第1108回・出雲ビル

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島根県松江市白瀉本町にある出雲ビルは、大正14年(1925)建てられた松江で最初の鉄筋コンクリート造ビルとされ、地方都市における鉄筋コンクリート造建造物としても初期の事例である。

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慶長12年(1607)の松江開府以来、松江の経済産業の中心地として栄えてきた白潟地区の中心部にある白潟本町商店街に面して建っている。4階部分は後年の増築であるが、概ね創建当初の姿をよく残している。

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出雲ビルの創建者である出雲益良氏は、白潟地区で商業を営んでおり、英国遊学の際にロンドンで見たデパートを松江にも建てたいとの思いから、鉄筋コンクリート3階建地階付の「出雲ストア」を大正14年(1925)に建てた。

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出雲ストアはキッコーマン醤油と取引があった関係から、店舗の設計者はキッコーマンとは縁の深い建築家である大森茂が手掛けた。

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大森茂は今は無い東京・駿河台の明治大学校舎の設計者としても知られ、現存するものではキッコーマン創業家のひとつである千葉県野田市の高梨本家のほか、同じ野田市にある興風会館、東京・目白の旧細川侯爵邸(現・和敬塾)などがある。

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正面3階上部の外壁には、右書きで「いづビル」と記された人造石の看板が創建当初のまま残されている。

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1階の看板もかつては3階と同様人造石仕上げで、「出雲ストア」と右書きで記されていた。

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ハイカラな商品を取り扱う「出雲ストア」には喫茶店やダンスホールもあり、戦前の松江における最新の西洋文化発信の拠点であったという。

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内部はかなり改装されているようであるが、タイル張りの階段など随所に戦前の雰囲気を残す造りを見ることができる。

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現在はテナントビルとして店舗や事務所等が入居している。
平成29年(2017)には、出雲ビルは松江市が導入した登録歴史的建造物認定制度の第1号として認定された。
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第1107回・浅野小児科医院

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島根県松江市末次町にある浅野小児科医院は、大正元年(1912)に小児科医院として建てられた端正な意匠の洋風建築。現在も創建当初と変わらず小児科として診療を行っている。国登録有形文化財。

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第二次大戦の戦災を免れた島根県松江市には、国宝・松江城を始め、城下町の名残を残す歴史ある建物が随所に残されている。浅野小児科医院は現存する松江市の洋風建築の中でも、代表的な存在のひとつである。

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木造であるが、ドリス式双子柱で飾られた玄関ポーチや大オーダーで3分割された外壁など、石造の洋風建築を思わせる端正な意匠が施されている。

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竣工とほぼ同時期に明治天皇崩御、大正改元を迎えたため、竣工の祝宴を急遽取りやめたという挿話も残されている。(「中国地方の西洋館」 白石直典著 平成3年中国新聞社刊)

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外観を保存しながら引き続き医院として使用するために、平成元年(1989)に大規模な改修が行われた。(→参考

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玄関ポーチの上部はバルコニーとする。玄関扉は現代的に改造されているが、その上には「浅野小児科醫院」と正字体で記された白い陶器の表札が架かっており、小児科としての長い歴史を伝えている。

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ピンク色の塗装は創建当初の色調を再現したものである。平成元年の改修から30年近くを経て色が褪せていたため、近年外壁の塗り直しと老朽箇所の改修工事が施されている。(→参考その2

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基壇部分に使われている石材は地元で産出される石が用いられている。
また、袖壁にはシングル材がうろこ状に貼られており、目を引く。

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平成19年(2007)に国の登録有形文化財となっている。

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代々に亘って建物を大事に使い続けてきた所有者に、改修・修復を手掛ける建築士や業者にも恵まれ、そして住民にも親しまれている幸福な建物である。

第1106回・興正寺普門園

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愛知県名古屋市昭和区八事本町にある八事山興正寺(こうしょうじ)は「八事観音」の通称をもつ真言宗系の寺院。境内にある「普門園」では、大正7年(1918)に建てられた大書院などの質の高い近代和風建築を見学するこができる。

