。

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階段室の踊り場から中二階の客室に通じている。

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階段室の円形窓には、日本家屋の床の間などに見られる竹の斜め格子が組まれている。

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トイレにある古い洗面台。現在は使われていない。

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ブログ主が今回宿泊させて頂いた客室。

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暖炉のある居間。

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居間の造りつけソファ。
ヴォーリズ設計による旧駒井家住宅にも同じような造りが見られる。

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簡素ながらもゴシック風意匠をもつ暖炉。
横には造り付けの戸棚がある。

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客室は4室と小規模な宿であるが、食事は瀬戸内の魚を中心とした本格的な和食が提供される。
食事のみの利用もできるという。
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旧川喜田久太夫(半泥子)邸「千歳山荘」の再建に向けた動き

前回の扇湖山荘本館(旧長尾欽彌別邸)の記事にて触れた、三重県津市の旧川喜田久太夫(半泥子)邸は、扇湖山荘本館と同じ大江新太郎の設計による和洋併置式の邸宅で「千歳山荘」と称された。現在は解体材の状態で保管されている。

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川喜田家の広大な敷地は現在、津市が川喜田家から寄贈を受け、一般公開に向けた準備が進められている。一時はもとの跡地に「千歳山荘」が再建されることも期待されたが、費用等の問題から具体化には至っていない。

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現在、「千歳山荘」の再建を目指す活動が下記の新聞記事のとおり展開されている。
ブログ主も及ばずながら是非応援させて頂きたいと思うので、少し日が経っているがここに紹介させて頂く。

川喜田半泥子も非常に魅力ある人物だが、その邸宅も何年かかってでも元の場所に甦らせたい。

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平成28年10月13日付中日新聞(web記事、現在はリンク消滅)より

三重の“迎賓館”復元へ一歩 半泥子暮らした津の山荘

 百五銀行の元頭取で陶芸家、川喜田半泥子(一八七八~一九六三年)が暮らした津市垂水の千歳山の山荘。その解体部材が三十年以上、奈良県で保管されていたことが近年分かり、復元を願う津市の市民団体が、九月に部材の一部を運び入れた。「山荘は当時の三重の事実上の迎賓館。何年かかってもよみがえらせたい」と訴える。
 団体は、昨年十一月に津文化協会を中心に発足した「半泥子と千歳山の文化遺産を継承する会」。今年の九月上旬、奈良県の民間団体が保管していた部材の一部を松阪市の建築会社の倉庫に搬入し、同中旬には芸術的価値の高いふすまや杉戸などを運び入れた。
 会によると、山荘の移設・再建にかかる費用は約五億円。重要文化財の明治神宮宝物殿も担当した故大江新太郎が設計した。会では、大江の手掛けた建築物のいくつかが文化庁の文化遺産に登録されていることから「山荘が再建されれば、文化遺産登録も目指す」として市民らに寄付を呼び掛け、復元へ向けた運動も進めている。
 山荘は一九一五~一六年、半泥子が陶芸に土が適した千歳山に数寄屋風の平屋和館(約百四十平方メートル)と、「イングリッシュ・コテージ式」と呼ばれる木造二階建て洋館(延べ約二百平方メートル)を建設。敷地内に設けた窯で陶芸を楽しんだ。
 会の事務局長で津文化協会理事長の辻本当(あたる)さん(80)によると「皇族や各界の文化人たちが全国から訪れる文化サロンだった」という。
 戦時中の四三年、鈴鹿市の海軍工廠(こうしょう)に移築。戦後は電電公社(現NTT)の関連施設として引き取られたが、八五年に解体。奈良県の民間団体が復元目的に部材を引き取ったが、費用面などから実現しなかった。三重大の菅原洋一教授(建築学)らが二〇一一年に奈良県教委へ問い合わせたところ、部材は倉庫に眠ったままであることが分かった。
 一方、千歳山の土地は〇八年に川喜田家が津市に寄贈。市は公園として整備する構想を練っているが、現時点で山荘の復興計画はない。
 辻本さんらは「山荘を復元し、改めて津市の文化の拠点として発信していきたい」と切望している。
 (鈴木里奈)
 <川喜田半泥子(かわきた・はんでいし)> 1878(明治11)年、大阪府生まれ。津市議、三重県議も務め、百五銀行頭取など財界の要職を務める傍ら、書道や俳句などをたしなんだ。陶芸は還暦近くになってから本格的に始めた。4万点の陶芸作品を残しており、「東の(北大路)魯山人、西の半泥子」とも称された。

(引用終わり)

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(関連リンク)
津市 千歳山の整備について
石水博物館

(弊ブログ関係記事)
千歳文庫(旧川喜田邸敷地内にある収蔵庫)
旧川喜田久太夫(半泥子)邸 復元計画の現状

第1038回・旧長尾欽彌別邸(扇湖山荘)

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鎌倉市鎌倉山1丁目にある「扇湖山荘」は、わかもと製薬の創業者、長尾欽彌の別邸として昭和9年(1934)に建てられた。相模湾を望む広大な敷地に、飛騨高山の養蚕農家を移築改造した和洋折衷の本館、伏見宮邸から移築されたとされる茶室「伏見亭」、近代を代表する造園家・小川治兵衛の作庭になる庭園から構成される山荘である。平成22年(2010)に鎌倉市の所有となり、現在は春と秋の年2回、庭園を中心に一般公開が行われている。

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山荘の正門。昭和の始めから第二次大戦前にかけて、胃腸薬「わかもと」の製造販売で財を成した長尾欽彌はその妻、長尾よねと共に晩年をこの山荘で過ごした。東京世田谷にあった本邸「宜雨荘」は現在、その一部(東京都立深沢高校敷地内「清明荘」)が残るだけであるが、「扇湖山荘」は敷地は縮小されたものの、建物や庭園の主要部は現在もよく残されている。

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正門をくぐると切通しの道があり、右手に本館及び周辺庭園、左手に茶室「伏見亭」の庭園がある。写真は本館と茶室との分岐から正門側を振り返った眺めである。上に写っているのは、茶庭と本館側の庭を結ぶ橋。

