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第1137回・旧南会津郡役所

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これまで当ブログでは、県令(知事)として明治初期の山形、福島両県に洋風建築の導入を積極的に進めた三島通庸の福島県令在任中に建設され現存する3件の郡役所庁舎のうち、旧桑折郡役所旧西白河郡役所の2件を紹介してきた。今回は残る旧南会津郡役所庁舎である。福島県指定重要文化財。

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福島県南会津郡南会津町田島字丸山甲にある旧南会津郡役所。現在は館内を有料で一般公開している。

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敷地内には現在、福島県の南会津合同庁舎が建っているが、かつてはここに旧南会津郡役所庁舎が建っていた。保存に際し曳家で現在地に移設されたものである。写真は旧南会津郡役所の2階バルコニーから望む南会津合同庁舎。

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正面全景。3件の中では最も遅く、明治18年(1885)に建てられた。当時県内で新築、改築された郡役所庁舎の中では北会津郡役所に次いで大きな規模であったという。なお、北会津郡役所があった地には現在、先日紹介した会津若松市庁舎が建っている。

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当初の計画では桑折郡役所と同様に正面中央に塔を載せる計画であったが実現していない。細部は異なるものの、全体的な形はよく似ている。

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竣工当初の姿を写した古写真。竣工当初の外壁は現在のような下見板張りではなく、漆喰壁であった。なお、以下に紹介するものも含め、古写真は全て館内にて展示されている解説パネルなどのものである。

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大正3年(1914)に大規模な改修が行われ、現在の姿になった。大正15年(1926)に郡役所制が廃止されるが、建物はその後も県庁の地方事務所として昭和45年(1970)まで使用されていた。

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現役の事務所として使われていた頃の古写真。坂道を上った突き当りに正門があり、その先に建っていた。現在この場所には先述の南会津合同庁舎が建っている。

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田島合同庁舎が建設されることになり、取り壊される予定であったが保存運動が実を結び、昭和46年(1971)に敷地内での曳家移設が行われた。同年には福島県の重要文化財に指定されている。

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上から見ると中庭を持つロの字型の平面となっており、正面側のみ総二階建てで、側面と背面は平屋建てとなっている。側面から見ると旧桑折郡役所よりも規模が大きいことが分かる。

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平屋建ての部分は上半分が漆喰壁となっており、創建当初の形を残している。

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正面側の窓のみ、緩やかなアーチ窓となっている。

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玄関ポーチ及び二階バルコニーの柱に取り付けられた柱頭飾りは、千成瓢箪を思わせる奇妙なものとなっている。

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西白河、桑折の郡役所と同様、正面玄関及び二階バルコニーのアーチには色ガラスが嵌め込まれている。

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この庁舎では側面の両側にそれぞれ「官吏入口」「人民入口」が設けられており、一般職員と住民のための入口となっていた。正面玄関は特別の来客や郡長など身分の高い者だけが利用できたようである。

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中庭。

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背面側の中央に配された旧郡長室。置かれた古い洋家具や調度、実際に郡長が使用していた大礼服が重厚な雰囲気を醸し出している。

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旧桑折郡役所にも設けられていたが、側面側の一方には宿直の職員のために和室が設けられている。

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二階へ上がる階段は非常に急な上に段差が大きく、当時の人の身長ではかなり昇り降りが大変だったのではないかと思われる。

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二階は一室のみで、大会議室となっている。

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階段手摺の欄干。

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移設後は奥会津地方歴史民俗資料館(現・奥会津博物館)として利用されてきたが、同館の移転により現在は「旧南会津郡役所」として一般公開されており、建物の来歴や当地の歴史資料などについて展示が行われている。
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第1136回・旧西白河郡役所

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福島県白河市にある南湖公園の一角に、明治16年(1883)に西白河郡役所として建てられた洋館が移築されている。以前取り上げた旧桑折郡役所庁舎と同様に、福島県令(知事)として洋風建築の導入を積極的に進めた三島通庸の在任中に建てられた郡役所庁舎のひとつ。現在はカフェとして利用されている。