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興正寺は貞享3年(1686)、高野山において弘法大師の五鈷杵(ごこしょ)を授かった天瑞圓照によって建立された。尾張藩二代藩主・徳川光友の帰依を受け尾張徳川家の祈願寺として繁栄、「尾張高野」とも称されている。写真の五重塔は文化5年(1808)の築で、東海地区に現存する唯一の木造五重塔として国の重要文化財に指定されている。

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境内の一角にある「普門園」は、結婚式場等に使われている大書院、写真右側の赤瓦葺の建物「耕雲亭」、茶席として使われている「竹翠亭」など、大正から昭和期に建てられた和風建築で構成されている。

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大書院は本堂の裏にあり、大正7年(1918)に建てられた後昭和期に増築され、現在の規模になった。

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大書院の縁側。

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普門園内の建物は、茶席「竹翠亭」を拝観(有料・抹茶及び和菓子付)すれば、大書院等も併せて見学できる。(使用中の場合を除き)

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大書院は襖を外すと120畳の広大な広間として利用が可能であるという。

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仏前結婚式、各種会合、研修等の会場として利用されている。

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尾張徳川家にゆかりの深い寺院であることから、襖や欄間など随所に葵紋があしらわれている。

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大正期からのものと思われる雪洞風の照明器具。

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花頭窓を開いた付書院。

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ここにも葵紋。

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大書院の床の間。

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床の間から付書院を望む。

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大書院に隣接する「耕雲亭」の内部。

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大書院と同じく大正7年(1918)に建てられた。

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住職の客間兼執務室として使われていたという。

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夏場は葭簀戸が嵌め込まれ、よい雰囲気である。

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なお、本記事で言及した「竹翠亭」とは、大正期に海運王と呼ばれた岐阜出身の実業家・日下部久太郎が岐阜市米屋町に建てた本邸の一部を平成20年(2007)に興正寺へ移築したものである。この建物については別途稿を改めて紹介したい。

第1105回・前橋市浄水場資料館・配水塔

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群馬県前橋市敷島町にある前橋市敷島浄水場の構内に、昭和4年(1929)に建てられた旧浄水構場事務所を改修した資料館と、同時期に建てられた鉄骨造の配水塔があり、共に国の登録有形文化財となっている。旧浄水構場事務所は「建築非芸術論」などの論考で建築史に名を残す野田俊彦の設計による。

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敷島浄水場は前橋市における最初の近代的上水施設で、昭和4年(1929)に竣工、給水を開始した。現在も前橋市の主要な水道施設として稼働している。また、周囲に植えられたツツジが開花する頃には一般開放が行われ名所となっている。写真は資料館に展示されている竣工当時の浄水構場事務所と配水塔。

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現在も正門を始め建物は変わっていないが、樹木が大きくなったため事務所は隠れ、配水塔だけが見える。

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スクラッチタイルと群馬県内で産出される多胡石を組み合わせた正門も、昭和4年当時のものと思われる。

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正門を入った先に旧浄水構場事務所があり、配水塔がその背後に建つ。

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半円形の外壁が特徴的な旧浄水構場事務所は浄水場の管理事務所として使われていたが、平成元年(1989)に給水開始60周年を記念して内部を改装、水道資料館となって現在に至る。

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背面からの眺め。設計者の野田俊彦(1891~1932)は東京帝国大学卒業後、陸軍省、内務省など主に官公庁の建築技師を務めたが、昭和7年に38歳で没した。実作よりも「建築非芸術論」などの論考を多く著したことで知られている。旧浄水構場事務所は現存する唯一の設計作品であると思われる。

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緑色の瓦で葺かれた屋根の上には構内を監視するための物見台が設けられ、その下には採光用の屋根窓が設けられている。横に細長い「牛の目窓」と称される屋根窓はドイツ風意匠の洋館に見られるもので、県内沼田市にある旧土岐家住宅洋館や大阪府泉南郡の旧谷口家別邸でも同様の屋根窓が設けられている。

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2階に設けられたテラスの手摺には、水紋をイメージしたような意匠の飾り格子が嵌め込まれている。

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外壁窓下の基壇部分には正門と同様、多胡石が用いられ乱積み風の仕上げが施されている。その上に貼られたスクラッチタイルは正門に用いられている黄色味の強いものとは色調が異なるので、創建当初からのものではなく改装の際に貼り替えられたものと思われる。