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正面から見ると大きな銅版葺の屋根と車寄、その前に配された円形のロータリーの植え込みが目に入る。一見平屋建に見えるが、地階を備えた二階建である。扇湖山荘は昭和56年(1981)に三和銀行(その後合併により東京三菱UFJ銀行)が取得、平成22年(2010)に東京三菱UFJ銀行から鎌倉市に寄贈されるまで、「鎌倉園」の名で研修所として使われていた。

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本館脇の庭門をくぐると斜面になっており、本館の全景を見ることができる。鉄筋コンクリート造の地階の上に二層の木造部分が載る。木造部分は飛騨高山の養蚕農家として使われていた古民家を移築改造したものである。設計者は長尾家本邸の設計も手掛けた大江新太郎と、その弟子の森口三郎による。

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大江新太郎(1876~1935)は、日光東照宮などの修復や明治神宮の造営を手掛け、近代日本の建築家の中でも特に和風建築に造詣の深い人物のひとりで、代表作として明治神宮宝物殿(国指定重要文化財)がある。邸宅では三菱財閥第四代社長・岩崎小彌太邸(戦災で焼失)や、陶芸家としても知られる川喜田久太夫(半泥子)邸(解体保存中)があるが、現在もそのまま残されているのは旧長尾欽彌別邸のみである。

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地階部分はアーチ型の開口部が連なる洋風の造りとなっている。
窓を覗くとカーテンの隙間から和室が見えたが、研修所として使われていた時期に造られた宿泊室などではないかと思われる。

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長尾別邸時代、地階は長尾夫妻が集めた美術品の収蔵庫となっており、戦後の一時期は私設美術館(長尾美術館)の展示室としても使われていたという。

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地階の上部はテラスになっており、木造部分の1階から出られるようになっている。
テラスの欄干には造りつけの照明ボックスがある。

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1階テラス。床には砕いた陶片が敷き詰められている。

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テラスから相模湾及び三浦半島を望む。
扇型に見える海が湖のように見えるとされることから、「扇湖山荘」の名が付いている。

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先述のとおり、木造部分は飛騨高山の古民家を移築したものであるが、移築に際しては洋風の地階を設けるなど、内外装にわたって改造が施されている。

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地方の古民家を買い取って改造を施し、自邸や別邸に移築する例は、弊ブログでも以前紹介した軽井沢の「三五荘」や、御殿場の旧秩父宮御別邸などが存在するが、扇湖山荘は建築家の手による大幅な改造が施されている点が特徴である。

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再び本館の正面に戻り、玄関の車寄。
地階部分と同様移築に際しての新設部分であるが、移築部分の大屋根を縮小したような形態である。

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式台を備えた正面玄関。
長尾欽彌・よね夫妻は、公爵で元首相の近衛文麿など各界の著名人と幅広く親交があったことで知られる。この玄関も、かつては様々な人物が出入りしていた筈である。

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1階玄関脇の居間は太い梁や柱など古民家の部材を活かした造りで、バーカウンターも備えた洋室になっている。

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収集した美術品の展示用に造られたのか、居間には造りつけの陳列棚がある。
大江新太郎が設計した明治神宮宝物殿内部にも、同じようなデザインの陳列棚がある。

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後補とのことだが、居間には囲炉裏も切られている。

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和室部分は古民家の造りを残す土間部分と、移築に際し全面的に改装された書院部分がある。
写真は土間部分で、奥には2階への階段が見える。

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なお、扇湖山荘の公開は基本的に庭園が中心で、建物内部の見学は窓から覗き見る形になる。写真の土間部分は唯一立ち入りが可能な区域であるが、上がることはできない。無論、2階は完全非公開。

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書院部分は「金の間」「銀の間」と称される二間続きの座敷と広縁で構成されている。
写真は花頭窓がある「銀の間」

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折上格天井を備えた「金の間」

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欄間や建具、照明器具など、館内の至る所に斜め格子のデザインが見られる。

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六角形の地階小窓と、テラスの床に敷き詰められた陶片に見られる刻印。

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書院鴨居の千鳥型釘隠しと、戸袋の透かし彫り。

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茶庭にある茶室「伏見亭」は、敷地内でも最高所にある。
山荘内の庭園は、茶庭を含めいずれも旧山縣有朋邸(無隣庵)などで知られる七代目小川治兵衛と、岩城亘太郎の手になるものである。

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昭和9年の山荘造営に際し、伏見宮邸から移築されたとされる茶室。

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「伏見亭」の床の間。

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現在、扇湖山荘は庭園が年2回公開されているが、本格的な保存活用の用途は未だ決まっていないようである。庭園は鎌倉の造園業者で構成される「鎌倉造園界」がボランティアで手入れをされているとのことである。

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今後の整備について課題は多いと思われるが、鎌倉における近代の優れた邸宅遺構として、有効に保存活用されることを期待したい。

(弊ブログ関連記事)
旧秩父宮御別邸
三五荘
明治神宮宝物殿
旧川喜田久太夫(半泥子)邸

第1037回・旧日本銀行岡山支店(現存する大正期の日銀店舗)

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以前弊ブログでは、戦前に建てられた日本銀行の本支店店舗のうち、明治期に建てられ現存する4件(本店大阪支店京都支店小樽支店)について紹介したが、今回は大正期に建てられた旧岡山支店を取り上げる。明治・大正・昭和の三代に亘って、日本銀行をはじめ多くの銀行を手掛けた長野宇平治の設計で大正11年(1922)に竣工した。現存する大正期の銀行建築としても、特に優れたもののひとつである。国登録有形文化財。

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岡山城の二之丸跡である岡山市内山下1丁目に、日銀岡山支店が設置されたのは大正11年(1922)のことである。開設に合わせて初代店舗として建てられ、昭和62年(1987)にすぐ近くに建てられた新店舗に移転するまで55年間使用されていた。

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日銀支店としての役目を終えた後は岡山県が購入、当初は県立図書館への転用が計画されていたが再検討が重ねられた結果、外観及び旧営業室の内部空間を活かした多目的ホールとして再生されることになり、耐震補強を兼ねた改修工事は平成17年(2005)に完成、同年国の登録有形文化財となった。

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現在は「おかやま旧日銀ホール(愛称:ルネスホール)」の名で音楽や結婚式場などに利用されている。 旧店舗本館の周囲を囲っていた高い石塀や付属建物は殆ど撤去され、跡地は公園として整備されている。改修に伴い撤去された旧営業室のカウンターなどの石材は、公園の敷石やベンチなどに再利用されている。