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現在この洋館が建っている南湖公園は、白河藩主で江戸幕府老中として「寛政の改革」を行ったことでも知られる松平定信が、享和元年(1801)に「士民共楽」の思想のもと、南湖及びその周囲を身分を問わず憩いの場として開放したことから「日本最古の公園」とも言われている。

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旧西白河郡役所は、その松平定信を祭神として祀る南湖神社の参道の手前に移築されている。

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三島通庸が福島県令として在任中に建てられた郡役所庁舎は現在、桑折・西白河・南会津の3件が現存する。正面を総二階建てとする桑折と南会津に対し、西白河は二階部分を小規模とするのが特徴である。このような形式の郡役所は三島の前任地である山形にも建てられており、西村山西置賜の2件が保存、公開されている。

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元々は白河の中心街にあったが、昭和46年(1971)に事務所としての役目を終え取り壊されるところを保存運動の結果、正面部分のみ現在地に移築されたという。

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移築後は「明治記念館」として公開されていたようだが、その後閉鎖され荒廃していた時期もあったようだ。

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現在は「ランプカフェ(Lamp Cafe)」として、水曜日以外の午後のみ営業している。(訪問時は朝だったので、敷地内に入れなかった)一時は閉鎖状態であったのが、カフェとして活用されるようになったのは甚だ喜ばしいことである。

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玄関ポーチには斜め格子の欄間が設けられており、1階正面玄関と2階バルコニーへの出口には旧桑折郡役所と同様に半円アーチの欄間が設けられ、色硝子が嵌め込まれている。

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正面玄関の両脇にも半円アーチの欄間を持つ扉が設けられている。

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貴重な明治の擬洋風建築の遺構であるが、旧西白河郡役所は現状、国の登録文化財ですらない。
桑折と南会津の旧郡役所庁舎はそれぞれ国または県の文化財に指定されており、また、山形県内にある同形式の旧郡役所庁舎もいずれも文化財として保全されていることを考えると、文化財として相当の扱いを受けていないのは残念なことである。

第1135回・会津若松市庁舎

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福島県会津若松市東栄町にある会津若松市役所の本庁舎は、昭和12年(1937)に建てられた重厚な外観が特徴の洋風建築である。竣工から80年を迎え老朽が進んでいるが、以前紹介した京都市庁舎のように保存しながら増改築を加え、今後も引き続き市庁舎として使用される見込みである。

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会津若松市庁舎は東栄町と栄町の境界に近い位置に建っている。栄町は古くからの会津若松の中心街で飲食店も多く、官公庁舎としては少々珍しい立地である。写真は栄町から望む市庁舎正面。

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本庁舎は昭和12年(1937)に建てられた鉄筋コンクリート造3階建(一部2階建)の旧館と、その背後に昭和33年(1958)増築された新館から構成されている。写真左奥に少し写る白い外壁の部分が新館。

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正面全景。左右非対称の外観は戦前の官公庁舎としては珍しい。

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設計は福島市に本拠を置く内田建築設計事務所が手掛け、戸田組(現在の戸田建設)の施工で昭和11年(1936)に着工、翌年に竣工した。

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竣工した昭和12年(1937)には支那事変(日華事変)が勃発、それ以降は建設工事は諸々の統制下に置かれたことから、戦前の本格的な洋風建築としては最後の時期の建物である。

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内田建築設計事務所は昭和4年に内田英吉氏が創業した設計事務所で、現在も(株)内田建築設計事務所として福島市で盛業中である。

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(株)内田建築設計事務所のホームページで会津若松市庁舎の設計図を見ることができるが、創建当初の姿をほぼそのまま残していることが分かる。但し正面の時計と塔屋上部の鉄塔は後年の増設と思われる。

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正面を中央とその左右で区切って見ると、3種類の異なるデザインを組み合わせたようだが、チグハグは感じはなく上手くひとつにまとめ上げられている印象を受ける。