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正面玄関。
資料館は配水塔と共に耐震改修が行われるため、平成29年4月より一時休館となっている。

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階段から玄関ホールを望む。建てられた当初、1階及び地階に応接室、主任室、工夫溜、小使室、流量計室、宿直室、便所が、2階には事務室、図書室、露台(テラス)が配されていた。

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階段手摺りの渦巻き状の装飾は大正期の洋風建築の装飾に多く見られるもので、昭和4年の建物としては若干古いデザインとも言える。

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構造は鉄筋コンクリート造であるが、屋根は木造の小屋組みを載せる。

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現在は展示室となっている1階玄関脇の1室。半円形の張り出し部分に当たり、部屋の中央には円柱が建っている。

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玄関ホールに展示されている、昭和4年給水開始当初に用いられていた竜頭型の共用栓。

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展示物の中には戦前のものから今日でも使われているものまで、様々な形式の蛇口もある。

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旧浄水構場事務所の裏に建つ配水塔。事務所と同じく昭和4年に竣工した。

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同形式の鉄骨造の配水塔としては、兵庫県高砂市の旧朝日町浄水場配水塔(大正12年)が現存しており、敷島浄水場配水塔と同様に国の登録有形文化財となっている。

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配水塔は平成29年3月を以て現役の水道タンクとしての役目を終えて稼働を停止した。今後は資料館と共に耐震改修を行った上、保存される予定である。

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明治から昭和初期に建設された水道施設(配水塔、ポンプ室、管理事務所等)には凝った意匠が施されたものが多く、現役を引退した後も記念館等に転用されて保存されているものは全国各地に存在している。弊ブログでもこれまで上記の旧朝日町浄水場配水塔のほか、水戸宇都宮高岡大阪神戸岡山高松の各水道施設を紹介しているので、併せて御覧頂けると幸いである。

第1104回・翠州亭(旧近藤滋弥別邸、旧スイス大使館)

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千葉県長生郡長柄町上野にある複合宿泊施設「リソル生命の森」内に建っている数寄屋風の日本家屋は、昭和5年(1930)に実業家で貴族院議員の近藤滋弥男爵の別邸として東京・麻布に建てられ、戦後はスイス大使館として昭和53年(1978)まで使われていた。スイス政府から寄贈を受け現在地に移築された後は、和食処「翠州亭」として活用されている。国登録有形文化財。

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この邸宅を建てた近藤滋弥(1882~1953)は、日本郵船社長を長く務め、同社を世界屈指の海運会社に発展させた三菱財閥の重鎮・近藤廉平男爵の後嗣であり、貴族院議員、実業家として活動する傍ら、現在も活動を続けている近藤記念海事財団を私費で作るなど、海事の発展に尽くした。

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茶道を嗜む茶人でもあった近藤滋弥男爵は、東京・麻布広尾町に数寄屋風の別邸を建てた。設計・施工共に関西にゆかりの深い人物が従事し、全室が京間取りで設計されるなど関西風の造形が施された。

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設計は大阪の都島工業学校で教鞭を執っていた渋谷五郎(1888~1977)による。伝統建築に造詣が深く、実務者用専門書「日本建築」(昭和13年初版刊行、長尾勝馬との共著)は名著と評価が高い。また職場の同僚である本間乙彦と共同で設計した大阪の芝川ビル(昭和2年竣工)では基本・構造設計を担当している。

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施工を手掛けた伴仲信次(1906~1987)は兵庫県に生まれ、関西商工学校(現・関西大倉学園。弊ブログでも以前旧邸を取り上げた化学者で実業家の平賀義美博士が長年校長を務めた夜間学校)を卒業、昭和4年に近藤男爵家に建築係として勤め、24歳にして別邸の工事を手掛けた。

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敗戦後はスイス連邦共和国政府が購入、同国大使館として使用された。戦災を免れた都心の上流階層の邸宅はその多くが戦中戦後の社会変動により所有が代わったが、各国の大使館や大使公邸となったものも多い。スイス以外ではタイ(旧濱口邸)インドネシア(旧伊藤邸)フィリピン(旧安田邸)が大使公邸として今も使われている。

