第1093回・旧四谷見附橋(長池見附橋)

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JR四ツ谷駅を跨ぐ跨線橋である四谷見附橋は、大正2年(1913)に架けられた鋼製アーチ橋で赤坂離宮(現・迎賓館)に近接する橋として華麗な意匠の欄干や照明燈で飾られていた。道路拡幅のため平成3年(1991)に現在の橋に架け替えられたが、旧橋の本体は多摩ニュータウンに移設、長池見附橋として再生され、親柱と欄干は現在の四谷見附橋に再利用されている。

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長池見附橋がある長池公園は、東京都八王子市別所2丁目にある多摩ニュータウンの地区公園である。長池見附橋は公園内を横切る市道の橋として現役で使用されている。

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四谷から移設されたのは鋼製アーチの主構部で、親柱、欄干、照明燈、煉瓦と石で仕上げられた橋台は移設に際して新しく作られたものだが、いずれも旧橋の意匠を忠実に復元したものとなっている。

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四谷にあった当時は外堀と中央線を跨ぎ、新宿通りを通していた。近接する赤坂離宮(現在の迎賓館)の外門的に位置づけられたことから、ネオ・バロック様式の装飾を取り入れた華麗な意匠が施された。

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設計は東京市技師の華島正義が構造設計を行い、福田重義が装飾設計を担当した。福田重義は日比谷公園内に現存する旧公園事務所の設計者であり、横浜市開港記念会館の現設計者としても知られる。

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旧四谷見附橋は幅員が約22メートルであったのに対し、長池見附橋の幅員は約17メートルとされていたため、移設に際しては約5メートル分狭められている。長さは移設前と変わっていない。

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同じ時期に架けられた装飾的な鋼製アーチ橋で現在も当時の面影をよく残しているものに、名古屋の納屋橋(大正2年)、大阪の難波橋(大正4年)本町橋(大正2年、大阪市指定文化財)があるが、このうち橋梁本体も架橋当初のものが現存するのは本町橋だけである。

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旧四谷見附橋と本町橋は、国内で現存する最古の鋼製アーチ橋と思われる。

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昭和末期に新宿通りの拡幅工事が決定し、四谷見附橋は架け替えられることとなり旧橋は解体撤去される予定であったが、昭和47年には彫刻工芸部門の文化財にも指定されていた旧橋の保存を求める声が地元住民や土木学会から起こった。 

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調査の結果、旧橋は架橋から70年以上超えていたが現役の道路橋として引き続き使用するには十分な強度を有することが判明した。検討が重ねられた結果、当時東京都住宅・都市整備公団によって整備中であった多摩ニュータウンに旧橋の本体部分を移設、市道の道路橋として再利用されることになった。

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一方、親柱や欄干、照明燈は地元の要望に配慮して現地で保存、新しい四谷見附橋に取り付けられることになったため、移設される本体部分には複製が取り付けられた。

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このような経緯から、旧四谷見附橋は八王子と四谷の2ヶ所に別れて保存・再利用されている。
それでは長池見附橋に対し、現在の四谷見附橋はどのようになっているのかを見てみたい。

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JR四ツ谷駅中央線ホームから見た現在の四谷見附橋。
欄干及び石の親柱、その上に載る照明燈、煉瓦と石で仕上げられた橋台は長池見附橋と同じ形のものが見える。

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橋の主構は形態こそアーチ状であるが、旧橋とは全く異なる現代の橋梁である。
幅は旧橋に比べて大幅に広げられており、全長と全幅はほぼ同じとなっている。

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旧橋のものが再利用されていると思われる欄干。

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本記事5枚目の写真と比較すると、旧橋の面影がかなり踏襲されているのがお分かり頂けると思う。

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橋の上から欄干、親柱、照明燈を望む。

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四谷見附橋では橋銘を親柱ではなく、欄干の中央部に設けられた橋銘版に記している。