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設計者の長野宇平治(1867~1937)は、明治30年から大正元年(1897~1912)まで日銀技師として、日銀の建築顧問であった辰野金吾と共に、大阪や京都、小樽など各地の支店の設計を行った。日銀を辞した後は設計事務所を開き、財閥系銀行から地方銀行まで多くの民間銀行の建築を手掛けていた。日銀岡山支店はその頃の作品である。

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近代日本の建築家の中でも、長野宇平治は特に古典様式に精通していた人物として知られ、旧日銀岡山支店のほか、現存する山口県の旧山口銀行本店(大正9年、県指定文化財)や奈良市の南都銀行本店(大正15年、国登録文化財)など、均整の取れた外観に精緻な石造彫刻が施された美しい建物が多い。

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以前取り上げた福井県の旧大和田銀行本店の重要文化財指定に際し、国の重要文化財に指定されている銀行建築は現在、明治と昭和だけで大正のものは1棟もないという事実に気が付いた。旧日銀岡山支店や先述の旧山口銀行本店などは、大正期の銀行建築を代表する秀作として重要文化財に指定されてもよいと思うのだが。

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本館角の角柱の柱頭飾りと軒まわりの装飾。

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飾り格子を嵌め込んだ一階の窓の下の帯には、波の模様が施されている。

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旧日銀岡山支店の構造は、壁面を煉瓦及び石積とし、柱や床は鉄筋コンクリート、屋根は鉄骨トラス構造を用いる混合構造となっている。施工を行ったのは大阪に本社を置く建設会社である㈱藤木工務店で、同社が創業後最初に請け負った工事とされる。

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この建物の外観を一番特徴づけている正面の4本の石柱に施された、緻密な彫刻の柱頭飾り。

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石柱及び一階外壁の基壇部分は、後年行われた道路の嵩上げにより、一部が地中に埋もれてしまっているという。

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近くから見上げると、すっくと立つ4本の石柱はかなり迫力がある。

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かつての正面玄関は現在は使われておらず、脇に新設された新しい玄関から入るようになっている。

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重厚なブロンズ製の玄関の門燈。

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長野宇平治は昭和2年(1927)、関東大震災で被災した日銀本店の修築及び増築工事設計のため再び日銀に入り、技師長となる。その後、昭和12年に70歳で逝去するまで本店及び各地の支店の新築・改築の設計監理に従事した。

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現在は、本店の増築部分(昭和13年)、旧広島支店(昭和11年)、旧松江支店(昭和12年)の3棟が現存するが、また機会を改めてこれらの建物もいつかは紹介したい。

(弊ブログ内関連記事) 本文中で言及した建物以外に現存する長野宇平治の設計作品
旧北海道銀行本店
旧大倉精神文化研究所

第1036回・旧麻布区役所庁舎(日本獣医生命科学大学本館)

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東京都武蔵野市境南町にある日本獣医生命科学大学の本館(1号棟)は、明治42年(1909)に建てられた旧麻布区役所庁舎を、ヴォーリズ建築事務所の設計により、昭和12年(1937)に移築改装した建物である。細部意匠に改変が見られるが、全体の形は旧態を止めており、旧東京市の区役所庁舎として現存する貴重な建物である。

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JR中央線の武蔵境駅からすぐ近くの位置にある日本獣医生命科学大学。明治14年(1881)に日本最初の私立の獣医学校として東京小石川に設立され、市ヶ谷、目黒と移転を重ねた後、昭和12年(1937)に現在地に移転した。獣医学校としては明治23年創立の麻布大学と並び、古い歴史を有する。

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麻布区は明治11年(1878)に東京府麻布区として設置され、明治22年(1889)の東京市制施行により、東京市麻布区となる。第二次大戦中の東京都政施行(昭和18年)によって東京都麻布区となった後、昭和22年(1947)、隣接する芝区、赤坂区と合併して東京都港区となり、麻布区は消滅した。

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麻布区役所庁舎は東京市営繕課の設計で、明治42年(1909)に現在の港区六本木三丁目に建てられた。昭和10年(1935)の庁舎移転後、不要となった旧庁舎は日本獣医生命科学大学の前身に当たる日本獣医学校が購入、ヴォーリズ建築事務所の設計により現在地へ移築された。

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上が麻布区役所時代の姿で、下が現在の姿。
移築に際しては半円形の玄関ポーチが角型に改められると共に、石造風の意匠が施されていた外壁も簡素なモルタル壁に改められている。一方で、屋根の上には換気塔が新たに付け加えられている。

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移築当初からの色調かどうかは不明だが、赤い洋瓦葺の屋根にクリーム色の外壁、ピンク色の建具の取り合わせがよい雰囲気を醸し出している。全体としては明治の洋風建築の形を残しているが、外壁などに昭和初期のシンプルな洋館の趣が見られる。

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改修設計を行ったヴォーリズ建築事務所の手掛けた洋館は、以前取り上げた滋賀大学陵水会館旧駒井家住宅など、素朴で温かみのある外観が特徴なので、旧麻布区役所の改修にもその作風が現れているのかも知れない。

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正面玄関。移築前は2階の窓も全て、この玄関と同様に緩やかなアーチ型であったようだ。
通常は関係者以外、校舎内部への立ち入りはできないが、訪問したときは偶然にも学園祭の最中であったため入ることができた。

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階段の親柱や手摺は、旧麻布区役所以来のものと思われる。

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すり減った階段の床板に、長い歳月の経過が感じられる。

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背面から見た本館。周囲には新しい校舎が立ち並んでいるが、現在も日本獣医生命科学大学のシンボルとして大切に使われているようだ。

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本館に隣接して建っているヴォーリズ館(2号棟)。
昭和12年の移転に際しヴォーリズ建築事務所の設計で新築された建物と思われ、現在は学生クラブ室棟として使われている。

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これからも永く使われ続けて欲しい素敵な洋館である。

第1035回・旧住友銀行尾道支店

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旧住友銀行尾道支店は、大阪に本店を置く住友銀行(現三井住友銀行)が明治28年(1895)の開業と同時に設置した、最初の支店である。尾道市久保町1丁目には明治37年(1904)に建てられた店舗が現存しており、大阪府立図書館などの設計で知られる野口孫市の設計による、貴重な明治の洋風建築である。