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歴代大使によって原型を損なわぬよう、細心の配慮を払って使用されてきたが、大使館の新館建設に伴い解体される運命にあった。しかし、かつて施工を手掛けた伴仲信次氏(当時、春日建設㈱社長)の努力と、当時のピエール・クエヌ―大使の協力により、スイス政府から寄贈、移築されることとなった。

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昭和53年(1978)に国際親善のシンボルとして「長柄ふる里村」に寄贈され、翌年現在地に移築された。現在は「リソル生命の森」の和食処「翠州(すいす)亭」として会食や結婚式場として利用されている。平成16年(2004)には国の登録有形文化財に認定された。

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玄関。正面の引き戸を開けると玄関ホールに続く。

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階段室を兼ねた玄関ホール。
天井に走る太い梁には装飾的な手斧仕上げが施されている。

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玄関脇には引き戸で仕切られた大小2室の洋室が設けられている。
写真は暖炉も備えた大きい方の洋室(さつきの間)。かつては応接間として使われていたものと思われる。

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角に設けられた暖炉は実際に火を焚くのではなく、ストーブを嵌め込んで使う形だけのものである。

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天井は折り上げ格天井となっている。
隣接する小さい洋室(つつじの間)も折り上げ格天井だが、格子の桟を二本にするなど異なる意匠となっている。

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1階中央部に配されたレストラン席はかつては続き間の日本座敷であったものと思われる。大使館時代の改装か移築に際しての改装かは分からないが、現在は広い1室の洋室になっている。

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レストラン席から見た枯山水の庭園。

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玄関ホールとレストラン席の間の扉。
窓ガラス部分に施された細い桟の格子など、建具にも趣向を凝らしている。

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階段を上ると、屋久杉を用いた天井が見事な洋式の広間が現れる。
現在は待合室として使われている。

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広間の反対側には大広間として使われている座敷があり、その横を畳廊下が通っている。

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2階広間の天井は船底天井となっている。

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窓には非常に細い桟の格子が美しい硝子戸を嵌め込む。

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訪問時はほぼ満席で、拝見できたのは一部の部屋であるが、この広間だけでも十分訪れた甲斐があった。

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この屋敷は北野武の映画「アウトレイジ」のロケ地として使われたことでも知られているようだ。

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建物の来歴や設計者・施工者については翠州亭の案内版、及び千葉県教育委員会編「千葉県の近代和風建築:千葉県近代和風建築総合調査報告書」の記述を参考にさせて頂いた。

第1103回・日産自動車横浜工場1号館

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京浜工業地帯の一角にある横浜市神奈川区宝町の日産自動車㈱横浜工場1号館は、かつての同社の本社屋で昭和9年(1934)に建てられた。現在は工場見学の来訪者を受け入れるためのゲストホールとして活用されており、また同社の歴史や技術を紹介する日産エンジン博物館も併設、公開されている。横浜市認定歴史的建造物。

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日産自動車横浜工場はJR新子安駅に近い位置にある。この一帯は昭和初期に海岸を埋め立てて造成された。昭和9年(1934)に竣工した1号館は鉄筋コンクリート造2階建、操業を開始した昭和10年(1935)には一部が3階建に増築されている。

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昭和初期の日本の自動車市場は、当時日本に進出していた米国のフォードとジェネラル・モーターズ(GM)による事実上の独占状態にあったが、日産自動車は初めて大規模な量産体制を備えた最初の国産自動車メーカーとして、小型車「ダットサン」及び中・大型車「ニッサン」ブランドの2本立てで国産自動車の普及を図った。

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戦前戦後を通じて日産自動車の主力商品となった小型車「ダットサン」は、同社の前身に当たるダット自動車製造によって昭和7年(1932)より生産されていたが、当時のその他の国産自動車と同様に生産体制は零細であった。これを本格的な量産メーカーとしての日産自動車に発展させたのが鮎川義介(1880~1967)である。

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技術者出身の実業家である鮎川義介は、義弟で政治家としても知られる久原房之助(1869~1965)から引き継いだ久原財閥(現在の日立製作所等のルーツに当たる)を発展させ、当時四大財閥に次ぐ十五大財閥のひとつに数えられた日産コンツェルンを築きあげた。