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親柱や欄干の御影石で造られた部分は黄色味を帯びており、青みを帯びている長池見附橋のものと色調が異なる。これは石に含まれる鉄分が錆びたことによるもので、年数を経ている証拠である。即ち四谷の方に旧橋の部材が再利用されていることが分かる。

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用途を終えながらも引き続き使用に耐える橋梁を他所に移設・再利用した事例は、大阪の旧心斎橋(現・緑地西橋)等戦前より多く存在するが、旧四谷見附橋(長池見附橋)のように歴史的・文化財的側面から移設・再利用が図られた事例は珍しい。

(参考)一般社団法人 建設コンサルタンツ協会ホームページ
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第1092回・堀商店

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錠前・建具金物の老舗である合資会社堀商店は、明治23年(1890)の創業以来、東京都港区新橋2丁目で営業を行っている。現在の本社屋は昭和7年(1932)に建てられ、スクラッチタイル貼りの重厚な洋風建築は国の登録有形文化財にもなっている。

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明治時代に建てられた先代社屋が大正12年(1923)の関東大震災で罹災したため、昭和7年(1932)に再建されたのが現在の建物である。先代社屋も現在と同様角地に面しており、塔屋を載せた擬洋風建築であった。(堀商店のホームページで紹介されている)

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欧米の錠前、建具金物また暖炉金物などの輸入販売から始まった堀商店は、大正初期には自ら錠前、建具金物、そして船舶金物などの製造販売を始めて西洋金物店としての地位を築いた。現在でも独自性のある製品で知られ、歴史的建造物の錠前・金物の修理復元なども手掛けている。

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鉄筋コンクリート造4階建で、3階までを店舗及び事務所、4階が店主の住居となっており、江戸時代以来の伝統的な商家の居住形態が踏襲されている。

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設計は公保敏雄とその実兄である小林正紹の共同設計で、施工は安藤組(現・安藤ハザマ)による。小林正紹は大蔵省技師で、明治神宮外苑の聖徳記念絵画館(大正15年、国指定重要文化財)の設計者としても知られる。

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局面を持つ角地に店舗の入り口を設け、両端に設けられた開口部がそれぞれ通用口及び居住階への玄関と思われる。

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外観からは想像できないが、居住空間である4階には床の間付きの客間や仏間などの和室が暖炉を備えた応接間などの洋室と混在しているという。(現在も当時の内装が残されているかどうかは分からない)

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先代社屋と同様に塔屋を備えている。塔を持ち濃厚な装飾とスクラッチタイルで覆われた外観はほぼ同時期の建物である大阪の生駒時計店を連想させる。生駒時計店もかつて最上階は居住空間となっており、住み込みの店員の寝起きに使われていたという。

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外壁の老朽化が進んでいるのかここ数年来、外壁は剥落防止用と思われるネットで覆われている状態が続いている。

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修復される日が遠からず来ることを念ずる。

第1091回・伊勢河崎商人館(旧小川酒店)

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伊勢河崎商人館は、伊勢市でも古い街並みが残されている河崎にある商家のひとつである旧小川酒店の建物を保存、公開している施設。明治期に建てられた主屋、茶室や洋風の応接間、サイダー工場跡などもあるのが特色である。国登録有形文化財。

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河崎は伊勢湾に注ぐ勢田川沿いにあり、戦国時代には水運を利用して町が成立していたとされる。江戸時代以降は問屋街として栄え、伊勢神宮への参拝客で賑わう宇治と山田に生活物資を供給する伊勢の台所としての役割を果たしてきた。第二次大戦後、陸上輸送の発達に伴い町は衰退する。

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そのために古い街並みが今日までよく残されており、現在では古い蔵や商家の建物のうち、一部を飲食店等に改装して観光資源にしている。この地方の伝統的な造りの商家や蔵が多いが、中には洋風意匠を加味した土蔵なども見られる。