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大阪に本拠を置く住友家は江戸時代からの豪商で、愛媛県の新居浜にある別子銅山で採掘された銅の精錬を行っていたが、瀬戸内の交通の要衝で商業都市でもあった尾道は、新居浜と大阪を結ぶ格好の中継地点であることから、明治6年(1873)から分店を置いていた。

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明治28年(1895)、住友家家長・吉左衛門友純の命を受け、尾道の住友分店にて伊庭貞剛、田辺貞吉ら住友の重役による会議(尾道会議)が行われ、金融業への進出などが決議された。同年住友銀行が設立され、本店は大阪・中之島に置かれた。そして尾道支店が支店第1号として同じ明治28年に設置された。

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当初は住友分店のある土堂町に置かれていたが、明治37年(1904)に野口孫市が率いる住友臨時建築部の設計により、久保町の現在地に木造平屋建、モルタル塗石造風仕上げの洋風建築の新店舗を建てて移転した。住友臨時建築部は住友家の建築設計部門とでも言うべき組織で、現在の日建設計の源流に当たる。

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野口孫市は明治期の住友家関連の建築を数多く手掛けており、住友家の当主や重役の邸宅なども設計している。野口の代表作で、住友家が書籍と共に大阪府に寄贈するために建設した大阪図書館(現・大阪府立中之島図書館)は、住友銀行尾道支店と同年に完成している。

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明治42年(1909)には屋根まわりの増改築が行われ、写真左端の玄関上部にはドーム屋根を載せ、屋根には屋根窓を並べるなど華やかな外観になった。現在は屋根周りの装飾は現存しないが、大ぶりなアーチ窓が連なる外壁は創建当初の形をよく残している。アーチ部分に嵌め込まれた建具も、創建当初のものではないかと思われる。

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昭和13年(1938)、もとの土堂町に新店舗が完成したことにより役目を終える。その後はカフェ―、海運局、尾道市役所分庁舎などに使われてきたが、現在は使われている様子は見られない。尾道市では建物自体は文化遺産として保存する方向で検討中のようだが、残念ながら具体的な取り組みにまでは至っていない様子である。

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土堂町の旧商業会議所のすぐ近くに建っている三井住友銀行尾道支店。昭和13年に建てられた旧住友銀行の建物が健在である。多くの店舗が統廃合されてきた中で、尾道支店は特別な由緒がある支店として現在も存続しているようだ。 

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新旧店舗。新店舗の外壁は、創建当初は石積み風の目地を強調したものだったが、現在は塗装を重ねたため、のっぺりとしたものになっている。但し形は創建時から大きくは変わっていない。(上記3点の写真は携帯カメラによる撮影のため、少々画質が低い点につき御了承頂きたい)

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いつになるかは分からないが、この由緒ある明治の洋風建築の甦る日が来ることを期待したい。

(参考)愛媛県ホームページ「別子銅山と尾道」 ※明治42年増築当時の画像がある

(弊ブログ内関連記事) 本記事で言及した野口孫市設計で、現存する住友家関連の建築。
大阪府立中之島図書館
旧伊庭貞剛邸
旧田辺貞吉邸

第1034回・千葉刑務所(旧千葉監獄)

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平成28(2016)年度を以て廃止されることとなった、赤煉瓦の明治建築である奈良少年刑務所(旧奈良監獄)は、国の重要文化財に指定されると共に、廃止後はホテル等への転用が予定されていることなどで話題を集めているが、明治の赤煉瓦建築が現役である刑務所は奈良の他に、千葉刑務所(旧千葉監獄)がある。尤も、奈良と異なり現存するのは写真の正門とその奥に建つ事務棟のみであるが、いずれも奈良に負けず劣らずの美しい煉瓦建築である。

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千葉刑務所では、以前紹介した東京拘置所などと同様に毎年1回、受刑者の製作した家具や革製品などの展示即売や、一部の施設公開を行う矯正展が開かれている。平成28年度は11月13日に開催されたので行ってきた。

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弊ブログと相互リンクを張らせて頂いている方々の中には、昨年以前の矯正展に行かれて記事をアップされている方もあるので拝見すると、黄色いバルーンの入場ゲートは昨年まで別の場所にあり、正門前には置かれていなかったようだ。実務的な事情もあるとは思うが、写真を撮る者にとっては些か残念である。

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正門の煉瓦の表面は凸凹になっているが、これは以前煉瓦の上にモルタルが塗られていた時期があり、改修に際し剥がしたためと思われる。なお、創建時は正門に付属する塀も煉瓦造であったが、現在は全てコンクリート塀に改築されている。

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千葉監獄が現在地に移転したのは明治40年(1907)で、大正11年(1922)の監獄官制改正により、千葉刑務所に改称された。現存する正門、事務棟を始めとする赤煉瓦の当初の施設を設計したのは、当時司法省営繕課長の職にあった山下啓次郎(1868~1931)で、ジャズピアニストの山下洋輔氏の祖父に当たる。

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山下啓次郎は、帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)にて辰野金吾の下で建築を学び、卒業後は警視庁を経て司法省の技師となった。当時監獄施設の近代化を目指していた政府の指令を受け、明治34年(1901)から翌年にかけて欧米の監獄施設の視察に出向く。帰朝後営繕課長に就任、千葉・金沢・奈良・長崎・鹿児島の各監獄施設の設計を行った。山下の設計によるこれらの監獄は、「明治の五大監獄」と称されている。

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「明治の五大監獄」は奈良を除き、多くが移転や改築で姿を消したが、それぞれ正門等の一部は保存されている。
(千葉)正門と事務棟のみが現存、現役で使用中。
(金沢)刑務所は移転、正門と中央看守所及び舎房の一部が愛知県犬山市の明治村に移築保存。

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(奈良)当初施設がほぼ完全に現存。平成28年度を以て廃止されるが施設は保存・活用の予定。
(長崎)刑務所は移転、跡地に正門のみ保存されている。
(鹿児島)刑務所は移転、跡地に正門のみ保存されている。

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旧奈良監獄の施設群は先述のとおり、国の重要文化財に指定される予定である。また、旧金沢監獄及び旧鹿児島監獄の正門等の現存施設は国の登録有形文化財となっている。平成28年度いっぱいで奈良少年刑務所が廃止されると、「明治の五大監獄」で引き続き現役で使われているのは、旧千葉監獄のみということになる。

