第1087回・大宜味村役場旧庁舎

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沖縄県北部の国頭郡大宜味村大兼久にある大宜味村役場旧庁舎は、大正14年(1925)に建てられた沖縄県における最初期の鉄筋コンクリート造建築であると同時に、沖縄では極めて数少ない現存する戦前の近代建築である。平成28年(2016)10月には国指定重要文化財とするよう答申がなされた。

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竣工当初の姿。設計は国頭郡役場の技手であった清村勉が設計を手掛けた。清村勉は鹿児島の工業学校の教員であったが、大正9年(1920)に乞われて沖縄に赴任、独学で習得した鉄筋コンクリート造を台風や白蟻による被害にも強い新しい建築構造として推奨し、小学校や役場などの公共建築に積極的に導入した。

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同じアングルから見た現在の姿。
大正13年(1924)に着工、翌年に竣工した。八角形になっている二階は村長室として使われていた。八角形としたのは台風の強風による風圧を軽減するためであるという。

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当時、鉄筋コンクリート構造は全国的にはまだ普及途上にあり、沖縄では殆ど例のないものであった。工事は難工事であったと思われるが、技術の高さに定評があり「大宜味大工」と称された地元の大工達により、困難であった二階部分の八角形の型枠造りなどの難工事を成し遂げられたという。

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沖縄県には戦前に建てられた近代建築で現存するものは極めて少ないが、かつては県都・那覇には沖縄県庁舎(中條精一郎設計、大正9年)、那覇市庁舎(武田五一設計、大正8年)など名高い建築家による本格的な近代建築も存在した。

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昭和19年(1944)10月の米軍による空襲(10・10空襲)及び翌年の沖縄戦によって、那覇や首里にあった近代建築は首里城などの文化財と共に失われた。大宜味村役場旧庁舎は沖縄県内で現存する最古の鉄筋コンクリート造建築であるとともに、現存する極めて希少な沖縄県における戦前の近代建築である。

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沖縄戦の戦闘からも米軍の空襲からも免れた大宜味村役場庁舎は、半世紀近くにわたり村役場庁舎として使われ、沖縄が本土に復帰した昭和47年(1972)に現在の庁舎が竣工したことにより、その役目を終えた。

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現在は村史編纂室として使われており、建物も公開されている。
天井に施されたモールディング(刳形)など、細部の入念な造りは戦前の建物ならでは。

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ところで、今回の記事の写真は全て、業務で沖縄に行かれた友人より提供頂いたものである。
弊ブログで紹介してきた建物はこれまで全て自ら訪問したものであるが、今回に限り例外であることをお断りしておく。貴重な写真を提供頂いた友人には厚く感謝申し上げたい。いつか実際自ら訪れたいと思う。
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第1086回・旧マッケンジー住宅

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静岡市駿河区高松にある旧マッケンジー住宅は、日本茶の輸出を行う貿易商であった米国人マッケンジー氏の住宅として、昭和15年(1940)に建てられた。設計は日本各地に多くの洋風建築を残した米国人建築家のウィリアム・M・ヴォーリズによる。国登録有形文化財。

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建主のダンカン・ジョセフ・マッケンジーは、米国の貿易商社の駐在員として妻のエミリー・マーガレッタ・マッケンジーと共に大正7年(1918)に来日、静岡市に居を構え日本茶の輸出振興に尽くした。昭和15年(1940)に、マッケンジー氏は日本に永住するため富士山と駿河湾を一望できる見晴らしのよい場所にスパニッシュ風の邸宅を新築した。

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邸宅を新築した翌年の昭和16年(1941)に大東亜戦争が勃発、「敵性外国人」となったマッケンジー夫妻は開戦後もしばらく日本に留まっていた。昭和18年(1943)、ついに帰国を余儀なくされるが、戦争が終わると昭和23年(1948)に再び来日、静岡の邸宅に戻った。

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マッケンジー氏は昭和26年(1951)に66歳で死去するがエミリー夫人はその後も静岡に留まり、私財を投じて社会福祉事業に尽くし静岡市では最初の名誉市民に選ばれた。昭和47年(1972)に高齢のため米国に戻る(翌年86歳で死去)が、その際に邸宅の敷地の半分を静岡市に寄贈、邸宅を含む残り半分は静岡市が購入した。