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会津若松市は福島県内で最初に市制が施行された市である。明治32年(1899)の市制発足当初の名称は「若松市」であったが、新たに市制が敷かれた福岡県の若松市(現在の北九州市若松区)との混同を避けるため、昭和30年(1955)に現在の市名になり現在に至っている。

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重厚な2連アーチの正面玄関を入ると、創建当初からの木製扉が残されている。

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玄関内側の天井。

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閉庁日だったので玄関扉越しに内部を覗く。
階段室も踊り場のステンドグラスやアーチ形の梁など装飾的に仕上げられている。

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近年修復された階段室のステンドグラス。

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ステンドグラスは2階正面左側の旧貴賓室と思われる部屋にも嵌め込まれている。
なお、その上部の盲窓になっているところは3階の議場である。

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現在、会津若松市では庁舎整備に向けて準備が進められているが、本庁舎は旧館を保存しつつ増改築を行う方向で進められるようである。

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どの程度、どのような形で保存されるのかはまだ未定であるが、先述の京都市庁舎のように重厚な外観だけではなく内装も含めて可能な限り残して頂きたいものである。

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戦災を免れた会津若松にはこれまで当ブログで紹介した白木屋漆器店塚原呉服店を始めとする七日町の商家群や東山温泉の向瀧旅館など、洋風、和風の近代建築が多数残されているが、市庁舎もこれらの建物と共に是非後世に残したい建物である。

第1134回・JR白河駅舎

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東北の玄関口として知られる福島県白河市福島県白河市にあるJR東北本線白河駅。赤い三角屋根が目を引く現在の駅舎は大正10年(1921)に建てられた。同時期に建てられた四国のJR琴平駅舎とは赤い屋根や正面の三角切妻などに相似が見られる。

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駅の開業は明治20年(1887)で、日本初の私鉄である日本鉄道の駅として設置されたが明治39年(1906)に国有化された。

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現駅舎は鉄道省時代の大正10年(1921)に建てられた2代目である。

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町の玄関口としての役目は新幹線停車駅である隣の新白河駅(旧磐城西郷駅)に譲り、現在は静かな佇まいを見せている。

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木造平屋建てで、赤い洋瓦で葺かれた屋根に大きな三角切妻を正面に向ける外観は同時期に建てられた先述の琴平駅舎や、現存しない旧小田原駅舎と共通している。

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ハーフチンバー風の外観だが、大正期の建造物らしく正面の三角切妻には簡素な幾何学意匠の装飾が施されている。

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後補と思われるが、正面玄関上部の窓にステンドグラスが嵌め込まれており、駅舎の名所となっている。

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かつては東北の玄関口の駅として、多くの人がこの駅舎を出入りした。

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駅内部の改札まわり。

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現在は駅舎内に「駅カフェ」が設けられ、周辺市街地の活性化を図るための資源としても有効利用が図られている。白河の観光名所のひとつである白河小峰城にも近い。

第1133回・旧八束銀行本店(旧山陰合同銀行北支店、ごうぎんカラコロ美術館)

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島根県松江市殿町にあるごうぎんカラコロ美術館は、山陰合同銀行が運営する美術館である。建物は同行の前身のひとつである八束(やつか)銀行の本店として大正15年(1926)に建てられ、近年まで山陰合同銀行の店舗として使用されていた。外観、内装ともに当時の典型的な銀行建築の姿をよく残している。国登録有形文化財。

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松江市の金融街であった殿町には現在も戦前の銀行建築がいくつか残されており、旧八束銀行本店のほか、昭和13年に建てられた旧日本銀行松江支店(現カラコロ工房)や、明治期の土蔵造の銀行建築である旧第三銀行松江支店(現かげやま呉服店)が残されている。