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正門の内側は、外側とは対照的に壁面は極めて平坦に造られている。脱獄防止のため足をかけられるような装飾や凹凸は設けないようにしたものと思われる。

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正門をくぐると、本館の事務棟が目の前に現れる。
屋根瓦や窓のサッシは新しいものに交換されているが、赤煉瓦の正面外壁は創建当初の姿を残している。

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かつてはこの事務棟の両脇と背面に、藤森照信氏が自著「建築探偵 東奔西走」で日本一美しい廊下と評した煉瓦造の房舎などの諸施設が立ち並んでいたが、これらは昭和の末から平成にかけて全て改築され現存しない。事務棟両側にある新しい建物が外壁を煉瓦タイル仕上げとすることで、かつての面影をごく僅かに残すばかりである。

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内部は1階の一部が公開されていたが、現役の事務所として現代的に改装されていた。

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創建当初からすれば現存するのは一部分であるとは言え、正門・事務棟共に、非常に美しい明治の赤煉瓦建築であり、千葉県内でも現存する屈指の洋風建築である。

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どちらかと言えば正面よりも奥行きのある旧奈良監獄本館に対し、旧千葉監獄本館は左右に両翼を張り出した堂々とした正面ファサードを見せる。

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本館事務棟を側面から見る。両翼の屋根の上には煙突が見える。
内部に暖炉でも設けられているのかも知れない。

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背面から見た本館事務棟。背面側は改築されており、そのため壁面の煉瓦も色調が異なる。
現在、事務棟の背面には受刑者が各種作業に従事する工場施設等が立ち並んでおり、矯正展ではその一部を当日予約制で見学することができる。(無論、写真撮影は禁止)

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1階翼部の窓。基壇部分には半円形の通気口が設けられている。
窓の建具はアルミサッシに交換されているが、当初の形態に近いと思われる細い枠の上げ下げ窓になっており、建物の雰囲気を損なわないための配慮が感じられる。

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壁面の煉瓦。当時は他の監獄でも同様であるが、煉瓦を焼き上げるのも積み上げるのも受刑者によって行われた。目地は東京駅舎などでも見られるカマボコ状に盛り上がった覆輪目地で、丹念な仕事が行われている。

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山下啓次郎は司法省営繕課長として監獄のほか、今は無い旧大阪控訴院庁舎など、明治から大正期にかけて建てられた各地の裁判所庁舎の設計にも関与している。それらの建物のうち旧名古屋控訴院庁舎は現存しており、国の重要文化財に指定されている。 

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また、明治38年(1905)に建てられた日本赤十字社埼玉県支部旧社屋(現・嵐山幼稚園、埼玉県指定文化財)が、山下啓次郎の設計であることが判明している。一連の監獄・裁判所建築とは全く異なる趣の瀟洒な木造洋館である。 

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山下啓次郎が設計を手掛けた五大監獄の他に、現存する明治期の監獄施設として、北海道網走市の旧網走監獄(国指定重要文化財)がある。事務棟や房舎、教誨堂など主要施設の大半が「博物館網走監獄」内に移築、公開されている。 

なお、本記事にて言及した東京拘置所旧名古屋控訴院日赤埼玉県支部旧社屋旧網走監獄は、いずれも過去弊ブログにて紹介済なので、併せて御覧頂ければ幸いである。

第1033回・旧尾道商業会議所

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広島県尾道市土堂1丁目にある尾道商業会議所記念館は、大正12年(1923)10月に尾道商業会議所として建てられた。以前紹介した石井耳鼻咽喉科医院と共に、尾道市内では最古の鉄筋コンクリート造建築である。現在は尾道市が所有しており、復元改修の上一般に公開されている。

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尾道駅前から東に延びる商店街の中に建っている。尾道商業会議所は明治25年(1892)に全国で30番目、広島県内では2番目の商業会議所として設立された。現在残る建物は大正12年(1923)に創立30周年記念事業として建てられ、昭和46年(1971)まで使用されていた。

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その後、尾道市によって創建時の姿に修復・復元が行われ、平成18年(2006)より尾道商業会議所記念館として公開されている。

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1階正面は御影石を積み上げた重厚な造りになっており、2階から3階は白タイルと疑石で仕上げられている。アーケードに遮られて全体が見えないが、正面中央には塔屋もある4層構成の建物である。(尾道市のホームページに全体が写った写真が掲載されている)

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側面は、1階正面から伸びている石積み仕上げの部分を除き、モルタル仕上げの簡素な外観となっている。

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内部では1階にて尾道の商業史に関する展示が行われている他、2階の旧議場は貸出も行われている。また、観光客の休憩所としても開放されている。

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2階から3階は二層吹き抜けの議場になっており、現在は創建当初の姿を復元した上で多目的室として有料で貸し出されている。貸出の無い時であれば議場の見学も可能である。

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3階から旧議場を見下ろす。
訪問時は公開されていなかったが、議場の裏には会頭室として使われていた部屋が配されている。

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3階の議場ギャラリー部分。
1階正面外壁周りを除いて装飾は殆ど無く、大正期の建物としては内外装共に極めて簡素である。

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商業会議所(商工会議所)として建てられた建物の中では、現存最古の建物とされる。

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尾道市の重要文化財に指定されている。

第1032回・岡田記念館翁島別邸

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栃木県栃木市小平町にある岡田記念館翁島別邸は、江戸時代初期から続く当地の旧家である岡田家の隠居所として、大正13年(1924)に建てられた。銘木を多用した上質の近代和風建築である。国登録有形文化財。

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国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている栃木市嘉右衛門町にある岡田記念館。翁島別邸とは目と鼻の先にある岡田家の本宅で、記念館として一般公開されている。

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本宅とは異なり、緑に囲まれひっそりとした印象の翁島別邸の門。
「翁島」という名称は、敷地が川に挟まれた島状になっており、隠居した当主の住まいであったことからこの名が付いたという。

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岡田家は古くは武士であったが、帰農して江戸時代初めに当地に移住、荒地を開墾しながら地域の発展に尽くし、現在で26代目という旧家である。なお、当主は代々、当地の地名にもなっている「嘉右衛門」という名を襲名している。

