第1053回・旧和歌山県会議事堂
明治31年(1898)に和歌山市一番丁に建てられ、昭和13年(1938)まで使用されていた旧和歌山県会議事堂の建物が、3度の移築を経て、和歌山県岩出市根来にて平成28年(2016)より保存・公開されている。現存する最古の和風意匠の県会議事堂である。和歌山県指定有形文化財。
正面全景。現存する明治期の県会議事堂の建物としては、新潟(明治16年竣工、国指定重要文化財)、京都(府庁舎に付属、明治37年竣工、国指定重要文化財)が現存するが、和風意匠のものは和歌山のみである。
和歌山県会(現・和歌山県議会)は、明治12年(1879)に開設されたが議事堂は在来の建物を使用、和歌山城に近い和歌山市一番丁に専用の議事堂が新築されたのは約20年後の明治31年(1898)のことであった。
同じく和歌山城に近い和歌山市汀丁に、明治22年(1889)に新築された和歌山県庁舎が洋風建築であったのに対し、県会議事堂は和風意匠で建てられた。
正面前面には傍聴人控所や議員休憩室、議長室が配された二階建の本館を配し、その後に大屋根を持つ平屋建の議場、背面には高等官控所や参事会員室を備えた平屋建の控室を配していた。
昭和13年(1938)に県会議事堂を併設した現県庁舎が竣工するまで、40年にわたり県会議事堂として使用された。その間、県会議事堂のみならず、講演会や選挙会場にも使われ、明治44年(1911)には和歌山を訪れた夏目漱石による講演会場としても使われている。
昭和16年(1941)に保証責任和歌山県信用購買販売利用組合連合会(現・JA和歌山)に売却、和歌山駅に近い美園町に移築された。市街の大半が焼失した昭和20年(1945)の和歌山大空襲も免れ、戦後まで事務所として使用された。
昭和37年(1962)、事務所の建て替えにより2度目の移築が行われ、岩出市の根来寺境内に再移築、同寺の大客殿「一乗閣」として3度目の務めを果たすこととなり、集会や合宿などに利用された。また、根来寺に移築後、和歌山県の文化財に指定されている。
その後、老朽が進み根来寺でも使用されなくなっていたが和歌山県が取得、保存復原のための調査が行われ、根来寺に近い現在地に移築して保存・公開されることとなった。
移築に際しては、改変が施されていた議場や、建物自体が失われていた控室棟の復原が行われた。
平成28年(2016)より、「旧和歌山県会議事堂」として公開されている。
旧議場内部。2層吹き抜けで正面には唐破風付きの床の間を配し、三方に傍聴席を巡らせ、天井は折上格天井とする。
館内に展示されている、議場として使われていた当時の様子を再現した模型。
床の間の前に議長席などを配し、それを取り巻く形で馬蹄形状に議員席を配していた。
床の間側から旧議場を望む。
根来寺一乗閣として使われていた当時は、床の間が反対側に移されていたが、移築に際し旧状に戻された。
床の間。議場として使われていた当時は日の丸を掲げ、盆栽などを飾っていた。
床の間上部の唐破風詳細。
旧議場の折上格天井は、杉の杢目板を前後左右で木目の向きを変えて市松模様に張っている。
傍聴席。
柱を見ると、3度にわたる移築を重ねた痕跡が分かる。
正面本館の階段室。
本館二階にある旧議長室。本館二階は建物の来歴や県会(県議会)の歴史を紹介する展示室になっており、本記事で紹介した議場の模型や古写真はここにて展示されている。
明治期には裁判所、ホテル、図書館、銀行など、和風意匠の公共建築が多く見られるが、旧和歌山県会議事堂は和風意匠の県会議事堂として現存する希少な事例である。
第1052回・四條畷学園本館
大阪府大東市学園町にある学校法人四條畷学園の敷地内には、昭和4年(1929)に建てられた本館が90年近く経った現在も現役で使われている。玄関まわりの外壁には、建設当時の生徒達が作った装飾タイルが嵌め込まれているのが珍しい。
JR片町線四条畷駅の東側すぐの位置にある四條畷学園。幼稚園から小中高校、短大、大学を擁する大阪でも有数の私立学校である。
