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第1151回・麻野館と二見浦旅館街

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三重県伊勢市二見町の二見浦は、かつては伊勢神宮を参拝する者の身を清める場所、宿泊場所として栄えていた。現在でも夫婦岩表参道沿いには木造の古い旅館や土産物店が軒を連ねている。その中の一軒である麻野館は、明治26年(1893)の創業で、玄関棟・広間棟・土蔵がそれぞれ国登録有形文化財となっている。

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旅籠町として発展した時代の名残を現在も残す二見浦の旅館街。夫婦岩表参道を挟んで海岸側に旅館が並び、反対側には土産物屋が多く建っている。かつてほどの賑わいはないが、現在でも伊勢神宮の参拝客が多く宿泊しており、修学旅行や合宿などによる学生の利用客も多い。

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旅館街の裏手に回れば二見浦公園の松林があり、海岸に出ることができる。

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海岸側に面して建つ旅館は、客室から松林と海岸を一望できるように造られている。

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江戸時代は「角屋」と称する本陣で、皇室にも利用されている朝日館。本館は戦後に鉄筋コンクリート造に建て替えられているが、大広間や客室のある木造二階建の別館は現在も使用されている。

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別館のほか、本館を挟む形で建っている貴賓用の「清風荘」も戦前の木造建築である。朝日館は賓日館(現在は廃業、建物は国指定重文として保存公開)とともに二見浦における貴賓の宿として利用された。

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専用の門と玄関を備えている清風荘。

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室内は折り上げ格天井を備え床の間などにも技巧を凝らし、昭和天皇も宿泊された「雲井の間」など見どころが多い。貴賓室であるが一般の宿泊も可能のようだ。

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戦後(昭和20年代)に建てられた木造三階建の旅館建築としては末期の建物である旧浜松旅館は、現在は旅館としては使用されていないようだ。

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大正期に建てられた旧いろは旅館。現在は麻野館の別館として使われている。
私事ながら昔、ブログ主が小学校の修学旅行で泊まったのはここであったように思う。

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麻野館本館。創業当初の建物に大正から昭和初期にかけて増改築を加えた、木造一部三階建ての堂々とした旅館建築である。写真の建物は玄関棟。この奥に土蔵を挟んで広間棟が建っている。

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海岸側から見た本館。海岸側から見えるのが広間棟である。

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広間棟は2階に大広間を配し、1・3階を客室とする。

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海岸側に掛かる古びた看板。「旅館 海水浴 麻野館」と大書されている。
二見浦海水浴場は明治15年(1882)に開かれ、日本で最初期に開かれた海水浴場のひとつである。
 
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平成26年(2014)、本館を構成している玄関棟、土蔵、広間棟の3棟が国登録有形文化財となった。

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麻野館の内部。朝日館に比べると庶民的な雰囲気の宿で、運動部の合宿や修学旅行生の宿泊も多いようだ。写真は明治調の古風な洋風手摺がある2階階段室。

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中庭に建っている土蔵。大正期に建てられた。

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広間棟の3階への階段。

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階段踊り場の床には大きな欅の一枚板が使われている。

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階段室の天井。

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広間棟3階の客室「寿の間」
海岸に面しており、波の音が聞こえる座敷である。

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床の間や次の間との境の欄間には客室名に因んだ装飾が施されている。

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書院窓の建具。

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「寿」の文字が入る壁。

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欄間に施された、七福神の透かし彫り。

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えびす顔。

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麻野館をはじめとするこれらの旅館群が、風情ある街並みと共にこれからも長く続いて欲しいものである。
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第1150回・旧上伊那図書館(伊那市創造館)

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長野県伊那市荒井にある伊那市創造館の建物は、前回の旧四日市市立図書館と同様、昭和初期に建てられた旧図書館を改修再生したものである。現在は市民のための社会教育施設「伊那市創造館」として公開・活用されている。伊那市指定文化財。