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伊勢河崎商人館は江戸時代から酒問屋を営んでいた小川家の店舗兼住居で、江戸時代から明治、大正期にかけて建てられた家屋と蔵、また明治末期から製造を始めたサイダー工場の跡から構成されている。現在は伊勢市が所有、運営管理は地元住民主体で行う形で資料館・貸店舗等として活用されている。

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奥が明治中期に建てられた主屋で、店舗と住居を兼ねている。その隣(写真手前)にコンクリート塀で囲われた応接間や茶室等の接客用空間を設けている。

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主屋は明治25年(1892)の火災後再建されたものと考えられている。壁面全体を板張りとして、切妻部分には「大庇」と称される小さな張り出しを設けるなど、この地方の伝統的な商家の造りが見られる。

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主屋に続くコンクリート塀には観音開きの扉が設けられ、内側にある応接間や茶室に直接出入りできるようになっている。応接間は小さな洋室だけの離れになっており、コンクリート塀の内側に設けられた渡り廊下及び前室で主屋とつながっている。

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主屋を入ると帳場があり、その先は吹き抜けを持つ土間になっており、台所が設けられている。

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土間に面して居室2室があり、そのうち10畳間は床の間を備えた座敷となっている。その先は前栽を挟んで内蔵が設けられており、現在は昔の酒屋の資料などを展示する資料室となっている。

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2階にも居室が3室設けられており、写真は街路に面した床の間付きの座敷で、家族用の居室または接客用の部屋と考えられる。

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主屋の裏はサイダー製造工場の跡地を挟んで蔵2棟が並ぶ。サイダーは明治42年(1909)に当時の当主・小川三左衛門が自らのイニシャルを付けた「エスサイダー」の名で製造販売を開始、昭和50年(1975)まで生産されていたという。現在も館内で復刻品が販売されており、飲用可能である。

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サイダー製造工場の施設のうち、写真の濾過施設のほか検査室が現存し、主屋と同様国の登録有形文化財となっている。大正時代に建てられた鉄筋コンクリート造の施設である。

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主屋に隣接する接客用の建物は、先述のとおり応接間と茶室から構成される。コンクリート塀に穿たれた門をくぐると、塀の内側は主屋と応接間を結ぶ吹き放しの渡り廊下になっており、モザイクタイル貼りの土間を持つ前室を介して応接間につながっている。

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応接間内部。大正期の建設とされる。ごく小さな洋室だが、立派な暖炉を備えている。

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漆喰と白・緑2色のタイルで固めた暖炉。

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照明器具は創建時からのものが残されている。

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渡り廊下から主屋への入口。渡り廊下を支える柱は簡素ながらも、基壇と柱頭飾りを持つ洋風の円柱となっている。

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渡り廊下から望む茶室。
露地が設けられており、その先に茶室がある。

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茶室前の露地から望む応接間と渡り廊下。

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応接間と茶室の間に設けられた離れ便所。入口の横に手水鉢が設けられている。
角を円柱にするなど、応接間や渡り廊下に対応した洋風の外観となっている。

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茶室は明治期の建設で京都裏千家の茶室の写しとされる。天井の造りが珍しい。

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茶室の欄間はカブをあしらった模様を透かし彫りにしたもの。カブは縁起物として、現在は明治村に保存されている名古屋の旧東松家住宅など、商家の欄間に時々見ることができる。

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裏側から見た茶室。濡縁を配している。
伊勢河崎商人館は規模は小さいが、洋風意匠を取り入れた接客部分やサイダー工場の遺構など、他では余り例を見ない特色を備えた興味深い造りの商家である。

第1090回・吉川英治記念館

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東京都青梅市柚木町にある吉川英治記念館には、昭和時代を代表する大衆作家のひとりである吉川英治(1892~1962)が戦中戦後の約10年間にわたって過ごした旧宅が保存、公開されている。明治時代に建てられたとされる現地の養蚕農家の家屋を買い取って一部増改築を施された家屋は、作家の住まいとしても興味深いが、書斎として使われていた離れの洋館など建物自体も見どころに富んでいる。