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翁島別邸は22代嘉右衛門が自らの隠居所として建てた。派手さは無いが、良質の材料を用いて入念に造られた質の高い近代和風建築である。戸袋は装飾を施した銅版張り、屋根瓦も特注品であるという。

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内部も随所に良質の材木が惜しげもなく使われている。

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一階玄関脇の座敷。
翁島別邸は岡田記念館と共にドラマのロケなどによく使われているとのこと。

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座敷の床の間と書院窓。床柱は極めて貴重とされる黒柿。

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一階の縁側。大きなケヤキの一枚板が使われている。

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一階の茶の間。
造りつけの戸棚には、奥に隠し引き出しを設けるなど、収納した貴重品を守るための工夫が施されているという。

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一階客間も、床の間周りに黒檀、紫檀、鉄刀木(タガヤサン)を用いた銘木尽くし。

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手洗いには巨大な石の手水鉢が置かれている。

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洗面所と浴室。

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二階座敷の床の間。
床柱は吉野杉の絞り丸太で床板はモミジ、天井は薩摩杉を用いた、館内でも特に贅沢な造りと思われる部屋。

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二階座敷から外を望む。
翁島別邸は大正13年竣工の主屋と、昭和初期に建てられた土蔵が国登録有形文化財となっている。

第1031回・多度津の合田邸(その2)

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前回に引き続き、香川県多度津町の合田邸の紹介。
今回は、(その1)で紹介した玄関棟や応接間等の奥にある、洋館や茶室、大広間、離れ座敷等である。特色ある一連の建築群は、地方の素封家によって建てられた和洋を取り交ぜた近代の邸宅として、三重県桑名市にある国指定重要文化財の旧諸戸邸(西諸戸邸)などに比肩しうる存在ではないだろうか。

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主屋から中庭に面した大広間棟へと続く渡り廊下。

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主屋、書斎、大広間に囲まれた坪庭に建つ茶室「硯滴庵」。
合田邸を度々訪れていた歌人・吉井勇が愛惜したという茶席で、硯滴庵(けんてきあん)の名も吉井勇の命名による。三畳台目の茶席で、表千家不審庵の写しとのことである。現在は荒廃しているが、かつては風情ある露地も設えられていたものと思われる。

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渡り廊下沿いにある手洗いに設えられた手水鉢。

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渡り廊下を進むと、中庭に面した大広間の畳廊下(公開当日畳は上げられていたため、下地の床板がむき出しになっている)に至る。

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中庭側から望む主屋。
石燈籠の後ろに見える手水鉢の下には、水琴窟が設えられているという。

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主屋の屋根瓦。合田邸内の建物の屋根には、いずれも桟瓦もしくは洋瓦が用いられているが、主屋のみ本瓦葺となっている。本瓦葺は古くから城郭や社寺建築に用いられていた重厚で格式の高い屋根であるが、費用がかかり、かつ屋根が重くなるのが弱点で、やがて明治初期に考案された桟瓦に取って代わられる。

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大広間の縁側から中庭を望む。主屋の脇に見えるのが大広間と向かい合う形で建っている洋館。
中庭は今回公開されるまで、周囲の建物とともに荒廃が著しかったとのことだが、「合田邸ファンクラブ」の方々や合田家の御当主が、大きくなり過ぎた庭木の伐採や掃除を行った結果、埋もれていた庭石などが漸く姿を現したという。

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中庭に面して色鮮やかなタイル張りのテラスを張り出す洋館は、3代目当主の合田健吉によって、来客の接待及び宿泊のためのゲストルームとして建てられた。半地階を備えた2層の建物で、上階には暖炉を備えたホール及びバーカウンター付きの談話室があり、地階にはベッドルームが2室設けられている他、専用の浴室もあるという。

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洋館の建設時期は大正末期から昭和3年までの間と思われる。
内装、家具調度品も贅を尽くしたもので、金箔で縁取られた鏡飾りのある白大理石製の暖炉や、現在はどれだけ現存するのか不明であるが、随所に多くのステンドグラスが嵌め込まれていたようだ。

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洋館の屋根には、大正期の建築によく見られる半円アーチの3連窓を設け、テラスへの出入り口の欄間にはアールデコ調の飾り格子を嵌め込むなど、建てられた時期の洋風建築のデザイン傾向が窺える。なお、欄間の両脇にはかつては照明燈があったものと思われる。

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色鮮やかな各種のタイルを、床に不規則に敷き詰めた洋館のテラス。
兵庫県の旧甲子園ホテルや長崎県の雲仙観光ホテルでも、酒場(バー)の床に似たようなものが見られる。

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テラスの明り取り窓から地階を見る。窓が無く、吹き曝しになっている。
失われているのか、取り外されているのかは不明であるが、全体的にかなり老朽化が進んでいるのは否めない。しかし、このまま朽ちさせてしまうには余りにも惜しい。

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四国で近代の邸宅と言えば、いずれも国指定重要文化財である徳島の旧三河邸、愛媛の旧久松伯爵邸(萬翠荘)、香川県内では高松の旧松平伯爵邸(披雲閣)などがあるが、合田邸も修復すればこれらの建物に並ぶ存在になるのではないかと個人的には思う。

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洋館とは繋がっており、そして主屋とは中庭を挟んで向かい合う形で建っている二階建の離れ。2代目当主の合田房太郎が建てたと思われる、2棟の離れのうちの1棟である。写真の左側が洋館、右側は大広間棟で、その奥には土蔵と煉瓦倉庫が見える。

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戸袋に至るまで全面を硝子張りにしているのは珍しい。離れの内部は、金箔及び銀箔を貼った襖がある「金の間」「銀の間」のほか、特異なのは二階に「えじぷとの間」と称される座敷があり、書院窓などにエジプト模様の装飾が施されているという。他に類例を聞かない珍しい建物であるが、残念ながらこの建物も、洋館と同様に老朽が甚だしく、内部は非公開であった。

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3代目合田健吉によって建てられた大広間棟「楽々荘」。
北原白秋の命名による。建具には輸入品と思われるが、大型の一枚硝子を用いており、隣接する離れと比べてより近代的な印象を与える和風建築である。

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内部は30畳の広大な座敷で、天井は黒漆塗りの折り上げ格天井で大小5つのシャンデリアを吊るす。合田家と親交のあった北原白秋は合田邸来訪に際し、この座敷で手足を伸ばして寛ぎ、「楽々荘」の名を贈ったという。