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八束銀行は明治45年(1912)に設立された八束貯蓄銀行が大正11年(1922)に貯蓄部門を分離、改称して発足した銀行であった。大正15年9月には本店を新築するが、1年も経たない昭和2年7月には松江銀行に合併された。(参考:銀行変遷史データベース

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松江銀行は昭和16年(1941)に米子銀行との合併により山陰合同銀行となり、山陰地方では最大の地方銀行として現在に続いている。

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旧八束銀行本店の建物は平成21年(2009)まで山陰合同銀行北支店として使用されていた。店舗の新築移転により空家となったが所有者の山陰合同銀行は建物の保存改修工事を行い、平成24年(2012)より「ごうぎんカラコロ美術館」として無料で一般公開している。

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設計は大阪を主な拠点に活動し、朝鮮・京城の朝鮮総督府庁舎の設計にも携わったことで知られる國枝博(1879~1943)で、以前弊ブログでも紹介した旧大阪農工銀行の改装や滋賀県庁舎の設計にも携わった建築家である。施工は大阪の中堅建設会社である鴻池組による。

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外壁は石もしくは人造石で仕上げられているが、1階と2階の窓間にはテラコッタ製の装飾を施している。

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幾何学的に簡略化された意匠の柱頭飾り。

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内部は写真撮影禁止につき紹介できないが、二層吹き抜けの営業室や柱頭飾りのある円柱、人造石仕上げの階段など外観と同様に創建当初の面影をよく残している。

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銀行が自前で旧店舗を保存、一般に公開している例としては山口県下関市の山口銀行旧本店(現やまぎん史料館)などがあるが、すばらしい英断と言うべきである。

第1132回・旧小田小学校本館

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伊賀市小田町にある明治14年(1881)に建てられた旧小田小学校本館は、三重県内に現存する最古の小学校校舎である。正面の玄関ポーチ及びバルコニー周りを中心に擬洋風建築ならではの造形が見られる。三重県指定文化財。

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旧小田小学校は上野城に近い高台の上にある。小田村(現小田町)は元々低地にあったが江戸時代より度々水害に見舞われており、大きな被害を受けた明治3年の水害を機に現在地に村ごと移転した歴史を持つ。

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旧小田小学校本館が建てられたのは村の移転から間もない時期であると同時に、明治の文明開化の風潮の最盛期でもあった。そのような背景のもとで建てられた校舎は、随所に新しい時代への意気込みが感じられる。

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窓は洋風のアーチ窓となっており、外壁は伝統的な漆喰仕上げながらも角には西洋建築の隅石を模した装飾を施している。

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三重県で最初期の洋風建築である津の三重県庁舎(明治12年竣工)とは竣工時期が僅か2年しか違わない。正面のベランダを備えた玄関ポーチは新築間もない県庁舎を模したのかも知れない。

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学校そのものが開かれたのは明治8年(1875)であるが、新校舎建設に伴い校名を「教え導く」という意味を持つ「啓迪(けいてき)学校」と改め、数年間この名称が使用されていた。現在も校名入りの屋根瓦が正面玄関ポーチの上に残されている。

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正面玄関。
糸巻きの形を象ったとも言われる奇妙な形状の開口部と、その上に飾られた龍の漆喰彫刻が目を引く。

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側面から望む。
隅石を模した角の装飾は正面側にだけあることが分かる。

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小田小学校は生徒数の減少から昭和40年(1965)に廃校となったが、本館はそれまでの84年間使用されていた。現在、跡地は保育園となっている。

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なお、先述の三重県庁舎もほぼ同時期の昭和39年(1964)に新庁舎竣工によりその役目を終え、明治村に移築されたが旧小田小学校は現在ももとの場所で保存されている。昭和50年(1975)には県の文化財に指定された。

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玄関上部の龍の漆喰彫刻と「學」の文字。

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玄関土間の意匠。

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二階バルコニーへ続く出入り口の硝子戸にはギヤマン(色硝子)が嵌め込まれている。但し創建当初から残る建具ではなく、修復に際しての復元。