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日産コンツェルンの自動車部門であった日産自動車の本社は横浜に置かれた。日産重工業と改称されていた戦時中の一時期を除き、昭和43年(1968)に東京・銀座に移転するまで1号館が本社事務所として使われていた。なお、日産自動車の本社は平成21年(2009)に再び横浜に戻され、現在はみなとみらい21地区にある。

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1号館は機能性を重視した昭和初期の工場建築であり、装飾的な要素は殆ど無いが、腰壁や玄関ポーチの柱には昭和初期の建築に多く見られるスクラッチタイルが貼られ、玄関ポーチにはアールデコ調の照明燈が取り付けられるなど、僅かに戦前建築ならではの造形を見ることができる。

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内部も昭和初期の工場事務所の佇まいをよく残しており、特に2階は木製枠の窓ガラスを嵌めた間仕切りや扉や床は創当初のまま残されている。廊下に連なる照明燈も、創業当初を偲ばせる円形のシェードを持つ電燈が再現されている。

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2階は日産自動車の歴史や技術を紹介する展示室になっており、1階には同社のエンジンや部品の実物を展示する「日産エンジン博物館」が置かれている。

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階段の手摺りは人造石研ぎ出し仕上げ。

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1階にある「日産エンジン博物館」全景。
間仕切りを取り払い、一室の展示室となっている。

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日産エンジン博物館では、創業当初から今日に至るまでの各車種のエンジン及び関連部品が展示されている他、写真の1957年(昭和32年)式ダットサン210型セダンなど、日産自動車の歴史を語る上で欠かせない一部の車両も展示されている。

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弊ブログの趣旨から少々外れるが、以下は横浜工場で操業を開始した昭和10年(1935)以降生産されていた初期のダットサン自動車である。戦前から量産されていたダットサンは現在も比較的多く現存しており、写真は日産自動車所蔵の1935年式14型ダットサン・フェートン。「幌型」と称され、軍や警察にも多く納入されていた4人乗りオープンカーである。

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開業医が往診用に購入することが多かったというダットサン・セダンの1935年式14型。日産自動車は自社の旧車両を多く所蔵しており、ここに紹介する戦前型ダットサンも同社が修復して所蔵しているものである。但し横浜工場で常設展示されているものではない。写真はみなとみらい21にある本社ショールームで展示されていたときのもの。

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当時日本にも輸入されていたドイツのオペル・オリンピアの影響を受けたデザインの1937年(昭和12年)式16型ダットサン・クーペ。戦前型ダットサンの中でも趣味性の強い車種であるクーペは極めて現存数が少なく、希少な車両である。

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日産エンジン博物館に展示されている1936年(昭和11年)15型ダットサン・ロードスター(2人乗りオープンカー)。これらの乗用車は一部の比較的富裕な階層が購入するだけであったが、同時に生産・販売されていたトラックなどの商用車は朝鮮、満州などの外地も含めて全国に普及、「ダットサン」は国産小型自動車の代名詞として広く知られるようになった。

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京浜工業地帯に現存する工場施設で保存されている建物は日産自動車旧本社屋のほか、川崎市の昭和電工㈱川崎事業所本事務所(昭和6年竣工、国登録有形文化財)がある。戦時中に爆撃で破壊されたりその後の設備更新等に伴い破却されているものが多いので、記念館のような形で保存されているものは希少な存在である。

第1102回・旧小坂家住宅

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東京都世田谷区瀬田にある旧小坂家住宅は、実業家で政治家の小坂順造の別邸として昭和13年(1938)に建てられた。武蔵野台地の一角である国分寺崖線沿いに多く建てられた近代の別邸の中で今も残る唯一の存在とされる。現在は広大な敷地と共に世田谷区が所有しており、公園施設として公開されている。世田谷区指定有形文化財。

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東急田園都市線二子玉川駅からバスに乗り、以前弊ブログでも紹介した「静嘉堂文庫」で下車すると、停留所のすぐそばに広大な緑地と和風の門が現れる。かつての小坂邸の裏門で、敷地に沿った坂道を登ると洋風の旧正門があり、共に現在は公園の入口となっている。現在、旧小坂邸の敷地は「瀬田四丁目旧小坂緑地」として開放されている。