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大広間の書院窓。

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天井中央の大シャンデリアは、合田家の家紋である方喰(かたばみ)をあしらった特注品。

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大広間縁側の花頭窓。
欄間には斜め格子の障子を入れている。

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大広間は周囲の畳廊下や次の間も加えると、50畳以上の広さになる。
硝子戸の先には、中庭越しに洋館の正面が見える。

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大広間の畳廊下から望む、背後の土蔵と煉瓦倉庫、及び隣接する離れ座敷。

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大広間と背後の土蔵の間には厠が設けられており、その手前に手洗い場が設えられているが、こちらは手水鉢ではなく陶器製の噴水台が置かれている。

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ブログ主が訪問したのは公開初日で、当日は大広間で「合田邸ファンクラブ」の活動紹介及び公開までの経緯の説明などが行われていた。(写真は開催前)中庭周りなど、老朽と荒廃が進んでいた邸宅を、ボランティアで清掃、補修の上一般公開にまで漕ぎつけた関係者の努力には、ただ頭が下がるばかりである。

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長年点燈することはなかった大広間のシャンデリアも、公開に先立ち補修されたとのことで、公開当日に燈された。

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催しはファンクラブの方々を始め、5代目に当たるという合田家の現ご当主夫妻を始め、多度津町長や教育長なども参加、合田邸の保存に向けた関係者の熱意が感じられる素晴らしいものであった。この屋敷が将来、多度津町の誇るべき文化遺産になることを願わずには居られない。

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相当老朽が進んでいる建物もあるが、是非とも一括した形で後世に残して頂きたいものである。
そして拙劣な内容ではあるが、前後2回に亘る当ブログ記事を以て、合田邸の魅力を少しでも、一人でも多くの方にお伝え出来れば幸いである。

(注)本記事の作成に際しては見学会当日配布資料のほか、内部非公開の洋館や離れ、茶室については以下の資料を参照させて頂いた。

「香川県の近代化遺産(建造物等)総合調査報告書」 平成17年 香川県教育委員会編集・刊行 
「新讃岐の茶室」 昭和49年 十河信善・入倉忠雄著 毎日新聞高松支局刊行 

第1030回・多度津の合田邸(その1)

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香川県仲多度郡多度津町本通にある合田(ごうだ)邸は、明治から昭和にかけて、讃岐の近代産業や文化を牽引した「多度津七福神」と称される富豪の唯一現存する邸宅である。大正から昭和初期にかけて建てられた和洋の多彩な建築群から構成される当邸は現在、保存に向けた取り組みが始まっている。当ブログでは先日初めて公開された合田邸を2回に分けて紹介したい。

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合田邸正面。写真手前から土蔵、来賓用門、玄関棟、応接間、土塀が続く。
合田邸を建てたのは、合田家2代目当主の合田房太郎(1861~1937)、3代目当主の合田健吉(1897~1975)で、昭和3年(1928)に現在の姿が完成したという。

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合田家は米穀肥料商から財を成し、2代目房太郎及び3代目健吉の二代に亘り、四国電力の前身に当たる四国水力電気や多度津最初の銀行である多度津銀行などの要職を歴任、「多度津七福神」の一員として讃岐及び四国地方の近代化に貢献した。また、房太郎・健吉は共に多額納税者として貴族院議員に選出されている。

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黒漆喰で仕上げられた玄関棟。この奥には本瓦葺きの主屋が建っている。
現在は壁土がかなり崩れ落ちているが、玄関棟両脇の土蔵と土塀も黒漆喰仕上げで、往時は非常に重厚な屋敷構えを見せていたものと思われる。

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玄関棟に続いて建っている応接間は、緑がかった釉薬をかけたタイル張りの洋館。街路に面した2つの小窓にはステンドグラスが嵌め込まれている。かつては金属製の格子があったようだが、現在は外されている。

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側面(北側)に回ると、塀越しに(写真奥から)書斎、大広間棟、土蔵、そして煉瓦倉庫が建っている。
土蔵は街路側のものとは異なり、白漆喰とナマコ壁仕上げであるが、こちらも壁土がかなり崩れ落ちている。

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土蔵に続いて建つ煉瓦倉庫。邸内では一番大きな倉庫である。個人邸で土蔵に加え煉瓦造の倉庫を持つ家は珍しく、多度津七福神と称された合田家の財力が偲ばれる。

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反対側(南側)に回ると、茶色い洋瓦葺の屋根に暖炉用の煙突がある洋館が見える。またその手前には、老朽が著しいが2棟ある離れのうちの1棟も見える。邸内には13棟(玄関棟、主屋、応接間、書斎、大広間、洋館、茶室、離れ2棟、土蔵2棟、煉瓦倉庫、ボイラー室)の建物がある。

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玄関棟脇の来賓用門は、応接間と同様に洋風に造られており、花崗岩と凝灰岩を組み合わせた重厚な造りで門柱の上にはアールデコ調の門燈が付く。門柱の石材は、形状・色調ともに左右対称になるように造られている。

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平成28年11月3~6日に、多度津町内外の有志によって結成された「合田邸ファンクラブ」の方々の努力と、合田家現当主の好意によって、初めての一般公開が行われた。

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玄関棟と主屋の間に造られた来賓用玄関。合田家には、香川県出身の第68・69代内閣総理大臣・大平正芳(1910~1980)や、歌人の北原白秋(1885~1942)、吉井勇(1886~1960)など、政治家・文化人も度々訪れており、邸内には彼らの命名による建物もある。(後述)

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玄関棟の家人用玄関を入ると、八角形を重ねた意匠の飾り窓がまず目に入る。
屋内に上がり、主屋と向かい合う縁側の廊下を進むと、応接間への扉がある。

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応接間の入口脇に取りつけられた、羽を広げた鷲を象ったデザインの帽子掛け。

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応接間内部。街路からも見えるステンドグラスの小窓が暖炉脇に配されている。
照明器具や家具など、創建時のものがよく残されている。

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玄関棟、来賓用門、応接間など街路に面した部分は、3代目当主の合田健吉によって昭和3年までに造営されたと思われ、その奥は2代目と3代目がそれぞれ建てた建物が混在している。