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正門からの遠景。
大正10年(1921)、地元の教員から組織される上伊那教育会の発議により、教育の充実を図るために図書館建設を目指す運動が起こるが、関東大震災や冷害のため寄附金集めは難航していた。

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この状況に対し、上伊那出身で製糸業で成功していた実業家で政治家の武井覚太郎は上伊那教育会の懇請に対し、建設資金として当時の金額で14万円を拠出した。地元の実業家による寄付でできた図書館という点でも、前回の旧四日市市立図書館と共通している。

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設計者も武井覚太郎が選び、東京で設計事務所を開いていた森山松之助が当初案を作成、長野市で設計事務所を開いていた黒田好造が最終的な実施設計をとりまとめた。

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森山松之助は台湾総督府庁舎など台湾に多くの官公庁舎を残した建築家で、長野県内では諏訪湖畔の片倉館の設計もほぼ同時期に手掛けている。

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外壁に貼られたスクラッチタイルは地元の高遠焼が用いられている。森山松之助が片倉館でも使用したもので、上伊那図書館でも高遠焼タイルの使用を指示したとされる。

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実施設計を行った黒田好造は東京帝大卒の建築家で、長野県技師を経て設計事務所を開いた建築家である。現在も使用されている飯田市の追手町小学校など、長野県内に鉄筋コンクリート造建築を多く残している。

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スクラッチタイルとモルタル壁を交互に重ねた外壁や、2・3階を貫いて半円形に張り出す出窓、柱を使わない大きく張り出した玄関庇など当時としてはかなりモダンな造形が取り入れられているが、これらは黒田好造のアイデアに基づくものである。

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武井覚太郎は建築家に任せきりにはせず、設計から施工を通して自らの欧米訪問で得た図書館についての知見を注ぎ込んだためか、設計は何度も変更を重ねている。また建設費のみならず、蔵書購入及び運営費としても多額の寄付を行っている。

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昭和5年(1930)の12月、構想から10年近くを経て上伊那図書館は開館した。講堂も備えた先進的な施設は、戦前戦後を通じて上伊那における教育・文化の発信地として利用され続けた。戦時中は海軍の工場として使用された他、名古屋の徳川美術館等が所蔵する美術品や歴史資料の疎開先にもなったという。

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平成15年(2003)に新図書館の完成に伴い一旦役目を終えるが、補強と改修が施され、平成22年(2010)に生涯学習施設・博物館類似施設の機能を持つ「伊那市創造館」として再開館した。写真は吹き抜けになっていた階段室に設けられたエレベータ。大理石を貼った既存の手摺との調和を図ったデザインになっている。

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現在は常設展・企画展のほか、自然科学、宇宙、歴史、環境、芸術等幅広い分野の講座や教室を開くなど、多目的に使用されている。写真は展示室の付柱飾り。

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3階にある講堂の入口。
講堂の内部は船底型の漆喰天井や開口部に装飾が施された舞台など、館内でも創建当初の特徴的なデザインをよく残す場所である。

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平成20年(2008)には伊那市指定文化財となっている。

第1149回・旧四日市市立図書館(すわ公園交流館)

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三重県四日市市諏訪栄町の諏訪公園内にある「すわ公園交流館」は、元々は四日市市立図書館として使われていた建物である。昭和4年(1929)に、地元の実業家である熊澤一衛によって昭和天皇御大典記念事業として建設、寄付された。現在は児童向け施設として活用されている。国登録有形文化財。

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旧四日市市立図書館は、近鉄名古屋線四日市駅に近い中心街にある諏訪公園の一角に建っている。

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諏訪公園は、明治39年(1906)に日露戦争の戦勝記念として諏訪神社の所属公園「保光苑」として開園した、四日市市でも由緒ある公園である。

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戦前は明治天皇の宿泊にも充てられた旧本陣の建物が「行幸記念館」として公園内に移築保存され、演舞場・小動物苑もある市民の憩いの場であったが、昭和20年6月の空襲で図書館を除き全て焼失した。