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邸宅を建てた小坂順造(1881~1960)は長野県の旧家に生まれ、信濃毎日新聞や信越化学工業の社長を務めるなど実業家として活躍すると共に、衆議院議員・貴族院議員も務め政治家としても活動した。元外務大臣の小坂善太郎は長男、元運輸大臣の小坂徳三郎は三男、元文部科学大臣の小坂憲次は孫である。

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旧正門をくぐりしばらく進むと、旧小坂家住宅の主屋が現れる。
小坂順造の本邸は渋谷にあり、この邸宅は別邸として建てられたが昭和20年の戦災で本邸が焼失したため、戦後はここが本邸となった。

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主屋の脇に配された庭門。

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現在も随所に武蔵野の自然が残るこの界隈には近代以降、富裕層の別邸が多く設けられた。現在も往年の別邸の佇まいを残しているのは旧小坂邸のみである。旧小坂邸は邸宅だけではなく、広大な敷地がほぼそのまま残されている点でも貴重である。

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写真中央のベンチが置かれている場所にはかつて茶室が建っていた。戦時中には日本画家の横山大観が池之端にあった自邸から夫人と共に一時期疎開していた。自邸は東京大空襲で焼失したが、大観は既に小坂邸内に疎開していたため難を免れたという。

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主屋玄関。設計施工は清水組(現・清水建設)による。
施主である小坂順造は建築に関心があったのか、建設中も工事現場によく顔を出していたという。

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玄関の土間。自然豊かな郊外でくつろぐための別邸として建てられたためか、玄関周りは故郷の長野の生家をイメージしたものと思われる古民家風の造りとなっている。

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吹き抜け風になった玄関土間の天井。
天井の太い梁は、解体された奥多摩の古民家の部材を貰い受けたものであるという。

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玄関前の畳廊下。

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織部床が設えられた玄関脇の茶室。

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茶室の先にある書斎。

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書斎は梁や柱に太い松の丸太を用いた豪快な造りとなっており、英国の田舎家といった趣のある洋室となっている。

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書斎の暖炉廻りに平積みされている石は長野県内で産出される鉄平石である。地元で主に屋根葺き材に使われていた鉄平石は大正期頃より今日に至るまで、建築材料として広く用いられている。以前紹介した西宮の旧山本家住宅や東京白金台の旧渡辺甚吉邸でも、門柱などに鉄平石が使われている。

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玄関から畳廊下を挟んだ位置にある居間と茶の間。

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居間から茶の間を望む。
欄間には「五三の桐」があしらわれている。

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続き間となっている2つの座敷の周りを入側が囲み、硝子戸の先に庭が広がる。

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派手さはないが、材料に贅を尽くした座敷である。

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居間の軒下から庭越しに内蔵と二階建ての寝室棟を望む。

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居間・茶の間、玄関、茶室、台所、使用人部屋等がある主屋棟。
主屋棟を中心に、その両側に書斎棟、内蔵と寝室棟がそれぞれ配されている。

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主屋棟と寝室棟の間に位置する鉄筋コンクリート造の内蔵。

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邸内で唯一、二階建てになっている寝室棟の内部は洋風に作られている。
二階は子息用の部屋だが非公開。

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漆喰塗の天井や大理石張りの暖炉、簡素なステンドグラスが嵌め込まれた窓を持つ純洋風の寝室。

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寝室の窓の欄間には斜め格子紋様のステンドグラスが嵌め込まれている。

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寝室天井の照明と台座飾り。

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寝室に附属するベランダ兼サンルーム。天気の良い日はここから木々越しに富士山が見えるという。

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旧小坂家住宅は外観は和風で統一された比較的簡素な印象であるが、内部は古民家風、数寄屋風、洋風、和洋折衷など様々な意匠の部屋が見られる、趣味性に富んだ別邸である。

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平成8年(1996)に世田谷区が公園用地として小坂家より敷地を購入、建物は寄贈を受けた。平成11年(1999)には世田谷区指定有形文化財となり、現在は「一般財団法人世田谷トラストまちづくり」が区の委託を受け、公開管理に当たっている。
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