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街路から望む全景。手前の現在駐車場になっている場所は、かつては梅林であったという。

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敷地内に建つ母屋と離れの洋館、土蔵、長屋門は当地で養蚕業を営む野村氏の屋敷として、江戸時代後期から明治半ばにかけて建てられたという。現在はそれらに加え、記念館の展示室が建っている。

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細い路地に面して建つ長屋門が記念館の入口になっている。吉川英治はここの袖部屋を納戸と書庫として使っていた。

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戦時中は防空壕もあったという。現在防空壕は残されていないが、門の脇にある防火用水のコンクリート製水槽が当時を偲ばせる。戦時中の防火水槽で現存するものではここ以外に横浜の旧柳下家住宅がある。

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正面から望む母屋。明治初期の創建と考えられている。
屋根は元々は板葺きであったが、記念館とする際に銅版葺に改められている。

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吉川英治は昭和16年(1941)にこの家を買い取り、3年後の昭和19年3月に転居、昭和28年8月までの約10年間この家で暮らした。所謂引っ越し魔で、生涯に約30回転居を重ねた中で最も長く住み続けた家であり、戦後の大作「新・平家物語」(昭和25年連載開始)などがここで執筆された。

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離れの洋館。明治の半ばに奥多摩の一角にこのような洋館が建てられていること自体が驚きである。
吉川英治は当初はここを書斎として使っていた。

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江戸時代末期の弘化4年(1848)の創建とされる土蔵。手前にあるのは吉川英治が随筆にて名水と記したという井戸。

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玄関。入って右側は元々は五右衛門風呂のある浴室などがあったが、戦後間もなく数寄屋風の座敷に改装されている。応接間として使われた他、東京から来る編集者の待機場所に充てられていたという。

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旧宅の内部は通常は外から覗きこむ形でしか見学は出来ないが、吉川英治の命日に当たる9月7日(英治忌)と見学会(平成29年は6月に4日間実施、既に終了。)実施時のみ見学できる。

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見学会は学芸員による説明に加え、記念館館長の吉川英明氏(吉川英治の長男)による居住当時の思い出話が聞ける大変興味深いものであった。

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奥の床の間のある座敷が吉川夫妻の寝室で、手前の次の間が書斎として使われていた。

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精緻な組子細工が施された座敷の欄間。

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戦後の昭和22年頃に玄関脇の浴室を応接間に改築するなどの増改築が行われ、母屋の裏に新たな浴室などが作られた。

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離れ洋館の内部。書斎として使われていた当時の設えを再現している。
ただし、吉川英明氏によると専ら書斎として使っていたのは先述の座敷であり、洋館の離れはあまり使っていなかったのでは、とのことであった。

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洋館のテラス。

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洋館から母屋を望む。
洋館テラスの角柱が真ん中にふくらみのあるエンタシスとなっているのは珍しい。

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テラスの床に敷き詰められているのは瀬戸焼の「本業タイル」である。

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洋館内部の天井照明台座。

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洋館の室内やテラスの天井に施された漆喰細工は非常に精緻なもので、明治中期としてはかなり本格的な造りの洋館であったことが窺える。

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弊ブログでは作家の住まいまたは生家として他に、谷崎潤一郎志賀直哉、太宰治(生家及び疎開先)、山本有三里見弴江戸川乱歩の家をそれぞれ既に紹介しているので、興味のある方はそれぞれ御覧頂けると幸いである。

第1089回・旧山田郵便局電話分室(ボン・ヴィヴァン)

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伊勢市本町の伊勢神宮外宮前にある赤い瓦屋根の洋館は、大正12年(1923)に山田郵便局(現・伊勢郵便局)電話分室として建てられた。東京中央郵便局などの設計で知られる建築家・吉田鉄郎の初期作品のひとつで、現在はフランス料理店「ボン・ヴィヴァン」の店舗として利用されており、伊勢市の観光名所となっている。