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赤い半円筒形のスペイン瓦で葺かれた屋根と、粗いスタッコ塗で仕上げたスパニッシュスタイルの外観を持つ旧マッケンジー住宅。塔を設けるのもスパニッシュスタイルの特徴である。塔の上階は展望室となっており、マッケンジー氏の趣味であった天体観測に使われていたという。下は階段室。

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アメリカ経由で日本に導入された建築様式であるスパニッシュスタイルは、大正末期から昭和初期にかけて中流以上の階層の洋風邸宅リゾートホテルミッションスクールなどで多く取り入れられた。旧マッケンジー住宅がある静岡市では、昭和9年に竣工した旧市庁舎がスパニッシュスタイルを取り入れたものになっている。

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スパニッシュスタイルは設計者のヴォーリズが得意とした様式のひとつであり、ヴォーリズによるスパニッシュ風邸宅は、静岡県内ではかつては熱海の蜂須賀侯爵別邸(昭和14年)があったが現存しない。静岡県外では近年東芝から日本テレビに所有が移った東京都港区高輪の旧東芝山口記念会館(大正14年、旧朝吹常吉邸)等が現存する。

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旧邸は現在、静岡市が所有・管理しており、無料で公開されている。
平成9年(1997)には国の登録有形文化財に認定された。

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玄関内部。床には布目模様が入ったタイルが敷き詰められている。

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玄関ホール及び階段室。
旧マッケンジー住宅は支那事変から大東亜戦争へと至る戦時体制による建築規制や建材や人手の不足など、時勢が徐々に厳しくなっていた頃に竣工したためか、内外装を含め全体的に簡素な造りとなっている。

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玄関ホールの先にある居間兼客間。天井はごく緩やかながらも曲線を持つドーム状に仕上げられている。

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簡素な部屋であるが、暖炉は緑色の蛇紋岩を用いた堂々としたもの。
暖炉棚の上にはマッケンジー夫妻の肖像画が飾られている。

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居間兼客間の隣にある書斎。
壁は板張りで仕上げられ、暖炉のほかに造りつけの書棚やクローゼットがある。邸内では最も重厚な造りの部屋である。

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書斎の暖炉。
居間兼客間のものとは対照的に、白大理石を用いた明るい色調とシンプルなデザインが特徴。

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書斎に隣接する骨董室。書斎と同様板張りの重厚に仕上げられた小部屋で、天井は金色の水玉模様となっている。マッケンジー氏が収集した日本の骨董品を陳列するための部屋として使われていたようである。現在は静岡茶の輸出の歴史について紹介する展示室となっている。

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書斎とは廊下を挟んで向かい合った位置にある食堂。邸内で最も広い部屋である。手前の雪洞のような形の照明器具はこの時期の邸宅で時折見られるデザインのものなので、創建当時からあるものと思われる。

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食堂は西側に大きくベイウインドウを張り出し、サンルームも兼ねている。

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食堂の隣には食器庫と配膳室を挟んで台所がある。ヴォーリズ設計の住宅は台所まわりが充実しているのが特徴であるが、旧マッケンジー住宅でも広く明るく、かつ機能的な米国式のキッチンとなっている。

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二階への階段室。展望室のある塔屋の下層部である。

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階段の踊り場には造りつけのベンチが設けられている。写真右側に少し写っているのは3階の展望室につながる階段である。(非公開)

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二階はマッケンジー夫妻の寝室及び浴室のほか、専用浴室も備えた客用寝室が2室、使用人部屋と裁縫室と称する作業室が設けられている。写真は客用寝室の1つ。

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客用寝室に附属する浴室の洗面所周り。古い設備類もよく残されている。

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使用人室は邸内では唯一の畳敷きの部屋。

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富士山を愛したというマッケンジー夫妻へのヴォーリズの心づくしか、食堂の飾り棚や居間の暖炉飾りには富士山をイメージしたデザインが施されている。