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戦災を免れた図書館は焼失した市立病院の病棟として使用されることとなり、昭和23年(1948)に再び図書館として使用されるまで一時期病院として使用されていた。

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鉄筋コンクリート造2階建の建物であるが、傾斜地に建てられているため、背面から見ると平屋建てに見える。

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スクラッチタイルを貼った重厚な外観が特徴の建物である。

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昭和48年(1973)に市立図書館が他所に新築され、役目を終えた後は児童館として使用されていた。

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平成15年(2003)には国の登録有形文化財となり、同年に現在の「すわ公園交流館」としてリニューアル、児童向け施設としての機能は残しながらもイベント会場に利用するなど、より多目的な活用を図っているようだ。

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この建物を建設し寄贈した熊澤一衛(1877~1940)は、四日市銀行頭取や伊勢電鉄社長を務めた他、電力、製紙、汽船、林業など多くの分野に跨って事業を展開、「東海の飛将軍」とも称された実業家である。

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実業家であると同時に「月台」の雅号を持ち、歌人・茶人としても知られていた。

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図書館の正面中央にある2つの円形レリーフには餅をつくウサギがデザインされているが、熊澤一衛の雅号に因む装飾である。

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1階の正面右手に設けられた噴泉。

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壺を掲げた小児像と山羊の頭部を象った水吐き口が置かれている。

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四日市市はかつては東海道の宿場町としても栄えた歴史を有する街であるが、戦災で市街地の殆どが焼失、旧市立図書館は戦前から残る数少ない建造物のひとつである。

第1148回・なかむらや旅館

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なかむらや旅館は、東北を代表する温泉のひとつである福島市の飯坂温泉にある温泉旅館である。歴史を感じさせる土蔵造の建物が特徴で、江戸時代に建てられた本館と明治時代に建てられた新館及び土蔵と、二つの時代の建物が併存している。国登録有形文化財。

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福島市飯坂町字湯沢、飯坂温泉の中心街からは少し離れた落ち着いた街並みの一角に建っているなかむらや旅館。福島県内ではよく見られる赤瓦の屋根を載せた土蔵造の重厚な佇まいはよく目立つ。写真手前の建物が江戸時代末期に建てられた本館と土蔵で、左奥が明治中期に建てられた新館。

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本館は元禄年間にこの地で創業した花菱屋(のち花水館、平成19年廃業)によって幕末に建てられたものを、明治23年(1890)に現所有者の祖先が購入したという。

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明治29年(1896)には現所有者の祖先によって新館が増築された。東日本大震災後に改修工事が行われているが、外観、内装ともに古い造りをよく残している。

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新館に隣接する趣のある酒屋の店舗。建物も看板も重厚で歴史を感じさせるが、残念ながら既に営業はしていない様子。

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洋風意匠を取り入れたショウウインドウがある。

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なかむらや旅館の斜め向かいに建つほりえや旅館。同じ木造三階建であるが、黒ずんだ板壁の外観を持つほりえやは白壁土蔵造のなかむらやとは対照的である。 

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「江戸館」と呼ばれている本館。2階が客室として使われている。暖簾が下がる右端の入口が玄関。

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玄関を入ると、かつて帳場として使われていたと思われる囲炉裏を切った場所がある。

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玄関先にある箱階段の床板は擦り減っており、歴史を感じさせる。

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江戸館2階の廊下。

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客室は規模や造りにそれぞれの時代の特色が現れている。写真は江戸館の客室で、簡素な床の間を備えた小さな座敷である。

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江戸館と明治館の境目に設けられた階段室と手洗室。明治期の増築で建てられた部分である。

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手洗室には、各個室の天井に明治期の硝子絵が嵌め込まれている。

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明治期の部分に入ると、江戸館とは異なり造作に趣向を凝らした賑やかな空間が広がる。東日本大震災後の改修工事に際しては、震災で解体を余儀なくされた福島県内の古民家の部材が再利用されているという。