四條畷学園は、旧制四條畷中学校(現・四條畷高等学校)の校長を務めていた牧田宗太郎が、実弟で三井鉱山社長など務めた実業家の牧田環などの協力を得て、大正15年(1926)に四條畷高等女学校を開校したのが始まりである。
開校当初は大阪府北河内郡門真村(現・門真市)古川橋に仮校舎を置いていたが、開校3年後の昭和4年(1929)6月に現在地に新築移転した。
その後校舎は拡充され現在に至るが、本館と正門は創建当初から変わらぬ佇まいを見せている。
本館は現在、学園の本部及び高等学校の校舎として使われているようだ。
側面を望む。
本館はL字型で、背面に設けられた校庭を囲む形になっている。
3階の側面外壁には、曲面を持つ張り出しが設けられている。
車寄せのある正面中央部分の外壁も、わずかに曲面を描いて前面に張り出している。
本館の2階正面中央には、6体の鳥の塑像が据え付けられている。
羽を広げた堂々とした姿は鷲にも見えるが、頭は鳩のようにも思われる。
大阪府下に現存する昭和初期の学校建築は、以前紹介した大阪大学会館(旧浪速高等学校本館)などのようなシンプルな外観の建物が多く、四條畷学園のような重厚な建物は珍しい。
玄関ポーチの開口部は放物線アーチを描く。放物線アーチは20世紀初頭にドイツなどで見られた建築様式である表現主義建築においてよく見られ、日本でも一部の若手建築家が取り入れていた。
玄関ポーチの天井は梁を斜めに交差させるなど、放物線アーチの開口部と共に特異な意匠を見せている。
創建当時からのものと思われる玄関ポーチの照明器具。
本館1階の外壁には、昭和初期に流行したスクラッチタイルのほか、型押しを施した素焼きの装飾タイルが用いられている。また、玄関ポーチにも同じ意匠の装飾タイルが用いられている。
玄関ポーチの装飾タイル。
本館1階外壁の装飾タイル。
1階外壁の正面部分には上記の装飾タイルと共に、昭和4年当時の生徒達が製作した手作りの装飾タイルが嵌め込まれている。
四條畷学園は楠木正行を主祭神とする四條畷神社のすぐそばにあり、菊水紋など楠木氏に因む図柄なども散見され、興味深い。
あまり知られていないように思われるが、大阪府北河内地方でも屈指の名建築である。
第1051回・上御殿
和歌山県田辺市龍神村龍神にある龍神温泉上御殿は、江戸時代初期に紀州藩主の宿として建てられた歴史を有する温泉旅館。明治18年(1885)に建てられたとされる本館が国の登録有形文化財となっている。
和歌山県と奈良県の県境に近い位置にある龍神温泉は、約1300年前に開かれたとされる由緒を持つ。
寛永16年(1639)には、紀州藩の初代藩主である徳川頼宣によって、藩主のための湯治宿である上御殿と、家来のための下御殿が建てられた。
明治維新によって紀州藩が廃された後は、上御殿と下御殿は共に一般向けの温泉宿となったが、明治17年(1884)、火災によって旧紀州藩時代の建物は全て失われた。
現在も上御殿と下御殿は共に営業を続けており、下御殿は現代的な鉄筋コンクリート造の温泉旅館となっているのに対し、上御殿は伝統的な木造建築で営業を行っている。
上御殿の建物は、火災の翌年である明治18年(1885)に再建された本館と、昭和末期に建てられた新館で構成されている。新館は本館の背面、日高川に面して建っているため正面からは見えないが、旧館と同様の木造建築である。
本館は平成11年(1999)に国の登録有形文化財に認定されている。
時代を感じさせる構えの玄関。
玄関の両脇は宿泊客のためのロビー的な場所になっている。写真は正面向かって右側の小部屋。
正面向かって玄関左側、紙障子が建てこまれている部屋の内側は、現代的に改装されている。
二階階段室。
二階廊下。
本館は二階にのみ客室が設けられている。
上御殿本館で最も格式の高い座敷である御成りの間。
但し、現在は一般の客室として利用できる。
藩主用の座敷を火災後の再建に際し、同じ間取りで再現したという。
襖などは火災時に持ち出されたのか、旧紀伊藩時代から伝わるもののようだ。
御成りの間とは続き間になっている控えの間。
現在は御成りの間と一体で客室として利用できる。
日暮れ時の上御殿本館。