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敷地内にある「HOMAM 1940」の文字と星のマークが記された、河原石を固めて造られた碑。「HOMAM」(ホマム)はペガスス(ペガサス)座ゼータ星を意味するアラビア語で、マッケンジー夫妻が邸宅の愛称として名付けたもの。天体観測を趣味としたマッケンジー氏にふさわしいネーミングである。「1940」は竣工年である昭和15年を表す。

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旧マッケンジー住宅には台所の大型電気冷蔵庫やオーブンレンジ、自家用車など、豊かな物質文化を誇った1930~40年代のアメリカを伝える物が随所に残されている。

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敷地内の車庫に保存されている1947年型キャデラック。
マッケンジー夫妻が昭和23年に再来日する際に持ってきたと思われる。エミリー夫人の帰国までマッケンジー家の自家用車として使われていた。

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旧マッケンジー住宅は静岡市内に現存する数少ない戦前の洋風建築であるとともに、ヴォーリズ設計のスパニッシュスタイルの邸宅で現在保存されている数少ない建物のひとつであり、その意味でも貴重な存在である。

第1085回・旧秩父宮御殿場御別邸(秩父宮記念公園)〔再訪〕

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平成25年(2013)7月30日付弊ブログ記事にて紹介した、静岡県御殿場市の秩父宮記念公園内にある旧秩父宮御殿場御別邸は、以前は内部撮影不可であったがその後撮影可能になっていたので改めて室内を中心に紹介したい。また、平成27年(2015)より公開されるようになった防空壕も併せて紹介したい。

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秩父宮記念公園の正門。
溶岩石を貼った柱と鉄柵を組み合わせた袖塀は旧御別邸時代からのものかも知れない。

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主屋遠景。前には枝垂れ桜の古木が立っている。
元々は、御殿場市深沢の庄屋も務めた旧家・小宮山家の主屋として享保8年(1723)に建てられたのを、日銀総裁や蔵相を務め、血盟団事件で暗殺された井上準之助(1867~1932)が購入、昭和2年(1927)に別邸として現在地に移築、土間を洋室に改めるなどの改造を加えたものである。

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東側から見た主屋。井上家別邸として移築された際設けられた洋室は東側にある。
昭和16年(1941)、肺結核を患い闘病中であった秩父宮擁仁親王(1902~1953)の療養先として御殿場が選ばれ、井上家別邸は買い上げられ療養室等を増築の上、秩父宮家御別邸となった。

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西側から見た主屋。西側には擁仁親王の療養室に充てられた座敷がある。
擁仁親王は昭和27年(1952)に鵠沼の御別邸に移るまで御殿場で療養されたが、翌昭和28年、50歳で薨去された。その後は勢津子妃が主に夏季の滞在に使用され、平成7年(1995)に勢津子妃が薨去された後、遺言により御殿場市に寄贈された。

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主屋の西側からは富士山がよく見える。
遺贈を受けた御殿場市は主屋を市の指定文化財に指定、主屋を含めた敷地全体は整備の上、平成15年(2003)より秩父宮記念公園として公開、現在に至る。

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主屋西側の硝子戸を嵌めた縁側はサンルーム的に使用されていたものと思われる。(日光浴も結核療養の治療法のひとつであった)縁側の下にあるトロッコ状のものは邸内で収穫した野菜の乾燥場である。戦中戦後の食糧難の時代には邸内に菜園が設けられ、秩父宮妃自ら野菜作りに励まれた。擁仁親王も具合のよいときは手伝われたという。

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主屋の背後には御別邸となった際に増築された別棟があったが、平成4年(1992)に改築された。現在は記念館として秩父宮両殿下の足跡や愛用品などを展示する場所に使われている。写真は記念館から見た主屋で、煉瓦を積み上げた洋室の暖炉煙突が見える。かつては屋根の上まで伸びていた筈だが、撤去されたのか下側しか存在しない。

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重厚な雰囲気の主屋洋室は、玄関を入ってすぐの位置にあり、元々は土間であった。ハーフチンバーの壁面や煉瓦積の暖炉など、英国風に仕上げられているが天井を走る太い梁に古民家ならではの趣を見せる。