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新館の施工を手掛けたのは地元飯坂町の大工で、近年国の重要文化財に指定された伊達市保原町の旧亀岡家住宅も手掛けた小笠原国太郎で、洋風意匠の階段などに共通性が見られる。

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明治館の2階客室。続き間になった広い座敷で、随所に意匠を凝らし床柱などに珍しい材木を用いる。

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3階客室。基本的な構成や床の間まわりの造りは概ね同じだが、床柱が異なる。

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3階客室の次の間。こちらも床の間を備えた座敷となっている。

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3階縁側から階段を望む。

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縁側にも洋風意匠の手摺を設ける。

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明治館の客室は湯治に来る長期滞在客のためなのか、書院窓の下に錠前の付いた抽斗を設けている。貴重品の保管庫か、箪笥として使えるように造ったものと思われる。 

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同様の工夫は次の間の床脇にも見られ、地袋の下に錠前付の抽斗を設ける。
余り他の旅館建築では見かけない、珍しい工夫である。

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2階客室の床板には、象嵌細工と思われる亀の模様が見られる。これは先述の旧亀岡家住宅でも見られるもので、施工者である小笠原国太郎によるものと思われる。

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書院窓の障子には、江戸時代以前には無い擦り硝子が用いられている。材料や意匠に趣向を凝らした造りや、新材料・洋風意匠の採用など、近代和風建築の特色を備えている。

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なかむらや旅館は客室数も少なく小規模であるが、家庭的な雰囲気の快適な宿である。
なお、日帰り入浴での利用も可能である。

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なかむらや旅館のすぐ近所にある木造の共同浴場「鯖湖湯」は、飯坂温泉のシンボル。現在の建物は平成5年(1993)に改築されたものだが、外観、内装共に明治期に建てられた旧建物の趣を残している。

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夜のなかむらや旅館全景。

第1147回・旧広島地方気象台(広島市江波山気象館)

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広島市中区江波南1丁目にある旧広島地方気象台庁舎は、昭和9年(1934)に建てられ、昭和62年(1987)まで約半世紀にわたり使用されていた。現在は気象を取り扱う博物館「広島市江波山気象館」として活用されている。原爆投下にも耐えた被爆建物であると同時に、広島市に現存する希少な近代建築である。広島市指定重要有形文化財。

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明治12年(1879)、全国でも初の府県立測候所として広島県立広島測候所が水主町(現加古町)にあった広島県庁の構内に設置され、これが広島地方気象台の前身に当たる。昭和14年(1939)に国営に移管、同18年(1943)に広島地方気象台と改称された。

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館内に展示されている昭和10年代の庁舎全景。左側の木造建築は当時2棟あった職員用の官舎である。

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現在の全景。官舎のあった位置には現在、江波山気象館の別館として平成10年(1998)に新築された建物が建っている。旧庁舎は平成12年(2000)には「旧広島地方気象台」として広島市指定重要文化財となった。

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旧庁舎の裏手に整備されたトイレ。別館と同様に旧庁舎と意匠を合わせており、一見すると旧庁舎と同時期の建物かと思わせる仕上がりとなっている。

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庁舎が広島市の南外れに位置する江波山頂に移転したのは昭和10年(1935)のことで(建物は前年に竣工)、開設以来二度目の移転であった。以降、昭和62年(1987)に中区上八丁堀にある広島合同庁舎に移転するまでの52年間観測業務が行われていた。移転後旧庁舎は広島市に移管、平成4年(1992)に広島市江波山気象館が開館、現在に至る。

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曲線を多用した形状が特徴的な正面2階、旧台長室に設けられたバルコニー。
庁舎のデザインは、二〇世紀初めドイツを中心に展開された芸術運動で、日本では大正期から昭和初期の建物に多い表現主義の影響が随所に見られる。

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玄関ポーチの屋根は、円錐形を重ねた形状のコンクリート柱一本で支えられている。このような造形は従前の組積造では不可能であり、コンクリートゆえに可能な建築デザインを試みた跡が随所に見られる。