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暖炉に据え付けられた瓦斯ストーブは、近年まで実際に使われていたという。

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玄関棟及び応接間の奥には坪庭を挟んで主屋が建っている。主屋は2代目房太郎によって建てられた本瓦葺きの重厚な日本家屋である。また、主屋に隣接して3代目健吉によって建てられた書斎棟が建っている。(写真奥の建物)

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主屋座敷の床の間。
金粉を散らした壁紙や欄間の彫刻、書院窓など、豪商の屋敷にふさわしい造りが見られる。

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繊細な組子細工が施された書院窓の欄間飾り。

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主屋縁側から望む応接間棟。

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応接間の窓から望む書斎棟。
主屋とは短い渡り廊下で結ばれており、応接間棟と斜めに向き合う形で建っている。自然石を積み上げた基礎に数寄屋風の杉皮貼り外壁、斜め格子の両開き窓にハーフチンバー風の妻壁という外観を有する、和洋折衷の山小屋風洋館である。

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書斎も応接間と同様、一室のみの小規模な洋館である。窓際に配された応接用のソファとテーブル、机など、応接間と同様に創建時からの内装や調度類がよく残されている。

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書斎の書棚。漱石全集などが見える。
書棚の手前には造りつけの金庫室がある。

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応接間・書斎に残る家具。いずれも昭和初期のものである。
(左)応接間の椅子(右)書斎の机

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応接間・主屋・書斎の照明器具。昭和初期のアールデコ風意匠が見られる。
(上左)主屋縁側の吊り燈籠(上右)応接間の照明
(下左)書斎の照明(下右)書斎机の電気スタンド

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次回は主屋の奥にある大広間棟のほか、外観のみの公開ではあるが、中庭に面して建っている洋館や離れなどの建物を紹介したい。

合田邸 (その2)へつづく

第1029回・石井耳鼻咽喉科医院

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広島県尾道市西土堂町にある石井耳鼻咽喉科医院は、大正12年(1923)に竣工した鉄筋コンクリート造4階建の医院建築。地方都市の鉄筋コンクリート造としてはかなり早い時期の建築であるが、かつては広島県下最大の経済都市であった尾道の繁栄を物語る建物と言える。

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尾道は古くから、海運による物資の集散地として繁栄していたが、明治以降は鉄道(現在の山陽本線)も開通したことにより、一層交通の要衝として、また商業都市、工業都市として繁栄した。第二次大戦の戦災も免れたため、現在でも市内の各地にかつての繁栄を伝える多くの建物が残されている。

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JR山陽本線尾道駅の北口前に聳える4階建の石井耳鼻咽喉科医院は、まだ鉄筋コンクリート造が全国的に普及していない大正12年(1923)に建てられた。当時、地方都市では鉄筋コンクリート造はまだ珍しい時代であり、民間の一医院がこの構造を採用して建てたところに当時の尾道の繁栄が窺える。

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現在も現役の医院として使用されている。
尾道駅の北側には、傾斜沿いに古い街並みが広がっており、その中でもこの建物はよく目立つ存在である。

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隣接して木造3階建の古い家屋が建っている。

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側面からの眺め。

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尾道市内には、同年に竣工した鉄筋コンクリート建築である旧尾道商業会議所も中心街に現存しており、現在は記念館として保存・公開されている。こちらの建物も後日当ブログにて紹介させて頂く予定である。

第1028回・以志や旅館

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香川県さぬき市志度の以志や(いしや)旅館は、旧志度街道に面して建っている明治時代創業の割烹旅館である。明治初期から昭和初期にかけて建てられた町家造りの建物に泊まることができる。街路に面した写真の建物が国の登録有形文化財になっている。

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以志や旅館は高松市の東郊、さぬき市志度に位置し、JR高徳線志度駅から徒歩5分程度の場所に建っている。旧志度街道は徳島と香川を結び高松へ至る街道で、旅館の周辺には明治から昭和初期のものと思われる町家が点在している。

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箱軒を張り出す重厚な造りの町家は、大正から昭和初期に建てられた大阪の町家でよく見られる。
志度は四国でも比較的大阪に近いためか、大阪風の町家が散見される。

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こちらも黒壁に箱軒を張り出した昭和初期のものと思われる町家。
二階の真ん中には洋風の縦長窓があり、内部には洋室を備えているのかも知れない。

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正面から見た以志や旅館。右奥には同じ経営による割烹・小料理店があり、宿の食事はここから用意される。
表に面した建物は明治初期の建築と伝わっており、白漆喰壁に本瓦葺、低いつし2階を備えた、江戸時代以来の伝統的な外観の町家である。

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2階の漆喰虫籠(むしこ)窓。

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式台を備えた玄関。

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表に面した明治初期の建物は、玄関と食事室として使われており、宿泊用の客室は中庭を挟んで奥に建っている2棟の建物の中にある。

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表の建物を通り抜けると中庭に面した廊下があり、洗面所や浴室、手洗所も廊下沿いにある。

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表に面した外観だけではなく、内側も古風な造りが残されている。
なお、浴室や手洗いの内部は現代風に改装されている。

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大正期に建てられたという1棟目の客室棟を通り抜けると、また中庭があり、その奥に昭和期に建てられたもう1棟の客室棟に続いている。

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浴室横の脱衣場の窓。

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中庭に面して開かれた円形窓。

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敷地の最も奥に位置する昭和期の客室棟。
なお、客室棟はいずれも2階建てで各階1室ずつ、客室は合計4室である。

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ブログ主が宿泊に際し通された、昭和期客室棟の1階座敷。

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座敷の書院窓。

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中庭に面した側の建具。
なお、反対側は隣家に面しているためか、アルミサッシに交換されている。内部の建具は殆どが昔ながらの木製の建具が入っているが、こういう箇所は防犯、防音等を考えると致し方ないと思う。

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建具には結霜硝子が嵌め込まれている。

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中庭から望む昭和期客室棟。明治から大正にかけて建てられた2棟の屋根は本瓦葺であるが、昭和期の棟のみ桟瓦で葺かれている。

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値段も安いので、古い町家の情緒を楽しみたい人にお勧めの宿である。

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現在、国の登録有形文化財となっているのは、明治期の表の棟のみのようであるが、奥の2棟も中庭の佇まいと共に、文化財として後世に残して頂ければと思う。
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