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暖炉脇の扉は別棟(展示館)につながっている。扉の手前にある木の袖壁はその奥に配された暖炉との仕切り壁となっている。その向かい側にはステンドグラスを嵌めた造りつけの飾り棚が設けられている。

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暖炉。
天井を一段低くし、通路と仕切る上記袖壁で囲われたイングルヌック(炉端の小部屋)状の空間となっている。

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暖炉側から見た洋室。書斎や応接間として使われた他、食堂としても使われていた。奥から机、テーブル、ソファがそれぞれ配されている。これらの家具や調度品は、擁仁親王がかつて留学されていた英国から取り寄せられたという。

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洋室の隣にある炉の間。囲炉裏端は擁仁親王と勢津子妃のくつろぎの場であった。囲炉裏では現在も茅葺屋根の維持のため、定期的に火を焚いて燻蒸による害虫駆除等を行っている。

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炉の間の天井。
梁や柱に建物の長い歴史を感じさせる。照明は移築当時のものと思われる。

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炉の間の板戸の傍には掘り炬燵らしきものもある。
主屋には洋間、炉の間の他、床の間を備えた二間続きの座敷である西の間がある。擁仁親王の療養室として使われていた部屋であるが、この部屋は外からしか覗けない。

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洋間や炉の間にある照明器具は、移築された当時のものと思われる。

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旧秩父宮御殿場御別邸の敷地内には、戦時中に両殿下専用、将校専用、付き人用の3種類の防空壕が作られていた。戦後は物置等になったり長らく放置されていたが、両殿下専用及び将校専用の防空壕は補修整備の上、平成27年(2015)夏より公開されている。写真は両殿下専用防空壕の入口。

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両殿下専用防空壕の内部。2室で構成されている。

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戦争末期には御殿場市にも米軍の空襲があり、ここが避難場所として実際に使われたこともあるという。

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将校専用防空壕の入口。

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将校専用防空壕内部。
現存、公開されている防空壕としてはここ以外にも存在しており、栃木県日光市の旧古河鉱業足尾銅山掛水重役役宅や、東京都文京区の旧安田楠雄邸のものがある。

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御殿場市内にあった古民家が昭和初期に移築改造された例として、旧秩父宮御殿場御別邸の他に伊東市川奈にある川奈ホテル田舎家(昭和11年)がある。こちらも同じく江戸時代中期の建物とされ、規模や屋根の形状に類似性が見られる。

第1084回・旧一萬田尚登邸(箱根マイセンアンティーク美術館)

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昭和21年(1946)から8年に亘って日本銀行総裁を務め、戦後の混乱期の金融界・経済界で重きを成した一萬田尚登(いちまだひさと 1893~1984)の居宅であった洋館が箱根の強羅に移築・保存されている。現在は箱根マイセンアンティーク美術館として公開されている。

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元々は東京都港区青山に建っていたという旧一萬田尚登邸。竣工年等建物の詳細な来歴は不詳であるが、昭和初年の建物と思われる。洋風を基調としているが、室内には2階に次の間付きの書院座敷も設けるなど、戦前の典型的な中規模洋風邸宅である。

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一萬田尚登がこの洋館の建て主なのか、途中から移り住んだか、またいつまで住んでいたかは判然としない。昭和40~50年代頃に敷地が道路拡幅の対象となり撤去されることになったが、これを惜しんだ東海銀行(現・三菱東京UFJ銀行)が買い取り、自行の保養施設として強羅の現在地に移築したという。

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その後所有者を転々とし、平成23年(2011)に現在の所有者によって改修が施され、箱根マイセンアンティーク美術館として公開されて現在に至っている。東海銀行所有時代に造られたと思われる石造の門をくぐると、木立の先に赤瓦の洋館が現れる。

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正面からの眺め。赤瓦葺の屋根やクリーム色の外壁など外観は南欧風に仕上げられている。室内は写真撮影禁止のため紹介できないが、各室に設けられた暖炉やドーム状の天井を持つ吹き抜けの階段室、数寄屋風を加味した二階の書院座敷、随所に施されたアールデコ風のステンドグラスなど、質の高い内装が残されている。