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神戸まで出向いて購入したというオリジナルの色硝子は一部だけ現存しており、階段わきの窓に展示されている。これをもとに上記の硝子戸が復元された。

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階段わきには明治の色硝子のほか、かつてこの学校で使用されていた明治時代のヤマハ製ピアノが展示されている。左上に写るのは始業終業を知らせていた鐘。

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小学校として使用されていた時期の末期(昭和中期)には、二階のバルコニーは部屋の一部に取り込まれていた。

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平成2年(1990)から4年がかりで行われた保存修理工事により、長らく失われていた屋根上の太鼓楼が資料や残された痕跡に基づき復元された。現在は建物と共に、教科書や学習用具等近代の初等教育資料を展示、公開している。

第1131回・旧上野警察署

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旧上野警察署は、三重県伊賀市上野丸ノ内1丁目にある明治中期の洋風建築。明治21年(1888)に上野城(伊賀上野城)東大手門の近くに建てられ、昭和初年まで警察庁舎として使用されていた。その後現在地に移築され、近年まで個人住宅であったが現在は伊賀市の所有となっている。国登録有形文化財。

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伊賀鉄道西大手駅の近くに建っており、上野城にも近い位置にある。

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当時の署長の呼びかけによって官民双方から建設資金を集めて建設された。

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釘を一本も使わずに建てられたという庁舎はその後の三重県内における警察庁舎の範となったという。

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約40年にわたって警察庁舎として使用され、役目を終えた後は民間に払い下げられることとなった。地元で伊賀合同新聞社を営む北泉氏の所有となり、昭和13年(1938)に現在地に移築された。 

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当初は伊賀合同新聞社の社屋として使用されていたが、その後は北泉家の住居として近年まで使用されていた。

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北泉家の現当主によって伊賀市に寄贈され、現在は「伊賀まちかど博物館 明治な館北泉邸」の名で催事等の会場に利用、公開されることもあるという。

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小規模であるが随所に密度の濃い細部装飾が施され、見応えのある洋館である。

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特に玄関まわりに施された装飾は見どころで、伝統的な社寺建築の装飾である蟇股(かえるまた)を洋風建築の装飾に取り込んでいる。

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一度移築されているが、創建当初の姿をよく残している。なお、警察署時代は屋上に火の見櫓が載っていたという。

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同時期の現存する警察庁舎では埼玉県の旧本庄警察署(明治16年、現・本庄市立歴史民俗資料館)などが現存するが、全国的に見てもかなり古いだけではなく、建物の質も高いと言える。

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戦災を免れ、城下町の風情を今もよく残す伊賀上野では、旧上野警察署の直ぐ近所にも明治の洋風建築を見ることができる。上野城の麓にある県立上野高等学校(旧県立第三中学校)の明治校舎である。

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旧三重県庁舎旧三重県尋常師範学校(現在は共に明治村に移築されている)を手掛けた清水義八の設計による擬洋風建築で明治33年(1900)に建てられた。三重県の有形文化財に指定されている。

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現在も現役の校舎であり敷地内には入れないが、事前予約すれば内部の資料館を見学できるという。再訪の機会があれば改めて紹介させて頂きたいと思う。

第1130回・一乃湯

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一乃湯は、三重県伊賀市上野西日南町にある昭和25年(1950)創業の銭湯。建物は大正末期の木造二階建で堂々とした唐破風付きの玄関を備える。以前弊ブログで紹介した大阪の源ヶ橋温泉と同様、国の登録有形文化財となっている。

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大正15年(1926)に建てられた木造二階建、唐破風屋根の玄関を持つ本館と、花崗岩の門柱に洋風の門扉と柵を備えた門が登録有形文化財となっている。旧式の円形ポストがよく似合っている。

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門の上には、屋号と温泉マークをかたどったネオン管の看板が取り付けられている。昭和25年の一乃湯開業時に設置されたものである。