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明治42年(1909)に新築移転した山田郵便局舎(現在は明治村に移築、博物館明治村簡易郵便局として現在も使用されている)が手狭になったため、電信事務を行う執務室として大正12年(1923)11月に隣接地に増築された。(当時は電話や電報についても郵便局(逓信省)の所轄となっていた)

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木造(切手倉庫等一部を除く)の山田郵便局舎に対し、電話分室は煉瓦造である。

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写真の左手がかつて旧山田郵便局舎が建っていた敷地に当たり、現在はその一角に伊勢外宮前郵便局が建っている。

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昭和42年(1967)の伊勢郵便局(昭和30年に山田郵便局から改称)の新築移転に伴い旧局舎は明治村に移築されたが、旧電話分室は今日に至るまで創建当初の位置に建っている。

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同時期の作品である旧京都中央電話局上分局と同様、ドイツの民家を意識したという瓦屋根を載せた外観が特徴。京都は日本瓦葺であるがこちらは赤い洋瓦葺で、規模も平屋建。

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昭和30年(1955)に電話分室としての役目を終えた後は健康管理所や郷土資料館として使用され、現在はフランス料理店の店舗として活用されている。

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外壁は煉瓦の上からモルタルを塗っているので一見煉瓦造であるとは分からないが、壁が非常に厚いのが分かる。

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コの字型平面の建物で、内側に中庭を有する。

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中庭に面して木造吹き放ちの回廊を設けている。

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現在では伊勢を代表する観光名所のひとつとなっている。

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木製サッシの上げ下げ窓など建具も含め建物は極力原型を損なわずに、建物と良く調和した中庭を設けるなど、センスの良さが感じられる。

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大正建築の旧山田郵便局電話分室は、明治の神宮徴古館、昭和戦前の宇治山田駅舎と共に、伊勢市を代表する戦前の洋風建築である。

第1088回・旧三重刑務所(旧安濃津監獄)正門

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三重県津市修成町にある三重刑務所の敷地内に煉瓦造の旧正門が保存されている。旧名称の「安濃津監獄」時代に当たる、大正5年(1916)に建てられたとされる。

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三重刑務所は昭和62年(1987)から平成20年(2008)にかけて全面改築され、旧正門だけが歴史的資料として保存されている。

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敷地内には立ち入ることはできないので、街路から遠望する形になる。

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旧正門は明治41年から大正8年にかけて建設された施設の一部で、煉瓦造の本体に日本瓦葺の屋根を載せる。

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大正期の建物によく見られる茶褐色の焼過煉瓦で壁面の大部分が構成されており、部分的に赤煉瓦が装飾的に用いられている。

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正面上部にある右書きで「安濃津監獄」と記された扁額は、保存に際し新たに取り付けられたものと思われる。安濃津監獄が現在の三重刑務所に改称されたのは大正11年(1922)のことである。なお、「安濃津」とは津の古称である。

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側面から見た旧正門。左手は現在の刑務所の塀で、手前は刑務所の専用駐車場であるため、正面と同様に遠くから見る形になる。

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中央部にかつての塀の痕跡を見ることができる。

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矯正展のときのみ、近くで見られるのかも知れない。

展覧会「よみがえる半泥子の千歳山荘」

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三重県津市で6月13日より開催されている展覧会「よみがえる半泥子の千歳山荘」に行ってきた。
千歳山荘とは弊ブログで度々紹介させて頂いている旧川喜田久太夫(半泥子)邸のことである。山荘の書院を飾っていた襖や洋館の棟飾り、山荘の写真及び図面、半泥子が作った茶碗などが展示されている。資料は初めての公開と思われるものが多く、見応えのある内容である。7月2日まで。(写真は販売されていた図録)