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庭園側からの眺め。二階の奥に見えるベランダ状の空間は書院座敷の縁側である。美術館として改修される際、建物は元の姿をそのまま残す形で改修されているが、庭園や周囲の植栽は大がかりなリフォームが施された。その模様がテレビ番組「劇的ビフォーアフター」で紹介されている。

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二階窓のねじり柱とプランターボックス。
設計者も不明であるが、しっかりした内外装のデザインから正規の建築家、もしくは富裕層の邸宅を多く手掛けていた清水組(現・清水建設)などの大手建設業者の手によるものと思われる。

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この洋館の主であった一萬田尚登は大正7年(1918)に日本銀行に入行、昭和21年(1946)に当時の新木榮吉総裁が占領政策による公職追放を受けたことに伴い総裁に就任、在任中は強い政治力と鋭い風貌から「法王」の異名を取り、昭和29年(1954)に退任するまで金融界・経済界に君臨した人物である。

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一萬田尚登の日銀総裁在任期間は、偶然ながらも吉田茂の首相在任期間とほぼ時期を同じくしているが、総裁退任後は政界に転身、吉田とは対立関係にあった鳩山一郎と岸信介の両内閣で大蔵大臣を務めた。

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館内は現在、アンティークのマイセン磁器の展示室として使われているが、洋室の暖炉やステンドグラスなど邸宅の内装はそのまま残し、各部屋の造りを活かした形で展示が行われている。

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西洋白磁の頂点に君臨するとされるマイセンは、ドイツのマイセン地方で生産される磁器で、日本や中国からもたらされた白磁の影響を受け、18世紀に誕生した。そのためか2階の書院座敷ではシノワズリ(欧州で流行した東洋趣味の美術様式)美術の展示室に充てられている。

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館内には玄関脇の円形窓をはじめ随所にステンドグラスが嵌め込まれている。写真は玄関ホールにある暖炉の飾り窓に嵌め込まれたアールデコ調デザインのステンドグラス。内側からの眺めをお見せできないのが残念。

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大正初期から別荘地として開発の始まった強羅には、弊ブログにてこれまで紹介した白雲洞茶苑旧岩崎別荘(現・強羅環翠楼)などの数寄屋風建築のほか、洋館もいくつか存在したというが、今日も現存するのは旧閑院宮邸(現・強羅花壇)ぐらいしか残されていない。他所からの移築とは言え、旧一萬田尚登邸は強羅に保存されている数少ない戦前の洋館である。

(参考)箱根マイセンアンティーク美術館ホームページ 建物について

第1083回・強羅環翠楼(旧岩崎康彌別邸)

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神奈川県足柄下郡箱根町強羅にある強羅環翠楼は、三菱財閥を築いた岩崎彌太郎の三男・岩崎康彌の別邸を改装して昭和24年(1949)に開業した温泉旅館である。現在も建物と庭園にかつての旧岩崎別邸の佇まいがよく残されている。

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強羅環翠楼は箱根登山鉄道の強羅駅南側の斜面に建っている。駅から少し坂を下りた目立たない位置にあり、いかにも別邸らしい佇まいを見せている。敷地に入ると、質素な洋館を併設した数寄屋風の二階家が現れる。

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旅館とするため増改築が施されているが、玄関周りや玄関脇の洋館などは大正10年(1921)頃に建てられた旧岩崎別邸時代の姿を残しているものと思われる。

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玄関脇に配された洋館は1室のみの質素な山小屋風で、暖炉用の煉瓦積煙突を備えている。

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玄関は左側が内玄関で、右側が主玄関。現在は宿泊客がこの主玄関から出入りする。

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別邸時代の名残を残す畳廊下。玄関を入ってすぐの位置にある客室「松」と、その上にある「晴旭の間」はいずれも次の間付きの書院座敷で、岩崎別邸の造りがそのまま残されているという。

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畳廊下から望む中庭。

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洋館内部。現在は宿泊客用のラウンジになっている。

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内部も簡素な造りだが天井が高く、窓辺には本格的な暖炉を備えている。

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暖炉は煉瓦積の煙突があるところから、かつては石炭か薪を燃やしていたものと思われる。