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昭和20年8月6日の原爆投下に際しては、爆心地から約3.7㎞の位置にある庁舎は爆風の直撃を受け、多くの窓硝子が割れ窓枠が曲がる等の損傷が生じたが、火災による被害は免れた。このため内部も創建当初からの造りがよく残されている。

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曲線を多用した装飾が施された梁や腰壁のタイルなどは昭和9年の竣工当時からのものである。

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受付の小窓には愛らしいステンドグラスが嵌め込まれている。

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玄関扉の欄間にもアールデコ風のステンドグラスが残されている。南側に位置する玄関は爆心地には面していないため、受付や玄関にあるこれらのステンドグラスは爆風による破損を免れたものと思われる。

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床や階段の手摺りは人造石の研ぎ出し仕上げで、入念な仕上げが施されている。

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階段室。窓のスチールサッシは被爆当時からのものが残されている。

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床は人造石仕上げであるが、縁の部分だけはモザイクタイルが貼られている。写真は市松模様も施されている一階部分。

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階段から二階にかけては二種類のモザイクタイルで仕上げられている。

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庁舎や観測施設に大きな被害を受け、職員の中には死傷者も出た原爆投下から約1カ月後の昭和20年9月17日には枕崎台風が襲来、広島に大きな被害を齎すが、そのような困難な状況下でも広島地方気象台では1日も欠かさず観測業務が続けられた。その当時の様子については柳田邦男のノンフィクション「空白の天気図」に詳しく記されている。

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爆心地の方向に面した位置にある2階の旧図書室の内壁には、現在も爆風で飛散した硝子片が刺さっており、被爆の痕跡として保存されている。(スポットライトが当てられている位置に硝子片が刺さっている)

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屋上の観測塔。階段まわりなどに曲線を多用し手摺には放物線状の尖頭アーチを連ねるなど、表現主義的な造形が見られる。

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片持ちの階段は正面玄関ポーチの柱と同様に組積造では不可能な造形であり、コンクリートだからこそ可能となる。

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観測塔の上部。広島市街が一望できる。

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原爆の爆風を受けた北側壁面の一部は被爆当時のまま保存されている。壁が黒ずんでいるのは戦時中に施された迷彩塗装の名残である。

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壁面だけではなく窓枠も被爆当時のもので、爆風で曲がったのを戦後、職員が手作業で叩いて直したという。現在も歪んだ痕跡が残っている。

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中国地方の中枢都市である広島には明治から昭和戦前にかけて多くの近代洋風建築が建てられたが、その殆どは原爆で失われ、現存するものも先日紹介した旧大正屋呉服店のように辛うじて外郭を残すだけであるが、旧広島地方気象台庁舎は内装まで当初の造りを残している極めて希少な存在である。

第1146回・美保館

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島根県松江市美保関町美保関にある美保館は、明治38年に開業した老舗割烹旅館。開業当初に建てられた本館が増改築を受けながら現存しており、昭和初期に元の中庭を改装して造られた硝子天井のあるロビーは一番の見どころである。昭和初期に建てられた離れ(二代目本館)と共に国の登録有形文化財である。

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古くから海上交通の要所、風待ち港として栄え、朝鮮半島等との交易の拠点でもあった美保関において、美保館は初めての本格的な旅館として明治38年(1905)に開業、3年後に初代本館が竣工した。写真の左奥の部分が開業当初からの部分である。

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館内に飾られている古写真。現在は前面が埋め立てられて道路となっているが、かつては海(美保湾)に面して建っており、客は船から直接出入りすることができたようだ。右下に船着き場と正面玄関をつなぐ通路があるのが分かる。

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この通路は現在もそのまま残っているが、その後片側に増築されたため、現在は建物の中央を穿つ形になっている。

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通路を潜り抜けると、青石を敷き詰めた風情ある石畳の路地が現れる。写真の右側が明治41年(1908)に竣工した海側に建つ初代本館、その向かい側(山側)に建つのが現在は特別室として使われている離れで、元々は昭和7年(1932)に二代目本館として建てられた。