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詳細については下記の産経新聞記事を紹介させて頂く。

千歳山荘復元へ「よみがえる半泥子」展 三重県総合博物館で茶碗や杉戸、ゆかりの品展示

百五銀行頭取を務めるなど実業家として活躍する一方、陶芸や書画、俳句、写真などに豊かな才能を発揮した川喜田半泥子(はんでいし)(1878~1963年)が津市垂水に建てた千歳山荘(ちとせさんそう)で表した美の世界を紹介する交流展「よみがえる半泥子の千歳山荘展」が、津市の県総合博物館MieMuで開催中だ。主催は津文化協会などで、山荘の復元や再建などに向けて機運を盛り上げたい意向。展示は7月2日まで。
 千歳山荘は大正5年、津市を一望する千歳山に完成。洋館と和館を併設し、窯も開いて半泥子が創作活動の拠点にする一方、半泥子を慕って訪れる財界や文化人、政治家らのサロンとして情報発信の場になった。
 山荘はその後、移転を繰り返し昭和60年に鈴鹿市で解体され、部材は奈良県内の民間団体の倉庫で保管。三重県内の団体などが、もともと山荘のあった千歳山での復元、再建を目指し、運動を続けている。
 展示では、半泥子作で初公開となる茶碗(ちゃわん)や、山荘にあったふすま、杉戸のほか、屋根にのせた銅製の棟飾りなど約40点を並べた。山荘建設の経緯や半泥子の人生、美術品の作者の解説なども、写真パネルなどで紹介している。
 同協会の辻本當理事長は「なんとか再建したいので、多くの人に山荘の素晴らしさを分かってほしい」とPRしている。
 期間中の土、日曜日は山荘のミニチュアペーパークラフト教室を開催。また、17日午後1時半から菅原洋一・三重大教授による講演「半泥子と千歳山荘」と、藤森照信・江戸東京博物館館長による講演「茶と茶室について」が隣接の県生涯学習センターで開かれる。定員100人。無料だが、当日午前10時から博物館展示室受け付けで配布される整理券(先着順)が必要。

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購入した図録から図版を一部紹介させて頂く。(※もし問題がある場合は速やかに公開を取り止めさせて頂きます)
昭和59年(1984)頃、鈴鹿市に建っていた頃の姿。この後間もなく解体され、今日に至るまで解体材の状態で保管されている。

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昭和18年(1943)に撮影された洋館1階広間。
川喜田半泥子から海軍に献納され、鈴鹿に移築される直前の撮影と思われる。

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書院の一ノ間。これらの建物の部材は大半が良好な状態で現存しており、再建は可能であるという。このような資料を目にすると益々再建が本当に実現することを願わずにはいられない。
現在、再建に向けた活動を進めており、今回の展覧会を主催された「半泥子と千歳山の会」のホームページはこちら

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上記展覧会と併せて、川喜田半泥子ゆかりの建物や施設を見学(一部は再訪)してきた。
津市垂水の千歳山の一角にある石水博物館は、江戸時代からの伊勢の豪商であった川喜田家の資料や、同家十六代当主である半泥子の陶芸作品等を収蔵、展示している。

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石水博物館の敷地はかつての千歳山荘の一部に当たり、写真の門や収蔵庫として建てられた千歳文庫などが現存する。(千歳文庫や旧千歳山荘の門について弊ブログ過去記事参照)

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伊勢志摩サミットの会場として注目を集めた志摩観光ホテル。昭和26年(1951)開業当初の姿を残す旧館は、昭和18年(1943)に鈴鹿海軍工廠内に建てられた将校倶楽部を移築再利用したものである。千歳山荘の洋館と書院は海軍ではこの建物に隣接して移築され、貴賓室として使われていた。

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川喜田半泥子が昭和14年(1939)に千歳山荘内に自らの設計で建てた茶席「山里茶席」。戦後間もなく半泥子が津市郊外に設けた窯場である廣永陶苑に移築され、現在は見学も可能となっている。

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廣永陶苑には「山里茶席」のほか、半泥子ゆかりの興味深い建物が点在する。

これらの建物は今後改めて個別に紹介させて頂く予定である。
プロフィール

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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

(写真について)
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