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焚き口の両側に貼られた火の粉避けタイルには、石榴が描かれている。

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庭園側から望む旧岩崎別邸。
岩崎康彌(1883~1960)は三菱財閥創業者・岩崎彌太郎の三男で、三代目社長・岩崎久彌の異母弟に当たる。

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岩崎康彌は小田原電気鉄道(現・箱根登山鉄道)によって分譲が始まっていた強羅の別荘地を大正4年(1915)に7区画分購入、その一角に6年後の大正10年(1921)頃、木造二階建ての別荘を建設し、避暑に利用していた。皇太子時代の昭和天皇や、陸軍参謀総長も務めた閑院宮戴仁親王も岩崎別邸を利用された。

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特に閑院宮戴仁親王は、昭和3年に岩崎別邸に宿泊して強羅の土地をいたく気に入られ、岩崎康彌より別邸の敷地の半分を譲り受け、自らの別邸とされた。現在、旧閑院宮家別邸は料理旅館「強羅花壇」として営業しており、当時の建物も残されている。

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昭和20年の敗戦後、占領軍によって財閥解体が進められ、岩崎家一族など財閥家を含めた富裕層には高額の財産税が課せられた。岩崎康彌は財産税納付と生活資金捻出のため、昭和23年(1948)に強羅の別邸を売却することになる。別邸を買い取ったのは、同じ箱根の塔之沢で老舗温泉旅館「環翠楼」を経営する鈴木二六であった。

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小田原の網元であった鈴木家は、明治期より塔之沢温泉の元湯の経営を引き継いでいた。旅館は伊藤博文によって「環翠楼」と名付けられ箱根屈指の高級温泉宿となり、現在も当時の隆盛を伝える建物で盛業中である。

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岩崎別邸の建物と庭園をそのまま活かしつつ、新たな客室棟を増築して昭和24年(1949)4月に「強羅環翠楼」は開業した。その後敷地内で強羅では初めての自家用温泉を掘り当て、昭和30年(1955)には昭和天皇の宿所にも充てられた。

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鈴木二六によって「華清園」と名付けられた斜面に広がる緑豊かな庭園は、岩崎別邸時代の佇まいを残しているという。写真の建物は旧岩崎別邸に隣接して建つ客室棟で、昭和24年の開業当初に建てられた部分と思われる。

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客室棟の一室から望む外の景色。

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昭和30年(1955)に神奈川県で開催された秋季国民体育大会(国体)御臨席のため、昭和天皇・皇后両陛下は強羅環翠楼に宿泊された。写真の建物は、宿泊用に新築された離れ「錦華亭」である。

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前方に張り出した部分は洋室となっている。

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旅館となった後建てられた建物の中では、「錦華亭」は最も趣向を凝らした建物である。

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本家の塔之沢環翠楼は国の登録有形文化財となっているが、強羅環翠楼も現在のすばらしい佇まいを今後も維持して頂きたいものである。(塔之沢環翠楼については弊ブログ過去記事もご参照頂きたい)

(参考) 「岩崎家ゆかりの別邸 強羅環翠楼物語」(館内に置かれた小冊子)

第1082回・旧原邦造邸(原美術館)

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東京都品川区北品川にある原美術館は、実業家・原邦造の旧邸を利用した私設美術館。昭和13年(1938)に建てられた鉄筋コンクリート2階建の主屋は、邸宅建築としては珍しいモダニズムスタイルで、第一生命館や銀座和光、東京国立博物館等の設計で知られる渡辺仁の設計による。

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原美術館はJR品川駅から西に徒歩15分程度の位置にある。御殿山と称される小高い丘になっており、かつては三井財閥の益田孝や三菱財閥の岩崎彌之助など、貴顕富豪の大邸宅が建ち並んでいた。

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瓦を載せた土塀で囲まれた古風なお屋敷風の敷地を正門から入ると、モダンな原美術館本館が現れる。かつての旧原邦造邸の洋館部である。元々は既存の日本家屋にモダニズムスタイルの洋館を新築した和洋併置型の邸宅であった。日本家屋は現在、附属の煉瓦造の蔵を除き現存しない。