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現在は初代本館に隣接して昭和末期に建てられた鉄筋7階建の三代目本館(南館)に客室等の主な機能は移り、初代本館は朝食会場及び宴会場として使用、二代目本館(北館)は貸切専用の特別室として使用されている。

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平成16年(2004)には初代本館と二代目本館が国の登録有形文化財となっている。

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初代本館の玄関。向かって左側に帳場、右側に二階への階段がある。

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創建当初から大正期にかけては玄関の奥は中庭になっており、中庭を挟んで海に面した棟につながっていた。

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昭和4年(1929)頃に中庭とその周辺を改装、硝子屋根を設け、吹き抜けのあるロビーに造り替えられた。

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ロビーに面した一階の小部屋はかつて中庭に面した半露天風呂の跡で、折り上げ格天井は浴室として使われていた当時のものである。なお、床下には石造りの浴槽が現在も残されているという。

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旧浴室に隣接する旧脱衣室も、天井や小さな床の間などに元の造りを残している。

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二階からロビーを見下ろす。写真の正面、中二階にある円形窓のある部屋は「有明の間」と名付けられた茶室風の小座敷である。

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「有明の間」内部。

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山側の旧客室のひとつ。初代本館は現在は結婚式場としても使用されており、控室などに使われているようだ。

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再びロビーの硝子屋根を望む。戦前の建物でこのような改装はあまり他に例を見ない、かなり特異なものではないだろうか。

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夜のロビー。

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海側の客室。こちらは朝食会場、宴会場として使われている。

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美保館は開業以来皇族を始めとする貴賓や、島崎藤村、湯川秀樹、徳川夢声など多くの著名人を迎えている。それらの客は美保湾を一望できるこの座敷に通されたものと思われる。

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座敷から望む美保湾。

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現在は一日一組限定で、貸切専用の特別室(離れ)として使用されている二代目本館。

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三代目本館(南館)が完成したことに伴い長らく空家となっていたが、近年改修して客室として甦ったという。

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玄関。
客室は二階の座敷で、全て貸切という贅沢な使い方ができる。

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南側の座敷。

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縁側は硝子戸越しに初代本館が見え、石畳の路地を見下ろす趣ある空間となっている。

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南側にある書院造りの座敷。

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障子の細工が美しい書院窓。

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建具や欄間など随所に凝った細工が施されている。

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山陰の魚介と美保湾の眺望、数寄屋風の名建築を堪能できる宿である。

第1145回・旧大正屋呉服店(広島市平和記念公園レストハウス)

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広島市平和記念公園内にあるレストハウスの建物は、昭和4年(1929)に大正屋呉服店として建てられたもので、被爆建物のひとつとして知られている。また、原爆投下前の広島市街の面影を伝える極めて数少ない建物でもある。現在は広島市が所有、観光案内所兼休憩所として使われている。

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昭和4年竣工直前の姿。(レストハウス入口脇に配された説明版より)
大正屋呉服店は大阪に本店を持つ呉服商で、広島支店の新しい店舗として江戸時代以来の繁華街であった中島本町(当時)に当時としては珍しい鉄筋コンクリート造で新築したものである。

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現在の姿。設計は大阪を本拠に活動していた建築家の増田清で、施工は清水組(現・清水建設)による。増田清は広島でも旧広島市庁舎や旧本川小学校など多くの建物を残している。他に現存する建物では、以前当ブログでも紹介した大阪・心斎橋筋の三木楽器本店(国登録有形文化財)がある。

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現在は白い塗料で塗りつぶされているが、窓台や外壁の縁取りには昭和初期の建物に多く使われているスクラッチタイルが貼られていることが分かる。木造の商家や民家が連なる中で当時としては極めてモダンな建物であり、竣工時は目立ったものと思われる。