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細長い花崗岩の門柱に、洋風意匠の門扉と鉄柵を備えた袖塀が付く。門柱脇の庭石には登録有形文化財のプレートが嵌め込まれている。

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現在は別の店舗として使用されているようであるが、門の脇にある平屋建ての建物も銭湯と同時に建てられたものではないかと思われる。国登録有形文化財である京都の銭湯・船岡温泉のように理髪店も備えていたのかも知れない。

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門の先に入母屋屋根と唐破風を重ねた正面外観が特徴の本館が現れる。

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唐破風は銅版で覆われており、大正15年建築当初の経営者のものか、丸に片喰の家紋があしらわれている。

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建物全体は和風の造りであるが、浴場入口の壁には植物模様をかたどったテラコッタの装飾レリーフや、入口上部の飾り金物を嵌め込んだアーチ形欄間など、洋風の要素も取り入れられている。

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唐破風の下に下がる暖簾をくぐると、下駄箱を備えた玄関。

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見事な格天井。脱衣場でも折り上げ格天井や仕切りの欄間など凝った造りが見られる。

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なお、先述の源ヶ橋温泉を始め伝統的な銭湯に多く見られるが、一乃湯でも建物の2階は入浴後の休憩所として造られていた。現在は使用されておらず、脱衣場には階段の跡が残されている。

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内部の様子は一乃湯の公式ホームページで見ることができる。

第1129回・明野航空記念館(旧明野陸軍飛行学校将校集会所)

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去る11月4日に三重県伊勢市小俣町明野にある陸上自衛隊明野駐屯地にて、駐屯地開放イベント「航空祭」が開催されたので行ってきた。駐屯地内にありイベント時には一般公開される明野航空記念館は、かつてこの地にあった明野陸軍飛行学校の将校集会所として、大正11年(1922)に建てられた瀟洒な洋館である。

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大正9年(1920)、陸軍航空学校射撃班がこの地に移転したことに伴い飛行場が設けられた。翌大正10年(1921)には陸軍航空学校明野分校に昇格、 大正13年(1920)には明野陸軍飛行学校として独立した。

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将校集会所は陸軍航空学校明野分校時代の大正11年(1922)に建てられた。創建当初はテラスを挟んで2つの切妻屋根が並ぶシンメトリーの洋館であったが、昭和3年(1928)に増築、現在見られるL字型の外観となった。

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右側の白黒写真が竣工当初の姿。施工は名古屋に本社を置く建設業者で、戦前は軍関係の施設も多く手掛けていた北川組が請け負っている。同社のホームページでも明野航空記念館について紹介されており、同じ写真を見ることができる。

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設計者は不詳であるが、陸軍航空学校はその設立に際しフランスから顧問団を迎え指導を受けていたことから、フランス人が設計を手掛けたという伝承もある。そのためかどうか、屋根にはフランス瓦と称される形式の洋瓦が用いられている。

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かつて屋根にあった煙突と半円形の屋根窓が撤去されている点を除けば、外観は将校集会所時代の姿をよく残している。

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クリーム色の粗いモルタル壁に屋根はオレンジ色の洋瓦葺きという明るい色調に加え、自然石を配した煉瓦積の基壇、パーゴラを備えたテラスなど、軍の建物とは思えない瀟洒な佇まいの洋館である。

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創建当初は正面のテラスを挟む形で建っていたと思われる片方の切妻屋根の部分は、増築に際しそのままL字型に張り出した部分の先に移築したものと思われる。

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昭和3年に増築された部分。
横長の大きなアーチ窓が目を引く。基壇は煉瓦積ではなくモルタルで石造風に仕上げられている。

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背面からの眺め。

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同じく背面側からの眺め。手前が昭和3年に増築された部分で、奥が大正11年の創建当初からある部分。

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現在は航空記念館として館内の一部を公開している他、明野駐屯地の広報関係の事務所が置かれるなど、現役の庁舎としても使われているようだ。

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壁面やパーゴラの柱など随所に装飾が施されている。
切妻にあしらわれた楕円形のメダリオンは大正期の洋館によく見られる装飾デザインである。