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原邦造(1883~1958)は、満鉄勤務を経て実業家・原六郎の養子となり、愛国生命(のち日本生命に合併)社長や王子製紙、東武鉄道などの取締役を務め、第二次大戦後は日本航空の初代会長も務めた実業家である。

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この館を建てた当時、御殿山の邸宅には養父の原六郎が建てた広大な和風の建物があったが、モダンでコンパクトな住居を望んだ夫人(原六郎の娘)の意向に沿って、モダニズムスタイルの新館を増築した。これが現在の原美術館本館である。

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邸宅として使われた期間は短く、昭和20年の敗戦後は米軍に接収され、返還後もビルマ(現ミャンマー)大使館として貸し出されるなど原家の住宅として使われることは無かった。昭和54年(1979)、原邦造の孫である原俊夫氏によって改装され、現代美術専門の美術館に生まれ変わった。

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上から見ると「レ」の字型をした旧原邸は、二階建ての居住棟と、使用人部屋や事務室が入る平屋建てのサービス棟が、玄関を挟んで両側に伸びる構成となっている。サービス棟の端には、既存の日本家屋に付随していた煉瓦造の蔵が現存している。

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正面玄関から向かって右側が居住棟で、原家の住まいとして使われていた部分。写真は玄関脇に配された応接室の窓で、内部は二層吹き抜けになっており、暖炉を備えている。

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正面玄関。スチールサッシの玄関扉などは創建当時からのものと思われる。現在はカフェとなっている中庭への開口部に入る建具も、創建当時からのものと思われる。

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正面玄関から向かって左側のサービス棟。
通用口と思われる。

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写真撮影禁止のため、写真で内部の模様をお伝えすることはできないが、内部は美術館として改装されているものの上述の応接間や全面を硝子窓にした半円形の朝食室、階段室等、随所に邸宅として使われていた当時の面影を見ることができる。

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応接間の脇には庭園への庭門があるが、かつて日本家屋も併設されていたことが分かる造りになっている。

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中庭から見ることができる煉瓦造の蔵は、現在も美術館の倉庫として使われているようである。明治~大正期に多く見られる焦茶色の焼過煉瓦と、昭和初期のモダニズム建築に見られる白い四角いタイルとの2種類の外装材が併存している。

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現在、御殿山界隈ではこの原美術館と、三菱グループの迎賓館(開東閣)として使われている旧岩崎彌之助邸に、往年のお屋敷街の面影を見ることができる。

第1081回・旧吉田茂邸(大磯町郷土資料館別館)

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前回の旧住友家俣野別邸と同時期に火災に遭い、ほぼ同時に再建された大磯町の旧吉田茂邸。平成29年4月より大磯町郷土資料館別館として公開されている。旧住友別邸に比べるとオリジナルの部分が殆ど残されていないのは残念であるが、日本の政治史を語る上で欠かせない人物の邸宅として見るには非常に興味深い建物である。

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旧吉田邸への入口である兜門。京都から大工を呼び寄せ裏千家の門を模して建てられた。敗戦後の連合国による占領状態を終結させることになった昭和26年(1951)のサンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられたため「講和条約門」とも称される。吉田が首相を退任した昭和29年(1954)に完成した。

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旧吉田茂邸は平成21年(2009)3月、大磯町が取得し、公開に向けた整備が始まった矢先に住友別邸とほぼ1週間を隔てて不審火によって全焼してしまった。一部の部材等が他所に移されていた旧住友別邸と異なり、屋内の調度品まで全て失われてしまった。上述の兜門と庭園、主屋に付属するサンルーム、伊藤博文などを祀った祠「七賢堂」(後述)のみ、複製ではない本物が残されている。

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焼失前の旧邸は、吉田茂の養父であった実業家の吉田健三(1849~1889)が明治17年(1884)に建てた別荘に、吉田が昭和22年頃及び昭和30年代にかけて2度にわたり増改築を施した主屋と、昭和30年代後半に完成した庭園で構成されていた。