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3階の外壁、本記事2枚目に掲げた竣工直前の写真(左上)では棹状のものが伸びており、現在その位置には横に穴の開いた金物が残されている。おそらく広告用の垂れ幕などを吊り下げるためのものと思われる。

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一階は扁平なアーチ窓が連なり、呉服店時代は一部がショウウインドウになっていた。一階部分の外壁は元々は浅く目地が切られ、石造風に仕上げられていた。現在は全面が白く塗りつぶされており単調な印象の外観であるが、本来はもっと重厚かつモダンな印象の建物であった筈である。

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被爆後の旧大正屋呉服店。(レストハウス入口脇に配された説明版より)
大東亜戦争勃発後の経済統制により呉服店は閉店、これに伴い建物は広島県燃料配給統制組合が買収、事務所として使われることとなり「燃料会館」と呼ばれていた。

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原爆投下に際しては爆心地から約170mと極めて近い位置にあり、崩壊は免れたものの床や梁が破損、地下室を除いて全焼した。堅牢な造りであったことに加え、爆心地側に面している建物背面には窓が殆ど無い構造が大破を免れた要因と考えられている。(写真右側にある横長の窓は、戦後の改装に伴い開けられたものである)

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被爆当日は37名の職員が勤務していたが、原爆が炸裂した瞬間地下室にいた1名を除き全滅したと考えられている。(被爆直後ほかに7名の職員が負傷しながらも建物から脱出したことが判明しているが、いずれもその後行方不明となっており、急性放射線障害などで死亡したものと推定されている) 

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1名だけが奇跡的に生き永らえた地下室は現在も被爆当時のまま残されており、レストハウスの職員に申し出れば見学も可能である。なお、広島市編「広島原爆戦災誌」第二巻第三節には地下室にいた生存者の手記が収録されている。(電子ファイルで閲覧可能)

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戦後も補修の上引き続き「燃料会館」として使用されたが、昭和32年(1957)に広島市が買収、「東部復興事務所」となった。昭和57年(1982)には改装されて「レストハウス」と名称を改め、広島市観光協会の事務所等が入るほか、観光案内所及び平和公園利用者のための休憩所として使われ、現在に至っている。

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平成の初めには被爆当時のまま残る地下室部分だけを残し、上階部分を撤去改築する構想も打ち出されたが、反対運動の結果計画は凍結された。現在は一転して上階部分を呉服店時代の姿に復元する計画が進められている。

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地下は現状のまま保存しながらも、より見学しやすいような形での整備が行われる予定である。

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被爆建物としての価値もあるが、戦前の広島中心街の面影を伝える建物として昭和初期の姿を再現するという形での整備が行われることになったのは実に喜ばしい。

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完成した暁には、改めて紹介できる日が来ることを期待したい。

第1144回・岩惣旅館

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広島県廿日市市宮島町にある老舗旅館「岩惣」は、国宝である厳島神社の裏手、紅葉谷公園の一角に建っている。木造の本館と鉄筋コンクリート造の新館からなるが、明治時代に建てられた本館や大正から昭和20年代にかけて建てられた離れなど、現在も歴史ある木造和風建築が現役で使われている。

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海上から望む宮島と厳島神社。写真右上に岩惣の新館が写っている。

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厳島神社の裏手から紅葉谷まで続く緩い坂を登ると、神社から徒歩5分程度の位置に現れる。

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岩惣の創業は江戸時代末期の安政元年(1854)に、初代である岩国屋惣兵衛によって開かれた。旧くから名所として知られる宮島において、紅葉谷を旅人の憩いの場として管理しながら、その一環として茶屋を開いたことに始まる。

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紅葉谷の整備が進むと共に岩惣は旅館となり、宮島を訪れる皇族、華族、政財界人、文人など多くの貴顕名士の宿泊に使用された。明治25年(1892)には写真の母屋が竣工した。現在、この建物は本館の玄関ロビーとして使われている。

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大正から昭和初期にかけては絶えず工事の金槌の音が響いていたと言われ、この時期に本館客室、宴会場、複数の離れ、紅葉谷に面した川座敷など多くの建物が建てられた。