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明野陸軍飛行学校は大東亜戦争末期の昭和19年から20年にかけて明野教導飛行師団、第一教導飛行隊と改編を重ねるが敗戦によって解散する。その後、昭和30年(1955)に陸上自衛隊航空学校が浜松から明野に移転したことにより、明野駐屯地が開設され現在に至る。

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敗戦後は構内の施設の多くが戦後復興のための資材として解体、払い下げられた。旧将校集会所も例外ではなく、昭和26年(1951)には県内にある鳥羽中学校の建設用材として使うため解体される予定であった。

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解体を惜しんだ旧軍関係者の努力が実を結んで建物は残り、駐屯地開設後は改修が施され現在の航空記念館となった。現在2室が顕彰室として公開されており、明野陸軍飛行学校の歴史やゆかりの人物、旧陸軍の軍装品などが展示されている。

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顕彰室のうちの1室は、重厚な格天井や窓枠の額縁飾りなどに往年の面影を残している。

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格天井の換気口は桜花の形。

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展示資料の中にあった将校集会所の内部と思われる古写真。現存するかどうかは不明だが館内には暖炉もあったようだ。前に座る人物は大正15年12月から約3ヵ月間教官を務めたフランス陸軍の航空中尉。

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昭和3年11月に行われた昭和天皇即位の御大典に際し設けられた饗宴会場の様子。増築から間もない頃の写真である。奥に現在も残っている横長のアーチ窓が写っている。

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陸上自衛隊では、各地の駐屯地内に現存する旧軍関係の施設のうち、明野航空記念館は以前紹介した乃木館(旧陸軍第十一師団司令部庁舎)などと共に歴史的建造物に指定している。

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明野航空記念館は今後も歴史的建造物として保存が図られるものと思われるが、できれば後年の改変箇所についても復元するなど、文化財として今後も大切に扱って頂くことを切望する次第である。

第1128回・多度津の合田邸(その3)と周囲の町並み

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去る9月23~24日に第3回目の一般公開が行われた香川県仲多度郡多度津町の合田邸。弊ブログでは丁度1年前の平成28年11月3日に初めて公開された際に訪れ、2回に分けて紹介させて頂いたが、今回は新たに公開された場所を中心に、また周囲の町並みも併せて(その3)として紹介させて頂く次第である。

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多度津は古くより瀬戸内の港町として栄え、明治以降は四国で初の鉄道が走った地として知られる。合田邸は近代化の牽引役であった「多度津七福神」と称された富豪の中で、現在も唯一邸宅が残されている。詳細は過去の記事もご参照頂きたい。 → 多度津の合田邸(その1) (その2)

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邸宅は明治から昭和初年にかけて、四国経済界の要職を歴任し貴族院議員も務めた合田房太郎と合田健吉の親子2代にわたって造営が行われ、昭和9年(1934)には現在の邸宅の全容が整ったとされる。現在、敷地内には13棟の建物が残る。

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中庭から望む、明治期に建てられた主屋と大正末~昭和初年に建てられた迎賓用の洋館。9月23日の一般公開では主屋内にある洋風のダイニングルームが初めて公開された。

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主屋の奥には洋館と中庭を挟んで、二階建の離れがある。明治末期に建てられ、二代目である合田健吉の好みで二階座敷には書院まわりにエジプト風の装飾が施されていた建物である。合田邸内でも最も老朽が著しい洋館はまだ内部を公開できる状況ではなかったが、離れは2回目の一般公開より、室内が公開されるようになった。

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離れでは多度津高等学校写真部による作品展示が行われていた。写真は一階座敷。

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離れの座敷は一階が「銀の間」、二階が「金の間」と呼ばれていた。
その由来となったのがそれぞれの座敷の次の間の襖で、一階には銀箔が貼られている。