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吉田茂は敗戦の前後から昭和42年(1967)に死去するまで、大磯の邸宅を本邸としていた。なお、首相在任中吉田は永田町の首相官邸(現在は首相公邸となっている建物)を嫌い、白金台の旧朝香宮邸を首相官邸(兼公邸)として利用していた。

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明治期に吉田健三が別邸として建てた部分については、正確に復元できるだけの資料が残されていなかったことから再建されていない。写真のとおり礎石だけが残されている。吉田茂によって戦後増改築された部分のみ、実測図などの資料が存在したため再建が実現した。明治期の部分は規模としては主屋全体のごく一部であり、座敷が数室程度あったものと思われる。

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首相退任後も池田勇人、佐藤榮作など吉田の直弟子に当たる大物政治家などが大磯の吉田邸を絶え間なく訪れ「大磯詣で」と称されたという。玄関手前の石燈籠は邸宅で繰り広げられる様々な人間模様、そして邸宅自体の焼失、再建を見てきたものと思われる。 

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玄関のある斜面下側の建物が昭和22年頃に主屋の応接間棟として増築された部分を再現したもの。大理石の暖炉のある1階応接間は全体的に数寄屋風に仕上げられ、アールデコ調の照明器具を取りつける。天井は船底天井。

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焼失前の旧吉田邸を紹介している書籍などを見ると、応接間の暖炉の大理石はもっと緑色がかっており、同じ石材は入手できなかったものと思われる。

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応接間の照明器具は吉田が首相官邸(公邸)として執務・居住し、非常に気に入っていたと言われる旧朝香宮邸の照明器具とよく似たデザインとなっている。旧朝香宮邸についての弊ブログ過去記事には当該照明器具の写真も掲載しているので、興味のある方は御覧頂きたい。

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二階は吉田の居間や書斎として使われていた座敷が再現されている。

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掘り炬燵と造りつけの机がある書斎。

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船の形をした浴槽のある浴室。

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斜面に造られた階段を登ると新館に続いている。写真の部屋は1階の食堂で、壁はビニールクッションのようなものを貼っている。明治から昭和初期の洋館では、食器の音が響くのを防ぐため食堂は壁を板張りで仕上げるのが定石だが、それに代わるものと思われる。

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新館は数寄屋風を現代的にアレンジした作風で知られる建築家・吉田五十八の設計で、昭和30年代に増築された建物を再現したもの。写真は新館の2階、接客用に使われた「金の間」。

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晩年の吉田の書斎兼寝室として使われていた部屋を再現した「銀の間」
吉田は「銀の間」で89年の生涯を閉じた。

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新館2階からの眺望。邸内でも最も高い位置にあるため見晴らしがよい。最晩年の吉田は新館の窓辺で富士山を眺めることが多かったという。

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吉田が実際に過ごしていた建物として邸内で唯一現存するのが主屋脇のサンルーム。主屋との繋ぎ目には焼け焦げの跡が残されている。サンルームも吉田のお気に入りの場所であったというが、未整備なのか内部に入ることはできない。

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庭園の一角にある「七賢堂」。元々は伊藤博文が大磯の自邸内に岩倉具視・大久保利通・三條実美・木戸孝允を祀る「四賢堂」として明治36年(1903)に建てられたものである。伊藤の死後は伊藤自身も加えられ「五賢堂」となり、昭和35年(1960)に吉田邸内に移築されたものである。

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吉田邸内に移築後は、吉田によって新たに西園寺公望が合祀された。そして吉田の死後は佐藤榮作によって吉田自身も合祀され、現在の「七賢堂」となっている。

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神奈川県内に残る吉田茂(とその縁者)ゆかりの場所として、大磯の旧吉田邸のほか、湯河原町にある昭和11年の二・二六事件の襲撃現場となった伊藤屋旅館別館跡がある。ここでは吉田茂の義父に当たる牧野伸顕伯爵と吉田茂の娘(麻生太郎氏の実母)が事件に遭遇、九死に一生を得た。現在は事件後に再建された建物が一般公開されており、近現代史に興味のある方は両者を併せて見学されるのもよいと思う。(参考 伊藤屋旅館別館「光風荘」弊ブログ過去記事
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