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現在、旅館としての施設の中心は昭和56年(1981)に宴会場跡に建てられた新館に移っているが、本館の玄関ロビーや客室、離れは現在も古い建物を使用している。本館向かいにある写真の二階家は元の用途は不明であるが、現在は喫茶室として使われている。

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敗戦から間もない昭和20年(1945)9月17日に、観測史上に残る猛烈な台風として知られる枕崎台風が中国地方に襲来、原爆投下から間もない広島市を始め、近隣の宮島にも大きな被害を齎した。このとき紅葉谷は土石流によって壊滅的な被害を受けるが、昭和23~26年(1948~51)にかけて復旧及び砂防工事が実施され、往年の風致を取り戻した。

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枕崎台風では、岩惣は本館や離れは難を免れたが川座敷が流失、紅葉谷が荒廃する等の大きな被害を受けた。昭和26年に紅葉谷が復旧するまでの間、昭和22年(1947)には広島を巡幸された昭和天皇の宿所として利用された他、新たに離れ2棟を新築するなど、激動の時期をくぐりぬけてきた。

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昭和22年に昭和天皇の宿所として使用されたのが、昭和8年(1933)に貴賓館として建てられた「錫福館」である。なお、今上天皇も皇太子時代の昭和53年(1978)にこの建物を利用されている。

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紅葉谷川の渓流に沿って5棟の離れが隣接して建っており、「錫福館」は最も本館に近い位置にある。旧広島藩主で岩惣とは縁の深かった浅野長勲侯爵(1842~1937)の命名になる建物である。なお、この離れは客室としては使用されていない。

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「錫福館」の奥にあり、同じく浅野長勲侯爵の命名になる大正13年(1924)竣工の離れ「龍門亭」。

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「龍門亭」に隣接して建つ「秋錦亭」は昭和3年(1928)に建てられた。玄関は勝手口かと思われるような控えめな造りとなっている。

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「秋錦亭」の奥に建つ2棟の離れ「錦楓亭」「洗心亭」は戦後間もなく新築されたもので、写真は手前側に建つ「錦楓亭」の玄関。

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最も奥まった位置にある「洗心亭」は昭和24年(1949)に建てられた小規模な離れである。吉川英治や池波正太郎などがこの部屋を利用しており、文人とのゆかりが深い建物である。

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「錫福館」「洗心亭」以外の3棟の離れが客室として利用可能である。

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明治25年に建てられた本館の玄関ロビーは昭和56年(1981)に改装されたもので、床の間を備えた小座敷が設えられている。

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本館玄関ロビーの奥に昭和初期に建てられた客室棟があり、現在2階部分が客室として使用されている。

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床の間や書院窓まわりに銘木を用いた客室「紅葉の間」

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縁側からは紅葉谷川の渓流を望むことができる。

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館内に展示されている人力車は、浅野長勲侯爵が岩惣へ宿泊の際に用いていた専用のものである。

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食事処や大浴場、客室の大半が入っているのは昭和56年(1981)に建てられた鉄筋5階建の新館であるが、大浴場へ続く階段まわりには3枚のステンドグラスが嵌め込まれている。推測であるがこれらのステンドグラスはいずれも、硝子の色合いや古びた感じから戦前のものと思われ、かつてここに建っていた宴会場に使われていたものかも知れない。図柄は厳島神社の神事。

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秋草の図柄。

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宮島の鹿。

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日暮れ時の本館。

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宮島の夜景。

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厳島神社の西側にある宮島歴史民俗資料館の建物は、明治末期から昭和にかけて岩惣の別館(岩惣別荘)として使われていた。元々は江戸時代後期から明治期にかけて醤油の醸造を営む豪商であった江上家の屋敷であった。

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昭和46年(1971)に宮島町(現・廿日市市)の所有となり、現在は主屋と土蔵が宮島歴史民俗資料館の展示施設の一部として利用されており、国の登録有形文化財になっている。

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