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意匠を凝らした一階次の間の飾り窓。離れの障子は紙がボロボロになっていたため、公開に際し全て洗い落されている。これらの公開に向けた様々な活動は合田家御当主及び合田邸ファンクラブ、多度津高等学校写真部などの方々の努力による。

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「えじぷとの間」とも呼ばれていた二階座敷は、その由来となった書院の欄間飾りと建具は共に残念ながら失われていたが、建物自体は現在もしっかり建っている感じであった。天井の意匠が珍しい。

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「金の間」とも呼ばれていた二階の次の間は、金箔ではなく金の緞子らしきものが貼られている。

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離れの二階縁側は広く取られサンルーム風に造られている。座敷と同様に天井は異なる種類の材木を組み合わせた格天井で、保護のため大部分がビニールシートで覆われているが、床は寄木張り仕上げになっている。ダイヤ模様の欄間や手摺の意匠も珍しい。

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一階の縁側は幅は通常の日本家屋と変わらないが、天井や欄間に意匠を凝らしている。天井の棹はすべて面取りが施されており芸が細かい。

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離れ二階縁側からは合田邸内の建物がひととおり見渡せる。
昭和9年(1934)の竣工で、邸内では最も新しい大広間「楽々荘」は、今回の一般公開では人形浄瑠璃やマンドリン演奏などのイベント会場として使われていた。

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主屋内にあり、洋館内の部屋とは続き間になっているダイニングルームが初めて公開された。主屋自体は明治期の建物であるが、大正末~昭和初年の洋館建設に合わせて改装されたものと思われるアールデコ調の装飾が施された部屋である。

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隣接する台所とはステンドグラスが嵌め込まれた間仕切りで仕切られており、配膳用の上げ下げ窓が設けられている。

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天井は船底天井になっており、照明器具からテーブル、椅子等の家具に至るまでよく保存されている。

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台所とダイニングルームを仕切るアールデコ調のステンドグラスは比較的シンプルな意匠。

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ステンドグラスには色硝子だけではなく、各種の型押し硝子が用いられている。

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ダイニングルームの先は洋館に続いており、木製の硝子戸で仕切られた隣室は談話室(非公開)で、かつてはバーカウンターや壁面に設えられた噴泉、ステンドグラスで飾られた天井があったとされるが、現在はそれらの装飾の殆どは取り外されたのか、覗き込んでも存在は確認できなかった。

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ダイニングルームと談話室との仕切りに嵌め込まれたステンドグラスは、よりカラフルで派手なアールデコ意匠となっている。

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洋館の談話室の先は半地階付の広間となっており、上階が暖炉を備えたホール、下階が宿泊用のベッドルームとなっている。談話室から下階へ通じる入口には、アールデコの意匠が施された格子戸が嵌め込まれていた。

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大広間「楽々荘」では、洋館の上階ホールを飾っていたステンドグラスを再現したパネルが展示されていた。

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ステンドグラスが嵌め込まれていたと思われる洋館ホールの窓は現在アクリル板で塞がれており、現物の存否は分からない。

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今回僅かに覗き見ることができた洋館の内部は、正直なところかなり痛々しいものであったが、往年の姿を取り戻せばさぞ見事なものとなるに違いない。

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洋館を含め、是非とも全ての建物の復活への思いを強くした今回の訪問であった。


(合田邸周囲の町並み)

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合田邸がある多度津町本通り商店街には古い町家が多く残されており、周囲の町並みも合田邸共々、後世に残して頂きたいものである。写真はそれらの一部の建物である。

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洋風のベランダを備えた二階建長屋。

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町家はいずれも京都や大阪でもみられる虫籠(むしご)窓を備えている。

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ナマコ壁の町家。

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元銭湯の建物。
多度津町には他にも洋館建の旧楽天堂病院や山本医院もある。合田邸とこれらの建物が多度津町の町興しに寄与することを祈る。
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現存する近代日本の歴史的遺産(台湾など旧日本領土も含む)を建造物・土木構造物を中心に、思いつくままに取り上げております。

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